マイケルアレフのことばの不思議な世界

ことばの認識は世界を変える 
シリーズ28

現実から見えてくる新しい価値観 
その1 自分の認識について 「個人で作り上げた自分などいない」
その2 自由と責任
2-a.生命体又人間社会としての制限はあるが、全ては自由である。
2-b.「人間とは何か」に答えがないことが、自由を与えている。
2-c. 優越感がもたらす自由の問題点
2-d. 教育と自由について
2-e. 信じる自由の問題について
その 人類の意志について

現実から見えてくる新しい価値観 
背景:
ここで言う新しいとは固定的なものではないという意味で、古いものと区別するための表現である。わかりやすくするために、その違いの主な2点をあげておきたい。
1.情報量の違い
  科学技術の発展によるコンピューター、インターネット、スマホ等の出現は今までにない大量の情報の蓄積、利用を可能にしている。

2.現実に対する理解のちがい
  科学技術の発展により、医学の分野では生命体の遺伝子、人間の頭脳、物理学の分野では宇宙(自然界)に対する理解が加速度的に進んでいる。

古い価値観の特徴は情報量が少なかったために、現実を理解できず、想像により、理由を作り出し、信じていたことである。情報と理解の不足、思い込みと優越感によって作られてきた。それは進歩することのない閉ざされた価値観である。

信じてはいても、想像によるため、同じ神、宗教、信仰でも、違いが生じ、分裂してたくさんの宗派に分かれ、争いあい、戦争し、多くの人が犠牲になってきた。神と言っても、それが何かわからないため、信じること以外にできることはなかったからである。

数千年にわたり、地球を知らず、見たこともなく、想像さえできない時代が続いた。
空の雲が何か、雨が降る理由も知らず、干ばつで雨が降らなければ、雨乞いをするしかなかった。
空が青い理由、物に色がある理由、夜空の星が何か、物が落ちる理由も知らなかった。音が何か、光が何かも知らず、人間が飛行機で空を飛ぶようになり、ロケットで月に行けることなど想像さえできなかった。
電気もない、電話もラジオもテレビも無い、電波もない、基本的なことを何も知らない時代であった。宇宙の大きさ、広さも知らなかった。

そんな数千年も前の時代に人間は、神様が、地、全ての命、天国、地獄、死後の世界を作ったと想像した。恵みに対しては神様のお陰だと感謝し、わからない奇蹟は神様によると考えた。

これは大昔の古い価値観で、人類が現代の科学文明を築くはるか前のものである。

驚くべきことに、人類の大半が今もそう信じている。その状態で人類は賢くなったと言えるのだろうか?

人類は自分達がいかに愚かであるかに気付いていないと考える。ここに人間性に進歩が見られない第一の理由がある。

シリーズ26 人類が現実を認識するのを妨げていると考えられる理由は何か?
    * 1 発展できない閉ざされた価値観を持ち続けている

現代科学は次のことを明らかにしている。
生命体は遺伝子でできている。人間はヒトゲノム遺伝子で作られている。
宇宙には2兆を越える銀河がある。

これらのことは新しい価値観とどのような関係があるのか?




新しい価値観、その1 自分の認識

人は努力した功績が認められ、素晴らしいと評価されると、「自分の努力が認められた。自分の努力の成果だ」と思うかもしれないが、そうした認識が現在の社会に問題をもたらしていることに多くの人は気付いていない。

認識の何に気づいていないのか?
個人で作り上げた自分などいない」ことである。

与えられた人間としての能力才能受け継いだ遺伝子により作られ、生まれてからは両親を初め、親族、学校の先生、友人等たくさんの支援があって現在の自分があるからだ。その支え無しに生きることさえできなかったはずである。それなのに多くの人はそれを忘れ、自分一人で生きてきたかのように、成果は自分の功績だと思い込んでいる。

人類は個人を高めようとする古い価値観、優越感を捨てなければならない。
人間の社会は、個人が強くなりたい、優秀でありたい、一番になりたいと思うことを勧めてきた。それを止めさせることが必要である。

なぜなら、それは優越感を持つように仕向け、人間を愚かにする。
人間を利己的に、高慢にする。争いを起す原因である。

優越感を無くすことは、人間として当然あるべき姿であり、優越感がなければ人は謙虚になれる。誠実になれる。人を信頼し、心に平安を得、安心した生活ができる。

「人間は一人では生きていけない。人間が社会を作ってきたのは、助け合い、協力しあうことで、危険に対処し、安全に生活するためである。共に喜び、楽しみ、働き、共に生き、子孫を残して行くためである。

人間はことばと考える知力を持ち、未来を創る存在である。
人によるとは言え、謙虚さ、誠実さ、感謝の気持ち、隣人愛、人類愛を示すことができる。
その人間性に素晴らしいと感動する同じ人間は、なんと素晴らしい存在ではないだろうか。」(シリーズ5より)

自分が成し遂げたと思っても、それは自分個人によるのではなく、受け継いだ人間として持つ知力、能力が素晴らしいことを示すものであり、人間社会の重要さを意味している。





現実から見えてくる新しい価値観 
その2 自由についてその2
 自由と責任 

人間を含め全ての生命体はその存在の初めからすべて自由であると考えられるが、それぞれ生命体としての制限はある。
地球上でことばを使う思考能力を持つ生命体である人間は、自由ということばを作り、自由とは何かと考え、自由がもたらす恩恵に感謝すると共に自由に制限を課してきた。
人間が生きていくための知恵として、互いに助け合い、協力し、支援し、協同体として働くことが人類の繁栄のために必要であることから、様々なルール、規則、法律などが作られてきた。

自由に対する責任とは、人間の知能を活用し自由への制限を守ること、社会を構成する人間としての義務を果たすことであり、それは人間が持つ自由を守ることである。



2-a「生命体としての制限はあるものの全ては自由である。」


知能のない生物は、生命体としての制限があり、自由であるように見えても、遺伝子によって作られ、作られたプログラムによって生きているだけと考えられる。

すると、ここで意味する自由とは、知能が無いことになるのだろうか?

確かに知能がなければ自由の意味はわからない。自由に生きているように見えても、プログラムに従って存在しているだけである。見方によっては、それはそれで自由と思う人もいるかもしれない。

当事者(知能の無い生命体)と見る側(人間である観察者)では見えること、考えることが違っている。

当事者に知能が無いなら、生命体であるというだけで、自由があるとは言えない。自由が何かもわからない。考えることはできない。

外部から見て、人間はそれを自由と思うのはなぜだろうか?
自由はないのに自由があるように見えるのはなぜか?

花は美しい。花は遺伝子の情報に従い花を咲かせる。人間はそれを見て美しいと感じる。しかし、花は自分の美しさを知らない。

アゲハチョウが飛んでいる様子は美しい。人間にはそれが自由を楽しんでいるように見える。しかし、アゲハチョウは自由を知らない。何も意識していない。

全ての生命体は遺伝子により作られ、そのプログラムによって活動していると考えられるが、人間には、美しい、可愛い、怖い、恐ろしいなどと見える。
人間にはそう見えるだけで、当事者が美しいとか自由であるという意識があるわけではない。(ただし、これには製作者の意図が関係する可能性はあるかもしれない。)

なぜ人間にはそう見えるのか?
人間が知能を楽しむよう自分の気持ちを反映させるからではないか? 人間側にそう思う気持ちがあるからだと考えられる。対象物ではなく、見る側、人間の認識の問題のように思える。

美しいと感じるのは、その人の持つ認識による。
自由もその人が持つ認識によるように思える。

自由の定義があいまいで、それが理由で、好きなように解釈できるのかもしれない。

平等、権利、平和、愛、正義など、たくさんのことばが基本的に「人間とは何か」ということに関連して作られてきたように思えるが、定義は曖昧で、人の認識は同じではない。

そこで、先ず原点、人類の出発点に戻って、自由を考えてみる必要があるのではないか? 以前こう書いた。

「人類が存在するようになる前から、人類の歴史の初めから、
人間には「なにかをして良い、してはいけない」という規定は存在していない。
人間だけではなく全ての生命体についても同じことが言える。言い替えるなら、生命体としての制限はあるものの全ては自由である。」

以前であれば、全ての生き物は自由気ままに生きているように見えたが、今は全てが遺伝子の指示よって生きていることがわかるようになっている。生命体としての制限はある。しかし、知能が低ければ責任を自覚することはできない。

言い替えると、遺伝子から作られた知能が無い、もしくは低い生命体に、責任は取りようがないという意味である。

人間には高度な知能があり、ことばによる思考がある。人間とは何か、自由とは何かと考える。
自由があるのは、人間に頭脳があり、知能が発達していて、ことばによる考える力があるからである。

思考能力があることが自由を生み出している。時代の変化と共に人々の意識にも変化が生じ、ことばによる表現が作られるが、そのことばも変化していく。

知能があって考えることができると、責任を自覚するようになり、元々あった自由は制限を受ける。人間という枠という制限から始まり、共に社会を作り維持していくための制限、ルール、法律を守ることが要求される。

人類はこれまでに様々な制度を作り、制限を課してきた。自らが繁栄するため、自分たちを制御するためであったと思われる。しかし、自らが作った制度で、自らを苦しめてきたことも事実である。
人類の歴史には様々な制限、例えば奴隷制度、政治や宗教による圧政などもあるが、すべて人間が作ったものである。

奴隷制度が廃止され、解放され、抑圧されてきた人間は自由になったと言っても、元に、原点に戻っただけであるように思える。

民主主義になっても、人間が考え出した制度の下にある。それがもたらす弊害は自分たちが作ったものであることになる。民主主義が見直され、どのような制度に代わったとしても、原点の考えは変わらないように思える。

「生命体としての制限はあるものの全ては自由である。」

何でも自分勝手にできることを、自由と思うかもしれないがその自由は存在していない。人間としての制限から逃れれることは現時点ではあり得ないからである。




2ーb「人間とは何か」に答えがないことが自由を与えている

米国の歴史と民主主義の基本文書の中に1776年の独立宣言について次のように書かれている。

「独立宣言の執筆に当たり、ジェファソンは、自然権と個人の自由という理念を重視した。これらは、17 世紀の哲学者ジョン・ロックらによって広く提唱されていた理念であった。
独立宣言の冒頭には、「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」と述べられている。さらにジェファソンは、英国に対する正式な苦情を列 記し、植民地が母国から完全に独立しようとする決断を正当化した。この文書は、1776 年7 月2 日、検 討・討論のため大陸会議に提出され、2 日後の1776 年7 月4 日、大陸会議は満場一致で独立宣言を採択した。」

およそ250年前に自国の未来を真剣に考える人々がいたことが示されている。

米国は創造主、神の存在を前提にして作られたキリスト教の国である。生命、自由、幸福を追求することは創造主によって与えられていると皆信じていた。

しかし、この「創造主によって」という前提、土台には大きな問題がある。わからない存在を土台に据えていることである。

その考えでは世界を統一することはできない。米国内だけでも一神教、多神教、同じ信仰でも多宗派に分かれ、信仰の無い人もいる。さらに、時代の要求として、科学の進歩に基づく新しい考えが広まり始めている。

新しい考えとは最新の科学、医学が明らかにしている、「2兆の銀河の存在、人間の遺伝子から見た人間の存在の意味」のことである。

人間は命があることを知っている。生きているのは命があるからだ。命があるから、自分で考え、自分の意思により、自分の生き方を選び、自由に生きることができる。活動する自由を持つことができる。

しかし、人間が完全、完璧を追究し、人間に当てはめようとすることは、人間の進歩を否定することにつながり、人間の持つ自由を否定することになる。完璧であるとは進歩の余地がないことである。

命がなぜあるのかはわからない。昔、わからないから神様が作った、と納得したが、現在それでは短絡的過ぎる。神様が何かがわかっていない。

創造主、神、絶対者を作ることにより人間を完全な支配者の下に置こうとする考えには問題がある。完璧、完全な存在など、現時点では、人間にはわかりようがなく、明確な存在もないからである。 

250年前は、遺伝子の存在は未だ知らず、無かった。銀河系の存在も知らなかった。科学技術が発展しておらず、その知識が未だ無い時代だった。
今では2兆の銀河の存在が明らかにされている。遺伝子を操作して新たな生命体さえ作ることが可能な時代である。

完璧な存在の下では、人間は完璧を目指すことになる。

「人間とは何か」という質問に対する答えがないことが、自由を与えているという現実を理解する必要があるように思える。

人間は完全ではないからこそ、そこに進歩できる理由があり、人間はいつまでも自由でいられる。「人間とは何か」という質問に答えがないことが自由を与えている。

人間という枠を現時点では超えることはできないが、未来においては、個人として、人類としても、どのような生き方も可能であることを意味しているのかもしれない。

知能があっても、答えがないことが、自由がある理由、背景であると考える。

自由は、人間の考える能力、知能が関係する。人間の存在の意味、人間が社会を作ること、その目的とそれに伴う責任が関係する。
人間の知能に融通性があり、応用する力があり、自由があることに意味がある。
自由は発展をもたらす。

追究する自由を含むすべての自由は、知的存在として人間が存在するようになったその初めからあると考える。




The Constitution only guarantees the American people the right to pursue happiness.
You have to catch it yourself.
合衆国憲法は米国民に幸福を追求する権利を約束するだけである。後は自分で捕まえるしかない。
Benjamin Franklin

権利を自由に置き換えても意味は同じように思える。
自由と権利の違いは、自由が確立されると権利になるからではないか。
今は権利ばかりが強調され過ぎて、本来の自由がどのようなものであったのかを忘れさせているように思える。
自由であることへの責任を果たすことは、社会を構成する人間としての義務であると考える。


For to be free is not merely to cast off one's chains, but to live in a way that respects and enhances the freedom of others.
なぜなら自由であるとは単に自分の束縛を捨て去ることではなく、他の人の自由に敬意を払い、高揚するために生きるという意味でもあるからだ。
Nelson Mandela




自由について 
2-c 優越感がもたらす自由の問題点

幼少の頃、正義にあこがれ、何でも一番が良いこと、強いこと、勉強ができること、成績が良いこと、優れていることが大切だと教えられ、そう思っていた。

長い間、人類史が始まって以来ずっと、今も、力が解決の手段だと思われている。力がものを言う。どこの国も自分の国を守るために多額の軍事予算を計上する。世界で一番を争う国もさらに強くなるために軍拡競争をしている。

現代社会が長い間利益追求の社会であったこと、その背景に自由が生存競争や弱肉強食の考え方と共に教え込まれてきたことが関係しているように思える。
社会が生存競争をあおり、人々が資本主義の競争の原理を教えられる中、利益を追求することが企業の存在目的であると教えられ、利己的になるよう教育されてきた。

生存競争、弱肉強食、強いものが生き残るという考えが、一番になること、優秀であること、強くあることを推し進めてきたように思える。

何でも一番がいい、一流がいい、という考え方を修正しなければならない。

人類にとって悪いとわかっていることをなぜ止められないのか。利己的であることをなぜ止められないのか。感情を抑えられないのか。軍拡競争が愚かであるのにやめられないのか。人類は自滅を直前に見るまでわからないのだろうか?

高ぶりは倒れに先立つ。優越感は高慢になることを推し進めるが、それは滅びに至る道である。 

人類は目指すものを誤ってきた。目標が間違っている。優越感を満足させることは人を自由にするのではなく、自由のあるべき制限を否定し、逆に人間を欲望の奴隷にしている。優越感は自由を暴走させている。 

一番になることよりも大切なことがあることを忘れている。自由にあるべき制限は、人間の信頼する喜び、協力する喜び、安心感、一体感、平安、人間の素晴らしさを維持することに貢献している。ただし、人間がより自由であるためには、又義務を喜んで受け入れ果たせるようにするためには、今までに作られてきた社会を維持するためのルールを根本的に見直すことが求められているように思える。

個人が、社会が、国家が優越感を求め、一番を目指すなら、分裂と破壊をもたらす。その原因が何かを認識してこなかったことに人類の持ち続ける問題の原因があると考える。

人間が互いに信頼できるなら、人類が、世界が一つになれるなら、軍拡競争は要らない。人類の歩みの修正と改善、平和と安定、存続のためにその資金をあてることができるのではないか。

人間個人間の信頼、地域社会の人びとの信頼、他の国、民族間の信頼が問われている。人間を一人一人見れば、協力して一緒に生きていくことに大きな障害になるようなことは無いように見えるが、現実は世界を支配するために、どの国が一番になるかと軍拡競争を続けている。国だけではなく地域社会でも、個人でも一番、一流になることを求めている。自分達のことを第一に考えている。優越感が人類の欲望を作り出し支配している。
どうしたら人類の歩みを修正することができるのだろうか。




2-d. 教育と自由について
教育とは何か?
教育ということばも時代と共に変化していて、固定したものではない。
教育についてはシリーズ11シリーズ14で取り上げた。
今読んでみても、その時の考えが正当に思えるため、これ以上のことを、現時点で思いつくことは難しい。

人間は皆、その時代の考えに影響される。間違った考えであっても、その時点では正しいと思われていることもある。これは現実として受け止める以外にない。

1947年(昭和22年)戦後まもなく教育基本法が作られ、それが改定されるのは60年後の2006年のことである。その間に学校で教えられた子供達は、その考えに基づいて影響を受け、育ったと考えられる。

その第1条(教育の目的)には、「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」と書かれてる。

60年の間、人間には完成された人格があり、真理と正義はあるものと教えられてきた。

時代の流れとは言え、もっとふさわしい人間としての教育があれば、学生運動、日本赤軍、オウム真理教などが生まれることもなかったかもしれない。

誠実で能力のある若者が、真理を求めたが故に、社会を良くするために改革を望んだのではないか。しかし、間違った考えを真理として受け入れ、その方向に進み、犯罪を犯し、その責任を取ることになったと考えることもできる。

教育が人類の存在と存続にとって重要な意味がここにあるように思う。

人間には初めから人間としての制限があり、完全、完璧、絶対はないことを知る必要があると考える。

人が置かれている立場、視点、作られた認識、価値観によって、物事は違って見える。

視点がいくつあるかは考え方にもよるが、物事は見る視点によって違って見える。
命について個人、人類、地球、宇宙などの視点からみると違った考えを持てる。視点、立場が違うと、それぞれの考えは正しいように思える。
このことは、人の考え、信じていること、宗教に違いがあっても、間違いはないと思っている状態と同じように思える。
人間の限界を越えているのだろうか。それぞれ違う考えを一つにまとめることができるだろうか。

意見が別れる背景には視点や立場の違いが関係していることが大きい。視点を変えて見ることの意味は、幅広い視野で考えることが役に立つからであるが、一つの見方に統一することは困難に思える。別の視野で見れば、違って見えるのだから、同じにはならないのは当然であるように思える。

視点を変え、幅広く考えれば考えるほど、統一することはできなくなるように思える。
今後、人類による文明が進歩し、より広い視野で見えるようになると、答えはますます一つにはならないことを意味するのかもしれない。

人類の新たな価値観としてあげた人間にとって完全、完璧、絶対はないと考えることが重要である理由に思える。





2-e. 信じる自由の問題について
信じることに関する問題点については何度となく説明してきた。
信じる、信頼する」ということばの新しい定義について も書いた。

人間は基本的に自由である。何を信じていても、何をしても法律に触れなければかまわない。犯罪を犯さないなら、何を信じ、何をしても問題はない。

死んだら天国に行けると信じても問題はない。
死後の世界は誰にもわからないから、何を信じていても人は文句を言えない。
天国の神様、悪魔、天使、幽霊も、お化けも信じていても、誰にもわからないことだから問題はない。
 
嘘つきは泥棒の始まりと教えられた。でも、嘘をつかない人はいない。間違いであってもそれが嘘になることは気にしない。大人は皆嘘をつく。約束を守らない人は大勢いる。泥棒もいる。見つからなければ何をしてもかまわないと思っている。

見つかったのはたまたま運が悪かった。法律を破り犯罪を犯し、私腹を肥やしている人はたくさんいる。捕まる人の要領が悪い。そう考える人が多い世の中である。人間の良心はどこかへ行ってしまったのだろうか。

世の中は間違いを信じ込まされ、嘘も真実もどうでもよくなってしまった。

クリスマスにサンタがプレゼントをくれると子供に信じさせても犯罪ではないから問題はない。皆がやっていることだ。偽りを言うことは嘘をつくことと同じであっても、皆と同じなら気にしない。信頼を破壊するものでも考えつかない。

12月25日はローマの農耕の神を祭る日で、キリストの誕生日ではない。キリスト教の信者であっても、誕生日であろうとなかろうと関係ない。楽しいならそれで良い。

嘘をついてはいけないと思う人はいても、嘘も方便、言い訳だらけだ。
どうでもいい世界と思っている人もいるかもしれない。人類のことなど考えられない。自分の生活で精一杯である。人類は滅亡したとしても撒いたものを刈り取るだけである。元々、地球上に人間はいなかった。

人類など存在しない方がいい、と考える人はいる。人間がいなければ悪はない。悪人はいない。核兵器で地球が滅びることもなくなる。

ノアの映画では、ノアは子孫を、これから生まれてくる人類を作らないようにしようと苦悩する。子孫を残せば、神は再び人類の滅亡を考えることになると考えたからだ。このノアの苦悩がこの映画の重要なテーマになっているように思えた。

聖書の記録とはかけ離れているように思えても、独創的な作り、考えである。以前であれば聖書の神が中心で、人間に対して明確な指示を与えたが、それがない。それが曖昧になったのは、神に対する認識の変化が生じているからだろう。

現代科学は真実を明らかにする。明確にすると神の存在も明らかにしなければならなくなる。地球ということばが無い世界と2兆の銀河の存在がある現在の世界では、人間の認識は大きく違うものになっていいはずだと考える。

「神とは人類の無知を象徴することばである」と書いた。人類にはわかり得ないことがあるという意味である。昔であれば わからない理由から神、神々が作られた。天国、地獄、天使、悪魔が作られた。何であれわからなければそれでいいと。
しかし、科学の進歩により、神々の多くはわかるものとなり、神の座から引き下ろされている。

今どき、太陽を神様とするのは現代科学を知らない人々くらいだろう。山も川も海も神様とは思わない。台風も地震も神様とは関係ない。
人間の謙虚さは現実を認識することにこそ示されるべきで、知らないことを信じ、感謝を表すことではない。

しかし、今でもわからないままでいたい人がほとんどだ。山、海の幸に感謝し、豊漁を祈願し、家族の安全を願い、祈る。何かがわからない存在である神に対してである。考えない。考えようとしない。考えない人にはわかりようがない。今まで通りに古くからの慣習を守り続けている。これが現実である。

なぜ変わらないのか? 様々な事情、背景が考えられる。
しかし、わからなくても現実として受け止めている正しいと判断できる事実はある。
事実を教えられ受け入れている場合である。科学の世界では事実の確認ができている。

例えば、水は水素と酸素の化合物である、と学校で学んだ。
水素や酸素を見たことがない。透明な気体だから見えない。
水は透明でも飲めるし、さわった感触もある、冷やせば氷という個体になり、沸かせば蒸気になって見えなくなる。
実際には見たこともないのに酸素、水素等の気体があることを受け入れている。化合物として水も受け入れている。
なぜ、事実として受け入れているのか? 教えられたからか?

昔から教えられたことを伝統、儀式として守り、その神を信じている人は人類の大半である。

違いはどこにあるのだろうか?

事実を確認、認定する方法に違いがある。科学には個々の現象を法則的、統一的に説明できるように筋道を立てて組み立てられた知識の体系である理論がある。多くの人が実験等を通して確認している。

そうあって欲しいという願いから事実として認めることは誤りである。
先祖伝来の教えであるという理由だけで事実として受け止めるのは誤りである。
このような間違った判断を許してはならないと考える。

全ては自由なのに、信じる自由の規定が別にある。何を信じても良いのか?
日本国憲法20条に「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と書かれている。しかし、なにを信じても良いわけはない。
オウム真理教、日本赤軍、イスラム過激派、ナチスドイツ、その信じる内容を肯定できるものはない。信じた人は殺人を犯しても反省はない。良心を失っている。正常な判断力を失い、操られている。

信じることに問題がある。わからない、わかったつもり、なども問題である。

真実を知ることの意味は何か? 現実を認識することである。
現実を認識できれば、間違いに気付き、反省し、改善する道を開くことができる。

マイケル アレフ 2021年1月



 

「人類の意志について」考える その1回目

人類に意志があるという考えはなかったのではないか。
人類がその意味に気づかず、作って来なかったからと思われる。

個人的には、人類に意志があるとは思ってもいなかった。もしあればと思ったことはある。シリーズ7の終わりの部分に以下のように書いた。

「物理学者のスティーブン・ホーキング博士は「宇宙にはたくさんの生命体がいると考えられるが、高度に発達した文明は滅びてしまう」と語っている。ホーキング博士は人類の未来に関連して100年という数字をあげている。

人間の能力をはるかに超える知的生命体が存在することは考えられる。ただし、ホーキング博士が指摘しているように、その知的生命体はその文明と共にすでに滅び、存在していない可能性もある。ホーキング博士の考えにも間違いの可能性もある。

これからの人類の未来にその事実を知る機会、真実が明らかになる時がやってくる。そう願う。しかし、そのためには、人類の未来が100年では短い、短すぎるのではないか、とも考えられる。反対に、100年という期間は長すぎるのかもしれない。言い換えるなら、結論はもっと早い時期にわかる可能性もある。

現代は有史以来、科学技術がその最高潮にあるだけでなく、確実に人類を絶滅させる可能性もある時代である。

遺伝子工学では遺伝子の組み換えにより数百年、数千年という時間がかかった変化を一日で行うことさえ可能な時代であるという。

現代は、人類が遺伝子操作で新たな生命体を創ることが可能な時代である。
人類の期待と予想に反し、実験の際にブラックホールさえ創り出すことになってしまう時代なのかもしれない。

現在の人口は76億人。一日約20万人の人口増加がある。この状態をいつまで維持できるのだろうか。

人類はどこまで進歩することができるのか。 誰にもわからない。

基本的に人間は失敗しないと分からない。反省するまで失敗し続ける。全てを失ってやっと気づくという傾向もみられる。それが個人のレベルであれば失敗は許容範囲であるかもしれないが、人類が存在しなくなるのでは、失敗ではすまされないことである。しかし、これが人類の大多数が示す傾向なのかもしれない。

「文明が高度に発展することが、文明を滅ぼすことになる」という理由はすでにわかっているのだろう。ホーキング博士は人類が地球から脱出することを強くすすめている。
仮にそうなるとしても、100年後では人類の大半は脱出することはできない。希望を一部の人に託すしかないだろう。

未来は誰にも分らない。人類が滅亡するのではなく、大きな修正で終わることも考えられる。人類の意思が、もしあればだが、人類の歩みを調整するということもあるかもしれない。大自然が地球を浄化するということもあるかもしれない。人間とは別の生命体の介入があるかもしれない。いずれにしても未来の正確な予測はできない。」

人類の過去の悲惨な記録は、人類の意志など無かったかのように思える。
歴史の中に、人類の意志は反映されているのだろうか?



「人類の意志について」考える その2回目
人間の心と意志との関係について

心が何かわからなかった遠い昔から、人は心を大切にしてきた。その理由は、心の働きの結果に人として大きな違いを感じたからであるように思える。

心は脳によって作られた認識のことであるが、映画などを見て感動する時の喜び、悲しみなど、受け身の意味で使われることが多い。

しかし、心は受け身でなく積極的な意味の認識であることを、別のことばで表現してきた ・・・ 「意志」である。

積極的であるという意味は、同じ心の働きであっても、意志は能動的であり、自発的に作るものであることを意味する。意志は人を動かす力となる。


認識が思考と感情によって作られているということは、思考に間違いがあれば、感情が思考により騙され、間違った意思も作られる場合もあることを意味している。

今まで人類が間違った優越感を追い求めて来たことから、人間はたくさんの間違った意志を作ってきたと考えられる。
勝手に正義を理由に相手を敵とみなし戦争を始め、敵を殺すことは良いことだと考えるようになるのは、その具体的な例である。

基本的に生命体はすべて自由である。ただし、それぞれの生命体としての遺伝子からの制限があり、プログラムを越えて勝手な行動はできない。
しかし、知的生命体である人間は例外で、その制限を越えることができる。思考に制限はないからである。つまり、何でも好きなように、自由に考えることができる。

思考は制御する必要がある。感情がその影響を受けるからで、意志は優越感により、利己的になり、他人をだましたり、人の物を盗んだりする。人間を愚かにさせる。

人間は一人で生きていくことはできない。産まれた時から人間は協同体という社会の一員であり、その社会に責任を負っている。

これらから、人間には人間としてあるべき人間の姿、人間性、理想などが見えてくると思える。その人間としての責任の自覚の上に、成し遂げようとする思い、それを熱意が支えることにより、人間としてふさわしい意志を作ることが必要であると考える。

意志は心の働きであるが、命と同じ意味があるように思える。
シリーズ8 命についての考察に次のように書いた。

なぜ命は大切なのか。

生命はエネルギーから作られているという意味では同じでも、それが持つ可能性も、結果も、目的も、意味も違う。

人間の命は素晴らしいと感動するものにもなれば、残酷で非道な殺人犯になる場合もある。

人間の命が大切な理由は、その命が可能性の源であるからである。命はすべてを可能にすることができる力であり、命があるから何でもできる可能性がある。人間の命が大切な理由は、その命が可能性の源であるからだ。

今、心とは何かがわかるようになっている。それは脳によって作られ、運用、管理されている思考と感情できた認識のことである。
命の結果に大きな違いが生じるのは、人の持つ認識から作られる意志と関係があるように思える。

人間は一人一人生まれた時代環境、社会環境、自然環境などで作られた認識はそれぞれ異なっている。民主主義のように人民の、人民による、人民のための政治であっても、人民の多数が間違っていれば、間違いが正しいことになる。正しいと思い込めばみなは間違いがあっても気づかない。
それに完全、完璧、絶対は存在しない。すると人間を導くものが無いように思える。

人間には間違いがあることを前提に、理想を追い求めることが重要に思える。実態を認識し、間違いがあるかもしれないと考え、間違いを見つけたなら反省をし、修正と改善を行っていく。人間が進歩するための基本である。

その意志はすべての人に受け入れられる科学の論理の上に成り立つ必要があるように思える。



国連で各国が意見を述べ、国際社会として意志を統j一しようと話し合っている。それを人類の意志と同じように思うかもしれない。しかし、大きな違いがある。

基本的な考え方、考える視点に違いがある。j
人類の意志を考えるとは、個人、国家、国民を第一に考えることではない。
人類を地球上の唯一の知的生命体であることを前提に、世界は一つ、人類は一つ、地球は一つと考えることである。それは個人や国家の利害を越えたところ、全世界、全人類、全地球に視点を置いていることを意味する。

人類の意志は国の大きさに関係なく、国の利害にとらわれずに、人類は一つであるという前提で考えることにより、人類にとって必要な考えを展開させることができる。

人類に視点を置くことにより、優越感による弊害、個人や国家の利益を排除して考えることができる。人間同志の争い、戦いを止め、敵を作らないでいられる。

人間は新しい価値観を持つことにより、人類の意志を持つことができると考える。

人類の意志とは何か?
時代の流れの中で、人類の意志が問われているように思える。それが何かは明らかではない。

人類に意志があるなら、地球は一つ、世界は一つ、人類は一つと考えることにより、人類の存続を可能にすることにあるのではないか。

優越感による利己心をなくし、争いを止め、戦争をなくし、人類が平和と安定の中で生きられるよう、人類の最善を考えることにあるように思える。

人類の意志とは、人類の総意のことではなく、人類を導く力になるもの、人類の現実にあるべき姿、理想を追い続ける姿のことであるように思える。

それは確定したものではなく、普遍的なものではない。
完璧な答えではないが、人類に在るべき未来を示す光になるものでと考える。

人類の意志は作れるのだろうか?
すでにあるのだろうか?
人類の失敗の歴史は、人類の進歩を促すための人類の意志と言えるだろうか?

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