思い付き ★ 10 「できる、できない」ことの意味について考える

 1.赤ちゃんの歩行するようになる過程
 2.「できることは大切なことと教えられてきたが、できるとはどういう意味か。
    ・必要とされる状況によって、基準は違ってくる。
 3.なぜできないことを悪と思う人がいるのか、なぜそう反応するのか。
    ・できない理由を理解する。

1.赤ちゃんの歩行するようになる過程

生れた頃の赤ちゃんはよく寝ている。数か月もすれば手足をバタバタさせるようになる。眼も見えるようになる。寝返りをするようになる。親の声にも反応を示すようになる。半年も過ぎる頃からかハイハイすることを覚え始める。やがて物を伝わりながら歩くようになる。何度も転ぶが、やがて歩くようになる。およそ1年かかる。すべてが脳の発達と関係しているように思える。

歩くようになる過程で、子どもは何度も転びながら、反復しながら、学習している。

人は失敗する中で学び、反省し、改善するようになると思ってきたが、
赤ちゃんが歩くために何度も転ぶのは失敗だろうか。間違いをしていることになるだろうか。失敗を反省しているのだろうか。・・・ みな違うように思える。

赤ちゃんにとって、転ぶのは失敗ではない。反省ということばも知らない。間違いということばも無い。改善しているのでもない。これらの表現は大人が作り出したことばである。
これらの行動はすべて脳による学習の中に含まれるように思える。

これが小学生だったら、歩けないのは普通ではないように見えてくる。
大人だったら、歩行に問題を抱えているように思える。

できなかったことができるようになり、それが当たり前になっていく過程に問題はないように思える。問題に思うのはその後のことだ。

歩けるという基準ができると、できないことは基準に外れる。するとできないことになり、異常に感じる。異常に感じることは大切である。黄色の信号で、注意が必要であるという意味である。

問題はそれ以後にできた基準に基づく、できないことに対する見方のことである。

失敗は成功の元ということばがある。
失敗があって、学び、反省して、進歩する、そして成功に進む。
大人が作った表現としては、問題はないように思える。

失敗を誤り、改善点と捉え、成功に至る過程であると考えれば、ことばの受け取り方として問題はないようにも思える。
一方、失敗を改善点、反省、進歩、成功に至る過程と考えれば、失敗、誤りという表現ではなく学習であると表現できるのではないか。

赤ちゃんの歩行までの過程を考えると、成功に至る過程は同じように学習であるように思えてくる。
失敗という表現は、考え方にもよるが間違っているのかもしれない。つまり、誤りや失敗など初めからないのかもしれない。

辞典には
やりそこなうこと。目的を果たせないこと。予期した効果をあげられないこと。しくじり。
「試験に-する」 「 -の原因」 「 -談」 「彼を行かせたのは-だった」とある。

基準を作るから失敗になる。時間を限定するから失敗になる。限定せず未来を考えれば、失敗ではないかもしれない。
成功するために失敗することは必要であるのだから、失敗は学習と捉えることが大切なのではないか。

反省は必要であるが、失敗だからではない。進歩するため、進歩するという学習能力があるためである。


成功する、失敗するとは、できる、できない という意味にも思える
目的があり、それに達すれば成功であり、届かなければ失敗である。


2.「できることは大切なことと教えられてきたが、できるとはどういう意味か。

人は「できる」と評価されることが重要であるという世界に住んでいる。
できるとは、資格を持っていること、比較されてより高く評価されることである。
できると言っても様々な基準がある。

また、資格は昔取って持ってはいても、今その実力はない場合もある。また資格を取っていなくても実力のある場合もある。実力があり、できると思われる人でも、できないと思っている人もいる。持っている目標や謙虚さも人間性も関係するように思える。

子供の頃、親、先生、大人が「できることの意味について」話しているのを聞いた。それにより、子どもは、教えられたわけではないが、何が大切かを学習した。

学校で授業を受け、共同生活していく中で、同じクラスの生徒であっても、「成績の良い人、悪い人」「頭がいい人、悪い人」「運動のできる人、できない人」などがいることに気付き始める。

子供達は先生や親が自分たちを評価の対象にしているのを見てきた。

それは、現実を見ることを通して学習し、学んでいる結果である。比較することを学んでいる。「できる、できない」は比較することの意味でもあると考える。

大人の模範、話の内容から、子どもは「できること、できないこと」の違いに気づく。
成績について子供は通知表で自分の成績を知る。親から他の子どもと比較され、「できない」ことを叱られることもある。この経験を通して子供は学んでいく。

親が成績の良いことを、「勉強ができる」と考えることが、子どもに「できることの意味」を学習させる。子供には親の期待に答えたいという願いを持つ傾向もある。

100点満点を取ることが、最高の評価となり、良い成績となる。できることの証である。
しかし、評価とはその時の評価であり、成績の良い子は時間をかけて予習、復習していたかもしれない。予習、復習しない子との差は当然できる。それに基づく評価に違いが生じるのは当然である。

スポーツの世界では、より早く、強く、賢くできることなどが評価の対象となる。
どれだけ早く泳げるか、走れるか、高く跳べるか、などで評価される。努力する人がよりよい評価を受けることにもなる。
単に生まれ持った能力の違いだけではない。勤勉さ、意欲、支援、環境なども関係する。

基準は作るからあるのであり、作らなければ無いものである。
評価の基準を作ったことで「できる、できない」に分けてきたと考えることもできる。


「誰が大きいリンゴを描けるかな?」の終わりに、比較することの問題について以下のように書いた。

「比較することはとても便利だ。成績も100点満点で評価される。

30点ではマイナス70点、平均点が40点だから皆成績が悪い。90点取ったあの子は頭がいい。でも30点もとれたのに、良い評価には入らない。

知らないうちに点取り虫になってしまった。
学ぶ内容より、成績の方が大事になってしまった。
良い成績をとるために勉強するようになった。

親は成績の比較で子供を見、成績が良いと喜んだ。
子供を比較することで、自分の子どもの持つ特質さえ見えなくなった。
学ぶ内容、そこから得られる教訓より、成績の方が重要になってしまった。

親は皆忙しく、内容まで見ていられない。結果だけで判断するようになった。

過程に注意を払わなくなった。そのうち子供の学ぶ内容が進み、自分たちの手に負えなくなった。塾任せになった。

確かに比較される世界の中では、良い評価には大きな意味を持つ。何々大学卒というだけでその人を見る世間の評価が変わる。見方がかわる。就職先にも影響する。どれだけ給料がもらえるかにも影響する。将来出世できるかどうかも。

人の比較は優越感を生むと同時に、劣等感も生む。
でも知らぬうちに、比較することでしか評価できなくなってしまった。

自分の幸せも、人との比較で考えることが多い。
豊かさもどれだけ所得があるかを比較して考えることが多い。
収入の比較、持ち物の比較、高価なもの、家、高級車、ブランド品を持っているかどうかが大事になった。
人に見せるため、自慢するため、優越感に浸るため、人を見下すために。

比較しているうちに大切なことを忘れてしまった。
物事の存在の意味を。存在そのものの大切さを。

子供はその出来の良さ悪さで比較されてきたが、
本当は一人一人の存在こそが大切だ。
比べることではなくその子自身をよく見てみよう。
その存在こそが重要な意味を持っているのだから。」


・必要とされる状況によって、基準は違ってくる。

不思議に思ったことがある。現役で働いていたころ、米軍基地の小学校で「日本語がわかる人?」と質問すれば、ほとんどの子の手が挙がるのを見た。日本の小学校で「英語がわかる人?」と質問すればほとんど誰も手を挙げないだろう。日本人の完ぺきでないとできることにならないのと違い、米国人は少しでもできればできることになる。これは文化から来る認識と、積極性の違いと考えた。
 
「おはようございます。」を知っているだけで、日本語ができると思う米国の小学生がいる。少しできれば、できることになる。その基準が成り立つ世界はある。

プロの通訳として働くためには、それなりの基準がある。
できると言っても必要とされる状況により、レベルには違いがあり、英語が少し話せるだけでは仕事を任せることはできない場合もあるということである。
できない人には、よりできる人は、みなできるように見える。
プロから見たら、できるように見える人でも、十分でないと評価される場合もある。

人は比較の世の中に生きていて、便利な面はあるが、それがすべてではない。

基準は作るからあるのである。
美しさの基準さえある。善悪、正しさの基準もある。成績の良い、悪いという基準もある。
頭がよい、悪いという基準もある。

できる、できない、の基準も人間が決めたものである。
何ができるのか、何ができないのか。

いつも最高の評価、完璧であることを基準に考えさせられていると、それが習慣となり、完璧主義の傾向が生まれる。完璧という視点で物事を見るようになり、完璧以外はできないと思うようになる。

良い成績、良い学校、有名高校、有名大学、就職先も有名商社、将来の官僚、などと完璧な道を進むことが望ましいかのような錯覚が生まれる。

少しでもできればできることになる。すべてできないとできることにならない。

皆があると思っているのは、思い込みによるもの、人間が創ったものであるものが多い。
実際には無くても、あるとみんなが思っていれば、あることになる。
昔からあると思っていたことが、今に至るまで常識になっているものがある。
無いと言えば、非常識と言うことになる。真実という現実に向き合うことが必要であると考える。
無いものもたくさんある。
恐怖も関係する。恐れは、幽霊やお化けの存在を作り出す。人間の想像でなんでも作り出す。
想像して作るまでは意味があるにしても、その後、その存在にコントロールされてしまっては想像したことによる弊害となる。


3.なぜできないことを悪と思う人がいるのか、なぜそう反応するのか。

それはできることが良いこと、できないことが悪いことと教えられ、そのように学習させられてきたからではないか。

日本では昔から個性が否定される傾向が強く、皆が同じであること、常識に従うことが正しいとされてきた。人と違うことが極端に否定されてきた。同じ行動ができないと、戦時中は非国民と言って非難された。
個性が否定され、皆と同じであることが重要視されてきた。


・ できない理由を理解する。

人は生まれながらにそれぞれの能力は違う。

あることに優れた才能を示す子もいれば、そうでない子もいる。
比較対照することにより、できる子、できない子に分ける必要はあるのだろうか。
それは子供の意思とは関係なく、生まれ持ったものかもしれない。

大人が「できない」という評価を下すことに意味はあるのだろうか。

「親の出来が悪いから、子どもの出来も悪くなる」ということも考えられる。
親の模範と責任は大きいことを認識しなければならない。
遺伝的要素も関係することはあると考えられる。

子供は言い訳をすることを覚えるようになる。
自分は頭が悪いから勉強ができない、成績が悪いのだと。

これは親や大人の言っていることばの繰り返しであるように思える。
なぜ自分ができない理由を言うのだろうか。
子供は学習している。親を初め周りで比較し合っているから、言い訳を考えるようになるのではないか。

子供が「できない」という言い訳をするのはなぜだろうか。
比較されたことに対する抗議の意味があるのではないか。
本当はできるようになれるのに、できないままでよい道を選びたいからか。
「できない」とは勝手な思い込みの場合が多いのではないか。
勝手にできない理由を作り、できることから逃げ出すように思える。
子どもに問題があるのではなく、比較する大人の側に問題があるからではないか。

なぜ「できないことは悪い」という反応を示す人がいるのだろうか。
悪い手本、模範から、そのような偏見を持つようになったからではないか。
大人に「思いやる心」の模範がないと、子どもはその大人と同じ考え方をするようになるとも考えられる。大人の模範があれば、自分から「できない言い訳」など考えないのではないか。

人は学び、訓練すればたいていのことは出来るようになる。
すべてできる人などいない。誰でもできるわけではない。初めはみなできなかった。

人によっては障害を持つ人もいる。病気の人もいる。
できないことは、できないという事実があるだけで、改善も可能な場合もあり、
障害や病気も理由として考えられる場合もあるだろう。
だからと言って、できないことは悪ではない。
能力のある人は改善すればよいだけのことであるように思える。
大変な障害を持つ人でも、部分的には努力により健常者よりもできる人はいる。
できない人には助けを差し伸べればよいだけかもしれない。

必要なことは現実をそのまま受け入れることであるのではないか。

できない人を見る時に、人は弱者の存在に気付く。弱者は同じ人間である。
意図的に弱者のままにしようとした時代もあった。

人はできる、できないことを通して、人間には様々な能力の違いがあることを学んでいる。
人間の持つ特異性について学んでいる。
人間がいかに似ている部分があるかと同時に、どれほど違うかを学んでいる。
その同一性と特異性こそ人間であることから学べることである。

自分ができない、他人ができないのを見る時、それは人に対する思いやり、人の違いを考える機会とすることができる。

「できること、できないこと」の違いを学習する機会を設け、できない人をどう見るかについて考えてみる機会を作ることも必要だと考える。

人は皆、できる人できない人がいることを学習する。
得意な教科、運動など、人により能力の違いがあることを。

できないことから何を学べるか。

人には様々な能力の違いがあり、生まれつき才能に恵まれる場合も、そうでない場合もある。
できる人は恵まれているということである。
裕福な家庭に育つ、両親が人間性豊かで教育のある家庭に育つ。人は生まれた時にすでにある能力に加え、生まれた環境もそれぞれ違うものである。それは大きな違いであると言える。

できる人はできるようになれるその恵みに感謝し、人類全体のために恵まれた能力を有効に活用することができる。恵まれない人達のために自らを役立てる。感謝の気持ちを持ち、恵みを分かち合う。これができる人のあるべき姿ではないかと考える。


マイケル アレフ 2018年6月26日



2021年1月
自由に関連して正誤があるのか考えてみた。その結果を以下に書いた。

人類が誕生する前に正誤はなかった。善悪もなかった。自由もなかった。

知的生命体が存在しないなら、知能がないなら、自由はない。全ては在るがままであり、何の意味もなく、解釈も要らない。新たな情報は生まれることに意味はない。認識できる存在がないからだ。

知的生命体が存在することが、存在の意味を生み出している。

自由、善悪、人権など全ては知的生命体が存在することから作られてきた。地球、人間、星、宇宙、様々な生物、原子や電子の素粒子の世界など全ては人間の存在がなければ認識することはできないからだ。

これが現実の原点であるように思える。地球上の人間という知的生命体の存在がすべてを作っていると考えることである。

現時点では地球だけに人間という知的生命体が存在しているように見えるが、宇宙には知的生命が存在する可能性は大きい。しかし、宇宙が広すぎるために接触する可能性は、現時点では非常に小さいと考えられる。

宇宙に高度な文明を築いた生命体がたくさんいるのなら、なぜ人類に接触してくるものはないのかという質問に、物理学者ホーキング博士は文明が高度に発展すると滅びてしまうからと答えた。そうであるかもしれない。
確かに人類の歩みを見ていると、そう思える面はある。しかし、違う理由もあるかもしれない。それが何かわかっているわけではないが。 

宇宙の広さについての認識に問題はないのだろうか?
時間の考え方に欠けているものがあるのではないか?
遺伝子はなぜ存在するのか?

人類が未だ気づいていない、知らないことはたくさんあると考える。




たくさんのことを学んで大人になると、自分はたくさん知っていて、子供はたくさん知らないと思い、子供が持っている能力を軽んじる傾向があるように思う。

2歳位でことばを使い初めても、学校に行くようになっても、大人のように多くを知っているわけではない。学ぶ情報量も少なく、経験も少ない。当然できないことは多い。
できない意味を間違って受け止めているのではないか。
できないのは能力のことではない
ことだ。
単に知識と経験が未だ備わっていないだけのことである。
子供には大人以上に能力はあると考える。

大人でも新たな経験のない仕事を始めるなら、新人であり、知識と経験は未だない。新人だからと言っても、その人の持つ能力のことではない。知識と経験がないだけかもしれない。経験のある人は、先住者優先の法則から優越感があり、自分ができること、多くを知っていることが、経験のない人を見下すことになる。新人だから人間性も成長もないと思うことは重大な間違いである。

注意が必要に思うのは、単純に子どもの能力を伸ばそうとすることは間違いであることだ。能力は十分あるからだ。それ故特定の能力を持つ子に育てることは可能だが、大切なのは人間として信頼のできる、謙虚さと誠実さを持つ大人に育てることである。そこに人類の平和と安定、存続がかかっているからと考える。

親が謙虚になり、子どもの能力を認めることが重要である。親の手本があれば、子供は人間として十分に能力を発揮するようになると考える。