マイケルアレフの ことばの認識は世界を変える |
前置き その3 メッセージ 「美しさ」は、実際にはないのではないかと気付いて、シリーズ6 美しさについての考察、 美しさがない理由 を書いた。 もしそこで終わり、考えることを止めていたら、人の持つほとんどの価値観が作られたものであることに気づくことはなく、今取り上げている 「考えることの意味」 も書くこともなかった。 しかし、個人に関係なく、誰かがこれを明らかにし、人類として認識する必要がある。 人間が「その価値観により評価、判断し、選択していることの問題」である。。 価値観は考えているのではなく、頭にある法律と同じような決まりである。 価値観で判断するとは、ルールや法律と同じように、決められたものにより、それに従って行動しているだけである。 人は幼少の頃に育てられた環境から、教えられた常識などの価値観を、正しいものと思い込んでいる。 その決まりは昔の人が考えたものや、国の代表により考えられ、作られたものではあっても、自分で考えて、作ったものではない。決まりとして教えられ、従うことが求められている。 自分で考えて判断していないなら、そこに責任の自覚は生まれない。無責任な行動をする理由になる。 価値観は、自分が考えているのではなく、思い込みにより、他人の考え、教え、信条、また自分の邪推(疑心暗鬼など)であっても、それを正しいと信じることで、人を殺すことを含め全ての行動を正当化させる。 自分で考えていないことが、真面目な人間でさえ恐ろしい殺人鬼になる理由、たくさんの地域で大量虐殺が起きてきた理由、今も戦争で多くの人間が殺されている主な理由である。 それに気付かず、自分は正しいことをしている、と信じて疑うことがなくなるからだ。 考えるとは、思い込みで判断することではない。 物事の仕組みを学び、理解するという学習する過程とその後に、不思議に思い、質問を作り、答を見いだそうとすることであり、新たなものを作り出そうとする脳の働きである。 思い込み、信じ、それにより評価、判断することは、自分で考えていないという意味になる。それでは、人間は騙され、操られていることと同じになる。 人類の多くは、この事実に気付いていないのではないか? 在るがままの事実を知り、他人の考えではなく、自分で考え、判断することを始めることが必要に考える。 つづく 次回の予定: 9月21日(日) 48-2 考える背景には問題提起がある * 脳は言葉により考えるが、様々な刺激に反応して考えている |
シリーズ48 考えることの意味 * 前置き その1~3 メッセージ 1. 考える対象について 2. 考える背景には問題提起がある * 脳は言葉により考えるが、様々な刺激に反応して考えている 3. 考えが抑制 (制御) される場合 * 考えることを抑制しているもの 遺伝子、情報伝達物質、他 感情的、理性的? * 考えない、考えさせない、無いものをあることにする 脳の働き 信じる * 考えに方向付けは必要か 4. 考えるとは何か、なぜ考えるのか? * 思うと考える 言葉の意味について * 成長する過程で、考える能力には違いがある 5. その他 ![]() * 前置き その1 およそ60年前 「花はどこにいった?」 'Where Have All the Flowers Gone?' という反戦歌が世界中でヒットした。 歌詞は、問いかけていた。 When will they ever learn? 彼ら(人間) は、いったいいつになったら学ぶのだろうか? 作者は、戦争を絶つには過去の過ちに気付くしかないと考えていたようだ。 しかし、人間の世界は、60年経った今も、同じように争いの世界の中にいる。 それどころか人間の歴史は始まって以来変わっていないようにさえ思える。 人類は、重要なことを学んでこなかったからではないか? 歴史で重要なのは、史実を学ぶことではない。 重要なのは、歴史から学ばないという 人間の本当の姿 に気付くことではないか? 歌詞は 「学ぶのはいつか?」 と問いかけているが、何を学ぶのかについては明らかにしていない。 今問われているのは、今まで何を学んできたのかではなく、 何を学んでいないのか? ではないか。 前回以下のように書いた。 「現在の人間の世界は人間の価値観に基づく評価、判断の世界である。国が違えば、考えも、価値観も違う。 それぞれの国が、自分の国を第一に考え、土地を国家の領土だと主張し、防衛予算を増やし続けているのは、地球を人類の所有物と考え、考える自由を自国の利益追求に使うことである。 人類に求められているのは、今までの考える自由の在り方を見直し、修正し、知的生命体に相応しい、事実に基づいた考えで、人間社会を作り直すことではないか。」 その2 人間は、針先ほどの受精卵からおよそ10っか月で新生児として産まれる。 その細胞一つ一つに遺伝子があり、同じ細胞から髪の毛、ツメ、集合体として目、耳、手や足、心臓などの臓器も作られる。同じ細胞なのに、どうしてそれが可能なのか? 人類はそこに遺伝子を見つけ、今では遺伝子を操作する技術さえ作り、応用している。新たな生命体を作る可能性さえ考えられる。 科学の進歩は知的生命体である人間が持つ計り知れない考える力による。それは人類として持っている全てを可能にする力の原動力に思える。 * 人間が知的生命体であるのは、言葉を持ち、考える力を持っているからである。 生命体であれば、遺伝子があり、「ことば」で表される情報の受け渡しをするシステムを持っている。そのプログラムにより、その生命体の中で情報交換が行われている。 人間の血液は体の隅々まで、細胞に酸素や栄養分を運んでいる。細胞はその血液から酸素や栄養分を取り入れ、いらなくなったものを排出する。それは情報交換が行われているという意味である。 自分の体だと思っていても、その体のほとんどは個人の意思とは関係ない部分で、情報のシステムにより運用され、管理され、制御されている。 人間の使う言葉は「ことば」という情報のシステムの一部である。 考えるのは、言葉により、情報を扱うことが関係する。 子供に言葉を教え、情報を与える。すると、学習し、覚え、話すようになる。 食べたい等と意思を表すようになるが、それは、考え始めたことを示していると考えた。 「おなかがすいた。ご飯が食べたい」と言うのは、体の欲求によりその考えが作られることを示すが、そこに使われる、ご飯、食べたいという表現も、覚えた言葉を使っていることを意味している。 考えるとは言葉を使って、文章を作ることではないか、と以前書いた。 確かに、考えるとは、言葉を学び、学習した言葉を使うことから始まるように思える。 しかし、幼児期の言葉に示されるように、覚えたことを、考えずに、欲求に反応し繰り返しているだけのこともあると考えられる。 考えるとは、言葉を学び、話す、言葉で学習すること以上の意味があると考えるようになった。 * 考えるとは、学ぶ、学習することとは意味が違う 学び、学習するのは受動的で、主に情報を収集することである。様々な情報を、自分から学び、吸収し、知識を得、記憶に残すことである。 幼少時における情報のほとんどは、生まれた地域の社会環境から与えられる常識のことである。 今までの教育は情報の収集、学習に重点が置かれてきた。 しかし、学習は学び、習うことで、学習するだけでは、模倣することはできても、新たな発明、新たな考え、新たな行動は生まれない。 考えるとは、能動的で、学習で得た情報を活用し、新たな考えを含め、作り出す働きである。 これが考える(思考)の意味で、学習と同時進行の面もあるが、学習とは異なり、学んだことを活用し、応用したりする働きである。人間の計り知れない能力はその考えることにある。 学習し得た情報や経験を通して学んだ情報から考えが作られ、その考えから行動を起こす意思、動機も作られる。 学習したことや経験から、教訓を学び、新たな認識が作られるのは、単に知識を得るからではなく、そこに考える働きが加わるからで、情報を得ることからその背景にある全体像を知るようになるのも、考えているからである。 * 学び学習することは考えることではない 意識があれば、考えているように思えるが、それは脳の働きの一部であっても、能動的、積極的な考えることとは意味が違う。 新聞、本などを読む、テレビやネットでニュース、バラエティー、映画、スポーツ、様々な番組を見る、また人の話を聞くなどは、主に受け身で、情報を収集することであり、学び、学習することに相当し、考えることとは意味が違う。 人と会話をしているときのやり取りは情報の交換である。互いに情報を出し、また収集していることである。 話を聞くことは、情報の収集に当たり、学習に近い意味である。 話をすることは、情報を発信することであり、考えることが関係する。 考えることには、浅く、軽く、深く、真剣に、深刻になど、程度が関係する。また、考えたことであっても、ただそれを繰り返すことは、考えることではない。 考えるとは、基本的に情報を学ぶという受け身ではなく、学んだことを活用し、能動的に、作り出す働きである。 何らかの刺激により、何かに気付き、疑問を感じ、そこから、なぜ、何などの質問を作り、その答を見出だそうとする働きでもある。 答を見出だすために、想像し、計画し、目標を作り、その実現のために、あらゆる可能性を考えるようになるように思える。 * 考えようとしない理由 考えようとしない、わかろうとしない、わかりたくないのには理由があるように思える。 それは、考えることに人間であることの意味が関係しているからではないか? その具体的な理由については このシリーズ48の3. 考えが抑制 (制御) される場合 * 考えることを抑制しているもの、の中で取り上げる。 考えようとしないのは、今までの教育が覚えることを中心にし、考えることの意味を知らずにいたからか? 考えてわかるようになることは、より広い視野で物事を見るようになり、自分の置かれている状況を知ることでもある。それは自分の責任を自覚することにつながる。 つまり、考えることは責任の自覚をもたらすことになる。 考える人は責任を自覚しその責任を果たそうとするが、考えない人は責任を回避し、他の人に押し付ける傾向がある、と言えるかもしれない。 世の中が悪い、政治が悪い、教育が悪い等と批判し、他人のせいにし、自分に責任はないかのように言う人は多い。 それは考えていない人に見られる傾向ではないか? そう批判することも、犯罪を犯すことも、戦争をすることも、全てが脳の考える働きであると思われていても、脳の考える働きとは違うのではないか。 「戦争が悪い。二度と繰り返してはならない」という人は多い。その考えに同調する人がほとんどに思える。 これは、考えることとは違うのではないか? 考えているのではなく、同じ価値観に同調することではないか? 人間は自分達で作った価値観で、戦争が悪いと、評価、判断している。 戦争はあるがままの事実である。事実に良い、悪いはない。 事実を価値観で良い悪いと評価、判断していることに問題が生じる原因がある。 数えきれないほどの戦争をし、その後反省し、改善しようとしても、また繰り返し続けるのは、人類が事実に気づいていない、あるがままの事実に向き合っていない、考えていないからではないか? 持っている価値観で判断することは、考えることではなく、考えていないことではないか? 言い換えると、戦争が悪いことにして、自分達、人間は悪くないという言い訳を作り、ごまかし、責任を転化しているのではないか? 考えるとは、何らかの刺激により、何かに気付き、疑問を感じ、そこから、なぜ、何などの質問を作り、その答を見出だそうとする働きである。 学んだことを活用し、能動的に、新たなものを作り出そうとする働きである。 すでに持っている価値観で美しい/醜い、良い/悪い、常識/非常識と判断することは、考えることではなく、すでに作られた判断基準に従っているだけになるのではないか? 判断基準の価値観は幼い頃から作られている。基本的に新しいものはなく、新しい考えでもない。 価値観で物事を判断することは、新たなものを作り出そうとする脳の考える働きではないように思える。 その3 |
シリーズ 48-1 考える対象について 考える対象はたくさんあるのではないか? その通りである。 考えることの対象に制限はない。範囲もない。 人間の脳は、存在しない無いもの、あり得ないことまで、制限なく考えている。 制限が無いのは、対象になる数だけではない。 対象自体にも、それぞれ無限の情報の広がり、深さが関係するように思える。 全ては制限なく拡がっていて、どこまで行っても、終点はなく、究極の答はないのではないか? それが考えることの究極の意味ではないかとさえ思える。 対象になるものには、境がなく、無限だからか? 宇宙は無限に拡がっているように見える。宇宙は膨張していて、見えている堺にある空間は光を越える速さで拡がっているため、その先は光で観測することはできない。現時点では観測不能、わからないという意味に思える。 小さな世界も、最小のものがあるかと研究されてきたが、何が最小なのか? 人間は、物は何か、何からできているのかと考えることから、物の最小単位を追求し、元素を発見した。 元素は2010年の時点で117種類あるとされている。 その元素は構造的には同じ原子で作られている。 原子はそれを構成する陽子と中性子から作られた原子核と電子の雲できている。 元素の違いは陽子の数の違いである。 陽子は現在クォークという基本粒子(アップクォーク2つとダウンクォーク1つ)で構成されていると説明がある。これが現時点での最小単位である。 しかし、これで終わるのだろうかという質問が生じる。 人間には限界があるのに、なぜ限界を越えて考えることができるのか? この表現にある限界という言葉の理解に問題があるのかもしれない。 限界は不可能という意味ではない? 生命体にはそれぞれ生きる上での制限がある。人間以外は基本的にその制限を越えることはない。それはその生命体にとっての限界である。 人間にも生きる上での制限はある。過去のある時点まで、制限は限界を意味していたが、人間の考える力がその限界を越えさせてきた。 人間の考える力がその限界を越えさせる理由である。 人間一人の脳細胞は有限である。現時点での生命体としての生きる時間にも限りがある。一人では人間としての限界を越えることはできないように思える。 数千年もの間、空を飛ぶことさえ不可能だった。 しかし、人類としては、個人の命の時間を越えて、有史以来6千年以上もの歴史を作り、人口は増え続けて80億以上になっている。その間、情報は蓄積され、研究は引き継がれ、人類として継続して考え続けている。 文明が進歩、発展してきたのは、一人の力ではなく、人類として考え続けているからである。 考える自由とは、対象に制限はないという意味でもある。 ただし、全てを考えることができるという意味ではない。 人類として考えるその延長線上には、次のような質問も作られる。 * 地球上に限定すれば、人類の増加に限界はあり、絶滅する恐れもある。人類が絶滅すれば、人類としての可能性は絶たれるのか? 人間の知的生命体としての遺伝子が現実に存在していることを考えれば、その起源はわからなくても、同じ遺伝子を持つ生命体はこの宇宙に数え切れないほど存在している可能性はあることになる。 * 今まで人類は、考える自由を優越感に、利己的な目的に使ってきたように思える。この状態を改善せずに、人類はいつまで存続することができるのか? 物理学者スティーブン*ホーキング博士が指摘したように、高度に発達した文明は滅びてしまうのかもしれない。人類も同じような理由から絶滅する可能性はある。 人類の考える力だけが、解決を見出だす方法なのか? 人類の存続を単に願うだけでは問題の解決に結び付かない。 解決するためには、その願いに考える力を伴わせることにより、人類の意志を作り、行動させることが必要であるように思える。 現在ある問題の本質を理解し、修正する方法を見いだし、結果を出すことが必要に思える。 考える対象に制限はない。わからないことは無数にある。わかっても、わからないことが次から次へと出てくる。人間は考えるから、質問が生まれ、答を出そうとする。 人間は究極の答えがないものをなぜ考えるのか? 今まで、答えがあると考えてきたからではないか。 答があるとはどういう意味か? それは有限という枠の中で、その時点での答があると考えることであり、枠を外せば答ではなくなる。 答はないのではない。有限の枠の中で考えれば、答はある。 しかし、更に追求し続ければ、それまでの答は古い考えに基づいていたことになり、新たな質問も、新しい答も出てくることになる。 質問は作るもの、答えも作るものである。 質問も答も初めから用意されているのではない。 考えることにより作られるものである。 人間が考え続ける限り、質問も答も終わることはない。 人類が文明を進歩させてきた背景には、人間に考える自由があり、考える対象を制限せず、何にでも関心を払い、違いに気付き、疑問を感じ、その理由を見つけようと考えてきたからではないか。 つづく |
8月2日(土) 地球上の生命体には、それぞれ生きていくための目的と制限があるように思えるが、人間以外の生命体は生きてはいても、誕生から死に至るまで、遺伝子の詳細なプログラムに従って生きていて、それがそれぞれの生きているという意味であり、目的であるように思える。しかし、そこには、自分という存在も意思もない。脳はあっても、人間が持っているような考える能力はない。 考える能力がないとは、自分という存在を知らない。考えによる意思はない。自分はない。計画は作れない。遺伝子の指示に逆らえない。好き、嫌いがあるように見えても、遺伝子のプログラムの指示に従っているという意味であるように思える。 人間のような考えによる価値観、評価、判断はない。従って、良い/悪い、美しい/醜い、幸せ/不幸もない。 これが知的生命体を除いた宇宙、大自然の在るがままの世界の姿に思える。 人間の世界は、知的生命体である人間が作った特別の世界であるという意味である。 とはいっても、人間も遺伝子によって作られ、生きている。 人間は長い間、人間とは何か? 人生とは何か? 命とは何か? 人間の生きる目的は何か? 何のために生きているのか? と考えてきたが、今に至っても明確な答は見つかっていない。 例外として、脳の信じるという働きだけは、答があることにしてきた。 なぜ人間には存在する目的が見つからないのだろうか? その答は他の生命体との違いにあるように思える。 人間のように考える能力があれば、何でも想像することができる。 人間に目的が無いように思えるのは、考える自由があるからではないか? そこで、考えてみた。 人類に理想の姿はあるか? 事実としてはわからない。答はないのかもしれない。 人間は無いものをたくさん作り、それがあると信じてきた。 その多くに間違いがあっても、修正が必要であることに気づかないできた。 人類の未来を考える上で、重要なヒントが、ここにあるのではないか? 人間に理想があるのではない。未来があるのではない。 人間の理想も、未来もあるのではない。 しかし、人間の脳は、存在しないものでさえ、想像により作ってきた。 何であれ、作れる。気付き、思い付き、考えられるものは何でも作ってきた。 時間、未来、過去、タイムマシーン、何でも作ってきた。自由、平等、人権などの言葉だけでなく、新しい製品、新たな考え、想像から存在しないもの、今までに無いもの、あり得ないというものまで作ってきた。 鳥のように空を飛ぶ、月に行く、火星に住む、太陽系を出て天の川銀河の探索、他の銀河へ、宇宙の果てまでと、考えによる想像には限りがない。 * 人間の世界は人間の考えで作られている。 人間は、大自然の中に生きていても、自分たちの考えで、事実を評価し、判断する価値観を作り、人間の世界を作ってきた。 それは宇宙と比較すれば限りなく小さな世界であるが、その中では、限りなく大きな世界にも見える。その世界では、人間が最強になり、支配者となり、思い通りにできると思い込んできた。しかし、領土問題や戦争はなくならず不安定な世界のままである。 自然界に争いはなく、問題も矛盾もない。在るがままの世界である。 そこには、良い、悪いはない。幸せも、不幸もない。 人間の世界は考えにより価値観、評価、判断が作られている。 それが良い/悪い、美しい/醜い、幸せ/不幸もあることにしている。 それが原因で様々な衝突が起きる。矛盾が生じる。解決できないことが起きる。 殺人、自殺、戦争など人類に生じている問題は同じ理由による。 事実と調和していない人間の世界である。 人間が知的生命体であることの意味は、考える能力があることであり、それが存在の意味である。それを否定することはできない。 ここで問題なのは、人間の考えるという能力自体ではない。 重要なのは、その能力をどのように使い、何を作ってきたか、何を作っているかである。 言い換えると、人間の脳は違いを認識するが、そこから作られる価値観は人間が作っていて、問題が生じる原因である。人類はこのことに気付いていない? * 人間に目的がないのは、考える自由にある 人間に生きる目的、目標が与えられ、それを重要視、絶対視するようになれば、自由はなくなり、考える必要もなくなり、他の生命体と変わらなくなるかもしれない。 人類はあらゆるものを作ってきた。 質問は作るものであり。答も作っている。 答はあるのではなく、作り出すものである。 ここから次のように考えることができるように思える。 目的、目標は与えられるものではなく、作るものである。 個人の目標、人間社会の在り方、人類の目標、人類の未来は、全てあるのではなく、作り出すものである。 人間は長い間、人間とは何か? 人間の生きる目的は何か? 何のために生きているのか? と考えてきたが、その答えは、あるのではない。決まっているのではない。作り出すものである。 人間には目的がない理由に代わって、考える自由がある。 この考える自由が、知的生命体である理由である。 人類は理想を考え、作り、目標とすることができる。 人間が作るものは、在るがままの事実ではないが、事実に調和するものに近づけることはできる。 考える力があるので、人間、人類の理想、目的を作ることができる。 何でも作ることができる。 今に至るまで、人間には考える自由があっても、生きていくための条件があることを十分に考えず、人間、人類の理想、目的を考えず、作ってこなかったのではないか? 考える自由を、主に優越感を満たすため、利益追求に使ってきた。 現在の人間の世界は人間の価値観に基づく評価、判断の世界である。 国が違えば、考えも、価値観も違う。 それぞれの国が、自分の国を第一に考え、土地を国家の領土だと主張し、防衛予算を増やし続けているのは、地球を人類の所有物と考え、考える自由を自国の利益追求に使うことではないか? 人類に求められているのは、今までの考える自由の在り方を見直し、修正し、知的生命体に相応しい、事実に調和した考えで、人間社会を作り直すことではないか? |
* 違いはなぜあるのか? 人間は五感により存在があることを知るようになるが、その過程で五感からの入力により、脳が同じか、異なるかを判断している。人間の脳には、その違いに気付く力がある。 全ての人が同じように違いに気付くのではないが、気づいた人は情報を共有することにより、他の人もその違いを学ぶことができる。 例えば、眼は、形、大きさ、色、などを知る入力器官であるが、物には、様々な形、大きさ、色があることに気付く。 親を初め学校教育などにより、その情報は提供される(教えられる)。 大きい、小さい、長い、短いなどを学習により、当人が気付かなくても、その違いを学び、活用する。 教えられるにしても、違いに気付くのは、脳の働きに、比べる、比較するという機能があるからである。 違いに気付くことから、人間は言葉により、比べる、比較するようになり、物にたいする値を表す価値を作り、それを基準に評価し、選ぶという選択、判断をするようになるように思える。 人間の持つ良い悪い、美しい醜い、楽しい悲しい、幸不幸など全ての相反する認識表現は、この脳の働きから作られてきたのではないか? これが人間の世界の全てに優劣を付けようとする背景、また全てを勝ち負けで決めようとする理由ではないか? 人間が優越感を満足させようとするのは、この比較することにあるのではないか? 人間の関わるもの全てに競争がある理由は、比較することにあるように思える。 学業では成績一番を目指す。スポーツては勝ち負けを決め、一番優秀なのは誰かと決めようとする。政治の世界でも多数決で勝ち負けを決めようとする。経済の世界も競争の世界である。 勝つことに、なぜそれほどまでにこだわるのか? * 太古の昔に自然界から弱肉強食という考えを作り、見習ってきたからか? 自然界には強いものが勝ち、弱いものは負け、食べられてしまうという弱肉強食の世界があるように見える。強くなければ、負けてしまう。 生き残るためには、勝たねばならない。強くなければならない。 以前、百獣の王ライオンが強さの象徴に思われていた。 誰もがスーパーマンのようになりたいと憧れた。 勝つため、優秀な人間になるために、力を求めた。 勝ち組になるために、幼児教育、高等教育が重要になった。より良い高校、大学へ、より良い会社に入るために、富と名声を得るために、優れているという力が必要と考えられた。 これが優越感を満たそうとする背景に思える。 しかし、この人間の考えのどこかに間違いがあるのではないか? 百獣の王と言われたライオンは絶滅危惧種になっている。 強い武器は人類を滅亡させる力になっている。 人間は強いものが勝ち、弱いものは負けると考えたが、その考えには誤りがあるのではないか? 自然界には強い、弱いはない。が、人間にはあるように見える。 なぜあるように見えるのか? 人間には違いに気付くことから、比較するようになり、評価し、判断するようになったが、知らないこともたくさんあるのに、気付かずに、間違った考えも作られてきた。 自然界には人間の世界にある勝ち、負けはない。 美しい/醜いはない。良い/悪いはない。 虫、魚、鳥、動物などの生命体は、生きるために他の生命体を殺し、食べているが、殺すことに、人間の持つ敵意、憎しみ、殺意などの考えはない。 その生命体は遺伝子、プログラムによって生きているのであり、基本的に人間のような考える力はない。 人類は、最近まで、生命体が遺伝子というプログラムによって作られていることを知らなかった。人間もヒトゲノム遺伝子により作られていることを知らなかった。 人間と他の生命体との違いは、遺伝子の違い、プログラムの違いにある。 この事実(遺伝子のプログラム)から、人間が他の生命体より優れていると考えることは、間違いであることに気付く人はいるのではないか? 優れていると考えるのは、人間の評価、判断することから来ているが、その能力は人間が自分で作ったものではないからだ。 人間の評価、判断する基になっている価値観は、認識の一部として作られている。それは、外にあるのではなく、人の心、認識として、脳による考えから作られている。 美しい/醜い、良い/悪い、楽しい/悲しい、善/悪、幸せ/不幸、難しい/易しい、複雑/簡単、戦争/平和、与える/奪う、賛成/反対、勝ち組/負け組など全ては、考えとしてあり、人間の評価、判断から作られている。つまり、その考えは、比較しなければ、存在しないもので、実体があるのではない。「無いものを在ることにする」人間の脳が作った言葉による表現である。 五感により実体のある存在は、事実として認識される。 しかし、人の価値観で評価、判断すると、実体は違うものになる。事実は変わってしまう。 今までに作られた価値観は、人それぞれの考えで違う。 花を見て美しい、ゴキブリは醜いと思っても、人の認識はそれぞれ違う。 同じ物にたいして美しい/醜い、良い/悪い等と人によって違う判断をする。 同じ人間であっても、戦争では敵、味方に分かれる。 人種が違うことから差別される、差別することもある。 人間が一方的に、勝手に作ってきた評価、判断する基準、見方を変えない限り、この勝ち負けを決めようとすること、戦争を含め自分は正しいと考え、行動することは、修正できないのではないか? ここに、宇宙の、大自然の在るがままの事実を知り、理解し、その事実と調和する考えが必要とする理由があると考える。 人類共通のもの、全宇宙の知的生命体に共通のものとなる、新しい価値観を考え、作ることが、人類が生き残るために必要であるのではないか? 新しい価値観とは、今までの考え方を変えることにより作られるものである。 美しいがあるから、醜いがある。醜いがあるから、美しいがある。 それは、違いに気付き、相反する考えを言葉により表現したものである。 しかし、在るがままの宇宙、大自然の中に人間の世界の評価、判断はない。 この人間の評価、判断が、事実に調和するものにする必要がある。 変化があり、違いがあるから、人間は美しい/醜いと判断するが、 脳は違いを認識しても、価値観は人間が作っている。 ここに人類が抱える問題の本質があると考える。 人類には、新たな考えを作る必要がある。 マイケル アレフ 2025年7月 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
人間の恐ろしさ 具体例 |
マイケル アレフ |