マイケルアレフのことばの認識は世界を変える


   ことばの認識は世界を変える シリーズ17 
   神の真実の姿 続編 イエスはなぜそう教えたのか


内容
1. 約束の胤(たね、子孫)に関する記録
1‐1.アダムの創造に関する神の責任とは何か
1‐2 人間アダムの創造は現人類に対する警告
1‐3 間違えることは許されないのか

2. イエスの存在
2‐1 なぜイエスは過去と矛盾する内容に思えることを広め始めたのか
2‐2 正義の神は、愛の神に変わったのか

3. 現代から見た当時の認識とイエスの教えの問題点について
3‐1 天国、神の王国
3‐2 サタン、悪魔、悪霊、そして神の存在について
3‐3 病気の原因
3‐4 信仰と永遠の命

4. マタイによる福音書にあるイエスのことばを現代の認識から考える
 その1
 ・敵を愛しなさい。
 ・邪悪な者の上にも、善良な人の上にも自分の太陽を昇らせ・・・完全でありなさい。
その2
 ・何を食べるか飲むか、何を着るかで思い煩うのを止めなさい。天の鳥を良く観察しなさい。
 ・衣服のことでなぜ思い煩っているのですか。野のユリから・・・教訓を得なさい。
その3
 ・地上に宝を蓄えるのをやめなさい。天に宝を蓄えなさい。
その4
 ・人を裁いてはいけない。自分がさばかれないためである。
その5
 ・神聖なものを犬に与えてはならない。真珠を豚の前に投げてはならない。

5. 時代の認識の違いから見えてくることの意味



前書き:

聖書(旧約)の創世記の記録から、そこに書かれている天地の創造者について「神の真実の姿」 Part 1 を書いた。その記録からわかること、そして想定される帰結は、天地の創造者が高度な技術力を持つ知的生命体であり、人間の先祖の可能性があると考えられること。最初の人間アダムは遺伝子操作により造られたのではないかと。(詳しくは Part 1 を参照)

天地の創造者に予知能力はなかった。考えも足りず、計画も十分練られてはいなかった。予想も甘かった。人間を創造し、アダムに対して善悪の木の実を食べてはならないという命令を与えたことである。人間アダムはその命令を守れず、忠誠心を示すことができなかった。

この重大な失敗を犯してしまった天地の創造者(知的生命体)は失敗を補う新たな計画を提示した。
初めの計画で失敗した天地の創造者が、再び失敗する可能性は大きいと考えられる。
その初めの失敗を補うための新たな計画とは蛇(背後にいた敵対者)に対することばに示された。
「お前と女の間、その胤(たね)との間に敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕くであろう」と。しかし、これが具体的に何を意味するのかは分からなかった。胤とは子、子孫、よつぎの意味である。


1. 約束の胤(子孫)に関する記録
アダムに関する記録が書かれてからおよそ4000年が経った頃、ユダヤの地にユダヤ人としてイエスは生まれた。そして彼は創世記に記録され、約束された胤として多くの人に受け入れられた。

イエスは数千年も続いてきた先祖代々の宗教の下で、天地の創造者であるアブラハム、イサク、ヤコブの神を信じ、旧約聖書のことばを信じ、モーセの律法の教えに従い、伝統を重んじ、30歳になるまでは父ヨセフの下で大工として働いていた。

ユダヤ人とはイスラエルという名を与えられたヤコブの12人の子の一人ユダの子孫である。かつては12人の息子から12部族となり、イスラエル国家(王国)を作り、ダビデ王、栄華をきわめたとされるソロモン王がいた時代もあった。イエスはその血を引く家系に生まれている。

マタイによる福音書の初めにアブラハムからの家系が書かれている。アブラハムに約束されたことがその子孫に確かに起きたことを示すためである。その約束とは繰り返し語られてきたものである。
人間アダムが神の命令を守れず、善悪の木の実を食べてしまった時、蛇に対して語られた胤という表現が何度となくその歴史の中で繰り返されてきた。

アブラハムの時には創世記21:12 あなたの胤と呼ばれる者はイサクを通してくる。
創世記22:17,18 あなたの胤はその敵の門を手に入れるであろう。あなたの胤によって地のすべての国の民は必ず自らを祝福するであろう。
この胤に関することは広範囲に知れ渡っていた。
イサクの妻となるリベカに対する祝福の言葉にも表れている。創世記24:59‐61 
「私たちの妹よ、あなたは幾千万にもふえるように。あなたの胤は敵の門を勝ち取るように。」

その胤はアブラハムの子孫から生まれることになっていた。それからイサク、そしてヤコブの子孫から出てくる者として語られ、長い時を経て西暦一世紀になるころ、ユダヤ人はメシヤとしてその到来を待ち望むようになっていた。

メシヤとは油注がれた者という意味で、神から任命されたことを意味した。ダビデは王になるべく預言者サムエルにより油注がれてメシヤとなった。メシヤはヘブライ語、ギリシャ語ではキリストである。

創世記で語られた胤がアブラハムから出て、大きな国民になるという約束はすでに実現していた。約束は守られていた。しかし、アダムの時の失敗に対する知的生命体の責任を十分に補い、説明する内容ではなかった。


1‐1 アダムの創造に関する神の責任とは何か。

それは神が「人間アダムを創り、善悪の木の実を食べてはならないという命令を与えた」ことである。その失敗の責任を人間に負わせ、命の実を食べられないようにエデンの園から追い出したことである。

天地の創造者は時代を経て全能の神と考えられるようになったが、創世記に書かれている天地の創造者は全能とは程遠い存在であり、知的生命体として現人類より部分的に優れた技術力を持ってはいても、有限の力しか持ち合わせていなかった。創造者は永遠の生命体でもなかった。道徳的には現人類と同じ程度であった。
人類は数千年という長い期間にわたり、天地の創造者なる神に対して、自らが間違った理解とイメージを作りあげ、大切に持ち続けてきた。しかし、そうなったのは人類だけのせいではない。天地の創造者に騙されてきた、あざむかれてきたとも言える。

その失敗の責任を人間に負わせた知的生命体はどうしたらその責任を取ることができるのだろうか。

造ってしまった人間を元に戻すことはできない。全能の神であれば時間を戻すことも可能で、全ては無かったことにすることもできる。しかし、全能の神であれば、このような間違いを初めからすることはない。また、人間を含む知的生命体の社会に介入することも考えられない。アダムの創造に全知全能の神、無限の神、絶対者の関与はあり得ない。

言いつけを守らなかったとは言え、人間アダムは責任を取らされ、汗してパンを食べ、苦悩の人生を送り元の土に帰った。930歳でこの世を去った。この時点では天国も地獄も出てこない。土から造られ、土に帰ったのである。その子孫は同じ兄弟でもねたみや憎しみを抱き、殺人を犯し、悲しみと絶望も経験することになった。人類すべてが死の定めに置かれた。

これは人間アダムの責任か。もちろんそうではない。こうなった責任は人間を造った側にある。

では天地の創造者と呼ばれた知的生命体は人間を造らなければよかったのか。人類は生まれない方がよかったのか。
簡単には答えられない。どちらがよいかという問題ではないからだ。

失敗だらけ、間違いだらけ、悲しみと苦しみに満ちた人生であっても、人間は間違いから学び、改善し、より良い人間としての在り方を目指して努力してきた。喜びも幸せも経験した。そこには人類の進歩があった。現在やっとその結果を迎え見ることのできる時代になっているように思える。

天地の創造者が初めの人間を造った時、その幸せを願っていたかもしれない。しかし、人間の未来がどうなるかはわからなかった。

人間にはあらゆる可能性がある。未知なる世界を創る可能性である。
天地の創造者は人類が自分たちより優れた存在になり得る可能性についても気づいていなかった。

天地の創造者は責任をどう取るべきか。これは難しい質問である。
創造者自身がまず自分たちの犯した間違いを認識し、明確にし、反省すべきだろう。
しかし、創造者なる神は間違いを犯したとは考えていないかもしれない。
6000年前の知的生命体はすでに存在していないと思われる。人類に同化してしまい、その存在はないのかもしれない。もし今も生きているなら、その存在を表し、人類に対してアダムを創った理由を説明し、どのように責任を取ったのかを明らかにすべきではないか。

しかし、責任を追及すること、謝罪を求めることには意味があるのだろうか。
天地の創造者は人類に対して本当に誤りを、間違いを犯したのだろうか。
天地の創造者なる神は全能、無限、完全などという存在ではなく、有限の存在であることから、過ちを犯すこともあり、失敗も当然あると受け止めることができるのではないか。


1‐2 アダムの創造は現人類に対する警告

現人類はアダムの時の天地の創造者と同じように新たな生命体を創ることができる段階に来ている。人間が遺伝子操作によりクローン技術で人間のコピーを作ることができることはすでにわかっている。それを改良し、より優れた知的生命体を造ろうとする試みもすでにあるかもしれない。しかし、その遺伝子を操作し改良して造った新たな創造物の未来がどんなものになるかはわからない。
そうしてできた新たな生命体は人類を超える存在になることも考えられる。造ってしまった結果に対して、今度は人類がどのようにその責任を取ればよいのかという質問が提起される。

天地の創造者と表現された知的生命体はアダムの創造に伴う結果をどのように考えたのだろうか。
造ってしまった後からでは、戻ることはできない。人類が新たな知的生命体を作った場合には、その責任は極めて大きなものになると考えられるが、人類はその責任を取ることができるのだろうか。

現在、人類による遺伝子操作だけでなく、人工知能やロボットの制作、あらゆる可能性に挑戦する新たな試みが進行中である。


1‐3 間違えることは許されないのか。責任は取れるのか。

間違いが許されないなら、人間に進歩は無い。人類にも進歩は無い。

許されるということばは適切でない。最近の思い付き ★6 誰もこたえられない? 「なぜ人を殺してはいけないのか」の中に個人の考えを書いた。

「人間が存在するようになる前から、人類の歴史の初めから、人間には「何かをしてよい。何かをしてはいけない。」という規定は存在していない。人間だけではなく、存在するすべての生命体についても同じことが言える。言い換えるなら、生命体としての制限はあるものの、すべては自由である」と。ここで言う自由とは責任は取りようがないという意味である。

知能が十分に発達していない生命体は責任を認識することはできない。地球上で人間以外の生物は責任を意識してはいないように見える。人間以外はすべて自由に(プログラムに従って)生きている。人間の自由を束縛するのは、また制限するのは知能による責任感である。その責任意識は教育により、学習により身に着けたものであるように思える。

人類が新たな知的生命体を造ったなら、それは個人の責任に帰すことはできないだろう。人類の責任である。しかしそうであっても、責任の取りようはない。

同じように、天地の創造者(知的生命体)が人間アダムを創ることも自由であったと考えられる。何をしたとしても責任は取りようがなかった。その条件、背景は今の人類に対しても同じである。人類も新たな生命体を創ることができる。人類にその責任があっても、その責任を追求することはできても、責任を取れるわけではない。

責任とは何のことか。
三省堂大辞林によると、「自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償い」とある。

モーセの律法下では、「目には目、歯には歯、命には命」により責任を取ることが定められていた。誤って人を殺めた場合には逃れの町に一時的に逃れ、裁きを待つことが許された。

今でも犯罪行為は法により罰せられるが、その結果を元に戻すこができるわけではない。
失った命は戻らない。犯罪者を処刑しても元には戻らない。ルールによる裁きであるが、基本的に戻すことはできない。保証や償いによるしかないように思える。

責任には、個人として、人類として、知的生命体全体としての見方、さらに、そうなるに至った過程、歴史も関係するように思える。

たとえば、一つの発明は人類に多大な恵みをもたらしたとしても、未来の人類の滅亡を意味する原因になるかもしれない。アインシュタインの「物質はエネルギーである」から原子力の活用ができるようになり人類はその恩恵を受けている。同時に原爆も造られ実際に戦争に利用された。その考えによる発展を止めることなど不可能に思える。人間の知的欲求を止めることはできないし、未来は何がどう起きるかなど誰にも分らない。想定を超える予測不能の事態が起きる可能性がある。しかも失敗を恐れているだけであったら、人類の進歩は止まることになる。

遺伝子工学による新たな知的生命の制作、人工知能を持つロボットの制作などは人類の破滅につながる可能性もある。
ここに、人類全体としての共通の意思と責任と行動が必要であるように思える。
注意深くしていても、予測不能な事態は起こりうる。

天地の創造者は「人間アダムを創り、善悪の木の実を食べてはならないという命令を与え」、その失敗の責任を人間に負わせ、命の実を食べられないようにエデンの園から追い出した。
しかし、その責任を追及しても、だれも責任は取れないように思える。
また、誰がその責任を許すのか。許す権利はあるのか、という質問も生じる。

責任を追及することの意味はどこにあるのだろうか。見せしめのためか。同じようなことの繰り返しを避けるためか。なぐさめのためか。公正のためか。ニュースの視聴率をあげるためか ・ ・ ・ ?

天地の創造者の責任に関連して、重要な事実と思えることがある。長年にわたって多くの人々に読まれ、残されてきた記録(聖書)のことである。
アダムからイエスまでの主にイスラエルの歴史の記録を読むと、人間の創造者なる神が自分たちの犯した間違いに対して責任を取ろうとしていたのではないか、解決しようと試みたのではないかと思える出来事が記されている。


2.イエスの存在

イエスの新たな教え「神は愛である。隣人を愛しなさい。敵を愛しなさい。」は、イエスの先祖であるアダム、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ダビデ、ソロモンなどが信じていた神が行ってきた歴史上の様々な出来事に見られる教え、伝統、責任を逸脱したもので一貫性に反するように思える。

なぜなら、以下の質問に対する答えはなされていない。

神によるノアの洪水による人類の大量殺戮は許されるのか。
これは神の愛で、敵を愛することになるのか。

エジプトの長子を殺し、追ってきたエジプトの軍隊を紅海で滅ぼし、イスラエル人が住むためにカナン(パレスチナ)に住んでいた民族を滅ぼした。これが敵を愛することなのか。

イスラエルを優遇することは偏り見ることではないのか。
エジプトで苦役に苦しんでいたイスラエル人にとっては救いであっても、特定の人びとを敵として断定し、滅ぼすことが、神の愛であり、敵を愛することになるのか。

明らかにイエスの教えはそれまでの神の行動と矛盾しているように思える。

当然、次の様な疑問が生じる。
神が行ってきたこれら過去の神の怒りによる結果の清算はなされないままでよいのか。
正義の名の下に行われた殺りくすべてを水に流し、「神は愛である」というこれまでの教えとは違う新たな考えをそのまま受け入れてよいものか。

それまでの教えを信じてきたユダヤ人は当然イエスの教えが今までと違うものであることに気付き、その教えに驚きを覚えたに違いない。

当時の宗教指導者は驚きだけでなく恐れも怒りも感じたことだろう。今までの常識を覆す教えであり、納得できないからである。道理に合わない。それを受け入れることは今まで信じてきたことを否定することになる。

それでも多くの人々はイエスをメシヤとして受け入れ、その教えに共感を抱き、従った。なぜだろうか。少なくとも二つのことが考えられる。

一つは奇跡である。大勢の病人が奇跡により癒され、広大な地域にその噂は広がった。奇跡はイエスを支持する理由になった。奇跡はイエスが神からの使いであることを信じる理由になった。ただし、昔のエジプトで見せた十の災いや紅海を分ける奇跡のような神の壮大な力を示すようなものではなく、主に病人を癒すことを含め人々のための奇跡であった。

もう一つは新しい教えにある。教えそのものがわかりやすく、斬新で、納得できたからである。
イエスは当時の宗教指導者と違い、表面的に見せかけの人ではなく、自ら模範を示し、権威を持つ者として行動したからである。

イエスはイスラエルの神ではない。全知・全能の神などではない。自ら神であると言ったこともない。しかし、自らを神の子と呼び、偉大な指導者と呼び、人間としての模範であることを証明しようとした。

イエスは自分が語る内容がユダヤの歴史にもそれまでの道理や価値観とも違うことに気付いていなかったのか。もちろん気付いていた。ユダヤの歴史にも、モーセの律法にも十分精通していた。
自分が敵対視されていることも知っていた。自分が殺される可能性にも気付いていた。


2‐1 では、なぜこのような矛盾に思える内容を広め始めたのか。

イエスにはそうしなければならない理由、事情、状況そして使命があったからだと考えられる。

イエスはそれまでの律法や言い伝えに対する宗教指導者の考えそのものに重大な間違いがあることにも気付いていた。宗教指導者が律法の真意を理解せず、ことばの意味を考えず、ただことば通りに、形だけのことをすればよいと教える高慢な態度を許すことができなかった。

そのユダヤが抱えていた宗教問題、選民思想を解決する方法、救い出す方法は他になかったからではないか。打開策として新たな道を考え出す必要があった。
それが「神は愛である」という教えであったと考えることができるように思える。それは天地の創造者(知的生命体)からのメッセージでもあったのかもしれない。

その教えの背後にはイスラエル人だけの宗教に限定することなく一般諸国民のための教えとして広げることができるという思いがあった。今までの道理を超えて万民のための新しい考えとして行動することができるようにするためであった。

律法に通じた者が「律法の中で最大のおきてとは何ですか」と質問した時、イエスはこう答えた。「最大で第1のおきては、神を愛しなさい。第2も同様であって、隣人を自分自身のように愛しなさい。」 マタイ22:31‐39
40:「律法全体はこの二つのおきてにかかっているからであり、預言者たちもまたそうです。」

このように、イエスの教えは4000年前から続く神の失敗を修正するための妥協案でもあったように思える。

実際イエスは自らの置かれた使命に気付いていた。それは今までに神が約束したことを自らその責任を受け入れ、神の意思を実行することであった。それは人類のために自分の命を捧げることであることを理解していた。
マタイ5:17 律法や預言者を破棄するためではなく、成就するためにやってきたのです。
7:12 自分にして欲しいと思うことはみな同じように人にもしなければなりません。これが律法と預言者たちの意味するところです。
12:8 人の子は安息日の主なのです。
と述べて過去における神の約束を守るために働いていることを示した。神の意思を優先に考えていた。
26:39 イエスは「できることならこの杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望みではなく、あなたの望みのままに」と祈り、自分が神の意思に従い、死ぬことを受け入れていた。

イエスの行動は単なる個人の行動とは思えない。奇跡は個人の力ではできない。背後に神(知的生命体)の支援があったと考えられる。その神の望みとはイエスの死による罪の贖いの実行であったのではないか。


2‐2 イエスの教えにより神は正義の神から愛の神に変わったのか。

天地の創造者として表現された神は初めから全能の神などではない。間違いを犯す存在であり、人間が持つ特質である正義も愛も持っていた。

アダムが命令に従わなかったことが明らかになった時、天地の創造者は改善策として人類を救う方法も考え出した。ただし、その方法はたくさんの間違いを含むものであったと考えることができる。

ノアの時代にノアとその家族を除いて人類を滅ぼしたが、邪悪で、不従順な人々を除いてしまえば良い世界になると考えた。これは神の側の重大な間違いであるが、正義が優先した。しかし、悪意があったわけではないように思える。

こうした間違いにも関わらず、アブラハムに約束した通りにイスラエル国民を作り出し、約束の胤を生み出す道を守った。

もともと天地の創造者は不完全な人間と同じ面を持っていると考えれば、当然こうした間違えを犯す存在であり、全知全能の神ではあり得ない行動の理由を理解できる。

十戒に関する二度目の記録がある。神がモーセに対し二つの石板を用意するようにと指示した。翌朝早くモーセはシナイ山に登った。すると神は雲の中に下りてこられ、このように宣言された。
「怒るのに遅く、愛にあふれ、忠節な神」と。(出エ34:6)

イスラエルの歴史の流れの中で、神は正義の神であることが全面に表れていて、愛の神でもあることはあまり強調されていなかったように思える。

しかし、自らが造った自分たちと同じかたちの人類を見捨てたわけではなかった。一面ではあるが、イスラエルを通して解決の道を模索してきた。モーセを通して罪からの贖いの考えを導入した。アダムからの子孫である約束の胤を生みだすためにその家系を守ってきた。

そしてアダムから4000年後に複数からなる天地の創造者はイエスを地上に送ったと考えることはできる。この時、アダムを創造した生命体は未だ生きていた可能性は大きい。

知的生命体の活動はエジプトでの十の災い等の奇跡の後、40年を経てイスラエル人がカナンの地パレスチナに住むようになるころには劇的な神の力を示す奇跡は見られなくなった。

士師の時代、王の時代等でも預言者は遣わされ神の言葉は伝えられたが、以前に見られた偉大な奇跡は見られなくなった。なぜ神の奇跡はなくなってしまったようにみえるのだろうか。

確かな答えがあるわけではないが、その力を温存し、奇跡を行う者が来た時に、それが神の使者であることを明確にするためであったと考えることはできる。
イエスは天地の創造者なる神(知的生命体)の支援を受けて、それまでにないほどの人々に影響を与えるたくさんの奇跡を行った。

イエスは神の子として、神の使いであることを証明した。それは人類すべて、個人としての罪を清めるための犠牲となるためであったと自らが示した。これを約束の胤として、かかとを砕かれることにあまんじたと考えることもできる。


このように、人間の創造者なる知的生命体は壮大な計画の下で活動を続け、約束の胤が生れてくるように、歴史は作られてきたように思える。
人間を造った神は、一方的ではあるが、イエスを通して失敗を清算しようとしたのではないか。
人類が幸せになるよう、それなりの道を考え、実行したのではないか。
自分が行った行為から生じた結果に対して責任を感じ、償いをしようとしたのではないか。

こうして考えてみると、アダムの時からの知的生命体の約束の一部はイエスの犠牲により守られ、少なくとも解決しようとした様子はうかがえるように思える。



3.現代から見た当時の認識とイエスの教えの問題点について

イエスの教えは確かに新しいものとして受け入れられた。イエスの教えは人間としてあるべき道理に満ちた考えに基づいていた。当時のユダヤの人々の持つ認識に合ったわかりやすい教えであった。

しかし、現在十分注意する必要があるのは、当時は現代の豊富な知識も科学もテクノロジーも無いことである。当時地はどこまでも平らであり、地球という考えはなかった。太陽系なども知らず、太陽系が属する銀河系も知らなかった。宇宙には同じような銀河が2兆もあることなど知る由もない時代である。病気の原因もわかっていない。日本もアメリカの存在もまだ無い。今ある手品もマジックも知らない時代である。

イエスの時代以後人類は科学の様々の分野において、新たな発見を通して新しい知識と理解を得てきた。ここ100年の進歩は目覚ましいものがある。知的生命体はこれらの一部を知っていた可能性はあるが、人類に知らせることはなかった。うまく利用したことは考えられる。
当時を振り返ってみる際には、こうしたことを十分考慮する必要がある。人々の認識は今とは大きく違うからである。

そのことを心に留めて当時を見てみよう。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書はおよそ2000年前に、当時の人々の認識に基づいて書かれている。イエスをキリストとして指導者として証言するために書かれたものである。

イエスの話した内容は当時としてはとても斬新なものであった。それでもイエスの考えはその時代の認識に基づいていた。今ではとても受け入れられないものもある。

以下に気付いた具体的な問題点をあげて、説明を試みる。


3‐1 天国、神の王国

イエスの教えは神の国、天国が主要なテーマになっている。天国に宝を蓄え、永遠の命を得ることが大切だと教えた。

ユダヤの人々は昔から「天国とは神様の居られる場所」と教えられてきたので、その教えを受け入れることに問題はなかった。しかし、天国はどこにあるのかというと、今も同じかもしれないが、そのイメージは空の上、雲の上程度の認識しかなかった。神の国も神が居られる場所ではあっても、どこかと聞かれてもわからない場所であった。空のずっと上の方という程度にしか考えられなかった。つまり誰にも明確に答えることはできない、わからない場所であった。

創世記には天と地上を上り下りするみ使いの夢が描かれているので、空の上の方だと思っていた。創世記28:12 彼(ヤコブ)は夢を見始めた。見よ、地の上にははしごが立ててあり、その頂は天に達していた。そして、見よ、神のみ使いたちがそれを上ったり下ったりしているのであった。

当時は空の上をどこまで行けば天国かを知らなかった。はしごの頂が天に達していたというのは、肉眼では見えなくなるほどの空の上の意味である。当時の理解はそれで十分だった。

しかし、現代の理解では、空の上をどこまで行っても宇宙は無限の空間の広がりである。当時その理解はなかった。夜空には星が見えるが、昼は見えない。しかし、昼間でも全く同じ宇宙空間であり、昼でも星があることを知らなかった。空は宇宙に続いている。その宇宙は無限の広がりをみせている。どこまで行っても天国はないのである。

肉眼で見ることには限界がある。人の持つ視力にもよるが、わずか数十メートルも離れていれば人を見分けることは難しいのではないか。数百メートルも離れていればさらに見分けることは困難だ。地上からみ使いが天に昇っていく様子は、確かに夢の世界だったのかもしれない。み使いが天との間を、はしごを使って上り下りしていたというのは興味深い。

昔は「はしご」しかない時代もあった。今ならエスカレーターかエレベーターが出てくることになるのだろうか。それとも飛行機や宇宙船になるのだろうか。

イエスの昇天に関する記録は福音書の中に詳しいものはなく、わずかにルカが24:51で「天に上げられていった(連れ去られた)」と表現されているだけである。

神の国とは神の王国のことである。王が治める国である。その王とはイエス自身を意味していた。
ダビデやソロモンの時代の王国をイメージしたものと考えられる。

次の様な質問が提起される。
天国はあるのか。信じる人にはあっても、信じない人にはないものである。
真剣に天国を探している人は、見つけることはできるのだろうか。
あるとしたらどこにあるのか。どうしたらわかるのか。
誰がそこに行けるのか。条件があるなら誰が決めたのか。どんな条件があるのか。
そこでは人間にとってどんな生活が待っているのか。


3‐2 サタン、悪魔、悪霊、そして神の存在

サタンの存在についてはイエス自身も40日間断食した後に、サタンの誘惑を受けたと語っている。記録を書いたマタイはこの事実を目撃したわけではないので、後にイエスから聞いたと考えられる。

サタンについてはヨブ記他にも出てくる。ヨブ記には天の様子がわかりやすく書かれている。
ヨブ記1:6 ある日、神の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。神はサタンに言われた。「お前はどこから来たのか。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。神はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。純粋で、正しい人で、神を恐れ、悪を避けて生きている。」

この中で、神の質問 「どこから来たのか」に対し、サタンは「地を行き巡り、そこを歩き回っていた」と答えた。この時点で作者は地に限定した世界観しか持っていなかったことがわかる。

「神がヨブを誉めることにより、サタンに挑戦する機会を与えることになるが、こうした人間のようなやり取りは、全能者ということばが何度となく使われていても、ここで表現されている神が全能とは全く違う存在であることを示していることになる。」

補足3:
作者は神とサタンそのものを表現した。しかし、ヨブの記録は天における出来事として書かれているのに、ここに表されている神は地上で独裁的権力を持つ王様や独裁者と同じであり、サタンは王様の配下にいる従者と同じである。天における関係が人間の世界と同じように表現されている。

サタンは神に対しこう主張した。
「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたはヨブとその家族、持ち物などすべてに垣根を設け保護し、祝福し、繁栄させているではありませんか。もしそれらを除けば、ヨブはきっとあなたを呪うでしょう。」

神はヨブ自身に手を出さないことを条件に、サタンの挑戦を受けた。
サタンはヨブの妻を除きその家族である7人の息子と3人の娘すべてを殺し、莫大な資産すべてを奪い去った。しかし、こうした災難に遭ってもヨブは神を呪うことをしなかった。

神とサタンの第一回戦では神が勝利した。

天での話であっても、人間がこれを興味深い話と理解できるのは、実際は天での話ではなく人間の世界の表現であるからである。神とサタンの持っている権力、立場は大きく違っても、同じ生命体であることを示している。人間の世界から抜け出していない。つまり人間の世界と同じである。

天国の様子など、人間が見たことのないものであれば、その世界を表現することはできるだろうか。見ても、それが何かがわからないのであれば、それをことばで表現することはできるだろうか。目の見えない人が初めて物を見る時と同じように思える。
シリーズ6 「美しさについての考察」 の 3.眼の見えなかった人が、見えるようになる時 について説明を書いた。つまり初めて見えるようになったとしても、見ているものが何だかわからない。知識、経験などの蓄積がなければ、五感で物などを識別することはできないからである。

人が空を飛ぶことは未だあり得ない時代である西暦1世紀のイエスの時代に、仮に現代のF-35戦闘機が音速を超えて人々の前を通り過ぎたら、人々はどう反応するだろうか。
はて?その時人々は何を見たのか? 
当時でも目はあるので見ることは可能だ。しかし、見たことのないものである。一瞬しか見えなかった。今までに聞いたことのない爆音がした時には恐ろしさのあまり腰がぬけそうだった。呆気に取られて、しばらくは、何が起きたのかよくわからなく呆然とした。

見たことの無いものを見た時、実際見えたとしても、事実がわからず、確信が持てず、夢だったのだろうか、錯覚かと思い、見たかどうかさえもわからなくなってしまう。何を見たのかがよくわからず、何かと表現することさえ困難である。多くの人が見たので、「あれは神様だった。」と言うかもしれない。何となく黒っぽい色だったことと爆音から「あれは悪魔だった。」と言うかもしれない。わからないものに対して、人間はそう反応してきた。

人が天国に行けたとして、人は何によって認識するのだろうか。人間は五感によって認識している。天国では人間の五感があるのだろうか。五感だけでは意味がないので頭脳もあることになるのだろうか。すると人間の体も必要なことになる。
こう考えてみると、天国は地上と同じ物が必要になる。天国に行けたとしても、結果は地上と同じではないか。何が、どこが違うのだろうか。何かおかしいと思えるのは、天国そのものが本当にあるのではなく、想像によるからではないか。

天国が何かわからない」から、想像して考える。すると人間の世界のような描写になってしまう。人間は人間の世界、人間の限界を超えて考えることはできないからだ。


補足 4:
神とサタンとの第二回戦。再びサタンは神に挑戦した。今度はヨブを重病にしたら、きっと神を呪うという主張である。神は命に触れないことを条件に、サタンの挑戦を受けた。

突然子供と財産すべてを失い、今度は重病(重い皮膚病)になったヨブであった。2:9 ヨブの妻は「忠誠をいつまで保っているのですか。神を呪って死になさい。」とさえ言ったが、それでもヨブは神を呪うことはなかった。

ヨブの不幸を聞いて三人の友がやって来た。ヨブの病に驚き悲嘆にくれ、7日間何も話さずそばに座っていた。その後、ヨブとその3人とのやり取りが書かれている。

三人はヨブに生じた不幸の原因を神による裁きではないかと言った。家族に罪があったからではないか。ヨブ自身が何か悪いことをしたからではないかと。そう言われる中で、ヨブは自分の潔白を主張し、自分は正しい、間違いをしたことはないと言い、そしてついに神よりも自分の方が正しいと主張するようになった。

三人との論戦が終わった時、若いエリフが登場する。エリフは年が若いので三人とヨブとのやり取りを黙って聞いていた。しかし、四人がそれ以上言うことがなくなったのを見て、エリフはヨブの誤りを指摘する。その後、神が直接ヨブに語りかけ、ヨブは反省する。42:3‐6「わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました。・・・わたしはみずからうらみ、ちり灰の中で悔います」と。 

神は再びヨブを祝福した。

ヨブは再び男の子7人、女の子3人の子供に恵まれ、資産は以前持っていた2倍までも豊かになった。この後、ヨブは百四十年生きながらえて、その子とその孫と四代までを見た。


さて、この話の問題点であるが、ヨブの悲惨な出来事の原因は何であったか。
その発端は、天での集まりで、神がサタンの前で「ヨブという人間ほど純粋で、正義を愛し、神を恐れ悪を退けている人はいない」と誉めたことから始まった。
人間の世界ならともかく、神は人を誉めるだろうか。それもサタンの前でわざわざ誉めるだろうか。

人間は誉められることが好きだ。優越感に浸れることをこよなく愛する。人間の傾向である。それ故、いつ、どこで、誰を、なぜ、どのように誉めるかによっては問題を引き起こす原因にもなる。すべての人が誉められたいと思っているからであり、ねたみや非難の対象になりやすい。

人々は神を賛美する。神を誉め讃えるよう教えられてきた。しかし、「全能の神、無限の神、絶対者には、ほめたたえられることなど全く無意味なことである。もしほめたたえられることを願う神であれば、それは明らかに人間並みの存在である。」

神が人間を誉めたことで、ヨブは子供達と財産すべてを失った。こんな理不尽なことが許されるだろうか。ヨブの不幸は神のせいではないか。神がサタンの挑戦を受け入れたからではないか。神は何をしても許されるのか。

ヨブは神について、「神は与え、神は奪う。神の御名はほめたたえられよ。」と語ったが、大自然は神ではない。神の意思を反映しているわけでもない。大自然による恵みも災害も神の意思とは関係なくもたらされている。

ヨブ記の内容は人間の視点で書かれており、神に対する理解に誤りがある。全能の神は人間の世界に関与することはない。人間は災害が起きると「神も仏もない」と神のせいにするが、それは人間の勝手な思い込みであり、根拠はない。

神はサタンの行動を読むことができないのか。予知して防ぐことこそ神の力ではないか。この神は神としての能力に欠けている。何と愚かな神であることか。人間をもてあそぶ醜態は許しがたい。神の正義はどこにあるのか。
 

サタンの挑戦を受ける神とはいったい何者か。全能の神であれば、そのような挑戦を受けることはない。全能者であれば挑戦される前から答えはわかっている。全能者に対してチャレンジできる者などいない。チャレンジする意味もない。ここでの神は二度もサタンの挑戦を受けた。正に人並みである。神は第2回戦でも勝利したと言うことができるとしても、それは人間の視点でしかない。

ヨブ記の天での出来事が人間の世界と同じような内容になるのは、全能者の意味を知らないことによる。神はまるで権力を持つ王様のような振る舞いをする者として表現されている。愚かな人間の独裁者と同じだ。

これでは人間と同じ世界である。作品としては面白くても、全能の神の真実からは全く違う話であり、人に誤解を与えるものである。数千年にわたり、これが全能の神の姿だと思わせてきた。

ヨブ記からわかることは、神とサタンは立場や権力は違っていても、人間同士が敵として戦うのと同じように、同じ生命体と考えられることである。なぜなら、全能の神の前に敵は存在できないからである。

「敵であるためには、対等に近い関係が必要である。人間であれば、敵、味方に分かれて戦うことがある。戦うことが可能なのは、人間の場合、対等な存在であるからである。一方が限りなく強いと、対等にならず、敵にはならない。」 

数千年にわたり、多くの人は「全能の神は愛であり、常に正しく、悪いことをすることがない」という信仰を持ってきた。しかし、それでは災害が起き、たくさんの人が死んでいる理由を説明できない。人が不幸になる理由を説明できない。全能の神は人間の社会に介入にしてはいない。人間がそう思いたいだけである。

作者は「全能者の前には人間は何もわかっていないに等しい」ことを書いている。それは真実である。しかし、ここに出てくるヨブの神は全能者ではない。

注意が必要である。人類の歴史に全能の神の介入はない。しかし、創世記の天地の創造者の神に代表される存在は人類の社会に介入してきたと考えられるからである。

ミケランジェロは「アダムの創造」と呼ばれるフレスコ画に、神を人間として表現した。創世記の天地の創造者なる神を表現したものだが、それは人間の形として表現されている。描かれている神は全能の神ではない。彼は正しく描写したと言える。なぜなら、アダムの創造者は人間と同じ形をした知的生命体であるからである。(詳しくは Part 1へ)

全能の神、無限の神、永遠の神、絶対者を形やイメージで表すことは不可能に思える。しかし、不思議なことに、ことばではそう表現している。ことばの持つ力は無限に近いものなのだろうか。部分的ではあれ、人間のことばによる思考は、無限を考えることができることを意味しているように思える。



聖書の中でサタンはアダムの創造に関連して出てくる神に敵対する勢力の存在と考えられてきた。しかし、事実はアダムの創造の前から、知的生命体の間で敵対する関係がすでにあったことを示している。悪魔も悪霊も同様に神に敵対する存在である。ここでは別の存在のように書かれてはいるが、元々は同じ知的生命体の間での争いがあったのではないか。つまり人間の世界で人間が敵と味方に分かれて戦うように、神もサタンも、同じ生命体である可能性は高い。

ルカによる福音書の10章17,18に、イエスにより派遣された70人の弟子が喜んで帰ってきたことが書かれている。喜びの理由を「悪霊たちが弟子たちの言うことに服した」からと答えた。するとイエスは「サタンはすでに稲妻のように天から落ちたのが見えるようになった」と語った。

これを真実と受け止めるなら、天地の創造者とその敵対者の間での論争が決着したことを言おうとしていたのではないか。悪魔も悪霊も同様であると思われる。

全能の神として信じられてきたイスラエルの神は全能、永遠、絶対者の意味とはまるで違う。当時の世界に対する認識は現代のものと比べれば比較にならないほど小さかった。その小さな世界から見ると、地とそれを取り巻く小さな宇宙がすべてであった。当時の神も地球という枠から出ない小さな存在だったのである。

「全能の神の前に敵対するサタンのような勢力はあり得ない。全能の神に敵はいない。敵は存在し得ない。敵が出てくるのは人間という枠で、小さな世界で考えるからである。人間の想像により敵が作られるからである。

創世記、ヨブ記、キリストの使徒による記述などの中に神の敵、サタン、悪魔が出てくるが、こうした考えは無限に広がる宇宙の存在も、目に見えない素粒子の世界の存在も知らない時代の人びとの考えである。

全知全能の神、無限の神、絶対者の前に敵は全く存在し得ない。敵という考えは人間の考えである。元々は天地の創造者(知的生命体)の考えであったかもしれない。無限、永遠、絶対という考えを前提にするなら、そこに人間並みの考えが入り込む余地はない。絶対者の前に敵もサタンも悪霊も絶対者と対等な関係で存在することはあり得ないからである。」


補足1: 多少でも対等な関係を考える助けになればと、あえて例えを考えてみた。
全能の神を人間、敵であるサタンを小さな蟻として考えてみる。すると大きな違いを感じる。人間と蟻、差が大きいと敵になるかどうかがわかる。人間は基本的に蟻を敵とは思わない。なぜか。小さい存在に対しては、対等な関係とは思わないからだ。

全能の神は無限の神でもあるから、人間を無限大に大きくして比べてみる必要がある。すると蟻はさらに小さな存在となり、見えなくなり、比較対象にならなくなる。

実際に有限の存在を無限と比較すれば、限りなくゼロ、無いに等しい存在になる。

敵であるためには、対等に近い関係が必要である。人間であれば、敵、味方に分かれて戦うことがある。戦うことが可能なのは、人間の場合、対等な存在であるからである。一方が限りなく強いと、対等にならず、敵にはならない。

聖書に書かれている天地の創造者なる神には敵がいた。サタン、悪魔、悪霊である。敵であるため、争い合うためには、対等な関係でなければならない。
天地の創造者なる神、天使、サタン、悪魔、悪霊はすべて対等な関係であることになる。つまりこれらすべての存在は立場が違っても、上下関係があっても、同等の生命体と考えられる。

人間アダムが造られる前から、争い合う関係が存在した。それは人間が敵、味方に分かれて争うのと同じように、神、天使、サタン、悪魔、悪霊は敵、味方に分かれて争っていた。そのことが意味するのは、これらすべては同じ生命体であると考えられることである。

人類は数千年という長い期間にわたり、天地の創造者なる神に対して、自らが間違った理解とイメージを作りあげ、大切に持ち続けてきた。神は全能と考えるようになった。しかし、上記のことからわかるように、天地の創造者は全能の神などではない。他の天使やサタン、悪魔と同じように、存在としては同じ知的生命体であると考えられる。

全能、無限、永遠、絶対者としての存在は、すべての知的生命体を超越した全く別の存在として認識する必要があるように思える。

今でも人間は病気、病気の原因のウィルスと戦う。平和のために、貧困の撲滅のために戦う。人間の権利のために、正義のために戦う。利己主義と戦う。自由のために戦うなどのように、人間にとって脅威となるものに対しては戦い続ける。しかし、それは対等な敵だからではない。人間の弱さ故に、人間を守るため、人類の存続のために戦うのである。

対等な関係で敵、味方に分かれて戦争することは、人間としては間違いであり、すでに時代遅れである。人類は新たな考えと生き方を必要としている。


3‐3 病気の原因

マタイの福音書には悪霊に取り付かれている人々が沢山いたことが書かれている。

当時は医療が発達していないために、科学的な情報はなく、細菌もウィルスの存在を知らず、精神病も知らず、病気の治療もできない状況があった。わからないことは悪魔や悪霊のせいにした。病人は悪霊に取り付かれていると誰もがそう考えていた。

悪霊という表現がたくさん出ている。サタンや悪魔が出てくる。悪霊とは何か。人に乗り移る病気の原因である。イエスに話しかけることができた。悪霊は豚の群れの中に入り、崖から落ちた。

現代では到底受け入れられない病気の原因である。医学は病気の原因をつきとめ、治療を見出し、全世界で人々はその恩恵にあずかっている。

当時の人と同じように、悪霊につかれていると考える人、そういう人は今もいるかもしれないが、その背景には無知、情報の不足、知ろうとしない傲慢さ、愚かさがあるからだと考えられる。

イエスの病人を癒す奇跡の評判はガリラヤ全土、シリアじゅうに伝わった。
具合の悪い人すべて、様々な疾患や苦痛に悩む者、悪霊に取り付かれたり、てんかんであったり、麻痺している者を連れてきた。

マタイ10:1 イエスは12使徒を呼び寄せ、汚れた霊たちを制する権威をお与えになった。それを追い出し、あらゆる疾患とあらゆる病を治すためであった。
つまり、あらゆる疾患とあらゆる病は汚れた霊たちの仕業であると考えられていた。

12:22 人々は悪霊に取りつかれた盲目で口のきけない人を連れてきた。
17:14-20 てんかんに病んでいる息子が連れてこられた。イエスはその霊をしかりつけられた。すると悪霊はかれから出てきた。少年は癒された。

イエスの奇跡によりあらゆる疾患とあらゆる病が治された。病人が癒された。死者さえも生き返ったという記録もある。ライ病人もいたが、清められた。これらの疾患と病の原因を悪霊たちの仕業であると言っている。。

今病気が悪霊のせいだという人がいたら、どこか異常だと思わないだろうか。
ウィキペディアで病気について調べてみると、その定義や背景について詳しく説明があるが、病気の原因を悪魔や悪霊とする「ことば」はない。

一つ注意が必要に思えることがある。当時は未だ神と敵対する知的生命体のサタン、悪魔、悪霊が実際に活動していた可能性があった。現在はあり得なくても、当時悪霊(知的生命体)は病気の原因として実際に働いていたことを否定することはできないように思える。



3‐4 信仰と永遠の命

信じる人には永遠の命が与えられるとイエスは教えた。天国で永遠に生きられる。
しかし、永遠の命とは何なのかがわからない。永遠に生きることが喜びなのか。
イエスは永遠の命は何かを説明していない。
イエスは人間が遺伝子から作られているということも知らなかった。

「現人類は永遠に生きられるようにはなっていない。
 永遠に生きることが「幸せと一体」であるとは考えられない。
 幸せでないと感じている人はたくさんいる。
 永遠に生きることだけが幸せを保障するものではない。
 不幸な人生なら、誰も永遠に生きたいとは思わない。
 この根本的な問題を解決もせずに、ただ永遠の命を与えるとした神がいたとしたら、
 それは何とも愚かな存在ではないか。」

天国は心の中にある。天国は信じることによる、という意味である。

イエスは何度となく信仰のないことを叱責した。
信仰がないから、奇跡を起こせない。病人を治せない。海に沈みそうになる、不安定になる等と弟子たちを厳しくしかった。それはなぜか。
実際にないものは、信じることによる以外に、存在しえないからである。

「人間は苦難からの救いと未来への希望を求めている。確かなものが必要である。現実には確かなものは存在しない。絶対確かなものはないが、それは信じることによって生まれる。永遠の命とは、人が救いを得るために、また希望を持つために語ったイエスの約束である。イエスは信じることにより、約束が真実になることを知っていた。この場合の真実は架空のもの、想像である。
信じることで救われるのは、確かなものがこの世にないからである。」

マジックでも、映像でも、催眠術でも、人をだますことができることは明らかである。
見せることにより、本当だと思わせることは簡単にできる。今でも人は簡単に騙される。
同様に存在しないものでも、信じることにより、存在すると思い込むことができる。

信じるとは、うのみにすること、100%間違えがないものとして受け入れることであるが、間違いのない完璧なものなど存在していない。だから人は信じるしか道はないと考えるのである。
しかし、間違いに基づく夢を信じても、人はいずれ間違いに気づくし、結果に表れる時が必ず来る。
現実を直視することの意味がここにある。

今までの世界に確かなものが無いのは、わからないことを理由に利己的な動機を土台に間違いの多い、不安定な世界を作り上げてきたからではないか。
確かな土台が必要である。

間違いのない完璧な土台など存在しない。しかし、築き上げることにより、より確かな土台を作ることは可能であるように思える。
それはすでに人間社会の土台であり、社会はその上に機能している。
多くの人はそのことに気付いていても、その重要性を認識できないでいる。
土台とは、信頼のことである。
それは大切に育てるものであり、育てようとする意識を持つことが必要である。
社会が不安定なのは信頼が失われ続けているからであるように思える。

信頼は信じることと意味が違う。
信頼は人間が過ちを犯す存在であることを前提に、築き上げることを必要としている。
互いに努力が求められる。互いに信頼に足る人間であることを証明することが必要である。

信頼するためには、基本的にうそ偽りを言わず、行わず、悪意を持つことなく、自分の良心に対して正直で、約束を守ることである。不正と戦う勇気が求められる。
人間としての基本である。



4.マタイによる福音書にあるイエスのことばを現代の認識から考える
  (5回の連載で紹介したものです)

その1.
5:44 敵を愛しなさい。
ユダヤ人のイエスはそれまでになかった「敵を愛しなさい」という教えを説いた。
しかし、敵とは「昨日の敵は今日の友」ということばがあるように、敵は人間であり、人間は変わる存在である。良い人にもなれば、悪い人にもなる。今日の友でさえ、明日は敵になることも考えられる。
過去においては、神により善悪が決められた。しかし、悪人と決めつけ、敵にしてよいものか。
その人の考え、価値観、状況で敵が作られる。悪人が作られる。
敵も悪人も本来いない。敵は自分の中にある。それは人間の心にある。
人間の想像力が勝手に理由を見つけ敵を作り出す。

法律違反、ルール違反の人、犯罪者はいる。しかし、悪人はいない。敵はいない。


45‐48:邪悪な者の上にも、善良な人の上にも自分の太陽を昇らせ、義人の上にも不義の者の上にも雨を降らせる。あなた方も天の父のように完全でなければなりません。

現代の小学生なら納得するだろう。しかし、台風の被害、津波による被害で多くの人が死ぬのは神のせいにしてよいという意味になる。
災害が起きるのは神の意思とは関係ない。災害に遭えば人間は「神も仏もない」と言う。しかし、初めから神も仏も関係していない。勝手な人間の思い込みである。

補足2:
もう少しわかりやすく説明を考えてみた。

「邪悪な者の上にも、善良な人の上にも自分の太陽を昇らせ、義人の上にも不義の者の上にも雨を降らせる。」その通りであるように思える。多くの人はイエスの教えが正しいと思ったことであろう。しかし、この内容は太陽、雨の働きの一面だけしか取り上げていない。

太陽による日照り、雨が降らないなどの理由により土壌が乾ききってしまい、農作物が育たず、枯れてしまい、飢饉が起き、多くの人が死んだことは世界中で何度となくあった。今でも起きる。日本では神に雨ごいをすることもあった。それでも神は答えず、雨は降らず、多くの人が死んでいった。

イエスは自然災害については触れていない。台風、地震、津波で多くの人が死んでいることを取り上げてない。イエスの理解では、災害は神の責任ではないことになるのだろうか。イエスは自然の一面だけを取り上げ「天の父のように完全になりなさい」と語った。

これは片手落ちではないか。良いと思える面だけを取り上げて、神は善であるなどと言うのは間違いでないのか。重要なことを隠していることは、人々をだましていることと同じではないか。又はイエスの認識不足によるのか。

現代の理解では、太陽による恵みも災害も自然現象として捉えている。神の介入は考えられない。現代のあるべき認識は、「災害が起きるのは神の意思とは関係ない。災害に遭えば人は「神も仏もない」と言う。しかし、初めから神も仏も関係していない。勝手な人間の思い込みである。」人間は自然界におけるこの現実を直視すべきである。 

人が大自然の恵みに対して神に感謝の気持ちを持つことは自然に思える。しかし反対に、大災害に対しては「神も仏もない」と人は批判する。ここで言う神が何を意味しているかは誰も知らず、解らず、気にもせず、考えもせず、数千年もの時間が経過した。昔からの慣例だからと考えずに追従してきた。考えてもわからないと思っているからか。人類は神の本当の姿に目覚めてもよい時期に来ているのではないか。

人間には先が見えない。未来のことはわからない。何が起きるかわからない。予知能力がない。ニュースで悲惨な出来事が報道される。何が起きるかわからないから、なんとなく不安になる。心配になる。考え始めると恐ろしくなる。何か不幸な事故でも起きれば、神様のタタリだ、あの時
こうしておけばよかったと後悔する。しかし、事前に神に祈っても、捧げものをしたとしても、厄払いをしたとしても、不幸なこと、災害は起きる。人は必ず死ぬ定めにあり、逃れる事はできない。これは現実であり、神の関与はあり得ない。

心配すること、後悔することは、問題の解決にならない。どれだけ心配しても何かを成し遂げることも、くい止めることもできない。後悔しても過去ったことを改めることはできない。将来に対して前向きの考え方、行動こそ重要である。

人間の世界も大自然の一部であることを忘れない。身近にライオンやヒョウやハイエナのような人間もいる。日ごろから真剣勝負の世界にいることを忘れないことが大切だ。

「あなた方も天の父のように完全でなければなりません。」
三省堂大辞林によると完全とは、「必要な条件がすべて満たされていること。欠点やや不足が全くないこと」とある。
完全とは間違いがなく、反省する必要はなく、進歩することがない状態のことである。
地上の人間以外の生命体はそれぞれのプログラムによって生きていいるが、生命体としては完全なように見える。
しかし、人間の定義は今も確立されていない。人間が何かがわからない。完全な定義などあり得ないことになる。
人間が不完全であることの意義は、間違いをしても、反省し、改善し、進歩することができることにある。これは人間に知能があるからだ。不思議なことのように思えるが、知能のあることが人間が不完全であることの意味であるように思える。

天の父が完全だとイエスは語った。イエスは天地の創造者である神を、先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブの神、イスラエルの神を意味した。その神には身近に天使、敵として表現されているサタン、悪魔、悪霊もいた。
敵対関係があるという意味は、人間で言えば敵、味方に別れていることである。神も悪魔も同じ対等な関係にあることを意味する。つまり、神、天使、サタン、悪魔、悪霊は同じ生命体であることになる。
全能の神とは、永遠の存在であり、完全な存在であり、絶対者の意味である。
人間の視点ではあるが、全能の神と同じ生命体がたくさん存在することは論理的にあり得ない。
イエスが語った天の父とは、全能の神のつもりではあったが、理解に問題があったことになる。


その2.
6:22、23 体の灯火は眼です。・・・眼が邪(よこしま)であれば体全体も暗いでしょう。

この言葉を聞くと今でもなるほどと思う人がいるのは、その人の認識が当時の人とそう変わらないからであると思われる。

イエスは目の働きが脳の持つ認識するための入力器官の一つであることを知らなかった。脳の存在もその働きも知らなかったと思われる。

目は考えることはできない。脳が考え、認識しているのである。
目はカメラのレンズの働きに似ているが、目が邪悪であることはありえない。
目の不自由な人に対する思いやりと認識に欠けていることになる。


6:25 何を食べるか飲むか、何を着るかで思い煩うのを止めなさい。天の鳥を良く観察しなさい。
種をまいたり、刈り取ったり、蔵に集めたりしませんが、天の父が養っておられます。

鳥は天の父によって養われているのだろうか。
鳥が生きて行くのは遺伝子によって、そのように生きることがプログラムされているからである。
絶滅した種はたくさんある。1世紀以前に絶滅した種もあったのにそれについては触れられていない。当時、情報は限られており、教育も限られていたと考えられる。


6:28, 29 衣服のことでなぜ思い煩っているのですか。野のユリからそれがどのように育っているか教訓を得なさい。労したり、つむいだりはしません。栄光をきわめたソロモンでさえ、これら一つほどにも装ってはいませんでした。

ユリと人間を比較して、装いについて、ソロモンはこれら一つほどにも装ってはいなかった。
と述べているが、ユリは装っているとイエスは考えた。

シリーズ6で、美しさについてこう書いた。
「花そのものは、自分が美しいとの意識はない。
受け継いだ遺伝子によって花を咲かせるだけである。
人はそれを見て、美しいと思う。
自分から見て、自分は美しいと思うのは、人間だけだろうか。」

人間は衣服のことで思い煩ってはいけないという意味ではその通りであると思う。しかし、ユリは自らの意思で美しいのではない。装っているのでもない。
栄華をきわめたソロモンはその一つほどにも装ってはいなかったとイエスは言った。しかし、何を持って装っていないと言えるのだろうか。
花と人間を比較してどちらが着飾っているかなどという考えはおかしいと思わないのだろうか。


その3.
6:19‐21 地上に宝を蓄えるのをやめなさい。天に宝を蓄えなさい。
あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。

確かに地上に宝を蓄えても、人は死ぬときにその宝を地上に残していかなければならない。地上で生きている間だけの宝であるが、泥棒や強盗にもあう。安心できない。

宝のように大事にするところに心もある。その通りである。
しかし、ここで言う天とは何か。ユダヤ人は天という意味を知っていた。
天とは天国の意味である。神様がいる場所である。

ではどこにあるのか。説明できる人はいるだろうか。
創世記28:12 彼(ヤコブ)は夢を見始めた。見よ、地の上にははしごが立ててあり、その頂は天に達していた。そして、見よ、神のみ使いたちがそれを上ったり下ったりしているのであった。
天国は空の上、ずっとずっと上の方にあると信じられてきた。

当時は空の上をどこまで行けば天国があるかを知らなかった。はしごの頂が天に達していたというのは、肉眼では見えなくなるほどの空の上の意味である。当時の理解はそれで十分だった。

しかし、現代の理解では、空の上をどこまで行っても、宇宙は無限の空間の広がりである。当時その理解はなかった。夜空には星が見えるが、昼は見えない。しかし、昼間でも全く同じ宇宙空間があり、昼でも星があることを知らなかった。空は宇宙に続いている。その宇宙は無限の広がりをみせている。どこまで行っても天国はないのである。

そのような場所は想像上にしか存在しない。信じる人にだけに真実になるのである


その4.
7章1‐5  人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれる・・・兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁(はり)を認めないのか・・・ どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

翻訳によっては、梁(柱上に渡される横木の総称)を丸太、垂木としているものもある。
目にあるちりとは、眼に入ったごみのような小さなものという意味だろう。

今日でも「自分の欠点を棚に上げて、他人の欠点を大きく悪く言う」傾向は一般に広く見られる。避けるべきことであるが、2000年前からあまり変わっていないようだ。

このたとえはわかりやすいが、体の一部の目を使っているため、内容的に無理な表現になっていて、現実にはあり得ない

目に梁、丸太、垂木が入るだろうか。入っている状態を想像することができるか。現実にはできない。想像するとマンガになってしまう。道理に合わない。

イエスが言いたいことは、
「自分の欠点は丸太のようにでかいのに、見えていない。自分の欠点は棚上げにしながら、他人の欠点はずっと小さいのに、見えるから文句を言い批判する。まず自分の欠点を改善しなさい。そうすれば人の欠点も改善する方法がわかるでしょう。」になるだろうか。

実際に小さなごみが自分の目に入ればどうなるか、経験したことがあるならわかるだろう。痛くて、不快で、正常心を保てない。すぐに自分で何とか取り除くか、他人に見てもらうか、医者に行く。他人の目にゴミが入れば、自分と同じように痛くて、その人はすぐに助けを求める。

自分の目に大きなごみが入れば、痛いどころか目が腫れて見えなくなる。ここではゴミではなく丸太である。生きてはいられないだろう。

つまり初めから、他人の目には小さなごみで、自分の目には丸太があるという状況は現実にはあり得ない。欠点(罪)を表現するとしても目を使ったたとえは不適切に思える。

これは人の欠点についてわかりやすく伝えようとしていることはわかるが、例えであれば何をいってもよいのではない。

次に、ここに人を裁いてはいけない理由が書かれている。自分が裁かれないためでとある。 しかし、人を裁いてはいけないのは、自分が人に裁かれないためではない。付け加えると、神に裁かれないようにするためでもない。

人を裁いてはいけないのは、裁くこと自体に間違いがあるからである。
裁くこと(人をこうだと決めつけること)の問題点は主に二つある。
1. 人間は間違いのない完全な判断をすることができない。他人のことを100%知ることはできないからでもある。自分のことさえ十分にわかっていない。
2. 人は変わり続ける存在である。人は反省し、改善し、進歩する。人は同じ状態にいることはない。もちろんさらに悪くなる場合も考えられる。

人は他人のことを十分知っている人はいない。十分知っていると言っても、決して十分なほどという意味ではなく、ほんの少し知っているという意味である。人は変わり続ける存在であると理解すべきである。人は変わらない存在と決めつけること自体が間違いである。人の可能性を否定することは裁くことにつながる。それ故、裁いてはいけないのである。

法律やルール違反に対しては、決められたルールに従い、責任は取らなければならない。人は自分の犯した違反に対しては、ルールに従って、責任を取ることになる。法が裁く、法によって裁かれるのである。 


その5.
7:6 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。

聖なるものとは何か。真珠が例として取り上げられている。当時は高価な物の代表であったのかもしれない。しかし、真珠は神聖なものか。物の価値は人によっても、生きている時代によっても変わる。元々神聖なものなどない。神聖と信じるからそう思えるだけである。
そう信じる背景には伝統、文化、慣習なども考えられるが、思い込みによりそう信じるから神聖にもなるのである。

イエスは自分の教えが神聖なものであり、それを理解しない人間に伝えても、彼らはそれを足で踏みつけ、向きなおってかみついてくると表現した。

確かにイエスの言葉を受け入れない人々、反対する人々はいた。しかし、そうした人々を犬や豚のような存在として表現することは、「人を裁いてはいけない。敵を愛しなさい」という自らの教えに反することになるのではないか。

現代では個人の考えで特定の人間を悪人とすること、生きる価値がないと決めつけ切り捨てることは、基本的に許されないことである。どのような人に対しても相手をよく知ろうとする心構えが必要ということだろう。



以上、マタイの福音書にあるイエスの教えと現代の認識との相違点について説明した。イエスのことばの認識は当時最高のものであったとしも、現代のことばの理解と認識とでは大きく違っている。現代の知識や理解に一致しない古い時代の認識である。

学習を通してこのことを理解できるのなら、現実に即した考え方をする必要があることがわかるのではないか。



5. 時代の認識の違いから見えてくることの意味

イエスの教えには、ユダヤ人がそれまで信じてきたこととはかなり違う新しい考えが含まれていた。それは信仰において大きな変化をもたらした。変化が起きると今まで通りにはいかなくなり、分裂を経験する。理由は宗教に進歩はあり得ないからである。

ユダヤ教はキリスト教に分裂した。その後のキリスト教も分裂を繰り返し、たくさんの宗派に分かれた。どの宗教も分裂を繰り替えすように見える。

より正しいことを求めると、今までの価値観に間違いを見つけ、新しい考えが生まれる。新しい考えは古い価値観にある間違いを明らかにする。宗教は間違いのないものであるはずだが、現実はそうではない。絶対間違えの無い真理はあり得ないので分裂、分派が生まれる。

今まで信じてきたことに変化が起きている。変化は必要である。人類が進歩することは、間違いを見つけ、変化し続けることであり、それは止めることができない。これは現実である。
それ故、現実を直視し、自分を変えていくことが人間としての在り方に思える。

人類は神、悪魔からの呪い、罰などという恐れや束縛から解放され、自由になることが必要であり、その自由を現実に即した人間のあるべき姿を追い求めることについやす方が賢明である。それはわからないものを信じることにより考えなくなるのではなく、現実を直視することを通して学習し続けることを意味する。

人は単に「皆がそうしているから、昔からの慣例だから」と考えずに追従するのではなく、自分で考え、自分で責任を持った生き方をする必要があることを示している。

「学習するとは、日ごろからバランスよく考え、脳が持っている反省する機能を活かすことにより、
疑問を持ち、気付き、反省し、改善し、 なぜかと理由を考え、答えを見出そうとすることであり、教訓を得、 自分の意思を持ち、意欲を作り、動機を得、持っている意識を向上させることである。

脳が持つ学習機能が人のあるべき姿を教えている。
自ら進んで反省し、自分の認識を変えていくことは学習することの大切な一面である。」

人の幸せとは自分の存在に対する理解を持つことにある。
自分をだまし、ごまかし、わかろうとしない状態では、自分を理解していることにならない。
自分を知らず、理解せず、人間としての意義も考えず、ただ存在するだけであれば、人間としての意味はどこにあるのだろうか。

間違いから抜け出すためには、現実を直視すること、自分で考え、勇気をもって自分の認識を見直すことであり、間違いに気付いたなら、生き方を変えることが望まれる。ことばの認識は世界を変えるだけではなく、未来を変えることにつながる。

人類が望むなら、戦争を止め、協力し合い、地球を有効利用し、平和な生活さえ可能な時代になっている。そうできるのに、個人、属する社会、自国の利益を優先し、結果として昔と同じ間違えを繰り返している。そうしている間に、人類の歩みを修正する機会と時間を失っていく。

人類は間違いだらけの中にいる。その結果を人類は刈り取ることになる。

人類が生き残るためには、人間の社会が作られる目的、理由、あるべき基本的な姿、そこから考えられる人間の在り方、ルール作り、そして学習を通して責任を持ち、果たせるようにすることであると考える。

マイケルアレフ 2018年11月