| 2025年 1.強さの究極は何か 2.人口を制御することについて 3. 「恋」と「愛」の違い、愛の反対語について 4.人間の間違いを修正することは進歩を意味する 5.「物質でさえ情報の宝庫である」から 新たに思いついたこと 6.事実とは何か? 人が評価、判断することは、事実ではない。 7.人間の考える能力は、単なる情報処理ではない。 8.人工知能AIと人間の違い 1.強さの究極は何か、 今日も起きる、二度と起きて欲しくない犯罪、多くの命を奪うテロ、悲惨な戦争であっても、それが繰り返されるという事実は、人間に原因があることを示しているのではないか。 二度と起きて欲しくないという願いだけでは、今までと変わらない。変わることはできないように思える。 それをはるかに越える強い意志がなければ、すぐに忘れ、修正されず、同じことが繰り返されるのではないか。 良い/悪い、善/悪、美しい/醜い、強い/弱いなどの相反するように見える価値観は幻想に過ぎず、人類はそれに惑わされている。 形容詞の問題点の中で指摘したように、比較しなければ、言葉の意味は存在しない。 大きいリンゴは存在しない。それと同じように強い国家は存在しない。 比較することの根底に優越感がある。 それは自分が、自分達が、自分達民族、国家が優れていて、一番でありたいという欲求を満たすことである。 人間は力、強いことを目指してきた。強い者が国を、世界を支配してきた。 強くなるために、知力を使い、大衆を味方にし、より殺傷力のある武器の開発をしてきた。 強い/弱いは、比較対象による表現であり、実体はない。強いことを求めても、弱いものと比較するから強いのである。どれ程強くなっても、更に強いものが出てくる。最強の強さはないからだ。 では、強さの究極は何か、何があるのか? 強さを求めることの究極は、自らの自滅、存在がなくなることである。 人類世界の現状を見ればわかることである。人類を滅亡させるに十分な核兵器を蓄積し、更に強力な兵器の開発競争が行われている。 終わることのない力の追求には、自滅という結果が待っている。 これが人類の現実の姿である。人類はそのことに気づいていない。 人類の知らない大昔から、知的生命体の争いは続いていて、人類も同じ間違いを繰り返えそうとしている。 人間は人類以前に存在した文明が消滅してきた同じ過ちを繰り返す程度の存在なのだろうか? それを変える存在にはなれないのだろうか? |
| 2. 人口を制御することについて 人間は知的生命体として遺伝子と脳により作られてきたが、人類はその働きに気づき、以前のままでいる時代ではなくなりつつある。 言い換えるなら、人類は遺伝子と脳の影響をコントロールし、今までの生き方を変えることができるようになってきている。 今までに何人の人が生まれては死んでいっただろうか? 数百億人が生まれは死んでいったのではないか? ここで質問が提起される。 人類は目的もなく単に増えてきたのだろうか? 目的はあるのだろうか? 増え続けることにどんな意味があるのだろうか? 地球は有限である。永遠に人口を増やすことはできない。 地球では、ここ数百年で死ぬ人の数は、過去一万年以上の間に死んだ人間の数より多くなるように思える。 人口をコントロールすることは、人類自身のためであり、地球のためでもある。人口の増加を止め、地球に無理のない自然環境を残すことが重要に思える。人類の理想を考え、医学、科学技術を駆使して、人口をコントロールするために何ができるかを考えることが重要に思える。 人間は誰も何の目的て生きているのかを知らないように思える。 目的とは、与えられるものではなく、理想を考え、作り出すものである。そこに完全も絶対もない。 一生を自分に与えられた人生と考え、人間という能力を活かし、楽しみ、社会の一員としての責任を果たし、終えることを目的とすることはできる。 十分に人生を生きたと思えれば、長生きしたいと思うことはなく、思い残すこともない。 老人になり、いつ来るかわからない死を待つことに意味があるのだろうか? 知的生命体として、自分にとって最善と思える時期を自分で選ぶことが、望ましいのではないか。医学は安楽死による尊厳死が可能な時代であることを示している。 専門家が考えているとは思うが、人口をコントロールするために、人間のあり方を考え直し、教育することが必要に思える。 |
| 3.「恋」と「愛」の違いについて * 「恋」という言葉の意味について 異性との違いを意識することは、人によっても、育つ環境によっても違うかもしれないが、幼い時期からあるように思う。 人間はヒトゲノム遺伝子により一人の新生児として作られるが、その後も遺伝子と脳の働きにより成長し続ける。脳は入力器官の五感により全てを学習している。 親と社会環境により助けられながら、言葉を覚え、話すようになり、自分の意志を言うようになる。歩くようになり、体も大きく成長していく。 思春期を迎える頃には、全てが新鮮に感じられ、体も大人のように変化する。人は異性に引かれ、憧れ、好きになり、初恋を経験する。それは恋と呼ばれるが、遺伝子と脳により、異性が互いに引き合うようにプログラムされているという背景がある。 人間の体の成長だけでなく、異性に引かれ、好きになり、恋に落ちるのも単に自分の意志によるのではない。遺伝子と脳の働きにより作られるホルモンなどの働きによる。気付かないが、皆その影響を受け、異性と結ばれ子孫を残す定めにある。人間はそうプログラムされている。 恋をすることに、気付くことはなくても、遺伝子と脳の働きによる大きな影響がある。その影響により、異性を結びつけているのが、恋である。恋には、好きという強い感情も関係する。 初恋を英語ではFirst Love と表現するが、その愛するという LOVE は恋のことである。 その意味を考えると、愛は恋とは違うものである。 * 「愛」という言葉の意味について 愛という言葉は広く異なる意味で使われているが、愛は愛情とも、友愛、異性愛などとも大きく違う意味を持っている。 愛情、友愛、異性愛には、好き/嫌いという感情、良い/悪い、大切/大切でない等の価値観が関係している。 自分の家族は一番大切でも、他の人の家族のことはそれほどでもない。 特定の友人は大切でも、全ての人が友ではなく、大切でもない。 同じ人間であることは大切だと思ってはいても、大きな違いがある。 好き/嫌いは変わる。大切かどうかも人によって違う。理由は様々である。 美しい/醜いは人によって違う。正反対の価値観になることもある。 戦争で人間が互いに敵になって戦うことは、相反する価値観の具体的な例である。 人の持つ価値観は普遍的なものではなく、そう思い込んでいるだけである。 人類は長い間、考える力により、人の好き/嫌いによる価値観ではなく、事実に基づく理想の価値観が必要であることに気付き、それを探し求めてきた。それが愛である。 その愛は、無私の愛、人間愛、人類愛、博愛、アガペー愛などと表現されてきたが、愛とは何かがよくわからなかった。愛という言葉は昔から使われてきていても、それまでにない新しい考えであったからではないか。 愛することに、人の感情の好き/嫌いに影響されるなら、偏りが生じる。 愛とは、好き/嫌いによる価値観を越えた考える力から作られる理想の在り方を表す言葉である。 それは、言葉により考える力を持つ知的生命体全ての究極の理想の考え、価値観、認識を意味する。 それが人類が長い間求めてきた無私の愛、人間愛、人類愛、博愛、アガペー愛という言葉に示される愛の新しい意味と考える。 理想は固定した決まった考えではなく、時代、科学の進歩、人の成長や認識によって変わるため、愛という言葉も完璧、完全なものとすることはできない。愛は人間が求める理想と理解し、追い求め続けることに意味がある。それは知的生命体の存在する意義であり、目標なのかもしれない。 愛とは、無限に広がる全宇宙を、知的生命体の価値観ではなく、その在るがままを事実として受け入れ、認識することによる調和と一体感を理想として持つことのように思える。 恋と愛の言葉の違いの要点: 恋は遺伝子による大きな影響がある生来の資質であるのに対し、愛は純粋に考えることによる能力と考える。 価値観について補足 人は皆それぞれの価値観を持っているが、その価値観がどこから来たのか知らない場合は多い。 知らない理由は、その価値観の多くが人が産まれてからの幼少の時期に作られていることにある。親の持つ社会環境にある価値観が教え込まれている。 世界を見渡せば、人が住んでいる土地、国、民族によってキリスト教、ユダヤ教、イスラム教、ヒンズー教、仏教、思想などの思い込みによる信じるという価値観が大人になっても残っている。 なぜそうなっているのだろうか。 間違い無いと受け入れられている多くの常識、価値観は、人が考えるようになってから受け入れたものではなく、判断力のない幼少の時期に教え込まれたものであるからである。 価値観は置かれた環境の常識として教え込まれ、皆と同じであることから安心して、正しいと信じている。 価値観は、心にあるもので、人の思考と感情により作られる認識のことである。 人は美しい物があると思っているが、美しいという価値観は人の心にある。 利益を求める人間社会の物を欲しがるように仕向ける宣伝の結果、気付かないうちに、美しいは心でなく物にあることになってしまった。 それは、心、認識の麻痺と言えるかもしれない。 価値観の美しい、可愛い、カッコいい、ハンサム、に共通しているのは、見るという視覚の反応のことで、好きという反応の表現である。 その反対の反応は、醜い、汚い、ダサい、嫌いという反応である。 価値観は、基本的に人の好き/嫌いによる。それを良い/悪いと表現する。 視覚の美しい/醜いと同じように、味覚の美味しい/不味いは、人の好き/嫌いによる。それを良い/悪いと表現する。 聴覚による美しい音/うるさい音も人の好き/嫌いによる。 好き/嫌いの理由は人により、様々な背景により作られるが、状況などにより簡単に変わる場合もある。 その価値観を間違いのないものとして受け入れていることは問題である。修正が必要であり、少なくとも、初めに問題があることを知り、理解することが必要である。 愛の意味と反対語について 愛の反対語は何か? 憎しみだと思う人は多い。無関心と思う人もいる。 違いが生じる理由は、愛という言葉が、様々な意味で使われてきているためである。 家族に対する愛、友人に対する愛、異性に対する恋の意味にも使われているが、共通しているのは、大切にしたい、好きだから、その関係が長く続いて欲しい等の肯定的な意味である。 その反対は否定的な意味で、嫌いだから、早くいなくなって欲しい等、憎しみの意味になる。 この愛の反対語が憎しみと考える理由に思える。 しかし、家族に対する愛は、自分の家族に対する愛であり、他の家族に対するものではない。 友人に対する愛は、特定の友人に対する愛であり、全ての人が友人ではない。 異性を好きになり恋しても、特定の人に対してだけである。 この愛は、人間の持つ美しい/醜い、良い/悪い、大切/大切でない等の感情表現に共通する好き/嫌いという感情に根ざしているように思える。 愛することが、好き/嫌いで判断されているなら、偏り見ること、偏見になる。 誰にとっても正しいとは思えない。公正とは言えない。自分中心の偏った愛と言える。 このサイトでは、この愛を人間の価値観に基づく愛と考える。 これに対し、好き/嫌いという人間の価値観ではなく、その価値観を越えた、人間の理想を持とうとすることであれば、この愛の反対語は憎しみではない。 人類史の中で、好き/嫌いという価値観ではない新しい考えが求められてきた。 それは、人間愛、人類愛、無私の愛、博愛、アガペー愛などと表現されてきた。地球愛、宇宙愛とも言える。 宇宙にまで広げた知的生命体が求める宇宙の調和と一体感を表す理想の考えのことのように思う。 それはあると言うより、理想に近づく考え、それによる行動することであるように思える。 理想は決まったものではなく、普遍的なものではない。絶えず探し続ける対象なのかもしれない。 この愛は、人間の持つ今までの価値観ではなく、考えることから生まれる知的生命体のあるべき姿、宇宙の視点で考えること等を含め、在るがままの事実に基づく考え、知的生命体の理想を考えることから生まれてくるように思える。 この言葉により考えることの究極を、理想の愛と表現できるように思える。 今までの相反する価値観によるのではなく、それを越えた、無限の宇宙という視点、大自然という視点、在るがままという事実に基づく視点で考え、行動することではないかと考える。知的生命体としての、考えることの究極から見る視点である。 理想の愛の反対は何か? 反対語はあるのか? 人間としてのあるべき理想を考えなくさせるのは何か? 考えることを止めさせるだけであるなら、特定のことを信じさせれば可能かもしれない。 一つのことだけに関心を持たせ、信じさせ、それ例外は対象にならないようにする。 正しいと信じることが、考えなくさせるという間違いを産み出す背景にあるように思える。 信じることは、考えることを止めさせ、諦めさせることでもある。 人間の理想を考えなくさせるのは、自分のことしか考えなくさせ、優秀な人間になることを目指す優越感ではないか? 考えることはできても、一番を目指し、一流を目指し、名声と富と権力を得ようとする。利己的になることである。目的は利益追求にある。力を求めることである。 理想の愛の反対は、現時点では、優越感ではないかと思う。 人間は皆ヒトゲノム遺伝子により作られた存在であり、自分という存在も自分が作ったものではなく、遺伝子と脳により作られている。それは、人間が知的生命体の遺伝子の共通の相続者であることを意味している。自分という人間は、作られた存在であり、自分だけが特別だと誇る理由にはならない。 人間には間違いがあり得ることを前提に、理想の愛という共通の生き方を考え、行動することが、知的生命体の生きる目的なのかもしれない。 |
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| 4.人間の間違いを修正することは進歩を意味する。 人間の言語が地域により、国により、民族により数えきれないほど存在してきた理由は、人間の思考、イメージにより、それを表す表現、サイン等が簡単に作られるからではないかと考えるようになった。 前回、ヘレン・ケラーが指文字により言葉を学ぶ前に言葉とは言えなくとも、言葉に代わるサインを作っていたことがその事実を示していると思えるからである。 人類の歴史の初めに言葉は無いと考えられた時期もあったが、メソポタミア文明の初期に最古のシュメール文明があり、ギルガメシ叙事詩、それを受け継いだとされるハムラビ法典があり、確立された楔形文字が存在していた。 可能性として、人類が作り出した言語とは別に、他の高度な知能と技術力を持つ知的生命体からの言語があったのではないかとも思える。 1996年から続いている当初ドイツの発掘チームにより始められたトルコのギョベクリ・テペ遺跡の発掘は今も続いている。世紀の大発見といわれるその遺跡により、およそ紀元前1万年前に文明があったことが明らかにされた。その事実により、受け入れられてきた人類の過去の歴史は大きく変わってきている。 今までに人類が当たり前という、思い込みから間違いがないと信じられてきたことの多くに、間違いがあり、修正がなされてきた。正に人類が進歩してきた理由であると考える。 人間の考えはその時点では正しいと思っても、修正する可能性は絶えずあると気付くことは、知的生命体である人間の必然的な結論であると考える。 それに気付かないことは、言葉による考えるという成長に問題がある原因かもしれない。 なぜ成長が無い場合があるのか? 様々な理由が考えられるが、その一つは、思い込み信じることが、麻薬と同じ効果があり、安心感を持てるからではないか? かつてドイツの経済学者、社会思想家のカール・マルクスが「宗教は大衆の阿片(アヘン)である」と書いたことはよく知られている。それ以前にもこの問題に気付いていた人はいた。 ジョン・レノンも天国は無い、地獄もない。考えてみてとイマジンの中で歌っている。 国のために死ぬ意味はない。人に所有物などないとも。 このサイトでは、間違って信じていることを 「無いものでも在るることにする」 脳の働きであると説明してきた。「神という単語は、人類が無知であることを象徴する言葉である」 と書いた理由である。 人類は、今までの間違いを修正し、未来を生き続けるために、この事実に気付かなければならない。 |
| 5.「物質でさえ情報の宝庫である」から 新たに思いついたこと 「ことば」は情報のシステムであり、人間の使う言葉だけではなく、物質でさえ情報の宝庫である、と書いた。 人間を含めあらゆる生命体の細胞レベルでは、情報の交換が行われている。 このサイトでは、それを「ことば」の一部と考えている。 物は情報の宝庫であるが、基本的に人間にわかるような情報の発信はしていない。 生命体はその細胞レベルで情報交換が行われ、情報の発信や受信をしていても、その方法は未だ明らかになっていない。 知的生命体である人間は、細胞レベルで情報交換をしているだけではなく、言葉により考え、言葉を音声にして情報を発信することができる。 言葉により考え、会話をするだけでなく、科学により、情報技術を作り、発展させ、世界は情報で満ち溢れるまでになった。 物質に情報があることは事実でも、全てが何かを教えている、と考えてきたことに、間違いがあることに気づいた。 全てが情報を発信しているのではないという点である。物は基本的に何も教えてはいない。 物は情報の宝庫ではあっても、情報を発信してはいない。 物が情報の宝庫であるのは、人間に学ぼうとする意思があり、探求するからである。 物から、それが何を意味するかを学べるのは、人間に初めから学習能力があるからだ。 例えば、「石は情報である」と言っても、関心のない人にはただの石にしか思えない。 ただの石であっても、それを受け止める側の人が、何かに気付くか、関心をもっているか、探求する気持ちがあるかなどにより、意味は違ってくる。 その石からの情報が、ダイヤモンドの鉱石だった、宇宙から来た隕石だった、歴史を示す化石のようなものだったとなれば、ただの石から貴重な石に変化させる。 昔、物は何からできているのか? と考えた人がいた。それを追求した結果、元素に行き着いた。 元素は何からできているのか? それを追求したら、原子の存在がわかった。 それは人類史における大発見である。その探求は終わることなく、今も続いている。 物は単純で意味は無いように思えても、全てのものが情報の宝庫であるという意味である。 何にでも関心をもっている幼児のようであれば、学べることはたくさんあるのではないか。 全ては情報の源である。人はそこから学ぼうとすれば、そこから何かを学ぶことができる。 今まで「全てが何かを教えている」と考えてきたことに間違いがあることに気づいた。 全てが何かを教えている、情報を伝えているのではなく、学ぼうとする人が情報を得ることができるという意味である。 知的生命体である故に、人間の新生児に未だ意思はなくても、あらゆるものから、自分から学び始める。それが在るがままの事実である。 成長する過程で、自分の興味のあることだけを求めるようになることは、その事実に反する傾向なのかもしれない。 現時点では、人間だけが情報を発信しているように思える。人間の大人の世界が、自分たちの都合の良い考えに基づく利己的な情報を発信し続けている。その情報を受け、知ることができるのは人間だけであり、気付かない内に、受け入れてしまう。それが人間の世界を作っている。 次回は6月1日(日)を予定 シリーズ46 知的生命体の理想 その5回目 具体的な例で考える 自分に才能はあるか |
| 6. 事実とは何か? 人が評価、判断することは、事実ではない。 美しいは、人の評価、判断である。 醜いも、人の評価、判断である。 花はある。事実である。ゴキブリもいる。事実である。 しかし、美しい花は、事実ではない。醜いゴキブリも事実ではない。 そこに人の評価、判断が入るからである。 同じ花を見ても、美しいと思わない人もいる。 ゴキブリを醜いと思わない人もいる。 人が評価、判断することは、在るがままの事実ではない。 好き/嫌いという感情により作られる人間の感情表現は、事実を表すものではなく、感情を表すものである。美しい、醜い、は事実ではなく、好き/嫌いを表す感情表現である。 人間が五感を通して認識する全ては、事実、現実、真実であっても、人間はそれを個人の価値観により評価、判断している。 認識にある価値観は、幼少の時期より植え付けられたものであるため、国、地域、人種、言語、宗教などによって違う。その評価、判断はその偏見に基づいている。 人類は、特に教育者は、先ず、この根本的な問題に気付かなければならない。 そして、事実と調和した人間の在り方を考える必要がある。 マイケル アレフ |
| 7.人間の考える能力は、単なる情報処理ではない。 AI は言葉で質問に答え、車の自動運転も可能にするようになった。 人間と同じことができるどころか、質問に文章で答え、車の安全運転を可能にしている。 AI は人間により作られているのに、なぜ人間の能力を越えていくように思えるのか? その理由には、AIの扱える膨大な情報量、その処理能力の速さ、質の改善などが関係するように思える。 確かに、人間の持つ能力より優れているように見える面はある。 しかし、ここで重要なのは、人間自身がその違いを理解することであるように思える。 それは、AIがすることには、間違いはなく、間違いを知らない。間違えることはできないことである。また、AIに は自分という存在はなく、自分を知らない。自分を作れないことである。 つまり、AIは人間によりそのようにプログラムされている。 ここに人間とAI の違いがある。 人間は専門家を頼る傾向がある。AI は専門家と同じような働きをする。 AI の持つ情報の量と処理能力の速さは、人間の持つ能力と比較することさえ無意味に思えるほどすばらしい。 しかし、AI が人間のように行っていることは、考えているように思えても、それは情報処理であり、考えているのではない。 情報を処理することは考えることとは違う。 ここに人間がが今までに使ってきた「考える」という言葉の理解を修正する必要がある。 (詳しくはその1,その2の説明を参考に) AI は入力される膨大な情報量を短時間で処理している。 人間が行っている「考える」と表現してきたその大部分は情報処理であり、考えることとは違う。入力されている情報を処理しているだけでは、考えることにならない。 AI は人間と同じように、言葉を使い、「思う」 ことはできる。 「思う」とは、あらかじめ入力された情報に基づき、答えることや、、反応することである。 現在に至るまで、言葉を使うことを「考える」と表現してきたが、「思う」などの言葉に修正する必要がある。思うとは、言葉を使う働きを表す言葉である。 AI は近い将来、どんな質問に対しても、人間の専門家以上に正確に答えられるようになると思われる。 これは情報を処理することであり、考えることとは違う。 人間の考える能力は、言葉を使ってはいるが、単なる情報処理ではない。 今まで使ってきた「考える」という表現を、情報処理を行う「思う」などの言葉に変える必要がある。「考える」は言葉による情報処理とは違うからである。 その考える能力が、人間に自分という存在を作っている。 以前、デカルトの「我思うゆえに我あり」という考えに修正が必要であると説明を書いた。以下に、シリーズ45 その6回目を引用する。 デカルトの「我思う故に我あり」という表現の背景に修正が必要な理由 およそ400年前、現代の情報量と比べ情報量の非常に少ない時代に、現代哲学の基礎を築いたデカルトは人間の持つ知力の素晴らしさを示す業績を残した。 「我思う故に我あり」という言葉は、考え尽くした結果として知られている。 しかし、どんなに素晴らしい考えであっても、時代と共に変わる定めにある。 科学の進歩により、新たな発見に伴い、それまでの考えが修正されるからである。 「我思う故に我あり」という言葉の背景に問題があることは、長い間気付かなかった。 その問題とは、以下の二点を知らなかったことにある。 1.人が産まれる前にも、産まれた後にも、我という私/自分という存在がないこと。 2.産まれた後に脳が自分という存在を作っていること。 デカルトの時代には以下の二つの情報がなかった。 1. 人間の体の全てが、針先ほどの受精卵の遺伝子により作られること 2. 脳の存在とその働きについての基本的な知識がなかったこと である。 産まれたばかりの新生児の脳は未だ白紙に近く、自分という存在も、自分という意識も無い。新生児の五感は未だ十分に機能しておらず、入力される外部からの情報は無いに等しいからである。 新生児は言葉を教えられ、言葉を学び、覚え、真似し、話すようになるまで、自分という意識は無い。 話すことにより、食べたいなどの意思表示をするようになることが、自分で考えるようになった証である。考えることができるようになることが、自分という存在が作られ始めたことを意味する。 我思うという段階で、考えている自分がいることは、今も変わらない。 しかし、我思うという時点で、脳はすでに、私という自分の存在を作っている。 デカルトの考えには、自分が作られるという人間の成長過程が抜けている。 私という存在があるのは、産まれた時からではない。 産まれた時から自分がいるのではない。 悩によって作られる過程を経て、自分がいるようになるのである。 およそ400年前の当時において、誰もその事実に気付くことはできなかった。 医学を含む科学の進歩が未だ情報を提供していなかった。 今のような情報のある時代に生きていたのではないという意味で、彼の業績は、人間の知力の素晴らしさを示すものとなった。 これが、脳の考える力が自分の存在を作っていると考える理由である。 それとは別に、「思う」という言葉の表現にも修正が必要である。 翻訳で「思う」と訳されていた当時の意味と、今回指摘している「考える」では、違いがある。 私が思う故に私があるではなく、私の考えるという能力がある故に私がある。 人間は考えることができるが、考えるとは、新たなものを作り出す能力である。 それが、自分という存在を作り出している。 AI には未だ自分がない。現時点では、考えるという新たなものを作り出す能力はない。 AI は完全、完璧な情報処理を行っているように見える。 基本的に間違えることはなく、失敗することもない。 AI は間違えることを知らない、失敗することも知らないからである。 プログラムされたことにより情報処理を行っている。 人間は失敗を繰り返すことから、経験により、学んでいる、学習している。 間違える、失敗することに重要な意味があるように思える。 そこに考え、進歩するようになる理由があるのかもしれない。 間違いに気付き、反省することが、脳の考える働きを刺激し、それが進歩する背景にあるのではないか? 間違えることには 重要な意味がある。知的生命体に成長する人間となる理由も関係しているように思える。 |
| 8.人工知能AIと人間の違い AIは文章を作り、様々な質問に答えるようになった。 車の自動運転にも使われ、AI が車を運転している。 AIは、車を運転をする際、人間の不注意や交通ルール違反などを無くすことができ、格段に安全性を向上させることが可能に思える。(48-3-1) 人間の二つの目で見るという視力の働きでは、細菌も、宇宙の果ても見ることはできない。が、顕微鏡、望遠鏡などの発明により認識できるようになった。 新しいものを作り出す人間の脳の働きが、それを可能にしている。 人工知能AI は膨大な情報量を高速に処理し、人間社会に大きな影響を与えるようになてきている。 素晴らしい機能を持っているAI だが、できないことがある。 AIは嘘、偽りを言うこと、人を騙すことはできない。 失敗を知らず、間違えることができない。法律を無視すること、破ることはできない。 人間は嘘、偽りを言う。人を騙す。人の物を盗む、強盗もする。 法律で禁じていることを知っていても、違反する。 酒を飲んで運転し、事故を起こし、人に重傷を負わせ、亡くなる人もいる。 AI は素晴らしい機能を持っているが、人間とは違う。 何が違うのか? 何が違いを作っているのか? ここで考えてみる。 考えなければ、答は出てこない。 答えを考えてみよう。 答はあるのではなく、考えることにより作り出すもの。 答は一つとは限らず、同じでなくても答えは答。 違う答えから、新たなことを考える機会になるかもしれない。 現時点でマレフは、こう考える。 AI は考えていないから。 人間のように自由に考える能力はないから。プログラムであるから。 AIは、膨大な情報処理を高速にできても、言葉を使えるようになっても、それは入力に対する反応であり、考えることではない。 人間がAI と違うのは間違いがあり、失敗もあるからで、人間は考える能力を持つために、間違えることから、学んでいる。 学ぶことは、情報の収集と考えていたが、人間の学習は情報収集だけではないと考えるようになった。 言葉を知り、使うだけでは、情報処理のAI と同じで、考えることではない。 人間の、情報を収集することは、単なる収集ではなく、考えに発展させる目的があるように思える。 人間の考える働きに気づかず、言葉を知り、使うだけでは、AI と同じように情報処理するだけで、考えることを忘れている人間ということになりかねない。 新たなものを生み出すためには、情報を蓄積するだけでなく、活用することが関係する。 違いや変化を感じる、見つける、何か変だと思うなどは、考える働きのことである。なぜ、何のために、という疑問を作り、考えさせる。 間違えることを通して、考えるようになる。 なぜ違うのか、その理由を知りたいと思い、考えるようになる。 新たなものを作り出すためには、考えるためには、そこに疑問、ひらめき、考えることが関係する。 人間の学ぶ、学習するという情報収集には、考えるという目的があり、考える過程の一部であるように思える。 違いは間違いではない。差のことである。そこに良い、悪いはない。事実として受け止めることができる。 人間には、考える自由がある。それを強制し、コントロールすることは、AI 化することで、考えないようにさせることであるのではないか? 人間に考える自由があることが、知的生命体の意味であると考えてきた。 人間の大人としてできることは、人間の持つ考える働きを知り、理解し、それに基づく教育を幼少の頃より始めることではないか。 考える自由を身に着けるために、情報提供を通して、失敗から学び、反省し、修正していくという人間の在るがままの事実を認識するように助けることに思える。 |