マイケルアレフのことばの認識は世界を変える


  人間社会が抱えるたくさんの問題の根底にある原因の一つは
  人間が「学習することの意味」を認識していないからかもしれない。

   シリーズ 14 「学習すること」の意味について 考える

人は生まれた時から、年齢に関係なく子供も大人も、周りにあるすべてのことを、五感を通して見たり聞いたりして学習している。新しい情報を取り入れ学んでいる。

人間の脳が学習するのは、脳が初めから持っている学習する機能により好奇心、知りたいという欲求、何でも知ろうとする知的関心が作られるからと考えられる。
興味を持つこと、向学心、冒険心、怖いもの見たさ、 珍しいもの見たさなどもみな学習の動機付けに思える。

多くの人がテレビのニュースを通し、今日の出来事として自然災害、事故、コンビニでの強盗、親による子どもの虐待、殺害、リーダーであるべき議員のセクハラ問題、法律を犯す大人がたくさんがいることを見ている。
手本となるべき政治家でさえ議会で暴言を吐き、喧嘩腰の態度で頭ごなしに相手を否定するのを見ている。
世界のニュースでは戦争を行う地域もあり、空爆を受け多くの子供が犠牲になっていることやテロによる犠牲者もいることを見ている。
今日の出来事として報道されるニュースの多くは人間の悪い面である。

もちろん善意のこもったニュースがないわけではい。
米国で良いニュースだけを報道しようとした地方新聞もあったと聞いたことがある。大衆は人の善意だけの報道では満足せず、興味を示さなくなり、新聞は長くは続かず、廃刊となった。人は何故か人間の悪いとされる部分に関心を持ち、興味をそそられるようだ。

ニュースなどは人に何かを教えているのだろうか。

学習の意味を改めて考えるために、教えることの定義を以下に書いた。
教えるとは 手本・模範を見せること 又は 情報を提供することである。

これらのニュースは何を教えているのか。
1. 手本・模範ということばが適切かどうかは別にして、多くは人間として最悪の手本また模範を示している。
2. 確かに様々な情報を提供している。人間の偽善、卑劣さ、犯罪行為など毎日繰り返し起きている事実の情報である。

教えることの定義に従えば、これらのニュースは確かに悪い模範又は犯罪が起きているという情報を提供している。
これは何を教えているのか。・・・ 模範と情報という意味で、事実を教えている。

情報としてはすべての人に共通であるが、そこから学ぶことは一人ひとり違う。
それぞれのテレビ番組、映画、本も同じように内容自体はすべての人に同じものである。しかし、そこから学ぶ内容は人によって違う。様々である。

「教える」ということばの中に、これまで長い間、間違って理解してきたことがある。

「教える」ということばの中に「学ばせる、何か教訓を教える、気づかせる、反省させる」等という意味はない。情報以外は何も教えていない。今までずっと何か大切なものを教えられてきたと思ってきたのは錯覚である。(詳しくはシリーズ11を参照)

つまり、悲惨なニュースなどにより人は一喜一憂するかもしれないが、ニュースそのものは情報の提供であり、教訓としては何も教えてはいない。教訓と思うのは、また教訓として学べるのは、人が学習しているからであり、一喜一憂するのは人間の脳が学習している証拠である。

人は生活の中で正直で法律を尊重し守ることの大切さを教えられる。その一方でその反対の犯罪の多発の事実を知らされる。この時、何かおかしいと感じるのは、人は情報を受け入れると共に学習しているからである。

ニュースを見ても何も感じない人もいる。同じことの繰り返しにより当たり前のことになっているからかもしれない。

逆に小さなことでも大騒ぎする人もいる。見たり、聞いたりしただけで、事実確認もせずに、感情だけに反応する人は多くいる。
見ても聞いても、学習せず、考えず、ただ自分勝手に反応する人たちはたくさんいる。

親、先生、友達、誰からでも間違った情報を伝えられることや教えられることがある。それを聞いた時、またその後に、その情報には誤りがあると気づくのは、人が学習し、確認作業を行っているからである。

学習能力は人によって差があることは現実にある。しかし、なぜ学習能力に差があるのだろうか。重要な意味があると考え、以下に気付いたことを書いてみた。

シリーズ14 学習することの意味について

1.学習することの意味について
   ・責任の自覚は学習による
   ・子供との問題を解決するための重要な手がかり
   ・人はどのように学習しているか 
   ・学習と自分の存在
   ・どのようにして学習意欲、能力を高めるか

2.教えられていないとはどういう意味か

3.学習において大切なこと
   ・ 正しく導くための環境作り; 指導と教育
    ・ 教えること; 良い模範、適切な情報の提供



1.学習することの意味について
   ・責任の自覚は学習による

他人から親から、ただそうするよう言われ、教えられるだけでは、学習していることにならない。
自分から学び、考え、選び、決めたのではないなら責任意識が生れないように思える。
ここに責任に対する自覚が生れない理由の一つがあるのではないか。

自分で考え決めたことなら、自分で責任を取ることができる。しかし、自分の考えは、自分で考え、決めたものではないものも多い。ただ、なんとなく言われたことをそのまま受けとめ、皆と同じで通してきたのではないか。

一般的に「他人から言われたからではやりたくない。自分で決めなければ責任は持てない。」
と思わないだろうか。もしそうなら、学習する機会が与えられていないという意味になる。


報道されるニュースは社会として問題のある犯罪や事件が関係している場合が多い。テレビの人気番組には、殺人事件を追う刑事ものなどもある。暴力、殺人など犯罪事件に関連した内容を見て楽しんでいる。戦争映画も人気がある。大人にとって単なる娯楽であり問題など無いように思える。

しかし、この大人の行動を見て子供達は何を学習しているのだろうか。
個人差はあるだろうが、小学生であっても大人の行動が矛盾しているように見える場合もあるのではないか。

古代ローマにおいて見世物として闘技場で戦った剣士がいた。大衆は人間どうし、人間と野獣の間の戦いで血を流し殺し合うことを熱狂して楽しんだ。
今は殺し合うことは許されていないので、こうした現実の戦いを直接見ることはできない。
しかし、様々な戦う試合は今でも楽しむことができる。
殺人行為であっても、戦闘行為であっても、映像で作られたものであれば楽しむことができる。

本質的な意味では、人間は数千年前の昔と何も変わっていないようにも思える。
戦争は悪いこと、人を殺すことは許されないと教えられていながら、大人はそれを楽しんでいる。
純粋な子供なら、大人の行動に矛盾があることはすぐに気付くのではないか。

同じことの繰り返しだけ、内容はたいてい同じ、正義が悪をやっつけて最後に勝つという内容はおもしろく、楽しく、笑えれば最高の番組にもなる。

しかし、この現実を見て、子どもでも何かおかしいと思う場合はあるかもしれない。


・「学習する」とは何を意味しているか

学習とは学ぶことであるが、記憶すること、暗記するが重要視されすぎて、肝心なことが見落とされてきたように思える。

学習は人間に初めから供えられている脳の働きであり、環境も重要であるが、どのような状況にあっても、学習は行われる。学習とは単に新しいことを学ぶことではない。

悪い見本、模範を見て、そうなってはいけないと思うことがあるのはなぜだろうか。
それは学習しているからである。

同じ情報を提供され、学習する内容が同じであっても、そこから学ぶものは人によってそれぞれ違う。ここに学習することの意味を理解する必要があるように思える。

人が学ぶのは提供される情報だけによるのではない。学べるかどうかは人の学習能力と関係している。人の認識は情報だけに依存しているのではなく、総合的な学習能力にあると考えられる。それには思考力も含まれると考える。

世の中は情報で溢れている。ある課題に関係する情報を得ても、何かを学び、何かに気付き、将来に役立てるかどうかは人の持つ学習能力と関係している。

学習能力・・・これが人間にとって非常に重要であることは確かである。


辞書によると、学習には以下の意味がある。

1. 学ぶこと。勉強すること。 「新しい教科を学習する」
2.人が生れてから繰り返される経験による環境に対して適応していく過程のことで、社会的生活に関係するほとんどすべての行動は学習によって習得される。
3.新しい習慣が形成されること。
4.新しい知識の獲得、感情の深化、よき習慣の形成などの目標に向かって努力を伴って展開される意識的行動。 

親や大人や社会の模範がどうであれ、人間の遺伝子は人間に人間としての頭脳を与え、学習させている。子供は生まれた時から学習している。親にことばを教えてもらい、様々な習慣も身につけるよう指導されてきた。

子供は親を初めたくさんの手本・模範を見、同時に情報が提供されてきた。
その模範、手本は学習するのにふさわしいものも、そうでないものもあるように思う。

報道されるニュースに出てくる親の虐待にあっている子供でも、どんなにひどい親からでも、その手本、模範から子どもは学習している。それは悪い手本、見習うべきでない模範であるかもしれない。しかし、人はどのような状況下にあってもそこから学習している。


・学習することの意味

「学習すること」の意味で特に重要なのは、入ってくる情報の処理を通して何かを学ぶ、気づく、反省することなどである。

シリーズ1の中で、「学習とは脳が現在の意識を通して物質などをことばの認識に置き換える、また認識を深める作業のことである」と書いた。

学習とはそれに加え、人間として欠かせない素質を育てることを意味しているように思える。
学習することには次のような意味があると考える。

1. 知識を学び活用すること
2. 疑問を持つこと
3. 何かに気付くこと
4. 間違いに気づき、反省すること、そして改善する道を開くこと
5. なぜかと理由を考え、答えを見出そうとすること
6. 教訓を得ること
7. 自分の意思を持つこと、意欲を作ること、動機を得ること
8. 持っている意識を向上させること
9. 考えること
「学ぶ」と「考える」は違う意味で使われているが、同時進行の面もあるように思われる。
学びながら考えることもあり、考えている間に新たなことに気付き学ぶこともある。
学習と思考は同じ脳の働きであることから、正確に区別することはできないかもしれない。
学習も思考もイメージを含むことばによる脳の働きのことである。

10. その他

学習することの目的は、人が知恵、知力を持つことにあると考える。

人間の考える力が新しい認識を創り出していく。
その「ことばと知力」である「考える力」は学習を通して作られる。
新しい認識は学習を通して作られる。
これが学習の意味と目的であると考える。


・人はどのように学習しているか

この学習能力は単に遺伝により受け継がれるのではなく、育った環境の中で磨かれるように思える。

親が子供になんでもやってあげていたら、この能力は身につくとは思えない。
親が子供の代わりになんでもやると、子どもは学習できなくなるからである。
シリーズ11で、教えて依存症(仮の名称)について書いた。

「教えて依存症は、幼い時から、自分で学習する部分を、親や他の人が代わりにやってしまうことで、自分をできなくすること、学習能力を低下させることだと考えられる。
なんでも人に依存し、教えてもらおうとするようになることは避けなければならない。なぜなら人間の本来の機能、学習する能力を阻害することになるからである。」


・子供との問題を解決するための重要な手がかり
  「教える、学習する」の違いを示す具体例

親は子供に何度も繰り返し言うことで反省させようとする。
言うことを聞かせたい。言ったように行動して欲しい。そのためには何でもしようとする。
「言うことを聞かないとご飯を食べさせませんよ」等ともいう。

子供は親の言うようには行動できない。
子供が親の言う通りにはできない理由がある。子供はロボットではない。
子供は自分がなぜそうなるのかを理解していない。
気付いていないかもしれないが、自分がある。持っている脳が自分を学習させている。自分で学習しない限り、納得しない。
言われたから、すぐにできないのは、自分で学習しているからである。

脅迫するようなこと、命令するようなことは人間としてふさわしいことか。
それにより子供は何を学習しているのか。
子供は親が自分を強制的に服従させようとしていることに気付く。
なぜ自分を強制的に服従させようとしているのか。
言うことを聞かせるためである。
なぜか。

親は子供に多くを期待しているからということが大きいように思える。。
子供を通して自分の果たせなかった夢を願う場合もある。
子供が自分の誇りであってほしい。
言うことを聞き、従順で、成績が良く、評判が良い子であることを願う。

しかし、これらは親の願望であり、子供の負担になる。
親は子供が完璧であることを期待してはいけない。完璧主義には問題がある。
完璧であるとは進歩の余地がないことである。
子供の自由も、学習する機会も与えていないことになる。

半世紀以上前のことである。今でも母親に叱られた覚えがある。言うことを聞かないので母親から厳しく怒られた。忘れられないのは、柱に縛られお灸をすえられたからである。小学校3年生、母親は35歳の頃のことであった。
親が頭にくることを何かしでかしたのだろう。しかし、何をしたのか、何を怒られたのか、何も覚えていない。叱られても、何も覚えていないのは、何も学習しなかったからであると思われる。
母親の行為は恐怖を植え付けただけではなかったのか。

当時、親は子供が言うことを聞かないと殴る、たたく、食べさせないなどの罰を与えるというのは当たり前のことだった。躾(しつけ)と考えられていた。
今は、弱者に対する虐待と同じではないかと思う人もいるだろう。
人間は動物とは違う。人間も躾(しつ)けることはできても本質的に違う。
躾は人間に学習能力があることを無視した考えであるように思う。

子供でも痛い思いをしたくないから、表面上は言うことを聞いているように見せかける。
良い子の振りをする。
しかし、何も納得しているわけではない。幼いなりに圧政から逃げ出そうと思うようになる。
それは親の意図ではないはずだ。
子供の学習能力を無視して圧力をかければこういうことになるように思える。
子供は親の意図を理解するまでには至っていない。
体が大きくなってくれば、力では子供に負けるようになる。ますます言うことを聞かなくなる。
子供が反対に親を脅すようにさえなるかもしれない。

子供が理解し、納得すれば違う道が開かれる。
人間の圧力ではだめなのである。
圧力で問題は解決できるように思えても、学習能力に訴えない限り、問題の解決にはならないと考える。

大自然の中で、一人で生きることを経験すれば、言うことを聞かない高校生でもおとなしくなることを見たり、聞いたりしたことがある。
大自然の中で、一人で生きることは何を意味しているのだろうか。
それは人が一人で生きて行くことがどれほど大変なことなのかを学ぶことである。
人は親を初め他人の助け、支援を受けて生活していることを思い起させることである。
水、電気の供給が止まったら、食べ物が買えなくなったら、どれほど大変なことか。
安心して生きていられるのはどうしてか。安全があるのはなぜか。
人間の社会が人の協力で機能していることを改めて学ぶことである。

人間は見ること、聞くこと、食べることなど、全てに満足することはない。
慣れればすべてが当たり前になる。その意味を認識できなくなる。
幸せであっても、幸せであることも忘れてしまう。そして自分は幸せでないと思ってしまう。
これは認識できなくなるからである。

水があること、食べるものがあること、着るものがあること、電気があること、住む家があること、これらは親を含むたくさんの人が働いて提供してくれるおかげである。
それぞれ大きな意味がある。しかし、慣れれば当たり前になる。

あることが当たり前と考えることをどうしたら改善することができるのだろうか。

たくさんの人が働いているおかげで身近にあり、利用している。
当たり前ではない。気付かなくなっているだけである。
しかし、無いことを経験しないとわからない。どれほど不便なことかわからない。

学習することの大切さがここにある。
普段から情報が溢れている中で、自分の好きな情報だけを選ばず、バランスよく考え、脳が持っている反省する機能を活かすことである。疑問を持ち、気付き、反省し、改善し、 なぜかと理由を考え、答えを見出そうとすることである。
教訓を得ること、 自分の意思を持つこと、意欲を作ること、動機を得ること、 持っている意識を向上させることである。

学習することができれば、他人の協力に感謝することの気持ちが大切であることがわかる。

大自然の中で、一人で生きることを経験することは、他人の助けがどれほどの意味があるかを実感する助けになる。
これが最終的に自分で学習することの意味を知ることであるように思える。


子供に何かを言って諭そうとしても、諭そうとする側に重大な間違いがある。
親は教えた気になるかもしれないが、教えても意味がない。
重要なのは子供の側が学習しているかということである。

言うことを聞けばご褒美をあげますよ。
飴とムチと表現するが、一時的に人間を躾ける方法としては可能かもしれない。
言うことを聞かせたと親は思っていても、子どもは何も教えられていない。
情報提供はあった。しかし、その情報は意味がない。子供はその情報から学習しなければ意味を持たない。

親のうそ、脅迫、だまし等は止めるべきだ。
親が約束を守れないなら、初めから約束すべきでない。
子供は大人が約束を守らず、うそをついてごまかしていることを見て、知っている。
大人、親のことばと行動の模範は子供の学習を助ける上で欠かせない。


・どのようにして学習意欲、能力を高めるか

人が疑問を持ったり、間違いに気付いたり、反省したりするのはなぜなのだろうか。

それは生まれた時から人間が持つ、遺伝により受け継いでいる脳の働きであり、親、兄弟、学校の先生、友人、飼っている動物などのあらゆる環境との関わりから生まれると考えられる。


・ 学習と自分の存在

学習することは自分の存在におぼろげながら気付き、自分をかたち作り始める頃から活発になるように思える。自分とは、自分という意思を持つ存在のことである。
学習を通して自分という存在を認識するようになると考えられる。


親は子供が小さい時から家事の手伝いをさせること、掃除、洗濯、食事の準備、片付け、動物等の世話、弟・妹の世話を任せるなど日常の仕事の一部を簡単なことから任せることは重要だと考えられる。
それは自分で物事を行うことから「考えるようになる」ことと関係がある。
その考えることの中に疑問を持ったり、間違いに気付いたり、反省する機会が生まれるように思える。

親は手本を見せ情報を提供したら、自分でやらせてみる。必要に応じて助言を与える。このようにして「自分で考えること」を指導する。これが大切であるように思える。

子供の話をよく聞き、聞いた後でなぜそう思うのかを聞いてみる。
必要と思えるなら、違う考え方、反対の考えもあることを示す。
人の考えにはいろいろあり、同じとは限らないことを話してみる。

環境により人はそれぞれ違う認識を持つようになるのは、学習する方法、過程、内容が違うからであると考える。
自分で考えるようにするためには、子ども自身に様々な経験をさせることではないか。

昔から「かわいい子には旅をさせよ」ということばがあるが、その意味は「子を愛するのであれば、経験を通して学習させなさい」という意味であると理解できる。日常の生活の中で子供が学習するのを助けることが重要である。

逆に何もさせないなら、子どもは学校の勉強はできるようになっても、本来の学習することの意味を知らず、学ばず、活かせずに育つことになるように思える。
それでも自発的に学習する子はいる。自分で気づき、行動するようになる子もいる。

約束に基づく信頼は社会の基盤の「反省」に以下のことを書いた。

「人の進歩を阻む人間が身近にいる。最悪なケースの一つは親がそうである場合だ。いつも親の方が正しいと思って、子供の進歩しようとする意志を否定する。子供の考えを理解できず、頭から押さえつけようとする。理解できない親にとって、子は「親不孝者」となる。しかし、子供にとっては「子不幸者の親」である。子供はなぜなのかその理由がわからず、葛藤を経験する。親を乗り切る、乗り越えるまでそれは続く。挫折してしまう、あきらめる場合も多くあるだろう。人間は進歩をめざし前進すべきであるが、現実はそうではない。大半の親は自ら進歩せず、周りの子供の進歩を阻んでいる。」

子供はどのような状況に置かれてもあるべき人間の姿を模索している。それは学習である。
学習する大切な環境とは子供の持つ学習能力に親が気付き、頭から否定せず、よく話を聞き、助けることにある。大人の人間としての模範こそがその環境である。

現実には人間としての模範を見ることは難しい。悪い模範ばかりが目立つ。
それでも学習を通して人間としてあるべき姿に気付く人はいる。



2.教えられていないとはどういう意味か

教えられていないとは、手本と模範を示されていない、又は情報を提供されていない、という意味であると考える。

手本と模範が無い場合もある。情報にも偏ったもの、間違いを含むものもある。
ふさわしい手本と模範がなく、偏った情報、間違った情報しか与えられていないなら、人は学習しても、その情報による学習しかできなかったことを意味する。偏見が作られてきた可能性があるという意味である。

こうして教えられてきたことから、偏った学習をさせられて、価値観に問題が生じていることも考えられる。
学習を通して間違いに気づく人は少数なのかもしれない。
大半の人は間違ったことを教えられてきたことに気付かないかもしれない。
学習させられたことの弊害は想像以上に大きいかもしれない。

人の学習能力の素晴らしいのは、その間違った模範も情報にもかかわらず、その誤りに気付き、間違いを見つけ、自分独自の意識、考えを持てることである。反面教師とはそのような学習能力の一面であると考える。

間違ったことを教えられても、偏った考えをおしえられても、正しく考える学習という調節機能を人間の脳は持っているということである。

ただし人が学習しない場合も多くあると考えられる。学習する習慣がない場合等である。
何を見ても、聞いても、疑問に思うことがなく、気づくことがなく、考えることがない場合は学習機能が低下しているからかもしれない。考える分野によって違った反応を示す場合もあるように思える。

学習しないなら自分の考えだけが正しいことになる。世界が小さいままになる。同じことを繰り返すことワンパターンに疑問を感じない。同じ意見だけに同調する。
人の意見がわからず、自分を主張するようになり、反省することができなくなる。

親からの間違った考えをうのみにして育ってしまうこともあるだろう。
自分から学習しないなら、大人の悪い模範を模倣することになることもあるだろう。

逆に間違った模範から自分の考える意識に偏見を埋め込んでしまう可能性もある。
親や大人に理解の無いことから、自分の考えこそ正しいと密かに思い込むこともあるだろう。
こうなるのは誰の責任なのだろうか。

すでに大人になっている親であれば、改善することはできないのであろうか。
自分の間違いに気づくことができれば、改善することは可能である。
しかし、間違いに気づくことができないのであれば、改善することはなかなか難しい。
難しいことはわからないで済ませてしまう可能性がある。
それで通る世の中である場合もある。他人が悪いで済ませてしまう場合である。

一般大衆は学習することを忘れているのではないか、学習機能が麻痺しているかもしれない。
様々な理由があると考えられる。

生れた時からの環境は学習に影響を与える重要な要素であることは間違いない。

義務教育の中で教えること(情報の提供)に偏りがあり、重要な情報の提供がされてこなかったことも理由にあるだろう。
最近では利益追求で開発されたゲームによる学習能力の低下が考えられる。

人間とは何か。生きる目的は何か。社会とは何か。ルール(法律)はなぜ守る必要があるのか。
人生とは何か。どう生きるべきか。人類とはなにか。人類の目標は何か。
答がわからないものもある。
しかし、大切なことは人間にわかっていないという事実はたくさんあることを教えることである。
わかっていないという事実を謙虚に認めることが学習することの基本である。

子供達が大人の謙虚な模範と健全な情報が与えられ、自ら学習し、判断し、何が重要かを学び続けるなら、今とは違う人間としてよりふさわしい新しい世界を作ることが可能になると考える。


3.学習において大切なこと
   ・ 正しく導くための環境作り; 指導と教育
   ・ 教えること; 良い模範、適切な情報の提供
 
これについては、シリーズ No. 4 「人間の持つ権利」の中に学習について次の様に書いた。

「義務教育を通してたくさんのことを教えられてきたが、人間としてあるべき重要なことが欠けているように思える。幼少のころから肝心な教育がなされていないのではないか。
人としての責任については教えられてきただろうか。
社会に対する責任についてはどうか。
働くとはどういうことか、人のために働くことの意味、働く喜びについてはどうか。
考えることについて教えられただろうか。
人間としての生きることの意味についてはどうか。

子供は自分で学習し、考え、理解する。その学習する機会を与えてきたかが重要である。
教育とは教えることではなく、教育者が手本を示すこと、何を学習する機会とするか、学習するために何を提供するか、学習を指導し、支援するために何ができるかを考え、実行することである。

人間には初めから学習する能力がある。必要なのはお手本である。お手本として必要な情報を提供することは教育である。学習するのを助けることが必要である。

学校の先生がしなければならないのは、ふさわしい手本・模範を示すこと、そして情報を提供することである。子供は皆自分で学習する。
お手本を示せば、子どもたちは自分で学習する。一緒になって学ぶことも学習である。先生に出来ることは、学習することを助けることである。少数で教えることも必要な場合もあるだろう。

動物を教えることから学べるのは、教えても何も学ばないという事実である。
教えるから、学ぶのではない。人間に学習能力があるから学ぶのである。


なぜオレオレ詐欺、振り込み詐欺が横行するのか。

幼少のころから大人の模範と毅然とした態度で学習する機会が与えられるなら、犯罪の少ない社会を作ることは可能であると考える。大切なことを学習する機会が与えられず、大人がみな利益追求を目指しているなら、その影響は必然的に、結果に現れる。
なぜなら、それを子供達は見て学習しているからである。
子供は教えなくても皆学習している。

ルール違反に対して毅然とした考え、態度、大人の模範が必要である。お手本が必要である。
犯罪がなくならないのは、皆がルールに対していい加減な態度でいるからではないか。
自分さえ危害を受けなければいいなどと考えているからではないか。
うそも方便だなどと言うからではないか。
子供は小さいながらに人を見て学習している。手本を見て何が真実なのかを考え、模索している。

嘘をついてはいけないと言っている大人が平気でうそをつき、
約束を守ることは大切だと言っている大人が約束を破る。
盗んではいけないと言っている大人が盗んでいる。
利益中心の社会であるからか、儲けることしか考えない人が多い。
国民の代表である国会議員でさえ会議でヤジを飛ばし、喧嘩腰で言い争う。
本来の話し合うべきことを忘れ、ことばによる暴力、批判ばかりが目立つ。大局を忘れている。見習うべき模範はどこにあるのか。

子供達はそれを見て学習している。
悪い手本から、子供達は影響され、その手本をまねるようになる。
真似する子供を非難することが許されるだろうか。
大人にできることは模範を示すこと、お手本を示すことなのだ。
大人がこの大切な模範を示すことができないでいる。

指導者が感情的になり、脅しに乗って、自分からも脅し、相手を滅ぼしてやるなどと言う世界を見て、人はどこに模範を探せばよいのだろうか。」

子供はテレビの番組、大人の会話、あらゆることから学習している。見るもの、聞くものなど五感から入力されるすべてのことからである。
大人が襟を正さないのに、子どもだけ襟を正せというのは矛盾していないか。

大人も日々学習している。しかし、子どもの時のような学習意欲はなくなったのだろうか。日々の生活で疲れ、新たな学習等の余裕はないのだろうか。大人も模範を必要としている。しかし、その模範は見当たらない。

模範などということばも忘れてしまったからか。模範になろうなどと思っている人はいないからか。
できない理由がどうであれ、大切かつ重要なことは、全ての人は模範になるよう努力しなければならないということである。子供達はそれを見て学習し、真似するからだ。

人間の社会をより住みやすい、気が休まる世界にするためには、子供達にとってお手本となる大人、両親を含め周りに模範となる人がたくさんいることであるように思える。

子供を含むすべての人間は、あらゆることから学習しているという事実を正しく認識することが必要であるように思う。

質問によっては答えが永遠にわからないものもあるかもしれない。 
だからと言って、知っているつもりになってはいけない。
適当に答えてしまってはいけない。
知っているふりしてごまかしてはいけない。

これらのことは、幼少の頃より毅然とした態度で教育されなければならないと考えるが、実際には教えられていないし、大人自身が分かっていないのだから、教えようがない ・ ・ ・  と思うかもしれない。

しかし、そうではない。大人が謙虚になって、大人がわかっていない現実を認め、それを教えれば、子供たちは遠回りをせずに、自分で考え、判断するようになる。よりよく理解することができるようになる。

教育に欠けている人間としてあるべき重要で肝心なこととは、大人の模範、大人が自分も知らないことはたくさんあることを謙虚に認め、それを伝え、模範を示すことである。」



まとめ:

未来を担う子供達が、未来に責任が持てなくて、これからの人類はどうなるのか。
教育を通して子供達の学習能力を高め、知力を向上させる必要がある。
新たな認識を持って過去と現実と未来を見るように助ける必要がある。
未来を担う子供たちは、現人類の行っている結果に責任を持って対処しなければならなくなる。
それは想像を超えた苦難になるのかもしれない。
今までそして今の大人たちが行っている結果に責任を持たなければならない。
未来を担う子供達が責任を持てる大人に成長するよう助けることが必要である。
責任を持てるとは、学習を通して自分で責任を持つことを自覚することである。

まず大人が学習を通して、責任を自覚し、責任を持ち、手本となることが必要である。

将来を担う子供達に必要なことは、大人の模範である。
すべての大人が社会に対する責任を自覚し、未来を維持するために努力をしている姿、謙虚な態度を示すことが必要である。子供達はそれを見て学習しているからである。


マイケル アレフ 2018年6月30日