マイケルアレフのことばの認識は世界を変える

ことばの認識は世界を変える 
シリーズ44

人間についての考察 (2024年7月~ )

人間の特徴  その1.脳の働き
  * 考える力
  * 学習能力
    * 学ぶ・学習すると考えるの違い
    * 教えることの問題点について 
    * 大人の手本
  * 知的生命体であり続ける条件
    * 知的生命体が抱える問題の核心について
    * 感情についての考察 
    * 疑心暗鬼、質問と疑問の違い
  * 無限に広がる世界の中の人間の存在
    * 必要とされる修正の意味
  * 脳の働きから見えてくる時間について
    * 思考実験?
    *「過去と未来の堺」という今は存在しない 9月1日(日)
      今という時間は無い。過去、未来はない。
      永遠に続く現在だけがある。
    * 言葉から考える「時間の正体」について 10月1日
     1.時間という言葉の対象は何か
     2.時間は変化をもたらす原因か
     3.時間が作られた背景
     4.地球の時間は宇宙で通用するか
     5.今という現在は時間ではない
       未来の考えに修正が必要な理由 

     6.まとめ 事実を認識することの意味

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今後の課題

人間の特徴 その2 遺伝子について 

  * 人類に対する問い
  * 人の誕生の過程から見えてくる親子の意味
  * ヒトゲノムとは何か
    * 人の成長、性に操られている現実、老化、死
    * 人類に適切な人口の数はあるか、数に意味はあるか

その3 人間と言葉
  
* 永遠、無限、宇宙


直線上に配置


人、人間、人類という単語にあるとは、地球上で言葉と考える力を持つ知的生命体のことである。

太陽系が所属する天の川銀河には2000億以上の恒星があり、その一つが太陽であり、地球はその惑星の一つに過ぎない。宇宙には見える範囲に2兆もの銀河がある。

考える力を持つ知的生命体は無数に存在する可能性がある。

それ故、地球上に存在する知的生命体を正確に表現するために、地球人と呼ぶ。

人や人間という表現では、帰属する国家のイメージが強く、イスラエル人、パレスチナ人、ロシア人、ウクライナ人など国家や地域という考えが先に来る。人間である前に米国人、日本人、中国人などの帰属する国が先になる。

地域や国が先に来ると、本来あるべき人間の姿が見えてこない。

そこで、それを修正し、すべての人間の帰属を明らかにするために、人間という表現を地球人に置き換えてみる

地域や国家、民族、宗教に惑わされず、すべての人は地球上の知的生命体である地球人とすれば同じ人間という考えに戻れるのではないか?

同じ地球人でありながら、地域や国に分かれ、戦争をしている現状は、視野が狭く、考えが足りないためだと気付く助けになるのではないか?

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現時点では、人間は言葉と考える力を持つ地球上で唯一の知的生命体であるが、その起源は地球ではなく他にあると考えるようになった。

聖書の「創世記の記録から読み解く神の真実の姿」を書いた時に、自分でも驚いたことであるが、聖書の神が人間の先祖であるとの結論を出した。

その時以来、正確なことはわからないが、それまで教えられてきた人類の起源等には大きな間違いがあると思うようになった。それがシリーズ36の記録につながった。

直線上に配置

1.人間の特徴

* 考える力 (6月30日)

考えることが人類に新たな事実に気付かせ、間違いを反省させ、改善させ、進歩をもたらしてきた。 

考えることができなければ、良い悪いはないし、正しいも間違いもない。文明が発達することもない。考える力が人間社会の存在する理由である。 

個人を含め人間、人類の存続を願うのも、知的生命体特有の考えである。 

考える能力がないなら、存在している意味さえ考えられず、その意味を探求することはない。わからないという考えさえないことになる。 

「科学は諸刃の剣」という表現がある。「基礎科学といえども、成果の利用の仕方によっては、有益にも有害にもなりうる」という面を持っている。
正確には、科学の発展は人間の考える力によるのであり、考える力が諸刃の剣の本当の理由である。 

考えることには、どのようにでも変えてしまう力がある。
人は考えで自分の意志、動機を作るが、人類の進歩と破壊の両面という結果を残してきた。破壊に対してはその言い訳までも考えるのである。



* 学習能力 (7月1日)

人には生まれた時から、学習能力があり、あらゆる情報を収集している。

人は教えるから覚えると思われているが、それには基本的かつ重大な誤りがある
教えられれば覚えることに間違いはない。

では、どこに間違いがある言うのか?

その理由は、人が覚えるのは単に教えられるからではないことにある。

教えても、教えられる側に学習能力が無いなら、教えることに意味はない。

動物を躾ることはできても、動物は教えられても人間のように覚えることはない。
人間には学習能力があるから、学び、覚え、教えられることに意味を持つ。

教えるとは情報を伝えることで、情報から学ぶことができなければ、猫に小判と同じである。

教える者が偉いように思われてきたが、情報を提供すること自体は、テレビやラジオや本と同じであり、情報の内容、量、提供の時期、方法も関係するが、人間でなくても、その代わりをすることはできる。

人には人間としての情報の提供は欠かせないが、その理由は人間の存在にある。
人が知的生命体の人間として生きていくために、人間について学ぶ必要があるからだ。

新生児を含む幼児や子供が特に人間の親、家族、学校の先生、周りの人を必要としているのは、単に養われ、教えられ、生きるためではなく、人間を自分から学ぶためである。

子供は全てから学んでいるが、入力される情報に沿った考え方をするようになる。
親を初め、その時代の影響を受け、子供に人間としての考え方が作られていく。

自分で考え、判断し、責任を自覚し、人間社会に対する責任を果たせるように、人間として育てることが重要である。

それは教えることではなく、単に教育することではない。
人間であることを自分から学習することである

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 * 学ぶ・学習する、と考えるの違い (7月4日)

教えられることが、主に覚えること、暗記することであれば、それは考えることではない。
教えられる内容が覚えることが中心であれば、考える必要はなく、疑問も浮かばなくなる。

学ぶとは基本的に知識を取り入れることの意味である。
学習することも学び、習うことである。

考えるとは文章を作ることであると書いた。
頭の中で文章を作ることで自分の意思を作り、表す。それを考えと表現した。

これまで、考えることを学習することと考えていた。
しかし、考えることは、学ぶ、学習するとは違うことに気付いた。
脳の働きという意味では同じように思えるが、その働き、役割、結果が明らかに違う。

学ぶ、学習することは自主的であっても、知識を受け入れることで、本にある知識や先生から与えられる情報を受け入れることになる。それは受動的である。

受動的な学習に対し、考えるは能動的である。
これが学習と考える(思考する)を区別する必要がある理由のように思える。

考えることは、知識を活用し、応用し、教訓を得たり、様々な結果をもたらす。
進歩も破壊も考えることがもたらす。思考が両刃の剣の元であると書いた。

考えることは、単に学ぶことではなく、学習することでもない。
思考が、学ぶ、学習することとは別の段階にあり、新たなものを作り出し、結果を残す理由である。

人の持つ価値観の多くは、考えることがまだ十分にできない幼少の時期に埋め込まれたものである。自分の考えを経て、作ったものではない。
考えることは、思い込みではない。
考えていないことが、思い込みである価値観を作っている。
美しいー醜い、正しいー間違い、良いー悪いを初め人種、民族、国家、常識という価値観は大人になる頃には修正できないほど強いものになっている。

自分で考え、納得した上で価値観を作っているなら、自分で責任を自覚し、責任を取ることができる。しかし、価値観の多くは自分が考えて、作ったものではない。それが他人のせいにする。

人間の社会に犯罪をはじめ間違いを犯すことが多くみられるのは、考えのない価値観で判断していることが背景にあるのではないか?

人間に考える能力が無ければ、良い悪いはない。
良い悪いを含むすべての価値観は人類が作ってきたが、個人が考えて作ったものではなく、幼児期に埋め込まれたものである。

人を殺すことは悪いと教えられても、戦争で敵を殺すだけでなく子供まで犠牲にしていることは毎日報道されている。殺人事件も毎日起きる。裁判で死刑が確定され処刑されるのは許される。
悪いことなのに、こんな矛盾が生じるのはなぜか?
人類の価値観が考えの足りない状況下で作られてきていることに理由があるのではないか?

人間に考える能力が無ければ、良い悪いはない。
良い悪いを含むすべての価値観は人類が作ってきた。
この事実を知り、理解すれば、作られた価値観は人類の世界にあっても、宇宙に通じるものではなく、人間が正しいと思っているだけであることを理解し、修正する道が開かれる。

大自然に目を向けよう。そこに良いも悪いもない。人間の考えはない。
あるのは人間の叡知を越えた無限の世界である。
あるがままの世界であっても、銀河でさえ生まれ、成長し、死んでいく。
そこから学べるのは、人間の理解を越える、無限のあるがままの世界があることだ。

人間の社会のあり方を根本から考え直す必要があるのではないか?

元々、価値観を含む全ての存在は、考える能力が作られる前には無かったことを考え、考えることの意味を追求する必要があると考える。

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 * 教えることの問題点 (7月8日

教えるとは知識を与えることである。
(知識、情報とは何かについては こちらを参考に)

知識は情報として入力されても、そのまま記憶に残るだけでは、内容を写しただけで、知識の蓄積になる。

昔、空気の存在さえ知らなかった時代があった。窒素も酸素も水素も知らなかった。
空気という存在があると知ることだけでも大変な発見であり、それを気体と呼ぶようになったことは進歩であり喜びであった。
水が酸素と水素でできていることを発見したことは、驚き以上の大発見である。
知識には、それを知るようになった背景があり、人々の働き、苦労や喜びがあった。

しかし、学校でその知識を教えられても、特別な感動はなく、喜びもないように思える。
なぜないのか?
知識を教えられることに理由があるように思える。

教えられるのは結果だけで、知識である。
学校で使われる教科書は大人には大切だとわかっても、子供には大切という実感はないように思える。

新たな知識を得ることに感動することを教えられていない?

当たり前だと思う人も多い。
大人も子供の時に教えられたが、知識を覚えても、テストのためだった。

その知識は自分で考え、作り、つかみ取ったものではない
経験により自分で習得したものでもない。
教科書に書かれた知識等を主に覚えただけであった。

数学でさえ、公式が作られた過程の重要性を教えても、その意味さえわかろうとしなかったのではないか?  それで公式を覚えた?  そして直ぐに忘れた?  
その時だけうまく切り抜けるための知識では利用するまでにはいかない。

自分で考えることの意義を教えられず、学んでこなかった。
知識を教えられても、考えることが置き去りにされ、
知識の背景、人の働き、意味が抜け落ちている?

考えなくなると、難しいことは人任せ、専門家にまかせておけばよいと思うようになる。
それで済む世の中になってしまう。

考えが足りないと、自分の間違いに気づかない。
自分が悪くても、人のせいにし、他人を悪く言い、世の中のせいにする。
言い訳は一面、人間に考える能力があることの証明だが、その能力は、自分中心という考え方に片寄っている。

わからなければ、ネットで簡単に情報が手に入る。得られる情報は当たり前になる。しかし、答を得たと思い込んでも、そこに考えることがなければ、答えが間違っていてもわからない。

便利なことはありがたい。しかし、度を越すと取り返しのつかないことになる場合もある。


人間が現在得ている恵みを、当たり前に思うのはなぜか? 

知識を教えられても、自分から学んでいないことに原因があるのではないか?
知識はあっても理解はなく、間違っていても、正しいと当たり前に思うようになる。そこに考えるという習慣がないからではないか?

これが人間を、人類を愚かにしている原因ではないか?


知っている知識を自慢し威張る人がいる。すでに時代認識に欠けている人だ。

人は知っていることを誇る傾向があり、知識をたくさん持つ人を物知りとして高く評価してきた。
しかし、今までの膨大な知識はネット上にあり簡単にアクセクできる。
人間個人が知っていることを誇る理由ではなくなった。

知識は簡単に手に入るように思える。知識を持っていると、便利なことはたくさんある。
人々の役に立つことは感謝できる。
しかし、その知識に対する認識はますます無くなりつつあるように思える。

知識の背景を学び、認識を深めることは、知識を単に学ぶことではなく、知識を通し考えることの重要性を認識することであり、知的生命体である地球人の目標とすることであるように思える。

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 * 大人の手本(7月10日)
  なぜ手本が重要なのか?

人間は生まれた時から五感を通して入力される全てのことから学んでいる。
教えるから覚えるのではない。
人間は教えなくても自分から学習し、覚え、真似し、成長していく。

親から、大人から、周りの子供から、飼っている犬や猫や小鳥から、またテレビ等からも、たくさんのことを学んでいる。

母親は世話を通し、子供に大切な情報を与えている。
優しさ、暖かさ、愛情、人間についての資質の手本を示すことで、教えている。
子供は親を含めた人間社会からの支援が、生きていくために欠かせないことを経験を通し学んでいる。

手本とは、情報を伝えるという意味の教える内容のことではない。
その内容と共に入力される人間の模範のことである。
子供は親の行動で示される喜び、怒り、悲しみ等の感情を経験し、学習している。

子供は手本を見て、学び、覚え、真似する。
それは子供が大人に成長していく過程であり、人間の存在の意味を学ぶことである。

教えること(情報を与えること)が主な教育から、子供が自分で学習することを助ける教育に変えていく必要があると考える。
学習を助けることは、大人が模範を見せること、手本を示すことである

学校の先生が子供に手本を見せる、示すことで、子供は自分から学習している。
学ぶ喜び、発見する喜び、物を作り上げる喜び、仕事をする喜びを学ぶ手本があれば、自分からそれを学び、真似するようになる。

桜の花を見て美しいと思うのは、自然に教えられてきたからで、食べるものが美味しいのは、自然にそう教えられてきたからだ。
教えるとは情報を与えるという意味である。大人の手本を見て子供は学んでいる。

人間の世界に見習うべき大人の手本がたくさんあることが望ましい。
しかし、いつも見ている現実の世界には、残念なことに、犯罪や戦争のニュースが多く目立つ。

テレビ番組、映画、ゲームでも正義と悪をテーマに作られているものは多く、人が争い、戦うのを見せる。学業でも、健全なスポーツと言われるものでも、誰が一番優秀なのかを競うものが多い。
政治も多くの支持者を得るために争っている。経済も勝つための争いに思える。

人間は知的生命体であるのに、競争の世界の中にいる。
子供はその世界を見て、真似する。
争いを好むようになるのは、そう情報が流れ、教えている世界であるからではないか?
人間が好戦的であるのは当然の結果かもしれない。

大人の世界にいじめがあるから、子供もいじめるのを真似する。
犯罪を犯す大人が多いから、子供も真似する。
世の中が悪くなるように見える。それが悪い手本として子供に影響を与えている。
これが知的生命体のあるべき姿なのか? 地球人の特色で澄まされるのか?

大人に意識の改革が求められている。
子供に教える際、教えることで最も大切なのは、情報を伝えることではなく、見習うべき手本をみせることである。

手本とは人間の模範であるが、確定的なものではなく、理想に思えるものである。
共通となる理想を考え、誰に対しても人間の模範になるよう心がければ、地球人としてふさわしい未来を作ることができるのではないか?


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* 知的生命体であり続ける条件

* 知的生命体が抱える問題の核心について

知的生命体である人間、人類にとって真の敵は、自分達の愚かさにある。
それは実体の無い対象を、存在が在ることにしてしまう脳の働きのことである。
それに気づくには、対象ではなく、思い込み、信じるという行為に原因があることを理解する必要がある。

「神」という言葉は、人類の無知を象徴していると書いた。
大昔から神を信じる人々は事実(現実、真実)に気付いていないという意味である。

人類の誕生以前のはるか遠い昔からその言葉は使われていた。
人間に限らず、知的生命体には、その成長過程において、実体の無い対象を、存在が在ることにしてしまう脳の働きがあると考えられる。

敵、味方に分かれて戦うこと、核戦争も、人類が誕生するずっと昔からあったのではないか。
脳の働きは、全宇宙の全ての知的生命体に共通していると思えるからである。


* 地球人が知的生命体であるにも関わらず、争いが絶えないのはなぜか? 

この質問は、全宇宙に存在する知的生命体に関して、次のような質問を提起させる。

・ 全宇宙に存在する知的生命体の成長は、同じ過程を進む定めのようなものがあるのだろうか?
・ 数千~数万年~数億年という時間をかけると、知的生命体は皆同じような認識に変わっていくのだろうか?
・ 全宇宙の知的生命体が存続し続けるためには、共通の認識を持つことが必要になるのではないか?
・ その最終的な認識となるものはあるのだろうか?
・ あるとすれば、それは何か?
・ それとも、永久に探し続けるという結論以外に答は無いのだろうか? 
・ もし最終的な答があるなら、答を探す必要はなくなるのか?

・ 答とは、答だと思い込むこと、信じることなのか?

・ 間違いの無い完璧な答だと言うだけなら、そう信じる人なら誰にでも答えられる。
・ この問いに対して、答えられる人がいないのはなぜか? なぜいないのか? 

個人的には、知的生命体は全て有限であるため、一定の枠の中では答えられても、永遠、無限、全宇宙という枠の無い条件の下では、質問、答、限界という言葉の意味さえわからないからではないか?

間違いだらけの中にある人間の社会で問題は山積していても、問題の原因は一つに絞れるかもしれない。


知的生命体が抱える問題の核心

科学の進歩は文明を大きく変えてきた。

悪天候により雨が降らず、作物が実らず、大飢饉が起きることはあった。
日本の江戸時代の天明の大飢饉では数十万人が餓死したと言われる。
人々は神様に雨乞いをした。そうする以外に手はなかった。
雨とは何か、なぜ降るのか知らなかった。嵐が来ても、地震が起きても、津波が来ても、理由はわからず、神様のたたりだと神様にすがるしかなかった。

現代科学の進歩は目覚ましく、こうした自然界で起きる現象の理由を明らかにしてきた。台風を神風と思う人はいなくなった。

過去の人々の考えは、情報が無いに等しく、理由がわからないことに理由があった。

人間の考えの多くはは科学の進歩と共に変わってきた。
ところが、その進歩にもかかわらず、変わらないでいることがたくさんある

天動説は地動説に変わったと当たり前のように教えられ理解されているが、人類の大半は今も地球が宇宙の中心であるという昔の人々の考えを引き継いでいる。
地球は人類の所有物で、土地は自分が買ったのだから、自分の土地だと思っている。

人類の大半は今も神様を信じ、祈り、感謝を捧げ、願い事をする。
憲法でも信教の自由が保証されている。
人が何を信じていても、信じるという自由が保証されている。

宇宙の理解は大きく変わっていても、人間中心の考えはそのままである。人類は宇宙の中心であり、特別な存在であるという考えから抜け出せない。

たくさんの宗教があり、それぞれが自分の信じていることは正しいと信じている。神様の実体がわからないのは大昔からで、今も昔と変わらない。わからなければ、信じていられる。

つまり何を信じているかは、矛盾があっても直接的には関係ない。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、仏教、神道など、どの宗教も違うことを教え、神様も違う、生き方も慣習も違う。互いに違うのにそれを信じていられるのはなぜか?

人間にはわからないからと教えられている。信じている人の間では、それが正しいことになる。
それぞれが他と比較しなければ、矛盾さえあることに気付かない。
それは数千年も前から同じである。
ただし、その矛盾に気付けば争いや戦争が始まる理由にもなる。

このことは何を信じるかが問題ではないことを示している。
問題なのは信じるという行為そのものである。

人間の作った考えが信じる対象にもなってきた。
様々な考えがある。自由、平和、人権、平等、民主主義、政治理念など。こうした考えのために人々はそれを守るために戦争を始める理由にしてきた。

人類の歴史は戦争の歴史でもある。戦争の原因、理由は正当と思えれば何でもいい。
何が理由で互いを敵にするのかよくわからなくても、理由は何でも正当と思える理由にする。
敵であると思い込まされれば、敵として戦うことになる。

間違いはたくさんあるのに、人間の考えは正しいと信じる対象にする。
わからないなら何でもいいからだ。
問題は信じる内容ではなく、信じることそのものにある。

信じることを止めない限り、自分達の価値観で正義と思い込み、信じ、戦う者が出てくる。

人間には間違いがあっても、わからないものを信じることができる。
昔は仕方ないことだった。しかし、今は、昔と同じ状況下にはない。科学技術の進歩により、多くの事実が明らかになり、その事実に基づく情報は容易に手に入れることができる。

大昔から人は正しいと信じてきたものがあった。対象はその時代の共通の認識で、真実と思っていた。
その対象全ては時と共に変化していく。永遠に変わらない普遍的考えは存在しない。
正しいことはその時点で間違いがないと思えることであっても、時と共に変化していく。

人間はわかっていないのに、わかっていると思い、疑問を持たないでいられる。
わからないことを当たり前と考え、それに操られ、利己的であることにも気付かない。

しかし、過去のどの時代にも真実に目覚めようとする人々がいたことも事実である。

以下は、動力飛行を初めて成功させたオービル・ライトの言葉である。

真実として受け入れられているものに間違いはないという前提で我々すべてが取り組むなら、進歩するという見込みはないだろう。 ・ ・ ・  Orville Wright


そこでまず初めに、「自分は正しいと主張するのは、そう思い込んでいるからではないか? そう信じているからではないか?」 と振り返って、考えてみてはどうか?



* 感情とは何か

人間に脳が無いと、考えることはできないし、脳に異常が生じれば、感情にも影響がある。
感情が脳の働きの一部であると考える理由である。
知的生命体としての成長段階も関係すると思うが、人間には脳の働きとして、言葉と思考力と感情がある。

動物には人間のような脳がないため、思考力は無いに近く、動物は感情的にならないし、なれないし、感動することもない。ただし、感情があるのかと思えることはある。

虫や魚でさえ危険に対して回避行動を取るし、防衛行動なのか、感情表現なのかと思える反応を示すこともある。しかし、それは感情によるのではなく、そう反応するようにプログラムされているからと考える。

人間には考える力と感情があっても、感情を制御できないこともある。
理性という表現は、感情を制御する考える力を指すのではないかと考える

人間の成長過程では、体が大人に変わっていく時期がある。
青春時期に、遺伝子の指示により、つまりプログラムにより、異性に目覚め、引かれ、恋をするようになる。人生で一番多感な時期である。
それは自分では制御できない遺伝子のプログラムによると考えるが、感情の働きが大きく関係しているようにに思える。

素晴らしいと感動することは、人間であることの大切な資質である。
人間は感情的になるために、喜びや悲しみを感じ、それを表すことも、怒りを爆発させることもある。

人間の使う言葉は感情と密接に結びついていて、言葉で喜び、悲しみ等を表現し、人を馬鹿にしたり、威嚇したり、脅迫したり、脅したり、騙したりもする。


次のような質問が提起される。
* 人間の脳は感情をどのように作っているのだろうか? 
* 喜びと悲しみは人間の基本的な感情であるが、それは相反する働きに思える。
どこから来るのだろうか?
* 「人間の脳には、無いものを在ると思い込ませる働きがある」と説明してきたが、感情にも関係しているのだろうか?


感情については、シリーズ26のテーマの一部として取り上げていた。今もその考えに変更はない。
そのテーマは、人類が現実を認識するのを妨げていると考えられる理由は何か? というもので、感情はその3番目に出てくる。

1. 発展できない閉ざされた価値観を持ち続けている。
2. 人類の愚かさは人間の持つ優越感にある。
3. 賢い人は感情の支配者、愚かな人は感情の奴隷である。

この中で、感情について以下のように書いた。

人間は生まれた時に、感情はあったのか?

赤ちゃんが泣くのは意思表示であるが、まだ個体が存在していることも、その意識もないのに脳は働き、育てている。

人間が赤ちゃんとして生まれてから食べたい、眠い、オムツを変えてとオギャアと泣いて訴えているのは脳の働きと理解できる。

反応には、痛い等の不快なもの、美味しい等の快いものに対するものがあると考えられる。
様々なそうした反応の記憶は脳に感情として認識させるのではないか。
個体の脳が、赤ちゃんの時から人間として思考と感情を持つよう育てているのではないかと考えられる。


シリーズ6「美しさについての考察」の中に、「美しさはないが、美しいと感じることは現実にある。美しいと感じるのは、個人の認識がそう反応するよう作られているからだ」と書いた。ここに感情を持つ理由が書かれている。

これが正しい理解であれば、この理解を発展させ、次のように表現することができる。

様々な感情は人間が成長していく過程で認識として作られる。
「感情は脳がそう反応するよう作り上げた認識」である。言い換えるなら、感情は脳の働きの一部として機能している。
脳(の一部)は思考と感情の両方の働きをしていて、感情と思考の源であると表現できる。


新生児の時からの反応の記憶は、脳に感情として、認識の一部として作られると考える。


個人が持つ認識とは、脳の思考と感情の働きのことであり、脳の働きを知らなかった昔の人々は、それを心と表現した。

価値観は認識の反応であるが、感情の働きがより大きな影響を与えているように思える。人間は感情に影響されやすい。情熱には強い影響力がある。

感情は人や物などに対する反応のことであるが、人の持つ価値観とよく似ているように思える。
違いは価値観が思考と感情である認識の反応であるのに対し、感情は思考を伴わない、直接的な価値観の反応であるように思える。



好き、嫌いは感情の元ではないか。
喜び、悲しみはそこから作られるのではないか。
それ以外にも、良い、悪い等という表現もある。

自分以外の世界を知ることができるのは、人間に五感があるからで、その反応が感情を作る背景に思える。

好きという五感に共通している表現は「素晴らしい」であるが、視覚ではそれが「美しい、きれい、かわいい」になり、味覚では「美味しい、うまい」、聴覚では「美しい、綺麗な」音などと表現される。

嫌いの五感に共通しているのはイヤだという拒否反応のことで、それを視覚では「醜い、汚い」、味覚では「まずい、不味い」、聴覚では「うるさい、イヤな」音になる。


好き嫌いは、人の持つ認識で変わる

戦争時代には敵として憎み合っていても、戦争が終わり平和になれば親しい友にも変わる。
好きな人が嫌いになることもある。
美しい、素晴らしいと感動したものでも、見慣れれば感動も薄れ、ただの置物にもなる。
美味しいものでも、いつも食べていたら飽きてしまう。嫌いになることもある。

好きは喜びの元、嫌いは恐怖、憎しみ、悲しみ、怒りの元である。

人間の好き嫌いは、なぜ変化するのか?
それは固定したものではなく、作られるものであるからだ。

価値観は作られたもの、元々はなかった。
価値観の多くは、幼少の頃から、社会環境により、常識として教え込まれ、身につけたものである。

価値観は脳が作っているが、自分で考え、判断したのであれば、責任感を持てる。
しかし、幼少の時期には、自分で考え、判断する能力がまだできていない。
それ故、価値観の多くは埋め込まれたものである。


幸せについて 幸せを理解することが、幸せでいられる理由 を書いた。
その中で、幸せが長続きしない理由について、二つの理由をあげた。

1.自分自身、人間本来持っている本性の問題。 人間はそのままの状態では満足するようには作られていない。 幸せになっても、その状態(感性)は長く続かない。
言い換えると、その状態を感じ続けることができず、認識できなくなってしまう。


2.時間と共にすべては変化していく
永続する安定は存在しない。時代の変化と共に社会環境そのものも変わっていく。
人は死ぬ定めがあり、世代が変わって行く。これは避けられない現実。
その変化に対応することがすべての人に課せられている。

この現実の世界の中で、人は対応次第で、幸せを認識し続けることはできる。

理解する必要があるのは、幸せを感じるかどうかは単にその人の置かれている状況ではない。
ヘレンケラーは 「幸せはその人の心、認識の問題である」と明らかにしている。
幸せであることを認識できるかどうかがカギなのだ。


今回新たに思い付いたことを付け加えると、
幸せは、信頼と同じように作り上げていくものである。
幸せという存在があるのではなく、そういう心境、満足した認識を作れるという意味である。

「幸せは無いのに、幸せがある」と信じることは、存在がなくても在ると思い込む脳の働きであるように思えてくる。

思い込み、信じることにより、又幼少のころから植え付けられることにより、感情と価値観は脳が作ったものであると考える。生まれた時からあるのではない。

美しいという感情はあっても、美しさは無い。脳は無い物をあることにする力がある。
人類はその働きを知らず、今まで気付かずにいたように思える。

事実は、感情は脳の働きにより作られたものであり、その存在という実体があるのではない。
あると思い込んでいるだけである。
それは、神、天国、地獄、死後の世界などと同じように、存在は無いのに、人間があると思い込むようになったからではないか。

「人間の脳には、無い物を在ることにする働きがある」 という事実を知る必要がある。
それは、今までの人類が持つ古い価値観を修正する時期に来ていることを示している。

人類が抱える多くの問題の根底にあるこの原因を取り除くこと、修正することが、人間の理想に近づくことになるのではないか?



知的生命体という表現は、言葉と考える能力を持つ生命体を意味する。
知的生命体であれば、その認識の成熟段階では、優越感により争い合い、互いに殺し合うという戦争は無くなると考える。
知的生命体は愚かな存在のままではいられないからだ。もし、愚かなままなら、その存在は無くなる定めにあるのではないか。

知的生命体には、その持つ力を理想的かつ有意義な目的に使うことの方が賢明である、とわかるからである。


* 疑心暗鬼について  8月26日(月)

これは疑う心から、暗闇で鬼が出てくるという意味である。
この作者は、人間の心の働きを見事に表現している。

三省堂大辞林に以下の説明があった。

「疑う心があると、何でもないことにまで恐ろしく感じられたり、疑いの気持ちを抱いたりするものである。

「ある男が斧(おの)をなくして、隣の家の息子をあやしいと思った。隣の家の息子のやることなすことが、全部あやしいように見えた。
ところがある日、谷底からなくした斧が出てきた。それからは、隣の家の息子が何をやっても、あやしいようには見えなかった」

疑う心とは、疑いの感情に基づき想像することで、その感情を証明するために人の頭脳を支配する。
人の信頼を失わせ、全てを怪しく感じさせ、それを証明したいとさえ思うようになる。
恐怖にもなり、人が得体のしれない怪物に見えてくることもある。その恐怖が自分を怪物にしてしまうこともある。

心とは何を指すのかは昔わからなかったが、現在はわかる。
人間の脳により作られる思考と感情による認識のことである。
この言葉の通り、人の認識には、疑う機能があると考える。

質問することは、脳の思考、考えることによる。、
疑うとは、感情の働きが関係し、無いものを在ると思い込み信じることに発展することがある。

あやしいと疑うのは、質問とは異なり、信頼を破壊する理由にもなる。
非常に大きな影響を与える場合がある。
どれ程の影響力があるのか?
暗闇で鬼が出てくる程の影響力である。

鬼とは、子供の頃の昔話によく出てきた恐ろしい妖怪や魔物のことである。
同じような表現には お化け、幽霊、悪魔、吸血鬼、口裂き女など、たくさんある。

恐ろしいと思えば思う程、本当に出てくるように思えてくる。
思い込み、信じるようになると、無くても在ることにしてしまう。

疑心暗鬼は人の疑う心が、相手を恐ろしい敵にしてしまうだけでなくだけでなく、自分も鬼のような非道な人間に作り変えてしまうという意味にもとらえることができる。

太平洋戦争では、日本国民は鬼畜米英という言葉で、敵は恐ろしい鬼で人間ではないと信じ込まされていた。それはまた、日本の戦争犯罪者として裁かれた人たちが、自分達も鬼のような人間になっていたことを示していた。

相手を疑う心は相手を恐ろしい敵にしてしまうだけでなく、自分も怪物となることを示している。

人間の恐ろしさを示す具体例 を書いた。
1. ナチスドイツでの強制収容所
2. 障害者施設で起きた入所者19人の殺害事件から学ぶ

これらの具体例に示された恐ろしさはどこにあるのか?
そこにに見られる鬼とは何か?



恐怖はなくすべきなのか? 疑うことは避けるべきなのか?

信頼を築き上げることは、人間社会の平和と安定に欠かせないが、小学生の頃に、「人を見たら泥棒と思え」と疑うことを教えられた。

現在、人を疑う必要があるのは、それだけ信頼できる人がいないためである。
オレオレ詐欺に見られる騙そうとする人はたくさんいる。私利私欲により強盗や殺人が起きている。犯罪者はたくさんいる。

このような状況下では、自分や家族の安全を守るために、人を簡単に信用できない。

このことは人間の社会において、敏感な思考を持つことの大切さを示している。何か変だな。いつもと違うと気付くことから、疑いは始まる。
怪しいという疑いが本当である場合もある。自分だけにとどめずに警察等の機関に相談することは、鬼を作らない方法の一つかもしれない。


信頼は言葉と行動で実証された上に築かれるものである。
信頼は初めからあるのではない。

先ず、自分の言葉と行動により、約束を守ることにより、信頼を築き、相手の信頼を勝ち取ることが、信頼の前提である。
これを幼少の時期から教え、情報を提供し、自分から学習し、理解するように、大人が手本を示し、模範になるることが、人間社会の基本と考える。


恐怖については、シリーズ15に詳しい説明を書いていた。
恐怖は作られる。読み返してみると、良く書けている。ただし、長すぎだと感じる。
多くの恐怖は現実を認識することで無くすことができる。
マイケルジャクソンのスリラーはゾンビ、死者に対する恐怖を無くすきっかけになった。
現実を知り、理解すれば、恐怖はなくなるものと考える。




* 無限に広がる世界の中の人間の存在
  * 必要とされる修正の意味


人間の世界は、人間の言葉と脳の考える力で作られてきた。科学、政治、経済、宗教、教育、法律など全てが人間の考えで作られている。 (例外は有り)

人間の考えは言葉で作られているため、全てが言葉で作られているとも言える。その言葉に間違いがあると、考えにも間違いが生じる。

人間は間違いが起きないように「正しい」という言葉と考えを作り使ってきた。正しい考え、正しい意見、正しい判断、正しい基準、正しいルール、正しい姿勢、正義の戦いなどの表現を作ってきた。

しかし、正しいという言葉に間違いがあればどうなるのか?

今までに間違いの無い正しい考えはあったかと質問してみる。
すると、今までに修正の必要の無い考えはなかったように思える。

学校で教えられる教科書でさえ改訂されていくのは、新しい発見等により人間の考えに変化が生じるからである。教科書でさえ間違いが無いということはない。

人間の考えに変化が生じるのは、考える能力があるからというだけではない。全てが変化しているからでもある。

人間は必要を感じ、間違いに気付き、反省し、改善することにより進歩してきた。科学、医学の分野などで大きな進歩が見られるのはこのためである。

特定の世界に枠を設ければ、その中でなら完全、完璧、絶対と思えるものを作ることはできる。しかし、その枠の中に完全なものを作ったなら、新たに進歩を示す完全、完璧、絶対なものは存在することができない。

人間の世界には部分的に枠が設けられているが、新しいものが作られていく。人間の世界は在るがままの大自然の一部であるからだ。

人類に進歩があるのは、人間の世界に完全も、完璧も、絶対も無いからと理解できる

しかし、人類の大半は、このことを理解できないために、今も間違いに気付かず、反省せず、改善せず、全く進歩しない考えを放置している。

戦争をすることに正しい理由はあるか?
敵にして人を殺すことは正しいことか?
報復することは正しいことか?

正しくないなら間違いではないか?
間違いなら、なぜ改善しないのか?
改善できない理由は何か?

人間は有限であるため、絶対に間違いが無いことはあり得ない。
しかし、絶対間違いがないとすることはできる。無いものを絶対在ると断言することさえできる。

それは脳の働きで、思い込みにより、信じることにより、誰でもそうなれる。
人間が恐ろしい存在になることはナチスドイツで数百万の人間が殺された事実を含め、数えきれない程の実例がある。今行われている戦争もそうである。
正しいと思い込み、間違いが無いと信じることにその原因がある。

このサイトでは「正しい」「間違い」という言葉の意味を次のように説明してきた。(詳しくは シリーズ37 を参考に)

正しいとは間違いが無いという意味ではない。

正しいとは、現時点で修正の必要がない、と考えることである。
間違い、誤りとは、現時点で修正の必要がある、と考えることである。

なぜそう書いたのか?
以下に新たに気付いたその理由を書いた。

この説明の中に「現時点で と ・ ・ ・  と考えることである」 とい表現が使われている。 なぜ「現時点で、 ・ ・ ・ と考えることである」 と書いているのか?

「現時点で ・ ・ ・ と考えることである」 は、結論ではないからだ。

この表現には間違いがあり得るという意味が含まれている。


なぜ、間違いがあり得るという前提が必要なのか?

その理由は、人間が有限の存在であり、無限と比較すれば限りなく何も知らないのに等しく、間違いは当然あり得ると考えられるからである。


シリーズ44 知的生命が抱える問題の核心について の中に
答とは、答えだと思い込むこと、そう信じることなのか?」と書いた。
それは、そうであってはならないという否定の意味が込められている。

答は信じる対象ではない。答は、学校の教科書の内容のように、その時点で修正の必要の無い、正しいものとして受け入れることができる。

思い込み、信じることは、無いものを在ることにしてしまう、在るものを無いことにしてしまう、脳の働きである。

信じるとは、絶対に正しい、完璧、普遍的であると、無条件で受け入れることである。信じるなら、それ以外に選択余地はないという意味になる。
それは疑問を持つことを許さず、考えなくさせる。
間違いは存在せず、修正は許されず、改善される道が閉ざされる。

正しいと信じるなら、間違いは存在しない。
間違いを認められない人には、修正はなく、改善もなく、進歩もない。
これが、思い込み、信じることの問題点である。

人類はここに事実である現実と真実を理解することが求められている。

地球は自然界の中にある。宇宙という大自然の一部である。地球上の世界は在るがままの世界、大自然の一部である。

しかし、人類は大自然の中にいることを忘れ、人間の世界を作ってきた。
人間社会の大部分は人間独自の考えで作られている。

在るがままの宇宙、大自然には、人間の世界に枠を設けることによって作られたルールや法律などの制限は無い。良い、悪い、美しい、醜いなどの価値観はない。無いものを在ることにしている人間の考えはない。


では、どうしたら間違いの無い正しい結論を出せるのか?

人間には限界が有るため、間違いの無い、絶対正しい答を出すことはできない。
人間の世界に絶対確かなことは存在しない。
人間の世界で、間違いの無い正しい結論を出すことはできない。
これは人間の世界に普遍的な間違いの無い答は存在しないことを意味する。

絶対に間違いは無いという考えを修正するためには、個人が信じることの問題を理解し、間違いに気付き、修正するために、信じることを止める以外にない、と考える。在るがままの事実(現実、真実)しかないからだ。

現在人類に求められているのは、人間の作った考えではなく、全宇宙に調和した考えに基づく価値観を見出だすことである。



できることとして次のようなことが考えられる。

* 美しいと感じるのは、美しさがあるのではなく、美しいと感じる認識が作られていることに理由があることを理解する。
* 悲しいと感じるのは、悲しさがあるのではなく、悲しいと感じる認識が作られていることに理由があることを理解する。
* 人間の価値観の多くは、幼少の頃から作られていることを理解する

なぜその必要があるのか?

美しい、素晴らしいと感動できるのは、人間が持つ脳の機能で、人生を豊かにする一面であると考えることはできる。
しかし、その脳の働きが同じように、醜い、汚い、悪い、という認識、価値観を作り、敵を作り、弱者さえ殺害するようになることを理解しなければならない

思い込み、信じることにより、無いものを在ることにする脳の働きは、気付かない内に価値観を作っている。これが人類が存続していくために理解し、解決しなければならない重要な課題、問題点であると考える。



* * * * * * * * * * * 

* 脳の働きから見えてくる時間について

思考実験?

西暦2050年人類は太陽系を離れた宇宙探検に出かける。
巨大な宇宙船の中では、たくさんの人が働いている。
地球上と同じ環境が作られ、空気、重力、照明もあり、快適な生活ができる。

ところが、生活している人の言葉に変化が生じている。
昨日、今日、明日という言葉が使われなくなっている

環境が変わったせいである。

今まで当たり前に思っていた朝がやってこない。
地球上では、太陽が昇って来ることで、朝という始まりがあったのに、太陽系の外ではそれが無い。

一日が始まり、仕事に出掛け、一日働いても太陽が沈むことはない。夜はないからだ。

仕事を終え、疲れをとるために睡眠をとるが、朝の太陽は昇ってくることはない。次の日はやってこない。

昨日、今日、明日は地球上で太陽があり、地球の自転があるために作られた表現であるからだ。

地球の自転により朝、昼、夜というサイクルがあったが、太陽系を離れた場所ではそのサイクルはない。遠くに星は見えるが、外は暗い宇宙空間である。

地球の時間を測る時計はあるので、地球上での時間を知ることはできる。
ただし、地球を離れれば地球時間に頼ることはなくなる。

太陽系を離れると、地球の自転により作られる一日はなく、地球が太陽のまわりを一周する一年もない。

そこにあるのは現在という今だけである

地球人は、地球の自転による一日を24に分け一時間、一時間は60分、一分は60秒と決めていて、時計の時間による経過があると教えられる。

時計による時間は、地球上での太陽、地球の周期(サイクル)から作られている。時間は人類が作った地球上では非常に便利な道具である。
しかし、時計の時間は変化の理由ではない

地球から離れ、太陽系の外に出れば、地球上の時間に頼る意味がなくなる。
人間の作った時間の意味が失われるからである。

宇宙に出ると、地球での昨日、今日、明日が無くなり、時計の時間に意味が無くなるのであれば、過去、現在、未来という時間はどうなるのか?


なぜ時間ガ無いと考えるようになったのかについての詳細を知りたい方は
シリーズ33 時間についての考察 を参考にしてください。


直線上に配置

   言葉から考える「時間の正体」について

予定と課題
10月
 1.時間という言葉の対象は何か
 2.時間は変化をもたらす原因か
 3.時間が作られた背景
 4.地球の時間は宇宙で通用するか
 5.今という現在は時間ではない
   * 未来の考えに修正が必要な理由 

 6.事実を認識することの意味
 7.まとめ


前置き

過ぎ去っていく時間という過去はないと書いた。
スマホで映像を撮れば、誰にでも明らかなことである。
撮り始めた瞬間から、撮された映像は今現在の記録である。
今現在の記録は、現在または過去と思っても、現在と過去が同時進行している。
現在=過去である。過去とは過ぎ去っていく時間ではなく、現在の記録である。

時間が過ぎれば過去だと思っても、過去が始まる時点を示すことはできない。
過去の始まりは今、現在であり、現在は永遠に続いている。
このことは、過去と未来の間に今という瞬間があるのではないことを示している。

時間の過去は無い。今は瞬間ではない。現在という今が永遠に続いている。
時間の未来は初めから在るのではない。それは約束、想像、計画により現在に造られていく。過去、現在、未来は、脳が働いている現在の中にある。

**********

時間は言葉である。英語で言葉は単語のことである。
全ての言葉(単語)は実体ではなく、実体や対象の代わりである。
言葉は考えであり、情報である。
全ての言葉は、実体の無いもの、実体と確認できていないものを含め、実体ではなく、対象の代わりである。


10月1日(火)
時間という言葉の対象は何か?

時間という言葉は対象を意味する考えであり、その代わりをしている。
「実体でないなら、時間の対象とは何か?  何を時間と呼んでいるのか? 」を明らかにする必要がある。

時間という言葉の意味について

時間とは、時(とき)の間、時の間隔のことである。
時を計るとは、どれくらい時間がかかるか、という意味である。

時間とは何か? 

1、2、3、4、5、6 と数を数えることで時間は過ぎていくように感じる。
数を数える間に時間がかかる。単純に数を数えることから時間が作られる。

この数える間隔を一定にし、長さを定規で測るように、時の間を数えることから、時間を計ることができる。

この時の間隔を一定にして数えることが、時間を計ることである。

時計はこの時の間隔を一定にすることで計れるようにしたもので。同じ周期、規則正しく動くリズムを作り、数えることができるようにしたものである。

時間を計る時計という道具があれば、どれほど時間がかかったのかを知ることができ、比べることができる。それにより、早い、遅い等の比較する表現も使うことができる。


時を計るという表現と共に、時を知るために「今何時?」もよく使われる。
時間を尋ねるのは、何を知りたいのか?
今何時か? という質問は、繰り返される一日の中で、今がどの位置にいるかという問いである。

どの位置にいるかとは、時間がどのように作られてきたかと関係する。

日時計、水時計、砂時計が作られた頃からか、地球の自転一回である一日を24に割った一つを1時間、1時間は60分、1分は60秒に決められたようだ。

ウィキペディアによると、60を数えて1つ位を上げる60進法を使ったのは、紀元前2000年のシュメール文明にまでさかのぼり、一日を昼と夜の各12、合計24の時間に分けたのは古代エジプトで日時計から作られたとある。

科学技術の発展はその一秒を限り無く正確に計ろうとしてきた。
一秒を正確に計れるようにできれば、1分、1時間、1日、1年も正確に決めることができるように思える。

それが可能であれば、全宇宙に通用する時間にすることができるかもしれない?

現在の「原子時計の正確さは数千年に一秒の狂いもない」という。



.時間は変化をもたらす原因か?

人間は太陽が昇り、沈むことを繰り返すことから朝、昼、夜という言葉を作った。この周期に合わせて、人は時の流れを感じる。周期は確かにある。

朝、昼、夜という言葉に実体はあるか? 太陽系の中心にある太陽に基本的に動きはない。地球の自転により、太陽の光の地球に当たる面が変わることから作られた表現である。

地球が太陽のまわりを繰り返しまわっている。その公転することにより一年に春、夏、秋、冬が繰り返される。これら季節を表す言葉も地球の動きから作られている。季節感は時間の流れがあるかのように感じさせる。

その間に植物の成長、実りの時、収穫の時期が繰り返される。植物だけでなく鳥、動物、人間を含むすべての生命体が変化しているように見える。

周期的な天体の動きが人間の世界に変化を与えている。

これが、時間が変化をもたらすと考えるようになった背景ではないかと考える。

言い換えると、時間があるので変化を感じているのではない。
地球の自転と太陽のまわりを公転することが変化を生み、その変化を時間の動きと勘違いしているように思える。

時間とは過去、現在、未来へと、変化をもたらすもの、のように考えられてきた。
変化には様々なものがあるが、その多くの変化をもたらしているのは、時間ではなく、太陽のまわりを地球が自転しながら公転していることにある。

太陽があり、地球の自転から朝、昼、夜の一日があり、太陽のまわりをまわることから、春、夏、秋、冬、一年などの変化が起きる。定期的な変化である。
人類が長い間気付かず、知らなかった気象現象の高気圧、低気圧、晴れ、曇り、雨、雷雨、台風などの多くの変化が起きる理由である。
火山活動、地震、津波などの起きる背景も地球にある。

この事実は、人類が地球そのものと地球が太陽のまわりを公転していることから起きている変化の理由を知らず、気付かず、理解できず、その代わりに時間が変化をもたらすと考えるようになった背景に思える。

太陽系を離れた宇宙では、その影響がないため、その変化は無くなる。
すると、時間による変化は感じられず、いつでも今という現在しかないことに気づく。今という現在が永遠に続いているなら、過ぎ去るという時間は無く、過去はない。

地球上に限らず、どこにいても、時間を計ることはできる。同じ周期、規則正しく動くリズムを数えることで独自の時間を作ることが可能である。
時間はカウントすることにより作られる時の間隔のことで、人間が作り出した考えである。

地球以外でも、高度な知能を持つ知的生命体であれば、置かれた環境から周期を見つけ、時間に代わるものを作ると考えられる。それは人間の作った地球の時間とは異なるものとなる。

時計による時間は時の間隔を表現するために作られた。
時間という対象があっても、対象が何かわからないので、それを時の間として表現したからではないかと考える。

これまでに、美しいは人間の認識を表す言葉で心にあり、美しさがあるからではなく、人間の持つ価値観の多くは幼少の時に認識として作られたものであると書いてきた。

時間も人間の認識を表す言葉で、リズムを取る間、数を数える間に時間がかかることから、時間があると考えるようになったのではないかと考える。



10月5日(土)
3.時間が作られた背景

一年は地球が太陽まわりを一周するのに365回自転することから作られた言葉である。一日は地球が一回自転することから作られ、その一日を24で割った一つを1時間、60に分けた一つを1分、1分を60に分けた一つを1秒と決めた。

ここで重要なのは、太陽のまわりを一周することも、地球の自転も、人類の存在より早くからある事実で、人間が発見したことではあっても、人間の作った考えではないことである。

それに対し一時間、一分、一秒という言葉は人間が考えで作り、そう決めたものである。

これらのことは当たり前に思っていても、地球上の人類にとってという条件があることに気付かないでいる人はたくさんいる。

昨日、今日、明日があるのは、人間が地球上に住んでいて、太陽の影響を受けているからで、太陽系から離れた宇宙空間では、昨日、今日、明日はなく、季節の変化もなく、一年もなく、いつでも今という現在しかない。

火星に住むようになれば、環境は大きく変わっても、太陽系の枠内にあり、火星の自転は地球とほぼ同じと言われるので地球の時間は使えるかもしれない。
しかし、太陽をまわる一年は365日ではなく、687日になると考えられている。
それを基準にすれば100歳になる人は53歳であることになる。

火星では年齢が半分になるのだから、若くいられる、長生きできると、思うかもしれないが、これが人類の考え方に共通している間違いであることには気付かない。

人の老化の原因が、年齢にあり、太陽のまわりを地球が公転する回数と同じなのはおかしいと思う人はほとんどいないことである。


太陽は今までに50億年燃え続けてきた。それは人類の時間ではそうなっていても、地球が太陽のまわりを50億周したという意味である。
それを同じ年数にして、時間と考えている。

しかし、少し考えてみれば、地球も太陽もない時代はあった。その時、時間はあったのかと考えれば、人間の作った時間は無かった。
現在の人間の作った時間を、50億年、それ以前にまで適応させることに間違いはないのか、と考える人はいないのだろうか?

人間の考えは進歩する。人間の考えには、わからないこと、まだ気付いていないこと、抜けていること、修正の必要のあることがたくさんある。
人類が進歩するのは、間違いがあることに気づき、修正し、新たな考えを作り続けるからである。



10月6日(日)
4.地球の時間は宇宙で通用するか

数千年に1秒の誤差もない時計を作ったことは、驚きである。部分的ではあっても、人間の能力、人類の素晴らしさを示すものである。
しかし、その時計を作るに至った考えには、事実を見落としていることはないのだろうか? 

見えていない事実?

一年を地球が太陽のまわりを公転する一回、地球が自転する365回なのは、人間が観測から見つけ出した自然法則である。これは人間の作った考えではなく、見つけた事実である。

人間は、地球の自転一回を24で割って1時間と決めた。
しかし、地球の自転一回をなぜ24で割ったのか? その明確な理由はあるのか?

古代のエジプトの日時計により昼間を12に分けたことから始まったとされる。手の指の親指を除く4本の指の関節が3つに別れていることから、4x3=12、12進法が使われていたという。

とは言っても、24という数字を使った本当の理由はわからない。
便利で使いやすい等の理由があったからかもしれない。
いずれにしても、人間が決めたからである。

なぜ24なのかという答がわからないのは、事実とは結びついていないからだと考える。24で割る明確な根拠はないのである。

言い換えるなら、一時間は人間の作った時間であり、地球の自転一回にかかる時間の24分の1という意味である。
このことは一時間が存在しているという意味ではない。当然のことであるが、1時間から作られた1分、1秒は人間の作った考えである。

これが理由で一日は24時間になった。地球上では誰でも一日は24時間であることを疑う人はいない。しかし、一日が24時間であるというのは自然界にある事実に基づいてはいない。人間がそう決めたにすぎない。

時間という単位は自然界にあるのではない。価値観と同じように人間が作った決まりである。今ではそれが時間という流れがあるという感覚になっている。


原子時計による数千年に1秒の狂いも無い時計を使って1000年を計ったら、地球上では1000年になっても、それは太陽のまわりを1000回まわる回数であり、時間ではない。

1000回を計るためには1000回数える必要がある。それには1000年かかる。しかし、頭の中ではアッと言う間に、一瞬の時間で1000年を考えることはできる。

なぜ1000年が一瞬の時間になるのか? 
時間は言葉で作られた考えであり、実体ではないからだ。
時間は時の間隔であっても、その間隔は考える上では、自由に変えられる。
1億年でさえ一瞬になる。考える上では、時間だけでなく、全てが実体ではないからである。

誤差の無い一秒は実体ではないのか? 
自然界にある原子から作った一秒であっても、人間がそう決めた時間であり、人間の世界にあるだけである。宇宙では人間の価値観は基本的に通用することはないと考える。

時計が作られ、今では全てが時間で計られるようになっているが、これは人間が決めたことであり、自然のあるがままの姿ではない。


簡単な例として、閏年で一年を調整しないと、およそ100年で25日、1000年で250日の違いが生じる。
閏年が必要なのは、地球が太陽のまわりを公転する一回、一年が自然界の事実であっても、時間の正確さを示すものではないからで、人間の都合に合わせて調整することが必要になる。
閏年に示される人間の能力は素晴らしい。

10月7日(月) 追記:
このことは、人類が在るがままの大自然にただ追随するのではなく、人類としての在り方を見つけていく必要があることを示している。
在るがままの大自然は人類の存続を守ろうとすることはなく、絶滅種になることも気にすることもない。
人類がそれに気づき、優越感を捨て、正義の戦争を止め、人類の間違いの元である価値観を修正し、新たな未来を築き始めることが必要であると考える。



10月13日(日)
5.今という現在は時間ではない
  未来の考えに修正が必要な理由 


永遠に続いている今という現在は、現実に在るがままであり、人間の脳が五感で認識できる実体として存在している。

今という現在は、時間ではなく、考えでもない。
脳が五感を通して認識している領域、範囲と同じ意味であるように思える。つまり、
今現在とは、目の前に広がる現実の世界のことである。

現在、過去、未来に区切りはない。今という現在しかないからである。

考え実体は共に脳の働きである。
考えは言葉により作られるイメージを含む想作のことで、
実体は五感によって認識される対象のことである。



* 未来の考えに修正が必要な理由

誰でも未来はあると思っているが、未来は本当にあるのだろうか?

* 明日があるではないか? 明日は未来ではないか?
  1年先、100年先の未来があるではないか?

この質問が起きるのは、地球上での変化の理由を理解していないからであると思う。この質問に対する答えは 2. 時間は変化をもたらす原因か? に説明を書いた。

簡単に説明すると、地球上では太陽が昇って来るので、明日があるように感じるが、太陽系の外では、太陽の影響を受けなくなり、太陽が昇って来ることはなく、明日はなくなる。

その宇宙空間では、太陽と地球による変化はなくなるため、時間はなくなり、いつも今現在であるように感じる。

地球上では明日がある。それは地球上でという条件があるからだ。
太陽系を離れれば、明日はない。


* 1年先、100年先は未来に思えても、その時があると証明することはできない。

未来とは、未だ来ていないという意味である。
未来に何が起きるかは誰にもわからない。だから未来なのである。
未来という言葉は時間ではなく、対象となる実体は無い。

* 例1
今という現在はあるが、未来はその前にあるのか?その後にあるのだろうか?

1年先と1年後は同じ意味で使われているように思えるが、
一年先は未来であり、一年後は過去の意味である?
何がどのように違うのか?

* 10分前にテレビを見ていた。その時間10分前はすでに過去である。
1時間前に夕飯を食べた。これも過去である。
過去は現在の記憶、記録である、今という現在の前に、未来はない

* 今から本を読む。10分経った。時間が経ったのだから、今は10分後にいる。
10分経っても、今、現在である。
今から風呂に入る。一時間経った。その一時間後も今、現在である。
今という現在の後に、未来はない


起きていて脳が働いている間、意識にあるのは、時間に関係なく、今という現在である。人間の脳が働き、意識があれば、いつも今、現在である

時間がかかり、時間が経過するように思えても、いつも今、現在である。

時間が経った気がするのは、今という現在が記憶に残っているので思い出すことができるからで、過去は現在の記憶、記録として作られていくからと考える。


約束、計画、想像による未来はある。夢、希望、願い、目標、目的も未来に関係するが、その言葉は現在にある。

未だ来ていない、未来にあるものは、全て考え、想像により作られたもので、未だ無い。未来は決まっていない。

明日の計画、約束することができるのは現在であり、未来にあるのではない。計画、約束などは人間が未来を作っているという意味である。

* 1.未だ来ていない未來を、考え、計画する。 2. その計画を実行し、目的を達成するために働く。 3. 仕事を終える。この1、2、3 のそれぞれの行動をしている時は、いつでも今、現在である。


問題提起?

今という現在は、時間ではなく、考えでもなく、現実の世界である。
現実の世界に、過去は記憶、記録としてある。
時間はある。時間を計ることもできる。
しかし、時間は過ぎ去ることはなく、時間の過去はない。

あり得ないように思うのは当然であるように思う。
今までに誰も聞いたことのない新たな考えであるかもしれない。
修正が必要である可能性は当然考えられる。

では、今という現在しかないのはなぜか?

人間の脳は現在しか認識しないからと考えるが、なぜそうなのか?。

全ての活動に時間はかかる。時計でその時間を計ることはできる。
ところが、あり得ないことに思えるが、それは、時間の経過ではない。
時計で計り、1時間かかっても、時の経過では無いとは、どういうことか?
とても理解できる内容とは思えない。

地球上では、時計で一日の時間を計ると24時間になる。
しかし、時計で時間を計っている途中の、どの時間をとってみても、いつでも、それは今という現在である。

一日が過ぎたと思っても、一日が過ぎた理由は、時計で24時間を計ったからではない。地球が一回自転したからである。
一日を24時間に決めたのは人間であり、時間は自然界の法則ではない。

一日前、時計で時間を計り始めた時、今現在であった。一日過ぎて時計が24時間を計り終えても、今現在である。その途中どの時点でも、今という現在である。
いつでも、今は現在である。
なぜ、いつも今、現在なのか?

それは、時間はあっても、時間の経過は無いからであると考える。
時間の経過を意味する過去はない。過去は今現在の記録である。

これは明日があると思い込んでいるのと、同じようなこともしれない。

太陽系の外でも、時計で時間を計ることはできる。
しかし、時計があっても、地球上にある変化はなくなる。
その変化がなくなり、人間と人間による宇宙船内の活動が無ければ、長期間変化はなく、全てが止まっているかのように思えてくる。
時計があっても、時間は無いように思えてくる。
変化がないと、時間の意味がわからなくなる。
時計があっても時間の意味がなくなる。
変化がないと、時間はないのと同じに思える。

地球上で、時間はかかっても、いつでも今現在であるのは、時間は計れても、時間による経過は無いからであると考える。
時計が時刻を示すのは、時間を計っているからで、時間が過ぎているからではない。
脳が今現在しか認識しないのは、それがあるがままの事実、現実、真実であるからではないか。


以上の内容は、時間について考えていく中で、今までに考えたこともないことを疑問に思いつき、追及した内容である。
修正の必要が無いように考えてはいても、修正が必要な可能性はいつでもあることが前提である。



10月15日(火) 追記:  時間には明確な対象がある

1時間は地球の自転一回を24で割った時の長さであると書いた。
つまり、時間は地球の動き、一回転する中で、どれだけ動いたかを示す
1時間とは、地球の1回転する中での2点間の幅、距離の割合が24分の1のことである。
1時間前とは、決めた地点より、地球の24分の1回転する前のことである。
これは、時間には明確な対象がある、という意味である。

時間は2点間であるため、計ることができる。
時は一つの点であるため、位置を決めることはできるが、時間という間隔ではない。

直線上に配置



その2 遺伝子について 
  人の誕生の過程から見えてくる親子の意味
  ヒトゲノムとは何か
    * 人の成長、性に操られている現実、老化、死
    * 人類に適切な人口の数はあるか、数に意味はあるか