マイケルアレフのことばの不思議な世界


人間性を考える

35年ほど前、米軍基地に就職した頃のことを書いた記録がある。歳を取った今もその考えは変わっていない。

「定年間近の人達と共に働くことは確かにためになった。自分の将来を写す鏡として見ることができたからだ。その結果、次のように考えるに至った。 

「年をとった人は知識と経験をより多く持っているから、お年寄りは大切にしなければいけない」と教えられてきたが、これにはとんでもない間違いが含まれている。年配者に敬意を払うことに関してではない。 

年と共に知識と経験は自動的には積むことはできないということだ。当人の自覚、人生に対する姿勢、理解しようとする気持ち等が無いとただ単に歳をとるだけになってしまう。 

尊敬に値しないお年よりはたくさんいる。当時そこにいた多くの人は人間としての成長を恐ろしく阻害された形で存在していた。つまり精神的に、又人間として、まだ子供のままなのである。」

では、35年前の自分と今現在の自分を比べて、人間として進歩したと言えるのか。

もちろん進歩した面はあっても、果たして人間として進歩したと言えるかとの問いには簡単に答えることはできない。

ここに人間の進歩とは何なのか。人間の定義があいまいな理由が隠されているかもしれない。

人間は一定の認識において成長することはできても、それ以降は変わらないのかもしれない。若い人でも人間的に優れていると思える人はいる。それは年齢や時代だけの影響ではないように思える。 

塩野七生氏のローマ人の物語を読むと、2000年以上も前の古代ローマ人でも今でも十分に通用する人間として優れた資質を示した人たちがいたことがわかる。広い視野で物事を考えることの出来る人はいた。なぜその時代に聡明な人はいたのだろうか。

どの時代にもそうした人間的に優れていると思われる人々はいたように思える。

「数千年にわたり人類全体としての人間性に進歩は見られないように思う。人間性は子孫に自動的に受け継がせることができない。子供は新たに学び直さなければならない。」と以前は考えていた。

そして、人間性が成長しない理由は、人間の“教える、学習する”という意味、人の認識がなぜ違うのかを正確に理解してこなかったことにあるのではないかと考えた。

しかし、今は人間、人間性という表現に問題があり、それが何を意味しているかを示す正確な定義はなく、人間性があるという前提がすでに間違いである、と思うようになった。


その理由、人間、人間性になぜ正確な定義がないのか

現在、人間の存在理由には次のような考えがある。

1.進化論、人間は生物が進化して現在に至るという考え。

2.聖書等の神(未確認の知的生命体を含む)が人間を創ったという創造説。

3.その他、 諸説あると思われる

1.進化論が正しいとすれば、現在の人間も進化している過程にあることになり、現時点で人間という存在はあっても、それは変化してきた結果であり、未来において今とは違う存在になる可能性があることになる。

例えば、人間が猿のようなものから進化したとするなら、過去のある時点では人間は猿であったことになる。海からの生物が進化して爬虫類となり、猿となったのなら、魚だった時期もあることになる。そう考えると、現時点の人間を変わらない存在と考えることはできない。人間性など初めからないことになる。人間とは現時点での定義であり、どう定義しても、普遍的なものにはならない。これは人間、人間性に完全な定義はあり得ない理由になる。

2.聖書の創造説では神により人間が完全なものとして造られたことが書かれている。しかし、完全という意味が不明確であり、欠点や不足が全くないという意味であれば、人間に進歩は無いことになる。人間が間違いを犯し、反省し、改善し、進歩してきた事実は、人間が完全ではないことを示している。初めから完全であれば、進歩も自由も無いことと同じ意味になる。

人間がプログラムにより造られている事実は製作者の存在があったことを示しているように思えるが、製作者は全く未知なる存在であり、どのような存在で、何を目的としていたのかもわからない。

人間に適応能力があることは。人間に知能があることがその理由であり、人間は地球を支配するまでに変化してきた。同時に利己心と利益追求により人類の存続の危機を招いている。人間が変化する存在であることは、人間に完璧な定義はあり得ないことを意味する。


1,2のの理由から進化論も創造説も基本的に人間性に完全な定義を求めることはできないという結論になる。それぞれの時代における人類の持つ性質から、部分的に人間性を定義することは可能かもしれない。 

人間の存在理由に関して3.それ以外に諸説はあるが、個人的にはわからない。



創造説に関連して疑問に思っていたことはある。

人類史の初めから、地球上に高度な文明が存在した痕跡がある理由は、高度な技術を持つ知的生命体の存在があったことを示していると考えられる。しかし、その生命体がどこから、どうやって地球にやってきたのかがわからない。

現代の科学をもってしても、人類は火星にやっと行ける程度である。太陽系以外の天体から来ることができたのだろうか。大きな謎である。

物理学者のスティーブン・ホーキング博士は「宇宙にはたくさんの生命体がいると考えられるが、高度に発達した文明は滅びてしまう」と語っていた。博士はそれを、人類が他の知的生命体を知らない理由であると考えていた。そして、地球の人類文明の危機に関連して100年という時間をあげた。

個人的に可能性として思うのは、高度に発達した文明がたくさんある中には、危機を逃れたものもあるのではないか。危機を切り抜けた知的生命体もいたのではないか、という点である。

現在の人類の文明の発展速度を考えれば、人類でさえこの危機を乗り越えることができれば、それこそ無限の可能性を夢見ることさえできるように思える。

もし宇宙に危機を逃れた文明があるとすれば、その文明は想像できないほどの発展を遂げている可能性もある。時間の概念を変えている可能性もあるのではないか。宇宙間移動さえ可能にする技術を持っていることも考えられる。そうした知的生命体が地球上に高度な知能を持つ生命体を送った可能性もあるかもしれない。

人類の歴史は、有史以来6000年程とされるが、はるか昔から存在していた可能性もあるのではないか。

高度に発達した文明はなぜ危機を迎えるのか。すべての文明は同じ理由で危機を迎えるのか。文明の進歩の究極が滅亡になるのはなぜか。
一つの理由として思うのは、科学の進歩には必然性があるからかもしれない。

高度に発達した文明の危機を乗り越えてきた生命体とは、それなりの生命体でなければならないだろう。人間のように利己的で利益を追求することが中心のような存在では、危機を乗り越えられるとは思えない。

人類が生存し続けるためには、その在り方を根本的に変えなければならないのではないか。


現時点での人間としての望ましい資質、好ましい資質、それに反して望ましくない資質、好ましくない資質を考えてみると、何を基準にして望ましい、好ましいと言えるのかが問われる。

人類の存続に役立つ資質を好ましいものとし、その反対を好ましく無いものとするということにしても、資質そのものが立場や、状況、見方によって判断が分かれるように思える。

人間性について普遍性はないと思うが、人間の持つ信頼関係は人間性の最も重要な資質に思える。信頼は社会の土台であり、それなくして社会は成り立たないからだ。

「人類は、人類社会の助けこそ現実的で、真実で、確かなものであることに気付くようになってきている。
人間は当てにならない部分、利己的な面は今でもあるが、社会として、人類として成し遂げてきたことは多く、確かな存在であることを実証してきた。人類として信頼し、協力し合うことができるなら、これほど確かなものはないように思える。」

信頼とは何か。信頼とは約束を守ることであり、約束に責任を持つこと、果たすことである。信頼をゆるぎないものにすることが、人間として、人類としてあるべき目標なのかもしれない。

マイケル アレフ 2019年11月