マイケルアレフのことばの不思議な世界

人間性に普遍性はないことについてはすでに書いた。進歩という表現は適切でないのかも知れない。進歩とは人類にとってより良い方向に変化することへの「願い」のように思う。

「ことば」の認識は、世界を変える  シリーズ 26
科学の進歩と人間性の進歩に大きな違いが生じた理由

このシリーズで人間性に進歩が見られない主な理由について5回に渡って問題点を書いた。こうして書いている内にわかってきたことがある。それは現状把握ができていないことで、多くの人は現在に至るまでの歴史に示された人類の現実にある姿のことを認識できないでいる。

現在自分が富んでいれば、幸せであれば、昔の貧しかったこと、苦しかった生活のことを忘れてしまう。自分の生活が忙しいと、他人の不幸まで考えるゆとりがない。

人間が現状を把握できないことはやむを得ないことなのか? 

いいえ。人類は現状に対する責任がある。現状を知るよう働きかけることが必要である。

先日セバスチャン・サルガドという写真家のドキュメンタリー、地球へのラブレターを見た。人間の実情を知らせ、地球への愛を考えさせられる素晴らしい作品だった。このドキュメンタリーを見ることをお勧めする。

現状を把握し、間違いに気づき、反省し、改善しようとすれば、それは人間性の進歩につながる。指摘した5つの問題点は人類の歩みを改善する上で必ず役に立つと考える。


人類が現実を認識するのを妨げていると考えられる理由は何か?
1. 発展できない閉ざされた価値観を持ち続けている。
  完全、完璧、絶対は反省、改善、進歩できない価値観を持つこと
2. 人類の愚かさは人間の持つ優越感にある。
  それは利己的なる原因、争い、戦争の原因、高慢になる原因
3. 賢い人は感情の支配者、愚かな人は感情の奴隷である。
  感情に支配されることは、様々な問題が生じる原因である
4. ことばの認識の問題
  ことばの認識に問題がある例 正義、愛、人権、自分、命、敵など
5. 思い込みについて


地球を宇宙の中心と考えていた数千年前、人間は、神により創られた特別な存在と教えられ、人間は地上で最も優れた、高度な知能を持つ生命体であると思い込むようになった。優越感の塊のような意識を持つようになり、人類は地球上で最強の存在であるとつい最近までそう信じてきた。しかし、2兆の銀河の存在を知る現在、同じ人類とはいえ現実に対して大きく異なる認識が必要に思える。

にもかかわらず、昔からの認識は大きくは変わっていない。なぜだろうか?


人類が現実を認識するのを妨げていると考えられる理由は何か?
考えなくさせる理由 その1 発展できない閉ざされた価値観を持ち続けている

数百年、数千年も前の人々が持っていた知識、考え、経験、理解等を今も先祖からの遺産のように思い、大切にし、そのまま受け入れ、受け継いでいるのは人類の大多数のように思える。受け継ぐことが大切なものも部分的にはあるが、単純に先祖からの教えだからと内容を吟味もせず、受け入れることが当然のように考えられてきた。

しかし、当時の知識、情報量は現代のものとは比較にならないほど少なく、その多くは古い時代遅れのものになっている。

昔からの価値観で、考えで、認識で現代を、今を見ることは重大な間違いであるように思える。

ウィルスどころか細菌の存在も知らず、衛生に関する知識もなく、数百年前まで病気の原因は悪霊であるとされ、医者として祈祷師が悪魔、悪霊払いを行い、効能のわからないものを薬として与えていた。そうした時代の認識の元を今に引き継いでいることは異常に思える。

ここに人間としての在り方に改善が見られない主な理由があるのではないかと考える。

なぜなら、当時の認識はその時代の知識、考えに基づき、わからないことから、信じるしかない状況があった。それは発展できない閉ざされた価値観を持つことであり、その閉ざされた価値観の中で様々な慣習、儀式などが作られてきた。それを今も大切に持ち続けている。

信じることに知性はいらない。知性で追求しても答えはないからだ。信じるためには、どこかの時点で、妥協し、諦めるしかない。昔から、今も、未来でも、わからない、答えが無いという現実が存在する。永遠に渡って真実を追求することが人間の定めに思える。

昔から人は考えることをせず、諦めてきた。答はないからで、それが信じる、信仰に結び付いたと考えられる。だからと言って、発展できない閉ざされた価値観をそのままにして良いわけはない。この価値観を放置してはならない。

科学が進歩してきたのは、それを扱う人々に真実を追求する姿勢があったからだ。
進歩するのは、情報を得、考え、今までの考えに間違いを発見し、反省し、改善しようとする結果である。

人間としての在り方も、同じように考えれば、改善できるのではないか?
間違いを認め、反省し、改善するなら、人類に新たな道が開けるかもしれない。

人類はそうしてきたのではないか? 戦争が悪いと反省したではないか?
答は、違うように思う。

反省は人間自身に向けられなければならない。戦争が悪いのではない。「人類の敵は人間の愚かさにある」と書いた理由がある。
戦争を起こした人間に反省は少ない。戦争が悪いからと思っている人が大多数に思える。反省してもすぐに忘れる。時間が経てば、世代は代わり、忘れられる。

人間は、優越感を望み、好戦的であり、争いを好む。それは昔から変わっていない。この部分を改めない限り、人類に根本的な変化を望めない。

「全てが教えている」と書いた。入力される情報に敏感であれば、何かに気付き、考えるようになるかもしれない。何でも当たり前のこの世界で、考えることは大変なことなのかもしれない。人類が人間として進歩するためには、人間としての考える教育が欠かせないと思う。

(1世紀当時のキリストや弟子達を現代に招待して最先端の科学技術を見てもらったらどう反応するだろうか、シリーズ7は、考える上での参考になると思う。)



人類が現実を認識するのを妨げていると考えられる理由は何か?
考えなくさせる理由 その2 人類の愚かさ 優越感

人間は、優越感を望み、好戦的であり、争いを好む。それは昔から変わっていない。この部分を改めない限り、人類に根本的な変化を望めない。

これは人間が持っている能力、存在そのものが愚かであるという意味ではない。

作られた個人の認識、作られた人類としての認識に多くの間違いがあるのに、それに気づかず、逆に正しいと考えていることの愚かさである。

利己的という言葉はよく使われるが、何が利己的にさせるのかがわかっていないように思える。
戦争をしてはならないと言いながら、戦争に駆り立てるものが何かわからず、反省ができていない。正義のためと言っても、正義が何かがわかっていない。平和のためと言っても、平和が何かがわからない。敵と言っても相手のことだと思っている。争いの原因は何か、怒りの原因は何か、みな相手にあると思っている。

「人類の敵は人間の愚かさにある」と書いた。ここで言う愚かさとは、人間の持つ優越感のことである。人間が優越感を良いものと考え、大切にし、育ててきたことに重大な間違いがある。

優越感は人間が利己的なる原因、争い、戦争の原因、高慢になる原因、偏見、思い込み等の原因である。


優越感とは、他と比べ優れている、秀でていることで、競争の原理に使われてきた。
他の人と比べ優秀であること、学校で成績が良い、運動神経が良い、能力が優れている等と表現されることが優越感をもたらす。

競争があるから進歩があると考えられてきた。自由があるから競争を楽しめる。
当たり前、当然、皆そう思っている。しかし、ここに重大な間違いがあるように思う。

人間は生まれるとすぐに生存競争に巻き込まれる。子の親は将来、子の行く末を思い、優秀な大人になることを願う。有名大学に入るため、スポーツ選手になるため、親の願いを込めて、英才教育が始まる、

安定した収入、職業、豊かな生活、優雅な生活、地位、名声を得るためである。
他人との差をつけ優位に立つためである。
様々な部門で一番になることは大衆の注目を集め、マスコミも取り上げ、話題にもなる。利益優先の世界に利用される。

その考えの背後には、生き残るために強くなければならない、百獣の王ライオンのようにという弱肉強食(弱者の犠牲の上に強者が栄える)という考えがある。幼い頃そう教育された。

しかし、優越感を満足させようとすることが、幻想を作り出している。
大きい、小さいは比較対象の世界。金持ちになるにしても、切りがない。いくらあれば金持ちなのか? 金持ちになっても、その上の金持ちがいる。
富がどれ程あってもそれだけで満足することはない。あればあったでもっと欲しくなる。あれば失う恐怖に悩まされる。
仮に有名人になっても、どれ程財産を築いても、人は永くは生きられない。全てをこの世に置いていくことになる。そして時間の経過と共に、その世代と共に、すべてが忘れられて行く。

偉い人になる必要はない。偉い人などいない。偉い人ではなく、他人のために役立つ人になることが大切だ。

優越感は幻、幻想を作り出す。

現在絶滅が危惧されている動物はたくさんいる。かつての強い代表格のライオンは絶滅危惧種になっている。

地球上の全ての生命が絶滅するほどの核兵器を持ちながら、なお強い国を目指すことの意味はどこにあるのか?
強いことは優越感を持つことに過ぎず、優越感は破滅に至る自己満足に過ぎない。

全世界の軍事費を人々の支援を目的に使うことができれば世界を、人類を多くの苦難から解放し、救うことができ、人類に新たな道が開ける。優越感を無くせば可能である。

優越感を無くすことはできないか?
人類が問題を理解できれば可能である。今までの間違いを認識し、改め、新たな人間教育を始めることだと考える。

幼少の頃から、優越感を減らす、無くすための教育、大人が模範を示すようになることが必要で、幸せは、物の豊かさではなく、心の豊かさであることへ認識を変えなければならない。

人間は、高度な知能を持つ知的生命体であり、奇跡を越えた素晴らしい存在である。その存在を惨めなものにしているのは、人類の愚かさにある。そのことを皆が認識し、改善するようその歩みを改めることが急務であると考えるが、不可能に近いことなのかもしれない。




人類が現実を認識するのを妨げていると考えられる理由は何か?
考えなくさせる理由
その3「賢い人は心の支配者、愚かな人は心の奴隷である。

- - - Publilius Syrus プブリリウス・シルス

ウィキペディアによると、シルスは紀元前1世紀ローマ帝国ができる前のユリウス・カエサルの時代にローマにイタリア人の奴隷として連れてこられたシリア人の作家である。

今回人間性に進歩が見られない理由として、人間は感情に支配されやすく、多くの人が心の奴隷となっていることを説明しようと考えた。
ところが、何が心なのかと考え、調べてみると、答えが明確でない。感情という言葉もよくわからない。
今までわかっていると思っていたことが、改めて明確でないことに気づいた。心とは何か? 感情とは何か? なぜ感情はあるのか、を明確にする必要がある


人間は生まれた時に感情はあったのか?

赤ちゃんが泣くのは意思表示であるが、まだ個体が存在していることも、その意識もないのに脳は働き、育てている。
人間が赤ちゃんとして生まれてから食べたい、眠い、オムツを変えてとオギャアと泣いて訴えているのは脳の働きと理解できる。

反応には、痛い等の不快なもの、快いものに対するものがあると考えられる。様々なそうした反応の記憶は脳に感情として認識させるのではないか。個体の脳が、赤ちゃんの時から人間として思考と感情を持つよう育てているのではないかと考えられる。

シリーズ6 「美しさのついての考察」の中に、「美しさはないが、美しいと感じることは現実にある。美しいと感じるのは、個人の認識がそう反応するよう作られているからだ」と書いた。ここに感情を持つ理由が書かれている。

これが正しい理解であれば、この理解を発展させ、次のように表現することができる。

様々な感情は人間が成長していく過程で認識として作られる。「感情は脳がそう反応するよう作り上げた認識」である。言い換えるなら、感情は脳の働きの一部として機能している。
脳(の一部)は思考と感情の両方の働きをしていて、感情と思考の源であると表現できる。このことから、「人の心とは、人の持つ思考と感情によって構成された認識のことである」と表せる。

心臓等の臓器に心があると考えた時代もあったが、脳が体全体を運用管理していることが明らかになっている現在、仮に臓器の働きと関係しているとしても、その元は脳にあると考える方が適切に思える。

これは新たなことばの定義になるかもしれないが、これで話を進めてみる。

シルスの時代では心を感情という意味で使っていたと思われるので、これを前提にすると以下のようになる。

「賢い人は感情の支配者、愚かな人は感情の奴隷である。」

2000年以上前の人がこのように表現していても人類としてはそこから多くを学んでこなかったように思う。人類の多くは今も愚かなまま、感情の奴隷となっている。
人類の在り方、教育に問題があり、修正されることがなく今に至っているからのように思える。

メディアによるコマーシャル等の宣伝は人の欲望に働きかけ、欲しくなるよう感情に訴える。現代社会全体が利益を優先してきたからで、人間の感情に訴え、優越感を刺激する。より良い生活、贅沢、富、名声、財産を求めることが幸せであるかのように宣伝する。
人間としてあるべき方向とは逆であるように思える。

なぜ感情に訴えるのか?
感情も脳の働きの一部ではあるが、その人を思い通りに動かそうとする。感情の反応は早いから、説明するより効果的である。思考を十分に伴わず、先走り、すぐに反応する。感情は優越感に刺激され、目的を達成しようとする。
この世は利益優先の社会であるから、感情を利用しない手はないと、利用されてきた。

願いは感情に直結している。
美しくありたい。豊かな生活、優雅な暮らしをしたい。美味しいものを食べたい。高価な装飾品を身に付けたい。あれも欲しい、これも欲しい。
すると、感情が思考を支配するようになり、その感情を満たすために、人は考え、計画し、実行するようになる。

犯罪が起きる背景には、まず見る等の入力により欲望が起こり、感情が欲望の虜となり、感情が思考を支配して、感情を満足させるために思考が計画を立て、実行に移す。自動制御が利かなくなり、あるべき自分を忘れることも多い。ニュースになる性犯罪、悪質な怒りによるあおり運転等も感情を制御できなくなることによる。

醜い、憎い、嫌いという感情は、相手の悪いところを探し、見つけ、正当化する。個人だけでなく、国、民族に対して憎しみという感情が作られ、思考が影響を受け、戦争になると、敵として殺しあう。

(ここで気付いたことであるが食欲、性欲、睡眠欲は欲望で、感情を支配することもあるが、感情そのものではない。人間が生きていくために、産まれたときに既にプログラムとして備わっているものであり、別に考える必要があると思われる。)

いずれにしても感情が思考を支配することのないように制御することは必要で、シルスが「賢い人は感情の支配者」と書いた通りである。
人間が感情に支配されることは、様々な問題が生じる原因であるからだ。

困っている人を助けたいという願いがあり、感情的にそう反応していても、行動は思考により制御される必要がある。感情に流されることは賢いことではない。
思考により状況を把握し、全体を見ることは賢明なことで、個人持っている時間、経済力、計画なども考えることが必要である。感情を制御することは賢いことである。


感情は作られた認識の一部であるが、人の感情は作られる過程がそれぞれ違う。
五感を通して入力される刺激に対する人の反応は似ていても同じであることはないと考えられる。感情が何かを知り、教育がどのように関わるかを見極める必要があると考える。



人類が現実を認識するのを妨げていると考えられる理由は何か?
考えなくさせる理由 その4 ことばの認識の問題 (法律)

最近、あおり運転を取り締まる法律ができて、悪質な運転が規制されたことを喜び、安心する人は多いと思う。しかし、人間をここまで規制しなければ、人間はわからなくなっていることに問題がある、と思う人はいないのだろうか?
法律であれもこれも取り締まりの対象にすれば、世の中良くなるのだろうか?

人類が今に至るまで文明を進歩させてきたのは、人間に高度な知能があるからであるが、長い間、人間は動物と同じように知能の低い生き物として扱われ、今でも動物並みに扱われている場合もある。

人間が奴隷として使われてきた歴史がある。奴隷と言っても時代や地域によって、意味にも扱い方にも違いはあるが、数百年前アフリカでは人間狩りが行われ、人間は奴隷として売るための商品にされ、欧米で売買されていた。
米国では南北戦争中の1862年9月リンカーン大統領により奴隷解放宣言が出され、奴隷制度は廃止されたが、およそ160年経った今でも、人種差別として影響は残っている。
2014年の奴隷状態の人口は世界で3600万人と報道されている。

奴隷を教育すれば、「同じ人間だ、自由だ、平等だ」等と言うようになるから、奴隷に考えさせてはならない、教育をしてはならない、という風潮があった。

躾(しつけ)の問題点

躾は、躾の対象に考える力、能力がなく、知能が低いという前提が必要である。動物であれば躾の対象になる。しかし、人間を対象にするのは間違いである。

人間を動物と同じように躾ることはできる。それが効果的な方法だと思われてきた。自分も躾られて育った。躾は正しい教育のように考えられてきた。しかし、躾は重大な間違いであると考えるようになった。

人間の知能に対する理解に重大な間違いがある。人間には学習する能力があり、自分から学ぶ。人から強制されるからではない。このことに長い間、気付かなかった。今も気づいていない人は多いと思う。

飴(あめ)と鞭(むち)

子供に欲しい物を与えて、あるいは買ってあげるからと言って、言うことを聞かせる、従わせることはその場しのぎにできても、子供は肝心な理由を知らないままであることになる。

厳しく扱うことで従わせることもできる。しかし、子供は自分の思考力を使わず、なぜ、どうしていけないのかを考えなくさせる。従わせることで子供は考えなくなり、応用する力を失うことになる。

禁止されたことは守っても、自分から考え、判断し、行動していない。つまり、自分の意思から行動していない。禁止されていなければ、やっても構わないという考えになる。
小さいときから規則で縛れば、自分で考え、判断する習慣が作れない。

責任を自覚するのは、自分で考えるからであり、強制されるからではない。

法律は違反者に対して意味があり、一般人を犯罪者から保護する上で役に立ってきた。しかし、その考えだけでは社会は成り立たない。

オレオレ詐欺が横行し、様々なメディアを通して「騙されるな詐欺に」と警告が発せられても、取り締まりを厳しくしても、改善されないのはなぜか?

たくさんの理由、言い訳があり、簡単には答えることは難しいかもしれない。

こう質問してみよう。
何が人間の信頼を築いているのか?
何が人を大切にさせるのか?
何が人間としての誇りを持たせるのか?
何が人のために生きるように励ますのか?
人類愛を強めるのは何か?
そうした思いを強めるのは何か?

人間が誠実で、隣人愛があるなら、細かな法律がなくても愚かな行為はしない。人に対して感謝の気持ち、敬意があるなら、間違いをしたとしても、反省し、改善することができる。良い模範、大人の模範があれば、子どもはそれを見習う。

道徳、宗教は社会に秩序を与える社会規範とされてきたが、すでにその働きは失われてきている。時代の流れが、閉ざされた価値観、人間の持つ優越感、感情で行動することが間違いであることを伝えるからである。それはこれまで人間を人間らしく動かしてきた規範が機能しなくなっていることを意味している。人間としてふさわしいと思われてきたことが崩壊し始めている。

誤りを正すことは必要であるが、今までの規範に代わるものが求められている。

今必要なのは、2兆の銀河の存在を認識することにふさわしい、人類の在り方、人間としての生き方であるように思える。
井の中の蛙のように、地球という自分達の世界だけにとじ込もっていれば、宇宙という世界を見なくても生きていけた時代はすでに終わっているように思える。新たな時代に合った規範が求められている。

責任を自覚するのは、自分で考え、判断し、決めるからであり、強制されるからではない。

人間の社会は互いに助け合い、協力し合うことで機能している。すべての人がそれぞれの責任を果たすことで成り立っている。
その責任を自覚するためには、教育を基本から見直すことが必要に思える。
教育により人間として必要な情報提供がなされ、人それぞれが考え、判断し、決めるようになるためである。
人間の思いやり、助け合い、感謝等、人間の素晴らしさを認識することが必要に思える。

責任を果たすために信頼は欠かせない。信頼を築くために、約束を守る。
約束をする前に、考える。果たせない約束はしない。模範を示す。
全ての人が真剣に取り組むことが必要に思える。


ウィキペディアによると、
しつけは社会性の教育であって「大人(保護者)の都合」を子供に強いるための行為ではない。児童虐待で逮捕された親の多くが取調べに対して「しつけだ」と弁解しているが、そのほとんどにおいて主張の妥当性は認められず、暴行であるとして有罪となっている。




人類が現実を認識するのを妨げていると考えられる理由は何か?
今回もその4. ことばの認識の問題(続き)である。

人の話を聞く、本を読む、ラジオを聞く、テレビ、スマホを見る等を通して得られる情報を理解できるか、何かを学べるかは成長過程における人の持つ知力、学習能力が関係する。そこに重要な意味があっても、内容や価値がわからなければ、猫に小判と同じになる。

ことば(言葉)とは何か? 
ことばで考えているのに、そのことばの働きがわかっていない人は多い。 言葉は単に言語だと思っている人もいる。

このサイトではテーマとしてことばの認識を取り上げ、ことばの定義が曖昧なこと、また理解にたくさんの誤りがあること、ことばの不備に考えなくさせる理由があり、思い込みでそう思い込んでいる考えに重大な問題があると指摘してきた。

ことばにどれほど問題があるかを考え、気付き、理解し、改善することがことばの理解における進歩である。以下はこれまで取り上げてきたことばの認識に問題があると考えた例である。

正義はないが、思い込みとして存在する。問題を起こす原因にもなり、破壊に至る理由でもある。正義を主張すれば問題がこじれ争いになる。

人権は地球上で人類が作り出したものであり、初めからあるものではない。地球上で権利を主張できても、地球外では人類の主張に正当性はない。人間の世界だけでの話である。

美しさは思い込みである。作られた認識で美しいと感じる。認識が作られる過程で人の持つそれぞれの美しさが決まる。

感情は人間が産まれてから脳により快い、不快という反応に対して作られた認識の一部である。

とは何か?
愛ということばの定義が曖昧で、富を愛する、不義を愛する、敵を愛する等と表現される。
あなたを、人を、愛すると言っても、あなたとは、人とは何かがわかっていない。漠然とわかったつもりでいる。

は人間の思い込みが作り出す幻である。
敵を愛することはできない。敵は元々いないからである。勝手な思い込みから敵は作られる。昨日の敵は今日の友になる。

という言葉は様々な対象に対して使われてきた。昔と今では意味する内容には大きな違いがある。人類の無知を象徴することばである。
人類には永遠にわからない、答えのない、答えを得られないことがある。

自分とは何か? 二つに分けて考えることができる。
脳が作り上げた思考と感情による認識が、自分という意識、自分という存在を作り上げている。もう一つは、自分の意識で動かす体とその体を自動制御している脳のことである。

とは何か
命をかけがえのない大切で貴いものと思っていても、それは思い込みである。
凶悪犯罪を犯し死刑になった人の命は同じ命か? 子供を虐待し殺した親の命は殺された子の命と同じ命か? 命が大切ならなぜ死刑があるのか?なぜ戦争で多くの命が失われるのか? 

教えるという言葉には教訓を与える、諭すという意味はない。情報を伝えるという意味に限定すべきである。




人類が現実を認識するのを妨げていると考えられる理由は何か?
その5回目:思い込みである「美しさ」は「偏見、先入観、固定観念、決めつけ」のことか?

以下は三年前に「美しさについての考察」と題して書いたシリーズ6の作品の初めの部分である。

「美しいものはある。それは見る人の感情としてある。そう感じる人には、感情から人の思い込みとなって美しさは作られるからだ。思い込みとして実体である美しい花、景色、人、絵などが存在する。」

辞典によると、思い込みとは、そう思い込むことの意味で、既成観念、偏見、固定観念、先入観、偏った見方、決めつけなどの意味である。(三年前に調べた時の内容)

美しさは「偏見、先入観、固定観念、決めつけ等」と書いたことになる。


美しさは「偏見、先入観、固定観念、決めつけ等」という意味になると書いたが、それは適切な表現なのだろうか?

そのシリーズの説明の中で、美しさは子供の頃には無く、成長の過程で脳が作り上げた認識であると書いた。

人それぞれの認識は育つ環境の違いから入力される情報は異なり、結果として皆違う認識(思考と感情)を持つことになる。人それぞれ美しいと感じる感覚も対象も違ってくるのは当然のことであると。

美しさは、当人が美しいとそう感じるのであるから、それが独断であれ、偏見であれ、決めつけであっても、別に誤りということではない。他人によってトヤカク言われる筋合いではない。美しさは作られた認識のことであり、人によって違いがあるのは当たり前である。

すると、当人が美しいと感じることは偏見、先入観、固定観念、決めつけであっても、何ら問題はないことになる。ただし、適切な表現と言えるかは別に思える。

問題があると感じさせるのは、他に理由があるからのように思える。
認識の違いから生じる差をなぜ「偏見、先入観、固定観念、決めつけ等」にするのだろうか?

そもそも、こうなった経緯は、美しさは思い込みであると書いたことが始まりで、思い込みという言葉の意味を調べたことによる。

美しさが思い込みという作られた認識であることに間違いは無い。その認識に違いがあることは当然で、「偏見、先入観、固定観念、決めつけ等」であっても、あるべきこととして受け入れられるべきである。

しかし、思い込みが「偏見、先入観、固定観念、決めつけ等」であるという考えには間違いがあるかもしれない。

違和感に感じたのは、少なくとも以下の二つの理由があると考えられる。
1.思い込みを全ての思い込みと判断したことによる。全ての思い込みのことを指しているのではない。美しさは思い込みの一つに過ぎない。
2.「偏見、先入観、固定観念、決めつけ、偏り等」のことばの意味に変化が生じているからではないか。

2.の説明:
もう50年以上も前になるが、当時個性的であることは間違いのように思われていた。皆と同じであることが求められた。誰でも皆と同じであれば安心した時代であった。
社会では、他人と認識が違うことを一方的に「偏見、先入観、固定観念、決めつけ、偏り等」として、攻撃する傾向があった。

しかし、人が統一した価値観を持つこと自体が本来無いのであれば、つまり人それぞれの持つ認識は元々違うのであれば、それを偏見、先入観、固定観念、決めつけ、偏り等ということばで表現することに間違いがあるのではないかという質問が生じる。

偏見などの言葉は具体的に何を示しているのか・・・
それは・・・認識の違いに対する人間の持つ許容範囲を示している

許容範囲の狭い人にとっては、認識の違いを偏見、先入観、固定観念、決めつけなどと一方的に非難するかもしれないが、許容範囲の広い人はそれを面白い、興味深い、楽しいと捉えることもあるということになる。

そんなことも知らないの? それ常識でしょう。なんて非常識な、などの表現も許容範囲の狭いこと、常識の範囲の狭さを示しているように思える。

そのような表現は時代遅れの考えに基づいていて、現代では受け入れがたい言葉になり、皆と同じであることを強く求めていた時代は終わりつつあることを意味しているのかもしれない。


以前より思い込みを修正する必要があると考えてきた。人類には、戦争のような悲惨な結果をもたらす閉ざされた価値観があり、優越感が敵のような存在を思い込みとして作るからである。ただし、美しさを含め全ての思い込みのことではない。

敵、味方、戦争、平和、神、悪魔、死、命、正義、人権など、ことば(単語)は抽象的な概念を表すものを含め、人間が作り出したものである。その意味が正確にわからず、時代によっても意味が変わることもあり、勝手な解釈により大衆を暴走させてきた歴史がある。

それ故、そのことばの意味を人間社会のために適切に理解し、認識することが必要であると考える。

今までは否定的な意味で使われてきていても、人が持つ偏見、先入観、固定観念、決めつけ、偏りなどの表現は、病気等により極端に走らない限り、あるべき当然のことであり、これからは肯定的に使われることが望ましいと考えられるようになるかもしれない。

ただし、美しさのようにそれ自体は問題はなくても、周りには美しさをお金に換算し、利益追求する悪徳業者も、騙す人もいる。
美しさを思い込みとしてそのまま残すためには、他人の評価を気にせず、値段で価値を考えないことが必要なのかもしれない。




5.思い込みの背景について考える
 考えはことば(情報を取り扱うシステム)でできている。その媒体である文字、数字、単語、文章、絵、映像、音楽などが使われる。なぜ思い込みが作られるのかをことばから考えてみた。(考えが足りないと思えるため修正中)


 修正中のため略 

実体のないものはたくさんある。それを正確に理解することは困難に思える。

ニュースを報道するテレビ局や新聞社はそれぞれ独自の方針、思想やイデオロギーを持っていると言われる。ニュースは偏った見方の影響を受けて大衆に伝えられる。



人間に偏り(バイアス)のない状態はあり得るか?

人間は初めから人間としての枠、定め、限界がある。人間の入力装置に当たるのは主に眼などの五感であり、補強することは可能であるが、その人間の枠の中でしか認識することはできない。

ものを見るにしても物理的な制限を初めから受けている。物に色が見えるのは光が虹色の元である白色光であるからで、物により吸収されない光が反射するからである。その光がなければカラーはない。

人間に物理的制限が無いなら、見ることの意味さえ失われてしまう。

つまり見ることを含め、人間に偏りの無いという条件はありえない。人間としての枠の中でという偏り、つまり限界があるためである。偏りの無い考えは無い。全てに偏りの影響はある。 

認識は人の思考と感情から作られるが、思考も感情も脳が作り出すもので人それぞれ生まれてから違う環境で育つために、多少であってもそこに偏りが存在する。多少の情報があるかないかでも偏りは生じる。

偏りがあるから個性があり、違うことで皆が楽しめる面もある。

それをわきまえていること、わきまえた上で見、考えることが必要で、偏りはあることを前提に平衡の取れた見方をすることが大切であるように思える。

初めに指摘した、発展できない価値観に関連するが、
完全なもの、絶対的なものとして信じて疑わない時、思い込み、思想、イデオロギー、信仰などは、進歩することの無い、発展できない閉ざされた価値観になる。
そこに改善の余地があるなら、信じていることが間違っていることになる。

しかし、人間には限界があり、その判断力にさえ間違いがある。完全、絶対であると思うことは、人間の限界を無視することである。

閉ざされている価値観を正しいと信じれば、排他的になる。人間の排他性は恐ろしい結果を招く。敵を作り、戦争を始める原因になる。 

人の持つ意見とは何か? 考えのこと、主張のことでもある。
それが閉ざされた価値観の影響を受けていれば、改善することが難しいという意味である。

話し合いにおいて意見を出し合うのは、間違いを見つけ、改善し、進歩するためである。

自分の意見を主張するだけでは、言い合うだけになり、口論になり、話し合いの意味は無くなる。そこに進歩はない。話合いの前提に、発展できない閉ざされた価値観を持っていないことが必要である。

あるテーマに対して賛否両論があると言っても、一人ひとりの認識は違う。中立とは両論の中間に立つことのように思えるが、両論の中にいては、中立はない場合もあるように思える。独自の考えを持つことで、両論に組しないことはできるかもしれない。

争い、足の引っ張りあい、権力闘争は政治の世界でよく見られるが、考え、思想、イデオロギー、信仰などの違い、利害関係も関係するように思える。いまだに人間の社会のあるべき姿が確立されていないことは、問題が生じる理由である。

人間が社会を作るのは、人間が協力し、助け合い、安全と平和と繁栄を得るためである。そのために皆が信頼し合う世界の実現が望まれる。現状が人間のあるべき姿とはとても思えない。

先ずは現状を認識することから始める必要があるように思う。


マイケル アレフ 2020年10月