比較することで忘れてはいけない大切なこと
ある家庭に子供が生まれる。すると、すぐに比較することが始まる。
「うちの子はかわいい。他の子と比べてとてもかわいい。」
「冷静に見ても、客観的に見てもうちの子はとてもかわいい」という親はいる。
これから始まって、人はずっと比較されたり、比較したり、比較するのを見たりして育ってきた。幼少のころから比較により教育されてきた。わかりやすいからか?
このミカンは大きい。こっちのミカンは小さい。
体が大きくて、力が強いお相撲さん。小さい赤ちゃん。
大きい飛行機、小さい飛行機。大きい船、小さい船。
大きいライオン。小さなねずみ。大きなカブトムシ、小さなありさん。
子供たちもみな比較することを覚え、そう表現するようになる。
だれだれ君は頭がいい。成績はいつもトップだ。
あの人はクラスで一番の美人だ。
漢字のテストで80点取った。算数は30点だった。算数は苦手だ。
親から30点しか取れないのかと怒られた。姉から30点しか取れないと言って馬鹿にされた。
比較することはとても便利だ。成績も100点満点で評価される。
30点ではマイナス70点、平均点が40点だから皆成績が悪い。90点取ったあの子は頭がいい。でも30点もとれたのに、良い評価には入らない。
知らないうちに点取り虫になってしまった。
学ぶ内容より、成績の方が大事になってしまった。
良い成績をとるために勉強するようになった。
親は成績の比較で子供を見、成績が良いと喜んだ。
子供を比較することで、自分の子どもの持つ特質さえ見えなくなった。
学ぶ内容、そこから得られる教訓より、成績の方が重要になってしまった。
親は皆忙しく、内容まで見ていられない。結果だけで判断するようになった。
過程に注意を払わなくなった。そのうち子供の学ぶ内容が進み、自分たちの手に負えなくなった。塾任せになった。
確かに比較される世界の中では、良い評価には大きな意味を持つ。何々大学卒というだけでその人を見る世間の評価が変わる。見方がかわる。就職先にも影響する。どれだけ給料がもらえるかにも影響する。将来出世できるかどうかも。
人の比較は優越感を生むと同時に、劣等感も生む。
でも知らぬうちに、比較することでしか評価できなくなってしまった。
自分の幸せも、人との比較で考えることが多い。
豊かさもどれだけ所得があるかを比較して考えることが多い。
収入の比較、持ち物の比較、高価なもの、高級車、ブランド品を持っているかどうかが大事になった。
人に見せるため、自慢するため、優越感に浸るため、人を見下すために。
比較しているうちに大切なことを忘れてしまった。
物事の存在の意味を。存在そのものの大切さを。
子供はその出来の良さ悪さで比較されてきたが、
本当は一人一人の存在こそが大切だ。
比べることではなくその子自身をよく見てみよう。
その存在こそが重要な意味を持っているのだから。
「大きいリンゴをかけるかな」はその点を知ってほしいと願った。
大きい、小さいなどの言葉そのものには実体はない。
実体こそが大切な意味があることを忘れないようにと。
・ ・ ・ マイケル アレフ
追記 2024年2月
絵本「だれが大きいリンゴをかけるかな?」の中で、子供たちは大きいリンゴを描いた。
大きいリンゴがあると思っているからだ。
リンゴがあることは事実でも、大きい小さいは比べなければ存在しない。
同じように、良い人、悪い人、敵がいると思う場合でも、人間がいることは事実であっても、良い人、悪い人、敵か味方かは、時代背景、人の置かれている立場、状況、考え方、視点で違ってくる。
それは作られた価値観であり、思い込みの結果である。そう決めつけることに間違いがある。
人間の恐ろしさは、自分に間違いはない、正しいと思い込めば、敵さえ作り、殺害できるようになることにも表れる。それは実際には無いのに、大きいリンゴがあると思っているのと同じである。
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