マイケルアレフのことばの不思議な世界


若さと誠実さと信じることの問題

正直で、真面目で、誠実で、謙虚に思える人たちがいる。柔和そうに見える人たちがいる。
残念なことに、真面目で、誠実な人であっても、世界を十分に知らず、狭い世界の中にあって、すべてを知り、理解しているつもりになることがある。狭い価値観で、間違いないと決めてしまうことがある。そう信じている誠実で真面目な人たちがいる。

人間の世界に疑問を抱き、生きて行くことに希望を持てず、生きている真実の意味を知りたいと願う人達の多くは、誠実で、真面目な人達である。

しかし、真面目で、誠実であっても、人間には初めから人間としての限界がある。すべての人は手品やマジックに騙される。人間の五感に限界があるからである。だれでも騙される。
人間の中には悪意を持つ人も、犯罪者もいる。当人が良い人に成りきっている場合もある。振り込め詐欺、オレオレ詐欺が横行している。

オウム真理教の信者になった知的レベルの高いと思われる若い人達が犯罪者になってしまった背景には、若さと誠実さと信じることが関係しているように思える。彼らは誠実で真面目で仕事もしっかり、勉強もしっかりやる人たちだったように思える。しかし、誠実で真面目で仕事もしっかりやっていても、間違った教えや考えを持つようになれば、殺人を犯しても、わからくなるということである。完全に自分を見失っていることになる。

どんな人間でも知らないことは限りなくたくさんあるのに、知っているふりをする人、わかっていないのに知った気になっている人がいる。自分が信じていることに間違いはないと確信している人、信仰を持つ人はいる。

知らない現実の一部を見せられた時に、例えば目の前で手をかざすだけで病気が癒されるような場面を見たり、真面目で誠実な人達の集りで奇跡の話を聞いた時などに、驚きと不思議さの入り混じった感情から、それが信仰の対象であるかのように、その人達が信じているのなら間違いがないなどと思ってしまう可能性はある。

手品やマジックは、楽しむ目的のためであれば問題はないかも知れないが、これが信仰に応用されれば、間違ったことを信じることになる。催眠術(集団催眠)、マインドコントロール(洗脳)なども悪用される場合があると考えられる。

信じるが故に間違いを犯し、法律を破り、人を殺してしまうという重罪まで犯すことに進むことはあってはならないし、起きてはならない。しかし、こうしたことは現実に起きてきた。
歴史は、信じることが原因の争い、数え切れないほどの宗教戦争が起き、おびただしい犠牲者が出たことを記録している。これは避けなければならないことである。

そのためには「信じる」ということばの定義をしっかりとしておく必要があると考える。
信じることには重大な間違いが関係することがあると思えるからだ。

「信じる」「信頼する」ということばの新しい定義について

一般の国語辞典によると「信ずるとは物事を本当だと思う。正しいとして疑わない。間違いないものと認め、たよりにする。信頼する。信用する。」等とある。

ことばの定義をはっきりと二つに分けることが必用と考える。

信頼するとは、「本当だと思う、頼りにする、信頼する、信用する」という意味とする。
信ずるとは、「間違いがないこと、疑わない対象として受け入れる」こととする。
こうすると問題点がはっきりする。

信頼するとは、間違いがあり得ることを前提に、人との信頼を築くことであると定義できる。
人の約束を信頼する。人のことばを信頼する。人との契約を信頼する。
人間には間違いがあるので、「信頼する」を使う。

信ずることは、「間違いないこと」として受け入れることで、100%完璧、完全であることであると定義する。「疑わない」ことが求められる。
信じるとは間違いのないものとして受け入れることで、疑ってはいけないことである。
100%間違いのないもの、完璧、完全、絶対な対象に対してと定義する。

今まで信じるということばは一般に気軽に使われてきている。
「友達のことを信じる」「この機械の安全性を信じる」「嘘をついていないと夫を信じる」、
相手を信じる、迷信を信じる、宗教を信じる、本気であると信じる、霊の力を信じる、不思議な力を信じる、自分の考えを正しいと信じる、等。

今述べた定義に従えば、これらの表現は間違っていることが含まれることになる。

「友だちを信じる。」、これは友だちを「信頼する」であるべきである。
なぜなら、友達は間違いも失敗も犯すことがあるからだ。
人間は信じる対象ではなく、間違えがあることを前提に、信頼する対象である。

「この機械の安全性を信じる」、機械は間違いをする可能性がある。人間が造ったものだ。
この機械の安全性を「信頼する」であるべきだ。

「嘘をついていないと夫を信じる」、人間は間違いを犯す存在である。
信じるではなく、夫を「信頼する」であるべきだ。

相手が人間である限り、間違いはある。ゆえに、相手を信頼する、にする。

迷信には間違いがある。迷信は信頼も信じるも適切ではない。
宗教も人間が造ったものである。完璧なものはなく、信じる対象ではない。
霊の力も、不思議な力もあいまいなものである。人間の想像物と考える。
それらは信じる対象ではない。

人間である限り、信じるでなく、「本気であっても」、信頼する、にすべきである。
人間には間違いがあることを前提に、信頼を築くことが重要である。
信頼は約束を守ることである。

信じるという条件に合うものはあるか?

「疑わない」「間違いはない」とすることは「完全、完璧、絶対」という一つの価値観をつくることで、この価値観は他のすべてに優先し、すべてが許されるようになる。
この価値観は知らないうちに人の心を奪い、虜にし、操り、支配するようになる。

信じることにおいて、その内容、対象に間違いがあってはならない理由がここにある。

信仰の対象には間違いがあってはならないのは、信じる行為が人の心を奪い、虜にし、操り、支配するようになり、重罪を犯すことさえ可能にするからである。

この新たな定義により、人間は信頼する対象ではあっても、信じる対象ではないことになる。
人間は間違いを犯すから信じる対象ではない。100%間違いがないことは在り得ないからである。

人間は間違える存在である故、完全ではなく、絶対もない。
しかし、人間には完全ではないからこそ、そこに進歩できる理由がある。
「間違い」を反省し、改善し、進歩することができる。
100%間違いないことは、進歩を否定することと同じなのだ。
完全とは人間の進歩することを否定することであり、人間の持つ自由を否定することでもある。

このように定義をはっきりさせれば、間違った信仰に発展することはなくなる。
信じるとは「間違えのないものとして受け入れること」と定義しているからである。
これは信頼するという意味ではない。

人間の社会のすべては人間が作り上げてきたものであると考えられる。
人類は歴史、文化、文学、科学、宗教、政治、経済、哲学、法律、国家も基本的にそのすべてを作ってきた。

基本的に宗教も信仰も神様も経典も人間が作ったものだと考えられる。人間による想像物である。
人間が作ってきたという意味は、その作ったものすべては間違いがあり得るものであるということである。そこに絶対性はない。崇拝の対象であってはならない。

時間の枠を設ければ、あなたの言ったことを信じることはできる。人の約束でも、作品でも、なんでも信じることはできる。昔、サンマの頭も信心次第だということばがあった。
しかし、枠の無い条件で、100%間違いのないものとして人間を見ることは誤りである。
時間の枠、おかれている社会の枠なども関係するが、枠がなければ成り立たない。
人間には絶対という条件はあり得ないからである。
「人間には間違いはある」と考えることが大切である。

「絶対間違いない。絶対正しい。」など一般に使われているが、これは人間が使う表現としては間違いである。

「今日、あなたは絶対に死なない。」と言うかもしれない。
しかし、全ての人が死ぬ運命にある以上、誰も未来を100%正確に予知することはできない。「今日」という時間枠を設けるから、可能性があるように思えるだけである。

時間枠などの条件を付ければ完璧に見える場合はあっても、「100%間違いがないもの、絶対正しいもの、完璧なもの」は人間が創り出したものの中には存在しない。
この事実をまず知ることが重要だと考える。
この事実は自分で確認しなければならないことである。

そして、ここがスタート地点だと思う。
謙虚になって自分を含め人間すべてが、無限の世界の前には何も知らないに等しい存在であることを認めることが必要であると考える。

人は宗教指導者であってはならない。神を知っているなどと指導できる立場の人間はいない。

人間はみな間違いを犯す。
今評判の良い、信頼している人でも明日は犯罪者になっているかもしれない。
同じようなニュースが毎日の様に報道されている。
人は信頼する対象ではあっても、信じる対象ではない。


信頼するとは、人間に間違いがあることが前提にある。
人はだれでも犯罪者になると言っているのではない。人には誰でもその可能性があるということだ。
間違いを犯す人間であるから、お互い間違いを犯さないよう、信頼を築く必要がある。
信頼は約束の上に成り立っている。信頼は社会の基盤である。信頼なしに社会は成り立たない。

教祖様が間違いを犯すことは無いと信じている信者はたくさんいると思われる。しかしその根拠はない。人間に間違いがないと考えることが間違いである。人間は死ぬ定めにあり、どんな人間でもその定めからは逃れられないという現実は、間違いのない人間、宗教指導者の存在を否定する。人類の歴史はそれを示している。

それでもなお信じている信者は多い。宗教は信じていることに間違いを認めない。
宗教に分裂、分派が生じる理由は完璧である宗教、信仰に進歩はあり得ないからである。
どの宗教も分裂を繰り返すように見える。

より正しいことを求めると、今までの価値観に間違いを見つけ、新しい考えが生まれる。新しい考えは古い価値観にある間違いを明らかにする。宗教は間違いのないものであるはずだが、現実はそうではない。絶対間違えの無い真理はあり得ないので分裂、分派が生まれる。

信じることにおいて重要な質問
 1.何を信じるのか
 2.なぜ信じるのか
 3.信じるとは何なのか

この世界に100%確かなものは存在しないことから、「信じるとは騙されること、騙されるとは信じること、騙すとは信じ込ませること、騙されないとは信じないこと」の意味であるように思える。

人類は信じる対象を必要としているかもしれないが、人間による介入があってはならない、と考える。

無限の神、永遠の神には、ほめたたえられることなど全く無意味なことである。
もしほめたたえられることを願う神であれば、それは明らかに人間並みの存在であり、無限の神、永遠の神ではありえない。
人が何か悪いことをすると罰するという次元の低い神ではない。
無限の神、永遠の神の前では、すべては明らかであり隠すことにも意味がない。
誠実に生きれば恐怖はない。
自分は無に等しい存在であるという認識で、謙虚に生きることができる。
何も恐れることはなくなる。最善を尽くして命を全うできる。それで十分である。

人間や人間の指導者が全く関与しない形で無限の神、永遠の神を信じるなら、問題は生じないと考える。

これは地球上の人間社会だけの話ではない。全宇宙に存在するすべての知的生命に共通する考え方の基本であると考えられる。


マイケル アレフ 2017年9月



修正: シリーズ19で 絶対者という表現を削除した。
全知全能の神という表現は人類が意味も解らずに作ったという意味で、わからない神であったが、人類に間違った理解と印象を与えてきた。全能者、絶対者ということばも同様であるように思える。者という漢字表記が使われているため、人間のように人格があることを連想させる。これらのことばの使用には、注意が必要と思われる。このため絶対者という表現を削除した。 

絶対者という表現は無限の神、永遠の神に置き換えた。もちろん無限も永遠も人類には理解の範囲を超えている。神という表現はわからない存在という意味で、人類の無知を象徴することばであることから、この表現は使うことはできると考えた。(2019年11月)
全宇宙の創造者などの表現も適切ではないと思うようになった。

人間としてわかる範囲の言葉で表現しようとしても限界がある。人間にはわかり得ないことがたくさんある。それをわかったかのようにことばで表現してしまう。全宇宙の創造者という表現は、人間の能力の限界を超えていて、実際には何のことかわからないし、わかっていない。将来もわかり得ないだろう。作る、創るということばは人間としての限界内の表現であり、宇宙を誰が作ったかと考えても答えはない。どうやってできたかを創造者がいるかのように表現することは間違っていると考える。
(2021年1月)

マイケル アレフ