マイケルアレフの ことばの認識は世界を変える |
II-2. 「無いものを在ることにする」 脳の働きを理解する 人類が数千年もの間、信じてきたことに修正が必要であると説明を書いても、思い込み、信じていることを変えることは簡単ではない。理解できないのではなく、理解したくないことも関係する。 情報が非常に限られていた時代に、現実の意味がわからなこと、理解できないことから、想像で作った考えがある。死後の世界、天国、地獄、神様、閻魔様などがある。 その存在は無くても、信じればあることになる。 物理的に理解できることであれば、修正はしやすいが、人の心、認識を変えることは難しい。 思い込み、信じていることにより、感情が影響するからだ。 具体的な例として、人間の認識にある美しい/醜い、良い/悪い、善/悪、美味しい/不味いなどの価値観は、幼少の頃より作られたものであり、「無いものをあることにする」 脳の働きである、と書いたが、簡単には理解できるとは思えない。有史以来、数千年も続いてきたことだ。 価値観は、そう教えられ、思い込んでいるから、あるのであり、外の自然界に、その事実はない。 美しいは人の内面にある。それは教えられ、そう思うようになった認識、価値観に理由がある。 人間の世界以外の自然界は、在るがままの事実、現実、真実で、人の認識による評価、判断の影響を受けない世界である。 外の世界に美しさがあるのではない。物に美しいという事実はない。 美しいだけではない。自然界に醜いはない。醜いは人の心、認識にある。 自然界の事実に、良い/悪い、はない。それは、人間の心にある。 あらゆる人間の認識にある価値観はそう教えられ、思い込みようになったものである。 人を思い込ませ、信じさせることができれば、何であっても、正しいことにすることができる。 これは、「無いものをあることにする」 脳の働きである。 当たり前にあると思われていても、実は無いのではないか? と新たに気づくようになったことがある。 数字を数えてみる。1、2、3、4、5、6、* * * 自然数である。 数は元々あったのではなく、発見したのでもないのではないか? 教えられたから、そう思い込んでいるのではないか? 今でも 「1」 とは何か? 「 数」 とは何か? がわかっているわけではない。 文明が発展する中でゼロ0、分数、少数、マイナスの数などが発見されたと教えられたが、数学は数とは何かを追求する学問で、数が何かはわかっていない。 自然数の1、2、3、4、5 も、元々は無かった。 数は、元々、存在していないのではないか? 存在していないものを、人間が作ってきたのではないか? その他のシリーズIII、 難しい? 1+1=2 の説明 わかっているつもりでもわかっていない簡単と思うことの間違いについて書いた。 10進法は元々あるのではなく人間が作ったものである。 コンピューターに使われている 0と1 はトランジスターのスイッチ機能から作られた2進法の応用である。8進法、16進法など、新たな考えで作られ続けている。 これらは、当たり前にあると思っていても、元々、存在がなかったもので、人間が考えることで、便利で使い勝手の良いものを作ってきた。 それを元々あるもの、当たり前にあるもの、と思うようになったのではないか? 無いものでも知らない内に、存在していることにする脳の働きに思える。 1、2、3、4、5、6、と数を数えるのに時間がかかる。 時の間を計ることで時間を計ることができる。 時計が発明され、時間を計ることができるようになった。 これほど便利なものはない。 しかし、当たり前にあると思っていても、数には存在が無く人間が作った便利なものであると考えられるように、時の経過という時間の存在は、人間が便利なものとして作り、あると思い込んでいるのではないか? 今現在が過ぎ去ると過去になるが、それは未来のことである。 未来は今現在が作り出す結果であるが、結果は過去のことである。 未来と過去は同じではないか? これは「時間が今現在しかないから」ではないか? 過去も未来も事実ではなく、人間が作った考えではないか? 太陽系の外では、太陽が昇る明日はない。日がくれることもない。 一日はなく、今現在だけがある。 昨日、明日も、時間も人間が作り、あると思い込んでいるだけではないか? 人の年齢は地球が太陽のまわりを何回まわったか? という意味と同じに思える。 太陽系の外ではその回数はない。その年齢は無く、その歳をとることはない。 老化の理由は未だわからないが、年齢は人間が作り、あると思い込んでいるのではないか? 自然界には秩序があることから人類は物理の法則等を発見した。 それは発見ではあっても、法則は人類が作ったものである。 自然界には事実があるだけで、その事実には人間の考え、評価、判断は含まれない。 法則は人間が考え、作ったもので、人間の世界にはあるが、事実ではない。 大自然や宇宙の在るがままの事実とは別である。 大自然、宇宙はそこにある変化を含め、事実、現実、真実である。 人間の世界では、考えにより無いものが作られている。 評価し、判断し、それがあると信じているように思える。 思い込み信じることは、考えるという人間の持つ機能を失わせる理由なのかもしれない。 人間を初め、全ての知的生命体は、独自の価値観で世界を作っていても、事実に調和した世界を築くことが、目標であるのではないか、と考える。 答は無い。答はある。どちらが正しいのか? 正しいとは、その時点で修正する必要がないと考えることである、と書いた。 人間に不変的、絶対正しいは、ないからである。 今回、人間の考えから作られる価値観も、数も、時間も、元々あるのではなく、人類が作ってきたものであるのではないか、とその説明を書いた。 この内容は、読むだけでなく、自分でじっくり考えてみる必要がある。 次回は 「無いものをあることにする」 脳の働きから、事実として見えてきた人間の在り方について説明を試みる。よく考えて準備するために時間がかかりそうである。 次回の予定:: 8月2日(土) マイケル アレフ 7月4日(金) 追記 新たに気づいたこと 「無いものを在ることにする」 脳の働きについて知ること、理解することは、非常に重要である。 人類が戦争を止められないのは、利己的な正義という価値観、信じるという誤った認識を持っていることに気づいていないことにある。 正しい義ではない。利己的な偽である。自分達の利己的な動機を覆い隠した考えを正しいと一方的に(互いに)主張し、そう信じている。 地球は人類の所有物ではない。土地は国家のものではない。個人のものでもない。 AIに人間の持つ「価値観を信じる」という機能を持たせるなら、 人間と同じように評価、判断するようになる。 今に至るまで、人類でさえその間違いに気づかないでいた。 現在の脳の働きに気づかないまま、間違っている人類の考え、考え方による評価、判断をAIがするようになったら、現在人間がしている戦争を受け継ぐことになりかねない。 人間の持つ価値観、思い込みによる信じるという脳の働きを理解し、修正するが、必要である。 それを知らず、理解せずに、人工知能に移植するなら、AIは同じ働きをするようになる。非常に危険である。 無いものを在ることにする 脳の働き について知ること、理解することは、非常に重要である。 |
4月26日(土) シリーズ46 知的生命体の理想 その1回目 I. 前置き 人間は 「言葉を持ち考える力がある]という意味で、知的生命体であると書いた。。 その考える力により、人類は文明を築き上げてきた。 科学の進歩は新しい情報を提供し、技術力を発展させ、人間の遺伝子と脳の働きを明らかにし、世界を大きく変えてきた。 人類が今直面している最大の問題の一つは、過去において情報が非常に少ない時期に人々が考えることにより作り上げてきた常識、価値観をそのまま受け継いていることにある。 数千年にわたり情報が少ない中で人々が考え、作り上げた価値観と、現在の膨大な情報量とその内容に基づく考えや価値観との間には、大きな違い、隔たりがある。 にもかかわらず、人々の認識は昔のままなのである。 良い/悪いという常識を含むほとんど全ての価値観と、想像により作られた天国、地獄、死後の世界などは、主に地球上の人間が作り上げてきたもので、それは地球上の人間社会だけに通用してきた考えである。 宇宙には人類が作った良い/悪いという価値観はない。それが適応されることはない。死後の世界はない。 宇宙に在るのは、在るがままという事実だけである。人間はそこから学ぶことができる。 在るがままという事実に調和した考えを持つことが、知的生命体全ての共通の目標であると考える。 人間が発見し、発明し、作り上げたと思ってきた個人の業績は人間の世界の中では、高く評価され、その人は偉い人間のように扱われてきた。しかし、その全ての元は人類以前からすでにあった。 具体的に言うと、 人類は、物質がエネルギーであることを発見し、原子力によるエネルギーを使うことができるようになった。現在、世界中で核融合により無限に思えるエネルギーを作り出す研究開発が行われている。 しかし、太陽は50億年も前から核融合によりエネルギーを放出し続けている。 銀河系には太陽のような恒星が2000億以上あるとされる。 物質が原子から作られていることを発見し、生命体が遺伝子から作られていることがわかり、その応用ができるようになっても、それは人類が知らなかっただけで、数十億年も前からあった。 その発見を人間の業績のように誇り、優越感に浸ることは、愚かさを示すことではないか? 人間に、人類に、それを誇り高ぶる理由はない。 これが在るがままという事実を認識することの意味である。 この事実を理解し認識できれば、人間の存在意味をより深く知り、理解し、人間の素晴らしさを認識することができる。それは人類の愚かさからの解放を意味することになる。 犯罪を無くすことも、戦争で争うこともなくすことができると考える。 ただし、今までに作られてきた人間の認識を修正することはできるか? という困難極まりない課題を克服しなければならない。 今回のシリーズ46 では、これまで考えてきたこの問題をさらにわかりやすく、 * 人間の世界と宇宙という大自然との違い、 * 人間の考えが、在るがままという自然界とどのように違うのか について説明を試みる。 シリーズ46 の内容予定 I. 前置き II. 人類の歩みを修正するために必要とされる認識 III. 古くからの価値観を捨て去る IV. 人間の理想の姿を考える つづく 次回の予定 5月4日(日) シリーズ46 知的生命体の理想 II. 人類の歩みを修正するために必要とされる認識 |
5月4日(日) 補足 人間の大人は子供が持っている能力を過小評価してきた。大人の方が知識も経験も力もある。大人の方が偉い。しかし、そう考えることには重大な間違いがある。 子供には、教えられていない情報がたくさんある。経験していないことが山ほどある。 それを大人は子供より偉い等と考えている大人こそ愚かではないか? 問題提起である。 子供は知的生命体の能力が十分あるのに、大人になる頃にはそれがなくなるだけでなく、 愚かになるのはなぜか? 一人では生きていけない子供にたいして、大人が躾と称して虐待を繰り返すのはなぜか? どこに大人が子供より偉い理由があるのか? 知識や経験があれば、それは自分が誇り、威張り、力があることになり、正当化されるのか? 大人の世界でセクハラやパワハラが許されなくなったのはなぜか? 家庭内暴力が許されなくなったのはなぜか? その意味がわからないようでは、子供に劣る能力しかないではないか? それでも自分の方が偉いと子供に力があることを見せつけるのか? 考えてみよう。 そうなってしまう大人も以前は子供だった。 そんな大人にはなりたくなかったのに、そうなってしまった。なぜだろう? 簡単で明解な答がある。 大人の社会に人間という特定の模範はないからだ。 大人は子供を見下し、大人の悪い模範を見せ、見習わせている。 大人全部がそうではない? と思っても、ニュースでは絶えず、毎日のように犯罪が起き、人が殺されているニュースを伝えている。戦争で子供を含むたくさんの人が殺されている。ニュースで報道される法を犯す犯罪者は基本的に皆大人である。 犯罪は大人の世界にある。子供はそれを見習っている。 子供の間でいじめがあるのは、大人の手本があるからではないか? 地球は人類のものだと思い込んでいる人間がたくさんいるのはなぜか? それは今後の月、火星、太陽系、銀河系、宇宙の全てを自分のものにしたいと望む人間の愚かさに気付かない姿である。その愚かさはどこから来るのか? それは考えることを忘れ、疑問を持たなくなるからである。 人間は知的生命体である。その意味は、言葉により考えることができるからである。 しかし、優越感に縛られ、利己的になる。 大衆の欲望に飲み込まれ、それが常識と思い込み、信じるようになる。 常識を受け入れることは、それが当たり前で、皆と同じ、正しいことになる。 そうなると、人は疑問を持つことも、疑うこともなくなる。 幼い頃、「なぜかな、なんだろう? 」という思いがあったが、歳を取るにつれなくなった。 見習うべき大人の模範、社会の在り方が子供に価値観を植え付け、考えなくさせている。 これが幼少の時期から、人間の存在理由について学習する必要がある理由である。 人類全体がその歩みを修正する必要に気付く必要がある。 ![]() シリーズ46 知的生命体の理想 その2回目 II. 人類の歩みを修正するために必要とされる理解 修正を可能にするのは、幼少時からの教育環境と学習内容。 それは幼児期から適切な情報提供をすることにより、人間の在るがままの事実を知り、理解し、認識するのを助けることになる。 全ての人が以下の内容を理解している必要がある。 この理解が無ければ、在るがままの事実、現実、真実を知ること、理解すること、認識することはできない。 II-1. ヒトゲノム遺伝子から作られる人間の意味 人間の体は遺伝子により作られている。 自分という存在も、遺伝子と脳が作っている。 知識としては持っていても、その意味に気付いていないかもしれない。 説明はシリーズ45の以下の部分に書いた。 その5回目 私、自分という存在について その6回目 デカルトの「我思う故に我あり」という表現の背景に修正が必要な理由 ヒトゲノムは環境に適応して生きる知的生命体の遺伝子であり、地球上では人間、人類として存在している。 II-2. 脳の働きの問題点を理解する。 脳には「存在が無いものでさえ、在ることにする」という思い込みにより信じるという働きがある。このことを知り、理解することが、今までの人間の重大な誤りを修正する助けになる。 説明はシリーズ45の以下の部分に書いた。 その7回目 人間の存在の意味について 以上の 1. と 2. の理解が、在るがままの事実、現実、真実を知ること、理解すること、認識することに不可欠である。 3. 模範という言葉 人間の子供は大人の模範を必要としていると考えられてきている。 しかし、大人に良い模範、悪い模範という価値観があり判断していても、それは模範ではない。模範とは在るがままのことであるからだ。 それは天気が良い/悪いと言っても、天気に良い/悪いは無く、天気とは在るがままの事実のことであるのと同じである。 事実がある。それを人間は良い/悪い等と評価、判断している。正当化する理由も考える。 なぜそうなるのか、その理由を理解する必要がある。 花が美しいと誰が決めたのか? ゴキブリが醜いと誰が決めたのか? 多数決? 正しいと思う人が多ければ正しいことになり、 間違いだと思う人が多ければ間違いになるのか? 評価、判断は、人間の内面、人の持っている価値観によって違ってくる。 人の評価、判断が間違っているのか? 価値観が間違いなのか? 価値観は、生まれ育った環境によって作られる。 新生児に価値観は無い。幼い子供にもない。その後時間を経て、作られていく。 天気や模範などの表現と同じように、価値観に良い/悪いは無い。 人は勝手に良い/悪いがあると思い込んでいる。 美しいと感じるなら、それが真実と思っても、醜いと感じる人がいると同じように、両方共にその感情は作られたもので、好き/嫌いという表現である。 人間は、人類は、在るがままという事実を、良い/悪いと評価、判断して決めてきたが、勝手にそう思っているだけである。 人間そのものに良い/悪いはない。良い人間/悪い人間はいない。人間は在るがままの事実として存在している。 価値観はある。しかし、それにより良い/悪いと評価することは、間違いである。 美しい/醜いと決めることはできない 善/悪を決めることはできない。 そう判断することは、「存在が無いものでさえ、在ることにする」 脳の働きであるからである。 敵であれば、殺すことは良いことになる、人の持つ価値観で判断するからである。 価値観はあっても、作られたものである。それにより判断することは、大きな間違いである。 人類はそのことに今に至るまで気付かなかった。 これを修正する必要がある。 先ずは、事実を知り、理解することから始めることと考える。 つづく 次回の予定 5月11日(日) シリーズ46 知的生命体の理想 その3回目 III. 古くからの価値観を捨て去る 具体例で考える |
5月11日 (日) その3回目 具体的な例で考える III.. 古くからの価値観を捨て去る ・ ・ ・ どのようにして? それは適切な情報と人間の持つ学習機能が、在るがままの事実を知り、理解し、認識することによる。 II-1. ヒトゲノム遺伝子から作られる人間の意味に基づく 命について; 命とは、死とは、殺すとは * 命について 人間の考えは、人間が作ったものである。その考えは正しいということではない。 正しいという考えも人間が作ったものである。 命が無ければ何もできない。その通りである。だから、命は大切であると考えられている。 情報がほとんど無い時代から、考える力がそう思わせてきた。 命が大切だというのは、人間の考えである。自然界には、命が大切だという考えはない。 大切という考えそのものがない。 命は在るがままという事実である。 事実を良い/悪いなどと人の価値観で評価、判断することに間違いがある。 どれほど人間の命が大切だと思っても、今までに死ななかった人間はいない。 なぜ生まれてきた人間は全て死ぬのだろうか? 人間だけではない。身近にいる全ての生命体は死に消え行くように思える。 星や銀河でさえ生まれては死んで消え去っていくと表現される。 広大な宇宙、大自然に、命が大切だという人間の考えはない。 人間は、命は大切だと言いながら、戦争では互いに殺し合い、数えきれないほどの人間が殺されてきている。戦争だけではない。凶悪犯罪、殺人事件は世界中で毎日起きている。 愛する人の命ほど大切なものはない。しかし、大嫌いな人、憎い人の命は無い方がいい。 大切な人の命であれば、戦争で戦って敵の命を奪っても守ろうとする。 これが命に対する基本的な人間の考えか? 命が大切な理由はどこにあるのか? 人の持つ価値観で変わっている。 人間は食料にするため膨大な数の動物、鳥、魚、植物などの命を殺している。 人間以外の命は大切ではないからか? (マタイによる福音書6:25 命は食べ物にまさる? 真実を求めて ) なぜ人間の命だけが大切なのか? 人間の命と人間以外の命は違うものか? どこに違いがあるのか? 明確な答えが見つからないのは、人間の矛盾した考えにある。 人間に価値観はある。しかし、価値観の前に事実が先にある。 人間の考えに矛盾が生じるのは、存在している事実を、人間が価値観で評価、判断していることにある。 価値観は人の育った環境によって作られたもので、場所によって、時代によって、教育によっても違う。それを同じだと考えていることに間違いがある。 人は事実をその人の持つ異なる価値観で判断している。 地域、民族、言語、宗教、国などが違えば、それぞれ自分達が正しいと考え、主張する。 これが理由で、人類は多数決で決めることが最善の方法だと考えるようになり、民主主義の考え方ができた背景に思える。 選挙等の多数決の原理、数の多いことで決めることが正しいと考えていることに問題を解決できない理由があるのではないか? 自然界は、在るがままという事実であり、人間の考えに基づいているのではない。 そこに人間の価値観はない。 人類は、事実を人間の価値観で評価、判断することが、間違いであることに、気付いていない。 命は存在、在るがままという事実である。 人間は、命を含め言葉の定義を考え、作ってきたが、全ての言葉に意味はあっても、固定的、断定的な定義は存在しない。自然界の全てが変化していて、不変的なものはないからである。 命の意味とは何か? 以下はフェイスブックを通して送られてきた意味深い知恵の言葉である。 ある偉大な考える人は、"命の意味は何か" と質問された。 A Great thinker was asked, 'What is the meaning of life?' He replied, “LIFE ITSELF has no meaning. It`s an opportunity to create a meaning.” 彼は答えた。“命そのものに意味はない。それは意味を作り出す機会である。” 人間の命は、知的生命体の命としてあり、学習し考え、自分を成長させ役立て、同時に人生を楽しみ、個人ではなく人間であることの意味とその素晴らしさを示すことで、世界に模範を示すことがきるように思える。 * 死について 死は、命と同じように、在るがままという事実である。 死の意味がわからなかった時代、想像でその死の世界を作り出し、それがあると信じてきたが、死後の世界は無く、天国も地獄も無い。 人間は事実を人間の想像で勝手なものに変え、信じてきている。 死んだことが無いのに、死が何かわかるのか? 脳は生きているから、五感により現実を認識することができる、脳死は死である。 脳が働いていない脳死の状態で、経験することは不可能である。 新しいことを学び、経験できるのは命があり、生きているからである。 死んだ人が生き返ったとされる事例が報告されるとしても、それはその人が死んだと判断されたことに誤りがあるかも知れず、 「無いものでも在ることにする」 信じるという脳の働きが関係しているかもしれない。仮にそう思えたとしても、人は死ぬ定めから逃れることはできない。 今までに数百億人が生まれては死んだ。それは在るがままという事実である。 そうありたいという強い願いからか、良い人は天国に行き、悪い人は地獄に落ちるなどの考えが作られてきた。事実に基づいていない古い常識や価値観は、捨て去る必要がある。 何度も繰り返すことになるが、人間は事実を想像により、好きなように、勝手に解釈し、作り上げてきたが、それは止めなければならない。 情報の少ない時代の考えをそのまま受け継いでいる現状は修正を必要としている。 死とは何か? 存在がなくなることである。 人間の場合、脳死が人間としての意味を失うことを意味する。 脳が死に、無くなると、自分という存在は無くなる。 五感による外の世界を知る機能がなく、考えることはできない。体を維持することもできない。 * 殺す 殺すとは、生命体から生きる可能性を奪うという意味である その事実に良い/悪いはない。 人間は自分達の考えで良い/悪いを判断してきた。 良い/悪いは無い。それは人間の考えである。 それが敵を作り、戦争で人を殺すことを正当化させてきた。 犯罪者である死刑囚が処刑により殺されることに良い/悪いはない。 それは人間社会で決めたことである。ルールや法律は人間の世界にはある。 その判断に修正の必要がないと考えるなら、それはその時点では、正しいという意味である。 その判断に修正が必要があると考えるなら、それはその時点では、間違っているという意味である。どちらの場合も、不変的なものではない。 問題点に気付き、反省し、修正することは進歩と考えるが、時にそれが後退であることもある。 つまり、人間の世界に絶対確かな考えは存在していない。それが事実、真実、現実である。 これが、人間は考えることにより、大自然に調和した理想の姿を追い続ける定めにある、と考える理由である。 つづく 次回の予定 * 命について、続き 人間の新生児の存在から学ぶ 人間の子供は人類の子孫であり、個人の所有物ではない。 今後の予定 II-1. * 自分に才能はあるか * 大人の意味を考え、作り直す II-2. 「無いものを在ることにする」 脳の働きを理解するに基づく具体的な例 * 恐怖はなぜあるのか * 弱肉強食の背後にある優越感 * 所有することの意味について |
5月18日 (日) その4回目 III. 古くからの価値観を捨て去る 具体的な例で考える 人間の新生児の存在から学ぶ 人間の子供は人類の子孫であり、個人のものではない。 * 人間の新生児の存在から学ぶ 人間が新生児として産まれてきた時は、目も耳も鼻も口もあったが、未だ機能してはいなかった。自分という意識もまだなかった。 毎日母親が母乳を与え、オムツを変え、体を洗い、着替えさせ、世話をし続けてくれた。赤ちゃんは、お腹がすくと泣いて、安心して寝て、オムツを替えてと泣いて、また寝て、それを繰り返しながら成長し続ける。 赤ちゃんはそれまでにあらゆるものを見たことも、聞いたことも、味わったことも、触ったことも、臭いを嗅いだこともなかった。この人間の世界のことを全く何も知らなかった。 いつも目の前に現れる顔を見て、私がママよという声を聞いて、顔や音の意味を覚えていく。 全てが初めての経験である。そんな中で、あらゆることを、目、鼻、口、耳、手足の五感により学習している。 全盲の人が、医学の手術などにより突然見えるようになると、どう反応するだろうか? 突然目が見えるようになっても、何が見えているのか、何を見ているのかわからない。見たことが無いのだから、わかりようがない。脳には視覚による情報は無いからだ。 目だけでなく、手で触ったことも、耳で聞いたこともないなら、それがどれほど大変なことか想像できるだろうか? 大人であれば、この現実と向き合うことさえできないように思える。 全く何も知らない赤ちゃんはそれを大変だとか、難しい等と考えることもなく、ただただ黙々と学び、覚え、全体像をつかみ続けている。 幼児が初めて花を見て美しいと思うことはない。 ゴキブリを見て醜いと思うこともない。 怖いと思うこともない。 見たことのないものは、何かわからない。そう判断する情報は未だ無いからだ。価値観は作られていない。 好奇心旺盛で何にでも関心を持っているかのように行動するようになる。 幼児には正しい、間違いは無い。失敗もない。認識もないが、 人間社会を含め、在るがままという事実は存在している。 初め目は見えていないが、一月もすると反応するようになり、見えるようになったことがわかる。笑っているように見えるようにもなる。 手足をバタバタと動かしているのを見ている内に、ハイハイをするようになり、物につかまりながら歩くようになる。転んでは起きを繰り返し、歩行するようになる。言葉を覚え、話すようになる。 わずか1~2年の内に起きる変化である。 転んでは起きることを繰り返してはいても、それは、失敗ではない。間違いでもない。成長における学習過程であると考える。 失敗、間違いという言葉は、人の行動にたいする評価、判断のことで、起きた事実を価値観で評価していることを意味する。 しかし、評価、判断は価値観によってだけで決まるのではない。 考える力、考える視点によっても、変わって来る。 失敗は成功の元という表現がある。失敗があるから人間は、失敗の原因を突き止め、修正することができ、成功に至る道が開かれ、進歩する。間違い、失敗は成長における学習過程の意味であり、事実として考えることができる。そこに良い悪いはない。 大人にも、産まれた時には同じようにその学習能力があった。 全てを受け入れ、全てから学ぼうとする能力のことである。 偏見を持たず、価値観を持たず、在るがままの事実を情報として受け入れる姿勢である。 大人の多くは、この学習能力を失ってしまったように思える。なぜなのか? 人間社会にある常識や価値観を教えられ、皆と同じように、それが正しいと思い込むようになるためではないか? 今までこの学習能力のことを誤解し、気づかなかったからではないか? * 教えることに、学習するという意味はない 人間は教えることが大切、重要で、教えるから、人間は覚えることができる、と考えられてきた。 しかし、教えることは、知識を与えること、また伝えることであり、教えることに、学習するという意味はない。 確かに、人を教えると、人は覚え、学ぶように思える。 現在に至るまで、教えることを学習することと同じように考えてきたことに重大な間違いがあると考える。 教えるとは、知識、情報を与えることで、一方通行の情報の流れである。 教えることに、学ぶ、学習するという意味は全くない。 教えることは、覚えさせることではない。覚えさせることはできない。 教える対象が人間でなく鳥や動物であっても、知識を与えることはできる。それは教えることである。しかし、人間は鳥や動物を教えても無駄であることを知っている。 学習能力のある人間と、学習能力のない鳥や動物に違いがあることを知っている。 しかし、教えるという言葉に、学ぶ、学習するという意味が無いことを知らずにいた。 教えるという言葉の意味を間違って理解していたために誤解が生じている。 教えるという言葉の意味は、情報を伝えること、知識を与えることであり、教える相手、伝える相手が何であっても、一方的に情報を伝えることはできる。それが無駄になるのは、相手に理解する能力が無いためである。 わかるか、わからないかは、情報を伝える対象である相手の学習能力が関係している。 鳥や動物だけでなくハ虫類や昆虫、植物を教えることはできないと思うのは、対象相手に学習能力がないと知っているからで、つまり、情報を伝えても、教えても無駄だとわかっているからではないか? 動物、鳥に情報を伝えることはできる。ただし、その内容、意味を知ること、学ぶことはできない。学習能力がないからである。 教えるとは、単純に、情報を与えることであり、わからせるという意味はない。教えることで、教訓を与えるということはできない。 ありとあらゆるもの全てが情報を持っている。そこから学べるかどうかは学習能力に依存している。人間には、学習能力があるから覚え、理解し、考えることができるようになる。 新生児の存在は、情報があれば、そこから学ぶことを示している。 五感を通して入力される全てが情報であり、そこから学習している。 情報を伝える上で、その伝える方法、伝える量、伝える内容は十分考えることが必要である。 それは教えるという情報と知識を与えることが、人自ら学習することになるからで、人を育てることになる。それが教育という言葉の意味であると考える。 学習は学び、覚えることである。 考えるという思考とは意味が違う。 思考は、学んだことを活用することで、学習の後で、その関係を把握し、新たなものを作り出すことが関係する。 以前この問題点に気づいた時にシリーズ11 「教える、教育する、学習する」の意味について 動物を教えることから見えてくる教えることの意味、気付かなかった間違い、を書いた。事実を理解しようとする人にお勧めである。 人間の世界では、皆が同じ考えを常識として、当たり前に思っているため、間違いに気づく人はほとんどいない。 このため、子供は人間の世界にある常識、価値観、間違った情報、知識を与えられ、教えられる。それを学習し、受け入れてしまう。 これが理由で、大人になる頃には事実を知ることができなくなり、常識に縛られることになる。 人間の社会が、大人の模範が、子供に常識を植え付けている。 その常識の多くは、今現代の知識と理解に基づくものではない。 天動説が地動説に変わったおよそ500年前、当時の信じていたことは今も変わらずに、受け入れられ、信じられている。人間の世界の基本的な価値観は変わっていない。 時代は大きく変わっている。修正する必要があると考える理由である。 * * * * あらゆるもの全てが、情報を伝えている。「ことば」は情報のシステムであると書き、そう説明してきた。 「ことば」は人間の使う言葉だけではない。 人間を含めあらゆる生命体の細胞レベルでも情報の交換が行われている。物質でさえ情報の宝庫である。 「ことば」の意味は人間の想像を越えていて、物質がエネルギーである以上に、「ことば」である情報のシステムは、全ての存在の源と言えるかもしれない。 人間は、教えられるから、わかるのではない。学習能力があるからだ。 新生児が人間になっていくのは、人間の社会環境の中で、学習能力により成長するからで、限られた環境が人間の認識を作り出している。 地球上の人間の社会の中であっても、現在の人間の片寄った価値観を持つようになるのではなく、全宇宙の知的生命体としての価値観を持つことを目指す姿勢が望ましいのではないか? * 人間の子供は人類の子孫であり、個人のものではない。 人間のヒトゲノム遺伝子は代々受け継がれてきたもので、それがどのように作られたかは全くのなぞであり、それを解明するには長い時間がかかると考えられる。 人間は子孫を残すことはできても、親が子供を創造、作ったという意味ではない。誰もその遺伝子を作ってはいない。 子孫を残すことができても、その遺伝子を子に受け継がせたという意味である。 子供が産まれる仕組みは、親が作ったものではない。 針先ほどの受精卵が分裂を繰り返し一人の新生児として産まれるが、今では医学の進歩により精子と卵子の提供者、子宮の提供者、生まれてからの養育者がそれぞれ別の場合もある。 違う親がいることになるのか? 昔からの親子関係とは違う時代になってきている。 親としての責務は人類として考える時代に変わってきている。 人間は、人類は、昔のままではいられないという現実に直面している。 追記 親とは何か? 親とは誰か? ヒトゲノムは地球上では人間社会の環境から人間になるが、 知的生命体の成長過程において、人類がそうであったように、自分達が全てと考え、優秀であることを誇り、好戦的であるとも考えられる。 人類はなぜ他の知的生命体を知らないのかという質問に 優越感から力を求めた結果、自滅して消えて行った文明は 次回は6月1日(日)を予定 才能について |
その5回目 III. 古くからの価値観を捨て去る 具体的な例で考える * 才能について 自分に才能はあるのだろうか? 若い頃、そう悩んだ時期があった。 2024年 昔の自分を振り返って 「言い訳」 に次のように書いた。 「俺は頭が悪い。成績は悪いし、運動も苦手だ。」 若い頃、自分に優れたところは無いと思っていた。自分に自信は無かった。 これは自分、個人の考えである。 しかし、人間の持っている能力のことではない。 人間の能力に気づいていない姿である。 経験と学習を通して、これは 「自分がそう思っているだけで、人間としては違うのではないか?」と考えるようになった。 できない自分であっても、自分の存在と、自分の持っている才能は別ではないかという点である。 才能とは何か? 他の人にないような特別に優れた能力のことのように考えられている。 才能が認められず、自分に才能はないのだろうと、あきらめる人はたくさんいるかもしれない。 あきらめたら、才能はないことになるのか? 諦めることが、才能がないことを決めるのか? 才能があると誰が決めるのか? 自分か? それとも、他人の評価で決まるのか? 前回、人間として産まれた新生児には、想像を越える素晴らしい学習能力があると書いた。 大人になる頃にはそれがなくなる理由も書いた。 新生児として産まれたときには、体はすでにあった。 その体は自分が作ったものではない。遺伝により受け継いだ体である。 新生児には学習能力があり、全てを学び始めるが、考える能力は未だなく、自分という意識もない。 大人に成長するようになると、自分がいるようになり、体は自分のものと思うようになる。 人間の社会では、皆そう思っている。 自分の意思で体を動かせる部分は、主に首や手足などである。それ以外の心臓などの臓器、血液の流れ、神経、ホルモンの分泌等は自分の意思ではない。 痛いと気付くのは自分の意思によるのではない。 五感により見える、聞こえる、味わえるのは、機能があるからで、自分の意思ではない。 体が大人に成長することも自分の意思ではない。 初めから、体は遺伝子と脳の働きにより作られ、運用管理されている。 この事実は、体が自分に属していて、自分が全てだと思っていても、自分という部分は、脳の一部の働きでしかないことを示している。 しかし、人は皆、その体全てを自分だと思っている。 人間それぞれに才能はある。自分が作ったものではないが、遺伝子を通し人間として受け継いでいる。 その秘められた才能は置かれた環境の中で育てられている。 才能を見出だし発揮した人は、人類史上数えきれないが、人間としての限界を越えることはなかった。 人間として自分があるのは、人間の体を遺伝子を通して受け継ぎ、生きる機会を与えられたからであり、親を含め人間社会からの支援があったからだ。 それがなかったなら、人は生きることはできず、才能を発揮することもない。 自分は、自分の才能は、自分のものだという考え自体が間違った思い込みであることに気付く必要がある。自分に才能があるのではなく、人間としての能力を受け継ぎ、その能力の一部を才能として発揮しているからである。 才能を求めるのはなぜか? 自分に才能があるかと悩んだのは、他人や大衆に認められたいからではないか? 自分に才能があると、自分でそう思うなら、他人や大衆に認められる必要はない。 認められたい理由は何か? 動機は何か? 才能があると認められれば、知名度が上がり、有名になり、出演依頼がきて、ファンができ、それに伴い、お金持ちになり、欲しいものが手に入り、優越感が満たされ、幸せになれると思っているからではないか? 有名人になっても、人間が変わるわけではない。 大衆に迎合することは、自分の才能の独自性を犠牲にすることではないか? 才能を認められたいと願うなら、大衆に受け入れられるために、大衆の好みに合わせることになる。 認められたら、才能があることになり、認められなければ、才能がないと考えることに間違いがある。 ある時点で認められ、才能があることになったとしても、それ以前に才能はなかったのか? と考えれば、才能があったから、認められるようになった。才能は認められる以前からあったことになる。 才能は特定の人にあるように見えても思えても、誰にでもある。 大衆ではなく、自分の才能に気付いていないから、自分に才能があるのかと気になるのではないか? 認められたいという考えは、自分をダメにする。 これは人に好かれたい、愛されたいと、思うことに似ている。 知力の源・知恵の言葉にマーガレット サッチャーの次のことばがある。 If you set out to be liked, you would be prepared to compromise on anything at any time, and you would achieve nothing. ・・・ Margaret Thatcher もし人に好かれたいと決意するなら、あなたはいつでも、何に対しても、妥協する備えをすることになる。そして、何も成し遂げることはないだろう。 才能の目的 人間が評価、判断することは、才能があるという事実と関係はない。 才能は自分の自分の所有物ではない。 自分が持っている全ての能力は自分が作ったものではない。 様々な才能は、人間社会の喜びのために、人々と分かち合うためにある。 人間という存在の意味、その素晴らしさを知るため、人間である喜びを分かち合うためにある。 * 次回の予定 6月8日(日) 大人について 犯罪を犯す犯罪者のほとんどすべてが大人であるという状況はおかしい、異常である、と思う人はいないのだろうか? 誰でも大人になれる。資格は年齢だけ。 大人の意味はどこにあるのか? |
6月8日(日)) その6回目 言葉に固定的な定義はないと書いた。 時間の経過と共に、全てが変わる。人間の考え、社会の決まり、常識も変わる。 思い込みにより信じるという脳の働きを除けば、人間そして人類に永遠に正しい、確かなことは存在しないように思える。 存在の意味は、人間の持つ考える力による。 全てが変わり行く世界なのは、その違いに気付く脳の働きによる。 * 大人の意味 成人とは法律上、完全な能力を有すると見なされる年齢のことで、日本では明治9年より20才と決められていた。が、2022年4月1日以降、18歳に引き下げられた。 親の親権に服さなくなる年齢、一人で契約を結ぶことができる年齢の意味と説明があるが、タバコ、酒、競馬は今まで通り20才からであり、成人式もそのままである。 大人とは年齢による成人の意味でとらえられているように思えるが、 大人の説明には、社会的、精神的、身体的に成熟した一人前の人間などと書かれている。 しかし、完全な能力などを有する成人も、一人前の大人の意味も曖昧で、わかっているようで、わかっていないのではないか? 人間の意味がわかっていないのに、人間の大人の意味がわかるのだろうか? 人間に完全な能力があるのか? 動物と人間の違いがわからなかった昔、人は人間の大人を鳥や動物の親と同じように考えたのではないか? 身体的な面では、人間も鳥や動物と同じように成長しておとなになるように見える。 おとなになると、子孫を残せるようになる。 人間は人間とは何かを考え続けてきた。 とは言っても、人間という意味がわかったわけではない。 その定義があるわけではない。 人間であることの意味が全てわかることはないのだろう。 ヒトゲノムは、その育つ環境があれば、適応能力から、知的生命体に育つ、変わり続ける存在になり得る遺伝子と考える。地球上では人間になっても、他の場所では人間にはならず、他の知的生命体になると考える。 今まで、人間は、人間とは何かを知ろうとしても、その事実を知ることはできなかった。 その情報はなかった。それ故、人間の意味もわからずに大人になった。 その時代の限られた情報から考え、想像により、その時代の人間としての考え、それに基づく生き方をしてきた。 しかし、今現在、人間の存在の意味は、以前とは明らかに違うものになっている。 それは、遺伝子や脳の働きを知るようになったことである。 以前、人間の形はあっても、人間とは何かがわかずに大人になった。 人間の大人は、人間の意味を教えられずに育てられた。 それが理由で、人間社会に対する責任の自覚がない大人になったのではないか? 人間には学習する能力があり、言葉と考える能力がある。 この考える能力があることが、人間を特殊な存在にしている。 文明を築き、世界を支配する力をもたらした。 医学が明らかにしている遺伝子や脳の働きを知るようになったことより、人間は知的生命体としての自覚を持つことができるようになった。 その情報を提供されず、学習しないなら、知的生命体としての自覚は生まれず、知的生命体としての人間にはなれない。 教育が人間として、重要だと気づき、日本では大人になるために義務教育、高等教育を含め産まれてから18年もの期間をかけて、成人に育てられている。 これ程の時間をかけても、全員が一人前の大人になるようには思えない。犯罪を犯す大人が後を絶たない。 人間のとしての大人の意味が教えられていない。 大人の意味が年令で決められていると思われている。 年齢だけで誰でも大人になるなら、人間の意味は関係ない。 人間の大人になるため資格が何かを教えなければならない。 人間に固定的な意味が無いなら、人間の資格もないではないか? その通りだと考える。 ただし、人間と人間の社会の意味、人類の理想と未来を考え、人類の存続を望むなら、人間としてのあるべき姿、人間の大人の意味を示すことはできる。 それは何か? 人間は一人で生きているのではない。 人間は一人で生きてきたのではない。 親を含め人間社会からの支援を受けて育てられている。 人間社会には、人間が生き、子孫を残し、繫栄するため、平和と安全な生活をするために、協力し合うという目的がある。 これが理由で、全ての人は人間社会にたいする責任を負っている。 その自覚が無いなら、大人ではない。 自分は一人で生きてきた。一人で生きている。自分は自由だと思う人は、人間の大人ではない。 人間の意味を教育せず、自覚させてこなかった人間社会に、多くの問題を抱える原因があると考える。が、教育により修正することは可能である。 人間は、人間社会の存在意味を知り、理解していることが必要である。 人間の大人とは、人間社会が協働体として機能するために、個人の学習を通して作られる認識により、その責任を自発的に受け入れる人のことである。これからの人間社会に必要なのは、知的生命体としての人間であることの自覚である、と考える。 |
6月22日(日) その7回目 II-2. 「無いものを在ることにする」 脳の働きを理解する 長い間、人は死んだ経験がないことから、死はわかりようがないと考えてきた。 これは「無いものを在ることにする」脳の働きの具体的な例になると考えられる。 「わからないから」が、その理由である。死が恐怖になる理由でもある。 現代の科学情報がなかった時代、人々は地震、雷、嵐、津波、干ばつ、病気、死などが何なのか、なぜ起きるかを知らなかった。わからなかった。存在がわからないものは、対処の方法がない。 知らないこと、情報がなく、答えがなく、起きている現実が何かわからない。 それが恐怖の理由である。ただ恐れることになる。 情報が少ないため、誤解することも多かったと考えられる。 それが、想像で勝手な理由、恐怖を作り出してきた背景であると考える。 人は死ぬと、良い人は天国へ行き幸せになり、悪い人は地獄に落ちて苦しみにあう。天国には神様がいて、地獄にはえん魔様がいる。天使がいる、悪魔がいる。幽霊がいる。お化けが出る。 死んだら魂や霊は生き残るなどと考えた。考えただけではなく、長い間そう信じてきた。 死の意味がわからないと、その考えを否定することもできない。 人は死んだことがない。死んだ経験がない。死の意味はわかりようがない、と考えてきた。 脳の働きがわからない時代の名残(なごり)である。 とは言っても、世界中で人類の大半は、今も死後の世界、天国に生き、死んだ人に会える等の考えを捨てられず、実体のない神様があると信じている。大昔と変わらない現実がある。 脳の働きがあるから、人間は五感により、自分以外の世界を知ることができる。言葉を使い考えることができる。脳の働きで認識できるのは、生きているからである。 生きているから、脳が働き、喜びも悲しみも感じる。 人間が死ぬと、脳の働きも死ぬ。脳死である。 脳が死んだら、五感による認識する手段が無くなる。 存在がなくなる。生まれる前に、自分の存在がなかった時と同じになる。 医学の発展は、人間の死が脳死の意味であることを明らかにしている。 それでも死後の世界が在ると考えている人がいるのは、生きていて、「無いものを在ることにする」という脳の働きがあるからで、信じれば、何でもあることにできるのである。 相手が悪いと信じれば、敵にして抹殺することさえ正しいことになる。 信じることが、敵を作り、戦争を始める理由でもある。 戦争が悪いのではない。良い/悪いのではない。 人は勝手に思い込みで自分の土地だ、国家の領土だ、地球は人類のものだと考える。 それは、人間の在るがままの姿を知らず、人間が恐ろしい存在になる理由を理解しないでいるからだ。 月も、火星も、やがて太陽系も、次は天の川銀河も、自分達のものにしようとする人間の愚かさに気が付かない。その愚かさに気づく人はいても、人類の大半は気付いていない * 事実という言葉について 事実とは、人間の考え、評価や価値判断を含まない在るがままの現実、真実のことである。 人に感情があるのは事実であるが、感情は作られたものであり、感情そのものが事実なのではない。 植物がある。花はある。それは事実である。 しかし、人が美しいと感じるのは、人が作った認識による評価、判断であり、事実があるという意味ではない。 つまり、「花は美しい」は事実ではない。 その表現には、人の考え、評価、判断が含まれている。 特定の植物は成長する過程で、花を咲かせるが、やがてしおれ枯れていく。 変化があるものの一瞬の時期を指して、花は美しいと表現しても、その過程を含めた全てが美しいのではない。 造花であれば、その変化には気付かない。いつも同じに見える。 事実とは、人間の脳が五感により存在があると認識することを表す。 自然界の在るがままのことである。 そこに人間の考えが入り、評価、判断することは、人間の価値観で作られるとい意味である。 事実を価値観で表現すると、それが良い/悪い、美しい/醜い、美味しい/不味い等となる。 事実とは、在るがままのことであり、人間の考え、評価、判断を含まない。 人間の世界には良い/悪い、美しい/醜い、美味しい/不味い等はあるが、それは人間による価値、判断の表現としてある。 人間に価値観があるのは事実である。しかし、価値観そのものは事実ではない。自然界にはないものである。 価値観が事実と思い込み、その感覚を信じていることに、修正が必要である。 間違いであることに気づく必要がある。 事実を誤解させているのは、人間の持つ価値観である。 これが重要なのは、価値観を信じていることは、無いものを在ることにする脳の働きであり、人類が抱える争いの原因であるからである。 人間である前提には、正しいではなく、間違いがあることに気付き、互いに信頼を築くように、信頼し合えるように、注意深く考えることが重要であると考える。 人の言うことをうのみにしない。それは、信頼を築くためである。 人が言ったことは、その人が言った事実として記憶することはできるが、事実とは限らない。 人は皆間違いをする。 人間には、間違いがある。 信じることは、正しいこと、間違いがないものとして受け入れることにあり、人に間違いがあるという前提と矛盾する。 人を信じることは、その前提を無視することであり、初めから間違っていることになる。 人間を理解していないことに、多くの問題の原因があると考える。 |
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人間の恐ろしさ 具体例 |
マイケル アレフ |