マイケルアレフのことばの認識は世界を変える
シリーズ45 存在にかかわる言葉の問題点について
2024年12月~
存在にかかわる言葉の問題点について
その1回目 言葉(単語)は対象となるものの代わりである
言葉(単語)は物などの対象の代わりをするもので、現在少なくとも次の3つに分けられる。
1. 対象が実体であるもの
2. 対象が五感で実体として認識できなくても科学により存在が認められているもの
3. 言葉の対象が何かわからず、言葉自体を間違って受け止めているため、対象が在ると思い込んでいるもの、である
その2回目
言葉の対象に存在がないにもかかわらず、言葉自体を間違って理解している等のために、対象が在ると思い込んでいるもので、言葉の分類 3.に属すものである。
その3回目
今回は対象に実体が無いものの続きで、人間の言葉である、単語、文章、考えについての一部。
その4回目
言葉の分類 3.言葉の対象に実体がなく、存在がないように思えても、対象が在ると思い込んでいる例は実に多いと書き、その例をあげたが、人間の言葉も 言葉の対象が実体ではなく、よくわからないものに分けられる。
その5回目 私、自分という存在について
その6回目 デカルトの「我思う故に我あり」という表現の背景に修正が必要な理由
その7回目 人間の存在の意味について
その8回目 理解を超える生命体の遺伝子の存在について
その9回目 言葉(単語)全ては実体では無く、実体を含む対象の代わりである。
その対象の代わりとは何かについて
その1回目
言葉(単語)は対象となるものの代わりである
言葉(単語)は物などの対象の代わりをするもので、現在少なくとも次の3つに分けられる。
1. 対象が実体であるもの
2. 対象が五感で実体として認識できなくても科学により存在が認められているもの
3. 言葉の対象が何かわからず、言葉自体を間違って受け止めているため、対象が在ると思い込んでいるもの、である
全くわからないものは、想像することさえできないため、言葉に表すことができない。現時点では存在していないと考える。
言葉は対象となるものの代わりである
1. 対象が実体であるものについて
実体とは、基本的に人間が持つ五つの入力器官(五感)で存在があるとわかる物のことを言う。
五感は人間個人と外の世界を結ぶ橋渡しをする機能のことである。
五感で認識できるとは、
視覚により、目で見える物、
聴覚により、耳で聞く音、
触覚により、手を含む体で触れるもの
味覚により、舌で味わえるもの
臭覚により、鼻で匂いを感じるもの、のことである。
長い間、入力器官一つである視力で認識できれば実体と考えられてきた。
見えるだけで存在があとわかるからだ。
対象が粒子のように小さすぎて目に見えなくても、
対象が舌でわかる味覚のようなものでも、実体があると理解できる。
匂いがあれば実体があると理解できる。
生活の中では五感全ての働きで、実体の存在をより深く認識している。
物(リンゴ)を例にあげれば
視覚: 見ることで、色、形、大きさを、
触覚: 手にさわることで感触、重さ、大きさを
臭覚; 匂いを嗅ぐことでリンゴの匂いを、
味覚; 口から食べることで舌で味を知り甘くて美味しいと認識する。
聴覚; 耳の働きはリンゴなどの物そのままでは音を感じることはないが、指でたたいたりすれば音を聞くことができる。
* 音について
音は感覚では存在があり実体と感じるが、意味を考えると、理解は難しい。
音を作り出すものには、人間、楽器、テレビ、ラジオ、スマホなどがある。実体であるが、音そのものは空気の振動で、物が動いているわけではない。
音は聴覚により認識できるので、実体と考える。
科学的にも音の存在を確認できる。
それはちょうど匂い(臭覚)の対象も、味も(味覚)の対象も実際に見て、触れる物ではないが、認識できるので実体であるとするのと同じように考える。
目に見えない小さい粒子が存在し、科学的な裏付けもある。
ところが、音は見えなくても、細かな粒子があるという存在ではない。
物の振動を空気が伝えている。空気の振動が音である。
音については、対象の代わりをする言葉そのものに存在が無いように思えることが関係しているのかもしれない。
大きな謎のように発展するため、問題点をその3.で説明を試みる。
2. 対象が五感で実体として認識できなくても科学により存在が認められているものについて
人類は最近まで、見えないものは存在しないと思い、目で見えるものが全てだと考えていた。
病気は悪霊の仕業だと考えられてきた。今でもその影響は残っている。
(真実を求めて 病気の原因)
細菌やウイルスの存在、原子の存在も、二重らせんの遺伝子の存在も最近まで知られていなかった。
地球は大きすぎて見えなかった。天の川銀河に2000奥以上の恒星があることも、宇宙が膨張していることも知らず、ブラックホールの存在も、見える宇宙に2兆もの銀河があることも知らなかった。
今現在の世界は、昔からの考えのままでいられる時代ではない。新たな事実に伴い、今までの常識が崩壊し、人類の歴史が大きく変わる可能性のある時代にいる。
科学により新たな存在があることが認められているものは、膨大な数になるが、専門家により検証されていて信頼できるものは多く、その実証過程や意味をインターネットなどで確認する助けになる情報が溢れている。
五感で認識できなくても、存在を認められるようになるものは限りなくあるように思える。
新たにわかるようになってきたことの情報量を数百年前と比べるなら、昔は何も知らなかったと思える程に、人類は新たな時代の入り口にいるようである。
その2回目
言葉の対象に存在がないにもかかわらず、言葉自体を間違って理解している等のために、対象が在ると思い込んでいるもので、言葉の分類 3.に属すものである。
言葉の対象に実体がなく、言葉自体を間違って受け止めているため、対象が在ると思い込んでいるもの
言葉の対象に存在がなく、実体もないのに、対象が在ると思い込んでいる例は実に多い。わからないからという理由からか、言葉自体を間違って理解しているものもある。
この分類に属する言葉はたくさんあるが、わからないことも多く、未だ整理されていない。
以下のような例が考えられる。
* 形容詞の対象
* 人間の言葉、文字、数字、考え
* 私、自分という存在
* 音とは何か 時間とは何か
* 死後の世界、天国、神、天使、悪魔等の存在
* その他
今回は身近にあるわかりやすい例として、
* 物を修飾する表現の形容詞を考えてみる。
言葉の理解に問題がある主な理由は、科学が明らかにしてきた現代人が持っている情報の多くが、昔は無かったことにある。
多くの言葉は、情報の非常に少ない時代に、昔の人々の考えや感情によって作られている。それを今も受け継ぎ大切にしているため、間違った認識を修正できずにいる。
形容詞は具体的な問題点をわかりやすくするための具体例になる。
次の質問を考えてみよう。
大きさはあるか? 長さはあるか? 重さはあるか? 高さはあるか?
あるに決まっている、と思うかもしれないが、
この質問に答えるためには、大きさとは何か、長さとは何か、重さとは何か、高さとは何かを理解していることが必要になる。
大きさとは、物を比べること、比較することから、大きい/小さいかを判断することであった。
同様に、長さとは、重さとは、高さとは、物を比べること、比較することから、長い/短い、重い/軽い、高い/低いかを判断することであった。
形容詞は比較して初めて意味を持つ表現である。
比較しないで、大きいは存在しない。
比較しないで長い、重い、高いは存在しない。
比較しなければ、小さい、短い、軽い、低いは存在しない。
その名詞は比較の意味を無視して作られた表現である。
大きさ、長さ、重さ、高さ等の表現は、元の意味を変え、比較を忘れた表現になっている。
形容詞を名詞に変えることは、簡単にできるように思える。
語尾の「い」を「さ」に置き換えるだけである。
小さい、短い、軽い、低いは、小ささ、短さ、軽さ、低さになる。
しかし、名詞に変えると、比較対象している比較の意味が失われ、存在するものに変わってしまう。大きさ、長さ、重さ、高さがあることになる。
こうして形容詞の持つ比較することの意味が失われてきたのではないか
存在そのものに大きい、小さいは無い。その意味は、人間が比較することにより作られる。
大きいリンゴは存在しない。
小さいリンゴと比較するから大きいリンゴになる。
大きいリンゴと比較すれば小さいリンゴになる。
小さいこととは、大きいことの反対であり、短いこととは、長いことの反対である、と説明するかもしれない。
しかし、これらの形容詞はその言葉だけでは、意味をなしていないことがわかるだろうか?
大きさに、大きい/小さいはなく、絶対値のような意味に使われているが、その大きさという言葉の意味は、今では面積に変わっている。
大きいから作られた大きさは存在しないので、面積のような表現を使うようになっている。
長さに、長い/短いはなく、絶対値のような意味に使われている。それは長さではない。長いから作られた長さは存在しないので、2点間の距離のような表現を使う。
重さに、重い/軽いはなく、絶対値のような意味に使われている。それは重さではない。地球が物を引っ張る力である。
地球以外では物の重さは違う。宇宙空間では重さはなく、質量のように表現される。
高さは、長さに類似した表現である。横の長さに対して、縦方向の長さを表す。2点間の距離として表現できる
慣れ親しんだ表現を変えることは難しいが、少なくともその意味と理解は知っている必要があるのではないか? なぜなら、間違った考えを修正しないで、当たり前のように正しいと考えていることが、間違った行動を生み出すからだ。
誰が大きいリンゴの絵を描けるかな? 誰も描けない、が答である。
比較しなければ、大きいはない。比較しなければ、小さいはない。
にもかかわらず、大きい/小さい、そのものががあると思い込んでいる人は多い。
以上は物理的な表現の問題点であるが、人間の持っている認識の表現にも同様の問題がある。以下は修正ガイドに書いた、認識にある価値観についての説明である。
価値観は、人間の思考と感情が作り出す認識による反応、判断を意味する。
価値観は思いこみにより作られるため、在ると思い込めば在るようになり、無いと思い込めば無いようになる。認識の強さ次第でどちらにも変わってしまうものである。
時代、社会環境、国、地域、民族、教育、常識等により作られるため、価値観は人によって異なる理由であり、感動の理由にもなれば、戦争の原因にもなる。
美しい、醜い、可愛い、汚い、などの表現は、好き/嫌いに基づく人の持つ認識による感情表現で、それは対象そのものにあるのではなく、人間の脳に認識としてある。しかし、現在、社会環境が対象にあると思い込ませている。
価値観は幼少の頃より、両親を初め社会環境を通して植え込まれるため、国、民族、宗教、その常識も、それが正しいものになってしまう。それは偏見のことである。
価値観は、個人の経験等による学習や反省から修正される場合もある。
美しい、素晴らしいと感動できるのは、人間が持つ脳の機能であり、人生を豊かにする一面であると考えることはできる。しかし、その脳の働きは同じように、醜い、汚い、悪い、という認識、価値観を作り、敵を作り、弱者さえ殺害しても正しいと考えるようになる。
これが人類が理解し、解決しなければならない問題、重要な課題である。
人が持つ価値観に、人間が恐ろしい存在になる理由がある。
その3回目
今回は対象に実体が無いものの続きで、人間の言葉である、単語、文章、考えについての一部。
言葉である単語、文章、それから作られる考えは、ノートに書かれた文字や文章は実体として認識している。しかし、その元である考えには実体がなく、存在はあると思えても、何かはわからない。
それはちょうど、誰でも未来の明日はあると思っていることに似ているように思える。
明日があるではないか? 明日は未来ではないか?
1年先、100年先の未来があるではないか?
こうした質問が起きるのは、昔からの考えを引継ぎ、地球上での変化の理由を理解していないために起きると考える。
明日は未来ではない。明日とは、定期的な地球の自転による変化の一面のことである。言葉から考える時間の正体の中に以下の具体的な例を示した。
視点が違うと、無いものが在ることになる例である。
太陽系の外に出たら
近未来、人類は太陽系を離れた宇宙探検に出かける。
巨大な宇宙船の中では、たくさんの人が働いている。
地球上と同じ環境が作られ、空気、重力、照明もあり、快適な生活ができる。
ところが、生活している人の言葉に変化が生じている。
昨日、今日、明日という言葉が使われなくなっている。
環境が変わったせいである。
今まで当たり前に思っていた朝がやってこない。
地球上では、太陽が昇って来ることで、朝という始まりがあったのに、太陽系の外ではそれが無い。
一日が始まり、仕事に出掛け、一日働いても太陽が沈むことはない。夕方がやってくることはない。
仕事を終え、疲れをとるために睡眠をとるが、朝の太陽は昇ってくることはない。次の日はやってこない。
昨日、今日、明日は地球上で太陽があり、地球の自転があるために作られた表現である。
地球の自転により朝、昼、夜というサイクルがあったが、太陽系を離れた場所ではそのサイクルはない。遠くに星は見えるが、外は暗い宇宙空間である。
地球の時間を測る時計はあるので、地球上での時間を知ることはできる。
ただし、地球を離れれば地球時間の意味は薄れ、意味はやがてなくなる。
太陽系を離れると、地球の自転により作られる一日はなく、地球が太陽のまわりを一周する一年もない。
そこにあるのは現在という今だけである。
地球人は、地球の自転による一日を24に分け一時間、一時間は60分、一分は60秒と決めていて、時計の時間による経過があると教えられる。
時計による時間は、地球上での太陽、地球の周期(サイクル)から作られている。時間は人類が作った地球上では非常に便利な道具である。しかし、時計の時間は変化の理由ではないことに気付く。
地球から離れ、太陽系の外に出れば、人間の作った時間の意味が失われ、地球上の時間に頼る意味がなくなる。
宇宙に出ると、地球での昨日、今日、明日は無くなり、過去、現在、未来という時間の区別がなくなる。いつでも今現在になる。
今現在しか認識できない脳の働きは、この事実と一致しているように思える。
昨日、今日、明日という言葉は、地球上の人類が作った常識であっても、眼が宇宙に向かい、火星に住む計画がある現代においては、少なくともその事実を理解する必要がある。
人類が発見し、発明してきた全ての元は、人類が存在する前に存在している。太陽が行っている核融合でさえ50億年も前からある。
人間は「自分は、わかっている」と思うことを止め、本当はわかっていないかもしれないという認識を持つ必要がある。それが事実であるからだ。
その4回目
言葉の分類 3.言葉の対象に実体がなく、存在がないように思えても、対象が在ると思い込んでいる例は実に多いと書き、その例をあげたが、人間の言葉も 言葉の対象が実体ではなく、よくわからないものに分けられる。
言葉が実体の代わりをしている場合はあるが、言葉そのものは考えであり、実体ではないからである。
実体はないのに、考えはあり、考えがあるから存在があると思うことは一般的にある。
科学的にその考えの存在が認められるなら分類2に入るが、それまでは分類3である。
人は会話をして、情報を交換しているが、そこに使われている言葉、単語、文章、その情報も、全て対象の代わりであり、あると思ってはいても、代わりは実際にあるという意味ではない。
言葉は、信頼の上に、対象が実際にあることを前提にしている。
しかし、その前提である事実は、実際にはわからない。
言葉も、映像も、存在ではなく、代わりであるからだ。
言葉の作りが脳細胞にある電子のようなものか、波なのか、その存在は物理的にどのように作られているのかもわかっていないように思える。
言葉の媒体として使われる文字、数字などは実体ではないか?
それは実体である。
文字により単語、文章、考えを実際にある実体として表現している。
実体の元の考えが物理的に何かはわからないのに、文字も、文字で書かれた文章も実体であり、それを読むと考えが情報として伝わる。
考えも、情報も実体ではない。存在はあるように思えるが、何かはわからない。それでも、情報は伝わり、わかったつもりでいられる。
この仕組みのどこかに問題があるのだろうか?
個人的にはわからない。
次に書いた内容は、具体的な? わからない例になるかもしれない。
1,2,3,4,・ ・ ・ は自然数と呼ばれる数字の一部であるが、人間が共通の理解をするために作ったものである。
数字は考えであり、人間がそれを実体であるかのように作ったものである。
1、一、壱とは何かと考えても、考えとしてはあっても、存在はなく、それが何かはわからない。そうであっても、実体として数字の1などと表すことができる。
何かはわからないイチがあり、実体の1にするとわかった気がする。
数学は数の学問であり、数全体が何かはわからない。
数学は人間が考えを実体のように存在するものに変えたのではないか?
時間も考えでできていて、人間が使いやすいように作ったものであると書いた。
人が声により伝える言葉、単語、文章、考え全てに存在はあるのだろうか?
人の声は音として伝えられる。空気の振動と教えられるが、音が何かよくわからない。波とは何かがわからない。
人間の作った言葉は、対象の代わり、代用である。
言葉自体は対象の変わりである。変わりに実体はない。代わりに存在はあったとしても、何かはわからない。
多くの人は考えたことはなく、存在があると思い込んでいるように思える。
これは人間の自分という存在はあるのかという質問を提起させる。
その5回目
私、自分という存在について
言葉は少なくと次の3つに分類されると書いた。
1. 実体の代わり
2. 五感で認識できなくても、科学により証明されているもの
3. 対象に実体はないように思え、何かわからないもの
私、自分という存在も、この 3. 何かわからないものに分類される。
今回はその理由について
人間の体は実体である。
私、自分の人間としての存在は、五感により、誰でも皆あると思っている。
ではどこに自分はあるのか?
自分という存在は脳にある。
脳死は自分がいなくなることである。
病気により脳に異常が起きると、今までの自分ではいられなくなる。
これは自分が脳にあることを示している。
自分はなぜあるのか?
作られたからである。
誰が作ったのか?
遺伝子と脳である。生まれた環境も関係する。
産まれる前も、産まれた後にも、人間の自分はいなかった。
脳死と共に自分という存在は無くなる。
人が産まれた時、目、耳などの五感は未だ十分に機能していない。
新生児は、目が見えるようになっても、耳が聞こえるようになっても、何を見ているのか、何を聞いているのかはわからない。
新生児は、見るもの、聞くものを、脳の働きにより学習している。
全てが新しく、見たことも聞いたこともないものである。
「私がママよ」という声を聞き、何度も同じ顔を見、言葉の繰り返しを通して、顔、声、言葉の意味を学び、真似するようになる。
見たことも、聞いたこともないもの全てを学習して、少しずつ知り、覚えていくのである。
物に名前があることを学ぶ。それぞれの物、全てに名前がある。それを覚え、親の真似をして声を出して言うようになる。
自分の名前が繰り返し呼ばれ、自分も物のように名前があることを教えられ、学習する。
この過程を経ることにより、私、自分がいることを知るようになる。
これは必ずしも自分という存在に気付くこととは違うように思える。
私、自分がいることと、私、自分という存在があることとは違う。
主観的か、客観的かという違いである。
主観的な自分には、自分の存在が別にあるという考えは生まれない。
客観的な自分には、自分の存在が別にあるかも知れないと気付くようになる。
どちらの場合も、私という自分に気づく頃から、自分が私という存在を育て、作っていく。それ以来、私という自分が物事の中心に生きるようになり、自分が全てだとさえ思うようになっていく。
世界は自分を中心に回っているかのようである。
私も、あなたも、自分があると思うのは、遺伝子が体を作り、作られた脳が私という自分を育て、そう意識させ、その存在があると思い込むように作られているためである。
この事実は、私、自分という存在の対象が実体ではなく、何かわからないものという言葉の分類3 に入る理由である。
その6回目
デカルトの「我思う故に我あり」という表現の背景に修正が必要な理由
およそ400年前、現代の情報量と比べ情報量の非常に少ない時代に、現代哲学の基礎を築いたデカルトは人間の持つ知力の素晴らしさを示す業績を残した。
「我思う故に我あり」という言葉は、考え尽くした結果として知られている。
しかし、どんなに素晴らしい考えであっても、時代と共に変わる定めにある。
科学の進歩により、新たな発見に伴い、それまでの考えが修正されるからである。
「我思う故に我あり」という言葉の背景に問題があることは、長い間気付かなかった。
その問題とは、以下の二点を知らなかったことにあると考える。
1. 人が産まれる前にも、産まれた後にも、我という私/自分という存在がないこと。
2. 産まれた後に脳が自分という存在を作っていること。
デカルトの時代には以下の二つの情報がなかった。
1. 人間の体の全てが、針先ほどの受精卵の遺伝子により作られること
2. 脳の存在とその働きについての基本的な知識がなかったこと
である。
産まれたばかりの新生児の脳は未だ白紙に近く、自分という存在も、自分という意識も無い。新生児の五感は未だ十分に機能しておらず、入力される外部からの情報は無いに等しいからである。
新生児は言葉を教えられ、言葉を学び、覚え、真似し、話すようになるまで、自分という意識は無い。
話すことにより、食べたいなどの意思表示をするようになることが、自分で考えるようになった証である。考えることができるようになることが、自分という存在が作られ始めたことを意味する。
我思うという段階で、考えている自分がいることは、今も変わらない。
しかし、我思うという時点で、脳はすでに、私という自分の存在を作っている。
デカルトの考えには、自分が作られるという人間の成長過程が抜けている。
私という存在があるのは、産まれた時からではない。
産まれた時から自分がいるのではない。
悩によって作られる過程を経て、自分がいるようになるのである。
およそ400年前の当時において、誰もその事実に気付くことはできなかった。
医学を含む科学の進歩が未だ情報を提供していなかった。
今のような情報のある時代に生きていたのではないという意味で、彼の業績は、人間の知力の素晴らしさを示すものとなった。
その7回目
人間の存在の意味について
ここで改めて、人間の存在について考えてみる。
人間には五感で認識できる自分の体という実体がある。
ただし、自分の体という実体であると思ってはいても、体は自分で作ってはいない。遺伝子によって作られたものである。
自分の体は、自分が動かしている手足のように思えるが、体の大部分は、自分の意志で動かしてはいない。脳が動かしている。
人間の体の特徴、入力器官、血液も、神経も、心臓も、肺も、肝臓や腎臓も自分の意識とは関係なく作られ、運用、管理されている。体に異常が生じると警報が作動し、神経を通して脳へ、自分へと知らされる。
人間の体は産まれるまで遺伝子によって作られ、また産まれてからも、遺伝子と脳により運用、管理されている。
幼児から小学生、中学生、高校生、大人へと成長するのは、当たり前であっても、自分の意志とは関係なく、成長ホルモンなどの遺伝子と脳の働きによると考えられる。
異性に目覚め、恋をし、結婚して、子孫を残す、人生の最も重要と思われる部分が、遺伝子と脳の働きによるところが大きい。
人間にはその体の一部を利用する自分という脳の働きがあるだけではないか?
にもかかわらず、人間は、脳を含め体の全部を自分であると思っている。
自分が優秀な人間だと自慢したがり、何でも一番、一流を目指し、富と権力を得ようとする。
自分という存在、私がいると思っていても、その私である自分が何かも分かっているようには思えない。
これは、思い込みにより、無いものでさえ在ると思い込ませる脳の働きが関係しているのだろうか。
太古の昔から、神様のいる天国があり、悪いことをすると地獄に落ちるなど、今でも人類の多くがそう信じているのと同じような働きではないか。
人間は長い間、無いものを在ると信じてきた。それはわからなかったことが背景にある。
わからなければ、虫、鳥や動物、人が作った偶像でも神様になる。山や川や海、太陽、それが何であっても、地球外生命体であっても、神様になったと考えられる。
神という言葉は、人類の無知の象徴である、と書いた理由である。
人間が知的生命体であると思っていても、宇宙には知的生命体が様々な形で存在していると考えられる。それが事実だとしたら、人間に限らず、知的生命体には、「ことば」と考える能力があり、文明を発展させていると思われる。
そこからわかってくるのは、知的生命体は人間を含め、自分という存在に明確な定義は無く、確かなものはないと思えることだ。
地球上に繁栄していても、宇宙の拡がりに気付いたのは最近である。数千年もの間、人類だけが存在すると思い込んできた。
人間の世界は人間の作った世界であり、事実に基づいている世界とは言えない。
人間にとって都合の良い世界を作ってきたからである。
ルールや法律、また正義、平和、平等、人権などは基本的に人間の考えであり、人間の世界でしか通用しない。
事実とは、良いことでも、悪いことでもなく、在るがままの大自然にみられる調和のことのように思える。
宇宙に存在する全ての知的生命体は、その成長段階において、人間と同じような定めにあり、わからないことを背景に、自らの存在と世界を築いているのではないか。
利己的になり、争い合う時期もあると考えられる。
知的生命体の文明の多くが力を求め、正義を求め、優越感を求める結果、その文明は生命体と共に滅び、消滅して存在していないかもしれない。
火星に知的生命体の文明があった可能性はある。地球の人類が生まれる前にも知的生命体の文明があった可能性もある。
人間は今も知らない、わからないことを理由に、そんなことは無い、あり得ないと思い込んでいるのではないか。
わからない、知らないことはたくさんある。しかし、わからなければ在るとすることも、無いとすることも間違いであり、そう考えることには修正が必要である。
今までの人類の考える上での間違いを理解し、教訓として活かすことが重要に思える。
在るがままの事実に気付き、自分達の世界を修正し、大自然に調和した生き方をするなら、優越感が支配する世界を修正することが可能かもしれない。
調和という世界が、人類だけでなく知的生命体にとって、追い求めるべき目標なのかもしれない。
現時点での私/自分の存在についての考え
私/自分という存在は、言葉と考える力から作られている。
地球上では、人間も他の生命体も遺伝子から作られている点では同じであるが、人間以外には人間のような言葉による考える力は無いため、与えられたプログラムの範囲の中で生きることしかできない。
生命体は全て自由であるが、生きる上での生命体としての制限がある。知的生命体である人間にも生命体としての制限がある。しかし、人間には他の生命体との間に大きな違いがある。それは、言葉と考える力を持っていることである。それが、私、自分という存在を作っている理由である。
人間の私、自分という存在が、生命体が持つ限界を越えさせる力である。その力が、人間を他の生命体との違いを作り、生命体の持つ制限を越えて生きる自由を与えている。
その自由は、人間の持つ限界を超えさせ、宇宙の果てまでも認識できるようにする言葉による知能の働きの結果である。有限である人間に進歩し続ける可能性を与えている。
知的生命体である人間の存在は、奇跡のように素晴らしいものと考える。
ただし、人間には思い込みにより無いものでさえ在ると信じる脳の働きがある。
信じることは人間の持つ考える力を奪い、考えない人間にし、両極端な人間にしてしまう力である。誠実で真面目な人間にもなれば、狂信的な破壊者にもなる。人間を恐ろしい殺人兵器に変えてしまう力でもある。
知的生命体には間違いがあるという前提、その認識が必要で、それが人類の暴走を止め、反省を促す助けとなる。進歩し続けるために欠かせない前提である。
人間に考える力が無ければ、反省はなく、知的生命体の意味を失うことになる。
その8回目
理解を超える生命体の遺伝子の存在について
現人類が遺伝子を操作して新たな生命体を作れる時代にいることは、遠い昔に高度な知能を持つ知的生命体が同じようにして人間の先祖を創造した、と考えることはできることを意味し、その可能性はあると考える。
もし、そうであれば、人類を造った高度な知的生命体も遺伝子により作られたのだろうか? という質問が生じる。
このことは、時間を越えて、遺伝子操作による知的生命体の創作が繰り返されてきたことを意味するのかもしれない。
問題は遺伝子はなぜ存在しているのか、にあるように思える。
遺伝子の操作ができる現人類でさえその答えを知らない。全ての知的生命体は遺伝子の存在理由を知らないのではないか?
遺伝子は数億、数十億年前、生命体が存在するようになった時には、存在していたのだろうか?
ビッグバンによる宇宙が始まった時に、生命体の存在は、その宇宙の仕組みの中に組み込まれていたのだろうか?
宇宙の始まりがビッグバンであるなら、そう考えることはできる。
ただし、ビッグバンは人間の考えであり、その考えに間違いがあってもおかしくはない。
人類が知るようになった素粒子を含む物質、重力などの法則、光を含む電磁波の存在、核融合なども初めから決まっていたのだろうか?
あらゆるものはエネルギーから作られたのだろうか?
全てはビッグバンと共に存在するようになったのであれば、その可能性はあるように思える。
知的生命体はその事実を未だ知らないだけなのかもしれない。
その意味では、未だ知らないものの中に、生命の法則はあるのかもしれない。遺伝子の存在する理由が見つかるかもしれない。
例えば、水とは何か? その存在の意味を考えたら、答えはあるのか?
酸素と水素の化合物であると理解するようになっても、原子の作りもわかるようになっても、それは答えではない。未だ、存在の意味に答えていない。
答えとは、存在が在ることではない。なぜあるのかという問いに対する答でもある。
すべての存在に対する答はあるのだろうか?
辞典には、答えるは返事の意味であり、答とは質問に対する応答のこととある。
ここで、問題が提起される。
答という言葉に存在の意味、対象はあるのだろうか?
質問があるから、答が作られる。答と認められるから、答になる。
答は、人間が納得できるかという点にかかっている。
専門家により、また多数決などにより、答と思う人が多ければ、答はあることになる。
人類がわかったと思っていても、実は知らないだけで、視点によって、違う可能性もあるのかもしれない。
そんなことを言い出せば、全てが答かどうかわからなくなるではないか?
その通りかもしれない。
全ては一時的に答だと思っているだけなのか? という質問が提起される。
知力の源:知恵の言葉の中に、
「答えは無い。将来も答えは無い。今までも答えは無かった。それが答えだ。」 という Gertrude Stein による表現がある。
それに反する考えを書いた。
「答えはある。将来も答はある。今までも答はあった。それが答だ。」
これが答と言えるのだろうか?
答を出すことは、決めることなのか?
決めることに間違いがあるのだろうか。
正しい、間違いとは何か? の意味を次のように書いた。
正しいとは、その時点で修正の必要がないと考えることであり、
間違いとは、その時点で修正の必要があると考えることである、と。
「答はある、答は無い」ではなく、有限である知的生命体には、その有限である枠の中でしか、答となる結論を出せない、という意味である。その有限の枠を越えれば、答となる結論はわからなくなるように思える。
そう考えてきたのだが、有限の枠を修正する方法、有限である枠を超える方法はないのだろうか?
「答はある、答は無い」ではなく、有限である知的生命体には、その有限である枠の中でしか、答となる結論を出せない、という意味である。
その有限の枠を越えれば、答となる結論はわからなくなるように思える。
そう考えてきたが、それを修正できる可能性は無いのだろうか?
もしあるとすれば、それは遺伝子と脳の働きにあると考える。
なぜなら、それが知的生命体の存在理由であるからである。
思考力があるから、なぜかと考え、答を作り出す。
それがなければ、人間が持つ限界を越えることはできない。
人間の生来の限界を越えさせてきたのは、言葉による考える力である。
現在に至るまで、その知力により人間はその限界を越え、無限に広がるように思われてきた宇宙さえ、なぜそう見えるのかを明らかにしている。
真実を求めることは、真実とは何か? に対する答を求めることであり、それで、答が作られる。
質問が無ければ、答は無いように思える。
質問があるから、答えを探すことになるのではないか?
答とは、探すこと? 見出だすこと? 作り出すことか?
質問は、考える力があることから作られる。
何かに気付き、疑問を持ち、考えることによる。
考えることから、反省が生まれ、修正し、改善し、進歩が生まれる。
知的生命体は全てを知り、全てができる存在という意味ではない。
全ての知的生命体に限界はあるが、考える力がその限界を越えさせてきた。
どこまで限界を越えられるのか?
現時点ではわからない。
有限とは無限に比べ限りなく無いに等しいものであるが、
限界に挑むことは、知的生命体の避けられない定めのように思える。
人間は、地球上に存在する知的生命体であっても、固定的な存在のままでいられるという意味ではない。
私/自分という存在は作られているため、環境の変化に伴い、新たな知的生命体に変わる定めにある。
今までに作り上げられた人間であるという固定的な見方を変え、新たな理想に基づく価値観を持つ知的生命体に変えていくことが求められているように思う。それが、知的生命体の必然的な定めであると考える。
その9回目
言葉全ては実体では無く、実体を含む対象の代わりである。
その対象の代わりとは何かについて説明を試みる
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