マイケルアレフのことばの認識は世界を変える シリーズ3 正義とは何かの考察 2017年7月 シリーズ3 見直しの結果 2021年6月〜8月 2023年 * スーパーヒーローが与える偽りの憧れ * 心と認識について ![]() 2017年7月 「ことば」の認識は、世界を変える シリーズ 3 正義とは何かの考察 正義とは何か。正義は争いの元ではないか。正義はねたみか。 友人でも、夫婦でも、親族でも、些細なことから争いになり、争いで互いに正義を主張し始めると、問題を解決できなくなる。それは破壊への道である。相手を敵のように見なし、憎しみ、破壊することを望むようになる。それも徹底した破壊である。 戦争では、人がもう住めないのではないかと思うほど、完全に破壊された跡が残る。戦争が終結し、破壊も終わった後になって、なんと愚かなことをしたのかと反省し、なぜ争ったのかと考える。 ウィキペディア(第2次大戦の犠牲者)によると 第二次世界大戦における連合国・枢軸国(日本・ドイツ・イタリアを中心に連合国と対立した国家)および中立国の軍人・民間人の被害者数の総計は5000万〜8000万人とされる。8500万人とする統計もある。当時の世界の人口の2.5%以上が被害者となった。また、これらには飢饉や病気の被害者数も含まれる。 正義は人類を保護する目的があったように思えるが、その働きには疑問がある。 歴史に残る戦争では、勝ってもたくさんの犠牲が強いられた。たくさんの人が犠牲になったという点では勝敗はなく共に負けである。力により勝つという思い込みが関係するが、本来勝敗はない。 ウィキペディアには、「聖戦(せいせん)とは、宗教的に神聖とみなされる正義のための戦争を意味する語である」と書かれている。 戦争に関連して正義が出てくる背景を考えてみると、正義は基本的に悪とか敵という対象がある時、争いの時に使われる言葉であるように思える。しかも戦っている間は、正義のためであり、聖なるものとさえなる。 争いの原因には何があるのか。 争いの原因には欲望が関係しているように思える。食欲、情欲、独占欲、名誉欲、支配欲、所有欲などが原因としてあり、それを満たそうとして争いが起きるのではないか。また公正な扱いを受けたいという願望や病気や恐怖も関係するように思える。恨み、嫉妬、野心、ねたみもある。人には自分から責任を負わず、人のせいにする傾向もある。争いが終わっても恨みが残り、後になって報復することもある。 正直で、誠実で、まじめであるがゆえに、他の人が不誠実で不真面目なことが許せないという場合もある。 「正義は争いの元ではないか。正義はねたみか。」と書いたのは、正義には問題が多すぎると思えるからだ。 意見の相違は欲望とは言えないが、作られた認識の違いから意見の相違は当然生じるものであり、それが欲望と絡むと利害の不一致になり、争いとなる。戦争とは争いを力で解決しようとすることから始まるのではないか。 戦争を起こさないために「不一致や意見の相違がないようにすればいい」という考えもあるが、これには問題がある。不一致や意見の相違がないことは、全く同じ考えや価値観を持つようにすることと同じである。人間性を否定することである。不一致や相違はなければならない。人類が進歩してきたのは、不一致や相違があったおかげである。不一致や相違を解決し、乗り越えていくことに人類の進歩が大きく関係する。 問題は不一致や相違に対する見方、考え方、どう対応するかである。不一致や相違は本来自分を見直す重要な要素として尊重しなければならない。問題なのはそれを受け入れることができない人間性にある。 ただし、これは簡単なことではない。人間性に問題があっても簡単には直せない。人間そのものが何かよくわかっていないからである。人間が何を目的に存在するのかさえ分かっていない。 人間の間では、年齢に関係なく、子供から老人に至るまで争いがある。死ぬまで争いは尽きない。 人間関係としては知人、友人、恋人同士、夫婦、兄弟、親戚など、民族間、宗教組織、政治組織、国家に至るまで、一地域から広大な地域までを含む争いがある。 争いは(考え方によるが)生物の世界にも広く見られ、微生物、海洋生物、植物、動物などあらゆる世界に見られる。多くは生きるため、食べるための争いである。異性を伴侶にする時、支配欲も関係することもあるように思える。争いは避けられない生命体の定めのようにさえ思えてくる。この種の争いを避けなければならないなら、遺伝子レベルでの解決が必要になるのかもしれない。 地球上の人間以外の生命体の争いは、基本的に何かを考えての行動ではない。生まれ持った遺伝子の指示による行動であると考えられる。 人間も生きることに基本的に必要な食料が無くなれば争う。異性のことでも争う。遺伝子の指示からの影響を受けている。しかし、人間以外の生命体と大きな違いが存在する。 それは人間だけが高度に発達した言葉を持っていて、考えることができ、それが理由で争い方も違うことである。考える力は卑劣な手段も思いつかせるが、理性として行動の抑止力、争いがどのような結果に至るかを思い起こさせ、思いとどまらせる働きもしている。 人間に特有な欲望として考えられる名誉欲、支配欲、所有欲などが人の持つ感情に大きな影響を与えて思考をコントロールすると、自分の立場を正当化するために、気づかないうちに本当の動機を隠し、画策し、正義を持ち出す。 互いに正義を主張する中で、問題を解決できなくなり、行き着く先が分からず、徹底して正当性を主張するなら破壊への道である。 正義を主張するために、夫婦であれば離婚、親族は分裂、友達も恋人も喧嘩別れ、殺人さえ起きる。 だれにでも覚えのある日常茶飯事の争いという出来事もあるが、たいてい自分の主張が関係し、自分を正当化するために正義を持ち出す。 正義とは自分の持つ権利こそが正当であり、自分の考えが論理的に正しいとすることである。 権利にしても考えにしても、人の欲望が感情を支配するようになると、正義ゆえに自分は正当で、相手は間違っていることになる。 ウィキペディアによると、正義とは「倫理、合理性、法律、自然法、宗教、公正なにもとづく道徳的な正しさに関する概念」とある。道徳的に正しいことを意味する概念である。 明らかに正義は問題を起こす源として働いている。基本的に正義を主張するなら争いになる。正義という言葉はもっともらしく聞こえるが、正義があるから争っているのではない。自分の欲望をごまかす手段として正義という言葉を使っているだけである。 認識の多面性の中で、「ことばによる想像は創られた認識を信じるという行為に発展した。信じることで価値観を持たせ、神様により善悪を規定し、道徳を作り上げた。神様だけではない特定の思想、イデオロギーも価値観を持たせて凶器に変身させたこともあった。これらはみな人間が創り出したものだ。」と書いた。 つまり「正義」という言葉も人間が創り出したものであることは容易に想像できる。 幼少の時期から、親から、学校の先生から、正誤問題などで正しいこと、間違っていることの教育を受けてきた。間違いは悪いことで、100点満点が正しいことのような価値観を教育されてきた。道徳的に善悪を教育されてきた。テレビでも悪人をやっつける正義の味方が出てくる内容の番組はたくさんある。テレビが普及し始めた頃、月光仮面、スーパーマン、エイトマンは憧れのヒーローだった。その影響は図り知れない。しかし、ここに絶対正しいことなどはない。あくまで人間という限られた枠の中、時間枠の中での正しさに過ぎない。 争いのない円満な人間関係もある。相手に対する思いやり、理解、配慮のある人格をもつ人々のことである。正義を主張する前に状況を理解し、相手に敬意を払うことのできる人々のことである。 認識は人によって違うのは当然であるがゆえに、物事に対する見方は違い、好みも違い、しばしば意見は対立する。小さな問題から人間の信頼関係がこじれ崩れる場合もある。認識の作られる過程が違うのだから、意見が違う、考えは違う、物の見方は違うのは当たり前である。 相手の間違いを指摘し、正そうとし、許せなく感じるのは正義感である。しかし、そんな正義はない。それを認識することは、相手を理解する助けになる。 善悪はない。 正義はない。正しいことはない。義人はいない。悪はない。悪人はいない。 慣習、常識も正しいと主張する根拠になる。しかし、それは正義ではない。みんなが守るから正義なのではない。 「間違えること」は悪ではない。むしろ進歩するための第一歩である。 できないのを見ると「できないことが悪いこと」のように行動する人がいる。 「できないこと」は悪ではない。人は学び、訓練すればたいていのことは出来るようになる。 すべてできる人などいない。誰でもできるわけではない。初めはみなできなかった。 皆と同じ行動ができない。それは悪ではない。そのように見ること自体が独断と偏見である。 それは偏った価値観を持っていることで、自分に対する反省が足りないことを意味している。 法律違反は悪か。それは悪ではない。法律違反である。 しかし、法律違反を悪とすれば悪になる ・ ・ ・ 思い込みである。 法律は人間が決めたルールである。それは皆が平和と安全を維持するために必要なことだ。皆で決めたものだ。それを守ることは皆の約束だ。守ることは大切だ。 しかし、ルールを守ることが正義なのではない。人間みんなのためのものだ。破ることは悪ではない。しかし、破ればみんなにとって不安の要素になる。 犯罪は人に危害を加えることが関係する。安全を脅かす。 法律違反は悪か。悪ではない。法律違反である。 人間が生存し続けるための約束であるルールは重要な意味を持っている。それは人類の存続と関係する。しかし、人間がやたらと法律を作り、破る人が多いから、さらに法律で規制することなどを通して、法律自体の意味が分からなくなってしまった。 沢山ある小さく細かなルールを破っても平気な人が大半である。法律は細かくありすぎて、何が法律なのかわからなくなってしまった。悪と表現する以上の問題がここにあるのではないか。 アメリカ合衆国の法律家であり連邦最高裁判所陪席裁判官であったオリバー・ウェンデル・ホームズは、「若者よ、これは法律の法廷であって、正義の法廷ではありません。」ということばを残している。 あなたの正義とは何か。何に基づいているのか。 法廷でさえ、正義の法廷ではなく、法律の法廷なのである。 人も変化する。昨日の良い人が今日は悪い人になる。明日はまた良い人にもなる。 人間の評価はいい加減である。人の絶対評価は存在しない。 人は信じる対象ではない。人は間違いを犯す存在である。変わる存在である。 人は信頼はしても信じてはならない。 信頼するとは間違いがあり得ることを前提に、それを認め、それを乗り越えるために、互いに築き上げる努力をすることである。約束を守ることである。信頼は約束の上に築かれる。 現時点では、信頼を築くことが人間すべてにとっての緊急かつ大切な目標であるように思える。 殺すことは悪いことか 動物は生きるため、食べるために殺す。人間も生きるため、食べるために動物を殺している。 食事をするとき人は牛肉、豚肉、鶏肉、魚などをおいしく食べているが、その肉は食肉業者が殺して得ていることを忘れている。殺すことは悪いことではない。当たり前のことである。人間が生きるために必要なことである。 ライオンがシマウマを襲い、食べるのを見て、人は「かわいそう」などという。 「かわいそう」などと言うのは現実に対する認識不足である。 そう思う人間の方がはるかに卑劣であることを忘れている。 動物は生きるために、食べるために殺すが、人間は憎しみや自分の欲望のために同じ人間さえ殺す。 善悪はない。殺すことは悪ではない。悪など初めからない。悪と思うのは思い込みである。 人間が決めたことを破るなら、それはルール違反である。 ルールは信頼と約束の上に作られたもので、それを破ることはルール違反である。 しかし、作られてきたルール自体にも、作られる過程や内容にも問題があるとは思う。 争いが悪であるという考えは避けなければならない。争いは時に必要なことと考えられる。争いの原因がどこにあるかを理解し、それを乗り越える考えが必要だ。 ことばの認識から ことばの認識は世界を変える Part I で説明したが、物であれば五感を通して認識し、ことばに置き換えて使うことができる。しかし、抽象的なことば、抽象的な概念であれば、五感で実体を認識することはできない。実体はないからだ。そのことばを認識することはさらに難しいと考えられる。それをことばとして使うのであるから、わかっているつもりでも、本当はわかっていないのかもしれない。 抽象名詞や感情表現も人間が作り出したものであることは間違いないだろう。 正義という言葉も同様に考えられる。善悪は人間が作った価値観である。日本では道徳のようにとらえられている。西洋では神様が規定したものとして受け入れられている。しかし、これらも人間が作り出したものであることを認識の多面性の中で説明を試みた。 こうして考えてみると“絶対正しいこと”は存在しないと結論づけることができる。 正義は無いのに、在るかのように創り上げられてきた。 正義があるから不義があり、正しいものがあるから悪いものがあると。 そのように教育されてきた結果、誰も疑問に思わなくなってしまったことに問題がある。 正義はないが、悪もない。あるとする感情は、思い込みである。 基準は無いから、時代、状況、人の持つ価値観でも変わってしまう。 人殺しは悪くても、戦争で敵を殺すことは良いことになる。こんな矛盾を人類は長い間放置してきた。 美しいものはある。それは見る人の感情としてある。そう感じる人には、感情から人の思い込みとなって美しさは作られるからだ。思い込みとして実体である美しい花、景色、人、絵などが存在する。 正義はある。それはそう考える人の思い込みとして存在する。しかし、実体としてはない。 悪はある。それはそう考える人の思い込みとして存在する。しかし、実体としてはない。 正義も悪も共に思い込みとしてあるのであり、実体はないのである。 正義のまとめ: ・ 正義とは自分の持つ権利こそが正当であり、自分の考えが論理的に正しいとすることである。しかし、実際には正義はない。 ・ 「正義」は人間が創り出したことばであり、思い込みである。 ・ 明らかに正義は問題を起こす源として働いている。基本的に正義を主張するなら争いになる。正義という言葉はもっともらしく聞こえるが、正義があるから争っているのではない。自分の欲望をごまかす手段として正義という言葉を使っているだけである。 争いのない円満な人間関係もあることに触れた。言い争いは時にあるかもしれないが、相手に対する思いやり、理解、配慮を持てば寛大になることができる。言葉による考える力は理性として、争いの抑止力として働く。正義を主張する前に状況を理解し、相手に敬意を払うことができれば争いが大きくなることを避けることがきっとできる。 マイケルアレフ 2017年7月 ![]() シリーズ3 見直しの結果 2021年6月〜8月 正義ということばを見直しているときに、新たに気付いたことがある。 ことば(単語)にルールが必要ではないか、という点である。 「正義」という単語は、修正が必要と思えることばの具体的な一例である。 正義ということばは、力の象徴であり、力が多くの問題や争いに決着をつけてきた人類の歴史そのものである。正義は力を意味してきた。 強い者が敵を倒し、正しいことを証明してきた。それ故、個人も、国家も、強くなることを目指し、敵との戦いに勝つために、様々な武器を開発し、使用してきた。地球上には、人類が存在できなくなるほどの核兵器が保有されている。 なぜ正義は破壊力を求めるのか? 正義が力を意味してきたからである。 争い、紛争、戦争では強いものが勝ち、負ければ、どんな理由も通用しない。正しいのは、勝つことであり、勝つことは力、破壊力のあること、正義を証明してきた。勝つことが正義であった理由である。 しかし、第二次世界大戦で核兵器が使用されたことから、正義が力を持つことであっても、敵を倒すことは、人類の自滅の可能性を意味することがわかるようになった。大戦の反省から国連により人権宣言が採択された。 それでも正義は、人間の過ちを修正できない。 正義はより強くなることを求める。地球上での領有権争い、宇宙における覇権争いが続き、更に強力な兵器の開発も進められている。 敵とは同じ人間のことである。平和な時でも、仮想敵国を想定して、絶えず敵を意識してきた。負けないためである。緊急時に備えることは必要ではあっても、、緊急時には敵の侵入が想定されている。それ故に敵に対する防衛強化を考え、全世界で膨大な防衛予算が組まれる。 力を求めることは破滅と破壊をもたらすことは、今までに十分に経験しているにもかかわらず、人間は力を求め、優越感を求めている。人間の世界は、自分は優れているという優越感に支配されているからである。 利益追求の世界は、あらゆる手をつくして優越感を刺激する。大衆は気付かないうちに優越感を求めている。 人類は重大な間違いをしてきた。正義という考えと共に弱肉強食の考えを正しいこととして受け入れ、教えて来たことである。 自然界の強いものが弱いものを食料として食べている、という考えを当たり前のことのように教えてきた。それは正義と一致した考え方で、広く受け入れられてきた。力があることが大切だと教えられてきた。 何に対しても、有利な立場を得ること、優れていること、能力があること、優秀であること、一番になることである。利益追求の社会はこの考えに基づいて優越感を追求する。 これを止めることはできないのか? どうしたら修正できるのか? 負けることが正しく、正義だと言える理由が必要である。 負けることが人間にとって大切だと思えることだ。 そんな「負けることが正しい」などという馬鹿げたことがあるか ・ ・ ・、 それは考えられない、あり得ない ・ ・ ・ と思えるほどに、人類は病んでいる。 確かに以前の古い考え、価値観であれば、あり得ないことである。 それはあり得ない。不可能なことである。大衆が天動説を信じている時に、地動説を唱えるようなものだ。大衆は受け入れない。否定的な理由ばかりが考えられる。 しかし、人間が気づいていないことが不可能な理由であれば、気付けば変わり得ることを意味する。現実とは真実のことである。時間はかかっても真実が受け入れられる。地動説が正しいことは、100年以上の時間はかかったが、受け入れられてきた。 しかし、人類は今でも地球が宇宙の中心のような考え方をしている。人類が宇宙の中心である。2兆の銀河の存在を認識することができないでいる。 現実を受け入れることができれば、今までの見方を変えることは可能である。間違いに気付き、理解できれば、どれ程困難であっても、可能性として変更はあり得る。 負けることが正しく、正義だと言える理由が必要である。 負けることが人間にとって大切だと思えることが大切だ。それは人類が生き残ることであり、破壊によって自滅するのではなく、生存し続けることにある。 負けるとは、争いで、戦争で負けることを必ずしも意味してはいない。 争わない、戦わないでいることはできるのではないか? 自分から間違いを認め、謙虚になり、相手を許すことはできないのか? 戦争を回避し、戦うことを止める。表面的につくろうのではなく、人間としての思いやり、同情を示し、人類愛を示す。 今まで 正義は力を象徴し、目的は敵の破壊であった。その正義の目的を変える。 「正義の目的は破壊ではなく、支援、救援の意味である」と修正する。 敵を想定すると同盟国は一致団結できるという考えがあるが、一方的な考えである。 その考えから、二度も世界大戦が起きた。 人類の存続のためには、人類の存在の意味を考え、協力し、間違いを認め合い、許し合い、問題を乗り越えて行くことが必要である。それが正義の目的であるとする。 しかし、人類の持つ優越感を修正することは非常に困難である。 なぜか? 人間のあらゆる活動が、政治の世界でも、仕事でも、スポーツでも、ゲームでも競争で勝つことを目的としているからである。 競争を制御する、止める。一番になることを目指さないことが可能だろうか? 人類に競争があったから進歩があったという考えは、利益追求の世界での話であるように思える。なぜなら、進歩の多くは科学者を含む勤勉な人々の働きによるからだ。数学者、物理学者、医学者を含む誠実で勤勉な人は利益を追求する人々ではなかったからだ。 大衆が踊らされ、利益優先の社会を築いてきた。競争がもたらしたのは、破壊の主な理由ではないか。 人類は過去の歴史から学べないでいる。それは大衆が楽しみと優越感を優先させるからではないか。 「正義」ということば(単語)に定義がないと意味が曖昧になり、敵を作り、勝手に暴走し、破壊をもたらしてきた。それ故に. 単語の定義が必要であり、その定義を周知の上、理解して使うことが求められている。 正義により、思い込みから敵が作られる。敵など作られるべきではない。敵など初めはいないのに、それぞれの立場や主義、主張から、理由が作られ、敵にする。敵を作ってはならない。敵ということばは間違いである。 今までの「正義」ということばの定義に、修正を提言したい。 考える元となることば(単語)は単純で明快なことが望ましい。 これからの正義はその目的を敵の破壊ではなく、人類協同体の支援、救援を目的とし、知的生命体の存在を守ることとする。力はそのための象徴である。自らが謙虚さを示し、 相手を理解し、思いやりを示し、人類愛を優先させることがその責務である。 法の執行に関連して使われる正義について 犯罪における取り締まり、法の執行は正義の名の下に行われている。 正義は力を象徴するので、犯罪の取り締まりに役立っている。 警察官には正義により法の執行ができるよう、犯罪者に対して力を行使できるように、警戒棒や銃器の所持が許されている。 法律を守らせる、守らない悪人を正す、罰する、処刑する等という考えは、社会を守るためである。そうは言っても、法律等のルールは元々人間が作ったものであり、間違いを含むものである。それを単純に強制的に守らせるという考え方には問題がある。 皆で作ったルールであれば、守ることは皆の約束であり、義務であり、責任である。ルールを破った者に対しては、ルールに従って責任を求めることは適切である。 ただし、ルールは押し付けられるのではなく、その責任を理解し、自覚し、納得して負うことが重要であり、幼少の頃から、その情報が十分に提供されている環境が必要である。 責任を自覚するためには教育は不可欠であり、自分で考え判断するという個人の認識が重要である。個人は協同体である人間社会の存在無くして存在できないことを理解する必要があるからである。 ルール違反に対してはルールに従い、力、強制による正義の執行を伴っても、人間愛、人類愛によって制御されるべきであると考える。 マイケル アレフ ![]() 2023年 * スーパーヒーローが与える偽りの憧れ 幼い頃、正義の味方に憧れた。 スーパーマンを含むスーパーヒーローは全て、力を持ち、悪を倒す正義の存在として描かれてきた。 その憧れが何を求めることなのか気づかない内に、子供は憧れるようになる。 大人でさえ憧れる。 その憧れは、力という優越感を持つことだ。 力があれば強くなり、悪を、敵を倒すことができる。弱い人を助けることができる。 これが主な理由で、人間は力を求め続けてきた。 それが優越感を得るためであることに気付かない。 力は富であり、お金であり、裕福になること、権力を得ること、大衆の支持を得ることである。 そのために何でも一番、一流になるように、優秀な成績、有名大学、一流企業に就職すること等を目指すようになる。人気を得ること、利益を得ることを目指す。 それが個人だけでなく、全ての国が力を追い求めて、兵器の開発に挑み、人類を滅亡させる以上の核兵器を持ち、今も戦争をしている理由である。 良い、悪い、は人間が作った考えである。実体は無いにも関わらず、人間の価値観として信じられている。 思い込みにより、信じるから、あることになる。 正義は自分の考えは正しく、相手が間違っていると考えることである。正義という言葉に騙されてきた結果、人類の歴史は戦争で一杯である。 皆がそう思っているからと、考えなくなり、大衆に迎合することに重大な間違い、危険がある。 正義という人間が作った言葉(単語)の意味は人によって違う。正義は、争いを起こし、戦争をする大義名分である。 正義は神が定めた法、正しい義などと数千年にわたり信じられてきた。 しかし、正義は力の象徴であり、正しい考えであるという意味ではない。人類はこのことに今も気づかないでいる。 人間の作ってきた考え、言葉に修正が必要である。 人間の考えに完璧は無いが、理想を考え、理想に近づけることはできる。 * 心と認識について 人間の脳は、五感の働きを通して得た情報を、思考と感情の働きにより、幼少の頃からそれをどのように受け止め、どのように反応するかを教えられ、経験を通して学び、その認識を作っている。それは心と表現されてきた。 美しい、美味しい、楽しいは心、人の認識の反応である。 醜い、まずい、悲しいも心、人の認識の反応である。 美しいと感じるのは、美しさがあるからではなく、そう反応するよう学習しているからである。 学校に入る前の幼い子供たちは、教えられていないため、美しさは未だわからない。経験がなければ、悲しいもわからない。 このことは重大な問題提起になる。 国家、国民、民族、人種として持っている認識もまた価値観として作られ、植え付けられていることを意味するからである。 大人になる頃には疑問に思うことさえなくなり、当たり前のように受け止めてしまう。 正義という認識も作られたものである。 |