マイケルアレフのことばの不思議な世界 シリーズ33 時間についての考察 2024年10月 言葉から考える「時間の正体」について (シリーズ44 人間についての考察より) 前置き 過ぎ去っていく時間という過去はないと書いた。 スマホで映像を撮れば、誰にでも明らかなことである。 撮り始めた瞬間から、撮された映像は今現在の記録である。 今現在の記録は、現在または過去と思っても、現在と過去が同時進行している。 現在=過去である。過去とは過ぎ去っていく時間ではなく、現在の記録である。 時間が過ぎれば過去だと思っても、過去が始まる時点を示すことはできない。 過去の始まりは今、現在であり、現在は永遠に続いている。 このことは、過去と未来の間に今という瞬間があるのではないことを示している。 時間の過去は無い。今は瞬間ではない。現在という今が永遠に続いている。 時間の未来は初めから在るのではない。それは約束、想像、計画により現在に造られていく。過去、現在、未来は、脳が働いている現在の中にある。 内容 1.時間という言葉の対象は何か 2.時間は変化をもたらす原因か 3.時間が作られた背景 4.地球の時間は宇宙で通用するか 5.今という現在は時間ではない * 未来の考えに修正が必要な理由 6.まとめ 7.事実を認識することの意味 ********** 時間は言葉である。英語で言葉は単語のことである。 全ての言葉(単語)は実体ではなく、実体や対象の代わりである。 言葉は考えであり、情報である。 全ての言葉は、実体の無いもの、実体と確認できていないものを含め、実体ではなく、対象の代わりである。 10月1日(火) 1.時間という言葉の対象は何か? 時間という言葉は対象を意味する考えであり、その代わりをしている。 「実体でないなら、時間の対象とは何か? 何を時間と呼んでいるのか? 」を明らかにする必要がある。 時間という言葉の意味について 時間とは、時(とき)の間、時の間隔のことである。 時を計るとは、どれくらい時間がかかるか、という意味である。 時間とは何か? 1、2、3、4、5、6 と数を数えることで時間は過ぎていくように感じる。 数を数える間に時間がかかる。単純に数を数えることから時間が作られる。 この数える間隔を一定にし、長さを定規で測るように、時の間を数えることから、時間を計ることができる。 この時の間隔を一定にして数えることが、時間を計ることである。 時計はこの時の間隔を一定にすることで計れるようにしたもので。同じ周期、規則正しく動くリズムを作り、数えることができるようにしたものである。 時間を計る時計という道具があれば、どれほど時間がかかったのかを知ることができ、比べることができる。それにより、早い、遅い等の比較する表現も使うことができる。 時を計るという表現と共に、時を知るために「今何時?」もよく使われる。 時間を尋ねるのは、何を知りたいのか? 今何時か? という質問は、繰り返される一日の中で、今がどの位置にいるかという問いである。 どの位置にいるかとは、時間がどのように作られてきたかと関係する。 日時計、水時計、砂時計が作られた頃からか、地球の自転一回である一日を24に割った一つを1時間、1時間は60分、1分は60秒に決められたようだ。 ウィキペディアによると、60を数えて1つ位を上げる60進法を使ったのは、紀元前2000年のシュメール文明にまでさかのぼり、一日を昼と夜の各12、合計24の時間に分けたのは古代エジプトで日時計から作られたとある。 科学技術の発展はその一秒を限り無く正確に計ろうとしてきた。 一秒を正確に計れるようにできれば、1分、1時間、1日、1年も正確に決めることができるように思える。 それが可能であれば、全宇宙に通用する時間にすることができるかもしれない? 現在の「原子時計の正確さは数千年に一秒の狂いもない」という。 2.時間は変化をもたらす原因か? 人間は太陽が昇り、沈むことを繰り返すことから朝、昼、夜という言葉を作った。この周期に合わせて、人は時の流れを感じる。周期は確かにある。 朝、昼、夜という言葉に実体はあるか? 太陽系の中心にある太陽に基本的に動きはない。地球の自転により、太陽の光の地球に当たる面が変わることから作られた表現である。 地球が太陽のまわりを繰り返しまわっている。その公転することにより一年に春、夏、秋、冬が繰り返される。これら季節を表す言葉も地球の動きから作られている。季節感は時間の流れがあるかのように感じさせる。 その間に植物の成長、実りの時、収穫の時期が繰り返される。植物だけでなく鳥、動物、人間を含むすべての生命体が変化しているように見える。 周期的な天体の動きが人間の世界に変化を与えている。 これが、時間が変化をもたらすと考えるようになった背景ではないかと考える。 言い換えると、時間があるので変化を感じているのではない。 地球の自転と太陽のまわりを公転することが変化を生み、その変化を時間の動きと勘違いしているように思える。 時間とは過去、現在、未来へと、変化をもたらすもの、のように考えられてきた。 変化には様々なものがあるが、その多くの変化をもたらしているのは、時間ではなく、太陽のまわりを地球が自転しながら公転していることにある。 太陽があり、地球の自転から朝、昼、夜の一日があり、太陽のまわりをまわることから、春、夏、秋、冬、一年などの変化が起きる。定期的な変化である。 人類が長い間気付かず、知らなかった気象現象の高気圧、低気圧、晴れ、曇り、雨、雷雨、台風などの多くの変化が起きる理由である。 火山活動、地震、津波などの起きる背景も地球にある。 この事実は、人類が地球そのものと地球が太陽のまわりを公転していることから起きている変化の理由を知らず、気付かず、理解できず、その代わりに時間が変化をもたらすと考えるようになった背景に思える。 太陽系を離れた宇宙では、その影響がないため、その変化は無くなる。 すると、時間による変化は感じられず、いつでも今という現在しかないことに気づく。今という現在が永遠に続いているなら、過ぎ去るという時間は無く、過去はない。 地球上に限らず、どこにいても、時間を計ることはできる。同じ周期、規則正しく動くリズムを数えることで独自の時間を作ることが可能である。 時間はカウントすることにより作られる時の間隔のことで、人間が作り出した考えである。 地球以外でも、高度な知能を持つ知的生命体であれば、置かれた環境から周期を見つけ、時間に代わるものを作ると考えられる。それは人間の作った地球の時間とは異なるものとなる。 時計による時間は時の間隔を表現するために作られた。 時間という対象があっても、対象が何かわからないので、それを時の間として表現したからではないかと考える。 これまでに、美しいは人間の認識を表す言葉で心にあり、美しさがあるからではなく、人間の持つ価値観の多くは幼少の時に認識として作られたものであると書いてきた。 時間も人間の認識を表す言葉で、リズムを取る間、数を数える間に時間がかかることから、時間があると考えるようになったのではないかと考える。 10月5日(土) 3.時間が作られた背景 一年は地球が太陽まわりを一周するのに365回自転することから作られた言葉である。一日は地球が一回自転することから作られ、その一日を24で割った一つを1時間、60に分けた一つを1分、1分を60に分けた一つを1秒と決めた。 ここで重要なのは、太陽のまわりを一周することも、地球の自転も、人類の存在より早くからある事実で、人間が発見したことではあっても、人間の作った考えではないことである。 それに対し一時間、一分、一秒という言葉は人間が考えで作り、そう決めたものである。 これらのことは当たり前に思っていても、地球上の人類にとってという条件があることに気付かないでいる人はたくさんいる。 昨日、今日、明日があるのは、人間が地球上に住んでいて、太陽の影響を受けているからで、太陽系から離れた宇宙空間では、昨日、今日、明日はなく、季節の変化もなく、一年もなく、いつでも今という現在しかない。 火星に住むようになれば、環境は大きく変わっても、太陽系の枠内にあり、火星の自転は地球とほぼ同じと言われるので地球の時間は使えるかもしれない。 しかし、太陽をまわる一年は365日ではなく、687日になると考えられている。 それを基準にすれば100歳になる人は53歳であることになる。 火星では年齢が半分になるのだから、若くいられる、長生きできると、思うかもしれないが、これが人類の考え方に共通している間違いであることには気付かない。 人の老化の原因が、年齢にあり、太陽のまわりを地球が公転する回数と同じなのはおかしいと思う人はほとんどいないことである。 太陽は今までに50億年燃え続けてきた。それは人類の時間ではそうなっていても、地球が太陽のまわりを50億周したという意味である。 それを同じ年数にして、時間と考えている。 しかし、少し考えてみれば、地球も太陽もない時代はあった。その時、時間はあったのかと考えれば、人間の作った時間は無かった。 現在の人間の作った時間を、50億年、それ以前にまで適応させることに間違いはないのか、と考える人はいないのだろうか? 人間の考えは進歩する。人間の考えには、わからないこと、まだ気付いていないこと、抜けていること、修正の必要のあることがたくさんある。 人類が進歩するのは、間違いがあることに気づき、修正し、新たな考えを作り続けるからである。 10月6日(日) 4.地球の時間は宇宙で通用するか 数千年に1秒の誤差もない時計を作ったことは、驚きである。部分的ではあっても、人間の能力、人類の素晴らしさを示すものである。 しかし、その時計を作るに至った考えには、事実を見落としていることはないのだろうか? 見えていない事実? 一年を地球が太陽のまわりを公転する一回、地球が自転する365回なのは、人間が観測から見つけ出した自然法則である。これは人間の作った考えではなく、見つけた事実である。 人間は、地球の自転一回を24で割って1時間と決めた。 しかし、地球の自転一回をなぜ24で割ったのか? その明確な理由はあるのか? 古代のエジプトの日時計により昼間を12に分けたことから始まったとされる。手の指の親指を除く4本の指の関節が3つに別れていることから、4x3=12、12進法が使われていたという。 とは言っても、24という数字を使った本当の理由はわからない。 便利で使いやすい等の理由があったからかもしれない。 いずれにしても、人間が決めたからである。 なぜ24なのかという答がわからないのは、事実とは結びついていないからだと考える。24で割る明確な根拠はないのである。 言い換えるなら、一時間は人間の作った時間であり、地球の自転一回にかかる時間の24分の1という意味である。 このことは一時間が存在しているという意味ではない。当然のことであるが、1時間から作られた1分、1秒は人間の作った考えである。 これが理由で一日は24時間になった。地球上では誰でも一日は24時間であることを疑う人はいない。しかし、一日が24時間であるというのは自然界にある事実に基づいてはいない。人間がそう決めたにすぎない。 時間という単位は自然界にあるのではない。価値観と同じように人間が作った決まりである。今ではそれが時間という流れがあるという感覚になっている。 原子時計による数千年に1秒の狂いも無い時計を使って1000年を計ったら、地球上では1000年になっても、それは太陽のまわりを1000回まわる回数であり、時間ではない。 1000回を計るためには1000回数える必要がある。それには1000年かかる。しかし、頭の中ではアッと言う間に、一瞬の時間で1000年を考えることはできる。 なぜ1000年が一瞬の時間になるのか? 時間は言葉で作られた考えであり、実体ではないからだ。 時間は時の間隔であっても、その間隔は考える上では、自由に変えられる。 1億年でさえ一瞬になる。考える上では、時間だけでなく、全てが実体ではないからである。 誤差の無い一秒は実体ではないのか? 自然界にある原子から作った一秒であっても、人間がそう決めた時間であり、人間の世界にあるだけである。宇宙では人間の価値観は基本的に通用することはないと考える。 時計が作られ、今では全てが時間で計られるようになっているが、これは人間が決めたことであり、自然のあるがままの姿ではない。 簡単な例として、閏年で一年を調整しないと、およそ100年で25日、1000年で250日の違いが生じる。 閏年が必要なのは、地球が太陽のまわりを公転する一回、一年が自然界の事実であっても、時間の正確さを示すものではないからで、人間の都合に合わせて調整することが必要になる。 閏年に示される人間の能力は素晴らしい。 10月7日(月) 追記: このことは、人類が在るがままの大自然にただ追随するのではなく、人類としての在り方を見つけていく必要があることを示している。 在るがままの大自然は人類の存続を守ろうとすることはなく、絶滅種になることも気にすることもない。 人類がそれに気づき、優越感を捨て、正義の戦争を止め、人類の間違いの元である価値観を修正し、新たな未来を築き始めることが必要であると考える。 10月13日(日) 5.今という現在は時間ではない 未来の考えに修正が必要な理由 永遠に続いている今という現在は、現実に在るがままであり、人間の脳が五感で認識できる実体として存在している。 今という現在は、時間ではなく、考えでもない。 脳が五感を通して認識している領域、範囲と同じ意味であるように思える。つまり、 今現在とは、目の前に広がる現実の世界のことである。 現在、過去、未来に区切りはない。今という現在しかないからである。 考えと実体は共に脳の働きである。 考えは言葉により作られるイメージを含む想作のことで、 実体は五感によって認識される対象のことである。 * 未来の考えに修正が必要な理由 誰でも未来はあると思っているが、未来は本当にあるのだろうか? * 明日があるではないか? 明日は未来ではないか? 1年先、100年先の未来があるではないか? この質問が起きるのは、地球上での変化の理由を理解していないからであると思う。この質問に対する答えは 2. 時間は変化をもたらす原因か? に説明を書いた。 簡単に説明すると、地球上では太陽が昇って来るので、明日があるように感じるが、太陽系の外では、太陽の影響を受けなくなり、太陽が昇って来ることはなく、明日はなくなる。 その宇宙空間では、太陽と地球による変化はなくなるため、時間はなくなり、いつも今現在であるように感じる。 地球上では明日がある。それは地球上でという条件があるからだ。 太陽系を離れれば、明日はない。 * 1年先、100年先は未来に思えても、その時があると証明することはできない。 未来とは、未だ来ていないという意味である。 未来に何が起きるかは誰にもわからない。だから未来なのである。 未来という言葉は時間ではなく、対象となる実体は無い。 * 例1 今という現在はあるが、未来はその前にあるのか?その後にあるのだろうか? 1年先と1年後は同じ意味で使われているように思えるが、 一年先は未来であり、一年後は過去の意味である? 何がどのように違うのか? * 10分前にテレビを見ていた。その時間10分前はすでに過去である。 1時間前に夕飯を食べた。これも過去である。 過去は現在の記憶、記録である、今という現在の前に、未来はない。 * 今から本を読む。10分経った。時間が経ったのだから、今は10分後にいる。 10分経っても、今、現在である。 今から風呂に入る。一時間経った。その一時間後も今、現在である。 今という現在の後に、未来はない 起きていて脳が働いている間、意識にあるのは、時間に関係なく、今という現在である。人間の脳が働き、意識があれば、いつも今、現在である。 時間がかかり、時間が経過するように思えても、いつも今、現在である。 時間が経った気がするのは、今という現在が記憶に残っているので思い出すことができるからで、過去は現在の記憶、記録として作られていくからと考える。 約束、計画、想像による未来はある。夢、希望、願い、目標、目的も未来に関係するが、その言葉は現在にある。 未だ来ていない、未来にあるものは、全て考え、想像により作られたもので、未だ無い。未来は決まっていない。 明日の計画、約束することができるのは現在であり、未来にあるのではない。計画、約束などは人間が未来を作っているという意味である。 * 1.未だ来ていない未來を、考え、計画する。 2. その計画を実行し、目的を達成するために働く。 3. 仕事を終える。この1、2、3 のそれぞれの行動をしている時は、いつでも今、現在である。 問題提起? 今という現在は、時間ではなく、考えでもなく、現実の世界である。 現実の世界に、過去は記憶、記録としてある。 時間はある。時間を計ることもできる。 しかし、時間は過ぎ去ることはなく、時間の過去はない。 あり得ないように思うのは当然であるように思う。 今までに誰も聞いたことのない新たな考えであるかもしれない。 修正が必要である可能性は当然考えられる。 では、今という現在しかないのはなぜか? 人間の脳は現在しか認識しないからと考えるが、なぜそうなのか?。 全ての活動に時間はかかる。時計でその時間を計ることはできる。 ところが、あり得ないことに思えるが、それは、時間の経過ではない。 時計で計り、1時間かかっても、時の経過では無いとは、どういうことか? とても理解できる内容とは思えない。 地球上では、時計で一日の時間を計ると24時間になる。 しかし、時計で時間を計っている途中の、どの時間をとってみても、いつでも、それは今という現在である。 一日が過ぎたと思っても、一日が過ぎた理由は、時計で24時間を計ったからではない。地球が一回自転したからである。 一日を24時間に決めたのは人間であり、時間は自然界の法則ではない。 一日前、時計で時間を計り始めた時、今現在であった。一日過ぎて時計が24時間を計り終えても、今現在である。その途中どの時点でも、今という現在である。 いつでも、今は現在である。 なぜ、いつも今、現在なのか? それは、時間はあっても、時間の経過は無いからであると考える。 時間の経過を意味する過去はない。過去は今現在の記録である。 これは明日があると思い込んでいるのと、同じようなこともしれない。 太陽系の外でも、時計で時間を計ることはできる。 しかし、時計があっても、地球上にある変化はなくなる。 その変化がなくなり、人間と人間による宇宙船内の活動が無ければ、長期間変化はなく、全てが止まっているかのように思えてくる。 時計があっても、時間は無いように思えてくる。 変化がないと、時間の意味がわからなくなる。 時計があっても時間の意味がなくなる。 変化がないと、時間はないのと同じに思える。 地球上で、時間はかかっても、いつでも今現在であるのは、時間は計れても、時間による経過は無いからであると考える。 時計が時刻を示すのは、時間を計っているからで、時間が過ぎているからではない。 脳が今現在しか認識しないのは、それがあるがままの事実、現実、真実であるからではないか。 以上の内容は、時間について考えていく中で、今までに考えたこともないことを疑問に思いつき、追及した内容である。 修正の必要が無いように考えてはいても、修正が必要な可能性はいつでもあることが前提である。 10月15日(火) 追記: 時間には明確な対象がある 1時間は地球の自転一回を24で割った時の長さであると書いた。 つまり、時間は地球の動き、一回転する中で、どれだけ動いたかを示す。 1時間とは、地球の1回転する中での2点間の幅、距離の割合が24分の1のことである。 1時間前とは、決めた地点より、地球の24分の1回転する前のことである。 これは、時間には明確な対象がある、という意味である。 時間は2点間であるため、計ることができる。 時は一つの点であるため、位置を決めることはできるが、時間という間隔ではない。 今までの記録 時間など雑感より 2017年5月 時間の概念を変える? 2022年2月 時間についての疑問 2022年11月 時間のパラドックスについて 2023年1月 今という時間について 2024年8月 時計による時間は人類が作ったと考える理由 思考実験? 2024年9月 脳の働きと時間について * 永遠に続く現在がある ![]() 今という時が過去、現在、未来と移動しているように思えるが、今は絶えず今であり、変化はあるが、時が動いているのではないように思える。 一日前から見ると、一日先の未来である今、 一年前から見ると、一年後の未来である今、 十年、百年、千年前から見ても、未来である今、 過去のすべての未来は今に収束するように思える。 今から考える未来はないのか? それは十年、百年、千年先は考えることはできる。未来は想像である。その時が来れば今になる。 過去から見れば、今が存在する未来の最先端であり、 未来から見れば、今が未来を作る出発点である。 今という時が時間の流れのすべてであるように思える。 人の一生は今の記録のことである。人それぞれに1年後、10年後、20年後の今があるとしても、それぞれの今の中で、同じ自分も、同じ世界も存在していない。すべてが変わっている。自分の年齢も、体も、脳の情報量も周りの環境も変わっている。その時の今はその時にしか存在していない。 2023年1月 人はなぜ時間があると思うのか? 長い間、時間があると教えられてきたからではあるが、それは置いておき、時間があると思うのはなぜだろうか? 時間という単語はどのように作られたのか? 実体である物を意味する単語の場合は、今まで考えてきたように、五感による入力を脳が実体である物に置き換えて作ったことばである。 単語が物を意味するのであれば、対応するのでわかりやすい。 物ではなく考えること、想像、推測、思い込みによる場合でも単語が作られるが、無いのにあると誰もが信じてしまう場合もある。 敵という単語は思い込みで作られる。日米が戦った太平洋戦争末期の沖縄で、アメリカ人を鬼畜米英と情報を与えられ、敵と信じたために、捕虜になるより死を選んだ日本人はたくさんいた。 過去においてわからないことを、人間は思い込みにより、想像により、あると信じてしまうことは多くあった。大昔より先祖の教えとしてある間違いを、今でも人類の大半は信じている。 時間はなぜあると思うのか? 五感の機能を考えると、時間は五感の直接の働きの結果ではない。 時間は見えない、聞こえない、味はない、臭いも、触ることもできない。 何が時間を意識させるのか? 時間は人間の持つ五感と脳による洞察力と思考によりあると思うようになった、と考える。 自然に変化がある。その変化を脳が五感によりとらえている。 変化することを、時が流れていると考えるようになり、時は時間を意味するようになったのではないか。 昔、変化とは周期を意味していた。 地球が自転しているので、太陽が朝昇り夕に沈む。一日である。月の満ち欠けがあり、一月で元に戻る。季節が変わる。地球は太陽の回りを一年かけて周る。一日、一月、一年等、定期的な変化、周期がある。暦が作られ、日時計、砂時計、機械時計の発明などにより時間を正確に計測できるようになった。 人類は時計の発明により一日を24時間に分け、一時間を60分、1分を60秒に決めた。時間が計れることは非常に便利であるが、時間があるからではない。時間は人類が作った道具である。 変化を時間で表すと分かりやすい。うまく説明がつく。しかし、変化の理由を時間と決めつけ、信じていることには間違いがあるかもしれない。 今という時間について 今とは何かを辞典で調べても、過去と未来との境になる時などと表現され、明確な答があるわけではない。が、一般的には誰でも時間があると教えられ、過去と未来があると思っている。 今とは一瞬という意味から数分、数時間、一日、一年、一生を表すこともある。 今とは何かがわかっていない。今をいつもあるように感じる。 いつでも今である。一時間過ぎても、一日過ぎても今は変わらない。いつも今である。 今がある。今という記録は残るし、残すこともできる。 「人は皆、今が一番若い」と書いた。 人は今という時間がいつでも一番若い理由は、未来は時間の経過と共に老化するため年寄りになるからで、若い時があったのは過去であり、今ではないからである。 時間の発明により、時間が変化しているように思えるが、実は時間は関係ないのかもしれない。なぜなら、いつも今であるからだ。時間が変わっても、いつも今しかない。今がある。今が続いている。 物事が自然に変化する理由は今もわからない。時間ではない別の理由があるのかもしれない。命だけでなく物質でさえ変化していく。星でさえ生れるものも死にゆくものもあると表現される。 そう考えると、今とは瞬間、数分、数時間のことではない。 人間が生きていて、脳が働いていて、五感により認識できる時間のことを指しているように思える。自分が生きていて、脳が働いている現在のことである。 つまり、今とは自分が生きていて、脳が働いている時間、現に自分が存在する、自分という存在がある間、(時間という表現が適切かどうかはわからないが)、その時間が今である。 生きている間、今は続く。脳が働いているからである。脳が死ぬと今は終わる。 今とは人が生きていて、脳が働いている時間のことと定義できるかもしれない。 人間は過去という時間があると考えてきたが、人間には今という時間しかないように思える。人間が生きていて脳が働いているから今がある。 そこからわかるのは、過去は時間ではなく、今の記録である。思い出は記録である。 雑感の中に、「今=過去」である理由を書いた。 スマホで動画を撮ると、今の記録は過去と同じになる。撮った録画を見れば、今は同時に過去になることがわかる。 このことは過去という時間があるのではなく、今の記録が残されていることを示している。 過去というのは、時間ではなく、今の記録である。 「過去から見れば、今が存在する未来の最先端であり、 未来から見れば、今が未来を作る出発点である。」 と書いた。 今という時が時間の流れのすべてであるように思える。 ![]() 2017年5月 時間の概念を変える? この記録は以前、「ことば」の認識は世界を変える シリーズ 2 として書いたものです。 過去、現在、未来は今という時間の中にあると考える理由、今が誰でも一番若い、など個人の思い付きが書かれています。 一部修正中、いつまでかかるかは未定 と書いたのは、答えがわからないためで、2021年5月現在もわからないまま、考え中です。 時間の概念を変える? 人間は生きているゆえに、脳が現在を意識していることについて、シリーズ1 で以下のように書いた。 「現実を把握するのは脳である。脳が五感を通して現実を認識している。 脳はその認識をことばとして管理し、蓄積し、運用し、活用していると理解できる。 物が存在していると感じるのは現在のみである。 なぜなら、生きていてそう感じるのは、今生きている自分が存在しているからである。 それは現在のみのことである。 脳が働かなくなると、認識することはできない。脳死は人間の死を意味する。 人が死ぬと今まで蓄積したすべての情報がなくなる。 生きているゆえに、五感を通して脳が現在目の前にある物質を意識することができる。 物質に限らず、見るもの、味わうもの、触れるものなど、五感を通して入力されるすべてのことである。」 これを現実ととらえるなら、過去、未来についてはどう考えればよいのだろうか。 時間には過去、現在、未来がある。そう教えられ、そう理解し、受け入れてきた。 時間があり、動いていて、時間の経過と共に現在は過去に、未来は現在にやって来る。 誰もがそう考えている。それを否定する者はまずいないだろう。 人間には生きている今、現在がある。これは確かなことである。 「もう6年以上も前のことだが(2010年の終わり)、定年で退職する時、それまでに携わったたくさんの関係書類を廃棄した。およそ21年間は広報で働いていたので、その中には様々なイベントの立案、計画、運営記録、関係者名、お世話になった人たち等に関する膨大な情報があった。 処分しようとしているファイルを見ていると、忘れているたくさんの思い出がよみがえってきて懐かしく思った。 その時、残された情報を廃棄することが過去の思い出を無くすことと同じではないかとふと思った。過去は現在ではない。過去とは記録ではないのかと。 過去と未来があると思っているが実は現在しかないのかもしれないと。 その理由は脳が現在しか認識しない、認識していないことにある。 つまり、現在生きていて脳が働いているから、現実をとらえることができる。 それは現在のみである。 脳が現在しか認識しない以上、「過去は現在の中にある。未来も現在の中にある。」と考えられるのではないか。 そこで、現在の中にある過去とは何かと考えてみた。 過去とは記録のことではないか。言い換えるなら、過去は「現在がある」という記録である。 脳による想像が伴い、時間で変化するように思える。 記録には様々あるが、頭脳に蓄積された記憶、情報、映像、思い出などの記録、人が書いた日記や作った作品、コンピューターのハードディスクやメモリーに残されたデータ等、画像、映像、工場で作られた製品、建造物、自然界に残された考古学のもとになる資料などの様々な記録のことである。 その残されたすべての記録が過去からのものである。それらを人が生きていて、利用することができるのは現在である。 このように過去が現在の中にあるために記憶、記録として存在していると考えることができるように思える。 このことは時間として過去があるのではないことを示していると言えるのではないか。 過去とは脳、パソコン、自然界などに残された記録のことである。 記録がなくなれば過去はない。人間の脳は現在しか認識しない。 脳が現在しか認識しない以上、「過去は現在の中にある。未来も現在の中にある。」と 考えることが適切であるように思われる。 現在から見て、時間をさかのぼって過去があるわけではない。 たとえ10分前でも、1分前でもその過去の時間に戻ることはできない。 1時間前という過去はどこにあるのか。 あると思っているだけで、そのような時間は本当は存在していないのではないか。 全ては現在の中にあるように思える。 時間は人間が創り出した道具であり、自然界に見られる周期性、サイクルから作り出したものである。物の変化を時間で計ることは非常に便利である。 その便利さ故に、時間があると誰もが思うようになってしまった。 自然界には、時間があるのではなく、周期性があるだけである。 その周期性を人間を含め、動物も、植物も感じている。時間は人間が作ったものであるが、 時間が実在すると思い込んでいるのではないか。 変化はなぜあるのか。その答えとして、「時間が過ぎ去るから」と非常にうまく説明されてきた。しかし、時間があり、時間が過ぎ去るから変化があるのだろうか。これは重要な問いである。 周期性を含め変化があるので人間が時間を作った。それをいつの間にか実在するものと思い込んでしまったと考えることができるのではないか。そして時間が変化の理由として受け入れられてしまい、だれも疑問を持たなくなったのではないか。 時間が実在しないのであれば、変化の原因には別の理由があることになる。時間で表現される過去が無いとするなら、変化の原因をもう一度考え直す必要があるのではないか。 追記1: 現在のコピーは過去である。 今からビデオカメラで撮影することにする。外の公園で遊んでいる孫たちを撮る。 今を記録する。 しかし、今を記録に残すことはできても、それは今ではない。過去である。 撮った瞬間が数分前であっても、ビデオに写っているのは過去である。 今は実際には記録に残すことはできない。 今=過去になってしまうからである。この矛盾はどうして起きるのか。 矛盾が生じると思うのは、時間という過去があると思うからではないか。 現在をビデオに撮っても、それは現在を撮ったという意味で、その時点での記録であると考えれば矛盾ではないように思える。 撮影を開始すると、記録は残るが、その瞬間から撮った現在は存在しなくなる。 現在は絶えず変化している。 「過去は記録だ」という考えは間違っているのだろうか。 時間でいう過去は無いが変化の記録はある。 時間は人間が作ったもので、実在してはいないという前提である。 自分が年を取るのは、時間は関係ない。季節の変化も時間ではない。周期はある。 周期があるので、太陽の回りを地球が一周すると1年が経過する。この周期が1年である。人の年齢はその周期を何度経たかである。10年を経れば、10年の変化が生じる。 変化はある。しかし、これは時間によるのではないのではないか。 時間という考え方に脳が影響されているため、時間という考えから逃れることができない。 撮影する前、今の前はあるのか。 遊んでいる子供たちの様子を見ていても、確かに連続した今がある。 しかし、今を撮った瞬間から、それは現在の記録である。今の前の、未来はどこにあるのか。 やはり、未来もないのではないか。 瞬間という意味の今は、どこから始まるのか。 10秒後、1分後、10分後という過ぎ去った時間は同じように思える。 一連の流れの今、現在があるだけである。 同様にその前の時間、10秒前、一分前、10分前という時間も同じである。 一連の流れの今の前も変わらない現在があるだけであるように思える。 過去も未来も現在の中にあるとは、このような意味であると考えられる。 脳の中の記録の取り扱いは今は難しいが、例としてはビデオのように 記録として残されている。コピーすることが可能である。編集は可能である。 早送りも、スローモードも、スキップも可能である。 存在としてあるだけで、過去も未来もないのではないか。 一時間は一日を24で割ったものである。それは人間が考え出したものである。 時間が過ぎるのではなく、便利なものとして使う道具であるのではないか。 重さ、大きさ、長さは物理的に測る方法が確立されている。 美しさを計る物理的な単位はない。実体はない。思い込みである 時間は時計で測ることはできる。しかし、実体はあるのだろうか。それとも、思い込みなのだろうか。 昔、例えば江戸時代には時間という概念はなかったと思われる。 牛の刻とか酉の刻というような表現はあっても、時間が動いているという認識はなかったのではないか。 昔は時間をどのように考えていたのだろうか。 時間が無い時代には、年齢を重ねることはどのように生じていると考えたのだろうか。 恐らく、新年を迎えることが、歳を取ることであったと思われる。 全宇宙を考える時、どこであっても、今という時間は同じであるように思える。 しかし、場所が違うと、全く違う時間になってしまう。 今も数百億年も前の光が地球に届いている。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 現在は、現に在るという意味で、今を中心に脳が認識している間、大きくは人の一生の範囲を表すと定義できるように思う。 「今」は瞬間のことだけではなく、一日、一年、広くは現在を表すと考えることができる。現在を人の一生としてとらえることもできるように思う。 瞬間だけが今なのではない。脳は五感でしか外の世界と結びつくことができない。その脳は瞬間という意味を正確に把握することができない。物理的に決めても脳はそれを理解し、認識することはできないだろう。なぜならそれは人間の認識の限界を超えているからである。科学的な電子機器の方がその点では人間の感覚よりはるかに正確であるように思える。 どうつくろっても、すべてはあるがまま、ほんとうの姿であり、偽りでも、仮想でも、それはあるがままの現在、今、現に事実として存在している事柄、状態を意味する現実のことである。人にとって現在がすべてである。 繰り返しになるが、認識できるのは生きているからであり、脳が五感を通して入ってくる情報を処理しているからである。 ただし、五感は人によりその能力は違うものであり、生まれ育ってくる中で創られた認識も違っている。また、入ってくる情報もどれだけ正確なものであっても、うそや偽り、誤解や間違いが含まれていることもあり、同じ現実としても人により捉え方は当然違っている。しかし、それがそのまま現実である。 例1 遠くから、太陽から光を受けている地球を見ると、半分は日が当たり、半分は暗くなっている。地球は回転している。外から見ると、昨日も今日もない。全く同じように見える。回転しているだけである。明るい部分が暗くなり、暗い部分が明るくなる。明るい部分は今日であり、暗くなり、明るくなると次の日である。昨日はどこへ行ったのか。全く同じように動いているだけである。遠くから見ている場所を含め、地上の日の当たっている部分、そうでない部分であれ、すべてが現在である。 光は数百秒前の太陽の光から、数億年前の光までさまざまなものが地上に届く。それはそのまま現実である。 距離を考え、速さを考えると、時間がかかることになる。しかし、1万光年離れていても、どの場所であっても、脳が考えているすべては現在である。もちろん脳が現在、想像していることも含まれる。 昨日があるのではなく、人類は周期的に変化している自然界から、昨日を作り、過去とした。便宜上、時間はとても便利なツールとして利用することは必要と考えられる。しかし、現実には現在しかない。時間で考える昨日など本当はないのではないか。 例2 地球を離れ、遠く宇宙を旅行しているとしよう。現在はある。昨日はどこにあるのか。 過去は記録以外にはないではないか。 時計では時間が24時間過ぎたことを示している。だから一日が過ぎたと考える。 それは地球上での習慣ですべての変化、サイクルを時間で計算しているからである。 時間で24時間前は昨日であったということはできる。しかし、それはどこにもない。ただ記憶、記録として現在にある。それともどこか別の次元にでも過去を置いてきたとでも言えるのだろうか。 24時間前にどこどこを移動していたと表現することはできる。しかし、それは記録だけであり、時間でいう過去があるわけではない。時間は人類が創った便利な道具であるが、過去という時間があるわけではないのではないか。 ではタイムマシーンで過去には行けないではないか。 過去が記録であれば、タイムマシーンで時間を遡ることはできないように思える。 しかし、想像の世界を創り出すことはできる。 宇宙を見ている。五感を通し脳が働いている今、現実の事象として宇宙を見ることができる。これは現在のことである。見えるすべては現在である。 時間差はあるではないか。 時間はそれぞれの世界で違いがある。人間の社会で通じる時間はある。相対的な意味である。時間は絶対的な意味を持ってはいない。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ では、未来はどうなっているのか。 未来は現在働いている脳による想像、計画、予想のことであると定義できるのではないか。 未来は約束に基づく想像と計画である。それは脳が働いている現在の中にある。 脳は現実しか認識しない。しかし、想像力により未来を考えることはできる。 脳が現実の世界にある以上、想像による未来は現在形の中に存在している。 具体的に言えば、10年後の未来があるわけではなく、10年後の未来を想像しているだけである。10年後が現在になった時、それは現実である。想像していた内容とは違う場合も当然考えられる。 100年後、1000年後、1万年後、1億年後は未来ではあるが、現実の世界ではない。未来は現在の脳による想像の世界のことである。 その時が来れば現在となり、現実の世界となる。1億年後とは言え、無限に広がる未来から見るとほんの一瞬のことであり、その時が来るとそれが現在となり、現実の世界となる。 未来はこれから来る現実であり、今はまだない。あるのは現在だけである。 人間には現実である現在がすべてである。 未来は想像、計画、予想として現在にあると考えられる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ あるのは本当の姿だけである 真実とは現実すべてのことである。うそ、偽り、偽善、感情などを含むすべてのことである。あるのは本当の姿 現実だけである。同時に、現実は同じ状態にとどまることがない。現実は変化し続ける。自分も変化している。安定はない。 すべてに変化がある。変化は受け入れざるを得ないものである。 健康も病気も死も変化の一部である。変化を時間で捉えるとわかりやすい。 困難、問題、難題、自分にとって嫌なこと、なぜ起きるのか。様々な理由が考えられる。しかし、根本的に共通していること、それは「変化」である。 人はどこにいても、移動しても、職場を変えても、転居しても問題は残るし、問題は起きる。変化は人が求める場合もあるが、求めなくてもやってくる。自分の希望とはそぐわない場合もある。自分から変化する場合もある。いずれにしても、これは避けようのない現実であることに変わりはない。 現実は改善しても、しなくても現実としては変わらない。それがあるがままの姿である。あるのは現実のみであり、改善される場合でも、改善ざれた現在があるということである。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 誰でも今が一番若い 脳は現在だけを認識することから、人は誰でも今が一番若い 今生きている私は人生の中で一番若い時を生きている。 そんなことはない。今は 年老いている ・ ・ ・ と思うかもしれない。 しかし、本当は、いつでも今が一番若い ・ ・ ・ 誰でもそうだ。 なぜなら、今を除くと、後はすべてが過去形で、「若かった」からだ。 もちろん、若かったという過去の表現はある。しかし過去のその時は過ぎ去り、その時の若かった自分はいない。過去があったという表現はできる。 しかし、それは記録として残っているだけで、記憶や思い出の記録として存在しているという意味である。 過去は過ぎ去ってすでにないが、今はある。今は若いと言っても、すでに一番年老いた自分である。 今のあなたも人生の中で今以上に若いことはない。 あとはすべて若かった、過去形である。 明日になれば、さらに年を取った一番若い自分がいる。 それは同時に一番年老いた自分でもある。 いつでも今が一番若い。 だから、一番若い今を大切に考え、生きることが大切だ。 かつて自分が若かった時、若いことは知っていた。 歳をとり、やがて老い、老人となり、死んでいくことも知っていた。 いつまで生きるかは知らなかった。今も知らない。 しかし、死ぬ時は必ずやって来る。当たり前だ。死ななかった人はいない。 今までに300億人くらいは死んだだろうか。 脳死は死である。死後、考えることは出来ない。 人は死んだ後のことは全く分からないのだから、心配する必要はない。 心配するのは生きている証拠だ。 生きているから失うものがある。死んだら何も失うものはない。 死んだ先のことは考えない。死んだら何もわからないのだから。 生きていることが重要だ。生きている今ならで考えることができる。 考えることができれば、できる事もある。 精いっぱい脳を使い、生きること、人のためにできる事を考えること これがあるべき人間の一面ではないかと考える。 2017年5月 マイケル アレフ ![]() 2022年2月 時間についての疑問 現在、過去、未来があると教えられ、時計で時間を計ることが習慣になると、そこに疑問を持つことは難しくなる。誰でも過去という時間があると思っている。 昔、時計がなかった頃、人は1日、1年等の周期があることを知っていた。 今なんどき(何時)だ? という表現があったが、それは朝太陽が上り、夕に沈み、朝が来るという1日の決まったサイクルから、今という時がその周期の中でどの位置にいるかを問うものであった。それは時計の時間ではなかった。 時計が発明される以前、時間という考えはなかった。 月の満ち欠け、太陽の動き、季節の変化などの周期から暦を作った。 時計の発明により時間を計れるようになった。非常に利便性は向上したが、周期の本来の意味がわからなくなった。 変化は絶えずあった。何が変化をもたらすのかは分からなかった。物事の変化の理由のことである 物事の変化があることはなぜなのか? 何が変化をもたらしているのか? 変化はなぜあるのか? 人間は生まれてから死ぬまで成長と老化という変化がある。 種から成長した植物が花を咲かせ、種を作り、枯れていく。 生命だけでなく、あらゆる物が変化していく。星も生まれ、死んでいく。 時計が発明される以前、時間という考えはなかったため、時の流れのように考えられた。ただし、時とは何かがわからない。 時間について一つの疑問、わからないことがある。 今はスマホ等で映像を簡単に撮れるようになっているが、今という時間の映像を撮ると、その映像が今と同時進行で過去になることである。時間差があるようには思えない。今=過去 に思える。 それは時計で表現される時間でいう過去はないことを意味するのではないか? 過去はある。しかし、それは時間ではなく、今という記録であると考えることができる。 過去ということばの代わりに、「その時の今」に置き換えてみる。 何年前という表現は使えるが、過去ではなく、何年前の今である。 20年前の今であり、20年前の時間で言う過去、昔ではない。 写真に写っているのは過去ではあっても、今というその時の記録であり、時間でいう過去ではないと考えられる。 20年前であっても、それはその時の今という記録であり、時間の過去ではない。 時間に過去はない。あるのは現在という、今という時間だけである。 生きているのは今という時間だけである。 未来は時間ではなく、想像である。 今=過去であるなら、時間で言う20年前と20年前の今とでは、何か違いが生じるのか? もし過去という時間が無いなら、その時の今は、より正確な表現に思える。 過去は今があったという記録であり、時間でいう過去はないことになり、考え方に大きな変化が生じる。 変化をもたらしているのは時間ではないのか? 時間は、時計が発明されてから作られるようになった。時間は昔の周期から独立して使われるようになっている。今の時間という考えから、過去を同じ時間で計っている。しかし、数万年前、数億年前と表現するが、それは今の時計の時間に基づいている。同じ時間なのか? 距離=速さx時間 で表され、地上では間違いない。宇宙でも同じだと思っている。しかし、それは人間の知っている世界だけに限られたものかもしれない。 これはことばの表現の問題なのだろうか? 過去は今という現実の中に記憶、記録として存在している。 過去はあったと言っても記憶、記録として存在しているだけである。 時間は今という現在しか無いように思える。 今=過去 はあるがままの表現なのか? 時間は無いからか? 時間軸を移動すると、いつでも今になるのだろうか? ![]() 2022年11月 時間のパラドックスについて 今回は、新たに気付いたことを含め、単純に、時間という考えそのものに問題があることを説明したい。 背景 その1 雑感の中に、時間についての疑問を以下のように書いた。 「時間について一つの疑問、わからないことがある。 今はスマホ等で映像を簡単に撮れるようになっているが、今という時間の映像を撮ると、その映像が今と同時進行で過去になることである。時間差があるようには思えない。今=過去 に思える。」 映像を簡単に撮れなかった昔であれば、今が過去と同じであると想像することは出来なかったと思われる。 今=過去であれば、時間という考えに問題があることにならないだろうか? 時間は今しかない。今は同時に記録となる。人間はそれを記憶として覚えている。 過去を認識するのは、記録として覚えているからであるが、それは時間ではない。今の記録であると考える。(背景 その3に続く) 背景 その2 脳は今という時間しか認識しない。脳は過去という時間を認識することはない。 脳にあるのは記憶、記録である。それを覚えていているから、脳が過去の時間を認識しているように思えるが、過去という時間があることにはならない。 時間の流れと思うのは、わかりやすく、そう教えられてきたからだ。 時間は人類が作った表現であり、それはことばとして人間の理解を助けるものとして作られた道具である。 過去と未来があるという時間の流れはわかりやすい。人間の世界では時間ほど便利なものはないだろう。だからといって、間違いが無いとは言えない。 人間が思い込みで作り上げた価値観の世界は、信じることによる間違ったことばの世界である。人間による人間だけの世界であり、人間には真実の世界に見える。 受け入れることには注意が必要である。人間の世界は自然界のあるがままの現実の世界とは異なるからだ。 正義、平和、自由などみな人間が作ったことばである。 時間もそうである。元々はなかった。 時間はあると考え、当たり前になっているが、人間が作ったものである以上、自然界に元々あったと考えることは間違いかもしれない。 引力、重力、光、電磁波、元素、原子、遺伝子などは科学の進歩により、新たな発見の結果により作られた単語である。その存在は自然界に元々あったものである。 時間も同じではないか? どこに違いがあると言えるのか? 時間は変化を説明するために人間が作ったことばであり、概念である。 元々あったのではない。時間は未だに確立されてはいない。 変化はどう説明するのか? 時間で説明するとわかりやすい。 しかし、時間では確かな説明をすることはできない。 確かでないことを間違いの無いものと受け入れ認めることは、信じることと同じで、騙されること、真実の追求をあきらめることになる。 今とは何か? 人間にとって今ほど大切な時はない。(一般的には現在。過去と未来の間の時間である。今とは、現在、瞬間という意味から一日、一年、一生を表すこともある。) 脳は今しか認識しない。大切な思い出にはなるが、それは今の記録である。今は記憶、記録として残されるが、今を認識できるのは。自分が生きている今だけである。 人生は人の一生であるが、今という時の記録である。 今という時が過去、現在、未来と移動しているように思えるが、今は絶えず今であり、動いていない。 一日前から見ると、一日先の未来である今、 一年前から見ると、一年後の未来である今、 十年、百年、千年前から見ても、未来である今、 過去のすべての未来は今に収束するように思える。 今から考える未来はないのか? それは十年、百年、千年先は考えることはできる。未来は想像である。その時が来れば今になる。 過去から見れば、今が存在する未来の最先端であり、 未来から見れば、今が未来を作る出発点である。 今をどう考えるかで、未来を変えることは可能である。 このように、過去、未来があるのではなく、今という時が時間の流れのすべてであると考える。 人の一生は今の記録のことである。人それぞれに1日後、1年後、10年後、20年後、50年後の今があるとしても、それぞれの今の中で、同じ自分も、同じ世界も存在していない。すべてが変わっている。自分の年齢も、体も、脳の情報量も周りの環境も変わっている。その時の今はその時にしか存在していない。 背景 その3 5分後は過去か? 未来か? 5分間の映像を撮ってみる。 今を基準に5分後とは、5分経過した未来であるが、5分経過しても今は今である。 映像は5分前からの記録である。5分間の記録として残されている。 映像はスタートから5分経っていることが示されている。 映像は5分前からの今の記録が、今と同時に進行していることを示している。 過去は今の記録であると考えたが、実は過去では無い。 過去は時間の流れで昔のことであるが、今は過去ではない。今は今であり、今しかない。その今の映像は今の記録として残されている。 つまり時間で言う過去の記録ではなく、今の記録であり、今の映像の記録である。 今まで過去の映像だと考えたものは、今の映像のことで、その時の今の記録のことである。 しかし、今の映像の記録であっても、今だけではいつの今かがわからなくなってしまう。 そこで実際には無いが、わかりやすくするために、便宜的に、時間の流れを導入し、時間があるかのように使うことは仕方ないのかもしれない。時間の代わりに新しい表記が作られる時が来るかもしれない。 この様な背景があって、過去、現在、未来が使われるが、現実には過去も未来も無く、あるのは今だけである。 過去 現在 未来 があると教えられ、誰もがそう思っていても、あるのは現在、今のみである。 今を移動すると、過去にも未来にもなるように思えるが、今は今しかない。 今は過去にはならない。今の記録として残されていく。記憶、記録である。時間で言う過去ではない 時間が進めば未来にいることになるが、実際には時間は進まず今にいる。 1時間経てば、1時間後の未来にいるはずであるが、実際には今にいる。 時間に関係なく、いつでも今という現在にいる。 時計は人類が作った時間の経過を示す道具であり、時の流れを測るものではない、 未来と過去という表現に矛盾が生じるのは、過去と未来の考えに間違いがあるからではないか? つまり、時間には未来も過去もなく、今があるだけなのに、過去、現在、未来があると考えていることが、矛盾を生じさせているように思える。 この事実は、時間で表現される過去、未来がないことを裏付けているように思える。 時間に関係する質問 時の流れの中で過去も未来もなく今現在があるだけであれば、 今は、位置や場所に関係無く存在しているのだろうか、つまり、宇宙全ての場所で今は同じなのか? 今という単語の明確な定義はまだない。今後の課題である。 今とは、自然界に変化があることから、生きている人間の脳が五感によって、その変化を時の流れがあるように認識することのように思える。それは現在のこと、現実のこととも言える。 今には一定の時間という枠がない。 一生の間、生きていて脳が働いている間、一瞬も、一時間も、一日でも今であり、今が続く。 知的生命体であること、脳がそう認識するから、人間、人類共通の今を作っているのだろうか。 自然界の変化は、時の流れが起こしているとは思えないが、確かなことはわからない。 これからも考えていく必要があるだろう。 参考までに: 気付いたことであるが、この矛盾は西暦という時代を導入した時から生じているのかもしれない。西暦、紀元前という考え方に時間の反転があったのはなぜか? 例えばローマ建国は紀元前753年である。西暦から逆算した年になっている。 なぜ西暦に直したのか? ・ ・ ・ 深く考えたことはない。 実用日本語表現辞典によると以下のような説明が書かれていた。 「西暦とは、西欧で標準的に用いられている紀年法である。「西暦紀元」あるいは「キリスト紀元」と呼ばれることもある。 西暦はキリスト教における救世主イエス・キリストの誕生を紀元(元年)とする数え方である。キリスト誕生前の時代は紀元を起点として遡って数え、「紀元前」として扱う。紀元前と対比して紀元以降は「紀元後」という。 西暦は実際のところは6世紀頃に策定された紀年法である。すなわち、西暦元年から500余年の間は遡及的に西暦が割り当てられた期間であり、リアルタイムに西暦が用いられていたわけではない。また、西暦元年がイエス生誕年であるとは断定できず。最近の考証ではイエスの生誕年は実際は西暦元年よりも数年前と推定されている。だからといって西暦の数え方が今さら覆されるわけではない。」 ![]() 2024年8月 時計による時間は人類が作ったと考える理由 進展? 地球から火星までの距離は約7,800万キロで現在のロケットで行くと、およそ半年かかると言われている。 地球から離れると、太陽が昇り、沈むという一日は観測できず、一日というサイクルは無くなる。 月も見ることはなくなり、ひと月という観測もできない。 太陽の周りを一年かけて移動しているのではないので、一年という考えも違ってくるように思える。 地球を遠く離れた宇宙空間では一日、一カ月、一年というサイクルは無くなるので、いつでも今しかない。 人間が作った時計があるので、時間の計測により時間を計ることはできる。 しかし、その時間は地球上の人類が作った時計の時間である。 地球上にいるから、太陽、月があり一日、一月、一年というサイクルがあることに気付く。 しかし、地球上でなければ、そのサイクルはない。 この特殊な環境から、一日という長さを細かくして、一時間、一分、一秒という単位を作った。 この事実は、時計による時間は人間の道具であり、時の流れを計測しているのではないことを示している。 時間は、地球の自転、太陽の周りを回るサイクル等を計測し、考え出された道具である。 別の惑星の知的生命体は当然、置かれている環境から、異なる時間を測る方法を作り出すと考えられる。 人間にとって、時計で測る時間は非常に便利であり、それ無しの生活は考えられない。 しかし、人間には今という時間しかないことは明らかな事実に思える。 宇宙船に乗り、太陽系を離れ、天の川銀河の探索に出かける時を考えると、時計による地球時間はあっても、太陽は昇ってこないのであるから、今日という日も、明日という日もやって来ない。 あるのは今という時間だけである。 一日は24時間であり、一年は約365日である。それは人類が作った時間の考えである。 その意味は地球の自転一回転が一日と決めたことにあり、太陽の周りを一周することを一年と決めたことにある。 60歳とは地球が太陽のまわりを60周したという意味であり、老化するのは時間によるのではない。しかし、その老化の理由は別にあっても、現時点ではわからない。 以下は、以前に書いた内容の一部 過去 現在 未来 があると教えられ、誰もがそう思っていても、あるのは現在、今のみである。 今を移動すると、過去にも未来にもなるように思えるが、今は今しかない。 今は過去にはならない。今の記録として残されていく。記憶、記録である。時間で言う過去ではない 時間が進めば未来にいることになるが、実際には時間は進まず今にいる。 1時間経てば、1時間後の未来にいるはずであるが、実際には今にいる。 時間に関係なく、いつでも今という現在にいる。 時計は人類が作った時間の経過を示す道具であり、時の流れを測るものではない、 未来と過去という表現に矛盾が生じるのは、過去と未来の考えに間違いがあるからではないか? つまり、時間には未来も過去もなく、今があるだけなのに、過去、現在、未来があると考えていることが、矛盾を生じさせているように思える。 この事実は、時間で表現される過去、未来がないことを裏付けているように思える。 新たな問い 一年とは地球が太陽のまわりを一周する時間であると教えられ、そう思ってきたが、人間が考え作ったその地球上での時間を全宇宙に当てはめていることに、問題はないのだろうか? 光は一秒に30万キロの速度であり、光が一年間に進む距離は一光年と教えられてきた。 光以上の速さはなく、絶対的なもののような考えであった。ところが、最近では、宇宙の果ての空間は光の数倍以上の速度で拡がっていて、その果ての外からの光は地上に届かないため、宇宙の果ての外側は現時点では観測できないという。 光の速さを一光年と表現しているが、一年は現在、地球上で観測している太陽の周りを一周することである。星の光を基準に、数万光年、数億光年という表現を使っているが、それは光の速さと時間から距離を表しているのだろうか? 地球ができる前には、一年という周期は無かった。太陽ができる前に地球の時間は無かった。その当時の時の経過は今の時間と同じなのだろうか? 地球が生まれる以前は、人類が現在考えている時間は無かったのではないだろうか? 一光年という考え方に問題はないのだろうか? 人間が考え作ったその地球上での時間を全宇宙に当てはめていることに、問題はないのだろうか? 過去、現在、未来という考え方に問題はないのだろうか? * 追記 わからなければ、「時間が老化の原因であると考えることと同じではないか」と思うかもしれないが、 ここに重要な問題点と改善点がある。 「わからなければ、何を信じていても問題が無い」というのは、大昔の人々の考え方であり、今も人類の大多数はそう考えている。 昔の人々は、わからないから雷、地震、津波、台風も、神様を信じ、その理由にしてきた。 間違いに気付くなら、わからないことは、今後の研究課題として残しておくことが必要である。 わからなければ何でも信じてかまわないと考えることは、大昔からの価値観を持ち続けることである。 シリーズ44 人間についての考察、知的生命体が抱える問題の核心は、正にこの点の指摘である。 知的生命体である人間、人類にとって真の敵は、自分達の愚かさにある。 それは実体の無い対象を、存在が在ることにしてしまう脳の働きのことである。 わからなければ、何でもよいことにしてしまう。 どうでもよいと、考えないようになり、無関心でいられるようになる。反対に、極端に走ることにもなる。 それは人間が知的生命体であることを忘れることである。 思考実験? 西暦2050年人類は太陽系を離れた宇宙探検に出かける。 巨大な宇宙船の中では、たくさんの人が働いている。 地球上と同じ環境が作られ、空気、重力、照明もあり、快適な生活ができる。 ところが、生活している人の言葉に変化が生じている。 昨日、今日、明日という言葉が使われなくなっている。 環境が変わったせいである。 今まで当たり前に思っていた朝がやってこない。 地球上では、太陽が昇って来ることで、朝という始まりがあったのに、太陽系の外ではそれが無い。 一日が始まり、仕事に出掛け、一日働いても太陽が沈むことはない。夜はないからだ。 仕事を終え、疲れをとるために睡眠をとるが、朝の太陽は昇ってくることはない。次の日はやってこない。 昨日、今日、明日は地球上で太陽があり、地球の自転があるために作られた表現であるからだ。 地球の自転により朝、昼、夜というサイクルがあったが、太陽系を離れた場所ではそのサイクルはない。遠くに星は見えるが、外は暗い宇宙空間である。 地球の時間を測る時計はあるので、地球上での時間知ることはできる。 ただし、地球を離れれば地球時間に頼ることはなくなる。 太陽系を離れると、地球の自転により作られる一日はなく、地球が太陽のまわりを一周する一年もない。 そこにあるのは現在という今だけである。 地球人は、地球の自転による一日を24に分け一時間、一時間は60分、一分は60秒と決めていて、時計の時間による経過があると教えられる。 時計による時間は、地球上での太陽、地球の周期(サイクル)から作られている。時間は人類が作った地球上では非常に便利な道具である。 しかし、時計の時間は変化の理由ではない。 地球から離れ、太陽系の外に出れば、地球上の時間に頼る意味がなくなる。 人間の作った時間の意味が失われるからである。 宇宙に出ると、地球での昨日、今日、明日が無くなり、時計の時間に意味が無くなるのであれば、過去、現在、未来という時間はどうなるのか? ![]() 2024年9月 * 永遠に続く現在がある 人間が認識できるのは、命があり、生きていて、脳が働いている今だけである。 認識していることは、今に限られている。 今とは何か? 今とは、時計で測れる時間のことではない。 瞬間でも、一秒、一時間でもない。今とは時間ではない。 今という言葉を、時間で明確に説明することはできない。 辞典には、過去と未来の境になる時とある。現在とも書かれている。 マイケル アレフはこう考える。 その1 今とは脳が働いている意識のある現在のことである。 現在とは五感により現実が存在することを認識する脳の働きを意味している。 それは時間ではなく、現実の存在に対する意識のことである。 長い間、今という表現を時間の一部と考えてきた。 しかし、今という時間を定義することはできない。 時間で表現する今はないからだ。 この事実は、今という時間だけでなく、時間で表現されてきた過去も未来もないことを意味する。 あるのは現在だけである。 脳は現在しか認識できないからである。 繰り返しておこう。 長い間、人類は時計による時間を発明し、利用してきた。これほど便利なものはないだろう。時間を否定する人はいないし、時間が無いなどと考える人もいない。 しかし、わかりやすいから時間で説明されてきてはいても、起きる全ての変化は、時間が理由ではない。 人類が作った時間の利便性を否定しているのではない。 ここで説明し、理解を求めているのは、時計による時間は人間の発明であり、時の流れを時間で考える今は無いという事実である。 時間で表現される過去と未来の境である今はない。その堺を区別することはできない。 なぜなら、時間の過去も未来もなく、現在だけがあるからだ。 永遠に続く現在がある。 現実に存在している現在が、時間に関係なく、いつも、絶えずあるという意味である。 現在に変化がないという意味ではない。現在には時間のような区切りは存在しない。 現在とは、時間の今を一瞬と考え、写真のように動きが止まった状態のことではない。現在はいつも同じ状態ではない、絶えず変化している。 現在とは、人の現実の存在に対する意識がある限り、一日だけでなく一生が含まれる。つまり、生きている間、いつでも現在である。今と表現することもできるが、時間でいう今ではなく、現在という意味である。 人は皆、現在という今を生きている。人は生きている限りいつでも、現在という今を生きているのである。 これが今を過去と未来の境目であると考えていることに修正が必要な理由である。 また時間で教えられてきた過去、今、未来という時間はなく、現在だけが永遠に在ると考える理由である。 * * * * * * * * * * その2 歴史の理解がどのように変わっても、歴史は在るがままの現在の記録であり、それが歴史である。つまり、時間が変わっていくのではなく、現在の在るがままの記録が残されていく。 現実はどのように変えても現実である。 世の中を変えても、現実は変わらない。現実を修正することはできるが、現実を修正しても、現実は変わらない。あるのはいつも現実である。 脳が五感を通して認識しているのは、現在のことであるからだ。 今という現在がある。10分経っても今という現在である。夜になり寝るときも現在である。朝起きても、現在である。 脳は今という現在しか認識しないため、人間には現在しかない。 これまで、過去を過ぎ去っていく昨日があるように考えていた。 それは今という現在が脳に記憶として残るからであり、同時に全てが変化していくからだと考える。 現実は歴史として残されていても、時間でいう過去ではない。歴史は現在の残されていく記録である。 過去という表現は時間の経過を表してきた。人間が作り出した時間は過ぎ去るように思えるので過去と表現した。 しかし、現在だけが永遠にあるのが事実なら、時間が過ぎ去ることはない。 過ぎ去るように思えても、それは時間ではないからだ。 過ぎ去るのは時間ではない。が、人類が作った時間は非常に便利であるため、それを時計の時間として明確に区別すれば、変更は要らないように思える。 ただし、考えの変更は必要である。 例えをあげてみる。 一日とは、地球が一回自転することである。 一年とは、地球が太陽のまわりを一周することである。 地球は太陽のまわりを一周する間に365回自転する。 これは時間ではなく、周期、サイクルのことである。 地球上での観察から発見した。 このことに変更はいらない。現実であるからだ。 現実である地球の自転により地球上では、朝、昼、晩の一日がある。昨日、今日、明日もある。一年もある。 カレンダーはこの周期に基づいて作られている。 これに対し、一日は24時間というのは、時計の時間である。 一時間は60分、一分は60秒も、人間の作った時計の時間である。 時間は昨日、今日、明日を時の流れと考えるようになり、わかりやすく、便利なものとして作られた。今では時間が時の流れであることを疑う人はいない。 この意味、この違いを理解する必要がある。 在るがままの現実と人間が作ったものには大きな隔たりがある。 時計の時間は在るがままの現実ではなく、人間が作った道具である。 時間は一つの例にすぎない。 時の流れの時間が無く、あるのは現在だけであることが理解されるなら、人類の在り方を基本から考え直す必要が生じる。 それは人類に自分達の生き方の修正と決意を求めるものになる。 * * * * * * * * * * この事実に示される 重要な意味について 今回ここに書いた内容は、新しいことではなく、在るがままの現実のことである。 人類は人間の世界を作ってきたが、それは地球上にいる人類の世界に限定されている。その世界を離れれば、人間の世界ではない。人間の価値観は通用しない。 無限に拡がる宇宙、大自然は、人間の考え、価値観の及ばない世界である。 知的生命体である人類はその世界と調和した生き方をすることが求められている。 具体的に言うなら、宇宙には、人類の正義はない。善悪は無い。正しいも、間違いもない。美しいも、醜いもない。あるのは、在るがままの現実だけである。 人類は無いものをあると思い込み、自分達の作った価値観を間違いないものと信じて疑わないが、それは人間だけの世界の考えである。 現在人類に求められているのは、人間の作った考えではなく、全宇宙に調和した考えに基づく価値観を見出だすことである。 * 争いを続ける人類を見て、争いを止めさせようと考える高度な知能を持つ生命体はいるだろうか? 好戦的になるのは優越感を求め利益追求に走る欲望が関係する。正義などの言い訳がその欲望を覆い隠す。 考える能力がある知的生命体であっても、それぞれの成長過程、段階で様々な違いが考えられる。争いあって自滅する道を歩む知的生命体は多いかもしれない。 全宇宙に調和した考えに基づく価値観を見出すことは、高度な知能を持つ生命体の共通の目標なのかもしれない。 それを理解するだけでも、争いを始めることや争いに介入することはないと考える。 マイケルアレフ 2024年9月 ![]() 2 |