マイケルアレフのことばの認識は世界を変える ことばの認識は世界を変える シリーズ 6 (シリーズ見直しは後半に) 美しさについての考察 2017年9月 前置き:美しさは思い込みであると思える背景について 1. 醜い、汚いという思い込みについて 2. 「美しい」は主に視覚により脳によって認識される 脳までのプロセスの中に美しさはない。 3. 脳が認識する美しさ 仮想実験。家庭教育、学校教育、社会環境により作られた認識 眼の見えなかった人が、見えるようになる時 4. 「美しい」ということばの起源と新たな定義。なぜ「美しさ」はないのか 形容詞は物をよりよく表すための修飾語。 5. 美しさは測れるか? お金で量る美しさ 共感覚 まとめ 前置き:美しさは思い込みであると思える背景について 美しさについて、ことばの認識は世界を変える Part III 「正義とは何かの考察」の中に以下のように書いた。 「美しいものはある。それは見る人の感情としてある。そう感じる人には、感情から人の思い込みとなって美しさは作られるからだ。思い込みとして実体である美しい花、景色、人、絵などが存在する。」 辞典によると、思い込みとは、そう思い込むことの意味で、既成観念、偏見、固定観念、先入観、偏った見方、決めつけなどの意味である。 美しさは、「偏見、先入観、固定観念、決めつけ等」 と書いたことになる。 明確にしておく必要があると思うことがある。 「美しいと感じる」と、「美しさがある」では意味が大きく違うことである。 「美しいと感じる」は現実としてあるが、「美しさがある」は現実にはないからだ。 その人の持つ認識と感性により美しいと感じることは現実である。 しかし、それは美しさがあって美しいと感じているかと言えば、そうではない。 美しさの存在とは直接関係がなくても、その人には「美しい」と感じる。 その人の持つ認識と深い関係がある。 すべての存在は「美しい」と言うこともできるし、「美しくない」と言うこともできる。 「美しさの中に醜さもある。醜さの中に美しさもある。見る人が見ればそう見える。 見えない人には見えないものである。」 と表現することも可能である。 なぜこう表現できるのか ・ ・ ・ 美しさそのものがあいまいで、何かよくわからないからだ。 見る人によって違ってくる。 「美しさ、美しい物」という表現は、ことばの誤った使い方であるかもしれない。 理由は、「美しさ、美しい物」 自体は存在していないように思えるからだ。 「そんな馬鹿な・・・」 と思うかも知れない。 「そんな馬鹿な話があるか」と一蹴されそうだ。「美しい物はいっぱいあるではないか。」 確かにそうである。そう思う人にはそうなのである。思い込みとして存在する。 物は確かにある。しかし、美しいかどうかは別である。 1. 醜い、汚いという認識に変化は必要か 江戸時代の美人画と呼ばれるものを見ると、当時の美人が今とは違うという印象を受ける。 美しさは人の好みみたいなものではないか。時代でも変化する。美しさに基準はないようだ。 スタートレックやアバター等の映画には異星人が知的生命体として出てくる。 初めて見る人にはきもちわるいなどの違和感があっても、慣れてくるとそのキャラクターが好きになったりする。表面的なものより、人間的内面に惹かれるからと思われる。 映画に出てくる人工知能を持つロボットも、形は旧型ロボットでも、人間と同じように見えてくることもある。人間以上に人間らしくなったりする。外観も関係するが、見る側の人間の脳に適応能力があるからだと思われる。 未来においてどんな生命体と遭遇するかはわからない。初めから外観だけで拒否する人もいるかもしれないが、人間の持つ順応性を考えれば、うまくやっていける道も開かれるかもしれない。 アゲハ蝶が舞っている様子は美しいと思う人でも、蝶になる前の芋虫は気持ち悪い、嫌いだと言う人もいるだろう。アゲハや芋虫の立場からすれば、「勝手に判断するな。いい迷惑だ。」 になるのだろうか。 人間の人体の模型、標本、解剖図などで骨組み、血管や神経の配列、臓器の位置、脳などを表したものがある。 複雑にできた体を見ると、表面でしか見ていない体とは大きな違いがある。 これほどまでに複雑にできた体を素晴らしいと思う人もいれば、自分と同じ体なのに気持ち悪いと思う人もいるだろう。 美しいとか醜いと思うのはその人の持つ知識や理解力が関係している。 自分の体の内部のことで、醜いとか美しいと言うのもおかしな話ではないか。 医学を目指す人は気持ち悪い、汚いという感覚は学習を通して修正すると思われる。 救命医として働く人たちにとって、気持ち悪いなどと言っている余裕はないだろう。 美しいとか醜いと感じるためには、時間的余裕、ゆとりも関係するように思える。 醜いと言われるものには何があるか。 蛇、カエルの絵や写真を見て美しいと思うだろうか。ゴキブリ、毛虫、蛾の写真はどうか。 中には美しいと感じる人もいるだろう。ペットとして飼っている人もいる。 実物だったら恐怖さえ感じる人もいるだろう。その人の持つ認識と感情が関係している。 この感情が醜いや汚いに結びつくように思える。美しいも醜いも汚いも思い込みのように思える。その人の持つ感情が勝手にそう意識したり、思い込んだりするだけなのではないか。 感情的に単に嫌いだと言うことで汚い、醜いになるのであれば、その背景には 知識と理解の不足、認識不足が理由としてあると考えられる。 そうした思い込みは人間の自分勝手によるのだろう。 「好きは好き、嫌いは嫌いでいいではないか」という人はいるだろう。その通りである。 しかし、時代が変わり、世界が変わりゆく中、今まで放置されてきた価値観に見直しが必要になることはあり得る。もし、価値観に間違いがあると考えられるなら、訂正する心構えは必要だろう。 話はそれるが、例えば半世紀前であれば、たばこをどこで吸うのも勝手だった。 飲酒運転も野放し状態、男女差別、セクハラも当たり前に行われていた。 障害者、弱者に対する差別用語も平気で使われていた。 苦しんだ人がどれほどいるかわからないほどの状態であったが、これが現実であった。 しかし、これらは時代が変わると共に変化してきた。 時代の要求として変化は必要だったと考えられる。 感情的に醜い、汚いなどと言える時代は過ぎ去りつつあるのかもしれない。 そう表現することが知識不足、理解不足に起因するなら、変化は必要であると考えられる。 美しい、醜いと感じる人がいる現実は、理解することができる。 美しいと感じている人に、それは醜いですと言っても、即受け入れることは難しい。 醜いと感じている人に、それは美しいですと言っても、即理解することは難しい。 当人がそう感じている以上、当人にとって、その通りなのである。 しかし、美しい、醜いという表現が思い込みであり、本質的に無いのであれば、 つまり、学習による培われた認識、結果なのであれば、修正は可能であることになる。 言い換えるなら、学習を通して醜いものが醜いものでなくなる可能性がある。 人間に有害であれば、対処は必要である。 しかし、ゴキブリ、毛虫、蛾、蛇やカエルも思い込みを修正すれば、視覚的には、きたない、醜いと見る対象ではなくなるように思える。 学習と教育により変わるものであれば、今までの価値観をそのまま放置してもかまわないということにはならないだろう。 世界中で毎年膨大な量の食べ物が畑に放置されたりして廃棄処分となっている。 お店に並べるには、見た目の基準を満たしていないという理由からだ。 見た目は脳の反応だ。ここにも、美しさと醜さが関係しているように思える。 野菜や果物が新鮮で十分な栄養があるなら、見た目の良さは厳格に追求しなくてもよいのではないか。 口も舌も胃も美しさを気にしていない。美味しく食べられるなら十分ではないか。 見た目の思い込みを修正できるなら、食べ物さえ無駄をなくすことができるようになる。 反対に、見た目の思い込みを修正できるなら、美しいと感じるものでさえ美しいものでなくなる可能性もある。 美しいものに対する反応は変わることを人は誰でも経験している。 美しいと感じたものでも、時間と共にその感動は薄れていく。 いつまでも同じ感動を持ち続けることはできない。 「美しいと感じる」は現実としてあるが、時間と共にその美意識は薄れていく。 五感は神経が脳とつながっていることから感じるものである。 眼で見て美しい絵だと言う人に、その絵は美しくありませんというのは失礼だ。 食べて舌でおいしいと感じる人に、それは美味しいものではありませんと言えるだろうか。 耳で聞いて美しい音楽だと思う人に、また匂いも、肌触りも、良いと言う人に、 そうではありません等と言うこと自体が馬鹿げている。 なぜなら、当人がそう感じているのは現実であるからだ。 それは現実として受け止めなければならない。 以下のように、美しさ(五感)とは異なるが、類似した分野(神経)でも、同様のことが言える。 例えば、人の痛みを同じように感じることができるだろうか。 痛いと感じているのに、痛くないと言っても始まらない。 痛いと感じている人には、理由がどうであれ、痛いのだ。 何かの事故などで足を切断した人が、足のつま先がかゆいと言っている。 足は無いのに、足がかゆいのは、脳がそのように感じているからだ。 脳がそう反応している以上、その感覚を否定することはできない。ただし、治療は可能だろう。 寒いと感じている人に、今は夏で暑いと言っても意味はないだろう。 逆に暑いと感じている人に、今は冬で寒いですよと言っても意味はない。 暑い、寒い、痛い、かゆい等は神経が関係していて脳が反応している。 当人がそう感じている以上、その通りなのである。ただし、病気なのかもしれない。 人の持っている認識も他の人にはわからないものもある。 例えば、人が持っている苦しみ、悲しみ、つらさも、大変さも他の人にはわからない。 どれだけ一生懸命働いているか、どれだけ勤勉に努力しているか、真面目に仕事をしているかも他の人はわからない。その気持ちは当人しかわからない。それも、当人の勝手な思い込みということもよくある。 人の努力や働きのことであれば、結果に表れる。 結果に表れず、他の人が評価してくれないと思うのであれば、改善する余地が未だあるということだろう。 人の感じる美しさも他の人にはわからないものである。 その人がそれまでに作ってきた「美しい」に関わる認識が関係している。 美しいものが存在すると思うのは、人間が生きていて、脳が美しいと反応するからである。そう思う人には、美しいのである。 しかし、人が美しいと言うから、自分も同じ気になる必要はない。 大勢の人が美しいと言うから、自分も同じように美しいと思う必要はない。 人はそれぞれ違う認識を持っているのだから、美しさも違うのは当然である。 今までに作られてきた認識から離れて(認識が無い状態を仮定する)、すると、現実に存在するものを見る時、見えるものは純粋に、単純に、もの、生きものとしての存在であり、美しいも、醜いもないように思える。 しかし現実には、人は作られた認識を持っている。 その人の認識をすぐに無くすことはできない。 人が美しいと感じるなら、これもまた現実である。 2. 美しさは主に視覚により脳によって認識される 脳に至るプロセスの中に美しさはない。 眼で見て、美しさを意識する場合、眼はカメラのレンズのような役割を果たしている。 眼は外界の光の入力器官として網膜に光の映像を映し出すために、焦点を合わせる役割等を果たしている。 網膜に映った光の映像は、神経細胞を通して脳に伝達され、脳が認識している。見たものを認識するのは脳である。 眼そのものが外部の世界を認識しているわけではない。 眼は見る物の実体を網膜に映し出すためのレンズであり、網膜に映ったものは、視神経を通して脳が認識している。脳に至るプロセスの中に美しさはない。 眼が見ている実体はあるではないか ・ ・ ・ 確かに実体はある。 しかし、それは美しさではない。 「美しい」を認識しているのは脳である。脳は入力されたものに反応している。 それまで蓄積された膨大なデータと比較していることは考えられる。 目で見る「美しい」を論ずるためには、目の働きを知る必要があるように思える。 「美しい」という表現が「見ること」に関連して多く使われていることを考えると、脳は「美しい」を主に眼を通して認識していると言える。ただし、この目にも人により様々な違いがある。 「一般的には視力一つをとってみても近視、遠視、乱視、老眼等の人がいて、見え方はそれぞれ違う。近視の人でも仮性近視の人から眼鏡やコンタクトを必要とする人まで様々だ。補強することで同じ視力を得ようとしている。目の不自由な人もいる。人によって色の見え方も違う。弱視の人、全く見えない人もいる。 同じものを見ていても、正確には同じに見えていない。大きさも同じではない、形も輪郭も同じではない、色も同じではないものを見ていることになる。脳に残っているイメージも様々だと思われる。ただし、日常生活で大きな問題が生じないことから、人は同じものを見ていると思っていて、そこに疑問を持つ人は少ない。 正確には同じ対象ではあっても、同じに見えているわけではない。」 ・・・ 認識の多面性からの引用 3. 脳が認識する美しさとは何か 仮想実験。 家庭教育、学校教育、社会環境により作られた認識 眼の見えなかった人が、眼が見えるようになる時 脳は物質であれば、ことばとイメージに置き換えることができる。 物質ではない「美しい」ということばは、実体はなく、「これが美しいものだ」と言えるものは無い。 仮想実験(実際の答えは違うかもしれない) 「美しいものはどれか」という仮想実験を考えてみる。 テーブルの上の器にそれぞれ美しいいと思われる物と名前と値段がついている。 ダイヤモンド(1千万円)、絵画(5百万円)、花(5千円)、バナナ(5百円)、ケーキ(5百円) 幼児から小学生3年生にどれが「美しいか」を尋ねてみる。 「美しい」ということばは未だ習っていないという前提で考えると、 「美しい」を学習していない児童の場合には、美しいものは何かわからない。 おなががすいていればすぐに食べるものに関心が行くだろう。 食べるものの次は、知っているものとして花だろうか。光って面白そうとダイヤモンドに興味を持つかもしれない。 次に高校生、大学生、大人に同じ質問をしてみる。 美しさはその価値と関係していると思い込んでいる一般的な高校生から大人は金額の高い方から美しいものとして選ぶと考えられる。ダイヤモンド、絵画、・・・。 もし値段が書いてなければ、値段を想像して、絵画を選ぶかもしれない。 値段を考えず、純粋に花が美しいと選ぶ人がいるかもしれない。 ここで言う美しさの価値とは値段のことである。 「美しさ」がお金による価値に影響されているなら、「美しい」と感じているかどうかは別の話になる。 なぜ「美しさ」は子供にはなく大人にはあるのか。 お金の価値と関係あるのか。学習と教育によるのか。 ・ 美は培われた認識である。家庭教育、学校教育、社会環境、学習と関係がある。 覚えているわけではないが、小学校の時、美しいという漢字の意味と使い方を教えられたように思う。調べたところ、「美」と言う漢字は小学校3年生で教えられている。 この時、美しいものはこういうものだと先生から教えられたのかもしれない。 美しいとはこういうものだという認識が作られた可能性がある。 美しい花と、美しい景色と教えられたのではないか。 小学性の時に美術の時間もあった。その時、先生から美しいということについて教えられた可能性もある。 幼少の頃、春になると両親や親族と共に花見に行き、桜を「美しい」と教えられた可能性は十分にある。その時の楽しみと共に美しさを共有した経験が残ったかもしれない。 秋、木の葉の色が黄色や赤に変わり、山から見た壮大な景色を見て、美しいと感動する人達の言葉を聞いたかもしれない。美に対する思い込みが刷り込まれた可能性は大きい。 「花は美しい」、「絵は美しい」と教えられたのだろうか。本の中の写真にもそうした表現があったかもしれない。テレビのニュースでも取り上げられたのを見ていることもある。自らそのように学習したとも考えられる。 これらはすべて美に対する固定観念として残る場合があったのではないか。 その人が持つ美に対する認識に影響を与えている可能性は大きい。 「美しさ」が学習や教育を通しての思い込みになっている可能性は十分にあると言えるだろう。 ・ 眼の見えなかった人が、眼が見えるようになった時、視覚によってすぐに物を認識することはできないと考えられる。 見たことがないのだから、脳には視覚による情報はない。 何を見ているかはわからないはずである。 恐らく、今まで使ってきた視覚以外の感覚を通して確認作業が行われると思われる。 つまり、触ってみて、においをかぎ、味わってみて、見ているものが、今までに作られた認識に加えられ、見ているものが何かを認識するようになると考えられる。 ミカンがあるとしたら、今までの経験により、感触、におい、味わいを通してミカンであることはわかる。今度は視覚を通して、眼により、それがオレンジ色、小さい、ボールのようなものと認識できるようになる。明るさ、色、大きさ、形などの情報が認識に加えられる。 この時点では視覚による「美しい」ということばの意味は未だ分からないだろう。 見ることの意味が初めて経験を通してわかり始めたばかりだからである。 美しいとは何かを経験を通して学んでいく。 「美しい」という認識は学習、教育が関係していると考える理由である。 人が美しいと感じたり、感じなかったりする理由をまとめると、 ア. 人はみな同じものを見ていると思っても、視力が違うので、実際には違うものを見ている イ. 人は学習、教育等を通して、それぞれ自分の美に対する認識、思い込みを作ってきた ということができるだろう。 4. 「美しい」ということばの起源と新しい定義、なぜ「美しさ」はないのか。 形容詞は物をよりよく表すための修飾語。 「美しい」ということばにはどのような起源があるのかを調べてみた。 語源由来辞典によると「美しい」の語源・由来について、「万葉集」に 「・ ・ ・ 上代では妻子など自分より弱いものに対して抱く慈しみの感情を表した。平安初期以降、小さいものや幼いものに対する「かわいい」「いとしい」といった感情を表すようになり、平安末期頃から「美しい」は「きれいだ」を意味するようになった。 平安時代には「美しい」とは感情そのものを表した、表すようになったとある。 そうであれば、今でもその言葉の意味は生きているように思える。 「美しい」とは「美しい」と感じる感情、感動そのもののことであると表現できる。 もし「美しい」と言うことばを知らなかったなら、人は何と表現するのだろうか。 「素晴らしい。最高だ。」など感情そのものを表す表現になるのではないか。 美しいを「素晴らしいなどの」感動している状態の表現であると考えれば、「美しい」ということばの意味を理解することができるように思える。つまり、「美しい」は、見る対象のことを言っているのではない。感動していることを言うのである。 ウェブリオ辞書に① 「視覚的・聴覚的にきれいで心をうつ。きれいだ。 ↔ 醜い」 「美しい絵」「容姿が美しい」とある。 きれいとは何かを同辞典で見ると、「眼に見て美しく心地よいさま」と書いてある。 「美しいとは、形・色・音などがきれいであること」と説明する辞書もある。 この内容で「美しい」「美しさ」の意味がわかるのだろうか ・ ・ ・ 。 そんな中、笑える国語辞典の「綺麗」の中に、 「美しいは綺麗であることに感動している様子を言い表している」 と説明が書いてあった。 この説明は平安時代にあった「美しい」ということばの意味を的確に伝えているように思える。 「感動している様子」 ・ ・ ・ これが本来の意味だと考えられる。 ウェブリオ辞書の 二①に(肉親に対して)しみじみとして深い愛情を感ずるありさま。とも書いてあった。 2023年1月、以下を追記 昔の人は「美しいは心にある」と考えたが、今では「美しいは対象物にある」に変わってしまった。「美しい」という意味が、いつの間にか心ではなく対象物にあるに変わってしまったのはなぜだろうか。 この違いは、現代人が人間の美しさに対するあるがままの真実を失ったことを示している。美しさに関しては、対象物にあるという現代の考えが間違っているのではないか。 なぜそうなったのか? なぜ美しいは対象物を表すようになったのかという疑問が生じる。 この変化が生じたのは、それほど昔のことではなく、戦後に生じたのかもしれない。 太平洋戦争中、日本人はアメリカ人、イギリス人を鬼のような存在、鬼畜米英と信じていた。意図的に敵に関する悪意ある情報が流され、誰でもそう思い込まされたことによる。 美しさに対する変化は情報が関係しているという点で似ている。 戦後、テレビの普及により、優越感が強調され、大衆は正義という力、強いこと、裕福になることに憧れた。 社会は戦後の復興時期でもあり、利益を追求することに夢中になった。 テレビのコマーシャルは人が欲しがるものを宣伝した。大衆が欲しがるように情報を作り流した。その宣伝は効果的だった。 電化製品などが次々と作られ、売られた時代である。テレビ、洗濯機、掃除機、冷蔵庫、エアコン、電話機、自動車、マイホームなど誰もが欲しがり手に入れられる時代になった。 こうした中で、大衆に美しいものがあるとの情報が与えられ、美しい物を欲しがるように思い込みが広められた。表面に表れる美しさが強調され、美しいに基準があり、誰でも美しい人、美しい物があると思い込まされた。高価なものほど美しいなどという認識が作られた。 思い込みによる価値観が作られてきたことを示している。 宣伝により、知識を与え、大衆に欲しがるように、そう思い込ませることができる。 メディアによる情報操作が今でも可能であることを示している。 利益追求の人間の世界では、やむを得ないことなのかもしれない。 しかし、間違いを修正することは必要である。 美しいと感じることが間違いなのではない。そう感じることがあるのは真実である。 しかし、美しいものがあるから、美しい対象があるからと考えることに間違いがある。 美しいと感じるのは、そのように情報が与えられたから、教えられたからであり、人が持つ認識による反応であるからだ。 こうなった背景には、利益追求が関係している。人間の心に美しさがあっても利益は出ない、金儲けにはならないからだ。 美しいという対象物があれば、物であるなら、大衆が欲しがるように情報を流せる。 美しい物があると思い込んだ大衆は喜んで買うことができる。そこに利益が生まれる。 有名人が描いた絵が数十億円もする。その有名人という情報がないなら、大衆が見るだけでは、高価な絵は存在しない。値段は美しいとは関係がない。絵は投資の対象であり、利益を求めて欲しい人が群がる。情報操作で高価なものだと思い込ませれば、高くなる。 人間の世界では、大衆は優越感と楽しみを追い求める。利益追求の社会では大衆が求めるものを与えることが欠かせない。大衆は在るがままの真実を求めてはいない。これが人間が作ってきた世界である。 美しいことの問題を取り上げることは意味がないように思えるかも知れないが、この問題は人間の本質にかかわる、全ての価値観の間違いに気付くための具体的な一例である。 大衆が当たり前に思っていても、間違いであることに気付くために、一番わかりやすいと思うからである。 人間の持つ価値観全てが、思い込みにより作られていることを理解できれば、人類から争い、戦争を無くすことも、犯罪を無くすこともできると考えるからである。 反対に、この意味、人類が愚かである理由がわからない限り、人類は戦争も犯罪も無くすことはできない。このままでは人類の存続さえ危なくなる。 (思い付きの記録 2022年12月 人の持つ価値観は偏見である!? より一部を引用) 以下は「美しい」ということばの追加的、新たな定義を考えてみた。 絵画等に感動する様子を想像すると、感動する人は、その中に斬新なもの、奇抜なものを見ていると想定し、「美しさ」は「視覚による脳の新しい、新鮮なものに対する反応」と表現できるのではないか ・ ・ ・ と考えてみた。 眼を通して脳が美しいと感じる。 人間の持つ感覚は、何に対しても慣れてくると、飽きる傾向がある。 美も同じと考えられる。初めに花を見て、美しいと感じても、時間が過ぎると、見慣れる。 すると飽きてしまう。同じ感動を持続させることはできない。 なぜ飽きてしまうのか。 時間の経過と共に見慣れたものは、新鮮なものではなくなるからだと考えられる。 見慣れたものとは反対に、新しいもの、新鮮なものに対して、脳は美しいものとして反応するのではないか、と考えられる。 古くなるものに見慣れたと感じ、飽きてしまうのであれば、新しいものに美しいと感じる、と考えると、時間的に対照的な表現になるように思える。 美しさがなぜ無いのかが、この定義だとよくわかる。 新しいものは美しくても、すぐに古くなる。すると古くなったものには、美しさは無くなってしまう。新しさがなくなるからである。 これが美しさの無い理由を説明しているように思える。美しさを保つことはできないからだ。 芸術家は絵等の中に情熱、思い、感情を表現する。抽象画の場合もある。 その作品の中に、今まで見たことのない斬新なものを見る人はいる。そして感動する人がいる。それはその人の中で培われてきた絵全体の認識の中にはない新しいものを見るからではないか。 同じ絵を見ていても、感動のない人もいる。それはその人の持つ認識の中では、新しいものは見えないからと考えられる。 脳は目を通して入力されたすべての映像を見ている。その中で美しいものに反応する。 関心のあるものに対しては絶えず注意が払われる。 その過程で新しいもの、初めて見るもの、何なのかわかっていない物に対して強く反応するように思われる。 経験にない、全く初めて見るものであれば、その際、恐れ、興味、夢などが入り混じった思いと感情で新しいものを見る。その時、感動となる場合もあるが、度が過ぎれば不快な経験にもなるとも考えられる。 美しいとは基本的に新しいもの、新鮮なものに対する反応、感動であると言えるかもしれない。 自分の認識の中にあっても気づかないでいるものもある。ずっと昔に埋もれてしまった宝物みたいなものかもしれない。自分がそれに目覚める、気づくことなども関係すると思われる。 これも新しい経験に含まれるかもしれない。 日本人の母親が米国の子供達を見た時に「とてもかわいい」という反応を示した覚えがある。子供であれば、警戒心を抱かずに見ることができる。そこに日本人の子供にはない新しいものを見たからではないか。 テレビで見たアイススケートの日本人選手を見て、ものすごくかわいい、最高にかわいいと言っていた若い米兵がいた。自分には思いもかけないことばだった。美に対する感覚はまるで違うと思った。これも新しいものを見たからではないか。 では、すべて新しいものは美しいと言えるのか。 そう言えるようにも、そう言えないようにも思える。 「美しい」は新しいというよりも、もっと強い意味の「斬新な」の意味に近いのかもしれない。 感動するほどのものであれば、確かに美しいになるだろう。 「美しさ、美しいもの」が無い理由をまとめると、 ア. 「美しい」は語源的に「感動そのもの、感動している状態」を表すことばである。それを物に置き換えることはできない。(芸術家がその感動を美に表そうとすることは考えられる) イ. 時間の経過と共に、人間には何に対しても飽きるという傾向がある。美しいと感じたものでも飽きてしまう。美しいという感動を同じように維持することはできない。 ウ. 物は古くなる。人は年をとる。この理由で「美しさ」そのものも無くなっていく。 ・ 形容詞は物をよりよく表すための修飾語。 物を形容することば「大きい、小さい」については「誰が大きいリンゴをかけるかな」の中で説明を試みた。「長い、短い」、「高い、低い」「古い、新しい」も同様に比較対象のことばとして考えることができる。(善悪は認識の多面性の中で想像語として説明を試みた) 形容詞は実体を表現するたに使われることばである。大きいリンゴ、小さいリンゴと言っても、比較しない限り大きいも、小さいもない。見て比べる、又はモノサシで計り、結果を比べることにより、比較することができる。そして比べれば大きい、小さいと表現できる。 重要な点と思えるのは、比較して大きいとは言えても、それが単純に大きいということにはならないことである。気付かないかもしれないが、大きいというのは、あるものと比較してという条件が必ずついている。 長さは 定規、ノギス、メジャー、レーダーなどで測定し、比べることができる。 長い、短いという表現は長さを比べることにより可能である。 重さも体重計、電子天秤、上皿天秤、バネ秤などを使うことで測定し、比べることができる。 重い、軽い という表現は重さを比べることにより可能である。 形容詞には物理的に計測できるものと、できないものがあるように思える。 形容詞には「美しい、醜い」等の表現がある。 5. 美しさは測れるのか。 実に馬鹿げていると思われるかもしれないが、美しさは測れるのである。 美しいということばに実体がないのにどうやって測るのか。 測る方法に問題がないわけではないが ・ ・ ・ 本来「美しさ」に実体はないが、人の思い込みより、美しいものとしての実体は作られる。 「美しさ」という、まさにその 「人の思い込み」 を測るのである。 例えば絵画を考えればわかる。 すべての物がお金の価値に換算される。なんにでも値段がつく。値段で測ることができる。 美しさもお金に換算される。有名画家の絵は数億円。無名の画家の絵は数千円。 今まで価値など無いと思っていた絵が1千万円もすると評価された途端、 その絵はものすごく美しく見えてくる。実にいい加減な美的感覚である。 ・ お金で表現される美しさ 美しさには物理的に物の計測に使うモノサシはない。 大衆の好みのような量で計る方法、統計を取る方法は考えられる。 ただし、大衆の好みは変化する。 お金に換算し、その価値の高さを比較して、美しさを表現する。 欲しがる人が多ければ、美の値段は上がる。欲しがる人が多いかは変化する。 美しさの評価は難しい。美しさに実体はないからだ。 お金とは何か。価値とは何かを考えてみる必要があるのではないか。 お宝を持っている人は、それがお宝だと思っている限りはお宝である。 しかし、専門家に評価された途端、ただのガラクタにもなる。 つまり、人の評価によって、物の価値観は変わるのだ。 美しさも変わってしまう。価値があると思っていた美しいものが、ただのごみにもなる。 価値は欲しがる人の数、コレクターの数が多ければ上がるし、下がれば、下がる。 「本物とは何か。専門家の評価は本物か。評価が本物とはどういう意味か。 専門家が本当のこととして言えるのは何か」等を考えてみる必要があるのではないか。 ある絵を見て、深く感動し、何にも代えられない物になる場合はある。 大金を払っても自分の物にしたくなる。 そうして買ったものが専門家の評価により一瞬にしてガラクタのような値段になる。 その人の感動は間違っていたことになるのか。見る目がなかったのか。 美しさには所有欲が関係したり、金銭欲が関係したりするように思える。 しかし、「美しい」には所有欲も金銭欲も関係はないはずである。心の感動であるからだ。 誰が何を言おうと、美しいと感じる人にはその感動は本物であるはずである。 「美しい」は感動表現である。その人の感動はお金では買えないものである。 それなのに、物の値段を気にする。価値を気にする。専門家に見てもらう。なぜか。 お金で価値を判断する人は、本当に「美しい」などとは思っていないのかもしれない。 「美しい」などどうでも良いのかもしれない。 本当の感動があったとしても、すぐにその感動を忘れ、お金の価値という現実と向き合うせいかもしれない。 どれほど感動したものであっても、時間の経過と共に、その感動は薄れていくのも現実である。美しいと感動しても、その感動は一時的であると言える。 お金の価値が安心感を与える。価値があると評価されれば、人は価値があると思い込む。 そしてそれが美しいものだと思い込む。 欲しい人がいる間、ゆとりがある間、理解のある人がいる間、それには美としての価値があることになる。思い込みである。 日本には古いものを大切にする文化もある。古いものに対する美である。 古いものの中に新しいものを見るからであるとも言える。 お金による評価が大きく関係しているからとも思える。 大切なことに思えるのは、昔、そのお宝を創り出した人々がいたことだ。 そこで以下のような質問を考えてみることに意義があるかもしれない。 今を生きる人は、昔の人と同じように宝物を創り出しているだろうか。 収集することではなく、後世に残せるものを何か作っているだろうか。 資産ではなくても親として、人間として、生きる模範、手本を残しているだろうか。 自分の人間として生きる姿勢を子孫に残すことこそ「宝もの」と言えるのではないか。 世界で一番美しいものは何か。 あるとすれば思い込みによる美しさの実体である。 花そのものは、自分が美しいとの意識はない。 受け継いだ遺伝子によって花を咲かせるだけである。 人間はそれを見て、美しいと思う。 人は何故美しくありたいと思うのだろうか。 人類の歴史が始まって以来、人は美しく見せようと努力してきた。 自分から見て、自分は美しいと思うのは、人間だけだろうか。 なぜだろうか。人間だけがうぬぼれることができるからか。 うぬぼれとは、「自惚れ」、。三省堂大辞林には「(実際以上に)自分をすぐれていると思って得意になる。」と書かれている そのうぬぼれを利用し、美しさを利用し、利益追求をする人々がいる。 お金が絡んでいる。それを楽しむ人がいる。お金を稼ぐ人がいる。 美しさを勝手に決めている。 美しさという思い込みが広告、宣伝を通して作られ、大衆の間に浸透していく。 美人コンテストに参加する人たちは、「自分を美しさにおいてすぐれていると得意になっている」からだろうか。美しいと推薦してくれる人がいたからか。 評価する人は、「美しさ」の評価に疑問を持つことはないのだろうか。 百人の若い女性がいれば百人の美しさがある。美しさはみな違う。皆美しいとも言える。 どうして一番を決められるのだろうか。なぜ一番を決める必要があるのだろうか。 お金が関係しているからか。大衆がそれを望むからか。楽しいからか。 年齢は関係しているように思える。若い人には美しいと表現できる新しい生命に溢れている。 歳を取るとその生命の息吹は失われる。若さこそ美しいと思わせる理由であるように思える。 見方にもよるが、若い時こそ最も美しい時期であるのかもしれない。残念なことに、時と共に皆年老いていく。美しいと思っても長続きしない。夢も希望もない人間の悲しい定めのように思える。 人間の美に対する思いと認識は、これ以上発展しないのだろうか。 今ままでにない美しいと感動させるものは、出てくるのだろうか。 新しい美の世界が開かれるのだろうか。 共感覚を持つ人は、文字に色を感じたり、音に色を感じたり、形に味を感じたりするという。 この感覚をもたらす脳の働きは、未だ一般的ではないが、人類の未来の可能性の一面を示しているのかもしれない。 人類が存続する限り、未来は続き、人間の認識にも変化が生じる。 美に対する認識の変化はその中にあると言える。 まとめ: 「 美しさ」を理解すること、扱うことは難しい。 「美しさ」を説明したとしても、それが何かがよくわからないことから、 「 美しさ」があると思う人には、美しさは思い込みとしてあり続けるし、 それを否定することは困難なように思われる。 それ故、人の持つ美意識が利用されることは避けられないし、 美しさに関する指針を作ることも難しいように思える。 ただし、可能性としては、教育や学習により思い込みである偏見、先入観、固定観念、決めつけなどを徐々に、ある程度無くすことができるなら、醜い、汚い等の意識を改善し、また美に関係する人間の利己的な傾向、お金との関わり、安定と安心を求める傾向等を少なくすることはできるかもしれない。 以下に、難しいと思える「美しい」、「美しさ」について個人の考えをまとめてみた。 人が美しいと感じたり、感じなかったりする理由; ア. 同じものを見ていると思っても、人の視力はそれぞれ違うため、同じものを見ていることにはならない。違うものを見ていることになる。 イ. 人はそれぞれ美に対する異なる認識を持っている。 学習や教育を通して、一人ひとりが「美しさ」という思い込みを作ってきたことが関係している。 「美しさ、美しいもの」が無いと考えられる理由: ア. 「美しい」ということばの本来の意味は感動のことである。「美しい」とは「美しい」と感じる感情、感動そのもののことである。「美しい」は、見る対象のことを言っているのではない。 「美しい」という感動を誰にでも理解できる物に置き換えることはできない。 イ. 時間の経過と共に、人間には何に対しても飽きるという傾向があり、 「美しい」と感じたものに対しても、飽きてしまう。「美しい」という感動を同じように維持することはできない。 ウ. 物は古くなる。人は年をとる。この理由で「美しさ」、「新鮮さ」そのものも無くなっていく。 前回のPart Vで感動することについて以下のように書いた。 「感動することは、人間だけが人間であるが故に経験できることである。 「人間は素晴らしい存在である」と考える理由の一つと言える。 人間はことばと考える知力を持ち、未来を創る存在である。 人によるとは言え、謙虚さ、誠実さ、感謝の気持ち、隣人愛、人類愛を示すことができる。 その人間性に素晴らしいと感動する同じ人間は、なんと素晴らしい存在ではないだろうか。 」 その感動こそ「美しい」ということばの本来の意味であると理解できる。 マイケルアレフ 2017年9月 ![]() シリーズ6 美しさについて、シリーズ5 感動することについて 見直し その1回目 2021年7月17日(土) シリーズ6に「美しいと感じても、美しさはない」ことを説明した。 美しいと感じるのだから、美しさがあって当然のように思えるが、そうではないと。 美しさがないのが真実であれば、楽しさ、悲しさもないのかと、必然的に疑問が生じる。 その答えを知るには、認識すること、つまり、視覚による美しさだけでなく、人間の持つ五感全てと脳の機能の働きを知ることが必要に思える。感動することも関係する。その全ての元の遺伝子も関係する。 同じ刺激が与えられても、人にはそれぞれの持つ脳の働きと五感機能の違いから異なる反応が生まれる。機能に障害を持つ人もいる。生まれた時から作り続けられている思考と感情である認識はその反応に大きな影響を与えている。 人の認識が違うのは明らかであるが、個人の認識もまた、その人の成長過程で違いがある。大好きだった対象が、大嫌いになることもある。 それは具体的には何を意味しているのか? 実体に対する反応は五感と脳によりその時点で認識されるが、人の持つ認識は産まれた時から経験を通して脳によって作られてきた思考と感情の働きのことで、長期の時間をかけて作られているものであり、瞬時の反応のことではない。 感情が美しいとすぐに反応し、それがすべてのように思えても、それは長い年月をかけて作られた感情の一面であり、感情の一部であると考える。感情は気まぐれで不安定な部分もあり、強くそう感じても、すぐに気が変わることもある。 2000年以上前にシルスが 「賢い人は感情の支配者、愚かな人は感情の奴隷である」と言った通りである。 認識は人それぞれの産まれた時代の自然、社会環境、特に子を育てることに関係した両親の持っている価値観、教育、感情により影響を受けている。親の好き嫌いは子供に影響を与え、その育て方は子供の思考と感情に影響する。 産まれ育った時代の自然環境と社会環境とは、子供に与えられる情報の質と量と与えられ方のことで、それぞれの人で違うし、時代によっても大きく異なる。 自分という存在に気付く時、自分という存在を考えるようになるが、長くは続かない。昔は今のような知識、情報はなく、考えても答えはなかった。答えてくれる人もいなかった。 人間の周りの環境が安心感を得るために、皆と同じであることを求めた。 脳はこれ以降も思考と感情を作り続けるが、この時から自分という存在が、自分の思考と感情を運用し始める。それまでは自分は存在せず、いなかった。 好き勝手をするようになるが、親を含め社会が、教育により制御しようとする。 自分で、自分を教育し始める。学習を始める。新たなことに気付き、教訓を得るようになる。自分の意志を持つようになる。自分がいるようになる。 自分で考え、判断し、失敗もするが、そこから学び、前進する。 子供は自分が作られる背景を意識せずに成長し、自分に思考や感情がある理由を知らない。自分に好き嫌いという特定の感情がある理由、成績が良い悪い理由、頭が良い悪いと思っている理由、得意不得意がある理由などわからないまま、考えることもなく育っていく。 人の持つ認識はそれぞれであるが、一般的にはその認識について考えることも、意識することもないように思える。 美しさはないが、美しいと感じることはある。 しかし、何を美しいと感じているかは人によるし、詳細はわからない。 花は美しいと感じても、花の何が美しいと感じさせるのかはわからない。 その色にあると思っても、色の何が美しいかはわからない。その形にあると思っても、形の何が美しいのかはわからない。 あの人は美人と言っても、その人の何が美しいのかわからない。顔だと思っても、顔の何が美しいのかはわからない。目だと思っても、目の何が美しのかはわからない。全てだと思っても、なぜそうなのかはわからない。 つまり、美しいに理由はいらない。理由はあると思っても、理由はわからない。 美しさはない。美しいと感じるのは美しさがあるからではない。 人間の認識に理由がある。美しいと感じるのは、人間の脳が作られた感情に美しいと思い込ませ、美しいと反応させるからである。 美しいと感じさせる刺激は、時間と共に変化している。その刺激は全く同じであることはない。見る側が同じだと思っているだけのことで、それに見る側も絶えず変化していることに気づいていない。 対象が生きている植物、動物、人間などであれば、絶えず変化していることはわかりやすい。人の顔も絶えず変わり続けている。人間は気付いていない、気づけない、その能力はない。だから、しばらくは同じに見える。 つまり、人間の認識によって同じにも、違っても見える。人の認識に完璧なものはない。 幼少の頃より、同じであることが教えられ、強調されてきた。それが背景にあるかもしれないが、何にでも同じ物があると思っている。人は皆同じであれば安心していられる。 それに反し、現実の世界に、全く同じ物は存在していない、と真実を教えられることはなかった。つまり、作られた認識は正確さに欠けている部分がある。 世の中に一つしかない物でも、時間と位置、環境で全く同じではない。 説明できますか 1+1=2 なぜ? の中に、同じだから足せるのではないことを説明した。 しかし、一般的には、同じものだから足し算ができると思っている。 真実は現実のことであり、美しいも醜いも、時間の経過と共に変わっていく。つまり、人の認識は変わっていく。現実に対する情報が増えるに従い、真実がより明かになり、認識が変わるからである。 見直し 2回目 7月27日(火) 形容詞などに見られるその働きから考える 美しいということば(単語)は、主に視覚に関連して対象となる人、花、景色、絵画、写真等を説明するために使われる形容詞である。 形容詞は、物を比較対照するときによく使われているが、比較しないと意味をなさないことが多く、そのことば自体に実体はないという特徴があるように思う。 大きいー小さい、長いー短い、高いー低い、速いー遅い、重いー軽い、浅いー深い、厚いー薄い、古いー新しい等がある。 これらは物理的に工具や測定器を使ってはかり、比較することができる単語である。はかると言っても、長さを測る、重さを量るなど使われる漢字や単位も違う。比較しないと意味をなさないことばで、単語自体に実体はない。 実体がない例として、絵本「誰が大きいリンゴを描けるかな?」を書いた。 比較しなければ大きいリンゴは存在しないことを理解して欲しいと思ったからである。その後書きに、比較することの問題点も指摘した。 美しいという形容詞は物理的にはかることはできない。はかるという適切な漢字はない。思いついた似たような表現には次のようなものがある。 美しいー醜い、難しいー易しい、賢いー愚かな、カッコいいーダサい、楽しいー悲しい、恐ろしいー優しい、などである。 物理的に比較することは難しく、できないように思える。できると思うには、その方法にもよるが、思い込みが関係するように思える。 美しさについては測りようがない。しかし、実に不思議なことに、美しさという人の思い込みをお金に換算することにより量っている実情をシリーズ6に説明した。 なぜなのだろうか? 何を基準に比較しているのか? これらは人の気持ち、感情を表すことばであるように思える。本質的に好き、嫌いを比較するためにあるのではないか? 好き嫌いは感情表現であり、心の変化を意味し、安定していない。気分でも変わる。やる気でかわる。基準は本来ないが、思い込みで作られる。 そう思い込む人にとっては、それが正しいことにもなる。大好きにも、大嫌いにもなる。大好きだった食べ物が大嫌いになることも、大好きな人が大嫌いになることもある。 * 形容詞ではないこの動詞、好きー嫌いも、比較対照を表すことばである。 どこまでが好きで、どこからが嫌いか、どこから始まるかがはっきりしていない。当然その間にあるどちらでもないも、はっきりしない。 よく使われる、できるーできない、も比較する表現である。 できると言っても、どの程度を意味するかがわからない。検定結果によって判断することはできる場合もあるが、時間によってその人の能力もその結果も変わる。 できない人にとってはたくさんできる人に思えても、専門家にとっては対象にさえならないこともある。 詳しくは 思い付き ★ 10 「できる、できない」ことの意味について考える を参考に。 更に類似したことばとして、 善いー悪い、がある。人間が作り上げた道徳的、宗教的価値観による比較対象語であるように思える。 想像による神、仏、天国、地獄、死後の世界などが関係する。実体がなく、ことばも曖昧で、比較は信じる世界での話になる。 正しいー間違いは、学生時代にテストの評価をする上で頻繁に使われたため、正しいー間違い、という考えが普通に受け入れられている。これは白ー黒をはっきりさせる、良いー悪い、を区別する等の考えに影響しているように思える。 正しいの反対が間違いに思えるが、正誤共に視点によって答えは変わる。視点とは条件、立場、見方等のことで、ある範囲、枠の中で考えることである。正しいに絶対はない。 比較するための形容詞などの単語は、知的生命体である人間世界に特有な考えに思える。 自然界には比較対照は無い。自然界に形容詞はない。大きいー小さい、長いー短い、高いー低い、善ー悪、良いー悪い、正ー誤はない。あるがままの世界である。人間には思考能力があり、自分を中心に、比較対象を考える。 人間は花、蝶、鳥、魚、動物、景色などを見て、美しいと感動する。しかし、花は自分が美しいことを知らない。鳥も自分が美しいことを知らない。自然界に自分が美しいという考えは無い。人間だけにそう見える世界である。 美しい理由の一つに色がある。様々な色、虹色がある。 太陽からの光が白色光であるからである。光の三原色はRGB、赤、緑、青である。合わせると白になる。たくさんの色、それを認識できるのは人間に視覚があり、高度なことばと知能があるからだ。それがなければ色がある理由さえわからない。 地球上の人間以外の生命体にとって、それはあるがままの世界であり、人間のように認識することはできない。 人間は美しくなりたいと願い、美しくなるためにお化粧し、着飾る。そうできるのは人間だけだろうか? 鳥や動物でも遺伝子の働きによる求愛行動として異性を引き付けようとする行動は見られるように思えるが、それは人間のような思考ではない。 人間の場合は、感情が思考に働きかけている。その感情は、特に若い時の求愛行動として、遺伝子の働きが大きく関係しているように思える。これも美しいと感じる大きな理由かもしれない。 見直し 3回目 美しいという認識は、美しいことを教えられ、学習することよって身につけたものであるように、楽しいー悲しいという認識も、幼少の頃からの教育と学習を通して身につけたものであるように思える。 人が美しいと感じるなら、それは真実である。楽しい、悲しいももその通りである。ただし、それは脳の反応であり、作られたものであり、それが正しいということではない。 失う、無くなる、 いなくなる(死を含む)の具体的な文章の例を考えてみた。 好きな物がなくなる、好きな人がいなくなると、悲しい。 嫌いな物がなくなる、嫌いな人がいなくなると、嬉しい。 関心のない物がなくなっても、関心のない人がいなくなっても、気にならない。 注意したいことは、この文章の悲しい、嬉しい、気にならないの違いの元、原因はどこにあるのかという点である。 それは、好きな、嫌いな、関心のないの部分にある。それ以外は同じ内容である。つまり、悲しい、嬉しい、気にならないは、なくなる物や人という対象より、対象に対するその人の持つ、好き、嫌い、関心がない、という思考と感情で決まることを示している。 関心を持つのは自分であり、自分にある。世界は基本的に自分を中心に動いている。自分に関心がないなら、世界は見えてこない。気にも止まらない。気にならない。 愛する人を失ったから悲しいと感じるのは、対象が愛する人であるからだ。嫌いな人であれば、いなくなって良かったと思ったり、ホットしたりする。 愛するという思いと感情は、長い時間と経験を通して対象になる人に対して、無意識でも作ってきた。その愛する人を失うという情報は、その人に対する思いと感情を刺激し、過去の経験を思い起させ、学習した悲しいという感情を呼び起こす。 もし人が植物、動物、人間の死ぬことを教えられず、経験を通して学習することがなければ、どう反応するだろうか。 失うことによる周りの人の悲しみを知る経験がなく、学習していないなら、悲しいという感情は作られずに育つ場合もあるという意味になる。経験と学習が無ければ、悲しいことが何かわからない。 それは、眼の見えない人にとって、脳に視覚による情報がないことから、視覚による美しいということがわからないことと同じように思える。 今までに失うことで学習したこと、つまり人は悲しみを共有する経験から、悲しいという感情が呼び起こされる。 過去の記憶は昔のその時、その時の記録、記憶であり、今という現実の中に実際には存在していない。 今とは、時間で言う瞬間のことではなく、自分が生きている現実の世界のことである。 過去は記録であり、現実の今の世界ではない。 今までに経験したすべては過去の出来事であり、記憶として残っている。その経験を通して好き、嫌い等の感情が作られてきた。それは今という現実の世界にある。脳が今も活用している思考と感情のことである。 過去に残る思い出はそのまま変わることがなくても、現実には物も他人も自分もすべてが時と共に変化している。同じではなくなっている。 新たな情報が無いと、脳にある昔の記憶、記録は変わらない。昔のままである。 今までと同じ人だと思っていても、時の経過と共に皆変わっている。自分も変わっている。 多くの人はそれに気付かない。 身近にいる人、物などは、情報が絶えず更新されるため、現実の中にその存在を認識していると考える。 様々な背景により、子供を愛する場合でも、子どもを嫌う場合でも、思考と感情で、どちらにも変わる可能性がある。対象である子供ではなく、その人の心に大きく依存している。 大人が幼い子が言うことを聞かないからといって虐待する場合がある。 なぜこういうことが起きるのか。 大人と表現され、年齢は大人でも、必要な人間としての教育を受けておらず、十分な経験がなく、責任感がないからということも考えられる。 今まで大人とは、法律で決めた年齢により二十歳になれば自動的に全ての人が大人になった。自立していなくても、責任意識がなくても、大人の権利が与えられる。来年から大人の年齢が引き下げられる。 人間にとって、人類にとって、非常に重要に思えるのは、産まれてから小学生、中学生、高校生そして大人になるまでの間に、何を教えられ、何を学習してきたかということだ。 与えられる情報の質、量、と与え方にも関係するが、自分から何を学んでいるかが重要に思える。それが、人の思考と感情を支配するようになるからである。教育のあり方が人類の未来に重大な影響を与えている。 ここに人類の在り方を修正する方法があるのかもしれない。 シリーズ6より 一部を引用 人は他人がどう考えているか、感じているかを正確に知ることはできない。本人でさえ自分のことをわかっていないのだから、当たり前のことではある。思いやりなどにより、わかろうとすること、わかったつもりになることはできても、人間の脳には曖昧な部分も、わからないこともたくさんある。 人の痛みを同じように感じることはできない。 人が持っている苦しみ、悲しみ、つらさも、大変さも他の人にはわからない。 その気持ちは当人しかわからない。それも自分勝手な思い込みということもある。 人の感じる美しさも他の人にはわからない。喜びも、悲しみもわからない。 相手の気持ちを察し、わかったつもりになることはできる。 人の脳がそれまでに作ってきた思考と感情が関係している。当人でさえ、全てを理解しているわけではない。 美しいものが存在すると思うのは、人間が生きていて、脳が美しいと反応するからである。 楽しい、悲しいも、同様である。 2021年8月 シリーズ5と6を振り返り、美しさがない理由、次に感動するのはなぜかという理由を考えた。 主な理由は自分の外にあるのではなく、自分の中にあることを説明した。 それは脳の働きであり、生まれてから作られてきた思考と感情のことであると。 言い方を変えると、それは人の持つ認識、昔は心と表現されてきたものである。更にわかりやすく言えば、それは人の持つ価値観とも表現できる。 美しいと感じる対象が人によって違うのは、作られた脳の働き、思考と感情、認識、心、価値観が違うからである。 そう考えてみると、人間の持つ意識に違いが生じる多くの理由は、脳の働き、思考と感情がどのように作られてきたか、にあるように思えてくる。 それをどう作るかを人類は考えてこなかった。 地域によって幼少の頃から教えられることが違い、習慣とすれば、人間はそれを変えることは非常に困難になる。 育つ環境、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、それが何であれ、幼少から受けた教育の影響を変えることは非常に難しい。 狼に育てられた人間の子は、後で修正しようとしても、人間にはなれないのと似ている。 人間がどのような大人になるか、それは幼少からの教育がその答えであると考えるが、その教育は確立されていない。 人間である自分を動かしているのは、自分と思わせている脳の働きであり、作られたものである。 人間の存在の意味を考え、人類としての基本となる教育のあり方を考えない限り、人類として共通の認識を持つことはできないように思える。 |