マイケルアレフのことばの認識は世界を変える

シリーズ45 存在にかかわる言葉の問題点について
2024年12月~


存在にかかわる言葉の問題点について

その1回目 言葉(単語)は対象となるものの代わりである
言葉(単語)は物などの対象の代わりをするもので、現在少なくとも次の3つに分けられる。
1. 対象が実体であるもの
2. 対象が五感で実体として認識できなくても科学により存在が認められているもの
3. 言葉の対象が何かわからず、言葉自体を間違って受け止めているため、対象が在ると思い込んでいるもの、である

その2回目 
言葉の対象に存在がないにもかかわらず、言葉自体を間違って理解している等のために、対象が在ると思い込んでいるもので、言葉の分類 3.に属すものである。

その3回目
今回は対象に実体が無いものの続きで、人間の言葉である、単語、文章、考えについての一部。

その4回目
言葉の分類 3.言葉の対象に実体がなく、存在がないように思えても、対象が在ると思い込んでいる例は実に多いと書き、その例をあげたが、人間の言葉も 言葉の対象が実体ではなく、よくわからないものに分けられる。

その5回目 私、自分という存在について

その6回目 デカルトの「我思う故に我あり」という表現の背景に修正が必要な理由

その7回目 人間の存在の意味について

その8回目 理解を超える生命体の遺伝子の存在について

その9回目 言葉(単語)全ては実体では無く、実体を含む対象の代わりである。
        その対象の代わりとは何かについて



* * * * *
その1回目



言葉(単語)は対象となるものの代わりである

言葉(単語)は物などの対象の代わりをするもので、現在少なくとも次の3つに分けられる。

1. 対象が実体であるもの
2. 対象が五感で実体として認識できなくても科学により存在が認められているもの
3. 言葉の対象が何かわからず、言葉自体を間違って受け止めているため、対象が在ると思い込んでいるもの、である

全くわからないものは、想像することさえできないため、言葉に表すことができない。現時点では存在していないと考える。


言葉は対象となるものの代わりである

1. 対象が実体であるものについて

実体とは、基本的に人間が持つ五つの入力器官(五感)で存在があるとわかる物のことを言う。
五感は人間個人と外の世界を結ぶ橋渡しをする機能のことである。
五感で認識できるとは、
視覚により、目で見える物、
聴覚により、耳で聞く音、
触覚により、手を含む体で触れるもの
味覚により、舌で味わえるもの
臭覚により、鼻で匂いを感じるもの、のことである。

長い間、入力器官一つである視力で認識できれば実体と考えられてきた。
見えるだけで存在があとわかるからだ。

対象が粒子のように小さすぎて目に見えなくても、
対象が舌でわかる味覚のようなものでも、実体があると理解できる。
匂いがあれば実体があると理解できる。
生活の中では五感全ての働きで、実体の存在をより深く認識している。

物(リンゴ)を例にあげれば
視覚: 見ることで、色、形、大きさを、
触覚: 手にさわることで感触、重さ、大きさを
臭覚; 匂いを嗅ぐことでリンゴの匂いを、
味覚; 口から食べることで舌で味を知り甘くて美味しいと認識する。
聴覚; 耳の働きはリンゴなどの物そのままでは音を感じることはないが、指でたたいたりすれば音を聞くことができる。

* 音について
音は感覚では存在があり実体と感じるが、意味を考えると、理解は難しい。

音を作り出すものには、人間、楽器、テレビ、ラジオ、スマホなどがある。実体であるが、音そのものは空気の振動で、物が動いているわけではない。

音は聴覚により認識できるので、実体と考える。
科学的にも音の存在を確認できる。

それはちょうど匂い(臭覚)の対象も、味も(味覚)の対象も実際に見て、触れる物ではないが、認識できるので実体であるとするのと同じように考える。
目に見えない小さい粒子が存在し、科学的な裏付けもある。

ところが、音は見えなくても、細かな粒子があるという存在ではない。
物の振動を空気が伝えている。空気の振動が音である。

音については、対象の代わりをする言葉そのものに存在が無いように思えることが関係しているのかもしれない。
大きな謎のように発展するため、問題点をその3.で説明を試みる。


2. 対象が五感で実体として認識できなくても科学により存在が認められているものについて

人類は最近まで、見えないものは存在しないと思い、目で見えるものが全てだと考えていた。
病気は悪霊の仕業だと考えられてきた。今でもその影響は残っている。
真実を求めて 病気の原因)


細菌やウイルスの存在、原子の存在も、二重らせんの遺伝子の存在も最近まで知られていなかった。

地球は大きすぎて見えなかった。天の川銀河に2000奥以上の恒星があることも、宇宙が膨張していることも知らず、ブラックホールの存在も、見える宇宙に2兆もの銀河があることも知らなかった。

今現在の世界は、昔からの考えのままでいられる時代ではない。新たな事実に伴い、今までの常識が崩壊し、人類の歴史が大きく変わる可能性のある時代にいる。

科学により新たな存在があることが認められているものは、膨大な数になるが、専門家により検証されていて信頼できるものは多く、その実証過程や意味をインターネットなどで確認する助けになる情報が溢れている。

五感で認識できなくても、存在を認められるようになるものは限りなくあるように思える。

新たにわかるようになってきたことの情報量を数百年前と比べるなら、昔は何も知らなかったと思える程に、人類は新たな時代の入り口にいるようである。



* * * * *
その2回目

言葉の対象に存在がないにもかかわらず、言葉自体を間違って理解している等のために、対象が在ると思い込んでいるもので、言葉の分類 3.に属すものである。

言葉の対象に実体がなく、言葉自体を間違って受け止めているため、対象が在ると思い込んでいるもの

言葉の対象に存在がなく、実体もないのに、対象が在ると思い込んでいる例は実に多い。わからないからという理由からか、言葉自体を間違って理解しているものもある。

この分類に属する言葉はたくさんあるが、わからないことも多く、未だ整理されていない。

以下のような例が考えられる。
* 形容詞の対象
* 人間の言葉、文字、数字、考え
* 私、自分という存在
* 音とは何か  時間とは何か
* 死後の世界、天国、神、天使、悪魔等の存在
* その他

今回は身近にあるわかりやすい例として、
* 物を修飾する表現の形容詞を考えてみる。

言葉の理解に問題がある主な理由は、科学が明らかにしてきた現代人が持っている情報の多くが、昔は無かったことにある。
多くの言葉は、情報の非常に少ない時代に、昔の人々の考えや感情によって作られている。それを今も受け継ぎ大切にしているため、間違った認識を修正できずにいる。

形容詞は具体的な問題点をわかりやすくするための具体例になる。
次の質問を考えてみよう。

大きさはあるか? 長さはあるか? 重さはあるか? 高さはあるか?

あるに決まっている、と思うかもしれないが、
この質問に答えるためには、大きさとは何か、長さとは何か、重さとは何か、高さとは何かを理解していることが必要になる。

大きさとは、物を比べること、比較することから、大きい/小さいかを判断することであった。
同様に、長さとは、重さとは、高さとは、物を比べること、比較することから、長い/短い、重い/軽い、高い/低いかを判断することであった。

形容詞は比較して初めて意味を持つ表現である。
比較しないで、大きいは存在しない。
比較しないで長い、重い、高いは存在しない。
比較しなければ、小さい、短い、軽い、低いは存在しない。
その名詞は比較の意味を無視して作られた表現である。

大きさ、長さ、重さ、高さ等の表現は、元の意味を変え、比較を忘れた表現になっている。

形容詞を名詞に変えることは、簡単にできるように思える。
語尾の「い」を「さ」に置き換えるだけである。
小さい、短い、軽い、低いは、小ささ、短さ、軽さ、低さになる。

しかし、名詞に変えると、比較対象している比較の意味が失われ、存在するものに変わってしまう。大きさ、長さ、重さ、高さがあることになる。
こうして形容詞の持つ比較することの意味が失われてきたのではないか

存在そのものに大きい、小さいは無い。その意味は、人間が比較することにより作られる。
大きいリンゴは存在しない。
小さいリンゴと比較するから大きいリンゴになる。
大きいリンゴと比較すれば小さいリンゴになる。

小さいこととは、大きいことの反対であり、短いこととは、長いことの反対である、と説明するかもしれない。
しかし、これらの形容詞はその言葉だけでは、意味をなしていないことがわかるだろうか?

大きさに、大きい/小さいはなく、絶対値のような意味に使われているが、その大きさという言葉の意味は、今では面積に変わっている。
大きいから作られた大きさは存在しないので、面積のような表現を使うようになっている。

長さに、長い/短いはなく、絶対値のような意味に使われている。それは長さではない。長いから作られた長さは存在しないので、2点間の距離のような表現を使う。

重さに、重い/軽いはなく、絶対値のような意味に使われている。それは重さではない。地球が物を引っ張る力である。
地球以外では物の重さは違う。宇宙空間では重さはなく、質量のように表現される。

高さは、長さに類似した表現である。横の長さに対して、縦方向の長さを表す。2点間の距離として表現できる

慣れ親しんだ表現を変えることは難しいが、少なくともその意味と理解は知っている必要があるのではないか? なぜなら、間違った考えを修正しないで、当たり前のように正しいと考えていることが、間違った行動を生み出すからだ。

誰が大きいリンゴの絵を描けるかな? 誰も描けない、が答である。
比較しなければ、大きいはない。比較しなければ、小さいはない。
にもかかわらず、大きい/小さい、そのものががあると思い込んでいる人は多い。


以上は物理的な表現の問題点であるが、人間の持っている認識の表現にも同様の問題がある。以下は修正ガイドに書いた、認識にある価値観についての説明である。

価値観は、人間の思考と感情が作り出す認識による反応、判断を意味する。

価値観は思いこみにより作られるため、在ると思い込めば在るようになり、無いと思い込めば無いようになる。認識の強さ次第でどちらにも変わってしまうものである。
時代、社会環境、国、地域、民族、教育、常識等により作られるため、価値観は人によって異なる理由であり、感動の理由にもなれば、戦争の原因にもなる。

美しい、醜い、可愛い、汚い、などの表現は、好き/嫌いに基づく人の持つ認識による感情表現で、それは対象そのものにあるのではなく、人間の脳に認識としてある。しかし、現在、社会環境が対象にあると思い込ませている。

価値観は幼少の頃より、両親を初め社会環境を通して植え込まれるため、国、民族、宗教、その常識も、それが正しいものになってしまう。それは偏見のことである。
価値観は、個人の経験等による学習や反省から修正される場合もある。

美しい、素晴らしいと感動できるのは、人間が持つ脳の機能であり、人生を豊かにする一面であると考えることはできる。しかし、その脳の働きは同じように、醜い、汚い、悪い、という認識、価値観を作り、敵を作り、弱者さえ殺害しても正しいと考えるようになる。
これが人類が理解し、解決しなければならない問題、重要な課題である。 
人が持つ価値観に、人間が恐ろしい存在になる理由がある。



* * * * *
その3回目

今回は対象に実体が無いものの続きで、人間の言葉である、単語、文章、考えについての一部。

言葉である単語、文章、それから作られる考えは、ノートに書かれた文字や文章は実体として認識している。しかし、その元である考えには実体がなく、存在はあると思えても、何かはわからない。
それはちょうど、誰でも未来の明日はあると思っていることに似ているように思える。

明日があるではないか? 明日は未来ではないか?
1
年先、100年先の未来があるではないか?

こうした質問が起きるのは、昔からの考えを引継ぎ、地球上での変化の理由を理解していないために起きると考える。

明日は未来ではない。明日とは、定期的な地球の自転による変化の一面のことである。言葉から考える時間の正体の中に以下の具体的な例を示した。
視点が違うと、無いものが在ることになる例である。

太陽系の外に出たら

近未来、人類は太陽系を離れた宇宙探検に出かける。
巨大な宇宙船の中では、たくさんの人が働いている。
地球上と同じ環境が作られ、空気、重力、照明もあり、快適な生活ができる。

ところが、生活している人の言葉に変化が生じている。
昨日、今日、明日という言葉が使われなくなっている。

環境が変わったせいである。

今まで当たり前に思っていた朝がやってこない。
地球上では、太陽が昇って来ることで、朝という始まりがあったのに、太陽系の外ではそれが無い。

一日が始まり、仕事に出掛け、一日働いても太陽が沈むことはない。夕方がやってくることはない。

仕事を終え、疲れをとるために睡眠をとるが、朝の太陽は昇ってくることはない。次の日はやってこない。

昨日、今日、明日は地球上で太陽があり、地球の自転があるために作られた表現である。

地球の自転により朝、昼、夜というサイクルがあったが、太陽系を離れた場所ではそのサイクルはない。遠くに星は見えるが、外は暗い宇宙空間である。

地球の時間を測る時計はあるので、地球上での時間を知ることはできる。
ただし、地球を離れれば地球時間の意味は薄れ、意味はやがてなくなる。

太陽系を離れると、地球の自転により作られる一日はなく、地球が太陽のまわりを一周する一年もない。
そこにあるのは現在という今だけである。

地球人は、地球の自転による一日を24に分け一時間、一時間は60分、一分は60秒と決めていて、時計の時間による経過があると教えられる。

時計による時間は、地球上での太陽、地球の周期(サイクル)から作られている。時間は人類が作った地球上では非常に便利な道具である。しかし、時計の時間は変化の理由ではないことに気付く。

地球から離れ、太陽系の外に出れば、人間の作った時間の意味が失われ、地球上の時間に頼る意味がなくなる。

宇宙に出ると、地球での昨日、今日、明日は無くなり、過去、現在、未来という時間の区別がなくなる。いつでも今現在になる。
今現在しか認識できない脳の働きは、この事実と一致しているように思える。

昨日、今日、明日という言葉は、地球上の人類が作った常識であっても、眼が宇宙に向かい、火星に住む計画がある現代においては、少なくともその事実を理解する必要がある。

人類が発見し、発明してきた全ての元は、人類が存在する前に存在している。太陽が行っている核融合でさえ50億年も前からある。

人間は「自分は、わかっている」と思うことを止め、本当はわかっていないかもしれないという認識を持つ必要がある。それが事実であるからだ。



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その4回目

言葉の分類 3.言葉の対象に実体がなく、存在がないように思えても、対象が在ると思い込んでいる例は実に多いと書き、その例をあげたが、人間の言葉も 言葉の対象が実体ではなく、よくわからないものに分けられる。

言葉が実体の代わりをしている場合はあるが、言葉そのものは考えであり、実体ではないからである。

実体はないのに、考えはあり、考えがあるから存在があると思うことは一般的にある。
科学的にその考えの存在が認められるなら分類2に入るが、それまでは分類3である。

人は会話をして、情報を交換しているが、そこに使われている言葉、単語、文章、その情報も、全て対象の代わりであり、あると思ってはいても、代わりは実際にあるという意味ではない。

言葉は、信頼の上に、対象が実際にあることを前提にしている。
しかし、その前提である事実は、実際にはわからない。
言葉も、映像も、存在ではなく、代わりであるからだ。

言葉の作りが脳細胞にある電子のようなものか、波なのか、その存在は物理的にどのように作られているのかもわかっていないように思える。

言葉の媒体として使われる文字、数字などは実体ではないか? 
それは実体である。
文字により単語、文章、考えを実際にある実体として表現している。

実体の元の考えが物理的に何かはわからないのに、文字も、文字で書かれた文章も実体であり、それを読むと考えが情報として伝わる。

考えも、情報も実体ではない。存在はあるように思えるが、何かはわからない。それでも、情報は伝わり、わかったつもりでいられる。

この仕組みのどこかに問題があるのだろうか? 
個人的にはわからない。
次に書いた内容は、具体的な? わからない例になるかもしれない。


1,2,3,4,・ ・ ・ は自然数と呼ばれる数字の一部であるが、人間が共通の理解をするために作ったものである。
数字は考えであり、人間がそれを実体であるかのように作ったものである。
1、一、壱とは何かと考えても、考えとしてはあっても、存在はなく、それが何かはわからない。そうであっても、実体として数字の1などと表すことができる。

何かはわからないイチがあり、実体の1にするとわかった気がする。
数学は数の学問であり、数全体が何かはわからない。
数学は人間が考えを実体のように存在するものに変えたのではないか?

時間も考えでできていて、人間が使いやすいように作ったものであると書いた。

人が声により伝える言葉、単語、文章、考え全てに存在はあるのだろうか?
人の声は音として伝えられる。空気の振動と教えられるが、音が何かよくわからない。波とは何かがわからない。

人間の作った言葉は、対象の代わり、代用である。
言葉自体は対象の変わりである。変わりに実体はない。代わりに存在はあったとしても、何かはわからない。
多くの人は考えたことはなく、存在があると思い込んでいるように思える。

これは人間の自分という存在はあるのかという質問を提起させる。



* * * * *
その5回目

私、自分という存在について

言葉は少なくと次の3つに分類されると書いた。
1. 実体の代わり
2. 五感で認識できなくても、科学により証明されているもの
3. 対象に実体はないように思え、何かわからないもの

私、自分という存在も、この 3. 何かわからないものに分類される。
今回はその理由について

人間の体は実体である。
私、自分の人間としての存在は、五感により、誰でも皆あると思っている。

ではどこに自分はあるのか?
自分という存在は脳にある。

脳死は自分がいなくなることである。
病気により脳に異常が起きると、今までの自分ではいられなくなる。
これは自分が脳にあることを示している。

自分はなぜあるのか?
作られたからである。

誰が作ったのか?
遺伝子と脳である。生まれた環境も関係する。

産まれる前も、産まれた後にも、人間の自分はいなかった。
脳死と共に自分という存在は無くなる。

人が産まれた時、目、耳などの五感は未だ十分に機能していない。
新生児は、目が見えるようになっても、耳が聞こえるようになっても、何を見ているのか、何を聞いているのかはわからない。

新生児は、見るもの、聞くものを、脳の働きにより学習している。
全てが新しく、見たことも聞いたこともないものである。

「私がママよ」という声を聞き、何度も同じ顔を見、言葉の繰り返しを通して、顔、声、言葉の意味を学び、真似するようになる。
見たことも、聞いたこともないもの全てを学習して、少しずつ知り、覚えていくのである。

物に名前があることを学ぶ。それぞれの物、全てに名前がある。それを覚え、親の真似をして声を出して言うようになる。

自分の名前が繰り返し呼ばれ、自分も物のように名前があることを教えられ、学習する。

この過程を経ることにより、私、自分がいることを知るようになる。

これは必ずしも自分という存在に気付くこととは違うように思える。

私、自分がいることと、私、自分という存在があることとは違う。
主観的か、客観的かという違いである。

主観的な自分には、自分の存在が別にあるという考えは生まれない。
客観的な自分には、自分の存在が別にあるかも知れないと気付くようになる。

どちらの場合も、私という自分に気づく頃から、自分が私という存在を育て、作っていく。それ以来、私という自分が物事の中心に生きるようになり、自分が全てだとさえ思うようになっていく。
世界は自分を中心に回っているかのようである。

私も、あなたも、自分があると思うのは、遺伝子が体を作り、作られた脳が私という自分を育て、そう意識させ、その存在があると思い込むように作られているためである。

この事実は、私、自分という存在の対象が実体ではなく、何かわからないものという言葉の分類3 に入る理由である。



* * * * *
その6回目

デカルトの「我思う故に我あり」という表現の背景に修正が必要な理由

およそ400年前、現代の情報量と比べ情報量の非常に少ない時代に、現代哲学の基礎を築いたデカルトは人間の持つ知力の素晴らしさを示す業績を残した。
「我思う故に我あり」という言葉は、考え尽くした結果として知られている。

しかし、どんなに素晴らしい考えであっても、時代と共に変わる定めにある。
科学の進歩により、新たな発見に伴い、それまでの考えが修正されるからである。

「我思う故に我あり」という言葉の背景に問題があることは、長い間気付かなかった。

その問題とは、以下の二点を知らなかったことにあると考える。
1. 人が産まれる前にも、産まれた後にも、我という私/自分という存在がないこと。
2. 産まれた後に脳が自分という存在を作っていること。

デカルトの時代には以下の二つの情報がなかった。
1. 人間の体の全てが、針先ほどの受精卵の遺伝子により作られること
2. 脳の存在とその働きについての基本的な知識がなかったこと
である。

産まれたばかりの新生児の脳は未だ白紙に近く、自分という存在も、自分という意識も無い。新生児の五感は未だ十分に機能しておらず、入力される外部からの情報は無いに等しいからである。

新生児は言葉を教えられ、言葉を学び、覚え、真似し、話すようになるまで、自分という意識は無い。

話すことにより、食べたいなどの意思表示をするようになることが、自分で考えるようになった証である。考えることができるようになることが、自分という存在が作られ始めたことを意味する。

我思うという段階で、考えている自分がいることは、今も変わらない。
しかし、我思うという時点で、脳はすでに、私という自分の存在を作っている。
デカルトの考えには、自分が作られるという人間の成長過程が抜けている

私という存在があるのは、産まれた時からではない。
産まれた時から自分がいるのではない。
悩によって作られる過程を経て、自分がいるようになるのである。

およそ400年前の当時において、誰もその事実に気付くことはできなかった。
医学を含む科学の進歩が未だ情報を提供していなかった。
今のような情報のある時代に生きていたのではないという意味で、彼の業績は、人間の知力の素晴らしさを示すものとなった。



* * * * *
その7回目

人間の存在の意味について

ここで改めて、人間の存在について考えてみる。

人間には五感で認識できる自分の体という実体がある。
ただし、自分の体という実体であると思ってはいても、体は自分で作ってはいない。遺伝子によって作られたものである。

自分の体は、自分が動かしている手足のように思えるが、体の大部分は、自分の意志で動かしてはいない。脳が動かしている。

人間の体の特徴、入力器官、血液も、神経も、心臓も、肺も、肝臓や腎臓も自分の意識とは関係なく作られ、運用、管理されている。体に異常が生じると警報が作動し、神経を通して脳へ、自分へと知らされる。

人間の体は産まれるまで遺伝子によって作られ、また産まれてからも、遺伝子と脳により運用、管理されている。

幼児から小学生、中学生、高校生、大人へと成長するのは、当たり前であっても、自分の意志とは関係なく、成長ホルモンなどの遺伝子と脳の働きによると考えられる。
異性に目覚め、恋をし、結婚して、子孫を残す、人生の最も重要と思われる部分が、遺伝子と脳の働きによるところが大きい。

人間にはその体の一部を利用する自分という脳の働きがあるだけではないか?

にもかかわらず
、人間は、脳を含め体の全部を自分であると思っている。
自分が優秀な人間だと自慢したがり、何でも一番、一流を目指し、富と権力を得ようとする。
自分という存在、私がいると思っていても、その私である自分が何かも分かっているようには思えない。

これは、思い込みにより、無いものでさえ在ると思い込ませる脳の働きが関係しているのだろうか。

太古の昔から、神様のいる天国があり、悪いことをすると地獄に落ちるなど、今でも人類の多くがそう信じているのと同じような働きではないか。

人間は長い間、無いものを在ると信じてきた。それはわからなかったことが背景にある。

わからなければ、虫、鳥や動物、人が作った偶像でも神様になる。山や川や海、太陽、それが何であっても、地球外生命体であっても、神様になったと考えられる。
神という言葉は、人類の無知の象徴である、と書いた理由である。

人間が知的生命体であると思っていても、宇宙には知的生命体が様々な形で存在していると考えられる。それが事実だとしたら、人間に限らず、知的生命体には、「ことば」と考える能力があり、文明を発展させていると思われる。

そこからわかってくるのは、知的生命体は人間を含め、自分という存在に明確な定義は無く、確かなものはないと思えることだ。

地球上に繁栄していても、宇宙の拡がりに気付いたのは最近である。数千年もの間、人類だけが存在すると思い込んできた。

人間の世界は人間の作った世界であり、事実に基づいている世界とは言えない。
人間にとって都合の良い世界を作ってきたからである。
ルールや法律、また正義、平和、平等、人権などは基本的に人間の考えであり、人間の世界でしか通用しない。

事実とは、良いことでも、悪いことでもなく、在るがままの大自然にみられる調和のことのように思える。

宇宙に存在する全ての知的生命体は、その成長段階において、人間と同じような定めにあり、わからないことを背景に、自らの存在と世界を築いているのではないか。
利己的になり、争い合う時期もあると考えられる。
知的生命体の文明の多くが力を求め、正義を求め、優越感を求める結果、その文明は生命体と共に滅び、消滅して存在していないかもしれない。

火星に知的生命体の文明があった可能性はある。地球の人類が生まれる前にも知的生命体の文明があった可能性もある。

人間は今も知らない、わからないことを理由に、そんなことは無い、あり得ないと思い込んでいるのではないか。

わからない、知らないことはたくさんある。しかし、わからなければ在るとすることも、無いとすることも間違いであり、そう考えることには修正が必要である。
今までの人類の考える上での間違いを理解し、教訓として活かすことが重要に思える。

在るがままの事実に気付き、自分達の世界を修正し、大自然に調和した生き方をするなら、優越感が支配する世界を修正することが可能かもしれない。
調和という世界が、人類だけでなく知的生命体にとって、追い求めるべき目標なのかもしれない。



現時点での私/自分の存在についての考え

私/自分という存在は、言葉と考える力から作られている。

地球上では、人間も他の生命体も遺伝子から作られている点では同じであるが、人間以外には人間のような言葉による考える力は無いため、与えられたプログラムの範囲の中で生きることしかできない。

生命体は全て自由であるが、生きる上での生命体としての制限がある。知的生命体である人間にも生命体としての制限がある。しかし、人間には他の生命体との間に大きな違いがある。それは、言葉と考える力を持っていることである。それが、私、自分という存在を作っている理由である。

人間の私、自分という存在が、生命体が持つ限界を越えさせる力である。その力が、人間を他の生命体との違いを作り、生命体の持つ制限を越えて生きる自由を与えている

その自由は、人間の持つ限界を超えさせ、宇宙の果てまでも認識できるようにする言葉による知能の働きの結果である。有限である人間に進歩し続ける可能性を与えている。
知的生命体である人間の存在は、奇跡のように素晴らしいものと考える。

ただし、人間には思い込みにより無いものでさえ在ると信じる脳の働きがある。
信じることは人間の持つ考える力を奪い、考えない人間にし、両極端な人間にしてしまう力である。誠実で真面目な人間にもなれば、狂信的な破壊者にもなる。人間を恐ろしい殺人兵器に変えてしまう力でもある。

知的生命体には間違いがあるという前提、その認識が必要で、それが人類の暴走を止め、反省を促す助けとなる。進歩し続けるために欠かせない前提である。

人間に考える力が無ければ、反省はなく、知的生命体の意味を失うことになる。



* * * * *
その8回目


理解を超える生命体の遺伝子の存在について

現人類が遺伝子を操作して新たな生命体を作れる時代にいることは、遠い昔に高度な知能を持つ知的生命体が同じようにして人間の先祖を創造した、と考えることはできることを意味し、その可能性はあると考える。

もし、そうであれば、人類を造った高度な知的生命体も遺伝子により作られたのだろうか? という質問が生じる。

このことは、時間を越えて、遺伝子操作による知的生命体の創作が繰り返されてきたことを意味するのかもしれない。

問題は遺伝子はなぜ存在しているのか、にあるように思える。

遺伝子の操作ができる現人類でさえその答えを知らない。全ての知的生命体は遺伝子の存在理由を知らないのではないか?

遺伝子は数億、数十億年前、生命体が存在するようになった時には、存在していたのだろうか?

ビッグバンによる宇宙が始まった時に、生命体の存在は、その宇宙の仕組みの中に組み込まれていたのだろうか?

宇宙の始まりがビッグバンであるなら、そう考えることはできる。
ただし、ビッグバンは人間の考えであり、その考えに間違いがあってもおかしくはない。

人類が知るようになった素粒子を含む物質、重力などの法則、光を含む電磁波の存在、核融合なども初めから決まっていたのだろうか?
あらゆるものはエネルギーから作られたのだろうか?

全てはビッグバンと共に存在するようになったのであれば、その可能性はあるように思える。
知的生命体はその事実を未だ知らないだけなのかもしれない。

その意味では、未だ知らないものの中に、生命の法則はあるのかもしれない。遺伝子の存在する理由が見つかるかもしれない。

例えば、水とは何か? その存在の意味を考えたら、答えはあるのか?
酸素と水素の化合物であると理解するようになっても、原子の作りもわかるようになっても、それは答えではない。未だ、存在の意味に答えていない。

答えとは、存在が在ることではない。なぜあるのかという問いに対する答でもある。

すべての存在に対する答はあるのだろうか?

辞典には、答えるは返事の意味であり、答とは質問に対する応答のこととある。

ここで、問題が提起される。
答という言葉に存在の意味、対象はあるのだろうか? 

質問があるから、答が作られる。答と認められるから、答になる。
答は、人間が納得できるかという点にかかっている。
専門家により、また多数決などにより、答と思う人が多ければ、答はあることになる。
人類がわかったと思っていても、実は知らないだけで、視点によって、違う可能性もあるのかもしれない。

そんなことを言い出せば、全てが答かどうかわからなくなるではないか?
その通りかもしれない。

全ては一時的に答だと思っているだけなのか? という質問が提起される。

知力の源:知恵の言葉の中に、
「答えは無い。将来も答えは無い。今までも答えは無かった。それが答えだ。」 という Gertrude Stein による表現がある。

それに反する考えを書いた。
「答えはある。将来も答はある。今までも答はあった。それが答だ。」

これが答と言えるのだろうか?  

答を出すことは、決めることなのか?
決めることに間違いがあるのだろうか。

正しい、間違いとは何か? の意味を次のように書いた。
正しいとは、その時点で修正の必要がないと考えることであり、
間違いとは、その時点で修正の必要があると考えることである、と。

「答はある、答は無い」ではなく、有限である知的生命体には、その有限である枠の中でしか、答となる結論を出せない、という意味である。その有限の枠を越えれば、答となる結論はわからなくなるように思える。

そう考えてきたのだが、有限の枠を修正する方法、有限である枠を超える方法はないのだろうか?


もしあるとすれば、それは遺伝子と脳の働きにあると考える。
なぜなら、それが知的生命体の存在理由であるからである。
思考力があるから、なぜかと考え、答を作り出す。
それがなければ、人間が持つ限界を越えることはできない。

人間の生来の限界を越えさせてきたのは、言葉による考える力である。
現在に至るまで、その知力により人間はその限界を越え、無限に広がるように思われてきた宇宙さえ、なぜそう見えるのかを明らかにしている。

真実を求めることは、真実とは何か? に対する答を求めることであり、それで、答が作られる。

質問が無ければ、答は無いように思える。
質問があるから、答えを探すことになるのではないか?

答とは、探すこと? 見出だすこと?  作り出すことか?

質問は、考える力があることから作られる。
何かに気付き、疑問を持ち、考えることによる。
考えることから、反省が生まれ、修正し、改善し、進歩が生まれる。

知的生命体は全てを知り、全てができる存在という意味ではない。
全ての知的生命体に限界はあるが、考える力がその限界を越えさせてきた。
どこまで限界を越えられるのか?

現時点ではわからない。
有限とは無限に比べ限りなく無いに等しいものであるが、
限界に挑むことは、知的生命体の避けられない定めのように思える。

人間は、地球上に存在する知的生命体であっても、固定的な存在のままでいられるという意味ではない。

私/自分という存在は作られているため、環境の変化に伴い、新たな知的生命体に変わる定めにある。
今までに作り上げられた人間であるという固定的な見方を変え、新たな理想に基づく価値観を持つ知的生命体に変えていくことが求められているように思う。それが、知的生命体の必然的な定めであると考える。



* * * * *
その9回目 その1~その5
   直線上に配置

3月10日(月) 存在にかかわる言葉の問題点について その9回目 

言葉(単語)全ては実体では無く、実体を含む対象の代わり
である。
その対象の代わりとは何かについて その1

日本語で言葉とは、物の名前である単語、それから作られる文章、考え、情報、それを書き表す文字のひらがな、カタカナ、漢字、ローマ字、数字等があり、様々な意味で使われている。

英語で言葉はword ワードで単語の意味である。
単語は物の名前で、物と名前が一対一に対応している。
物である名詞、動きを表す動詞、物の特徴を表す形容詞などがある。

言葉の基本要素は単語であるが、その基本となる意味は、物と名前が一対一に対応していて、「同じ」ものという暗黙のルールがある。それがないと、人間は意思の疎通ができなくなる。

例えて言うなら、リンゴと言えば、皆  を思い浮かべる。それを人によってブドウ  だったり、イチゴ  だったりしたら、混乱が生じる。意思の疎通を可能にするために、単語の意味は共通であることが必要である。

しかし、一対一に対応しているという暗黙のルール、共通の考えは、物とその単語である名前が同一のもので、全く違いが無いという意味ではない。

同じという単語には大きく分けて二つの意味があり、同一のものであるという意味と、他に性質、状態、程度などが共通しているという意味である。
(詳しく知りたい方は、シリーズその他の作品III 簡単だと思いこむことの間違いについて 同じなのに違うとはどういうこと? 1+1=2の説明 を参考にしてください)


物である実体とその代わりに使われる単語が同一ということはあり得ないことであり、同じではない。

実体は実際に存在しているものであり、その名前である単語は頭の中にその存在を表す考え、イメージとして作られている。実体である物と頭の中のイメージでは、全く異なる

物は五感により脳が認識しているが、その名前は考え、イメージとして存在していて五感で認識できるものではない

物の名前は、名称であり、イメージであるので、それを頭の中で考えることができる。実体は脳が五感により認識するもので、現実の世界にあり、頭の中に存在できない

浅い眠りの時に見る夢は、現実離れしていて不思議に思えることがある。
その違いは、起きていて五感が働いている場合と、寝ていて五感が休んでいいる時の違いにある。

どこに違いがあるのか?

寝ている時やゆっくり休んでいる時は、五感の働きが休んでいる。考えに集中している時も、実は同じような状況にあり、五感の働きは休んでいるような状態にある。


* 現実の世界と想像の世界の違いについて
それは五感の働きが関係している。

自分と自分以外の現実と向き合わせるのは五感の働きによる。
脳に入力があるかどうかという意味である。
入力がなければ、現実を認識することはない。
その時、脳が働いているだけである。
脳が働いているだけの世界とは、体の自動制御等の働きを除くと、考えているだけ、思考のみのことのように思える。

考えには、現実の世界にある制約、ルールや法律などがあるように制限がかけられているように思っていても、実際には存在のない想像の自由な世界である。ルールなどない。


脳の考えるという意味は、イメージを含む言葉による。
言葉による考える世界に実体はない。つまり、考える世界は現実の世界ではなく、現実をイメージと言葉に置き換えた世界、想像する世界である。

想像することは、言葉によるが、言葉には実体がないので、考えによるイメージはどのようにでも変えることができる。変幻自在に変えることができる。ルールも法律もない、全く自由な世界である。

今まで、その想像の世界を現実に一致するように制限をかけてきた。
つまり、考えには人の持つ価値観の影響から、暗黙のルールに似た制限がある。
この点は人間の世界が抱えている問題の本質を含むと考える。
なぜなら、人類は人の価値観そのものに問題があることに気付かず、無視し続けているからである。



* * * * * 
その2
言葉(単語)全ては実体では無く、実体を含む対象の代わりである。
その対象の代わりとは何かについて その2

言葉はイメージ

シリーズを始めたその1回目に、人の言葉はイメージを含む単語である、と書いたが、このサイトでの言葉の意味は、それ以来、少しづつ変わり続けている。現時点で、人間の言葉はイメージそのものであるに変わってきている。

言葉がイメージである理由

物の名前は単語と呼ばれる。頭の中に単語が作られる時、脳はその物に関する情報、五感による入力の刺激を、記憶(記録)として残し、蓄積している。

脳がその刺激の記録を呼び出す時、記録をイメージとして作っている。そのイメージが、実体である物の代わりとして作られるその物の名前である。

その記録は物に関する情報であるが、五感の刺激も含まれる。
この脳による記録は考える時に使われるが、それをイメージと呼ぶ。

同じ名前が、現実にある物 と 脳の記憶から作られるイメージ に付けられている。これが物と言葉(イメージ)が同じとなり、その明確な違いに気づかなくさせてきた背景であるように思う。


リンゴ  があり、その名前を覚える。その  は実際に見て、食べて味わうことができる。
食べてしまうと、目の前から無くなるが、記憶には残されている。その脳に残された記憶がその名前と共にイメージとして思い出される。

文字、数字は頭の中で想像していても同じ形をしているため、実体と同じように考えていたが、実際には想像で作られたイメージである。頭の中では、その大きさも、色も、形も自由に変えることができる。


シリーズ1に本について次のように書いた。

「子供は成長するにつれ、本にもいろいろな本があることを知る。
絵が描かれているもの、ひらがなで書かれたものから、漢字を含むものまでいろいろある。
面白い本、面白くない本もあり、好きな本もでき、友達のように大切にする。人生に大きな影響を与える本に出合うこともある。
読んだことのある本は時と共に大きな数になっていく。

本に関する認識とイメージを含む情報はこのように変化していく。
この膨大な情報量が一つの単語である本に対する認識である。これが本という「ことば」の意味だが、地上にある数えることさえできないほど存在する無数の本を、単に本として表現することができる。
「ことば」の持つ意味は深淵である

本と同様にそれぞれの「単語」に対して膨大な情報が蓄積されていく。それをあたかも一つの単語のように扱うことができる。
これが「ことば」である。脳の中に蓄積される。
日常生活など人との対話で深い情報は必要としない場合、表面的な表現で十分に意思の疎通ができる。必要に応じて蓄積された情報は引き出すことができる。」

言葉が深淵である意味が明らかになって来たように思う。

それは、言葉と考える力により作られるイメージの変幻自在の想像の世界と、五感により認識している現実の世界との違いが、いかに大きいかを示している。


* イメージとは

想像する時にイメージが作られるが、そのイメージは五感から入力された情報により脳が記憶したもので、思い出す時に、想像により作られるものである。

五感で認識する文字、文章は現実の世界にあり、脳の記憶とは別である。

頭の中で文字が使われている場合、それはイメージで、変幻自在の想像で作られている。形を大きく、小さく、太く、細く、逆さまにも、色をつけることも可能である。

言葉は、脳に蓄積されている記憶がその源であり、作られるイメージは、部分としても全体としても、変幻自在に表現できるものとなる。

単語がイメージであることから、単語から作られる文章も、文章から作られる人の考えも、情報も、全て実体ではなくイメージであると考える。

イメージとは、脳に蓄積されている五感で得た情報を取り出して使うもの全体を表すと考える



余談: ビートルズのジョンレノンのイマジン Imagine という歌がある。

イマジンとは想像する、思いめぐらす、考えるという意味があり、
その名詞に
イマジネーション: 想像、想像力、空想
イメージ: 像、画像、彫像、姿、象徴、印象、心に描く像などがある。

以下はその詩の一部である。

Imagine there's no heaven 天国は無いと想像してみて
It's easy if you try 簡単なことだ、
試してみるなら
No hell below us 
我々の下に地獄は無い
Above us only sky 
我々の上にあるのは空だけ
Imagine all the people 
今を生きている全ての人々のことを考えて
Living for today

Imagine there's no countries
 
国々が無いと想像してみて
It isn't hard to do 難しいことではない
Nothing to kill or die for 
殺したり、死ぬためのものでは全くない
And no religion too また
宗教が無く
Imagine all the people 全ての人が平和に生活していることを考えて
Living life in peace



昔から人は様々なことを想像し、言葉で表現してきた。
ジョンレノンはなぜこの詞を書いた時、想像してみてと書いたのか?

昔の考えは、事実を知らない時代に作られたものが多く、現在の問題が生じる原因になっている。
今は、事実を知り、それに基づいて想像し、考えることができる。

イマジンという歌は、昔からの考えから作られた価値観を、何も考えずに受け入れ、それを信じ、引きずっていてはいけない。そこを考えて、というジョンレノンからのメッセージであると考える。



* * * * * 
その3
言葉(単語)全ては実体では無く、実体を含む対象の代わりである。
その対象の代わりとは何かについて その3


* イメージの種類
* 言葉がイメージである理由
* 考えるとはどういうことか



* イメージの種類

イメージと言っても以下のように、大きく2つの種類があるように思う。

1. 五感からの記憶から作られるイメージ
2. 考える時に使われる言葉のイメージ


1. 五感からの記憶から作られるイメージ

視覚による画像や映像の記憶はイメージの代表であり、視覚のイメージには文字などの画像も含まれる。

更に、五感からの入力された音や匂い、味や感触の記録も脳にあり、それを取り出して音を聞いたり、味を思い出すこともある。これもイメージと考える。

五感の働きがない全く静かな状態でも、音を聞いたり、映像を見たりすることができる。


* 聴覚からの記憶

想像の世界では、音源はなく、音は存在しないのに、ピアノの音、バイオリン、打楽器、歌声でも、その音を聞くことができる。

その全てが情報として脳に入力されているからで、記憶である。
蓄積されている情報を引き出せば、実際の音がなくても聞くことができる。

オーケストラの演奏もビートルズの曲も聞ける。外からの音ではなく、記憶に残されているイメージの曲である。記憶に残っているなら再生することが可能である。

ただし、イメージであるため、現実にある実際の曲と同じではない。


* 視覚からの記憶

ノートに猫や犬、電車や飛行機の絵を、思い出して描いてみる。
描いた絵を見て、それは実物と似ているだろうか? と自問してみる。

絵を得意とする人なら、詳細に上手く描けても、一般の人の脳に記録され、引き出されたイメージは現実とかけ離れているように思える。幼い子供が描いた絵のように見えるのではないか?

頭の中では、見たままをイメージとして思い出しているが、正確には色、形、大きさは同じではない。記憶から存在しない映像を、存在しているかのようにイメージとして造り出しているからだ。

イメージであるという意味は、想像であり、現実と同じではなく、幻、夢のように実際には存在していないという意味である。脳の記憶から作られているが、その記憶は高解像度の写真とは違う。

そこに記憶と現実の違いがある。


* 臭覚、味覚、触覚の記憶

匂いの記憶がある。味を思い出すこともできる。触った感触のイメージもある。これらはみな五感から入力された情報を脳が記憶し、それを取り出しているからで、記憶してはいても確かな存在ではなくイメージと考える。

頭の中に描かれた世界は、現実の世界とは違う。
頭に描かれた世界は想像によるイメージなので、五感により現実の世界にある物を正確に表した物ではない。
そこに芸術ができる背景があり、科学が進歩してきた理由があるのではないかと考える。

想像と考えるでは、意味が異なると受け止められているが、その働きを考えると、同じことでもあるのかもしれない。



2. 考える時に使われる言葉のイメージ

言葉のイメージとは、文字のような画像である場合もあるが、基本的には、考えている時に使われている言葉のことである。

* 考えるとはどういうことか

考えるとは、言葉で文章を作ることであると説明してきた。
人は人と会話をする時に、頭で文章を作っている。
言葉で考えるとは、それと同じ働きのことである。

言葉で考えるとは、脳に蓄積された単語や文章を使って、言葉により自分の意思などを表現することで、頭の中で文章を作り、同時にそれを読んでいるような感じである。声には出さず、独りごとを言うかのように、頭の中で話すこと。その作り方は驚くほど速いこともある。考える内容によっては遅いこともある。
言葉がパターン化され納められた情報から引き出されるようにも思える。


* 言葉がイメージである理由

物の名前である単語に対する思いは様々である。
それぞれの単語は、基本は同じでも、異なる想像を越える情報が関係している。
それを単純に単数のように、また同じように扱うことができるのはなぜか? どうしてそれが可能なのか?

言葉、単語、文章、それから作られる考えは、実体ではないからで、言葉は実体の代わりであり、対象であるからだ。

これを言葉のイメージと考える。

頭の中にイメージとして作られている言葉と画像は、脳の記憶から、脳の働きにより、考えと想像の世界を作っている。

無限の宇宙という言葉でさえ、頭で考えることができる。
宇宙という文字も頭の中で変幻自在に変えられる。
記憶にある画像などから太陽系、銀河系、全宇宙をイメージとして作ることもできる。

脳にある言葉は画像や映像と共に、脳が現実に実体として認識できることの情報をデータとして蓄積し、後にそのデータベースから、記憶として呼び起こし、実体の代わりとして活用している。それはイメージであり、様々に変えることができる。

あらゆる情報は五感を通して脳に入力されるが、その中には、記憶に残るもの、忘れられるものもあると考えられる。
好きなこと、関心のあるものは記憶に残りやすく、関心がなければ、記憶には残らないこともある。
考えることには、人の持つ価値観の影響がある。



* * * * * 
その4
言葉(単語)全ては実体では無く、実体を含む対象の代わりである。
その対象の代わりとは何かについて その4

* 現実を認識するための入力器官の五感について
* ヘレン・ケラーの触覚の記憶によって書かれた自伝について 
(シリーズ1から)


* 現実を認識するための入力器官の五感

新生児には目(視覚)、鼻(臭覚)、口(味覚)、耳(聴覚)、皮膚など(触覚)の五感があっても、五感は初めから機能しているのではない。時間をかけて機能するようになる。更に、見落としがちになっているが、
目が見えるようになっても、何を見ているのかはわからない。
耳も聞こえるようになっても、何を聞いているのかはわからない。
脳は白紙に近い状態で、全ては学習を通して、脳に情報が入力、記憶され、蓄積されていく。

人間には、脳による学習能力は初めから備わっていて、あらゆることを学んでいる。
この認識をすべての人が持っていることは、とても重要である。人間の成長が関係しているからだ。

新生児に初めから基本的にできることは、息をする、飲む、眠る、泣く、排泄することくらいだろうか。後は全て学習が関係しているように思える。

毎日、何度も同じ顔を見て、「私がママよ」という言葉を聞いて、それを覚え、学習している。
全てを見て、聞いて、触って、口に入れて、何度も何度も同じことを繰り返しながら、それが何かを学び、覚えていく。

単語を教えられ、覚え、全てに名前があることを学習する。

手足をバタバタさせ動かしている。ハイハイするようになり、しばらくすると立って、つかまって歩くようになる。何度も何度もできるようになるまで、転んでは起きる、を繰り返している。

幼児は、歩くという目標があることを知らない。
では、なぜ皆歩くようになるのか?
遺伝子の指示に従って成長しているからである。

受精卵から新生児として造られ、産まれてくるだけでなく、その後の体の成長も遺伝子による。
時間の経過と共に、大人の体に成長していく。
恋の季節がやって来て、好きな人ができ、結ばれ、子孫を残す。
人間はその全てを自分の意思で行っていると思ってはいても、遺伝子の影響下にあることに気付いていない。


人間以外の哺乳類に属する動物は、五感を持っているように見える。犬や猫、牛や馬にも目、鼻、口、耳、手足や体もある。
同じ哺乳類でも海のクジラなどのように種によっても、それぞれの世界は違う。
人間以外の哺乳類に共通しているのは、五感があっても、人間のような言葉による考える力はないことだ。
日本にいる哺乳類で空を飛ぶ夜行性のアブラコウモリは、視力がほとんどなく、超音波を使って外の世界を認識している。この例は、五感以外の入力器官を持つ知的生命体がいる可能性を示している。


生命体は遺伝子のプログラムによって動くように作られているため、植物、昆虫、魚、鳥、動物では、それぞれの世界は違う。人間と同じ世界ではない。
現時点では、人間以外の生命体に言葉による考える能力はなく、考えていないため、世界を人間のように認識することはできない。
知的生命体である人間は、その違いを想像すること、考えることができる。

人間の中には産まれた時から目の不自由な人もいる。
全盲の人は視覚によって見るという世界を知ることはできない。
光により、物を見て、その色、形、大きさを知ることはできない。

しかし、目と耳の二つが機能しなくても、ヘレン・ケラーの例が示すように、触るという触覚という器官だけでも、人間としての能力を持つことができる。

ここで言う、人間としての能力があるとはどういうことか?

触覚からだけでも物の形、大きさを知ることはできるし、雰囲気を感じることもできる。自分独自のイメージを作ることも可能であるが、ここで重要なのは、入力器官が一つであっても、言葉を学ぶことができれば、考えることができるようになることである。

ヘレン・ケラーは指文字により、物に名前があることを学んだ。それが言葉の基本であり、考えることができるようになるきっかけだった。

このことは、人間が単に入力器官によって生きるようには作られていないことを示しているように思える。

知的生命体にとって生きることは、他の生命体のように遺伝子のプログラムだけによるのではない。
そこに知的生命体の意味が、初めからあるように思える。
遺伝子と脳の働きにより、言葉による考える力があることである。

全ての生命体には生きる上での制限があるが、知的生命体だけは、その制限を越えて生きる可能性を持っている。人間はその制限を越えて実際に生きている一つの証である。

その制限とは、生命体が生きるための条件のことで、遺伝子による制限である。

科学の進歩により、人間は生来の五感の持つ限界を越えて、現実の世界が無限の世界であることを知るようになった。ヒトゲノム遺伝子を部分的に作り変え、人間の持つ制限の範囲を広げ続けている。

これが知的生命体の言葉による考える力を持っていることの意味である。




* ヘレン・ケラーの触覚の記憶によって書かれた自伝について


イメージとは、脳に蓄積されている五感で得た情報を取り出して使うもの全体を表す、と書いたが、なぜそう考えるようになったのかを説明し、理解していただくために
以下にシリーズの中に書いたヘレン・ケラーに関する記録を載せた。


七歳になったヘレン・ケラーは考えることができなかった。
理由は物に対応する単語があることを知らず、文章を作れなかったからである、と考えた。
しかし
、考えるとは文章を作ることだけなのか。

一般的に大人には二歳になる前の頃の記憶はほとんど残っていない。覚えていてもおぼろげである。
ヘレン・ケラーは7歳の時、ことば(単語)を知らず、文章を作れなかったのであるから、考えることはできなかった、と書いた。しかし、本当に考えることはできなかったのか。考えるとは、ことば(単語や文章)に限定されるのか? 考えるには他の意味はないのか?

ヘレン・ケラー自身は幼少時の記憶を覚えていたのだろうか。
彼女は自分の幼少の頃の記録(自伝)を残していた。

記録を調べて自分の情報に間違いがあることにすぐに気付いた。ヘレンが病気になった一才という時期を12ヵ月のように考えていたが、19ヵ月の時であった。
それは人間の子が、ことば(単語)を覚え、話し始める時期である。

病気の後、ヘレンは視覚と聴覚を失い、目は見えず、音も聞こえなくなった。光と音の無い世界である。しかし、味覚、触覚、臭覚は健全であった。

ヘレンの場合、生後19ヵ月の間に見聞きした記憶は全て無くなっていたわけではなかった。
単語としては認識していなくても、振り返ったときに映像のように美しい自然界の色とりどり花、緑の草や木々の記憶はあった。

それはことばによる考えではないが、ことばとしての単語がまだ形成されていない時に五感による記憶が作られていたことを示している。

病気の後でも嗅覚、味覚、触覚は健全であったことを考えると、実体の匂い、感触、食べ物の味覚を感じることはできた。母親の優しさも感じることはできたようだ。

ことばを知らないのだから、ことばで考えることはできない。考えるとは単語で文章を作ることである。

ヘレン・ケラーは七歳になるまでに物に名前があることを知らなかった。文章で考えることはできない。
にもかかわらず自伝によると、ヘレンは考えることはできたように思える。それはことばではないが、ことばが持つ一面を持っていたことを意味するように思える。

ヘレンは自分で合図を作り、遊び仲間である少し年上の黒人の女の子マーサ・ワシントンに送ったことを書いている。(追記:どうやって黒人と認識したのかはわからない。)

ことばを知らないのに、どうやって考えたのだろうか?

ヘレンにはことば(単語)がないにもかかわらず自伝によると、ヘレンは考えることはできたように思える。それはことば(単語)ではないが、ことばが持つ一面を持っていた。

自分で考えた合図、シグナルを作り、同じ年頃の黒人の女の子に送ったことを書いている。

それは何か? 何を、どうやって考えたのか?


自伝の記録によると、病気の後ヘレンは母親の膝に座り、ドレスにぶら下がるようにして一緒にいたようだ。手で何にでも触ろうとし、動きを知ろうとした。

しばらくして交信する必要に気付き、独自のサインを作り始めた。
首を横に振るのはイイエ、縦に振るのはハイ、引っ張る動作は来て、押すのは行っての意味だった。
周りの雰囲気には敏感で何かが起きていることを知ろうとした。

人は自分のようにサインを使わない。人が口を動かして何かしていることも知っていた。自分も真似したができなかった。

これらはヘレンがサリバン先生が来る前に覚えていたこととして書いている。サリバン先生が着任したのは、ヘレンが7才になる3ヵ月前であった。


ヘレンは七歳になった頃、覚えていたのは水を意味するウォーウォーだけであったという。しかし、生後19ヵ月の間に実際にはたくさんの単語、一般的なことばであるパパ、ママ、食べ物、飲み物、食器、植物の花や草木、動物の馬や牛、家などを教えられていたと、考えられる。

一般的にそれを繰り返すことで物などに対することば(単語)の認識が作られる。ヘレンの場合も、ことばを覚え活用する準備は十分にできていた。

しかし、ことばを覚え始めた頃にそれが病気で中断され、光と音のない世界で五年間過ごすことになった。覚え始めたことばのほとんどは忘れられ、思い出すこともなかった。ヘレン自身ウォーウォー以外のことばの記憶はないと思っていた。

人間はことば(単語)がないと考えることはできないのか?

考えるとは文章を作ることであると書いた。ことばがなければ考えることはできない。
幼少の頃のことばは大人と違い未熟な部分は多い。これから単語を覚え、文章を作ることを覚え、成長する段階にある。

物をことば(単語)に変えなくても、その実体の記憶を利用することは可能に思える。
ことば(単語)がないなら、基本的にその人の持つ考え、内容である情報を人に伝えることはできない。(言葉に共通の認識が無いなら)意志の伝達は不可能に近い。

記憶はことばではなくても情報である。見えなくて色も形も大きさもわからなくても、花を触った感触は覚えられる、それと共に匂いも覚えられる。実体の存在は記憶に残せる。
自分だけの記憶、情報を持つことはできるように思える。自分だけのことば(単語)に相当するサインを作ることもできる。

それは人間がことばではないと思っても、実は自分だけのことば、他の人には通じない言語を作っていることと同じであるように思える。
つまり、共通のことば(単語)でなくても、自分のことばは作れる。その独特なことばであっても考えることはできると言えるかもしれない。(追記:これが人類に多くの言語が存在する理由に思える。)

ヘレンは考えていた。それはことばではないように思えたが、ことばの一面を持っていた、または未熟ではあっても独特なことばを持っていたと表現できるように思える。


ヘレンの幼い頃の話として出てくるが、幼児期のヘレンは人がやっているのを見て真似するのが大好きだった。六ヶ月の頃、ハウディ(やあ! )と声をかけ、ティーティーティー(お茶、お茶、お茶)とはっきり言えたそうだ。

バラの花、広い野原、明るい空、鳥の鳴き声、母親もことばとして知っていたと考えられる。それが突然失われ、光と音のない世界になった。それから五年間ことばは教えられなかった。

当人も周りの人も、ヘレンにはことばがないと思っていた。
耳が聞こえないから、ことばを覚えて、話すようにはならない。
しかし、初期段階のことばはあったと考えることはできる。


イタズラを思い付くのはことばで考える場合も、そうでない場合もあるかもしれない。発想、アイデア、ひらめきはただことばで考えるから作られるとは思えないが、脳の働きではある。

ヘレンはカギの使い方を自分で気付き、母親を食料貯蔵室に閉じ込めたことがあった。
サリバン先生が着任したとき、二階に用意された部屋のドアを閉め、鍵をかけ、部屋に閉じ込めた。そしてカギをじゅうたんの下に隠した。ヘレンの父親がハシゴを使って二階の窓から助け出したことを書いている。

ヘレンはカギ、じゅうたん、下、ハシゴ、二階、窓という単語を知らない。ことばを覚えた後に、文章で表現できるようになった時に描写した昔の記憶である。
単語を知らなくても実体の記憶はあったことを示している。

自分で作った独特と思えるサインを使っていたことも書いている。

ヘレンの場合、ことばに置き換えなくても実体はあり、嗅覚、味覚、触覚それに部分的映像もあった。それらの情報は単語、文章を形成するために必要なものである。
人が使う単語としては作れなかったが、ヘレンは少しであっても実体をそのまま記憶し、それを独自のサインとして使っていた。

自分でサインを作った。それは考えることである。

草、木、花をことばで覚えていたのではない。ドア、二階という場所という単語も知らない。しかし、実体として知っていたと考えられる。

ことばが無くても実体を覚えていることはできる。物を触った感触、食べ物の美味しさはわかる。実体をイメージにより直感的に考えることはできたと言える。

ヘレンはサリバン先生から指文字により物に名前があることを学んだ。

指文字で何度となく書かれたサインが、人形という手元にある物の名前であることを理解した時から、単語の意味を悟り、数週間後には、全ての物に名前があることを知った。教育を始めて3か月目には300の単語を覚えた。

あたかも初めてことばを覚えるようになったように聞こえるが、七歳になるまでに視覚と聴覚は失われたとは言え、五感による情報はすでに蓄積され続けていたと考えられる。

実体に関する情報は誕生から二歳くらいまでの間、五感により作られていく。二歳くらいからことばを覚え話し始めるが、それまでに実体に関する情報はかなり蓄積されていると考えられる。

ヘレン・ケラーの場合、19ヵ月で視力と聴覚は中断するが、それまでの情報は大人になってもおぼろげながらでも残っていたのでhないか。他の臭覚、触覚、味覚は健全であったと考えると、七歳になるまでに単語を作る元になる情報の収集は行われていた。花の匂いなどは中断されることはなかった。

2ヵ月間で300の単語を覚えられたのは、それまでに得ていた情報の蓄積があったからだとも考えられる。

例えば、リンゴという単語を覚える時には五感による入力が必要であるが、ヘレンは視覚と聴覚はなくても物としての実体から味覚による味も触覚による情報も得ていた。

指文字を覚えてから、その単語を理解することは、すでに知っている情報を組み合わせることであった。

ことばを覚えるということには何度も繰り返すという過程が関係する。数えたわけではないが、例えば「私はママよ」という表現は2歳になるまでに1000回近く聞いているように思う。身近な単語は同様に何度も繰り返し聞いている。

人間は見ても、初めて見ただけでは何かわからない。見た物が何かを知る、理解するには、何度も見て、他の五感によっても実体を認識することが必要である。そのために時が経過するように思える。つまり時間がかかる。時間があるように思えるようになる理由かもしれない。

ヘレンが単語を覚えることが早いように思えたのは、そうした背景があったからとも言えるだろう。

単語の意味を理解し、それを並べることで文章を作れるようになった時、ヘレンの人生は一変する。それは人間が持つ考える力を習得したからである。

目は見えるようにはならず、音も聞こえるようにはならなかったが、考えることはできるようになった。これが奇跡をもたらした。

動物は単語を作ることはできない。情報収集することもできない。
単語の意味を理解することもできない。

ヘレン・ケラーが七歳になる前でも考えることが多少であれできたことは、人間の脳がことばを覚えさせる準備をしていたことを意味するように思える。人間の持つ能力が活用されていた。

人間の子が猿や狼に育てられた事例の報告がある。
人間は動物に育てられると動物の習性を身に付けてしまう。
人間の社会で育てられないと、人間になることはできなくなる。ことばを覚えないと考えることはできないからと思われる
人間の脳はあっても、人間として育てられ、教育されなければ、知的生命体である人間にはなれないことを意味するように思える。



水とマグ(カップ)に隠された真実について

ヘレン・ケラーの自伝 (THE STORY OF MY LIFE) から
以下にその第4章の訳文を書いた。


ことばはなぜ重要なのか?

「私が住んでいた音と光のない世界には強い感傷や優しさはなかった。」
七歳までヘレン・ケラーが持っていた感情についての洞察である。
ヘレンの一生を通して音と光はなかった。それは変わらなかった。

にもかかわらず、ヘレンは思いやりや優しさを持つようになった。
自分のしたことを反省し、涙を流すこともあった。
それまでにない大きな変化である。

何が変えたのか?


ヘレン・ケラーの自伝 (THE STORY OF MY LIFE) 第4章から

サリバン先生は着任した次の朝、私を部屋に呼び人形をくれた。パーキンス施設の目の見えない子供たちが送ってくれたものでローラビッジマンがドレスを着せたものであると、後になって知った。

しばらくそれと遊んでいると、サリバン先生が私の手にd o l l (人形)とゆっくりと綴りを書いた。私はすぐにこの指遊びに興味を持ち、真似しようとした。
正確に綴れるようになると、子供の喜びと誇りから顔を赤くしてはしゃいだ。階段を走って母親の元へ下りて行き、私の手をあげてd o l l (人形)と綴った。

単語を書いていることも、単語が存在していることさえ知らなかった。
ただ単に猿のまねごとのように指で真似していた。

その日以降、考えることもなくたくさんの単語を綴ることを学んだ。ピン、帽子、コップ、それに座る、立つ、歩く等の動詞が含まれていた。
数週間後、全ての物にそれぞれ名前があることに気付いたが、その間サリバン先生はずっと一緒にいてくれた。

ある日、新しい人形と遊んでいるとサリバン先生が私の(昔から持っていた)大きなボロ人形を私の膝に置いてd o l l と綴った、私に両方ともd o l lであることを理解させようとした。

その日早く、マグ(カップ)と水のことで取っ組み合い(争い)をしていた。サリバン先生はマグはマグ、水は水であることを印象づけようとしていた。

しかし、私は二つが同じものだと言い張った。先生は失望してその時はその課題を止めてしまったが、あの最初の機会にそれを改めようとしていた。

私は彼女の度重なる試みに嫌気をおこして、新しい人形を掴まえると床に投げつけた。足元で人形が壊れてバラバラになったこと感じ、鋭く喜んだ。かんしゃくをおこした後に悲しみも後悔もなかった。

その人形を愛してはいなかった。私が住んでいた音と光のない世界には強い感傷や優しさはなかった。

私は先生が壊れた人形を暖炉の前の床の一方に掃除する(片付ける)のを感じた。そしてイライラの原因が除かれ、私は大いに満足した。

彼女は私の帽子を持ってきた。暖かい光の中を出かけるのだと知った。
この考えは、もしことばのない知覚を考えと呼べるなら、私を喜びで跳ね舞わせるのだった。

井戸の家へ、道を下って歩いていった。ハニーサックルでおおわれ、その香りが魅了していた。誰かが水を汲んでいた。先生が私の手をその注ぎ口の下に置いた。

片手に冷たい水が溢れ流れている。先生はもう一方の手に最初はゆっくり次に速く、水という単語を書いた。私はじっと立っていた。私の全てが彼女の手の動きに集中していた。

突然私は霧に包まれて忘れていた何かの意識(記憶)を感じた。その時、ことばの不思議な意味が明らかになった。水(という単語)が私の手に溢れ流れる冷たいものであることを意味すると知ったのである。

その生きていることば(単語)が私そのもの(人間の本質)を呼び起こし、自身に光、希望、喜び、自由をもたらした。

障害はまだあった。それは真実である。しかし、障壁は時間がたてば除かれるだろう。私は学びたいという願いを持って井戸の家を後にした。

全ての物に名前がある。それぞれの名前は新しい考えを産み出してくれる。家に帰ったとき、触るすべてのものが命で震えるように思えた。

私に与えられた新しい視界のような不思議なものにより物事を見るようになったからである。

家のドアを入ると私が壊した人形のことを思い出した。

暖炉のある床のところへ行き、壊れた人形を拾いあげた。
つなぎあわせようとしたが無駄であった。その時、目が涙で溢れた。私が何をしたのかに気付いた。初めて後悔と悲しみを感じた。

その日、本当にたくさんの新しいことばを学んだ。



何がヘレンを変えたのか?

ことばにより考えることができるようになったこと。
考えることの意味とその素晴らしさを理解したことによるのではないか、と考える。

人間が産まれてから、生きるために脳の要求としてある本能、そこから作られるように思える好き嫌いというストレートな感情があるが、基本的にそこに考えはない。

ことばを覚えることにより考えるようになると、 
思いやること、自分の行動を見て反省することができるようになる。

考えることが関係し、新たに作られる感情のように思えるが、考えることがその背景にある。

例えば、悲しいのは考えることができ、何が起きたか、なぜかを知ることができるようになるからではないか。悲しさは人間が知的生命体であること、考えることができる証しに思えてくる。

人間が知的生命体である理由はことばが関係している。ことばによる考えることが人類の進歩してきた理由に思える。

しかし、その重要性に気付き認識しているのは、ほんのわずかな人たちだけなのだろうか?



ヘレン・ケラーは、「 この考えは、もしことばのない知覚を考えと呼べるなら、私を喜びで跳ね舞わせるのだった。」 と書いていた。

ヘレン・ケラー自身まだはっきりとした自覚はなかったようだが、考えはことば(単語や文章など)でできているのかもしれないという思いはあったことを示している。

このサイトでは、「考えるとは、頭の中で文章を作ることであり、考えはその文章の内容のことである。」 と説明している。

当初、七歳のヘレン・ケラーに水以外にことば(単語)はなかったので、考えることはできないと考えた。ところがその行動から、ヘレンは考えることができたのではないかと思えるようになった。

確かに一般的に使われることば(単語)はなかった。しかし、実体を視覚と聴覚の入力を伴わないイメージで、ことばの代わりとして作っていた。単語を知らなくても実体の記憶はあったことを示している。それは一種のことばである。

ヘレンは、ことば(単語)のない知覚は考えではないのかもしれないと考えていたが、実際には自分だけの独特なシンボル、単語の代用を作っていた。それは単語であり、それで考えることができた。

その理由として、ヘレンは単語を知り文章を書くようになると、七歳以前に実体から作った視覚と聴覚の入力を伴わないイメージを一般の単語に置き換え、一般の人でもわかる文章にして表現した。
ヘレン・ケラーの自伝である。

その文章の中にヘレン自身の視覚と聴覚による情報はない。読むと、それに気付かずに普通の人によって書かれた文章のように読めてしまう。人間の持つ知力の素晴らしさを示すものであると同時に人間の限界であるのかもしれない。



* * * * * 
その5

存在にかかわる言葉の問題点、その9として、言葉(単語)の対象とは何かについて書いてきたが最後に気になっている点について以下に書いた。それがどんな意味を持っているかもわかっていない。もちろん、気付かなかったことは未だたくさんあると考える。

その5 イメージが先か、実体が先か?

数字の 1 は国によって文字表現は違う。日本でも壱、一、1 等の実体の文字として表現される。
これは、考え、イメージが先にあり、その後に実体として作られたからではないか。
つまり、イメージが先か、実体が先か? という点である。

数字の 1 という意味は、素数であり、自然数の初めと説明されても、1が何かは今もわからない理由ではないか?
それを形にし、文字や数字という実体にすると、わかった気になれる。
それはわかったつもりであり、本当はわかっていないのではないか?

その元の考えの 1 という定義は実際には無く、作れないように思える。
言葉はイメージで作られているからで、イメージが先にあり、明確な定まった形はないからではないかと。

言葉の単語は一般的に、物に名前を付けて、物に名前があると思っているが、脳に蓄積された情報は、イメージとして呼び出され、同じ名前で呼んでいるが、実体である物とイメージでは違う。

物ではない考えだけから作られた単語の実体は創作により存在してはいても、その考えは実体ではなく、イメージであるため、意味も無いのかもしれない。

単語には意味があり、その意味を考え続けることは大切であるが、それは定義ではない。言葉は人間の、人類の進歩と共に変わり続けるもので、固定したものではないからだ。



マイケル アレフ 2025年4月