マイケルアレフのことばの不思議な世界


言葉の認識は世界を変える シリーズ25 

人間について、人類について考える (部分的考察)

概略 

* 1 長い間、宇宙に生命体が存在しないと考えられてきた理由と責任
 人類を無知に導いた責任は誰にあるのか、どこにあるのか?

* 2 宇宙の中の人類の存在意義について
  人類の存続こそ重要であると考えることに間違いはないのか?
  そう考えてきたのは、そう考えているのは、何故か?

* 3 人間性について、人間性の定義、 人間であることの意味
  人間性は人の持つ知性と認識が生み出す人間の特徴を表す表現で、それは作られたもの、絶えず変化するものでもある。人間の思考全ては、人間とは何かを模索することにより、知的生命体である人間社会の理想を追求、実現していくための過程である。このことは、人間に普遍性が無いことを意味する。

* 4 自分の存在を理解する
  人間は物事を主観的だけでなく、様々な観点に立って、客観的に見る、考えることができる。これは自分という存在があるからであるが、長い間、この自分という存在を間違って捉えてきたように思える。
  他の人の立場で考える、また感情移入ができるのは、自分の存在を知らない鳥や動物等との大きな違いである。感情的になってそのまま行動することは、実際には考える故の自分の存在を知らず、動物と同じように直接的に行動していることになる。

* 5 信じる、信じられることの意味
  現実には無くても、信じることで真実にすることができる。それは今も同じである。
  信じるなら、騙されている場合でも、内容が嘘、偽りであっても、真実、本当になる。間違いに気付かない。信じている内容を吟味することができなくなるからである。

* 6 人間について考える視点、立場によって様々な考えが生まれる
  人間を全宇宙から見る場合、地球上から見る場合では、大きく異なった考えが生まれる。   チャーリー・チャップリンのことば
  「人生は近くから見れば悲劇だが、遠くから見れば喜劇である。」 

* 7 人類は死をどのように克服するのか
  生と死は、時代によって認識に違いがある。つまり、生と死に対する意識は人間にとって思い込みと同じである。作られた意識であり、現実には、現実があるだけである。
  科学、医学等の発展はやがて生命体がなぜ死ぬのかを明らかにすると思われる。ただ、死を克服し、単に寿命を伸ばすことが望ましいかはわからない。死を受け入れ、安らかに死んでいくことの方が望ましいのかもしれない。

* 8 やがて迎える人類存続の危機
  人類以外に知的生命体の存在を知らないのは何故か。
  宇宙の中で知的生命体として人類の存在が確立するためには、それなりの条件が必要に思える。人類が自分たちの文明の崩壊を乗り切れないようでは、どちらにしても、その資格はないことになる。
  絶えず変わり行く世界、平和も安定も維持すること自体が人類の存続への挑戦である。かつて絶滅した種があったように、現在も絶滅危惧種があるように、人類も絶滅する可能性がある。人類の無知、愚かさ、利己心が関係するのだろうか。

* 9 人類は100年、1000年先の自分達の未来を想像できない理由

* 10  地上の人間と他の生物との違いは、知能にあると考えられる。
  なぜ知能が存在するのか。教育について。
  信頼と約束の上に造られる未来について



言葉の認識は世界を変える シリーズ25 

人間について、人類について考える (部分的考察)


* 1  宇宙に生命体が存在しないと考えられてきた理由と責任
    人類を無知に導いた責任は誰にあるのか。

地球は宇宙の中心であり、人間は神によって創造された特別の存在である、と教えられ数千年に渡って信じられ、今でも人類の多くがそう信じている。 

何であれ信じると、それは真実になり、否定することは困難になる。信じるとは間違いがないと受け入れることであり、完璧な価値を持つことになる。
子供の頃から伝統や慣習として教え込まれると、疑問を抱くことさえ困難になる。何に問題があるかもわからなくなる。それを否定することは、自分を否定することと同じように思え、考えることが恐怖になる。

科学が進歩し、新しい発見と情報が明らかになると、人の持っていた認識に変化が生じる。間違いに気づき、反省し、改善の動きが生じる。人類の進歩とは、間違いに気づき、反省し、改善することにある。

かつて、宇宙は小さく、地球という言葉もなく、地が宇宙の中心であると信じ、太陽系を知らず、天の川銀河の存在があることも知らない時代であった。その銀河に太陽と同じように光輝く恒星が2000〜4000億個もあることなど知るよしもなかった。 

現在は「地球だけが神によって人間に与えられた」と考えられてきた時代とは全く違う。NASAは、宇宙に2兆の銀河があることを明らかにしている。 

科学の進歩と共に新たな情報が増え、今までの認識に変化が生じる。認識の変化を止めることはできない。認識の変化は人間を含めた知的生命体の定めなのかもしれない。

宇宙に生命体が存在しないと考えてきた理由は、人類の無知にある。成長過程としてはやむを得ないことかもしれないが、数千年にわたり人類を無知に導いた責任は、無知だった自分達の先祖、過去の人類にある。中でも宗教指導者の責任は大きいと考える。 今も無知を引きずっているなら、その責任は今の人類にもあることになる。

人類は進歩し続ける定めにある。間違いに気づき、反省し、改善することは、人類が存続する限り続く。その過程を考えると、人類の進歩とは未知なる世界への挑戦であるように思える。 

全ては人間の知能の働きであるが、同時に無知による結果も含まれる。 

間違いはある。ただ何が間違っているかは、人類の進歩が明らかにする。

時代によって、視点や立場によっても間違いは違って見える。

間違いとは、時代における認識の違いのことでもある。

時代の認識の変化は人類の進歩にとって欠かせないものである。



* 2 宇宙の中の人類の存在意義について
   人類の存続こそ重要であると考えることに間違いはないのか?
  「人類の存続こそ重要である」と考えてきたのは、そう考えているのは、人類の無知、高慢さによるのではないか? 

人類は地球上で高度に発達した知能を持つ最も優れた最強の存在であり、地球の支配者である。人間以上に優れたものはいない。他の生命体と比べ、人間であることに限りない誇りと優越感を持っている。人類は永遠に繁栄すると思っている。

それは確かに地球上という、狭い世界の中では真実に思える。しかし、世界は無限の広がりを見せている。人類は宇宙の中では、大きさという点では、全く違う存在、無いに等しい存在である。

人間を宇宙における唯一の知的生命体と考えることは、世界を地球から宇宙に拡げないようにすることであり、宇宙は2兆の銀河が存在する無限の広がりを持っているという真実を隠すことである。



* 3 人間性について、人間性の定義、人間であることの意味

 人間性は人の持つ知性と認識が生み出す人間の特徴を表す表現で、それは作られたもの、絶えず変化するものでもある。人間の思考全ては、人間とは何かを模索することにより知的生命体である人間社会の理想を追求、実現していくための過程である。このことは人間に普遍性が無いことを意味する。

人間が間違いに気づき、反省し、改善し、進歩してきたのは、人間という普遍的な定義がないからである。

人間を宇宙における唯一の知的生命体と考えることは、宇宙を地球から拡げないようにすることと同じである。宇宙は現実に無限の広がりを見せているのに、それを無視し、世界を地球だけに限定すること、それ以外を知らないままにすることと同じである。

人間に普遍的な意味があるとすれば、人間に目的、存在理由があることになり、人間としての定義があることになる。すると、人間は限定された存在になってしまう。
人間に普遍的な定義が無いことが、人間に自由を与えている。

人間に普遍的な定義が無くても、一時的なものとして、また個人としても、自ら生きる目的や存在理由を作ること、合理的にふさわしい目的を考えることはできる。

宇宙に存在する無数の生命体も同様に普遍的な定義はないと思われる。どの生命体も時間軸の中で変化している。


人類が初めて地球外知的生命に遭遇する時、その生命体が知能の低いサルのように見えたとしても、数万年前の人類のような存在であるかもしれない。反対に高度な文明を築いた生命体に会えば、理解を超えた超人のように見えるかもしれない、が、それは人類の未来を示す生命体である可能性もある。

現在地球上に見られる生物についても同じことが言える。つまり地球上に見られる生物も今という時間に限定された世界での生物であり、人類も同様であるということである。

未来はどうなるのだろうか。未来のその時が来るまで誰にもわからない。

人間が認識できるのは生きているからであり、頭脳の働きのおかげである。それは生きている間だけの機能であるため、今という時間以外を認識することはできない。
未来は約束に基づく計画と想像であり、過去は記録である、と考える。


人間について考える場合、その視点、立場によって様々な考えが生まれる。

人間は今も自分を中心に考える傾向があり、自分中心の世界を作り出す。自分こそ世界の中心にある。しかし、人の成長と共に個人の世界は広がり、家族が住む地域から、町、都市、国、世界へと認識は広がり続け、地球上の人類の一員であることを知るようになる。世界は人間の成長と共に、より大きくなっていく。

地球が人類が住むべき唯一の存在、最後の場所のように思っても、そうではない。世界は無限に広がっている。今は宇宙に目を向け認識を新たにするべき時であり、全宇宙から見た人類、自分達の存在を客観的に見ることが必要である。 






* 4 自分の存在を理解する

人間は物事を主観的だけでなく、様々な観点に立って、客観的に見る、考えることができる。これは自分という存在があるからであるが、長い間、この自分という存在を間違って捉えてきたように思える。

他の人の気持ちや立場で考える、また感情移入ができるのは、自分の存在を知らない鳥や動物等との大きな違いである。感情的になってそのまま行動することは、実際には考える故の自分の存在を知らず、動物と同じように直接的に行動していることになる。


私、自分とは何か、どのように作られるか

人はヒトゲノム(遺伝子)により人間という肉体と頭脳を受け継ぎ、五感を通して入力される刺激や情報は頭脳が情報処理を行い、個人の認識を作りあげている。
生れた時から受け継いだ能力には個人差があるが、育てられる自然や社会環境などの違いからも様々な能力、個性に違いが生じる。

自分という意識があることに気づくのは幼少の頃ではないかと思うが、人によってはかなりの差があるかもしれない。

「生れて1歳、2歳と成長する中で、自分の意思で自分の体をコントロールできるようになる。親に名前を付けてもらい、自分の名前を呼ばれ、全ての物に名前があることを教えられていく。歩けるようになる。食べることができるようになる。話すことも始める。その頃は未だ自分の存在に気づいていない。
そうしている内に、自分の食べたいもの、欲しいもの、やりたいことなどを主張するようになる。自分の存在に気づく時期の始まりであると考えらえる。

この頃から、自分の意思を表すようになる。
それまでは置かれた環境の中で、親が中心になり、ことば、感情、慣習などすべてが入力され、基本的な認識が作られてきた。
自分を意識し始めてから、自分という存在、自分に命があることに気づき始める。それは自然環境、社会環境からの脳による学習によるように思える。

脳は人間の体の一部として、人体の成長と管理、維持・制御のためにあらかじめ人間の機能の一部として備えられているものである。複雑な体の機能についてはほとんど意識に上ることはないが、遺伝子と頭脳がその肉体を運用管理、制御している。その機能とは別に、頭脳は私、自分という意識、自分という存在を造り出している。

生まれてすぐの時点で自分という意識はないが、成長するにつれ、自分中心に考えるようになる。学習している。わがままを言うようになる。自我を通すようになる。」

こうした成長過程の中で、自分という存在に気が付き始める。

わがままを言うようになり、自分の思い通りにしようとしても、そうはならないことは多い。すぐにしかられることもある。親はわがままを許さない理由を説明する場合もあるだろう。兄弟がいれば自分勝手では喧嘩になる。これは新たな学習経験となる。自分の思うようにならないという過程が自分という存在に気づかせるのではないか。

自分の思い通りにしたい。しかし、そうはならない。すると、なぜそうならないのかと子供なりに無意識に考える。人間には知能があり、考える力がある。反省する能力、学習能力がある。これが理由で、気持ちとは反対の考えを知り、経験し、違う見方をすることができるようになるように思える。すなわち客観的に見る私であり、考えるゆえの自分の誕生である。

幼い頃のこととはいえ、「私って何だろう? なぜいるのだろうか?」など、気付き方は様々であっても、自分という存在に気付いた時のことを覚えている人もいるのではないか。

長い間この主観的な私と客観的な私を混同して、自分、自分の存在と重ねてきたように思える。同じ自分と表現しても、様々な観点に立って、客観的に見る、考えることができる自分がいる。これは主観的でない、考える故の自分という存在である。

人間を除く地球上の生命体には自分という存在が無い、ないしは無いに近い。それは人間以外の生命体には高度に発達した知能が無いからである。他の人の気持ちや立場で考える、また感情移入ができるのは、高度な知能を持つ人間の特徴である。


人類が抱える最大の問題点と思える、人間が自分勝手なあらゆる思い込みを作る理由は、実は考える故の自分を知らないことに原因があるからではないか。

人間の思いやり等に示される、他の生命体である虫や鳥や動物を人間と同じように考えてしまうこと ・ ・ ・ 例えば「命は大切だ。ペットは家族だ」と言いながら、数百億もの生きものを殺して食べているという現実 ・ ・ ・ なぜ自らが矛盾を作り出していることに気付かないのか?
理由は、考える自分知らないことにあるのではないか?

人格障害、多重人格などの問題も関係するように思える。



* デカルトの「我思う故に我あり」は正確な表現ではない。何故なら「思う前に、人間としての個体はすでに存在している」からである。

「私は思う」という時点で、「私」はすでに存在していることに注意が必要である。

ここでいう初めの「私は考えている」の「私」とは遺伝子によって造られた人間の体全体、特に頭脳を指していて、考えている故に存在している「私」とは頭脳によって造られた「自分という意識」「自分という存在」のことである。脳そのものが自分という意識を作り出している。

考えている故の「私」つまり「自分」とは、脳によって生み出された、作られた自分という意識であり、「永遠の自分」は実際には無いのに、生きている間だけ、脳が働いている間だけ、あると思っている。自分とは実際には死と共になくなる存在で、生きている間だけ存在している実体である。


* 脳が造り上げた自分という意識は存在しているとわかっても、脳の中に、脳細胞の中にあるかと言えば、そうでないことも考えられる。脳がなければ自分は存在しないのであるから、自分は脳の中にあると考えるのは当然と思われる。しかし、脳細胞の中を探しても、自分の存在は無いかもしれない。つまり、ホログラムのような存在かもしれない。

もしそうであれば、将来の可能性として、意識はどこにでも移動することも、存在することも可能になるかもしれない。


* 人間以外の生命体は生と死に関して、遺伝子に指示されている。生れることも死ぬことも自分から選ぶことができない。

知的生命体である人間だけが自分の死を選ぶことができる。なぜ自殺することができるのか。それは客観的に見ることができる「自分という存在」があるからである。
ただし、そうであっても、感情的になって、主観的に死を選ぶ人が多いように思える。

人間は死ぬまで生きるしかないと思っている。多くの老人(後期高齢者)の中には、死ぬためにだけ日々を過ごしているように見える人もいる。生きる喜びや目的があれば良いのだが、いつかわからない自分が死ぬ日を待っているかのように見える。

人間は死という運命に自ら逆らうことができる。生命体の運命である「いつ来るかわからない死」に抵抗し、自分で選ぶことができる。人間の特殊性と言うこともできるかもしれない。これは死に急ぐ自殺のことではなく、考えた上での選択としての死である。健全な思考力がある内に、人生の終わりに尊厳を持って命を終わらせることである。

個人の存在は生まれる前にはなかった。自分という存在は遺伝子と脳が作り上げ、死と共に消え去るものである。死とは生まれる前、存在する前に戻ることと同じで、存在が無くなることである。





5 信じる、信じられることの意味

信じるという機能は、脳の処理能力に限界があることに理由があるのかもしれない。人間の持つ五感には限界があるため、それを補強するために科学が発達し、多くの技術が開発されてきたが、それでも限界はある。

人間の思考の限界を越えているなら、人の反応は「わからない、理解できない」になるだろう。しかし、脳が処理できなくても、信じることで、人を納得させることはできる。安心することができる。信じるとは、脳の働きの限界を補う働きとしてあるのではないか。


注意が必要なのは、信じるという脳の働きが、人類の歴史の中で長い間、悪用され続けてきたことにある。わからない、理解できないという理由から利用され、多くの人が騙されてきた。逆に理念や信条を間違いないと信じることにより人は排他的になり、過激な行動を取り、人間同士の争い、戦争、世界大戦などが起きた。

信じることは、生き続けるための約束として、苦しみ、悲しみからの解放を願い、未来に夢と希望を持ち続けるために、必要とした時代があった。あの世があれば、天国があれば、死後の世界があれば、神様がいれば、それを信じることにより、この世の苦しみに耐えることができた。安心することができた。

死は苦しみからの解放も意味する。わからない死後に希望を持てれば、死を選ぶことができる。神を信じることで死の恐怖を克服し、安らかに死ぬことさえできた。

現実には無くても、信じることで真実にすることができる。それは今も同じである。

日本国憲法20条に「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と書かれている。
このように信仰を持つことは、人間の権利とされているが、信じることには大きな問題が含まれている。

信じることは救いになる。しかし、心の安らぎとは言え、騙されていてもわからない。つまり嘘、偽りであっても、わからないから信じられる。
信じるとは、安心と引き換えに、真実を捨て、現実を無視することと同じではないか?

キリストの教えが時代認識に一致しない理由については、「真実を求めて」の中に九つの例を挙げて説明を書いた。例えば、病気の原因について書いた内容を読めば、認識はすでに変わっていることはわかるはずだ。読んで考えて欲しい。


人間の五感には限界があるため、手品、マジック、催眠術、マインドコントロール等をうまく利用して奇跡を見せることも可能である。騙して、金銭を巻き上げる手口は昔からあった。信じさせれば、信じることは騙されることではないと思っているから、不正とは思わない。多くの人が信じていれば、騙されていたとしても気付かない。

幼い子供の頃から伝統や慣習を先祖代々からのもの、守り続けるべきものと教え込まれると、疑問を抱くことさえ困難になる。誰が、何のために、なぜ等、正確な背景を問うこともなく、ただ慣習に従っている場合が多いように思える。その慣習は遠い昔、先祖が現代の知識を持たない時代の考えに基づいていて、今の時代にそぐわないものが多い。

信じるとは世界を拡げないことである。世界を制限し、より小さい世界を作ろうとすることである。現実から目をそらせることである。特定の考えに縛り付けること、奴隷のように、隷属させることである。

それは現実の世界、無限に広がる世界を無視することでもある。

たくさんの宗教、政治形態、イデオロギーがあり、主義、主張、信じる内容は異なっているのに、自分たちに間違いはない、絶対正しいと考えることには明らかに矛盾がある。何の疑問も抱かずに正しいと信じることは騙されていることと同じではないか。

広い世界、無限の広がりに思える2兆の銀河の存在の意味を考えてみる必要がある。それは数千年にわたって信じてきた人類の間違いを正し、改善し、視点を変え、大きく考えてみることにつながるからである。



追記: 
信じる内容を正せるか?

人類は、わからないという背景から、過去数千年にわたり、ありとあらゆる願い、思いを想像し、作り出してきた。例として天国、地獄、死後の世界、神々、天使、悪魔、悪霊、魂、霊魂、輪廻、幽霊、お化け、ゾンビ、死んだ人間さえ神格化された。

どれを取っても過去においては、正しいものだった。間違いと証明することは不可能に思えたから、今に至るまで誰も手をつけず、曖昧のまま、答えはないと思われてきた。未知なる存在に対する恐怖もまた真実の追求を遅らせてきた。

存在が明確でなくても、わからないものを想像し、作り、信じることは、大昔の人びとの傾向であったように思える。今なら、わからないなら、わからないで留めて置き、客観的に、論理的に考え、研究の対象にするのではないだろうか。

シリーズ19 「神の真実の姿 その3」に、神という言葉、全知全能という言葉も、人間の無知の象徴であると書いた。天国も地獄も永遠の魂などの言葉もまた人間が無知であり、愚かであることを象徴しているように思える。

現実には、現実があるだけであることから思い込みを修正して先に進むことはできないのだろうか?

答がなく、又結論を出せないのであれば、なぜたくさんの宗教戦争が起き、争い合ってきたのか。
答えは単純であるように思える。信じる人にだけ、信じていることが正しいからである。それが人々を排他的にさせてきた。

そこで、まず、以下の問題点を吟味し、確認してみたらどうか。

・ 信じることには背景に、わかっていないことが関係している。それが理由で、たくさんの考えが作られてきた。
・ それは数百年、数千年も前の、現代の知識を持たない人々によって作られたものである。
 わからない部分に関連し、ここ数千年の間に何が証明され、進歩してきたか?
 それぞれの信じていた神々の存在は証明されたか? 死後の世界はあったか? 永遠の魂の存在は証明されたか?

 わからない存在は、数千年かけても結局わからない。分かろうとしないことも理由として考えられる。何も証明されず、根拠となるものも見つからない。しかし、わからないからと今も考えず放置しておくことは人間として、人類として進歩していないことと同じである。

・ わからないから奇跡だと神様を信じた時代はあった。しかし、今奇跡が起きない理由はなぜか?
 それは時代が変わり、奇跡とされた出来事の原因を追求し、なぜ起きたかを明らかにできるようになったからである。傾向として、現代科学は起きた原因を含め全てを明らかにし、奇跡を否定することになる。

神による関与ではなく、人間の無知と思い込みがそう信じさせてきた。つまり、昔奇跡により信じたことは、騙されたということと同じであるように思える。

昔の神々、神風などわからなかったものが、情報と理解が増し、何かがわかってくると、それは神でも、悪魔でも、何でも無くなり消えてしまう。気象現象などとして理解されてしまう。昔の多くの神々はどこへ行ったのか。

わからないから、わからない間だけ、人々が無知である間、わからない存在があることとなり、信じられてきた。

真実は現実であり、想像でも、想像物でもない。人類はこのことを理解し、現実に抱えている人類の諸問題を解決するために先に進むべきと考える。



若さと誠実さと信じることの問題
「信じる、信頼する」ということばの定義についても参考に。





* 6 視点、立場によって様々な考えが生まれる

視点が違えば意見は変わる。どの視点に立って考えるかが重要であるように思える。

「宇宙の中では限りなく無に等しい地球上の人間は、地球上に間借りしている存在でありながら、限りなく大きな存在であるような考え方をしてきた。それは人間中心の視点、社会、自己中心の考え方である。視点を人間の世界を超えて、地球全体、さらに大きな太陽系や銀河系、全宇宙にまで広げるなら、人間による一方的な主張に正当性はないことになる。

視点によって、言い換えると、観る立場で、持っている常識で、価値観で、どの枠で、どの公理系で、どの世界で考えるかで、質問に対する答えは変わってくる。

人間各自、人類も総じて、「より大きな視点に立てるか」がいつも問われている。」


チャーリー・チャップリンのことばがある。
Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot.
人生は近くから(接写で)見れば悲劇だが、遠くから(遠写で)見れば喜劇である。



広い視野に立つことは重要であるが、世界を理解するために狭い視野で物事を見てみることも必要に思える。必要に応じた考え方、広い視野、考える枠、時代、時代の要求、許容範囲など様々な視点で考える柔軟さが求められているように思える。

人間を、人類をどういう視点から見ることができるのだろうか。
例えば、遺伝子、遺伝子の存在が明らかになったのはごく最近であるが、その遺伝子から人間に関してヒトゲノム、クローン技術、IPS細胞などの医学の発展が見られ、今までにない親子、代理母、育ての親など人間に対する違った考えも生まれている。

時間、時代、歴史から、環境、教育、感情から等、視点を変えてみることはできるように思える。様々な視点で考えれば、新たなことがわかるかもしれない。

当たり前に使っている言葉に、思い込み、重大な誤りがあるのではないかと気付いたことをシリーズ11、14 「教える、教育する、学習すること」の中に書いた。

一つの例として、「教える」ということばに誤りがあると気付くためには、それなりの理由が必要である。
教える対象を人間ではなく鳥や動物に代えることから見えてくる「教える」ということばの問題点、学習することの意味について書いた。


長い間、親、学校の先生、教育者、個人も「子供や人を教えることが、勉強させる、学ばせる」ことだと思ってきた。しかし、教えることによって、人を学習させると考えてきたのは、間違いではないか、と気付いた。

鳥、動物を教えることができるか ・ ・ ・  試してみればすぐにわかることである。
学校の先生がどれほど一生懸命教えても、時間をかけても、何も教えられない。
なせか? 知能が低いと、記憶力も、学習能力もほとんどなく、学ぶことができないに等しいからである。ただし、知能が全く無いというわけでもないため、反復による躾(しつけ)は可能である。

気付いたのは、人間は自らの知能で学び、学習するのであり、人から強要されるからではない、ということだ。
「教える」と言うことばの意味は、情報の提供と模範を示すことに限定されるべきであると考えるようになった。

情報の提供は必要であるが、反省すること、また教訓を得ることは自分の知能で学習することによる。

勉強とは勉めて強いることで学習するという考えに基づいている。それは間違いである。動物に勉めて強いて勉強させても、何も覚えない。何も学ばない、学べない。
人間が学ぶのは、自分から、自分の知能で学習するからである。

躾(しつけ)の考え方は、家庭内暴力の原因にもなっている。力で強要することで躾ることができると昔から考えられてきた。

動物であれば知能が低いため、反復により躾けることは必要だ。しかし、高度な知能を持って学習する人間を同じように扱うことは間違いである。

幼少の時期であっても動物並みに、躾と称して暴力に訴えてはならない。子供が持つ学習能力に訴えるべきである。人間は力では納得しないからである。

子供の能力を過小評価することは重大な間違いである。
幼児や子供を躾と称して動物並みに扱うことは、人間の知能に対する認識不足であり、人間として許されない行為である。

言うことを聞かないという問題が起きると、感情的になり、力や暴力で処理しようとするのは、実際に力がある、あると思っているからであるが、これが悲惨な家庭内暴力を生み出している。原因は問題に対する理解と対処の仕方の欠如、無知にある。

人類の歴史は、力による暴力や戦争が多くの問題を解決してきたことを示している。しかし、力では多くの人に苦しみと悲しみを与える。人類が自滅する可能性に気付く現在に至るまで、力による解決では人類が存続できないことに気付かなかった。

力による解決は簡単であるからと実行に移すことは悲惨な結果を招くと、歴史が示している。現在、力による解決は人類に滅亡をもたらす可能性を秘めている。力により解決するという考え方を修正しなければならない。家庭内暴力を無くさなければならない。

子供は自分が置かれている環境からの情報と模範によって自らが学び、学習している。必要な情報提供は欠かせない。そして親を初め周りの全ての人が人間としての模範を示すことが大切である。ただ、人間としての模範も昔とは違ってきているかもしれない。

時代は大きく変わっているのに、人間としてどうあるべきか、その在り方が明確でなく、指導者の間に模範も示されていない。そこに社会としての迷いがあるから、問題が解決されない状態が続いているように思える。

今は昔からの常識、価値観、生き方をそのまま引き継いでいれば良いという時代ではない。周りに惑わされることなく、単に追随するのではなく、十分に考えて行動することが必要であるように思える。



様々な立場や視点で考えてみることで、今までの間違いに気付いたり、新たな発見があったりするかもしれない。人類は様々な視点で考える柔軟な思考により、人間としての進むべき、あるべき道を模索し、現在人類が抱えている重大な問題を克服していくことが必要である、と考える。

どんな問題があるのか ・ ・ ・  :* 8 やがて迎える人類存続の危機 に続く





* 7 人類は死をどのように克服するのか

生と死は、時代によって認識に違いがある。つまり、生と死に対する意識は人間にとって思い込みと同じである。作られた意識であり、現実には、現実があるだけである。

死に関する思い込みとは、肉体は死んでも霊魂は永遠に生きる、神様により天国に行く、地獄に落ちる等様々ある。これらはみな人間により作られたものであると考えられる。

人類は自然界に叡知を発見し、探求し、法則や理論を作り出した。自然界には物理や数学の法則の元になる叡知がある。それを応用することにより火星まで行こうとしている。自然界に見られる現実は人間の意識によって活用することはできても、元々ある叡知を変えることはできないように思える。人の願いや思いで作り出されるものではない。これが現実には現実があるだけという意味である。

人間の意識によって作られた、思い込みには基本的に進歩しないという特徴があるように思える。美しさ、醜さに基本的に進歩はない。神も仏も天国も地獄も大昔から変わらない。なぜ変わらないのか、進歩しないのか?
それらはみな、人間の思い込みによる想像の産物で、元々無いものであったり、理解不能なものであるからではないか。

あると信じていたものが、人々の認識に変化が生じると、無くなってしまうことがある。
空の上、雲の上、ずっとずっと上の方に神様がいると信じられてきた。科学的知識がない間、理解のない間、それは真実であった。しかし、科学が進歩し宇宙への理解が深まると、認識は変わらざるを得ない。現在そこにあるものは、地球上から打ち上げられ数万にも上る人工衛星などの人工物である。天国は空の上にあると信じられてきたが、どこまで行っても天国はない。これが現実である。

昔は無かったが、新しいものは、科学の進歩と共に想像できない程見つかっている。
物質は細かくすると様々な化合物、元素からできている。水は酸素と水素の化合物
地球上には100?の元素がある。原子は原子核、中性子と陽子、電子で構成され、それらは更に小さな素粒子クウォークでできていている。素粒子の世界、医学の世界でも細菌、ウィルス、まだまだ新しいものが見つかりそうだ。
宇宙には2兆の銀河、これだけ考えるだけで、人類は無知の存在に尽きるように思えるが、人類は諦めることなく、真実を求め続ける。

科学の進歩により、知らなかった無いものがあるようになる。その数は増えるばかりで、無限大である。
それとは反対に、過去の人類が作った想像の産物は消え去っていく。人間の昔からの認識を変えることが必要である。

死に関する思い込みは、現実、真実に対する理解と認識が増せば変わっていくと考える。

何度か書いたが、自分の、私という存在は、脳が作り上げた意識のことで、死と共に無くなるものである。死ぬとは、生まれる前の状態、存在がなかった時に戻ることであると考える。

科学、医学等の発展はやがて生命体がなぜ死ぬのかを明らかにすると思われる。ただ、死を克服し、単に寿命を伸ばすことが望ましいかどうかはわからない。死を受け入れ、安らかに死んでいくことの方が望ましいのかもしれない。

人間は現時点では死ぬ定めにあり、拒むことはできないため、死を当然のこととして受け入れることが望ましい。
ただし、死ぬ時期、年齢、理由(事故、病気、自殺等)、送る方法、などは様々考えられる。安楽死というシステムの開発と導入理由、方法も考えることが必要に思う。

日本における葬儀のあり方が変わってきたのには大きな理由がある。今までの自分達の無知に気付き、認識に変化が表れたためであると思う。大金をかける儀式、人の誇りや名誉に大きな意味がないことに気付き始めたからだだろう。

葬儀のことだけでなく、わからないからという理由から野放し状態であった様々な思い込みを正す時期に来ているのかもしれない。
人々の認識が変わるのを待つべきなのか? それとも、積極的に人々を啓蒙すべきか?

自分という存在が無くなることを認めることは難しい。誰も死にたくないし、死んだ経験のある人はいない。だから死後のことは何とでも言える。

死を克服するとは、人間の真実の姿を認め、受け入れることであると考える。

人類の過去六千年の歴史は人間の真実を知る期間として十分に思える。




* 8 やがて迎える人類存続の危機

物理学者のスティーブン・ホーキング博士は「宇宙にはたくさんの生命体がいると考えられるが、高度に発達した文明は滅びてしまう」と語った。ホーキング博士なぜそう考えたのだろうか?

宇宙に存在する全ての知的生命体は同じような条件で生れ、同じような文明の発展を経験するからか?

高度に発達した文明を作り上げた知的生命体の中には、人類を遥かに越えた文明を持つことも考えられるが、人類以上に長く生存している知的生命体は実際に存在しているのだろうか?

人類はどのようにしたら文明の崩壊を避けることが可能なのだろうか?


全ての文明の崩壊が起きる可能性について、気付いた一つの理由をシリーズ10「自分とは何か」の中に、以下のように書いた。

「自分という存在は、自分が作りあげただけのものではない。自分自身を主に作ったのは遺伝子と自分の脳の働きであり、その結果である。

自分が努力して作ったのは、自分で考えることができるようになってからの自分のことで、それまでの体も能力も受け継いだものであり、自分が創ったわけではない。
その人間としての生まれ持った能力は個人に属するものに見えても、人間として、人類として、ヒトゲノムとして持っているものであり、受け継いだものである。

ニュートンは万有引力の法則を発見した偉大な物理学者である。では、ニュートンがいなかったなら万有引力の法則は発見されなかったのか。個人の考えでは、答はNO.で、人類の他の誰かが発見し、作り出したはずである。

アインシュタインは物理学者として人類に生まれた偉大な人である。もしアインシュタインが生れなかったら相対性理論は生まれなかったのか。同様に答はNO..で、人類の他の誰かがそれを発見し理論を創り出したはずであると考える。

このことは何を意味しているのか。

特定の人が科学の分野で新たな理論の発見や発明に貢献するが、それは人類の誰かがそうする可能性はあるという意味であり、その人がいなくてはできないということではない。人類としていずれ誰かがそれを発見、発明するという意味である。科学の世界ではそう思える。

時代背景を戻すこと、変えることはできないが、可能性として、人は誰でもニュートンにもアインシュタインにも値する能力を持っていると考えられる。

人類の歴史は人間の持つ可能性を示している。ヒトゲノムの持つ可能性である。

今に至るまで、人は自分の命も能力も才能も自分のものだと思い込み、個人の功績を讃えることが一般的になっているが、重要なのは自分を作っているのはヒトゲノムであり、その本体は自分が造ったものではないことである。

それぞれ人は気付いた時には自分は存在ていて、それ以降、個人の好み、努力、意志によって学業やスポーツなどにおいて多くのことを成し遂げてきているが、その個人を作りあげる時代背景や自然・社会環境も関係するが、重要なのはその功績は実際には個人ではなく遺伝子により造られた人間そのものが作りだしていることである。

このことは必ずしも人類に明るい未来があることを意味してはいない。言い換えるなら、科学の未来において、人類が進歩することは、同じ道をたどる、つまり科学の世界の未来は同じようになることを意味するようにも取れる。」

知的生命体はみな同じ科学的な進歩を遂げることが、宇宙に存在する高度に発達した文明すべてが滅びてしまう理由の一つとして考えられる。

人類が宇宙の中で知的生命体として存在が認められるには、それなりの条件が必要に思える。人類が自分たちの文明の崩壊を乗り切れないようでは、どちらにしても、その資格はないことになる。


人類が抱えている人類の存続を脅かすことには次のような問題が考えられるが、人類が主な原因、理由であり、その影響であるように思える。

人口増加、それに伴う食糧資源、食糧生産、水の確保、ごみ処理等。
人間が作り上げた科学技術の制御、核戦争、新たな生命体、偶発的ブラックホール、人工知能など。
気象変動、地球温暖化、新たなウィルス等。

地殻変動、地震、津波等の心配もある。
天体との衝突、地球外生命体との遭遇も考えられる。
それ以外にもたくさんあるだろう。

人類の未来は人類の存続という前提、条件にかかっている。
絶えず変わり行く世界の中にあって、平和も安定も維持すること自体が人類の存続への挑戦である。

ヒトゲノムの可能性として将来の必然性について述べたが、それとは別に、問題の本質は人間の遺伝子ヒトゲノムそのものにあるかもしれない。

なぜそう思うのかというと、「人類の敵は人間であるから」である。

人間である自分を中心に、地域を中心に、社会、国家を中心に考えることが敵を作り出してきた。利己的であることが敵を作り出すように思える。
人類が作り出した武器は、敵として人類に対して使われてきた。同じ人間を敵としてきたからだ。敵であるべきではない同じ人間を敵にする。それは様々な理由から作られる人間の思い込みによる。


優越感の問題:
人間は生き残るために力を持つことが重要と考えてきた。ここに問題があるのではないか?

ここで言う力とは他の人よりも優れている、秀でていることである。
知識、情報を多く持っていること、学力、成績が大切にされるのは、将来より優位な立場に立つためであると考えられている。より大きな影響力を持つためには学力、富、権力が必要である。

人類はより強力で致命的な武器を持つことが優位に立つことだと考えてきた。世界大戦を二度経験したことから、戦争はすべきでないと学んでも、核兵器は人類を抹殺する以上に保有され、新たに保有しようとする国も後を絶たない。戦争ができないなら、経済力で優位に立とうとする。あらゆる方法、手段を使って優位に立とうとする。

人間には素晴らしいと思える人類愛、誠実さ、謙虚さがある一方で、醜い争い、傲慢さ、卑劣さもある。
人類の歴史は戦争の記録でもある。人類のその傾向は全く変わっていないように思える。ヒトゲノムは好戦的な遺伝子を含んでいるのではないかと思えるほどである。
人間の指導者には好戦的な人もいる。それを選んでいるのは大衆であり、大衆も好戦的である。

人間とその命、人類が作り出す科学技術は両刃の剣と同じで、どう扱うかで未来が変わる。人類の存続の危機は人間の命が産み出したものに思える。

今までの人類の傾向からすれば、当然の結果として、人類は存続の危機を迎えることになる。それは人類に責任があることを意味している。


気になるのは、それはいつかということだろうか?
それはホーキング博士が指摘した100年という時間より早く来る可能性もあるように思える。人類はすでに存続の危機にあることを認識できないのだろうか?


人類が他の知的生命体を知らない理由は、必ずしも文明の崩壊を乗り越えた生命体が存在しないからではなく、人類より進んだ文明を持っていても、光を越える移動手段を作れないからとも考えられる。

光の速度は秒速30万km、人類が作ったロケットの速さは地球からの脱出速度で秒速11.2km、およそ27、000倍の違いがある。
宇宙の広さはわかる範囲だけで約1000億光年とされるが、現在の人類の技術では、その27,000倍の時間がかかる。
銀河系(天の川銀河)は10万光年の大きさである。人類にとっては10万年の27,000倍の大きさである。
光の速さで太陽系を出るためには1.75年かかるとされる。、現在の人類のロケット技術では1.75年の27,000倍、つまり47,000年の時間がかかる。太陽系を出るだけでも今の技術では不可能に近い。
電波等による交信する試みでも、成果を期待しても途方もない時間がかかるように思える。

人類が抱えている問題の解決が優先されるべきなのは、対処するための時間がますます少なくなっていくからで、人類存続のために今ある時間は非常に貴重であると考える。

文明の崩壊を逃れた生命体が存在しているとしても、他の知的生命体に助けを期待することはできないだろう。根本的な問題は人間、人類そのものにあるからで、自分たち人類が解決しなければならない。

「人類は間違いだらけの中にいる。その結果を人類は刈り取ることになる。
人類が生き残るためには、人間の社会が作られる目的、理由、あるべき基本的な姿、そこから考えられる人間の在り方、ルール作り、そしてすべての人が学習を通して人を信頼することを学び、責任を持ち、果たせるようにすることであると考える。」  





*9 人類はなぜ100年、1000年先の未来を想像できないのか?

いくつもの理由が考えられるが、以下の理由をあげてみた。
1. 時代の急速な変化
2. 人間持つ能力
3. 時間に関する理解の問題


1. 時代の急速な変化

有史以来20世紀に至るまで、科学が大きく進歩していない時代には、その時代の変化は小さく、1000年経っても世界は大きく変わらないように思えた。そうした時代では誰でも今までと同じように生活することを予想し、期待しても裏切られることは少なかった。しかし、科学に進歩が著しい現在、昔とは大きく違っている。

小さな変化と思われても大きく未来を変えるかも知れず、予想もしない方向に進ませるかもしれない。

新型コロナウィルスの発生や50年に一度と言われた豪雨が毎年のように起きているのも未来の予想の難しさを表しているように思える。

新たな可能性の増大が、未来を固定的に考えることを難しくしている。

2. 人間持つ能力

未来を予測することが困難な理由についてはシリーズ7の中に次のように書いた。

「1世紀当時に未来を想像しようとしても、現代の飛行機も、ジェット機も、ロケットも、スマホも自動車も思いつくことはできない。このような未来の予測は不可能なことである。

自分の時代という枠から未来を想像しても、結局はその時代の範囲以外の未来を想像することはできない」と思われる。

なぜ時代を超えて予測、想像することは無理に思えるのか。

それは ・ ・ ・ 未來を創っていくのに順序、順番があるからだ。

空を飛ぶためのジェット機の存在には、飛ぶための知識、グライダーの発明、動力機関の発明、ライト兄弟の存在、フライトの実験、長距離飛行、より早く飛べる飛行機の開発、エンジンの改良、プロペラ機、ジェット機、輸送機の開発等に見られるように、発展していくという過程と順序がある。

物理学にしても、突然何の背景もなく新たな理論が出てくるわけではない。アインシュタインの相対性理論にしても、事前にニュートン力学を初めたくさんの人の研究と成果があった。

多くの人達の地道な研究と支えがあって、その中から新しい発明や理論が生れるのであり、一連の過程なしにできるものではない。

想像にも段階がある。ある発明に至るにはその前の一連の段階が必要である。研究の成果は積み重ねの上にある。発想の転換でさえ、転換の前に考えがある。人間の世界では、それなしに突然、未来が見えることはない。

未来はわからない。今の技術を持って想像しても、考えられるのは今ある知識の延長線上、また応用上の想像であり、全く考えたことも見たこともない未来を思いつくことはない。未知の情報は脳の中にないからだ。


3. 時間に関する理解の問題

現在、過去、未来という表現はよく使われるが、当たり前のように使っていても、時間にはわからないことが多い。

ビデオカメラで今を撮影すると、今は同時に過去になる。ビデオに映っているのは過去である。今と過去が同時に進行しているように思える。
つまり過去と考えているのは時間で言う過去ではなく、連続した今のことであり、記憶、思い出として自分の中に連続した今があると考えられる。今という記録のことである。脳は今という時間しか認識することができない。

今とは瞬間という意味ではなく、今日、広い意味では人生を意味することができるように思える。

Today という歌がある。The New Christy Minstrels ニュー クリスティー ミンストレルズというグループにより1964年に大ヒットした。歌詞の内容は今日を大切にというものだ。
最近気付いたのだが、それは単に歌詞の意味だけでなく、時間に対する考えの間違いを示していたのかもしれない。

Today while the blossoms still cling to the vine
I'll taste your strawberries, I'll drink your sweet wine
A million tomorrows shall all pass away
Ere I forget all the joy that is mine today


元来、時間という言葉はなかった。人類が生まれる前、時間は無かった。宇宙が生まれる前も時間はなかった。時間は人間が造り出したことばである。
人類が生まれる前、地球ができる前に時間があったと言っても、それは現在の人間の考えであり、今ある時間を基準に過去を遡って計算し作り出したものである。

地球は自転している。日が昇ると朝になり一日が始まる。日が沈み暗くなると夜で一日が終る。遠く離れた位置から太陽と地球を見ると、地球の半分は太陽の光を浴び、ただ自転しているだけである。太陽が昇ると一日が始まると思っていても、地球が自転しているからである。

人類は太陽の動きから一日を決め、地球が太陽の周りを一周することを一年とした。人類は自然界の変化の中に規則性を見つけた。周期、決まった動き、安定した規則性は確かにある。時計の発明は周期的な動きをより正確に測るようになり、一秒の基準が作られた。
ライブドアニュースによると、現在の1秒定義は「セシウム133の原子の基底(きてい)状態の2つの超微細準位の間の遷移に対応する放射の周期の91億9263万1770倍の継続時間である」と定められています。
2012/05/08
と書かれている。
正確な時間を作っても、重力や光の速度で時間は変わるのは、時間は絶対的な意味をもっていないからではないのか?


時間としての未来は実際にあるのだろうか?
100年、1000年後の未来はあるのか?
時計の時間からすれば、あるように思えても、実際には今、現在という時間以外を認識することはできない。

誰でも明日という未来はあると思っている。日付が変わり、明日がやって来る。数ヶ月、数年後に計画した旅行の日がっやって来る。だから未来がやって来たように考える。しかし、それは規則的な動きのことで、そう認識できるのはいつでも今だけである。

未来とは計画、予定のことであり、想像、夢なども関係するが、未来はその時が来ると、現実になり、現実として認識することができる。それは今だけである。未来という時間があるからではないように思える。


過去も時間のように表現されるが、実際は時間ではなく記録のことではないか。

恐竜の化石があるではないか。それは過去に恐竜がいたことを示している。過去という時間があったと考えることは理にかなっているではないか。

時計で測ればその通りである。確かに恐竜の化石があり、恐竜は実在した。記録としての恐竜の存在があったことは事実である。それは恐竜が生きていたという今、現在があったという意味であり、その記録が残っていて、人類が認識できる。
認識できるのは記録であり、時間ではない。

1万年は地球が太陽の周りを1万回周る時間の意味であるが、時計で言う時間はあっても、時が経っている時間はあるのだろうか。

時計の時間は人類にとって欠かせない道具である。現在、過去、未来と考える上で欠かせない。しかし、どれほど便利であっても、時計としての時間を時の流れとして認識することには重大な誤りがあるかもしれない。なぜなら、時間的には過去も未来もないように思えるからで、実際にあるのは今、今日、現在だけであるからという理由による。

人間が認識できるのは、人間が生きていて、五感を通して脳が働いているからであり、それは今という時間だけである。

誰でも今が一番若い。自分の存在を認識できるのは、今生きている自分の存在があるからである。人生は今、今日という連続の記録のことであると考えられる。

時の流れを時間で表現するのは大変便利であることはわかるが、過去は時間として存在していたかは疑問である。
今とは連続した今までの結果であり、過去という時間の結果ではないように思える。
今しか認識できない人間にとって、時間は今しかないように思えるのだが ・ ・ ・ 。

時の流れを時間で測ろうとすることに間違いがあるのではないか?
変化の原因は何か?




雑感:
どこにいても共通する時間として、宇宙には絶対時間があると考えることはできないか?

何億年前からの光が地球に到達していると言っても、光を基準に考えることに間違えはないのだろうか? 光の速度を基準に考えることに誤りはないのか?

宇宙の中で地球は面積を持たない点のようであるが、地球上にたくさんの生命体が存在している。人類は、実際にはもっと小さい素粒子の世界が存在することを知っている。
であれば、比較対象を考えずに、地球上の人類は改めて自分達の置かれている位置に人類の世界を作り直すことができるのではないか?


人類が新たな生命体に遭遇する時、それは同じ時間なのだろうか。
2100年人類は惑星Aに新たな生命体を発見した。発見自体が驚きなのに発見された生命体はたくさんいて、猿に似た生命体が含まれていた。
研究の結果、遺伝子の詳細から人間の遺伝子とほぼ変わらないものであることがわかった。それは人間の先祖と同じと結論が出た。
時間軸でみると同じ時間で出会っても、その星では一万年前の地球のような状況かもしれない。つまり、今見ているものを、同じ時間で考えることは全体を見ていないことを意味するかもしれない。
逆に、はるかに進んだ文明に遭遇すれば、それは人類の未来を意味する場合があることも考えられる。
それを同じ時間で、同じ時間軸で見て、よいのだろうか。



* 10 地上の人間と他の生物との違いは、知能にあると考えられる。
   なぜ知能が存在するのか。

知的生命体を除き生命体に自分という意識はない。
生きている自覚も、認識もない。生きていることさえ知らず、ただ存在しているだけに思える。
知能が高度に発達していないと、自分という意識を持つことはできない。
現在、地球上では人間だけが高度な知能を持つ。
しかし、これほどまでの知能を持っていても、人類は未だに存在の意味を全く知らない。

存在の意味がわかることには、どのような意味があるのだろうか?
知的生命体にはどういう意味と目的があるのだろうか?
知的生命体の存在が無いなら、存在自体に意味は無いように思える。

文明の崩壊を乗り越えた知的生命体であるなら、今の人類のように優越感を求め、力に訴えるような行動を取るとは思えない。
文明の崩壊を逃れる、乗り切る、解決するためには自分達の存在の意味を考え、反省し、改善し、修正すると思われる。基本的に利己的ということは無く、争いもなく、科学文明を制御できると考える。

人類はそうなるのだろうか。その時、生きる目的はどうなるのだろうか?


知的生命体が存在する理由

この質問は人間はなぜ存在しているのかという質問と同じであり、今も確かな答えはない。昔から創造説、進化論があるが十分に納得できる内容ではないと、シリーズ24「人間性を考える」の中に書いた。明確な答えはあり得るのだろうか?

自然界に英知を認める科学者はたくさんいる。宇宙にも優れた知恵があると。背後に製作者の意図と存在があると考えられてきた。
しかし、人間が理解できる範囲、人間の世界では製作者がいると考えても、理解を超える世界、素粒子から宇宙にまで同じように製作者を考えることに間違いはないのだろうか。人間の思考の限界を超えているなら、答えようがないように思える。

知的生命体の存在がなければ自然界はあるがままである。
知能があるから、なぜかと疑問を持ち、理由を考える。
知能があるから反省し、改善し、進歩することができる。
知能がなければ存在の意味を考えることもない。全てがあるがままの世界になる。
知能があるから考え、そしてすべてが存在していることを知る。

人類は高度な知能を持つ存在になった。その知能により人類の文明を構築してきた。

知能はなぜあるのか?

ことばがあるからだと考える。言葉は情報を取り扱うシステムのことである。
ではなぜことばがあるのか?
ことばは元々遺伝子としてある。人類はそれがプログラムであることを長い間知らなかった。
単細胞生物であっても、遺伝子で作られている。ことばでできている。
人類は遺伝子であることばを操ることができるようになった。しかし、一つの単細胞生命体さえ未だに造ることはできない。

生命体はなぜ存在するのかという基本的な質問に答えることが必要に思える。
知的生命体が存在するのはなぜかに答えるためには、単細胞生物がなぜ存在するのかに答えることが必要に思える。


遺伝子と言っても、様々な元素で作られている。それぞれの元素は原子から作られている。なぜ原子の存在があるのか?

原子は陽子と中性子と電子からできている。さらに細かな素粒子クオークから作られている。さらに小さなものから作られているとされる。結論は出るのだろうか?
わかると、またわからない質問が生じる。どこまでいけばわかったことになるのか? 行先不明、結論不明である。

全ての存在理由がわからない。元素の周期律表を作れても原子の存在理由がわからない。わからなくても全ては現実に存在している。
本当はわかっていないという現実の上に人類の進歩があり、全てが作られている。

しかし、この宇宙に人類を含めた知的生命体の存在が無いなら、すべての存在に意味は無くなってしまうように思える。



宇宙にはたくさんの生命体が存在しているか?

無限に広がっているように見える宇宙には地球と同じような条件で存在する天体は数えきれないほどあり、生命体が地球上に存在するのだから、様々な生命体は存在すると考えられる。

このことから、同じような条件がそろえば、生命体は自然現象として作られるか、という質問が出てくる。もしそうなら、その条件とは何なのだろうか?

あるいは、全ての生命体に共通の製作者がいるのかという質問も考えられる。
宇宙に存在する全ての生命体が遺伝子からできていることがわかるなら共通の製作者という考えも出てくるかもしれない。

現在人類が気付いていない重要な理由がある可能性もあると考えられる。

人類はわからないという理由から、たくさんの過ちを犯してきた。
わからなくても、ここは注意深く、賢く、存在の意味については未来の人類に託していくことが必要に思える。




追記 

答えは無いかもしれないが、次の様に考えてみることも何かの役に立つかもしれない。

全てに存在理由は必要なのだろうか?
なぜ必要と思うのか? 何故と考える習慣があるからではないか?
なぜとは何か? 理由や原因を尋ねるための言葉であると教えられてきた。
何故という意味を新たな視点から考えてみることはできないか?
何故という意味をなぜ考えるのかと?
本質、目的、理想、

あるいは、今まで正確に伝えるための確認事項として5W1H(いつ、だれが、どこで、何を、なぜ、どのように)があるが、より正確であるためにそれ以外に新たな視点を求めることはできないか?

人類は何のために進歩することが必要なのか?
必要ということではなく、知的生命体が持つ知能の必然、宿命みたいなもので、知能が進歩することを求めているからではないか?



マイケル アレフ 2020年8月