マイケルアレフの
ことばの認識は世界を変える

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人類が必要としている考えとその内容について 2024年

人類の理想を考え、それに近づくために

4月19日(金)

人間が知的生命体である理由は、言葉を持ち、考える力があるからである。
では、その言葉はどのように始まったのか
難しいことのように考えていたが、そうでもないのかもしれない。

「ことば」はあらゆる生命体だけでなく、存在するもの全てが持っている情報のシステムであると書いた。その始まりも、なぜそのシステムがあるのかもわからない。
しかし、すでに出来上がっている人間の様な知的生命体であれば、言葉を作ることは難しくはないのではないか。

文明を持たないかのように思えた未開の土地に住む人々であっても、それなりの言葉を持っている。世界に数千もの言語があるのは、言葉が簡単に作れるからであるように思える。
人間は基本的に同じような能力を持っていて、幼少の頃から教育すると、同じ言葉を話すように成長する。

シリーズ1の始めに、ヘレン・ケラーの経験が、人間の意味を教えていると書いた。
言葉により考えることができるようになったことが、その背景にあると。

ヘレンは全ての物に名前があること、名前が付けられていることを学んだ。学習した。
その単語は、言葉であり、物と言葉が一対一に対応した表現である。
この、物に名前があることを知ることが、考えることの始まりである。
なぜなら、その名前は物につけられた名詞であり、言葉であり、考えであるからだ。
これが考えることの原点であるように思える。

それ故、物の名前が言葉であり、物と言葉が一対一に対応した表現であることがわかれば、知的生命体が言葉を持ち、考えるようになることは自然に思える。
難しいと考えていることが、難しくするのかもしれない。

言葉を教えられるなら、考えることができるようになる。
子供は言葉を教えられ、言葉を覚え、話すことを始める。
それは考えるようになることである。自然なことに思える。
考えるとは言葉である名詞や動詞を活用することで文章を作ることである。

文明の初めに物に名前を付けること、その仕組みに気付くことは簡単ではないと思うが、知的生命体であれば、時間をかけ、言葉を作り、考え始めることは可能に思える。


同じ仲間という言葉について

ヒトゲノムは地球上では人間の遺伝子であっても、他の惑星では、同じ遺伝子で作られる知的生命体は別の名前を付けている。惑星AではAゲノムと呼ばれているかもしれない。

地球上の知的生命体は人間と呼ばれていても、地球以外の惑星などに住む知的生命体は人間ではなく、人類ではない。元は同じ遺伝子であっても、違う名前を付けている。

同じ仲間でないなら、遺伝子が同じでも、同じではない、仲間ではないと考えてしまう。

地球上では、同じヒトゲノムを持っていても、国、考え、価値観が違えば、敵にして、戦争を始める。理解しえない人間は仲間ではない。敵になり、殺す対象になる。人間であっても、人間ではなくなる。

地球上の世界は人間の世界である。人間特有の考えで作られている。
人間の世界では、人は作られた認識による価値観で判断している。それは人間の世界だけにしか通用しない。宇宙では通用しない。
同じ地球の中の人間の間でも、通用していないのが現実である。

この事実は、大自然である宇宙の中に、人間の世界の正しいはない、自由はない、権利はない、良い悪いはないことを示している。
人類はこの事実に気付く必要があると考える。


宇宙では、知的生命体の成長過程で、考えも様々であり、価値観は作られる。
現人類、人間のように自分中心に考える好戦的な知的生命体もいると考えられる。

宇宙には高度に発達した知的生命体がたくさんいるのに、今までに人類はなぜ他の地球外生命体を知らないのか?
それは、知らないのではなく、気付いていないだけかもしれない。
(聖書の創世記の記録から読み解く神の真実の姿シリーズ36を参考に)

シリーズ7 の中に物理学者のスティーブン・ホーキング博士の考えを引用した。
宇宙にはたくさんの知的生命体がいると考えられるが、高度に発達した文明は滅びてしまう。約20年近くも前になるが、ホーキング博士は人類の未来に関連して100年という数字をあげている。

人間の能力をはるかに超える知的生命体がたくさん存在することは考えられるが、ホーキング博士が指摘していたように、その知的生命体はその文明と共に滅び、存在していない可能性もある。
人類も同じような定めにあるのだろうか? それを回避することはできないのだろうか。


知的生命体にとって、未来とは何か? と考えてきた。が、未来は必然的に決まっているとは思えない。自分たちが作るものであると考える。

人類以上に優れた科学技術を持つ知的生命体であれば、自分達だけのこと、自分達の世界のことだけを考えているとは思えない。
全ての高度に発達した知的生命体は、在るがままの大自然に調和した考えを持つようになるのではないか。大自然との調和についての考えは シリーズ32に書いた。
それが全ての知的生命体の共通の認識になりえるのかもしれない。



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正しいとは、その時点で、間違いはないと考えることであり、間違いがないという意味ではない。

つづき


正しいとは、正しいという実体があるのではなく、正しいと考えていることである。
間違いとは、間違いという実体があるのではなく、間違いと考えていることである。

正しいも、間違いも、実際にあるのではなく、それは考えである。

良い、悪いという言葉も実体があるのではなく、言葉であり、表現であり、人間が作った考えである。

考えは言葉であり、物の名前であるイメージを含む名詞や文章で作られているが、実体はない。 にもかかわらず、人を動かす動機であり、理由である。

人は正義のため、自由のため、平和のため、幸せのために行動する。
言葉には人を動かす力がある。

その考えが大切なもので、守らなければならないと思うからと考えられる。
考えは人に大切だという認識を作る。良い、悪いという判断をさせる。
正しい、間違いという判断をさせている。

考えは人間が言葉により作り、価値観にして人を動かす理由である。
考えは実際に存在するものではないが、価値観を作り、人を動かしている。

言葉で作られる考えは、科学の理論のように実体に裏付けされたものではない。
その考えは幼少の頃から正しいものがあるかのように教えられ、価値観として植え付けられたものや、成長する過程で学習を通して身につけたものである。

これが時代、地域、国、民族、言語、宗教、教育など人の生まれ育った背景によって、人の持つ価値観が違ってくる理由である。

価値観の元である考えは人間により作られたものであり、間違いのない正しいという確かなものは存在していない。

知的生命体である人間の存在意味は、言葉により考えることにあると書いた。
考えることができないなら、存在意味を考えることはできないからだ。

つづく


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3月の学習テーマ  それは実体か? 人の考えか?
その4回目

実体
とは人間の持つ五感で認識できる存在のことである。
人の考えは五感で認識することはできない。

五感は入力器官であり、人の声を聴いたり、書いてある文字を見たりすることはできるが、その内容まで知ることはできない。内容は情報であり、その情報は脳に送られ、脳がそれを受け取り、内容を把握している。

リンゴという実体とリンゴという言葉は同じだと思うかもしれないが
目の前にある時は目で見てその存在を認識しているが、目の前に無い時は言葉であり、考えであり、イメージ、情報であるが、実体としての存在はない。

シリーズ1に次の二つの例を書いた。

「机の上に消しゴムがある。この消しゴムは「ことば」か?
物質としてはことばとは言えないが、「消しゴム」は一つの単語で、名詞であるという意味ではことばの一部ではある。
その場にないとき、消しゴムを考え、それを伝えることは可能である。これはことばである。
物はなくても、考え、どんなもので、どういう目的で使うか、大きさも想像できる。実際過去の経験を思い出し、動きも表すことができる。
実物を除くと、消しゴムに対する認識はことばでできている。
脳の中の記憶はすべてイメージを含むことばでできているように思える。

さっき食べたナッツは「ことば」か?
同様に名詞であるという意味ではことばの一部である。
食べている時は、食べ物であるが、食べた後は目の前からなくなってしまう。
あとは「ことば」として頭に残る。
今日ナッツを食べたという時、ナッツはことばである。
色、形、味を覚えている。食べた量も。器に入っていたことも。一緒に飲んでいたものまでも。
実物を除くと、後はすべて頭の中にイメージを含むことばとして記録されている。

現実を把握するのは脳である。脳が五感を通して現実を認識している。脳はその認識をことばとして管理し、蓄積し、運用し、活用していると理解できる。」


人間の言葉は考えである。
考えには、A. 実体による裏付けがあるものと、B. 実体による裏付けが無いものがある。

A.の説明
眼に見えるものはすべて実体であり、存在がある。視覚を含む五感で認識できるものである。その言葉による考えは、実体により裏付けがある。

B.の説明
実体の裏付けのないものは、考えだけでできている。
正義、平和、平等、人権、愛などの言葉は考えであるが、実体が無い。
天国、永遠の命などの考えも同様である。
それらは人間の世界にある考えで、情報であり、価値観でもあるが、五感で認識できる実体ではなく、その裏付けはない。

思い込みによって作られる考え、価値観は、信じることによって作られる。
幼少の頃よりあると教えられると、昔から皆がやっている慣習として、無いものでもあると受け入れてしまう。

考えは人間の世界に限定されるが、間違いを含む言葉はたくさんある


五感以外の入力方法を知らない人間にとって、実体は在るがままの世界を知る糸口である。実体は在るがままの世界の意味を人類に提供している。


数学、物理、化学、等の理論は数式を含め、全て言葉で作られた考えである。
考えであれば、実体ではなく、存在も明らかではない。五感でとらえることはできない。
考えを文字、文章、声で実体として表すことができるが、考えは実体ではない。

ここで、質問が提起される。
考えはどうやって正しいと証明できるのだろうか?

ここに実体が関係する。

重要なことは、言葉で正しいと証明することはできないことである。
人を論理的に納得させることはできても、それは証明することではない。

理論は、理論となる前に、実体を使って仮説が正しいことを証明する必要がある。

理論が正しいと受け入れられる前に、仮説が正しいかどうかを確かめるために実体を使って実験することにより確認が行われる。
多くの科学者が実験により確認作業をする。
実体に基づいていれば、真実かどうかを、実験によって証明することができる。

実体は考えではないので、実体に基づく実験結果は信頼できる。
多くの科学者により実験が行われ仮説の裏付けができるなら、理論として受け入れることが可能になる。
その理論は考えで作られているが、実体による実験で裏付けされている

これが科学が進歩してきた理由であると考える。
間違いが生じないように実体の裏付けがあるからである。


遺伝子の研究において進歩が見られるのも同じ理由による。
遺伝子は人間の創作ではないが、プログラムであり、設計図である。人間の言葉ではないが「ことば」であり、情報である。そのプログラムに実体はない。

しかし、遺伝子が実体であるのは、その作りに理由がある。
実体として確認できるからである。それが何からできているか、どのように作られているかを知ることができる。

プログラムに実体はないが、遺伝子には実体の構造がある。その構造の一部を他のものと取り換えることができ、実験を通してその働きを追跡し、明らかにしてきている。
つまり実体を扱うことにより、部分的ではあっても実体の働きを確認している。
医学もまた実体による実験を通して、確かな根拠を見い出している。


これに対し、一般の人の考えは言葉で作られ、実体ではないため、真実という確証がない。人間の持つ信頼が裏切られる理由となる。
ここから、なぜ人間性に進歩がないのか、理由が見えてくる。

人の考えに実体は無いのに、その考えが正しいかどうかを、どうやってわかるのか?
わかる方法はないように思える。

今までに最善の方法として考えられてきたのは、多数決の原理である。民主主義の考えである。
同じ考えの人が多くいれば、正しいことになるという考え方である。
これが理由で、正しいかどうかも多数の人の考えで決まる。考えには実体はなく、そう思う人が多いかどうかで良い悪いが決まってしまう。人気がものを言う。多数決の力である。

どこの国でも、正しいことは、力のある権力者、多数を占める国民の考え方で変わってしまう。最もらしい理由に見えても、考えに絶対正しいということはない。

人類の歴史そのものが問題を修正できずにきているが、正しいと証明できず、同じ過ちを繰り返している。争いを、戦争を、犯罪を止めることができない。

人間は実体に基づく考えで教育されていない

人類にとって重要なのは、科学の世界での手法と同じように、実体に基づく人間としての考えを作り出すことにあると考える。

今までの人間の考えは、自分を中心に考えることである。
自分の希望、願い、望み、好き嫌いで考えている。
人類を誤導しているものが人間の考えであることを理解しなければならない。

言葉に間違いがある。
正しいという考えにさえ間違いがある。
正義という考えにも間違いがある。
戦争を人間の考えで正当化することに間違いがある。

自国の土地を返せと侵略する。
自国の土地を守る、防衛するという考えに間違いがある。
地球は人類の物という考えに間違いがある。
人類が宇宙の中心であるという考えに間違いがある。
こうした間違った考えをそのままにしている限り、争いはなくならない。

人類は実体から多くを学んできた。
実体とは在るがままの世界のことである。無限に広がる宇宙を含む大自然のことである。

人類は自分達の世界を作り、争いあっている。
それは、人間が、実体に基づかない、自分勝手な考えをしているという意味である。
数千年という長い時間をかけても、真実を立証できず、自分達人間の作った偽りを信じ続けている。

つづく


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3月の学習テーマ  実体と人の考え
その1回目

1.実体とは何か?
 * 実体は今しか存在しない
 * 実体とその価値
 * 考えに実体はないとはどういう意味か
 * 言葉である考えはどのように人に伝わるのか


1.実体とは何か?

実体とは実際に、存在があるとわかる、認められるものである。
人間は自分以外の存在をどのようにして知ることができるのか?

それは人間の脳と入力器官の五感による。
見て、聞いて、味わって、触って、においを嗅いで、実体を把握し、確認し、認識している。
物、物質、物体は五感により実際に在るとわかる実体である。
それに名前を付けてきた。実体である物には名前が付けられている。

名前は実体ではない。考えである。
名前、名詞、単語、文章、考えは言葉であり、実体ではない。
書かれているこれらの単語を見ると、見てわかるのだから実体だと思うかもしれないが、文字は実体でもその持つ意味は情報であり、言葉であり、考えである。

世界は、実体と人間の考えの二つでできていると書いたが、
実体と言葉でできているとも言える。

人類は、数千年という間、主に見える物だけを基本的に実体だと思っていたが、人類は見えないものがたくさんあることを認識するようになってきた。
大きすぎては見えない。小さすぎても見えない。遠く離れすぎても、近すぎても見えない。また空気など透明の気体もある。

現在、人類は数千年もの間わからないでいた時代に住んでいるのではない。新たなものを認識できる時代に住んでいる。そして今を生きている。


* 実体は今しか存在しない。


実体を認識できるのは、五感と脳が働いていて、人が生きていることがわかる今だけである。過去を振り返ることができるのは、脳に思い出が記録として残されている。蓄積されている。記憶は考えであり、実体は含まれないので、言葉の記憶、情報として蓄えておくことができる。


今自分の五感でわかる範囲は実体であるが、それ以外は実体ではない。
実体以外は、イメージを含む言葉でできた考えである。

今ではなく、明日になれば、新たな実体を見ることになる。
明日になっても、見るものは同じに見えるし、何も変わっていないように思える。
だから、実体はいつも同じだと思ってしまうが、それは違う。

理由は、眼も脳もその変化についていけないので、同じように見えるだけである。
自分を含め、見ているものは全てに変化がある。時間と共に同じではなくなる。

五感全てを一時的に停止してみる。
眼を閉じ。音をなくし、手足、口を動かさず、静かにじっとしている。
実体を認識しないためである。
すると、頭の中だけが働いているのがわかる。意識があり、考えがある。
脳は休むことなく働いている。
思い付くこと、人との会話、明日の予定、今日あったことなどを考えている。
全てはイメージを含む言葉で考えている。
五感を使わなければ、脳は全てを言葉で考えていることがわかる。
五感を除けば、残るのは言葉でできた考えの世界である。



実体は人間の五感により認識できるもの全てを意味すると考える。
実体として認識できるのは、人間に基本的に視覚、聴覚、味覚、触覚、臭覚という入力器官があるからである。

ただし、人間には人間としての制限があり、五感そのままでは非常に限られたものしか認識できない。

目を例に取ると、眼は早い動き、遅い動きについていけない。大き過ぎても、小さ過ぎても認識できない。ちょっとしたしぐさに騙される。手品では小銭、トランプ、物が消えてしまう。

昔は五感で認識できる実体は非情に限られていた。知らないこと、わからないことは多く、情報は少なかった。それだけ実体に対する思いは強かったとも言える。

科学の進歩が人間の認識できる範囲を大きく変えてきた。情報量が増大し、ウィルスのような存在から宇宙の果てまで認識できるようになった。

この大きな変化は、科学の力により新たに認識できるようになったものが増えたことによる。この大きな進歩の中で、人間の持つ五感の機能、性能が変わったわけではない。実体という言葉の意味も昔から同じである。

実体は人間の脳が五感により存在を認めることのできるものである。
五感の一部だけでも実体と認識することはできる。

ヘレン・ケラーは一歳半の頃、病気で視覚と聴覚を失ったが、味覚、触覚、臭覚で実体を把握することはできた。大きなハンディキャップを持っていると思われるが、一般の人以上に実体を認識することはできたかもしれない。

五感があれば誰でも同じように認識しているのではない。
学習意欲のない人を含め、五感の機能が正常に働いていない場合や、脳に障害があるために幻聴や幻覚を見るような場合など、実体を正確に認識できない場合も多々あると考えられる。


* 実体とその価値

実体の価値は、人間が価値があると考え、評価すればあることになる。反対に無いと思えば無いものになる。価値は人間にある認識の反応である。認識が示す反応を価値観と表現する。

ここに実体と人間の考えによる価値観の間に誤解、矛盾、間違いが生じる理由があるのではないかと考える。実体と考えを一緒にしてしまうことである。

物は実物が存在している、実体が在るという意味で、脳が五感により確認できる。
実体である物、その存在自体は実際にあるという意味で、考えではない。


* 考えに実体はないとはどういう意味か?
  ー シリーズ1より 引用 ー

ヘレン・ケラーは、サリバン先生が着任した時、二階に用意された部屋のドアを閉め、鍵をかけ、先生を部屋に閉じ込めた。そしてカギをじゅうたんの下に隠した。
ヘレンの父親がハシゴを使って二階の窓から助け出さなければならなかった。その思い出を書いている。

これはヘレンが大人になって文章で表現することができるようになってから、七歳になる頃の思い出の記録を書いたものである。これは言葉を知らない時の記録、言い換えると、指文字により単語を教えられる、覚える前の記憶である。

それなのにその文章には、カギ、じゅうたん、二階、窓といった単語を使っている。後から覚えた単語である。このことは、単語を知らなくても実体の記憶はあったことを示している。

これを読んだ人はその時の情景を浮かべたと思うが、ヘレン・ケラーには視覚と聴覚による部分は無い。つまりヘレン・ケラーは視覚による情景を思い出したのではなく、主に触ることによる実体を表現していた。

同じ描写に思えても、ヘレンの文章による考えは視覚によるものではなく、触覚による認識で作られている。

このことから、視覚と聴覚に障害があっても健常者と同じように考えること、理解することはできることがわかる。

文章による描写、考えはことばによる想像で作られている。映画のように見せられるなら視覚的には同じように理解できても、文章の場合、そこから作られる考えは同じとは言えない。

文章で作っている内容は全て考えであり、その言葉に実体はない。しかし、それをわかったつもりになってしまう。
カギ、じゅうたん、二階、窓といった単語は言葉で考えを伝えているが、実体ではない。つまり、カギの形、大きさ、材質、色など全くわからない。ヘレンが書いたのは彼女が実体として認識したものであり、書かれた文章は実体ではなく考えである。考えであるから情報を伝えることができる。
ただし、ヘレンの場合、触覚による情報である。手で触り形、大きさ、材質を比較することから違いを学ぶことはできたように思える。色はわかるのだろうか?

言葉で何がわかるのか? 
伝えようとしている内容、目的、意図、理由があることがわかる。
実体にはそれぞれ無限の情報が関係するように思えるが、必要に応じて対応することが大切に思える。

言葉で情報を伝えられるのは、言葉が実体の代わりであり、実体ではないからである。それが言葉の素晴らしい働きをする理由でもある。
考えには、実体、実物、本物は含まれていない。

考えは、五感により認識されるものではない。
しかし、人は会話により相手の考えを知ることができる。
本を読むことにより人の考えを知ることができる。
どうやってわかるのだろうか?


* 言葉である考えはどのように人に伝わるのか?
正確なことはわからないが、考えてみた。

耳で聞く話し言葉、眼で見る書き言葉は五感で認識できるので実体である。
しかし、言葉そのものは考えであり実体ではない

会話を耳で聞くのは言葉であるのに、なぜ実体ではないのか?

確かに耳で聞く音は実体である。が、音は考えとは言えない。耳は聞く言葉を、考えずに、音の情報として、電気信号により脳に伝える。脳は音による信号が何かを判断する。言葉であれば、それをことばの単語、文章にし、考えを作る。それを今までに蓄積し、理解した情報の中から言葉を選び、聞いた内容を比較し、考えを作ることで、理解しているように思える。

本の中に書かれている文字は実体であるが、まだ考えではない。眼はそれを見て、視覚の情報として電気信号により脳に伝える。脳は視覚による信号が何かを判断する。言葉であれば、それをことばの単語、文章に変換し、考えを作り、比較することにより、見た内容を理解しているように思える。

脳に蓄積された単語、文章の言葉の蓄積がなければ、言葉の情報を理解することはできない。つまり、言葉を理解しない人にはそれが音として聞こえても、その内容である考えは伝わらない。

書かれた文字も、聞こえる会話も、それは五感で認識できるので、実体である。しかし、言葉を理解する人でなければ、見ても聞いても、言葉の情報の意味はなく、考えにはならない。


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3月の学習テーマ  実体と人の考え

その2回目
人間の考えとは何か?
  * 実体と人間の考えとの違い
  *  映像は実体か情報か?
  *  間違いの具体的な例
  *  まとめ 考えに存在は無いことになるのか?


2. 人間の考えとは何か?
  * 実体と人間の考えとの違い

物には名前があり、名前は実体の代わりに使われる単語、言葉である。
言葉であれば実体はない。

実体の存在を除くと、あらゆるものが言葉できている。
言葉は、単語(イメージを含む)、単語から作られる文章、文章から作られる考えである。
単語は考えを表す。文章も考えを表す。人間の言葉は考えを伝えている。情報である。
考えに実体は含まれない。

人の持つ意見、主義、主張、信条、慣習、法律、ルール、規則、学問など全ては、言葉であり、考えである。
人間の持つ価値観である愛、正義、平等、平和、謙虚さ等の表現も、考えにより作られている。


眼から入って来るのは、実体からの視覚による反応のことで、刺激であり、情報である。
実体の意味は存在があるという意味で、情報は含まれない。

リンゴの場合、実体とはその存在が在ることである。
その色、大きさ、形、音、臭い、味、触感は五感により実体の情報として脳に伝えられるが、実体という言葉は、存在があるという意味に限定される
実体の情報は、実体に関する情報であり、実体とは別の意味である。 

物が目の前にあり、五感が働いている時には、その物は実体である。しかし、それ以外の時は、物は実体ではなく言葉で表現される考えである。
リンゴのような物には、五感が働いている実体である時と、五感が働いていない考えである時がある。

実体からの情報は五感を通して脳に伝えられる。


 * 映像は実体か情報か?

「ことば」は情報のシステムであると説明してきた。
「ことば」は情報を伝える仕組みである。情報は「ことば」を意味する。
考えは人間の言葉でできている。

言葉は実体ではない。言葉に実体は含まれない。考えに実体が含まれることはない。

映像と情報を同じものだと勘違いしていた。
映像は、実体そのもので五感により認識される。
その情報も五感により映像から得られる。

五感の視覚により、眼で見て存在があるとわかる。写真も実体である。そこからわかる内容は情報に当たる。
写される映像は五感の眼で見て存在がわかる実体である。
眼で認識できる存在という意味が、実体である理由である
写された映像は実体と考える。
そこから得られる内容は実体ではなく、情報であり、考え、ことば、である。

人間には学習能力があり、過去に学んできたことから、今あるものを判断している。
過去に学んでいなければ、今見ているものが何かはわからない。

実体から五感により情報が入力されるが、それを認識するのは脳である。入力される時点では、五感による反応であり、その意味を理解しているわけではない。

経験を通して知っているから、瞬時に脳が何かを判断する。
花を見て、花とわかるのは、経験を通して、花について学んでいるからである。

事前に学んでいなければ、見ているものが何かはわからない
英語を学んでいなければ、英語では通じないのに似ている。


 * 間違いの具体的な例をあげてみる。

最近外国人が日本を訪れ、日本食を食べる機会が増えている。
初めて食べる本場の寿司、日本のカツ丼、日本のラーメン、お好み焼き等に、今までに無い驚きの感動を表している。

こんなに美味しいものは食べたことがないと。

美味しいことに間違いはない。感動も間違いはない。
初めて食べたことも間違いはない。間違いなどあるようには思えない?

では、どこに間違いがあるというのか?

味覚がなければ、美味しさはわからない。
食べるものを美味しいと感じるのは、経験を通して美味しさがわかっているからである。
様々なものを食べて味を経験している。
今までに食べて美味しいという経験をたくさんしてきた。
味覚は経験を通して訓練されている。

初めての食べ物でも、味がわかるのは、それ以前に味覚が作られているからであり、それと比べるから、より美味しい、これほど美味しいものは食べたことがないと思うのである。味を知っている。味がわかるからである。

食べ物は実体である。味も味覚で認識できるので実体である。
味は実体であっても、入力される時点では情報ではなく単なる刺激であり、まだ意味のある情報があるわけではない。
その刺激は電気信号として脳に伝えられる。経験を通して様々な味を知っているから、瞬時に脳が食べているものを美味しいかどうか判断している。美味しいと感じるのは脳が判断した結果である。

それを今食べたもの、経験したものの味として記憶に残していく。

美味しいに間違いはない。初めて食べたことは確かである。感動も本当である。

五感に共通しているように思うのは、初めてという言葉が関係している。
初めて食べる時、初めて見るとき、初めて聞く時など、新しい経験をする時に、今までにないものを経験するから特別な機会となる。新しい経験であるから感動するのではないかと思う。

こんなに美味しいものを食べたことがないと感じたことは以前にもあったのではないか?
味を知らないのは、味覚が無いという意味ではない。味覚が無いなら味はわからない。
美味しいと感じることは初めてではない。
誰にでも何度かそうした経験がある。でも、忘れている。

同じことを何度も経験すると飽きてくる
個人の持つ経験が、新しくなければ、感動もしなくなる。
美しい花に感動しても、二度、三度と見るたびに同じ感動ではいられない。
美しい絵でも初めに感じた同じ感動を、いつも見ていたら、感動さえ忘れてしまう。
人間は同じことに感動し続けることはできない。

対象が同じでも、気持ちが変わる感動さえしなくなる
これが人間の反応の本当の姿である。反応の背景、意味である。

間違いであると書いたのは、美味しいという反応その人の持つ認識にあり、対象にあるのではないという点である。
 
一般的に、五感の対象である実体に反応の理由があると思われているが、自分の認識にそう反応させる本当の理由がある

このサイトでは、美しいは認識の反応としてあるのであり、美しさがあるのではないと説明してきた。(シリーズ6 美しさの考察 )

味覚も同じである。

このことは五感は全て同じように機能しているという意味に思える。
五感は実体に関する情報を刺激として取り入れる役目を果たしている。
実体の情報は脳に伝えられ、脳がそれが何かと判断している。
脳が持つ思考と感情により、つまりそれまでに学習したことにより、美しい、醜い、美味しい、まずいと判断している。

これらの人の認識を表す言葉は、考えであり、実体はない。
言葉でできている考えは、五感により認識されるものではない、という意味である。
美味しいという反応は、五感ではなく、脳にある認識の反応である。

人類の大半は、今でも、美しいものがあると信じて疑わない。

美しいは認識の反応である。認識はそれまでに作られてきた思考と感情のことである。
美味しいも認識の反応である。

考えは作ったのであり、頭にあるだけで、実体は無い。
それを、繰り返していると、同じように本物ととらえてしまうようになる。
人の認識として脳にあっても、同じように感じる人がたくさんいるから、対象にあると思ってしまう。


 * まとめ 考えに存在は無いことになるのか?

実体の存在は人間の脳と五感の働きにより認識される。
物の名前は実体に付けた実体の代わりであり言葉である。
考えは言葉で作られているので、実体は無く、実体を含まない。
考えには実体が無く、その存在を五感で認識することはできない。

すると、考えに存在は無いことになるのか?
言葉に実体が無いという意味は、言葉に実体の存在はないという意味である。

人間には基本的に五感以外の入力気管はない。コウモリの超音波による入出力気管の例はあるが、それ以外を考え、見つけることは非常に難しいように思える。
人間の脳も、今以上に高度なものがあるかどうかはわからない。

実体が無いことと存在が無いことでは意味が違う。
実体が無いのは五感で認識できないという意味であり、存在が無いのは人間の持つ限界により存在がわからないからである。

考えは言葉によって認識される。言葉により人の考えを知ることができる。
存在が無いというのは、考えであり、言葉の限界を意味するように思える。


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3月の学習テーマ  実体と人の考え

その3回目 違いを具体例で考える。


物には名前が付けられている。
リンゴ、ミカン、バナナ、鉛筆、消しゴム、本など。
これらは実体である。人間の脳が入力器官の五感により、その存在があると知ることができる。

単語は実際に存在するものの代わりに使われる言葉である。
代わりに使われるのであるから、言葉は実際に存在している実体の代わりである。

実体に裏付けされた単語であれば、その言葉、考え、情報は、基本的に一対一に対応していて受け入れ安く、同じ考えを共有することができる。
共通の単語に対する人の理解が同じであれば、ミカンがバナナに変わることはない。

しかし、実体に裏付けされていない単語には、実体が無い。
物から作った単語ではなく、想像で作った言葉もある。

実体が無いというのは、単なる考えにすぎないという意味にも思える。
その考えには、物の場合ように一対一として裏付けできる存在がない。

実体という存在が無いのに、あると思うことに、又それが正しいと思うことに問題は無いのだろうか?

実体は無いのに在ると当たり前に思っている単語、言葉がある。
人間の場合、実体がなくても、在ると教えられれば、受け入れてきた長い歴史がある。
わからないから在ることにし、実体の無いものを信じてきた。


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わかりやすいように身近にある具体的な例をあげて説明を試みる。

それは実体ですか 考えですか?
具体例 1 生命体と命について

命についての考えは人によって違う。
「命に対する考えは様々あり、統一することは困難と思えるが、人間にとって命ということばの意味をより正確に、より深く理解することができれば、人の持つ命に関する間違っているかもしれない認識を変える助けになるのではないか」 とシリーズ8 命についての考察に書いた。

昔から生命体を生かすものは命であると考えられ、教えられててきた。
命があるから生きていると、誰でもそう思っている。

生命体は実体である。人間は五感によりその存在を知ることができる。
身近に見られる花、小鳥、犬や猫も実際に生きている存在、生命体として認識している。
存在があるものは実体である。

生命体とは別に命という存在があると考えられてきたが、本当にあるのだろうか?
これが命ですと示せるものはあるだろうか?
もし、これが命ですと示せるなら、それは生命体のことであり、実体である。
昔の人が考えてきた命は考えであるため、実体は無く、存在を示すことはできない。

この場合の生命体を生かす命は実体ではない。命が何かと考えても答えはない。

その命という言葉から、実体が在るかのように思い込むことにより、間違った考えが作られてきた。人間は死んでも、命は生き続けるという考えである。
命という言葉に代えて、人間は死んでも魂は生き残る。霊魂は不滅である。
そして死後の世界があり、良い人は天国に、悪い人は地獄に落ちるなどという考えも作られてきた。

昔の人の考えてきた命という言葉に実体という存在が無いため、想像で様々なことが作れてしまう。

では、命とは何か? に対する答えはあるのか?

新たな考え方になるかもしれないが、実体である命はある。
それは単に言葉、情報、想像によるものではない。

最近では、AIを使ったロボットが人間に近い動きをするようになってきている。
自己再生型ロボットが作られるようになる場合、ロボットを動かすためにはエネルギーが必要である。エネルギーには何が使われているのだろうか?
現時点では基本的に電気が使われていると思うが、その電気は蓄電池や原子力などの利用が考えられる。

ロボットを動かすのにエネルギーが必要であるのと同様に、人間を動かすためには動かすエネルギーが必要であると考えられる。それを命と表現することはできる。

昔から人は、生命体を生かす命が別にあると考えた。
人間にはわからないもので、死んでも生きるもの、それを命と考え、霊や魂であると表現した。
この場合の命は考えであり、実体はない。実体の無い考えであるから、想像により様々な考えが作られてきた。

生命体を生かすものを命と考えたことに間違いがあるのではない。
命を何と考えたのかに問題の原因がある

命を生命体を生かす(活かす)エネルギーとすることは、命は実体であり、存在があるという意味である。命とは生命体そのものである。ここで言う命とは、生命体を生かすエネルギーである。

命は生命体のことで、人間はそれを食べて生きている。
命は野菜、果物、魚、鳥、牛や豚などの生きている生命体のことである。
人間は食物連鎖の頂点にいて生きている生命体を殺して食べている。

人間だけでなく全ての生命体は命である他の生命体であるエネルギーを食べて生きている。命は食料でありエネルギーであり、生命体である。 

生命体は命であり、命は生命体である。

そう考えれば、命は考えではなく実体である。食べ物のことであり、生命体を生かすエネルギーである。

今でも人間の命だけが特別な存在だと思っている人は多い。
人間の命は虫や魚や動物と同じであるはずがないと。

しかし、その考えている命には実体がない。
そう思いたいから、そう考えるようになる具体例であるようにも思える。

人間が特別な存在であるのは命ではない。実体である命は他の生命体と同じである。人間の考えで、人間の命だけは食料にされていないという意味では、特別と考えることはできる。しかし、犯罪や戦争で命は簡単に失われている。

人間が他の生命体と違うのは、言葉による考える力があるからで、存在の意味を知ることができるか
らである。


考えに実体はないことは確かである。
実体は人間の五感により認識できるものである。
実体がなくても存在はあるように思えるものがある。
人間の言葉、情報、考えには実体はないが、存在はある。
その言葉と考えにより人類は文明を築いてきた。
科学の発展により人間にとって便利なものはたくさん作られてきた。それは実体である。
航空機やロケット、兵器に至るまで人間の考えは実体を生み出してきている。

考えは実体ではないが、存在を生み出す源であり、理由である。
生命体という実体も、知的生命体の考えによって生み出されたものかもしれない。


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それは実体ですか 考えですか?
具体例 2
生命体の死体と死について


昔の人は命を生命体とは別に存在するものと考えたように、死が何かはわからなかった時代が長くつづいてきた。

死は考えであり、死という存在があるわけではない。
死を実体として認識することはできない。

死は考えである。死を生命体の活動の終わりであると考えることはできる。
死体は実体であるが、死は考えである。

生命体の死体は実体として存在することを人は認識することができる。

生命体とば別に命という考えが作られたように、死という言葉も作られたのかもしれない。
死が何かわからないから、言葉として、考えとして、作ったと思われる。
死は考えである。
考えであるから、想像で無いものをたくさん作り出してきている。

現在わかっているのは、脳死が人間の死を意味することである。
死は存在がなく、考えである。
死を生命体の活動の終わりであると考えることはできるように思える。

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具体例 3 空気、原子、電子は実体、元素は考え

昔、空気は見えなかったので五感で存在を知ることは難しかった。空気は実体とは思えなかった。が、科学技術の助けを借りて、その存在を確認できるようになり、その存在は公に認められるようになった。空気は実体である。

空気は物質や物ではなく気体であるため、五感で直接認識することは簡単ではない。
空気の一部として存在する窒素、酸素、水素などの気体も同様に実体である。

原子、電子、原子核、中性子も眼では見えない存在でも、その存在は明らかであり実体である。

しかし、元素という言葉に実体はない。元素は考えである。元素記号も考えである。見える元素記号は実体であるが、その意味は別にあり言葉であり考えである。

元素の働きを示す周期律表は考えである。見える表は実体である。

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具体例 4  数字を考えてみる。

普段当たり前に使っている1, 2, 3と続く自然数の「1」は、書かれた数字は実体であるが、「1」とは何かと考えても、よくわからない。辞書には、正の整数の初め、自然数の初めとある。

書かれた「1」という数字は実体であっても、その1の意味は実体ではない。実体に対応させた言葉ではない。「1」とは何かわからないものを「1」としている。

小さな物から大きな物まで一つ目はすべて「1」に対応している。つまり1という決まった実体があるわけでは無い。言葉であり、考え、情報ではあっても存在の意味はよくわからない。

元々数が何かわからない。数がわからないから、数の学問である数学ができた。考えることで自然数、負の数、ゼロ、有理数(循環小数、分数)、無理数、複素数などが作られてきた。

1+1=2の説明ができる人はいるだろうか? 難しい? 1+1=2 の説明 
こんな簡単なことと思われることがよくわかっていない。

物と単語のように一対一のように対応していれば、単語には実体の裏付けがあるように思えるが、それでも正確さには欠ける。言葉は情報を伝えているのに曖昧である。これが人間の本質にかかわるもので、人間の限界なのかもしれない。

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具体例 5 芸術はどうか

芸術である絵、音楽などは五感で認識できるので実体である。
芸術という単語、名詞は言葉であり、考えであるが、実体はない。

実体が与える刺激は五感により情報として脳に伝えられ、持っている認識が反応を示す。情報が脳の認識を呼び起こし、美味しい、美しいと感じる。それは認識の反応で、人が持っている価値観のことである。脳の働きである。

つまり、五感の働きで認識できるものは実体であるが、五感を通して脳に伝わる信号は情報であり、「ことば」であるが、実体ではない。

言葉によって作られる考えに実体はない。実体が無ければ、存在は無いと思われてきたが、考え、言葉などは実体は無くても存在はあると考えられる。


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具体例 6 

人の考えは、単語と文章という言葉で作られるが、考えの中に実体という存在はない。

単語には五感で認識できる物の名前がある。
眼で見ている物は全て実体としてその存在を認識できる。
絵、地球儀、本、机、パソコン等がある。
眼を閉じると見えなくなり、実体ではなくなる。しかし、頭の中にはそれがあることがわかる。それはイメージを含む言葉である。

言葉には物の名前のように実体という存在に裏付けされた言葉と、裏付けのない言葉がある。

よく使う言葉に「正しい」という表現がある。その言葉は確かにある。
しかし、その言葉に実体はなく、その裏付けもない。
それは考えである。
科学の理論のように実体による実検を通して検証されたものではない。

にもかかわらず、正しいとは間違いが無いと多くの人は考えている。
そう教えられてきた。経験を通しその考えが有効であると考えてきた。
しかし、正しいとは間違いが無いという意味ではない。

幾つかの例で考えてみる。

* 法律は正しい?
法律は正しいと教えられたからかもしれない。
法律に間違いはある。人間により作られている。人間の考えは正しいとは限らない。

「正しい」という言葉の意味とその使い方に間違いがある。

法律は人間社会の秩序を守るために作られたルールである。
決めたルールは正しいのではない。
それは、人間社会を維持するために、皆で守るべき約束である。
約束を守ることは信頼を築く土台である。
信頼を築けない社会は崩壊する。

法律は正しいから守らなければならないという考え方に間違いがある。
正しいから守るのではない。自分たち人間の社会を守り、維持するための約束である。
正しいことに間違いはないと考えることに、誤解を生じる理由がある。
間違いに気付くなら、修正することを考えることができる。


* 学校の教科書の内容は正しい? 
そう教えられてきた。
テストで教科書で学んだことと違う答えを書けば、間違いになる。
学生時代の長い間、正しいか間違いか、○か×かで評価されてきた。
何事も正しいかどうかと判断しようとする背景に思える。

教科書の内容は正しいのではない。
それは事実として基本的に受け入れられるもの、信頼できるものである。
しかし、内容に間違いはあり得る。
人類の文明に進歩がある限り、時代と共に教科書の内容は変わっていく。
正しいと思えるのは、その時点でという条件がある。


* 多数決、民主主義は正しい?
今の世では、同じ考えの人が多ければ正しいことになる。
人類史の中で、最善の考えと思われている。
この場合、正しいとは多数決のことであり、力を持っていることである。
賛同する人の数が多ければ正しいことなる。
しかし、多数決に正しいはない。正しいは多数決ではない。物事を決める方法の一つである。

正義が正しいと信じている人は多い。たくさんの人が信じていれば力になる。
強い兵器を持っていれば力になる。戦争は力を見せつける争いである。
正しい戦争はない。戦争を始める理由はどのようにでも作られる。
その考えを正しいと勝手に、一方的に思い込んでいる。


* 考えに正しいはない。言葉に正しいはない。情報に正しいはない。
大自然の在るがままは、正しいことではない。人間の考えに影響されない。
正しいという言葉に問題がある。それは人間の世界では通用している。

正しいは、人の持つ考えと感情、つまり人の持つ認識、価値観で決まる。
その認識、価値観に正しいはない。それは、作られたものである。
作り方に間違いがあれば、作られたものにも間違いはある。

正しいという言葉の意味、使い方に間違いがある。

人間には人間である前提に間違いがあり得ることに気付く必要がある。
人間には産まれた時から人間としての限界がある。

今まで言葉は好きな様に作られてきた面がある。
その結果、言葉の意味とその使い方に間違いが含まれている。
考えは言葉で作られている。人の行動はその結果である。
戦争がなくならない理由である。

限界のある人間は、その言葉に完璧な定義を作ることはできない。
人間の理想を考え、言葉である単語、文章、考えを理解し、間違いを修正し、理想に近づくことはできるのではないかと考える。

正しいとは、その時点で、間違いはないと考えることであり、間違いがないという意味ではない。





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このサイトの中に書いた現実に基づく基本的な考えを文書にまとめてみました。
それは新しい考えではなく、あるがままの現実に基づくものとなるよう考えたものです。
ことばの新たな認識へ  その文書


現実を認識するための道しるべ シリーズ 1~40
ことばの認識は  世界を変える


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聖書の記録から学べること

今では考えられない 病気の原因

一世紀当時は医療が発達していなかったために、細菌やウィルスの存在を知らず、精神病も知らず、科学的な情報はなく、医学に基づく病気の治療もできない状況にあった。病気は、今では信じられないことに思えるが、悪魔や悪霊が原因であった。病人は悪霊に取り付かれていると誰もがそう信じていた。 

マタイを含む四つの福音書には悪霊に取り付かれている人々が沢山いたことが書かれている。イエスも病気の原因を悪魔や悪霊のせいにした。 

悪霊という表現がたくさん出ている。サタンや悪魔が出てくる。悪霊とは何か。人に乗り移る病気の原因である。イエスに話しかけることができた。悪霊は豚の群れの中に入り、崖から落ちたという記録もある。 

イエスの病人を癒す奇跡の評判はガリラヤ全土、シリアじゅうに伝わった。具合の悪い人すべて、様々な疾患や苦痛に悩む者、悪霊に取り付かれたり、てんかんであったり、麻痺している者を連れてきた。

マタイ10 :1 イエスは12使徒を呼び寄せ、汚れた霊たちを制する権威をお与えになった。それを追い出し、あらゆる疾患とあらゆる病を治すためであった。
言い換えるなら、あらゆる疾患とあらゆる病は汚れた霊たちの仕業であると信じられていた。

12:22 人々は悪霊に取りつかれた盲目で口のきけない人を連れてきた。

17:14-20 てんかんに病んでいる息子が連れてこられた。イエスはその霊をしかりつけられた。すると悪霊はかれから出てきた。少年は癒された。

イエスキリストの奇跡によりあらゆる疾患とあらゆる病が治された。病人が癒された。ライ病人もいたが、清められた。人々はこれらの疾患と病の原因を悪霊たちの仕業であると信じていた。

今でもイエスに追随する人たちはその教えを守り、病気が悪霊のせいだと信じていることになる。これはイエスの基本的な教えであり、行動であるからだ。

時代は人々に認識の変化を求めている。病気の原因を悪霊にすることなど、異常だと思わないのだろうか。2000年も前の考えを、今の時代の考えとして受け入れることには重大な問題があると思わないのだろうか。 

ウィキペディアで病気について調べてみると、その定義や背景について詳しく説明があるが、病気の原因を悪魔や悪霊とする資料はない。現代では時代遅れの考えどころか、辞書にも載っていない。現代では到底受け入れられない病気の原因である。

現代医学は病気の原因をつきとめ、治療を見出し、全世界で人々はその恩恵にあずかっている。たくさんの病人を癒し、寿命を延ばし、人類に多大な貢献をしている。たくさんの病気、不治の病の治療方法さえ見つけ、癒された人は数知れない。奇跡が起きて、たまたまその病人が治った、というのとはまるで違う。

2000年前、病気の原因は悪霊であり、それが現実であった。現代の知識も理解も無かったから認識が違うのは当然である。しかし、今でも当時と同じように、悪霊に取りつかれていると考え、イエスの教えに間違いがないと信じている人はたくさんいる。そう信じることは、その背景に無知、情報の不足、知ろうとしない傲慢さ、愚かさがあるからだと気づくことはないのだろうか。 

時代はこうした考えに変化を求めている。その時代背景をよく考え、当時の教えをそのまま受け入れるという判断には、重大な間違いがあることに気付く必要がある。病気の原因を悪魔や、悪霊のせいにして信じることは明らかに時代錯誤であると考える。

イエスの教えは2000年も昔の考えに基づいている。当時素晴らしい新しい教えとして人々に受け入れられたとしても、現代の認識に合致するものではない。その理由を9回にわたって説明した。これ以上細かく解説する必要はないだろう。自分でよく考えればわかることであるからだ。

それでも当時の認識に問題があることに気付かないなら、何を言ってもわからないことになる。
なぜなら、自分の考えは間違っていないと信じているからだ。
しかし、信じることは人類に多くの悲劇、虐殺や宗教戦争をもたらしてきた原因でもある。信じるとは他に考える余地がないことと同じである。

イエスが人間としての素晴らしい模範を残したことに間違いはない。それは人類の中で素晴らしい模範を示してきた多くの人達の一人であるという意味である。
イエスの教えに誤りがあることは、イエスを間違のない完全な人間であったとすること、また神格化して神様とすることに重大な間違いがあることを示していることになる。


イエスの教えを見直す


 シリーズ36
1. 「初めに神は天と地とを創造された」
この文章は、ことば(単語)の理解と認識の不足が、わかっていないのにわかっていると考えてしまう具体的な例である。当時の人間が書いたとは思えない理由について指摘してみる。

2. 善悪を知る木の実について
善悪の問題のように思われてきたが、実はそうではない
その理由を説明する。
 

アブラハムの子イサクを犠牲として捧げなさい
という命令について

永遠の命、贖いについての考察

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