1.単語の理解に誤りがあれば、単語で作る考えにも誤りが生じる。 2.可能性を信じる? 3.命と「ことば」と地球外生命の関係について 4.人間の世界の意味について 5.人間の世界は、作られた価値と価値観で動いている お金、美しさ、敵という言葉を例に考える 6.個人の好みや考えを、それが正しいと一方的に評価することに大きな間違い、 争いを始める原因がある。 7. 人間、人類、また人生最後の在り方について 8.二つのグループ 9.未来への不安 10. 価値観がどのように作られるかという理由について 相反するという言葉の意味について 言葉の修正ガイドから 価値観について 11. 教育とは学校で学んだことを忘れた後に残るもの。 ![]() 1.単語の理解に誤りがあれば、単語で作る考えにも誤りが生じる。 * 未知なる世界を解くカギは人間の言葉にある。 人間の考えを可能にするのは言葉であるからだ。 今までに作られてきた考えにはたくさんの誤りがある。 正義という考え(単語)は一つの誤りの例として説明してきた。 (シリーズ3 正義についての考察) 誤りの考えは在るがままの真実を隠す。 * 正しいという言葉にさえ間違いがある(シリーズ37)。 正しいとは、現時点で修正を必要としないと考えること、 間違い、誤りとは、現時点で修正を必要とすると考えることである、 人の考え、特に思想、主義主張、イデオロギー、信念などは、正しいという言葉の上に作られるが、その正しいという言葉に誤りがあれば、作られる考え全てに間違いが生じることがあり得る。 人は「正しい」という言葉から、間違いは無いと考えるようになり、その思い込みは信じることにつながる。それは、正しいことをしているという確信の下で行動することができるようにする。 「正しい」と考えることが、行動の原動力、信じていることに間違いはないという行動の裏付け、保証になる。 しかし、今までの人類史の中で、人間に誤りのない、普遍的、絶対的に正しかったものなど一つもなかった。 あると思えるのは、人間の世界においてという条件が必ずあるからだ。 人類に進歩があるのは、間違いがあるからである。 人間は有限であることから、人間には間違いがあることを前提に考える必要がある。つまり、絶対正しいことなどない。 戦争を正しいなどと考えることは、宇宙の中の地球上の知的生命体である人間としては、恥ずかしい限りである。 * 正しいと正当化させる最強の方法は、人々に信じさせることである。 それは自分に間違いがあるかもしれないという可能性を考えさせず、絶対に正しいとしう確信をもたらす。人間に考える力を与えないことである。 正しいと思い込ませるために、もっともらしい理由、正当性、正義の論理をあげるが、それには必ず、個人である自分、自分達の地域社会、国という優先事項がある。 人間が有限であることが、人間の社会を作っている。 その小さな、限られた世界から見るから、自分という個人、自分が属する地域社会、自分の国から見ることになり、自分たちが正しいと思い込むことができる。 自分達の国のこと、国民のこと、小さな世界を取り上げて、自分達が正しいと主張する。過去と現在だけに焦点をあて、相手の国を思わず、世界の国を考えず、地球上の人類を考えない。それは自分達だけのことを考えているだけで、未来を考えず、広い視野から見ていないことに理由がある。 これは、自分という小さな世界から見るからで、人類という視野で見ていない。地球は人類のものではないが、国の領土は自分たちのものという考えから抜け出せない。「井の中の蛙大海を知らず」という知恵の言葉がある。 自分の国というレベルで考えるから、自分の国が大切になる。人類の在り方を考えれば、違った見方ができ、違う方法が見えてくる。 * 信じることの間違いはどこにあるのか? 学校で学ぶこと、ニュースから情報を得る場合でも、信じるという表現は使わない。事実を受け止めることは信じることではない。 信じる必要があるのは、事実ではないこと又わからないことを脳に受け入れさせることにあるからだ。 そこに正しいと思い込むことの重大な誤りがある。 戦争が起きるのは、この事実を知らず、理解していないからである。 * 民主主義では、地域、国での自分達の意思を表すことはできても、世界中の意思ではない。それぞれの地域、国での価値観は違うため争いの原因になる。 大衆の意志が地域、国で違うということは、多数決という大衆の意思だけでは、地球上の人類の意思を表すことはできない。 人間、人類の未来を考え、新たな理想を作り出す必要がある。 * 人の考えは、その人の成長と共に変わる必要がある。 考えに変化がなければ、人間として成長していないことになる。 * 約束には二つの重要な意味がある。一つは責任を負うことであり、 もう一つは、未来を作ることにある。 人の信頼は約束を守ること、誠意(真心)と誠実(それに基づく行動)の上に成り立っている。 * 真実、それは人間の世界の価値観で考えることではない。 人間の世界の価値観で見るから色眼鏡で見ることになり、あるがままの真実が見えなくなる。 * 苦しい時期を乗り越え、やっと静かで平安な時を迎えられたと思っても、人生はそこで終わらない。人間は生きている限り、新たな展開が待っている。 * ヒトゲノムにより人間の子として産まれても、 人間に育てられ、人間の言葉と人間としての教育を受け、自ら学習しなければ、人間にならないし、人間になれない。 ヒトゲノムは必ずしも人間であることを意味しない。 それは高度な知能を持つ生命体に成長する可能性を持つ遺伝子である。 人間はその遺伝子により人間になり、人類として存在している。 なぜその遺伝子を受け継いだのかはわからない。 ヒトゲノムがその初めに何であったのかは今後の研究課題と考える。 創世記の記録から読み解く神の真実の姿 Part I の中に 天地の創造者として出てくる神は、人類の先祖、人間であると書いた。 それは地球外生命体のことかもしれない。 * 何を信じてもかまわないという時代は終わった。 信じることに間違いがあってはならない。 人間に間違いはたくさんある。それが許されるのは修正できるからだ。 人間に間違いを信じることは許されていないのは、 信じることは修正を困難にし、その多くは修正を不可能にする。 自分の信じていることに間違いはない、絶対正しいと信じることはよくある。今までに起きた日本赤軍、オウム真理教、イスラム過激派などによる殺人が肯定されてきたのは、自分たちに間違いはないと確信し、信じたからである。 ロシアの指導者がウクライナを侵略し始めたのも自分たちが正しいと信じたからだ。イスラエルとハマスの戦争も自分たちが正しいと信じることに問題がある。過去に起きた戦争は同じように、自分たちの価値観を間違いないものと信じたことにある。 間違いを信じることは、人間として、人類として許されることではない。 人間は有限であり、絶対はあり得ない。しかし、信じることは、完全、永遠、絶対正しいがあり得るようになる。それは誤りを信じていることと同じである。 * 相反する考えを間違いのないものとして受け入れることができるのはなぜか? その理由は、信じることにある。 正しいと信じるのは、その内容がわかっていない、理解していないからである。 正義を信じることも、理解していないからである。 戦争を始められるのは、自分の考えを正しいと信じるからである。 信じることが騙されることと同じである理由は、わかっていない、理解していないことにある。 人類がこの事実を知り、理解することができれば、信じる必要は無くなり、戦争はなくなる。 * 人間はただの生命体として生きているのではなく、知的生命体として生きている。 人間は生きるための協働社会を必要とし、制限、制約を必要としている。 それが責任を生じさせている。責任の意味である。 人間の責任の自覚は社会を維持し、生きていくために欠かせない。 |
2. 可能性を信じる? 辞書によると、「可能性とは 物事が実現できる見込み」とある。 その * しかし、人間は100%の可能性を正しいと信じることはできる。信じるとは、ある時点で考えることを止めて、正しいと受け入れることである。 * 人間の幼少の時期であれば、考えずに受け入れることは広く一般的にある。幼児の脳には情報がないために、比較し、判断する能力が未だない。子供には親を通して与えられる社会的常識が当たり前になり、正しいと思い込んでしまう。 それぞれの国、地域や民族による常識、価値観、慣習、宗教などが生まれた時から教えられるため、それはその地域、国での共通のものになる。 しかし、その内容は地域、国によって作られた常識であっても、人々が住む地域、国はみな違う。 人間であることの意味を教えられ、学習し、理解する前に、違う価値観が世界各地で作られている。 国により価値観が違うのは当たり前であることはわかっても、そこに争いが起きる原因があることまでは理解できないでいる。 正しいという基準も意識も作られたものである。 自分達が正しく、相手が悪いと思うのは、作られた意識、価値観に原因がある。 地域、国家からの常識では自分達を一番に考えるようになり、地球上の人類、地球人、世界は一つと考えるようにはならない。 その地域、国による意識、価値観が作られる前に、人間の意味を教えられ、学習し、理解することが、全ての人間に必要である。この教育がないと、人類という社会の意味を理解することはできない。 地球は人類のものではない。が、地球上の土地は国家により占有され、領有権を主張し争いを起こす。宇宙も自分達のものと考えているように思える。 これでは人類は争いを止めることはできない。 人間に100%正しいことはない。完璧も完全も絶対もない。人間に間違いは無いということはないのである。 人種、民族、国家という価値観が作られる前に、人間であることの意味を教える(情報を伝える)ことにより、全ての人間が人間であることの意味を学習し、理解し、人間が持つべき新しい常識、価値観を作り、人間としての責任を自覚する必要がある。 人間が有限であるということは、人間に完全な定義は作れないという意味である。しかし、理想を掲げ、それを目標にし、近づくことはできる。 人類が未来に生き続けるために、人間としてあるべき理想を考え、それを目標にすることを忘れてはならない。 |
3. 命と「ことば」と地球外生命の関係について 「ことば」は情報を伝える仕組み、手段である。 生命体全ては情報を伝える仕組みを持っている。 生命体は単に個体として生きているのではない。 生きているという意味には、その生命体である個体を構成する細胞が互いに情報を交換し、協力してその生命体を支えているという意味がある。 大人の人間の場合、6兆あると言われる細胞が、それぞれの働きにより、体の目、鼻、口、耳、皮膚、臓器、骨、神経、血管、血液を作り、協力し合って生き、個体を支えている。 細胞レベルであっても情報を伝え合い、協力している。 なぜそれが可能なのか? 遺伝子レベルでのプログラムの言語によると思われる。 人間の個体の命は大切だと思っていても、基本的には体を構成する一つ一つの細胞が生きていて協力し合ってその命を支えている。 細胞が大切という意識がほとんどないのは、6兆という全体からすれば、部分的な細胞の数は少なく思えるからかもしれない。 しかし、人類は今もその一つの生きた細胞を作ることができない。 なぜこれ程進んだ科学技術を持ってしても作れないのか? 個人の考えに過ぎないが、作ることが困難な理由は、人間の場合、 ・ その一つの細胞に、人間となる全ての情報である遺伝子が含まれていること ・ それに加えて情報を伝え合うシステムがあるからではないか。 ・ これは単なる疑問かもしれず、それが何かは全くわからないが、命を食べることで栄養を取り細胞を動かすエネルギーを得ることとは全く違う別の存在として、つまり命を作り命を支える命のエネルギー(みたいなもの)があるのではないか。 生命は生命を作り続けてきた。それ以外の方法で生命体は生まれないように思える。人類にとって細胞が作ることができないほど難しいなら、どうやって生命体は増え続けることができるのか? 人間を含む哺乳類では生殖によって受精卵が作られ、その受精卵の遺伝情報に従い、同じ個体の生命体が作られる。魚も鳥も受精卵から作られているように思える。 生殖によって生命は作られている。受精卵を作ることが、命を作ることのように思える。(単細胞生物などの生命体では別の方法もある) それは生命が受け継がれることである。 命は命からしか生まれないのか? 重要な問いである。 人間は未だに命そのものを作ることができない。 新しく生命が創造されることはあるのだろうか? 生命が存在しているという事実は、存在する理由、背景があると考えられるが、現時点ではわからない。 細胞は考えることはできない。考える能力はない。しかし、設計図である遺伝子を持っている。情報を伝え合う仕組みもある。 その仕組みを利用して、人類は試験管内で人間の受精卵を作り、試験管ベイビーと呼ばれる人間を産み出した。 羊を始め複製クローンを作ることにも成功している。 しかし、未だに命を創造することはできていない。 人間の受精卵一つから6兆からなる大人が作られる。 その個体の命の始まりは受精卵一つである。 多くの生命体は受精卵を作ることにより子孫を残し、生き続けてきた。 現時点で、命は命からしか生まれないということが事実であるなら、人間を含む全ての生命体の始まりは創造によるのではなく、複製であることになる。 それは、人間は大昔に神様により作られたという考えが、事実ではないことを意味する。 もしそうであるなら、人類の始まりもクローン等の高度な技術により作られたのだろうか? それとも地球外の生命体そのものの複製であることになるのだろうか? 古代に高度な文明があったことはその裏付けなのだろうか? これが真実であれば、今までに書いてきた以下の考えに一致する。 聖書の神の真実の姿、 聖書の神は、高度な技術力を持った知的生命体であり、人類の祖先である可能性がある。 シリーズ36の内容、 創世記の初めにある以下の記録は、人間の存在は地球外生命体による可能性があることを示している。 1. 「初めに神は天と地とを創造された」 この文章は、ことば単語の理解と認識の不足が、わかっていないのにわかっていると考えてしまう具体的な例である。 当時の人間が書いたとは思えない理由について指摘する。 2. 善悪を知る木の実について。 6000年もの間、善悪ということばを間違って理解してきた理由を説明する。 命から命しか産まれないのであれば、このサイトに書いてきた内容が真実であるという可能性が増したことになる。 |
4.人間の世界の意味について 文明開化の時代という表現があったが、今は高度な技術革新が続き、世界は恐ろしいほど劇的に変わってきている。そんな中、多くの国は主義主張、信仰など価値観の違いによる争いを最先端の兵器を使って力により解決しようと戦っている。 人類の多くは今も大昔からの信仰、信心、宗教、主義主張などの価値観で生きている。それが人間の世界が狂った世界、異常な世界になる理由であり、人類崩壊の危機を招いている。 自然界に良い悪いはない。善も悪もない。しかし、人間の世界にはある。 この意味を理解するのは難しいことなのか? 人間の世界とは何か? 大自然に人類が大切だという考えはない。それは人間の考えである。 人間の世界は人間の考えで作られている。 人間の世界は宇宙の中で無いに等しいものであっても、人間には全てに見える。井の中の蛙の世界から抜け出せない。 視点を人間、人間の世界からではなく、宇宙から、自然界から見るようにすることが在るがままの真実、現実から考えることになる。 人間の世界は、人間が作り上げた世界で、在るがままの事実、現実、真実に基づいてるわけではない。 人間の世界は、大自然や宇宙という真実からかけ離れている。 良い悪い、善悪は人間の世界にあっても、自然界にはない。 人間の価値観は人間の世界にしかない。 無いに等しい人間の世界を中心に考えることは、明らかに間違いであり、修正を必要としている。 物質の構造を追求し、研究を通して、水が酸素と水素の化合物であることがわかっても、物質がエネルギーであることがわかり原子力の力に目覚めても、人類が発見したとして大騒ぎしても、その全ては在るがままの自然界にすでにあった。 人間が知らなかっただけのことで、現実として元々あった。人間の世界から見ると、人間の世界にはなかった。それを無いと勝手に思っていた。決めつけていた。人間の世界の間違った解釈、思い込みである。 人間は有限であり、人間の世界には知識も理解も限られている。そこから見ると、人類には知らないことがたくさんあった。今もたくさんある。 それは人間にとって知らないだけであり、事実、真実、現実の存在は元々ある。 今までに明らかになった事実は、人類が知らなかっただけであり、元々あったものである。 人間の世界に新しい知識と理解をもたらすことは、大きな進歩と思われてきた。人類にとってはその通りである。しかし、それは在るがままの現実に対する理解を深めたという意味である。 人類にとって新しいと思っても、自然界は新しいものではない。人類以上の高度な知能を持つ知的生命体であれは、その真実に気づいていると思われる。 人類は世界を人間だけの世界と勘違いしている。新しいのは人間にとってであり、大自然は在るがままである。 人間の世界には確かに無かった。それが新たな発見である場合でも、考えてみればわかることであるが、その全ては人類が気付くよりずっと前から存在していた。 人間による新たな発見は、発明でも、創造でもない。人間の世界では新たなものであっても、それは元々、在るがままの世界である大自然の一部を理解するようになったという意味である。 人類が持っている物理、化学、医学、技術などの情報全ては元々あったものから得たもの、作り上げたものである。 人間が努力し発見したことは事実であっても、その発見は人間にとってであり、自然界には初めからあった。 人間の世界だから、過大評価も過小評価もある。それを優越感にし、おごり高ぶる理由にすることは、知的生命体のすることとは思えない。評価ではなく現実に対する認識こそが必要ではないか? ブラックホールを含む無限に広がる宇宙など、在るがままの世界は、初めからあった。人間が新たに発見したからといっても、新しいものではない。人類が知らなかっただけである。 新たな発見は人類に新たな知識と理解をもたらすが、新たな疑問ももたらすことになる。人間は有限であり、人間の世界は無限に広がる世界の一部であるからだ。 知的生命体はそこから謙虚であることの意味、大切さを学ぶ。それは知的生命体の存在を維持するために重要である。 今後新たに見つかる暗黒物質、暗黒エネルギーにしても、人間の世界には無かったのは、知らなかっただけである。 この事実に人類は目覚める必要がある。 人間が有限であるとは、知らないことは無限にあるという意味に受け止めることができる。人間が知的生命体であることは、永久に探求し続けるという意味が含まれている。 *人類が 戦争で争い、強いことを求めれば、自滅する理由になり得る。 強いことを求めるとは、自分達の力を求めること、優越感を求めること、権力、名声、富などを求めることである。 正義とは、敵を滅ぼす力、を持つことである。しかし、敵は人間である自分達の価値観が作り出す幻にすぎない。 人間の世界は、人間の考えで作られている。当たり前の世界であっても、そこに様々な問題が生じる原因、争いが始まる理由がある。人間の考えに修正が必要である。 人間であることの意味、あるべき理想を考え、それを目標としてとらえ、その理想に向かい、近づくことが必要である。 |
5.人間の世界は、作られた価値と価値観で動いている お金も、美しさも、敵という言葉も、人間の持つ価値観がその意味(価値)を作り出している。このことに気付くことは難しいことなのか? 価値とは、人間の思考と感情が作り出している人の持つ認識による評価、判断、結果のことである。 価値観とは、人間の子として産まれてから、両親を初め社会環境を通して植え込まれた脳の思考と感情である認識の反応のことである。ただし、個人の経験等による学習や反省から修正されている場合もある。 お金と美しさと敵という言葉を例に考えてみる。 お金に価値があるのは、価値があると思っているからである。 国が違えば見たことのない紙幣もある。それを見ても知らなければ、価値があるかはわからない。猫に小判という昔からある表現と同じ意味である。価値は、価値があると思っている人にだけある。 近未来、見えるお金がなくなり電子マネー等の世界になると、お金という物は手元に無いかもしれない。お金の価値はどうなるのか? 美しさがあると誰でも思っていても、美しさがあるのではない。 美しさは、美しいと感じるように作られた思考と感情の反応である。 人は美しさがあると思い込んでいるので、そう反応する。 美しいと思っていても、嫌いになれば、美しいは醜いに変わることもある。 (詳しく知りたい方は、美しさについての考察へ) 敵とは、政情が変わり、国が分裂し、戦争になれば、知り合いだった人でも、友達でも、親兄弟でも敵になることがある。 敵など存在しないし、敵を作ってはならないが、しかし、人間の考えは状況で変わり、敵を作るし、敵にする。 敵とは、人間が自分達の価値観で作り出す幻であり、その表現に過ぎない。 では、敵が幻であるなら、友も同じように幻であるのか? 自分の持つ価値観で、人間の認識は人を敵にもするが、友にもしている。 単語そのものに対して、人の認識が表れる。 友という単語は一般的に良い意味で使われるが、その単語が人間の真の姿を表しているわけではない。 友であっても簡単に嫌いになるし、敵にもなる。敵は悪い意味で使われるが、敵であっても友に変わることもある。人間の曖昧な部分を無視した表現である。 友と敵を別に考えてしまうが、共に人間を表す表現である。 人間は実在していても、友か敵、どちらか一方があるのではない。 置かれている立場や状況により、どちらにもなるという意味である。 そうなる原因は対象となる友や敵ではなく、そう考えている人にある。 敵や友がいるのではなく、敵も友も人間が作る考え、思い込みであり、実体があるのではない。人にあると思っている幻である。 人は存在しているが、友また敵という実体は存在していない。 その言葉(単語)は考えで作られている。考え、思い込みである。 人間の世界では、人の持つ様々な価値観は幼少の頃から作られていて、地域、民族、国によってもその傾向は違う。 人間の世界には様々な価値観があるが、統一されるべきものがある。 地球上の人類に属する、人間としての基本的な価値観のことである。 それは産まれてから、初めに教えられるべき人間としての基本的意味のことで、国家、民族、宗教、先祖代々からの価値観などを教えられる前に、人間としてあるべき理想の姿としての情報が提供され、学習することである。子供がそれを学び、理解し、認識するためである。 人間社会という協働体の意味を知り、信頼を築くために、約束を守り、自発的に責任を負うためである。 人はこのことに気づき、人類として認識を変えていくことが必要であると考える。 |
6.個人の好みや考えを、それが正しいと一方的に評価することについて 人間は互いを敵にして戦っている。状況、立場、考え次第で、敵にするから敵に見える。友にすれば友に見える。どちらにも見えてくる。 単語の作り方、意味の作り方、決め方に問題がある? 特定の人を悪い人と決めつけることは、その人全てを黒く塗りつぶすようなものである。一部であるのが全部になる。人間には悪い部分はあっても、良い部分もある。それを全部が悪いとするのはおかしくはないか? 一部を全部悪いと決めつけること、それが敵とすることである。敵という単語の意味であり、間違いである。 特定の人を良い人と決めつけることも、その人全てを白く塗りつぶすようなものである。一部を全部にすることは間違いである。人を完全、完璧な善人にするようなことはあってはならない。 敵という単語は、レッテルを貼るのに似ているのではないかと気付き、その意味を調べてみた。次のような説明があった。 人物や物事についての主観的な評価。 一方的に決めつけた先入観や偏見に基づいて判断を下し、評価や批判をすること。(元はオランダ語で商標の意味。) 上記の説明をこのサイトでの表現を使い言い換えてみた。 主観的な評価とは、人の持つ(思考と感情で作られている)認識の感情的な面から一方的に決めつけること。 先入観や偏見とは、思い込みにより作られた人の持つ価値観のことである。 悪人という表現が一般的に使われているが、一度でも犯罪を犯すと、その人は犯罪者になり、悪い人間というレッテルが貼られる。 過去において犯罪を犯したなら、それは事実として残り、その過去の記録は変えられない。しかし、時間と共に全ては変わる。その人の全てが悪い、悪人と決めつけることは誤りであり、間違いである。一部は全部ではない。全てが悪い人間などいない。 友と言っても争うこともあり、嫌いになり絶交することもある。友という表現も決めつけである。 価値観を持ち、一方的に決めつけていることが、間違いの元に思える。 良いー悪い、美しいー醜い、美味しいーまずい等の表現は人の持つ価値観である。個人の好みや考えを、それが正しい等と一方的に評価することに大きな間違い、争いを始める原因がある。 |
7. 人間、人類、また人生最後の在り方について 太陽の寿命はあと50億年。 遠く考えられない未来であっても、その時はやってくる。 50億年後(先)の太陽が無くなる迄には、地球を含む、太陽系に属する全ての存在が無くなるのかもしれない。 人間は永遠に生きることを願っても、その意味さえわかっていない。 50億年さえ無限と比べれば、無いに限りなく短い時間である。 時間が物理的に時計で計ることが可能であっても、永遠の時間は測ることはできない。終わりは無いからだ。 時間と考えてきた今という現在の長い短いは、比較対照による世界である。永遠に続くなら、対象にならないのかもしれない。 記録は過去であっても、過去は記録が無くなればなくなってしまう。 太陽系が無くなれば、地球の記録は残らない。 天の川銀河が無くなれば、太陽系の記録は残らないだろう。 人間の、人類の存在は残るのだろうか.? 残すことにはどんな意味があるのだろうか? 八十億の人口があっても、子孫を残せなければ、人類は約100年で絶滅種になる? 人類は未来に何を望むのか? 長い間、人類は子孫を残してきたが、残すだけで、何のために子孫を残すのか、明確な目的を持たずにきたように思える。 人間は、人類は、自分達の存在の目的さえ知らずに、存在しているだけではないか? 人類の目的はその数が増え、子孫が増えることか? 現在の人口は80億人、何人になれば目的が達成されるのか? 数を決めても意味はないではないか? ヒトゲノム遺伝子を残すことが、人類を残す意味であれば、人類の数に意味はない。 地球が人間を養うことができる数には限界がある。 地球外に出て行き、繁栄すればいいと考えても、いつ、どこまで可能なのか? 地球では、制限を設ける必要はある。しかし、人間の意味も、目的もわからずに、どうやって決めるのか? 究極の質問 全宇宙に存在する人間を含む全ての高度な知能を持つ生命体は、何のために存在しているのか? 答えは永遠にわからなくても、答えを追求することはできる。 その存在の意味を追求することが存在の意味ではないかと考える。 人類を残すことを大切と考える理由は、人類に価値観があると考えるためである。この宇宙には大切という考えは無い。 宇宙に存在する目的があるのだろうか? 目的があると考えるのは、人間が知的生命体であるからだ。 知的生命体は、なぜ存在するのか? その存在の意味を解き明かすためである。 ただし、答えがあってはならない。 答えがあれば、存在する意味が無くなり、存在は失われると考える。 永遠に探すことに意味があるという意味である。 * 人生最後の在り方について 50年以上前、哲学書に「人間は生まれながらに死刑囚。その死刑執行がいつ実行されるかはわからない。」と書かれていたことを覚えている。 若い頃は、その通りだと思った。しかし、今は違うと考えている。 全ての生命体は望んで生まれたのではないが、死ぬ定めに置かれている。 それは人間も変わらない。 しかし、地球上で言葉と高度な知能を持つ人間だけは例外である。 人間は考えることができ、自分にとって最もふさわしい死ぬ時期を選ぶことができるという点である。 人間には、人生を終えるにふさわしい成熟した時期があると考えられる、という意味である。 誰でも勝手に死を選べるという意味ではない。 人間は産まれても、独りでは生きていけない。 言葉を学び教育を受け、学習することで、自分の存在を作っていく。 全ての人は、生まれてから人間として育てられたことに対する責任を人間社会に負っている。 これが、人間の世界では、自分の命を自分勝手に奪うことが許されない理由である。 人は自分の人生を終わらせることを決めることはできる。 それを法律で規制することも、罰することもできない。 人間の社会では、人には生きる権利がある。 権利はあるが、人生が続く限り、苦しい辛い時期が終わったと思っても、次の段階が待っている。 自分の人生の終わる時期がわかるなら、次の段階は必要ないように思える。 今まで十分に考えてこなかったが、人には死ぬ権利がある。 人は人間社会に貢献し、時を経て、全ての人は高齢者になっていく。 いつ死ぬかわからない時を待っている内に、痴ほう症などになり自分自身がわからなくなることも生じる。自分がわからないまま、いつ来るかわからない死を待つことになる。 これでは、知的生命体の意味が薄れ、人間の意味が無くなってしまう。 人間以外の生命体と同じである。 全てを残してこの世を去るまでに、自分が生きている内に、全ては自分の責任において、自分に関する全てを処理することが望ましいように思える。 生きている内にできることを済ませることである。 生きているから、お世話になった人々に感謝の思いを伝えることができる。 法律に沿って全ての財産を処分し、何も残さないこともできるのではないか。 残される家族は大切に思えても、相続財産を残せば争いの元にもなるかもしれない。 最後のチャンスを人類のために考え、行動することができるかもしれない。 一人寂しく死を待つよりも、連れ添った配偶者と別れることなく、望めば、一緒に他界する方法もある。 医学は生かすために進歩してきたが、人間の最後の在り方を十分に考えてこなかったのではないか? 生きる自由があるなら、死ぬ自由もある。 痛みも、苦しみもない、安らかな死は望ましい。 今はその安らかな尊厳死ができる時代である。 自分の人生を終えるという選択肢があるのは、知的生命体の必然の権利であると考える。 全ては個人の責任において、人類の理想の未来を作るために、知的生命体のあるべき姿として、考える必要があると考える。 ![]() 8.二つのグループ 人間、人類は大きく二つのグループに分けて考えることができるように思う。自由に考えることのできる人と、そうでない、自由に考えることのできない人のグループである。 自由に考えられない人とは、思い込み、信仰、信条、イデオロギー、固定観念などを持っているために、思考がコントロールされていて、一定の枠を越えて考えることのできない人のことを言う。 今行われているイスラエルの正義の戦争の指導者は、正義のためと信じているため、子供を含む4万人以上の犠牲者がでても、正義を盾に攻撃を正当化する。犠牲は正義のためにやむを得ないと考える。 人を敵にして殺害することは、正義なのか? と疑問を持つことができない。 正義があると思い込むこと、信じることにより、人の考えに枠が作られ、思考がコントロールされるため、それ以外のことを考えることができなくなるからである。 正しいとは、その時点で間違いはないと考えることで、間違いが無いという意味ではない。 正義は無い。正義は力の象徴であり、人間を敵にして殺し合う戦争が正しいことはない。正しい義はない。 人類の多くは正しいと思い込む勝手な論理を作ってきたために、事実を認識することができなくなっている。 正義の戦争は、知的生命体である人間のすることではない。 考えればわかることである。 しかし、思考がコントロールされると、わからなくなる。正義を信じることがわからなくさせる。 言い訳として、自由のため、平和のため、人権のため、民主主義のため等なんとでも言うことはできる。それを間違いの無いことと信じることが、思考をコントロールすることになる。 思考がコントロールされると、事実を受け入れることができなくなる。 事実は、人の好き嫌いに基づかない、あるがままの現実であり、真実であり、人間の価値観で左右されるものではない。 事実を受け入れることの重要なのは、事実に間違いがある場合でも、その修正を受け入れることができ、進歩のさまたげにはならないことである。 それに対し、思い込み、信じることは、修正をできなくさせ、進歩をさまたげる。 正義の戦争は、一つの例である。 人類はこの事に気づき、理解することで、束縛の無い、自由な考えをすることができる。 自由に考えることのできる人が増えるなら、人間の理想を考え、その理想に近づくことを可能にすることができる。 ![]() 未来への不安 若者による犯罪の多発は、人間の未来に大きな不安を抱かせる。 ニュースの報道は何が起きたかを伝えているが、しかし、そのニュースには、若者たちの親が出てこない。 二十歳過ぎれば、大人として個人の責任であると思われているからか? ここに修正が必要に思うのは個人だけだろうか? 知的生命体としての人間に考えがなく、人間社会に対する責任の自覚の無い者が、年齢に達しただけで、大人として認められていることである。 その親もまた人間について考えず、人間社会の意味、社会に対する個人の責任の意味を知らずに育ったのではないか。 二十歳で大人になり、やがて結婚し、子供ができ、親となっても、子供に人間について教えずにきたのではないか? つまり、親は人間のあるべき姿を知らずに、子供を育てている? 何のために生きているのかわからない。 その結果が今の現状ではないか? ニュースは情報を伝えているが、その意味を説明しているわけではない。 ヒトゲノム遺伝子は、他の動物のように、ただ育てれば自動的に大人になる遺伝子ではない。 動物は産まれた時から遺伝子のプログラムにより生きている。 人間のように考える能力がないため、それがそのまま生きることである。 動物には考える能力がほとんどないので、生命体としての制限はあっても、自由であり、責任を意識することはない。 人間には考える能力があり、生きていくために、自分達の社会を作り、力を合わせて協力し、その安全を確保し、文明社会を発展させてきた一面がある。反面、同じ考える能力は利己的になり、敵を作り、同じ人間を殺害するという現実もある。 人間は一人では生きていけない。親を含めた人間社会の支援を必要としている。これが、人間には人間社会に対する責任がある理由であると考える。 20年もの時間をかけて大人になるための教育を受けているにもかかわらず、この責任を、親自身が自覚せず、子供にも教えていないのではないか。情報を伝えることさえしていないのは、自分でもわかっていないからか。 人間の多くは昔からの考えを受け継いでいるが、作られた時点で考えはあったとしても、受け継いでいる側に考えはないように思える。 過去に作られたものを考えることなく受け継いでいるだけではないか? 年齢で大人になっても、権利と責任を与えられても、責任を自覚するようになるわけではない。 責任を自覚するためには、自分で考え、自分で決めることの意味を理解していることが必要である。 人間が、大人になる時期は、自分で責任を持てるという自覚ができるまで待つことが望ましいように思える。 犯罪者を含め問題を起こす大人が多い現状は、人間としての責任を自覚できない人を、年齢という形式だけで大人にしている社会の在り方に問題があると考える。その影響は深刻で長く続くことになる。 大人としての責任を持てないなら、大人になる必要はなく、大人になれなくても済むように、大人に伴う責任、義務、権利を回避できるようにすることはできないか? 教育による情報提供の方法、さらに学び、学習することの意味を見直し、自分で考え、判断することができるようにすることが望ましい? 人間は、考えることで道を開くことが可能である。それが知的生命体である人間の意味である。 |
前回からの続き その2 美しい/醜い、美味しい/まずい等の相反する価値観が生まれるのは、人間には違いがあるとわかるからである。その価値観は、脳の考える力により人間の社会にはあるが、在るがままの自然界にはないと書いた。 今回は、相反するという言葉の意味について考えてみた。 人間には大切だと思っても、大切ではないという相反する考えがある。 肯定に対し否定する考えである。 違いは確かにあるが、相反するという考えの対象、実体はあるのだろうかという疑問がわいた。 つまり、それは違いではあっても、在るがままの事実であるだけではないか? 相反する考えは、人間が作るからで、作らなければ無いという意味に思える。 もし無いなら、違いを認識することに、相反するという考えが作られるのはなぜだろうか? 相反するという考え自体は、違いから生まれるとしても、人間の考えで作った価値観だからではないか? 違うと考えることと、相反すると考えることは、同じではない。 違いは、相反する対象に思えても、人間が作りそう思い込んでいるだけで、実際には在るがままの事実であるのではないか。 なぜ違いを相反するものと考えるのか? 美しい/醜いという言葉は、相反する価値観と誰もが思っていても、考えの違いを表すために作られた表現である。 それは人の好き、嫌いを表している。好きの反対は嫌いである。 好き/嫌いは、外の対象物にあるのではなく、内なる人間の心、認識、脳にある。 好きの反対は嫌いか? 好きと言っても、程度の違いはある。 大好きの場合も、大嫌いの場合もある。多少好きという場合もある。 程度の違いが生じるのは、好き/嫌いが人の持つ認識にあるからだ。 好き、嫌いを五感を表す表現に置き換えてみよう。 目で見る美しい人、美しい絵、美しい景色、可愛い子犬は、好きだという気持ちを表している。好きな人は美しく、親切で、格好がよい。その人にとって、好きという意味である。 怖いヘビ、突然現れる醜いゴキブリ、気持ち悪いムカデは嫌いだから、そう感じる。ゴキブリは殺してしまえ等と思う。 嫌いな人間はどこにでもいる。それは嫌なやつ、態度が悪く、いない方がいい等と思う。敵は殺せにつながる。 味覚の美味しいイチゴは大好きな果物。鶏肉の唐揚げも大好きだ。好きだから美味しいになる。 反対に嫌いだと、まずい、美味しくないと表現する。 小学4年生のころ遠足で友達から初めてチーズをもらって食べた。石鹸の味がして、その時は、よくこんなまずいものを食べられるなあと感じたが、今では大好物である。 好きか/嫌いかは、人間の好みであり、変化する価値観のことである。 それは人間が作った認識にあり、対象にあるのはない。 幼少の頃より、相反している言葉として教えられるから、そう思い込んでいるものは多いが、真実は違う。相反しているのではなく、単なる事実に過ぎない。 好き/嫌いの好みに置き換えるから、相反するように思えてしまう。 違いは現実にあるが、相反するものではない。相反している理由でもない。 人間が相反するという価値観を作り、そう思い込んでいるだけである。 相反するという考えに間違いがある。実際には、相反していない。 その言葉は人間が作ったから、あることになった。 しかし、相反するという実体は存在していない。違いがあるだけである。 この例も、 人間の世界が事実に基づいているのではなく、人間が作った世界である理由である。 人間の世界は人間の考えが作った世界で、その認識、特にその価値観の多くは事実とは異なり、問題を起こす背景、不安定な世界である理由に思える。 在るがままの事実を認識することが、人類にとって未来を築いていくための土台とする必要があると考える。 |
価値観は、人間の思考と感情が作り出す認識による反応、判断を意味する。 価値観は思いこみにより作られるため、在ると思い込めば在るようになり、無いと思い込めば無いようになる。認識の強さ次第でどちらにも変わってしまうものである。 時代、社会環境、国、地域、民族、教育、常識等により作られるため、価値観は人によって異なる理由であり、感動の理由にもなれば、戦争の原因にもなる。 美しい、醜い、可愛い、汚い、などの表現は、好き/嫌いに基づく人の持つ認識による感情表現で、それは対象そのものにあるのではなく、人間の脳に認識としてある。しかし、現在、社会環境の利益追求が対象にあると思い込ませている。 価値観は幼少の頃より、両親を初め社会環境を通して植え込まれるため、国、民族、宗教、その常識も、それが正しいものになってしまう。それは偏見のことである。 価値観は、個人の経験等による学習や反省から修正される場合はある。 美しい、素晴らしいと感動できるのは、人間が持つ脳の機能であり、人生を豊かにする一面であると考えることはできる。しかし、その脳の働きは同じように、醜い、汚い、悪い、という認識、価値観を作り、敵を作り、弱者さえ殺害しても正しいと考えるようになる。 これが人類が理解し、解決しなければならない問題、重要な課題である。 人が持つ価値観に、人間が恐ろしい存在になる理由がある。 |
12月8日(日)Albert Einstein の言葉から Education is what remains after one has forgotten what one has learned in school. 教育とは学校で学んだことを忘れた後に残るもの。 意味がわかるようで、よくわからないのはなぜなのだろうか。 何を意味しているのだろうか。 学校教育は一般的に結果に表れると考えられている。 英才教育は、より良い学校へ、有名高校、一流大学への道、将来社会に出た時の出世コースに必要不可欠な過程であり、富と地位が約束されているかのように語られてきた。 富、財産、地位、名声は学校教育の成果ではないのか? 教育の成果に思えるという点では、一般に考えられている優越感を満足させる結果をもたらしている。 しかし、それが学校で学んだことを忘れた後に残るものなのかと考えると、 そうとは思えない。なぜなら、 学校で学んだことを忘れたら、世の中うまく渡れない。 学校での良い成績は生涯にわたり付いて回る。 忘れないから、出世することができる。 富、財産、優雅な生活を求めるなら、人は学校で学んだことを忘れない。 このことは、教育にはその結果として、学校で学んだことを忘れない場合があるという例である。 では、アインシュタインの言うように、忘れる場合もあるということか? 教育とは何かについては、文部科学省の教育基本法第一条に教育の目的が書かれている。 第一条 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」 作られたのは1947年3月、日本が太平洋戦争で負け、新しい憲法と一致した考えで作られたとあるが、70年以上も前でのことある。 義務教育の背景には、明治時代に作られた目的があり、優秀な人間を作り出すことにあった。当時は弱肉強食の世界で、日本が強くなり、生き残るためであり、敵に勝つためであった。 強制してでも人間を優秀にしなければならない時代だった。 だから勉強しなさい、と言われてきたのだと思う。勉強は、勉めて強いることの意味である。 教育は今でも優秀な人間を作るためにあるように思われている。が、その背景は力で強くなることから、富や人気を求めること等に変わってきているように思える。 教育により、学ぶ、学習するは、情報を与えられ、学ぶという方法が取られているが、暗記する内容が多く、学校の成績評価は暗記すること、覚えることの結果だったように思える。 言葉の修正ガイドに次のように書いた。 「教えることが、わからせることになると考えてきたことには、誤りがある。 動物を教えることからわかるのは、教えても学ばないことである。 動物には覚える又考えるための人間のような言葉がなく、基本的に学習能力が無いため、学ぶことができない。 学習する方法や手段は受け身の形を取るため、受動的である。ただし、学ぼうとする姿勢は自発的であり、能動的である。 人間には学習する能力がある。生れつき持っている脳の働きで、適切な情報を与えるだけで、自分から学び習う。強制する必要はない。 考える。思考するは、受け身の学ぶ、学習することとは違い、基本的に自分から作り上げていくことで、自発的でありまた能動的である。 思考するは、学ぶ、学習することの次の段階に進むことを意味し、新たなものを作り出し、結果を残す理由でもある。学ぶと考えるが同時進行している場合もある。」 教育が優越感を求め、優秀な人間を作り出すためのものであれば、学校で学んだことを忘れることはない。それが目標であり、優秀であるために必要であるからで、結果であるように思える。 それとは反対に、優越感を求めないなら、学校で学んだことを忘れても、違うものが残されるという意味になるのかもしれない。 アインシュタインの言う教育とは、自ら行動でそれを示したと考えることができる。 アインシュタインは物理学者であり、新しい相対性理論を考え、物質がエネルギーであると証明した。 現在、核融合が可能になれば、無限のエネルギーを作り出せる。 こうした新しい考えは、受け身の教えられることからは出てこないように思える。 教育され学ぶことだけでは、新しいことは出てこない。 教育が優秀な人間を作るために教えることなら、それは富、権力を持とうとする人間社会を作り出す。 アインシュタインは自分の経験を通して、単に学ぶことではなく、考えることに人間としての重要な意味があり、それが新しい発見、発展に結び付くと言いたかったのではないか。 教育の結果が現在の社会であり、そこに問題があれば、教育の在り方の問題でもあると考えられる。 人間として教える必要のある事実からの教訓を教えず、事実を教えることを重要と考えてきた。 歴史を学んでも、歴史から人間の多くは教訓を学んこなかった。歴史は同じことを繰り返すことになる。人類の歴史は戦争の記録でいっぱいである。 事実を学ぶことだけでは人間として必要なことを学ばないという意味になる。 「人は歴史の教訓から多くを学ばないということが、歴史の教訓すべての中で最も重要である。」とは、Aldous Huxley の言葉である。 自分を作るのは、知識を得ることによる教育ではない、 そう考えてみると、残るのは、教えられたことではなく、自分で気づき、習得したことではないか。人間としての生き方、教訓とか、生き甲斐、などが考えられる。 現在の人間社会の存在は、学校で教育されたことを忘れた後のようにも思える。世代によって結果は違うだろうが、現在は若者が犯罪に走りやすい社会で、この結果を作ってきたのが教育ではないか。 教育で重要に思うは、人間が自分で考え、人間社会に対する責任を自覚するようになることである。 人間とは何か、何のために生きているのか。 自分で考えることができているだろうか。 自分で考えなければ、責任という自覚は作れない。 多くの人が社会に対する責任の自覚がないのはなぜか、 人間になるための教育がなされていないことに原因があるように思える。 アインシュタインが述べた言葉、 教育とは学校で学んだことを忘れた後に残るもの。 現在の社会が教育の結果としてとらえるなら、教育そのものの在り方に問題があることを指摘していると理解することができるように思える。 |