マイケルアレフのことばの認識は世界を変える
ことばの認識は世界を変える シリーズ19 (シリーズ見直しは後半に)
人類に求められている「真実の神」への理解と認識
神ということばには、古代から現代に至るまで、共通する意味があるように思える。神はそれぞれの時代の人類にとって不思議で、理解できない、説明がつかない、わからない存在という意味である。それ故、古代から現代そして未来を含むすべての時代で、「神とは人間の無知を象徴することば、人類の愚かさを示すことば」と表現することもできるように思える。
大自然の恵みに対して神に感謝し、大災害に対しては「神も仏もない」と人は不平を言ってきた。ここで言う神が何を意味しているかは誰も知らず、解らず、考えもせず、数千年もの時間が経過した。昔からの慣例だからと考えずに追従してきた。考えてもわからないと思っているからだろう。人類は昔からの神の本当の姿に目覚めてもよい時期に来ているのではないか。
昔は、わかっているつもりでいても、神はわからない存在であり、それ故、間違っていても、騙されていても気づかない。人類の歴史には、神という言葉を使い、人々のためであるかのように巧に装い、人々にそう思わせ、多くの人を騙してきた事実がある。
それぞれの時代の認識がそれを許したとしても、昔とは認識が大きく違っている現代においても、昔と同じ認識でいることは不自然である。きわめて大切なことであると考え、今回は神の真実の姿、その3、人類に求められている 真実の神への理解と認識 というテーマで以下のように書いてみた。
1.多神教と一神教からの脱却
多神教の神、一神教の神ということばの意味について
2.一神教の全知、全能ということばの意味について
神を一人と数えることができるか
・ 一神教の問題点
・ 一神教の神を永遠の神、無限の神と置き替えることは間違いである。
3.「真実の神」への理解と認識、真実の神とは現実の存在
・ 無神論について
4.真実の神を現時点では無限、永遠、絶対者の神と考える理由
絶対者への認識
その神を認める必要があるのか。
1. 多神教、一神教からの脱却
・多神教の神という言葉の意味について
神に対する考えは時代の流れの中で変化してきた。初めに出てくる神は自然界に見られる不思議で、時に大きな力を持つこともある、わからない存在のことである。人は感謝と恐怖への保護を願う対象として、不思議でわからない存在を神としてきた。
不安な時、心配な時、神に助けを求める。うれしい時、楽しい時、恵まれていることを感じる時、神に感謝する。不思議なことが起きた時、不思議に思う時、神の存在を感じる。人類の歴史の初めから、こうした気持ちを、わからない何かに対して祈ってきた。その対象は神、神様と表現してきた。世界中のどこにおいても、人々はわからない存在を神としてきたように思える。これが多神教の神の背景に思える。
しかし、時代と共に科学が進歩し、発達し、昔不思議で理解できないものを神にしてきたとしても、現代ではその多くが説明できるようになっている。
つい数百年前までは、海も山も川も神様がいるところと考えられた。台風も干ばつも地震も津波も雷も人間の能力を超えているので、わからないから神様、又は神様によると考えられた。しかし、今どき台風を神と思う人がいるだろうか。太陽を神と思う人がいるだろうか。神様と思った理由や背景がわかるようになると、信じてきた神様はわかる存在になり、神様ではなくなってしまう。
わかるようになっても、未だわかっていないような気がしたり、全面否定するには何となく後ろめたさが残ったりすることもある。
今でも自然を神と思う人はいる。時が経ても、昔からの伝統やしきたり、考えを変えない人達はいる。これから先も変わらない人達はいるだろう。しかし、時代の変化と共に人の認識が変わり続けるのも事実であり、変化し続ける現実を受け入れることは必要に思える。昔人々が神様と思ったことは、今は守る必要はなく、その時代の伝統や文化や慣習と同様に、過去のものとすることができるように思える。
基本的に未来はわからないから不安になる。家族の安全を願っても、人は死ぬ定めにある。いつ事故が起きて、病気になって死ぬかわからない。今でも多くの人が初もうでに出かけ家内安全、商売繁昌、厄除開運などの御利益にあずかろうと神に祈る。昔からの慣習である。
気にしている人はいないだろうが、神社の神は古来の伝統に基づく日本の神道の神である。初もうでをする人の中にはキリスト様やマリア様に対して祈っている人がいるかもしれない。なぜ神社でなければならないのかという疑問を持つ人はいないのだろうか。どんな神様でも同じだと思っているのだろうか。そんなことはどうでもいいことと考えないからか。
人々が御利益を様々な神に願っても、人は必ず死ぬ定めからは逃れられない。事故にも遭うし、病気にもなる。地震は起きるし、台風も来る。その度に犠牲者が出る。どれだけ神に祈ってもこうした不幸から解放されることはない。自分と家族だけが安心安全であればよいというわけにはいかない。神様はわからない存在だから、祈った事実も忘れてしまうし、神様にその責任を追及することもできない。
困ったときの神頼みという表現がある。人は困ったときに助けを求める。昔は、身分の差もあり、人が頼りにならないことも、当てにならないことも多かった。人間同士の間でも戦争もたくさんあった。神様なら何でも可能かもしれないと頼りにした。わからない神にすがるしかない時代だったからと思える。しかし、その願いがどちらに転んでも、神様はわからない存在だから、願いが叶うならありがたく思い、叶わなくてもあきらめるしかなかった。人の不幸を利用する人は多くいて、騙された人も多かった。
災害などに対して神に祈ることに意味がないことはわかってきているのではないか。現実に起きる災害などでは、国や地域社会として人間が手を差し伸べる。災害への備え、協力体制、災害後の援助を含め様々な対応を考え実行しているのは人間であり、これが現実である。
人々が神様にお願いしても、自然災害はその願いに関係なく襲ってくる。止めることはできない。人類はその理由さえわかってきている。人類社会の助けこそ現実的で、真実で、確かなものであることに気付くようになってきている。
人間は確かに当てにならない部分、利己的な面は今でもあるが、社会として、人類として成し遂げてきたことは多く、確かな存在であることを実証してきた。人類として協力し合うことができるなら、これほど確かなものはない。
・ 一神教の神という言葉の意味について
多神教の神に対し一神教の神はヘブライ人の族長アブラハムの神のことである。アブラハムはイスラエル人、アラブ人の共通の先祖にあたる。キリスト教の神も、もともとはユダヤ人イエスが信じていたアブラハムの神である。聖書の創世記に初めの人間アダムを創造した神として出てくる。
その神はアダムを創造し、アダムのあばら骨からその妻エバを創った。ノアの洪水を起こしノアの家族を除きその時代の人類を滅亡させた。ソドムとゴモラを火と硫黄の雨で滅ぼした。アブラハム100歳その妻サラ90歳の時に、奇跡により約束の胤の家系になるイサクをさずけた。後のモーセの時代にエジプトで200万人に増えたイスラエル人をエジプトの苦役から開放するために十の災い、紅海を分ける奇跡を行った。
この神は自然界に見られる、時に大きな力を持つ不思議で、わからない神のことではない。わからない部分はあっても、人間アダムの創造者、天地の創造者と自らを明らかにし、神として人類が従うべき存在として出てくる。その神は偶像崇拝と他の神々への崇拝を禁じ、至上の権威を持つ唯一の存在であり、ただ一人の神である。恵み深い面はあっても、不忠実に対しては恐怖となる存在である。強力な神であり、時の経過と共に偉大な神、至高の神、主権者なる神、全能の神、全知全能の神ということばが使われるようになった。
人類が未だ知識や科学技術において未熟である時はその神は偉大な存在、全知全能に思えた。しかし、その神と現人類を比べると、今では現人類の方が偉大にさえ思えてくる。
ソドムとゴモラは火と硫黄で焼き尽くされたと表現されているが、現人類は原爆を使用し一瞬にしておよそ14万人を殺害し、都市を廃墟に化した。現人類は一日に20万人、一年に7000万人の人口の増加に耐える食料生産能力を持っている。人類はノアの洪水どころか、地球の表面すべてを破壊するほどの核兵器を持っている。神はアダムの創造者として出てくるが、現人類はアダムに相当する新たな生命体を造ることさえできる。
これは創世記に出てくる天地の創造者について、その神が全知全能の神ではないことをはっきりと示している。
創世記の記録とその内容に基づき「神の真実の姿Part 1」を書いた。その中で、
「神は自らが創造した人間アダムが罪を犯すことを知らなかったのか。予知することができなかったのか。神の正義を信じる人は「神があえて予知しなかった」などと言う。しかし、それでは神の絶対性を否定することと同じだ。ここで表現されている神は知らなかったし、予知しなかった、また予知できなかった。これは当時の神が全知全能ではないことを明らかに示している。
天地の創造者が全能の神であったなら、アダムが罪を犯すことはなかった。罪を創ったのは天地の創造者のせいである。罪を作ったという意味は、善悪を知る木の実を食べてはいけないという命令のことである。こんな命令を与えたから、アダムは罪を犯したことになった。食べてはいけないという命令を与えなければ、罪はなかったのである。当然別の方法も考えることができたはずである。」と。
創世記の初めの記録にさえ、神は全能とは全く違う存在であることが書かれている。
神の真実の姿の続編「イエスはなぜそう教えたのか」の中で、「人類は数千年という長い期間にわたり、天地の創造者なる神に対して、自らが間違った理解とイメージを作りあげ、大切に持ち続けてきた。しかし、そうなったのは人類だけのせいではない。天地の創造者に騙されてきた、あざむかれてきたとも言える。」と書いた。
人類は一人の神を「全知全能」と表現し、信じてきたが、その言葉の意味を考えてみると神の真実の姿を理解する上で助けになるように思える。
2.一神教の全知、全能ということばの意味について
・人間に全知の意味がわかるだろうか
神は何でも知っているという意味で使っているが、全てを知っているとはどういうことか。知らないことはないとは何を意味するのか。
新しいという表現がある。今までなかったもの、新しくできたものという意味である。人間には新しいものがたくさん存在する。新しいことをたくさん学ぶ、経験する。
何でも知っているなら、新しいことは存在しないことになる。学ぶこともないことになる。学習能力は必要ないことになる。
全知の神に新しいことはない。学習することはできない。反省することもない。すべてを知っているからであり、知らないことはないからである。
人類は数千年という時間をかけて様々な分野で進歩してきた。火星にまで行こうとする時代である。新たな発明により人類の生活は便利になった。スマホで全世界の人達と話ができる。世界のニュースを見ることができる。わからないことは何でも検索して探すことができる。こうした進歩は人類の努力の結果である。しかし、何でも知っている神は、これらのことすべてを知っていたことになる。その神にとって新しいことは何もないからだ。
何でも知っているとは人類の1000年先、1億年先の未来も知っていることになる。何でも知っていることが意味することは、「神にとってすべては過去である」という意味である。人類を含むすべての生命体にとって未来はすでに決まっていることになる。
神がすべてを知っているとは、人間の持つ苦しみも、悲しみも、虚しさ、辛さも知っている、また喜びも悲しみも、何でも知っているという意味である。それにもかかわらず、神には新しいことはない。すべては過去であるからだ。
何でも知っているなら、新たな行動を起こすことはできない。結果を知っているからだ。新たな行動は過去を変えることになる。それでは、神は過去を知らないことになる。
人類に新たな助けを与えるなら、それは人類にとって新しい、大きな変化となるが、助けを与える神にとっては、結果を知っているのであるから、過去を変えることになる。過去をすべて知っているのであるから、新たな変化は神が何でも知っていることに反し、自己否定になる。
人が新たな助けを得る時、守られる時、神に感謝しても、神は何もしていないことになる。
結果を知っているなら、手を差し伸べることはできない。結果を変えることになるからだ。結果が変わるなら、過去を知らなかったことになる。つまり、全てが過去であることを知る存在である神なら、何も行動することはできない。
これが「何でも知っている」ことの意味であると思われる。
神が何でも知っていると考えることは矛盾を生み出す。矛盾が生じるのは、その考えを人間が作り出したからと考えられる。
・人間に全能の意味がわかるだろうか
何でもできるとはどういう意味か。できないことはないという意味か。
何でもできるなら、自分と同じ存在を創ることができるのだろうか。同じ神を創れるか。たくさん作ることができるか。全能の神がたくさんいたらおかしくないか。
全能の神であれば人類さえ滅ぼすことができる。無限に広がる全宇宙を一瞬にして無くすことができる。そうできないなら全能ではないことになる。
人間にはできるという意味と、実際にできるかは別である。意思が関係するからだ。
同胞のために生きている人間なら、人に害を加えることはできない。
何かを行うためには意思が必要である。神に人間のように意思はあるのか。人格はあるのかという質問が生じる。
神に人格があったら、人間並みになってしまう。神格があったとしても人間には理解不能である。
神が人類に介入すると、神には意思があったことになる。それは何でもできるのではなく、何かを選んで、決定して、行動したことになる。神は何でもできるわけではないという意味になる。神は人間並みの行動をしたことになる。人間並みの行動は、全能ではないことの証明である。
全能の神が人類に介入していないという意味は、介入すれば全能の神のすべてを否定することになるからである。
全能の神に意思があるなら行動はできても、何でもできるというようにはいかなくなる。全能の神に意思がないなら行動することはできない。すると、何でもできることと矛盾する。
「イエスはなぜそう教えたのか」の中で、アダムの創造に関連して「全能の神であれば、このような間違いを初めからすることはない。また、人間を含む知的生命体の社会に介入することも考えられない。アダムの創造に全知全能の神、無限の神、絶対者の関与はあり得ない。」と書いた理由はここにある。
わかりやすく言うなら「全知全能」という言葉は、人間にとって「実質的に何もできない」という意味と同じである。
全知全能という言葉は神という言葉と同じように、人間の無知を象徴することばであるように思える。数千年にわたり人々を導く立場の宗教指導者が、自らもわからずに使っていても、人々を脅すため、騙すためにそのことばをうまく利用してきたからではないかという疑問が生じる。
全知全能という言葉で表される神を人間が知り、理解することは永遠に不可能なことのように思える。
・ 全知全能の神を一人と数えることができるか
一人の神という表現には誤りがあるのではないか。
わからない神を一人と数えるのは、神を人間と同じように考えるからである。
神に人格があると思うのは、神を人間並みの存在と考えたからである。
神は一人という考え自体が、人間の思考の枠を超えていない。
人間の思考の範囲に収まる神であれば、人間並みの神ということになる。
神の存在が人間と同じであれば、一人、二人と数えることができる。それは同じであるという前提があるからで、その前提は間違いである。人間の勝手な思い込みに過ぎない。
人間の思考の枠に収まるようでは、神は小さな存在になってしまう。
我々の属する銀河でさえ理解することが難しいのに、2兆もある銀河を持つ宇宙のことを人間が考えてもわかりようがない気もする。
宇宙を創造した存在があるとすれば、宇宙という空間の外から、又は無から創ったのだろうか。宇宙が無限に拡がっているなら、その外はあり得るのだろうか。永遠に続く空間に外も内もあるかさえわからない。人間に考えられなくても、無限に広がる宇宙がたくさんあってもおかしくはない。空間という広がりは無くても、無に宇宙があるのかもしれない。無とは創造者が存在する場所ということになるのだろうか。
矛盾に思うのは、人間の思考に限界があるためで、矛盾があるからではない。
矛盾ではなくても、人間にはそう思えるからである。
ことばは情報である。情報とはあらゆる方向に無限に広がりを持つように思える。ことばは無限の広がりを意味している。それが何を意味しているは人間には十分にはわからない。わかるのはほんの一部だけである。全知全能という言葉は人間の思考を超えた表現であるように思える。
・ 一神教の問題点
排他性のことである。自分たちの神様を絶対の神と考えることが排他性を生みだす。
古代ローマが共和制から帝政に移行した頃、ローマは多神教の世界であり、30万もの神様がいたとされる。たくさんの神々の像がいたるところに飾られていた。古代ローマの円形闘技場コロッセウムのたくさんの窓には神々の像が置かれていた。
キリスト教が国教になると、神々の像は破壊の対象にされた、キリスト教以外の神々は認められないからである。現在残っているものは数少ない。これが一神教の問題である。自分たちが正しいと、排他的になる。自分たち以外の信仰は邪教になり、認めることができない。よって破壊の対象になる。これが原因でたくさんの宗教戦争が起きた。
キリスト教は偶像を認めないはずだが、キリストの像や聖母マリア像などたくさんの偶像が造られている。自分たちの価値観で、本来許されない偶像でさえ偶像ではなくなるからだ。
・一神教の神を永遠の神、無限の神に置き替えることの間違い
一神教のユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神を現代の理解に基づく永遠の神、無限の神、絶対者の神と置き替えることは間違いである。アブラハムの神、天地の創造者は全能の神とは全く異なる存在であり、有限の存在である。その神を人々が気付かない内に、知らない内に、現代の最先端の考えに基づく無限の神に置き換えることは、人々を騙すことに当たる。この間違いは許されるべきではない。
神の真実の姿 Part 1に天地の創造者、人間アダムの創造者である神とは、人類の先祖と考えられること、現人類が持つ科学技術に相当するほどの力を持つ知的生命体であると書いた。それが意味することは、天地の創造者として表現されている神は決して全能者、全能の神ではないことである。
3.「現実の神」への理解と認識、現実の神とは真実の神の意味である
現実の神とは、多神教の神でも一神教の神でもない。科学が進歩している現代においても今もなお、人類にとって不思議で、理解できない、説明がつかない、わからない存在のことである。それは、古代から現代そして未来を含むすべての時代で、「神」という言葉が「人間の無知を象徴する」と書いた通りである。
今までの神という表現では誤解を招きやすいので、区別するために、ここでは無限の神、永遠の神、絶対者なる神という表現を使っている。その神が何であるかがわかっているわけではない。人間は無限の存在、永遠の存在、絶対者なる神の存在を理解することはできないからだ。しかし、現実の存在であることを知ることはできる。
無限の広がりを見せる宇宙は現実にある。極微の世界である素粒子の世界も現実にある。人間を含む生命体の存在、遺伝子工学から見た世界も現実にある。なぜ生命が存在するのかは今もわからない。すべての存在理由は分かっていないが、現実に存在している。
永遠の存在、無限の存在、絶対者としての神の理解は変わらないのは、わからないからであり、理解ができないからである。それ故、その理解は今後も永遠に変わりようがないようにも思える。これが現実の神、真実の神という意味である。
五感を通して人間は現実にある世界を認識している。五感には初めから限界があるため、補足することにより、より大きな世界を、小さな世界を認識できるようになった。自然界にはその背後に知恵が見られる。自然界を研究することにより数学や物理学が生れ、科学技術に応用され人類は進歩してきた。火星にまで行こうという時代である。それは現実にある。
自然界に見られる英知のすばらしさに人類は驚きと不思議さと偉大さを見る。それ故、現代になって神は無限であり、永遠であると考えられるようになった。その神は多神教の神々ではなく、一神教の神でもない。人類は数千年も前からの一神教の神に当てはめようと、人々が気付かないように全知全能の神と考えを置き替えてきた。しかし、真実は明らかであり変えようはない。
人類は一神教の神、アブラハムの神、アダムの創造者、を正義、愛、知恵を持つ存在と数千年にわたり信じてきた。しかし、その神は有限の神であり、現人類とそう変わらない存在である。神に愛や正義を願うのは人間の気持ちとしては理解できるが、無限の神、永遠の神、絶対者なる神は人間の理解を超える存在である。つまり人間が感情的になって神を人間並みの存在とすることは間違いである。
「真実の神」とはわからない存在であるが、人間を含むあらゆるものの存在理由を与えるものであると考えられる。存在があるのは、わからなくても、わからない存在があったという前提が必要であるからだ。
わからないから神であり、わかるようになってしまえば神ではなくなる。
神という言葉を使う限り、人間は無限に対して無知であることを示し続けることになる。
人間が神という表現を使わなくなる時が来るかもしれない。それは、無限、永遠の意味がわかる時のように思える。
・無神論について
無神論という言葉が使われていた時、神とは何を指していたのか。
多神教の神は人間の無知による創作であり、一神教の神は人間の無知により理解できなかった知的生命体のことである。神の存在をすべて否定するとしても、今では神ではないと理解できるが、その時代においては、神の存在を否定するには早すぎたように思える。
現在わからない現実の神として無限、永遠、絶対者の存在をあげたが、その存在は否定することは人間にはできない。その意味で、すべての神を否定する無神論を受け入れることはできない。
神の存在すべてを否定することは、あらゆる存在を否定することと同じである。存在があるのは、わからなくても、わからない存在があったという前提が必要であるからだ。その意味で無神論は正当性がないと考える。
4.真実の神を現時点では無限の神、永遠の神、絶対者の神と考える理由、
その存在だけを肯定する理由 (絶対者への認識より)
神という存在に意思があるかどうかはわからない。永久にわからないだろう。
必要とするなら、絶対者を神として、人類が祈り、願い、導きを求め、答えを求める対象と考える。
根拠は絶対者以外に神は無いからである。それ以外の神は存在と意味がわかってしまう。
・ その神を認める必要があるのか。
絶対者に人間のように知性があるかなどという問いは馬鹿げている。善悪等という人間レベルの話の対象のことではない。無限に広がる宇宙、それができる前、物質と素粒子の世界が存在する前、あらゆる生命が存在する前に関する問いでもある。
考えられる絶対者とはあらゆる生命体を超越した存在であり、生命体という表現さえ適切ではない。人間の思考の枠の中に納まる存在ではない。
無限と有限の差は絶えず無限大である。人間がどれほど進歩しても、その差を縮めることはできない。無限の神は永久にわかり得ない、理解できない、人間の知性を超越した存在である。
絶対者を受け入れるかどうかという質問自体、馬鹿げていて、意味はないだろう。なぜなら無限は現実であり、人間に影響されることはないからだ。
宇宙の存在、素粒子等の世界の存在に対して、人間はそこに見られる秩序とその背後にある知性を認めることができる、そして美しさを感じることさえできる。
それは人間が無限の存在に対して、限りなく無いに等しい存在であるにもかかわらず、無限の一部を認識できるという自己満足に過ぎないのかもしれない。
・ わかりようのない存在を無限の神、永遠の神、絶対者なる神としてなぜ認めるのか。
確かに答えはないが、自然界に知性を認めることができる以上、人間が生きて行くための存在理由を追求し続けるためと考えることはできる。
ことばの定義(信じる)の中に、信じることには100%間違いがあってはならない。完全、完璧でなければならないと書いた。信仰の対象には間違いがあってはならないのは、信じる行為が人の心を奪い、虜にし、操り、支配するようになり、重罪を犯すことさえ可能にするからである。
それ故、人間による誤導を断ち切るため、人間による介入があってはならない。
永遠にわからない存在を認めることは人間だけではなくあらゆる生命体の存在理由を認めるためであると考える。
答はないからである。人類にとってそれが必要と考えられるからである。人間の考えで作り上げた神様では人間によって利用される。絶対者の存在は人類の手の届かないところに置いておくべきと考える。もちろんそれは人間の勝手であり、絶対者にとって全く関係のないこと、意味のないことである。
「答えが無いのは、個人も人類としても、自分で自分の歩む道を決めることができるようにするためかもしれない。もし生きるべき道が決まっていたなら、それから制限を受けることになる。
実は答えがないことが自由を与えているという側面を持たせている。
人間という枠を現時点では超えることはできないが、未来においては、個人として、人類としても、どのような生き方も可能であることを意味しているのかもしれない。」
無限の神、永遠の神、絶対者なる神の前では、人間はいつまでも間違える存在であり、完全ではなく、絶対もない。しかし、人間は完全ではないからこそ、そこに進歩できる理由があり、人間はいつまでも自由でいられる。答えがないことが自由を与えている。
永久にわかり得ない、理解できない、人間を含む知的生命体すべてを超越した存在があることを認識するだけですべての存在の理由、その答えを得ることができる。自己満足に思えるとしても、答えは永久にわかり得ないのであるから、それで十分であるように思える。
2019年3月 マイケル アレフ
2021年10月 シリーズの見直した結果について
人類の無知を象徴する神から、人類の知力を象徴する神へ
「神」とは人類の無知を象徴することばであると書き、その理由については説明してきた。人類の知力を象徴する「神」に変えることはできないのだろうか?
文明の歴史はその初めから、人間がわからない存在に対して感謝と恐怖を抱いてきたことを示している。そのわからない理由は、およそ6000年をかけ、人類の知力と探究により、わかるようになった。その多くは自然界に見られる不思議に思える存在や現象だった。太陽、雨、嵐、地震、津波、気象現象それに力ある生命のライオンやワニそして人間の存在などである。
背景がわかってきても、人類は何かに対して感謝の気持ち、恐怖からの救いを求めている。人類の大多数は今もなお昔からの神を信じている。理由がわかっても、変えることができず、大昔からの慣習をひきずっている。
人類はわからないという思い込みから解放され、真実を知り、新たな認識を持つことが必要である。人間が造った偶像や見える神々のことではない。太陽系や銀河の存在を知らない時代に信じていた見えない神のことでもない。
人類は、必要であるなら、現代の文明にふさわしい神を持つべきと考える。それは神ということばが無知の象徴である面は変えようがないが、人類に知力があることの象徴として現実、真実として受け入れられるものがある。今もなお全くわからない存在のことであるが、人間の介入による誤りを作ることなく、争いの原因にならない存在である。
無限とは有限の存在である人間からは、わからない存在である、永遠の問いである。数には濃度の違う無限がある。二兆を越える銀河を含む宇宙も無限である。その宇宙はたくさんあっても無限である。素粒子の世界も無限の世界に思える。多次元の世界もそうかもしれない。命、遺伝子の意味もわからない。宇宙を含む全てがことばという無限の情報のシステムのようなものかもしれない。
これらの存在全ては宇宙が始まったとされるビッグバン以降に作られ知られるようになった。正しいかどうかは、わかりようがないことだが、それ以前、人間の思考では考えられない何か、存在と言えるかどうかもわからない、があったとすることはできるのではないか。人間は無知の一面からは逃れられない。人間に限界があるからである。その存在を現代の神とすることはできるように思える。人間の思考を超越した神である。
人類が神を必要としているなら、全てが始まる前、宇宙が始まる前の存在を、今という時代にあったふさわしい神として、人類の未来への導きを願い、祈り、感謝することができるように思える。
人類が間違った神、誤った教えを信じたために、間違った価値観から互いに戦争をし、大勢がその犠牲になってきた。こうした価値観を避けるために、人類は自分達の知力で作り出した神を信じることが望ましいと考える。それは、全ての存在が始まる前、宇宙ができる前の存在を神とすることである。
これにより現代にふさわしい、わからない、わかりようのない神ができる。
人類は、今までに数えきれないほどの目に見える神々、大自然の見えない神などを信じてきた。死者を神としても祭ってきた。わからないので、自分達で作った神である。それ故、長い人類の歴史の中で神とは無知の象徴であった。それは同時に、愚かさの象徴でもあった。しかし、宇宙が存在するようになる前の神は、もはや人類の無知の象徴ではなく、愚かさの象徴でもない。人類の知力の象徴となり得る存在として受け入れることができるように思える。今までの無知の象徴としての神ということばを使わずに、新たな神に代わる名称を使うこともできるかもしれない。
人類は昔からの思い込みによる無知なる行動を止め、知力に基づく誠意ある行動が取れるようになるかもしれない。新たな価値観になり得ると考える。
以下は 神の真実の姿に至るまでの過程について書いたものである。
1. 聖書の神の真実の姿
2. 真実を求めて イエスはなぜそう教えたのか
3. 人類に求められている 真実の神への理解と認識