マイケルアレフのことばの認識は世界を変える

 ことばの認識は世界を変える シリーズ 11
  「教える、教育する、学習する」の意味についての考察

背景について

今回「子供に何を教えるか」というテーマで考えている時に、今まで教えられ、その通りに受け入れ、すでに常識の一部になっていることに、実は重大な誤りがあるのではないかと気付いた。それは教えること、教育についての考え方そのものについてである。「そんな馬鹿なことがあるか。それはあり得ない」と思うだろうか。読んでから判断していただきたい。
ということで、No.11ではテーマを変更し、「教える、教育する、学習する」をテーマにした。

   内容
1. 教える、教育する、の意味について
  動物を教えることから見えてくる、教えることの意味、教育の意味
2.脳と学習能力
3. 教える、教育の意味、定義
4.シリーズの中に書いた「教える、教育」についての修正文 (削除)
5. 教えて依存症(仮の名称)
6. なぜ教育は必要なのか
   結び

追記
2023年 学習について

直線上に配置

1.教える、教育する、の意味について

その重大な間違いについて、わかりやすくするために、次のような仮想実験の例を考えた。

教室で先生が少数の生徒に簡単な英語を教えている。
簡単な単語だ。book ブック(本)、pencil ペンシル(鉛筆)、banana バナナ。
先生はサンプルの本を見せ、これはブック(本)ですと教える。
次に鉛筆を見せ、これはペンシルですと教える。
バナナは絵本から、これがバナナですと教える。
先生は繰り返して教えている。
先生はとても真面目で、誠実で、真剣に一生懸命教えている。

何回も繰り返して教えた。15分ほど経っただろうか、今までの復習を始めた。
本を見せ、これは何かと質問している。
先生はもちろんブックという答えを期待している。
しかし、全く反応がない。全く無視されているように感じる。何もわかっていないようだ。

次に鉛筆を見せ、これは何かと聞いてみる。ペンシルと答えてほしい。
しかし、全く反応がない。生徒は先生を無視している。お互いにいたずらし、ふざけあっている。

次に、今回は絵ではなく隠してあった本物のバナナを見せて、これは何ですかと聞いてみる。
すると、質問する前から、すごい反応である。キャーキャー大騒ぎである。

高等教育を受け、先生の資格を取り、経験を積んだとしても、
このクラスの生徒を教えることができるのだろうか。
教えることに意味があるのだろうか。教えていることになるのだろうか。

ここでの生徒は、これでも躾(しつけ)られたチンパンジーである。
教えることに意味がないとは言えないかもしれないが、先生は教えたのだろうか。
ただ、どれほど努力しても、人間のように簡単な単語さえ覚えることはできない。
ことばを理解できないだけでなく、話すための機能もないように思える。

生徒が犬だったらどうか。猫だったらどうだろうか。他の動物でもやってみるまでもないだろう。
動物にことばを教えることに意味はないとは言えないが、ことばを理解するようにはならない。
それだけの知能がないからである。

動物の場合、しつけ(躾)、訓練はできる。特定の反応をするようにしつけることはできる。
このことは何を意味しているのだろうか。

人間は長い間、この躾(しつけ)を教育と混同して考えてきたのではないか。
人間も動物並みに、躾(しつけ)が大切だと教えられてきた。ここに重大な間違いがあるように思える。人間は動物並みの存在ではないからである。

同じ教室で人間の小学生を対象に実験したら、どういう結果になるだろうか。
小学生であれば、すぐに単語を覚えると思われる。
ことばで表現する能力をすでに持っている。
同じ先生で、同じ教え方でも、動物と人間では結果が違う。
教えること、教える部分は同じである。違いがあるとは思えない。
しかし、なぜ結果が違うのか。
教えられる側の生徒が違う。ただそれだけである。
動物と人間の違いである。ただそれだけである。

教育が教えることだとしても、犬、猫を教育しても人間のように学習することはない。
ここに教育について考え直すヒントがあるように思える。

個人としても長い間、人間に教育が必要だと考えてきたが、教えること、教育の意味を考えたことは特になかった。今回、「子供に何を教えるか」と考える機会があったことから、間違いがあることに気付いた。教える側、教えられる側との関係である。

人間は自ら学ぶ存在であり、「教える」とは本来その学ぼうとすることを助けるという意味でなければならない。教育も、教えることも、今までのように学ばせようとする意味であれば、誤りであるように思える。なぜなら学習は自発的に学ぶことであるからだ。

教育が学習を助けることであると理解できれば、より良い、より正しい認識を持って教育を行うことができるように思える。

教えること、教育の今までの考え方の中に問題があると思える。教育を強育と間違えていないか。学習を勉強と間違えるのに似ている。親から勉強しなさいとよく言われた。子供にも「勉強しなさい」とよく言ったように思う。勉めて強いる勉強には問題がある。学習は自分からするものである。教えるから、学ぶわけではなく、学べるわけでもない。

人間の持つ脳の働きである学習能力、知力を十分にかつ正当に考えることが重要であるのではないか。学習する側の人間にもっと注意を払うことがより大切であるのではないか。そこから教えることの方法がもっと見えてくるのではないか。


2. 脳と学習能力

子供は生まれた時から意識しなくても、自分の脳の働きで、自分のすべてを運用、管理している。
「脳は体をコントロールし、成長を含む様々なホルモンの分泌、呼吸、体温、血圧、食欲、消化機能の維持、管理、心臓の制御、体内時計等、想像を超える働きをし続ける。」
これだけの機能を持つ脳の働きを軽く考えてはいないだろうか。人間の脳は想像以上に恐ろしいほどに優れた働きをして、人間の体を運用、管理している。その脳の機能の一部である学習能力を理解し、適切に導くことが教育であると考えられる。

子供はその脳の働きにより、学習を始める。生まれた時点では、眼は見えていない。見えるまでに時間がかかる。五感は未だ十分に発達していない。見る、聞く、においをかぐ、触る感覚、味わうなど時間を通して五感が発達していく。人間の脳は五感を通して入力される情報の処理を始める。
人間は生まれた時から学習している。脳が五感を通して入力されるあらゆる情報の処理をしている。

人間の学習能力は想像を超えるものがある。その能力を正しく認識することがすべての人にとって非常に重要であるといえる。特に教育に携わる人にとっては重要に思える。


3.教えること、教育の意味、定義

ここで辞書による「教える」ことの説明を参考に見てみよう。

Weblio辞典(三省堂大辞林)によると
教えることについて@〜Bのような説明がある。それぞれの後に個人の考えを書いた。

@ 知識や技芸を伝えて,身につけさせる。教授する。「数学を教える」「ピアノを教える」

伝えることは、情報を提供することである。技芸の場合は手本を見せることである。教えるとは情報の提供と手本を見せることの両方で成り立っている。

身につけさせることは教えることの目標ではあっても、教えること自体ではない。強制的に身につけさせるのは動物に対するしつけである。人間は学習により、自分で学ぶのであり、何か強制されて覚え込まされているわけではない。
動物は教えても全く理解することができない。教えても、教えないのと同じである。ただ同じことの繰り返しにより、同じ動作をするようにしつけることはできる。

「先生が数学を教える」、この場合、先生は何をしているのか。必要な数学の情報を提供している。仮定と理論、なぜそういう結果になるかを説明している。
生徒は教えられていると考えられてきたが、そうではない。生徒は自らの人間の学習能力により、その情報を受け取り、自分で考え、学んでいるのである。

「ピアノを教える」を考えてみると、この時、先生は生徒にピアノの鍵盤を見せ、指をこのようにおいて、押して音を出すと指導している。この場合も先生は自らの手本により、情報を提供することで、生徒が学習するのを助けている。ピアノの練習は個人の学習の一環である。

長い間、人は学問や経験等を教えられると教育されてきたが、動物の例で分かるように、教えること自体は教えていることにならない。教えても意味がない。教えられていない。
学習することができる人間であるから、教育に意味があるのである。つまり、「教える」とは手本を見せること、情報を提供すること。「教育」とは学習を助けることで、難しいと思われる部分をわかりやすく指導すること、楽しく学習するよう手助けすること、理解しやすいように助けることなどのことであると考えられる。

学習とは自分から学ぶことである。人間は生まれた時からそのように機能するように造られている。必要な環境、目標、教材、手段等があれば、先生が教えなくても、人間は自分で学習することができる。

ラジオの講座を利用して学習することもできる。NHKの語学講座で英語などのことばの学習をすることができる。大変有益な講座である。活用次第で大いに役に立つ。
ラジオからは音による情報が流れている。
ラジオからの講座は、動物には音としては捉えることができると考えられるが、情報としては捉えることができない。知力が無いために、ことばの意味がわからず、情報の意味はない。
人間の知力が学習させるのである。
ラジオが何かを教えるわけではない。ラジオは何も教えていない。

学習にはインターネット、パソコンを利用して学ぶことも非常に効果がある。
本を読むことで学習することができる。
子供はおもちゃで遊ぶこと、友達と遊ぶことなど、全てを通して学習している。

人がおもしろく、楽しく、学習しやすいように、考え、支援することは教育である。
子供には何かを教えるのではなく、持っている学習する能力を十分に活用できるように指導することが教育である。

「教える」とは手本を見せること、情報を提供することと定義できるように思える。しかし、生徒が犬や猫だったら、情報提供も手本も全く意味をなさない。つまり、教えることはできない。明らかに教えるということの意味は学習させることではない。

先生は、生徒を「教えているのではない、学習させているのではない」ことに気づいていただけただろうか。先生にできることは手本を示し、情報を提供することである。それは教えていることではない。生徒はそれを通して学習しているのである。

今まで教えると考えてきたことは、実際には手本を示し、情報を提供することである。受ける側に学習能力があり、理解するから学び、成長するのである。教えることは学習させることではない。

入力された情報を受け取り、蓄積し、意味を考え、理解し、応用し、発展させるのは人間の脳の働きであり、学習することで成り立っている。それは人間の持つ知能のことである。

コンピューターにデータを入力することに意味があるのは、コンピューターがそのデータを目的に従って処理し、活用する能力があるからである。その能力がなければ、入力しても意味はない。データを入力すること自体はコンピューターを教えているのではない。

先生が情報を伝えることは、コンピューターにデータを入力することに相当する。その情報が活用されるかどうかは、受ける側の能力による。情報を伝えること自体は何も教えていることにはならない。ただ情報を伝えただけである。

人間にたいして入力とは情報の提供のことであり、それが教えていることのように思えたのは、学習している側に情報を処理し活用する能力があるからである。ここに大きな誤認があったと考えられる。

人間は教えられるから、覚えているのではない。自ら学習する能力があるからである。
教えられるのが犬や猿だったら、どれほど教えても、人間のように学習することにはならない。教えられる側の知能に依存しているからである。


A 相手のために自分の知っていることを告げる。 「道順を教える」 「秘密を教える」
 
教えることに関するこの例は、情報の提供のことである。


B 生き方・善悪などについて,わからせる。「花を折ってはいけないと教える」「大いに教えられるところがあった」

ここでの説明も基本的な情報の提供のことである。ただ、「わからせる」ということばが使われている。     
相手が納得するように「わからせる」という表現がある。当人が反省するようにすることと意味で使われる。
しかし、教えることにより、人間をわからせることができるのか。
人間に理解する能力があるから、わかるのであり、人が言ったからではないはずだ。
これは情報の提供をしたということと同じではないか。情報により、当人が反省点に気付いたという意味と考えられる。

では、「説得する、わからせる」ということばは、すべて受け取る側の学習能力なのか。ウィキペディアには「説得する」とは、よく話し聞かせて相手に納得させること。「説得して自首させる」「説得にあたる」と書かれている。

この場合でも、説得しても、当人が理解して初めてわかるのであり、その能力がなければわからせることはできない。受け取る側の学習能力によることが分かる。
「教える」の強い意味で表現される「説得する、わからせる」ということばでさえ、当人の学習能力に依存する。
ただし、情報の提供の仕方、方法は様々考えられ、相手の感情に訴えることもできる。この部分は教えるではなく、教育の意味の範囲に入るように思える。

ウィキペディアによると、教育とは、
「他人に対して意図的な働きかけを行うことによって,その人を望ましい方向へ変化させること。広義には,人間形成に作用するすべての精神的影響をいう。その活動が行われる場により,家庭教育・学校教育・社会教育に大別される。 「子供を教育する」 「義務教育」 「教育のある人」

その通りの説明と思うが、肝心なことが欠けているように思える。意図的な働きかけを行うとは何をさしているのか。もし教育が教えることを意味しているとすると、これは間違っていることになる。

すでに書いたが、「教える」とは学習を助けることで、手本を見せ、情報を提供すること。「教育」とは、難しいと思われる部分をわかりやすく指導すること、楽しく学習するよう手助けすること、理解しやすいように助けることなどのことであると考えられる。

教育は教えることではない。動物をどれほど教えても、教育しても学習することはできない。
人間は生まれた時から学習しているのであり、ことばを学び、ことばにより学習し、考え、理解する。人間だけがことばを覚え、ことばにより考え、想像し、創作するようになる。それは人間だけが生まれた時から人間の機能として備えられている脳とその働きである知能があるからである。

教育は上からの目線で、教えること、できる人ができない人を教えることのように考えられてきた。しかし、教育が大切なのは、対象が学習能力を持つ人間であるからである。

教育が何かを教えているわけではないことを理解することは重要である。
今までずっとそう教えられてきたことではあるが、考え方に変更が必要であるように思える。
これは「教える、教育」ということばの新たな定義かもしれない。

教育とは、学習する能力を持つ人間の能力を活用するように助けることである。
教育には、学習の方向付けをすることも含まれる。
何を、どのように手をつけたらよいかがわからに人に、助けを与えることは必要である。
わかなくなった問題にどう考えればよいのかを指導することも必要である。

義務教育で子供が学習するのを助けられていることには大きな意味がある。
教えられているのではなく、学習しているのであるが、何を学習するかを考えるのは教育である。何を、どのように、効果的に、楽しく、わかりやすく、その人に合った方法を考えることは教育である。


4. シリーズの中に書いた「教える、教育」についての修正文を書いたが、削除した。
(2022年8月)

5.教えて依存症 (仮の名称)

生れた時より人間は学習することで成長し続ける。しかし、今まで教えられることによって人間は成長すると考えられてきた。教えられることで学習しているのだと。そう教えられてきた。この教えてもらっているという考え方が、教えて依存症にしてしまう可能性があるように思える。 

本来自分で学習できることを、いつも他人に頼るようになり、誰かに教えてもらわないと、覚えられない、わからないと思うようになってしまうことである。

パソコン、スマホなどはこのことを示す良い例になるかもしれない。
パソコンやスマホは教えられるから覚えられるのではない。自分で学習して習得していくものである。しかし、誰かが教えてくれないと、自分にはできないと思い込んでいる人がいる。
パソコンを使用してわかるのは、間違いを通して、自分で学習するという事実である。

全く知らない人が、指導を必要とするのは理解できる。基本的な情報を提供されれば、それだけ早く学習が進む。指導を受けなければ、より多くの間違いを経験しながら、学習しなければならない。より多くの時間がかかる。
教えて依存症の人には初めから、新しいことを学ぶことに、自分にはできないとの思い込みが生じる。すぐに誰かに教えてもらうことを考える。
指導を受けても、結局は自分で学習し理解し、自分で利用できるようにするしかない。自分にはできないとあきらめてしまう道を選ぶ場合もあると考えられる。

数学を学習しても、問題の解き方を教えてもらう、答えの出し方の説明を教えてもらう。しかし、それは学習ではない。自分で学習しなければ、わかったことにならない。
情報を暗記することは、記憶に残す作業である。大切なことであるが、学習の一面に過ぎない。説明を聞けば、わかった気になることはできる。しかし、同じ問題を自分でやってみると、できない。自分で学習し、理解していないからである。それ故、自分で学習することが、人間の学習のあるべき姿であるように思える。

初めの段階で苦労すればするほど、後で学習することは楽になるように思える。この初期の段階を教えてあげることで困難を通り抜けようとすれば、後々苦労することになる。初めから楽な道を歩ませることは、手を貸し、やり方、答えの出し方などを教えてしまうことで、甘やかすことと同じなのではないか。

教えて依存症は、幼い時から、自分で学習する部分を、親や他の人が代わりにやってしまうことで、自分をできなくすること、学習能力を低下させることだと考えられる。
なんでも人に依存し、教えてもらおうとするようになることは避けなければならない。なぜなら人間の本来の機能、学習する能力を阻害することになるからである。

しかし、そうは言っても、それは基本的な考え方で、様々な人がいることで社会は成り立っているという意味では、大きな問題ではないのかもしれない。


6.なぜ教育(学習を支援する)は必要なのか

人間が狼に育てられたという実例がある。オオカミに育てられるとオオカミになる。
それは育てられたということばが示すように、人間として生まれた子供が何らかの理由により他の動物などに育てられる場合で、オオカミだけではなく熊、豹、猿といった事例が報告されている。
動物に育てられると、人間として外観の体つきは似ていても、脳の働きに障害が生じてしまう。

人間は赤子として生まれた時に、人間としての基本的な機能は備えてはいても、大人となるために成長していく過程がある。幼少の時から人間社会から隔離された状態で動物に育てられると、考える力を持つべき人間に成長することはできない。それは主に人間のことばの学習が阻害されるからであると考えられる。ことばの認識は思考力のことである。人間の特徴である思考力はことばの学習による。誕生〜2歳の頃にことばの学習が始まるように思える。

人間としての機能の一部である脳は、人間であることを、学習することにより、人間となることを示している。学習する機会がなければ、ことばによる思考を持つ人間に成長することはできない。教育により学習を正しく導くことが必要な理由である。学習能力があっても、導くものが人間でなければ、オオカミにさえなってしまう。学習能力を導くものとは人間による教育のことである。

親は、ことばを伝え、繰り返すことで、手本を示し、子どものことばの発育を助けている。子供は物に名前があることを親のことばから学習している。ことばの発音の方法も手本を通し学習している。子供は生まれて以来、自分からすべてを学習している。教えなくても、手本と情報により学習している。

教育が大切なのは、適切な時期に、適切な方向に導くよう、学習することを支援することにある。子供の学習能力がどこまであるかは、子供にもよると思われる。脳に学習能力の限界があるかどうかはわからないが、学習に制限を設ける必要はないように思える。学習には今までにあった「詰め込み教育」のような押さえつける意味はない。学習するとは自主的に自分からすることであるからである。自分の意志で好きなだけ学習する環境を備えることは大切だと考える。

アメリカ人が近くに住んでいて、同じ年齢の子がいて、いっしょに遊んでいると、英語を話すようになる。語学の教科書がなくても、先生がいなくても、適切な環境、教材や、質問に答えくれる人、指導してくれる人、助ける人がいれば、学習することは自然にできる。

それぞれの人が持っている、関心の高さ、勤勉さ、誠実さは学習し、成長するための重要な資質である。

教室で先生が教科書を使って教えていると、誰でもそう思ってきた。本当はそうではなく、生徒の学習を先生が助けているだけなのである。先生は模範と情報提供により助けている。人間に学習能力があるのがその理由である。

先生の教え方にも学習意欲を持たせる、関心を持たせることが関係している。
それは学習を助けることであり、学習意欲を持たせる、関心を持たせることは、教育のことである。学習意欲のない子もいるだろう。教育とはまさに、意欲のない子供にさえ、学習の楽しさを、学ぶ楽しさを気付いてもらうよう助けることである。子供の学習意欲のない理由を知り、改善するよう助けることが教育であると考える。
(学習と教育に遺伝、病気、事故、死などが関係する場合は、単に個人の問題ではなく、人類全体として考える必要があることと考える。)

学習にはどれだけ学んでも、制限はない。好きなだけ学ぶことができる。お手本と情報から学習するという人間の生れた時から持つ能力を最大限に引き出すためには、全ての人が模範的になる必要があるのかもしれない。


結び:

テーマとして考える予定だった 「子供に何を教えるか」は 「子供にとって学習する必要のあることは何か」 と考えるべきであった。教えるとは上からの目線での表現であるように思える。

人間として学習しなければならないことはたくさんあるように思えるが、基本的なことで大切なことを要約すれば意外と少ないのかもしれない。学習する必要があるのは子供だけではない。大人も一生にわたって学習している。しかし、人間として大切な情報を提供されているわけではないように思える。
利益追求の社会、間違って教えられてきた価値観、教えなど、修正すべきことはたくさんあるように思える。
皆がやっているから自分もやるではなく、自分個人の生き方として、人間としてあるべき模範になるよう努めることが、より良い社会に変えていく一歩になるのではないだろうか。

マイケル アレフ 2018年1月 



追記
2023年 学習について

人間には生まれつき学習能力があるが、このことの意味に気付いていない人は多い。
産まれた子が学習しているようには思えないからか?

しかし、産まれた子は学習し始めている。
親から言葉を学び、話すようになる。
子供は親と同じ言葉を話し始める。

教えるから覚えると受け止められてきた。教えるとは情報を与えることである。
確かに教えるから、子供は覚えて、まねし、話すようになる。

人間の子は教えられるから覚えるのか、それとも学習能力があるから覚えるのか?
覚えるためには、両方とも必要である。

ただし、注意が必要である。シリーズ11 「教える、教育する、学習する」の意味の中に書いたように、動物を教えても、動物には学習能力がないため、基本的に覚えることはできない。飴と鞭でしつけることはできる。

さらに指摘する必要のある重要な問題点がある。

人間が産まれてからの学習では、誰が、何を、教えるかということは重要ではあっても、学習自体はそれを基本的に気にしていない。つまり、生まれてから子は誰が、何を教えようとしているかに関係なく、全てを学習している

日本人が日本語を教えるから、子供は日本語を話すようになる。
イギリス人が英語を教えるから、子供は英語を話すようになる。
イスラエルのユダヤ人はヘブライ語を、アラブ人はアラブ語を。アメリカ人は英語を話すようになる。

誰でも当たり前だと思っていることではあるが、産まれた子は誰が、何を教えているかに関係なく、学び、自分の考え、価値観を作っている。

たまたま産まれた親のいる社会環境下で、その言語を学び、価値観を教えられる。
子供はそれを学習し、結果として親と同じような価値観を受け継ぐことになる。

子供の学習能力にとって誰が、何を教えるかに関係なく、誰であっても、何であっても学習するからで、置かれた環境によって成長した時の大人としての持つ価値観が決まってしまう。

ロシアに生まれればロシア語を話し、同じ社会環境から同じ価値観を持つ人間になる。イスラエルに生まれれば、ヘブライ語を話し、ユダヤ人の価値観を持つようになる。これが人間の基本的な姿である。

国が違うだけで、言葉や民俗や宗教が違うだけで、産まれた子はその国や民族と同じような価値観である常識を受け継ぐことになる。

そうなるのは、人間の産まれた子の持つ学習能力が何を教えるかにより、思考と感情である認識が作られるからである。

ロシアとウクライナの戦争もイスラエルとハマスの戦争でも、大人がそれぞれの国の異なる価値観を持つようになるのは、産まれてからその国の人としての常識が教えられるからである。
人間であること、人類であることの意味も、人間としての共通の価値観に基づく生き方も教えられていない。
人類全体が自分の国、民族、宗教、慣習等を教えられていても、人間のあるべき理想については教えられていない。

人類は人間であることの意味と理想を考え、掲げ、それに近づくよう、約束を守り、信頼を築き、協力する人間社会を作るという目標を持つことを必要としている。

それがないと人間は迷える子羊のように、人間であることの意味を知らずに迷い続けることになる。戦争が起きる理由でもある。