マイケルアレフのことばの認識は世界を変える
シリーズ32 大自然との調和
その5 大自然と人間の価値観の違いについての具体例
例1 大昔から在る死について
例2 神について、信じることの意味について
例3 美しい、醜いが無い理由
例4 大自然の中に英知、愛はあるか
例5 人間の感情について
例6 人類を滅亡に導く原因 それは力を求めること、優越感にある?
大自然との調和 2022年6月〜
その1 大自然は在るがままの真実を示している
その2 間違いについて
その3 真実という基準はあるのか
その4 想像をはるかに超える無限のシステム

その5 大自然と人間の価値観の違いについて具体例
自然界は在るがままであり、自然界に人類が大切だという考えはない。人間は自分たちが大切だと考えているだけである。
人類は重大な間違いをしてきたように思える。結果として大自然を軽視し、自分たち人間の考えで、自分たちの世界を作ってしまったことである。
人類はその歴史の初めにおいて、大自然について、それが何かを知らなかった。それ故、間違いは避けられなかった。
考えはことばである単語や文章から作られる。人類が作ってきた考えには、その文明の初めから間違いがある。
問題なのは、情報が十分にある今になっても大昔と同じままで、当時の考えを引き継いでいることである。それは人類が今も愚かなままである背景と考える。
大自然に間違いはない。争いはない。争いに見えても、そこに人間のような思考も価値観もなく、あるがままの現実があるだけである。
人間の世界には思考と感情があり、人間の思い込みから価値観の世界を作ってきた。その価値観故に人類の歴史は戦争の記録で一杯である。優越感と快楽を求めることが、私利私欲を生み、ねたみ、憎しみから敵を作り、争い合ってきたことを伝えている。
人間が価値観を作ることは避けられない。人間は知的生命体であるからだ。
しかし、その価値観の作り方には致命的な欠陥がある。それを知らず気付かずに、そのままにしてきたことが人類の現在の結果であると考える。
そこで、大自然と人間の価値観の違いについて例をあげて考えてみる。
例 1: 大昔から在る死について
現在、人間の死は脳死であると理解されるようになったが、以前死が何かがわからなかった。自然界では命は全て消え去っていく。それに代わるかのように、新しい生命が生まれる。天体でさえ生まれる星があり、消え去っていくものもあることがわかるようになった。あらゆる物はすべて古くなり、朽ち果てていくように見える。
人間は初めから、わからないから死を様々に解釈してきた。しかし、解釈はいらないように思える。自然界の在るがままの現実を受け入れるだけでいいのではないか。
人は生まれる前、その存在は無かった。産まれてから脳が自分という存在を作ってきた。学習機能があり、経験を通して様々なことを学んだ。記憶に残され、一生を振り返ることができる。その存在の意味は脳にある。脳が死ねば、その個体の存在は無くなる。
人間は人生の終に、築き上げた名声、地位、財産など全てをこの世に残して、存在が無くなる定めにある。それがあるがままの姿であり、大自然と調和した考えに思える。
人間の世界はそれに反し、わからないという理由から、死んだら天国に行く、地獄に行く、魂は生き続ける等、無いものを作り、それを信じてきた。死んでも意識があるという霊魂不滅は、わからない時代の遺物であり、知的生命体にとって、愚かさの象徴に思える。
永遠の命を信じている人もいる。永遠の意味がわからないから受け入れられてきた。
永遠とは1000年、1万年、1億年の意味ではない。太陽のような恒星でも約100億年という寿命がある。永遠の命とは死ぬことができないという意味である。
永遠に意識があるなら、この世がもたらす不幸を永遠に見ることになる。そこに平安は無い。何と恐ろしい考えではないか?
人間は死を間違って受け止めてきた。在るがままの現実である死は、特別に恐れる対象ではない。すべての死はリサイクルと思えばわかりやすいかもしれない。
いつまでも若く、美しくありたいと願う人は多いが、老化現象は死に至るために用意されたシステムのようなものかもしれない。可能性として、もしそうであるなら、老化現象に逆らうのではなく、適切に老化することこそ望ましいことになる。
人間には考える能力があるため、想像で様々なアイデアを生み出してきた。しかし、人間が作る空想とあるがままの現実である大自然とは違うことを理解することは必要である。
わからないからという理由から野放し状態であった様々な思い込みから作られる価値観を修正する時期に来ていると考える。
死の理由
人間だけは特別な存在なのか? 人類はそう考えてきた。
確かに人間が知的生命体という意味で、他の生命体とは大きく違っているように思える。
ことばを持ち、考える能力があり、地球上で最強の存在になった。
しかし、虫、魚、植物、鳥、動物などを生命体として比べてみると、全ては遺伝子でできているが、違いは大きい。哺乳類の中で人間と猿などとの違いよりはるかに大きい。
遺伝子はプログラムであるから、死はプログラムであると考え、死を克服できるのではないかと考えた時期もあった。細胞の死など今でもプログラムと思うが、生命体の死には全く違う理由があるのではないかと思うようになった。なぜなら物でさえ古くなり、朽ち果てていく。
死の原因は人類にとって今後の課題と思うが、エントロピー、宇宙線など様々な原因があるのかもしれない。
生きる目的
生きている間に得たものすべては死と共に失われる。何であっても脳死と共に失われる。
この事実は、生きる上で何が大切なのかという疑問を投げかける。
たくさん持てば持つほどこの世に対する未練は大きくなり、去るのが辛くなる。
人は身軽になってこの世を去るのが望ましいのではないか。
人生に意義があるのは、人間に言葉があり考えることができるからである。もし考える能力が無いなら、生きていることさえわからない。
人生は、生きることで得られる喜びも悲しみもあった。一生涯全てが同じで、変化が無いということはない。全ては過ぎ去って行くが、素晴らしいと感動することもあった。幸せな時期もあった。それを経験できた。考えることのできる人間にとって生きることにはそれなりの意味があったと考えることはできる。
忘れてはいけない大切なこととは、誰でも一時であれ、素晴らしい人生を経験できたことである。
生きてきたから、生きているから、経験することができた。
自分の人生を十分に楽しみ、自分の生き方を完成させることもできる。
生きているから、生きている内に、お世話になった人に感謝することができる。
自分の意識がはっきりしている内に自分の人生に対する責任を、すべて清算することで終わらせることもできる。人類の未来に残せるかもしれない。
現代はその幸せをかみしめながら安らかに死んでいくことが可能な時代でもある。
例 2: 神について 信じることの意味について
神様が人類を守ってくれるという考えは、人間の考えである。
人間を戦争から守ってくれる神はいない。
自然災害から守ってくれる神はいない。
神とは、人間が想像によって作ったわからない存在のことである。
神とは得体の知れない、正体不明の存在のことである。
それが理由に、神の実体を説明できる人はいない。つまり神に実体はない。
実体がない神の存在を理解することは人間にはできない。
人間は人間の考えの限界を越えて、表現することはできない。なぜできないのか?
人間の限界を越えるなら認識することは不可能であり、説明不能であるからだ。
昔であれば人間の持つ情報は少なく、わからないことはたくさんあった。
地震、雷、津波、嵐などはわからないから神、神の業と信じられてきた。
しかし、神はその実体が何かわからない間だけ存在するが、わかれば神ではなくなるものである。わからないから神にしてきても、実際には存在しないからである。
昔わからなかった多くの神々は、気象現象と理解されるようになり、今でも台風を神様と思う人はいないのではないか。
今までの歴史に見られる人類の歩みをよく見て、考えればわかることである。
人間が自分を含め、その外の世界を認識できるのは、人間の持つ入力器官の五感があるからだ。昔、五感機能そのものは限界があるため、身近にあるものしか認識できなかった。
地球が球体であることも知らず、宇宙の中心と信じていた。神様が空の上、雲の上にいると信じていた。
望遠鏡が作られ、宇宙のはてまでも見えるようになった。そこに人間が考えていた神の存在はなかった。
認識できないから神にしたからだ。元々神はいないのに、わからないから人間が作った。
海の恵み、山の恵みに感謝してきた。海の神、山の神を作り、その恵みに感謝した。
海が荒れ、山が荒れるなら、その神にお願いした。
しかし、気象現象がわかるようになると、それは神ではなくなった。
昔からの慣習は簡単にはなくならない。今でも認識できない人は神を信じている。
神が人類の歴史に介入したことはない。戦争でどちらかの見方になったことはない。
人類は神ということばに騙されてきた。実体がわからないため、無いものに惑わされてきた。
何であっても思い込めば神になった。偉大な指導者も死ぬと神として祀られた。
人間の持つ価値観である正義、自由、平和、主義主張さえ神にしてきた。
神に頼り、感謝し、祈り、供え物を捧げても、無駄であり、自己満足に過ぎない。神に実体はなく、存在はないからだ。思い込みにより作られる。人類は無駄なことに数千年という時間と力を費やしてきた。神の実体に目覚める時が来ている。自然界は神ではなく、自然界であるからだ。
わからないから怖い、恐怖がある。未来は見えない。何が起きるかわからない。
しかし、どれほど神にお願いしても、神は何もしていない、してくれない。
偶然願いがかなったように思うことはあっても、他の人に不幸なことはたくさん起きている。
現実に他の人に起きていること、世界に起きていることを考えれば、自分だけの神様ではおかしいと思わないのだろうか。
信じることの意味について
宗教が違えば、信じることの内容は違う。それは皆が知っている。
それなのに信じている人は自分に間違いはない、信じていることに間違いはないないと考える。それぞれがそう信じている。
見方を変えれば、真実など気にしない。今がよければ、後はどうでもいい。今の状態で満足している。変える必要など無いというように見える。そこに人間としての誠実さはない。
これほど馬鹿げた論理はないが、それでも信じていれば、違っていても全ては正しい、皆正しいと、自己主張しないようにしている。
相手が間違っていると主張すれば、相手もこちらを非難する理由になるからだ。
歴史は宗教による争いで一杯である。
自分達が正しいと主張すれば、混乱と争いが生じることを知っている。
これが人類が変われない理由であることに気付かない。
あってはならない矛盾を堂々と受け入れている。
間違いを認めることができないのである。だから、妥協して、間違っていても仲良くしている。
偽善と同じように思える。しかし、戦争をするよりはまだマシである。
戦争しても力の強い方が勝つのであり、正しいと証明できるわけではない。
信じるということばの定義に問題がある。
信じるとは真実の追求をあきらめ、疑問を持たず、鵜呑み(うのみ)にすることで、100%正しいと受け入れることである。
真実に対して盲目になること、真実に目をつぶることである。
妥協すること、騙されること、進歩をあきらめることと同じである。
あらゆること、全ては追求する対象であっても、信じる対象ではない。
自然界のあるがままの現実を認めることが大切で、それは信じることではない。
大自然は信じる対象ではない。
人間に絶対(100%正しい、完全、完璧)という考えはあり得ないからだ。
有限である人類は永久にわたって真理を求める存在である。
信じることが人類の進歩を阻害し続けている。全ての間違いを修正すべき時が来ている。
とは言っても、人類の大半は信仰を持っている。憲法で信仰の自由は保証されている。
それを修正することなど不可能であるように見える。
しかし、人類の歴史は間違いを修正してきた歴史でもある。
人間の考えである主義、主張、イデオロギー、思想、国家権力も神になる。これらすべては価値観に置き換えられるために起きる。
戦争では神に勝利を願い祈るが、信じる神が正しいことはなかった。正義が勝つのではない。力を持つものが勝ってきた。力は神でも正義でもない。人間の知能が作り上げた価値観である。
人類の歴史がそう示している。人間も人間が作ったものも信じる対象ではない。
「神ということばは、人類の無知の象徴である。」 と書いた。今までの神に実体は無いからである。それ故、信じることは、人類がいつまでも愚かである原因、理由であると考える。
ただし、人類には、永遠にわたってわかり得ないものが存在することも現実である。
地球上での火山の大噴火、大地震、津波などが人間社会を襲う。一瞬にして数万人もの人命が失われることもある。恐ろしいことだ。だからと言って大自然は神ではない。在るがままであり、時間が経てば何もなかったかのように整然としている。自然界に人類が大切であるという考えはない。
自然界は人間を助けようとしてはいない。助けようとするのは人間の社会である。人間の社会は信頼の上に成り立っている。ここに人の間に信頼を築くことを目標にする理由がある。
人間には間違いが前提にあるが、それを認めること、謙虚になり、誠実になり、信頼を築くために生きることが人類にとって進歩を意味する。
人間が謙虚で誠実であれば、人間の社会ほど信頼に値するものはない
例3 美しい、醜いが無い理由
比較することば(形容詞)の問題について
物理的に大きい-小さい、長い-短い、重い-軽いという表現は、物を比較することで意味を持つが、比較しないならわからない。大きいリンゴと思っても、比較するから大きいのである。物であれば比較することはできる。
美しい、醜いは、人間の持つ感覚、感情、心、認識の表現であり、比較できるようには思えない。しかし、人類の大半は今でも美しい、醜いという対象、実体があると思っている。
以下に美しさがない説明を書いた。
眼から入ってくる刺激により脳は美しさを認識するが、美しいと感じるためには以下の条件が必要である。
1. 美しいということを事前に教えられ、知っていること、経験を通して学習している必要がある。
脳が美しいという情報を知らなければ、美しいと認識することはできないからである。
美しいものが人によって違うのは、美しいという認識が作られる過程が人それぞれ違うためである。
2. 脳は視覚による入力、眼からの光の刺激を必要とする
目から入力される光による刺激は、情報として脳に伝わり、美しいと認識されるために欠かせない。
眼からはいる刺激とは美しい対象そのものではなく、太陽等の明かりが物に当たる時に反射する光のことである。光は白色光で虹色をイメージするとわかりやすいと思うが、様々な色の元である。形も光で伝わる。物に関する情報を光が伝えている。
光がなければ、物が美しいと認識されることはない。暗いと美しい対象であるはずの花でも、絵でも見えなくなる。しかし、この場合、光は美しさではない。刺激であり情報である。
生まれつき盲目の人には美しい物も、醜い物もないと考える理由である。
それはまた、美しい、醜いという対象がないことを意味する。
美しさは思い込みにより脳に価値観として作られているからである。
本物と偽物
ここに全く同じに見える有名な絵画がある。本物と贋作である。
一般的にその美しさの違いはわからない。専門家でも違いを見つけることは難しい。
しかし、その値段(価値等)は大きく違い、それは誰にでもすぐわかる。
美しさが同じに思えるのに、なぜ値段は大きく違うのか?
その理由は、それは本物か、贋作か、つまり作者が違うからである。
同じ美しさに見えるなら、値段の違いは美しさではない。そこに美しさは関係していない。
人は美しさがあるから、美しいと感じるのではない。
美しいとは、自分の気持ちを表す表現であり、美しさがあることを示す表現ではない。
無いものを在ると信じて疑わないことは、いろいろなことに見られる。しかし、それは人類の考え方、在り方に問題があり、修正が必要であることを意味していると考える。
大きいりんごを描いても、大きいかどうかはわからない。
比較の意味を知りたい人は以下を参考に。
絵本 「だれが大きいリンゴをかけるかな?」
美しさが無い理由を詳しく知りたい方は、
シリーズ6 美しさについての考察 をご覧ください。
例4 宇宙に愛はあるのか? 大自然に英知はあるか?
人類は長い間、天地の創造者なる神を信じ、自然界は神の技であると考えてきた。落雷、嵐、火山の噴火、地震、津波など神を恐れる理由だった。
宇宙に愛がある、英知があると考えるようになった背景には、神の存在が関係している。
万有引力を発見したニュートンは技工士に精巧な太陽系の模型を作らせたという話がある。
ある時無神論の友人が訪れ、ニュートンに聞いた。誰がこの模型を作ったのかね?
ニュートンは誰でもないさ、と答えた。冗談はよしてくれ。この模型を作った人は有能な技能士だ、と友人は言った。
ニュートンは人間が作った太陽系の模型は人間が作ったのだから、その元である太陽系は神が作ったと考えるべきだと友人に説明した。
なるほど、もっともらしく聞こえる。昔はそれで納得したように思える。
今でも多くの人はこの論理から抜け出せないでいる。
しかし、太陽系は神が作ったと言っても、神の実体を知っているわけではない。わからないからそう言えた。神の実体の説明を求めても、答えられる人はいない。
ニュートンの時は太陽系であったから模型を作れた。では、銀河系の模型を作れるか? 銀河系には太陽と同じように輝く恒星が2000億以上ある。宇宙には2兆を越える銀河がある。
太陽系の神様は今では存在さえ無いほど小さくなってしまった。
現在の宇宙の模型を、当時の人間の技工士には作れない。
人類にはわかり得ないことが存在することは事実である。わからり得ないから、神様にしても、誰も否定できない。
物理学者アインシュタイン博士はどう考えていたのだろうか。
「今日の科学が神の存在を証明出来ないのは、科学がそこまで発展していないのであって、神が存在しないのではない。人間の五感は限られており、神の存在を感じることはできない。
科学も神の存在を否定はできないのであるから、われわれは神の存在を信じるべきである。」
アインシュタインは神をわからない存在として認め、信じていたが、一般の人の考えている人格を持つ神ではないため、無神論者とも言われていた。
人間の論理を宇宙に当てはめることができるのか?
人間の作るという意味を宇宙にまで拡げて、宇宙に人間と同じように作者がいると考えることは適切なのか?
作るということばの意味を全宇宙に共通の考えとして認められるのか?
答は「いいえである」と気付いた。その理由を書いてみた。
その理由は、人間のことば(単語の意味)は人間の世界に限定されるからである。
ことばは情報を取り扱うシステムであると書いた。ことばは宇宙の中で無限の広がりを持っているようにさえ思えるが、人間の持つことばはそのほんの一部に過ぎない。
宇宙全体に拡がる共通のことば(情報のシステム)があるかどうかはわからないが、人類のことばは主に地球上の人類に限定されている。
人間のことばの基本は、物の名前、単語であるが、人間の脳が入力器官である五感によって得られた情報をイメージを含む一つの単語としてまとめ作っている。
しかし、人間の五感には限られた機能しかない。
視覚で言うと、肉眼で見える範囲には限界がある。
遠過ぎても、近過ぎても、大き過ぎても、小さ過ぎても見えない。
聴覚で言えば、耳は決められた波長の枠の中での音しか聞こえない。
科学の力は五感機能を補強するようになったが、考える元の単語は限定された入力情報に基づいて作られている。つまり、人間のことばは基本的に人間の世界でしか通用しない。
自然界を知ること、学ぶことができるのも人間のことばで考えることによる。それ以外に方法はあるようには思えない。
宇宙の探索に出掛けるようになっても、考える力はことばの働きによる。宇宙で見るものを、人間の考えで判断する。人間の世界には無いもの、あり得ないと思えるものでも、人間はことばで考え、理解し、判断しようとすることになる。
そこに間違いを生じる可能性は当然あるように思える。
宇宙に出れば、人間のことばでわかっている物でも、人間以外の知的生命体に認識できるかどうかはわからない。
遠い宇宙に出かけていても、人間にとって認識する方法は地球上と同じである。人間のことばで理解するしかない。
しかし、全宇宙、大自然は、人間のことばを認めるということはない。宇宙は在るがままの現実で、人間のことばは宇宙での共通語ではない。
宇宙に愛はあるか
愛ということばは人間が作ったことばと考えるが、その定義は曖昧でよくわからない。シリーズ12、13で取り上げた。
わかるためには、定義が必要であることを書いた。そして二つの意味をあげた。
1. 遺伝的に見られる男女を結びつけようとする力
2. 愛するとは他人(ひと)の幸せを願うこと、人類愛、隣人愛のことである
愛の定義が明確でないのに、宇宙に愛があるかと問われても、答えることはできない。
愛ということばが人間の世界で作られ、人間の世界で適用されていて、その意味も確かなものではなく、曖昧である。
人類はその歴史の中で宇宙という存在に気付いたばかりで、未知なる世界は無限に拡がっている。人類のことばをそのまま宇宙に持って行っても、人間だけにしか通じないように思える。
宇宙に英知はあるか
同様に、英知という単語も人間のことばであり、人間の世界では適用できても、ほとんど何もわかっていない宇宙に当てはめることには無理があると考える。
辞書によると、英知とはすぐれた知恵、深く物事の道理に通じる才知、などとあるが、
世界に見られる現状は、人間に、人類全体として英知があることを示しているか?
英知があるなら、どこにあり、どこに無いのか?
人類は戦争で争い合っている。戦争を止めることができない。
その考えを宇宙にまで広げることに問題は無いのか?
宇宙のことをほとんど何も知らないのに、人間のことばで宇宙に英知があると表現することには無理がある。
人間が作ったことばは人間の世界でのみ使用可能な言語であり、宇宙共通のことばとは言えない。
大自然には人類の技術よりはるかに優れたものがあることは事実である。。
アインシュタインは物質はエネルギーであることを突き止めた。
このことがわかってから人類は核物質からエネルギーを作る原子力を開発した。核兵器の開発にもつながり、今では地球上の生命体を滅ぼすほどの数の核兵器が保有されている。
太陽は50億年もの間輝き続けている。人類はそのエネルギーを得る方法を研究している。
自然界にはそのシステムが元々ある。人類は知らないだけである。 人類はあるがままの自然界から学び、応用したにすぎない。人類が新たに創造したものは何もない。
自然界には人間のような知的生命体に見られる「思考」は無いように思える。しかし思考とは別に、人類の想像をはるかに超える、無限のシステムがあるかのように思える。
神ということばは人類の無知の象徴である、と書いた。人類にはわかり得ないことが存在する。
わからないから神と人間のことばでは表現するが、実体の無い存在としても同じである。
例5 感情について
美しさはないが、美しいと感じることは現実にある。美しいとは自分の気持ちを表現することであり、感情の意味である。
ウィキペディアによると、「感情(かんじょう)とは、ヒトなどの動物がものごとや対象に対して抱く気持ちのこと。」 と書かれている。喜び、悲しみ、怒り、諦め、驚き、嫌悪、恐怖などがある。
人間の感情はあって当たり前のように思われているが、美しいという感情が小学生の低学年ころまで無いことを考えると、感情そのものは作られるように思える。
作られたのであれば、どのように作られたのか?
「美しい」の場合、美しいと感じるためには、脳に美しいという情報が事前に入力されている必要があると書いた。脳に「美しい」という単語の情報が無いなら、「美しい」の意味はわからない。
この一つの例は、そう感じるためには、様々な感情の元になる情報が脳に入力されている必要があることを示している。
感情は人間の脳の働きである。生きていることに喜び、楽しみ、感動、悲しみ、苦しみ、寂しさ、むなしさ、辛さ、怒り等、様々な変化を与え、複雑な人生を作り出している。
感情の作り方がわかれば、もっと気楽な生き方ができるかもしれない。人類が抱える問題の解決にも役立つかもしれない。
内容: 感情について
* 感情は産まれたときからあるか?
どのように作られるか?
様々な感情は 好き-嫌いの延長線上にある?
子供には大人が持つような苦しさ、辛さはまだない。感情はどうなっているのか
* 五感の表現が少ない理由
* 「感情はヒトなどの動物が物事に対して抱く気持ち」という定義の問題点
感情に目的はあるか
* 感情は産まれたときからあるのか?
「人間が産まれてから、生きるために遺伝子と脳の要求として作られたシステムがある。本能とよばれてきた。そこから作られるように思える 好き-嫌い というストレートな感情がある。
考えがまだ作られることがない時期、ことばを話すようになる前から、人間には好き-嫌いという感情が作られているように思える。
人間は生まれた時に感情はあったのか?について、シリーズ26の中に以下のように書いた。
赤ちゃんが泣くのは意思表示であるが、まだ自分という個体が存在していることも、その意識もないのに脳は働き、育てている。お腹がすいた、眠い、オムツを変えてとオギャアと泣いて訴えているのは脳の働きと考える。
反応には、暑い、寒い、痛い等の不快なものと、母親のやさしさ等の快いものがあると考えられる。様々なそうした反応の記憶は脳に感情として認識させるのではないか。
個体の脳が、赤ちゃんの時から人間として思考と感情を持つよう育てているように思える。
様々な感情は 好き-嫌いの延長線上にある?
産まれたときから、生理的に受け付けられるものと、そうでないものがある。脳は食べられるものかどうかを判断している。
産まれたばかりの赤ちゃんは口からものを入れたことがないのに、母乳を受け入れる。
未だ赤ちゃんは考えることはできない。しかし、受け入れる、受け入れないという反応があることは、脳に産まれたときから遺伝子により作られたシステムがあると考えられる。その機能は本能と呼ばれてきた。
子供には大人が持つような苦しさ、空しさ、辛さはまだない。
年令によっても、その子の持つ能力、育つ教育過程にもよると思うが、小学校に入る前の五歳位で、感情はどうなっているのかと考えてみた。(統計的なものではないため育つ環境によって相当違いはあると考えられる。)
好き、嫌いはある。痛いはある。面白いはある。楽しいはある。欲しいもある。
しかし、美しいは無い。汚いはない。素晴らしいもない。正しいー間違いはない。悲しいはない。貧しいはない。人種、国籍にたいする偏見はない。言語の違いも気にしない。
これは何を意味しているのだろうか?
自分の存在にも気づいていない時期である。
ことばはある程度話せるようになっても、知らないことばはたくさんあり、考える上では、十分ではない。これは様々な感情が未だ作られていない理由に思える。が、好き-嫌いはある。
これが産まれたときから好き、嫌いは作られ続けているのではないかと考える理由である。
* 五感の表現が少ない理由
すべての五感に関する形容詞は、好きー嫌いの延長線上に作られているのではないか?
その形容詞は相反する価値観からできている。
五感 |
好きという気持ちを表す |
- |
嫌いという気持ちを表す |
視覚 |
美しい |
- |
醜い |
味覚 |
美味しい |
- |
まずい (不味い) |
触覚 |
(肌触りが) 良い |
- |
(肌触りが) 悪い |
聴覚 |
美しい、素晴らしい |
- |
耳障りな、ひどい |
臭覚 |
かぐわしい匂い、良い匂い |
- |
いやな匂い |
何かを評価するときにも感情が影響していて、良いー悪いになることもある。
これらは感情の表現の仕方に違いがあっても基本的には同じことを示しているのではないか。
つまり、好きー嫌いであるという意味である。
良いものを嫌いとは言わない。嫌いなものは良いものとは言わない。
基本的に好き嫌いという感情で、良い悪いを判断しているように思える。
美しいと教えられ、学習していれば、脳にその情報があるようになり、経験と共にその感情が作られ、美しいと感じるようになる。それは生まれた時からある、好きという感情を別のことばで表現するからで、元々は同じ意味に思える。
教えられるから、情報が与えられるから、そう思うようになる。
情報に思い込みが加わると、価値観になり、感情を持つようになる。
このことから、美しい、醜い、恐怖や怒りを含む様々な感情は作られると考える。
必要な情報がまだ与えられていない段階では、こうした感情は作られていない。
社会環境による脳への情報の入力
テレビ、インターネット、スマホなどの番組による影響も大きいように思える。
アニメは良い悪い、敵味方、善悪のような考えを教え、植え付けている。
子供は争いや戦いの場面が出てくるのを見、正義に憧れるように仕向けられる。
皆が欲しがるよう、美しいもの、美味しいもの、楽しい物などの情報が流されている。
親が何を子供に与えるかで、子供は知らず知らずにその影響を受ける。
親の持つ教育にたいする考えで、子供の未来が変わる。
小学校低学年までの幼児期の社会環境が人間の未来に大きな影響を与えている。
誰でも産まれたのは自分の意思ではない。たまたまその環境に置かれただけである。それなのに、その国の人間になる。産まれた国が違うだけで、人間である前に、ロシア人、ウクライナ人になる。それだけで敵、見方に別れて戦う場合もでてくる。
幼い時からの教育により、どこの国でもそれが当たり前になってしまう。社会にたいする責任は必要であるが、それは国にたいしてという意味とは違う。価値観を作るなら、基本的に人間のあるべき姿が先になければならない。
子供は人間の社会を知らない。このことは社会からの情報によって感情と価値観が作られることを意味する。ことばによる思考力が作られる時に、価値観と共に感情も作られると考える。
様々な感情は人間が成長していく過程で認識として作られる。
「感情は脳がそう反応するよう作り上げた気持ち」であるように思える。言い換えるなら、感情は脳の働きの一部として作られ、機能している。
あるがままの現実を否定することはない。それを受け入れ真実を認識することが人間が知的生命体であることの意義であると考える。
悲しみがあるから喜びが有るのではない。喜びがあるから悲しみがあるのでもない。現実という世界は、自然というあるがままの世界であることである。人間は、人間の世界に喜びや悲しみという感情のある世界を作り、認識するようになったと考える。
失うこと(死を含む)に対する人間の反応について
実体の代わりにことばを使うから考えを容易に伝え合うことができる。意思の疎通はことばの持つすばらしい特徴である。しかし、感情は作られたものである。以下の例を考えてみた。(シリーズ5と6の見直しから)
失うこと(死を含む)、無くなる、 いなくなることの具体的な文章の例を考えてみた。
親しい、愛する、好きな、大好きな、気の合う、仲の良い、好ましい、カッコいい、かわいい、は好きであるという気持ちを表すことばである。人に対して、物に対しても、時間をかけて築いてきた思い、感情である。一言で言えば、好きな人、好きな物である。この好きなという感情が失うことに対して悲しいという感情が作られる。
感情は人、物などの対象ではなく、自分の持つ好き嫌いに対する反応のことである。
楽しいとは、人や物との好ましい時間を共有する時の感情である。
悲しいとは、大切な人や物を失う嫌な時の感情である。
好きという感情が強ければ強いほど、悲しいという感情も比例して強くなる。
両方共、物事に対する自分で作る反応のことで、それが感情である。対象である人、物が理由ではなく、人、物にどれだけ好き嫌を入れ込んでいるかに依存している。
好きな物がなくなる、好きな人がいなくなると、悲しい。
嫌いな物がなくなる、嫌いな人がいなくなると、嬉しい。
関心のない物がなくなっても、関心のない人がいなくなっても、気にならない。
注意したいことは、この文章の悲しい、嬉しい、気にならない、の違いの原因はどこにあるのかという点である。
それは、好きな、嫌いな、関心のない部分にある。それ以外は同じ内容である。つまり、悲しい、嬉しい、気にならないは、なくなる物や人という対象より、対象に対するその人の持つ、好き、嫌い、関心がない、という思考と感情で決まることを示している。
関心を持つのは自分であり、自分にある。世界は基本的に自分を中心に動いている。自分に関心がないなら、世界は見えてこない。気にも止まらない。気にならない。
愛する人を失ったから悲しいと感じるのは、対象が愛する人であるからだ。嫌いな人であれば、いなくなって良かったと思ったり、ホットしたりする。
愛するという思いと感情は、長い時間と経験を通して対象になる人に対して、無意識でも作ってきた。その愛する人を失うという情報は、その人に対する思いと感情を刺激し、過去の経験を思い起させ、学習した悲しいという感情を呼び起こす。
ここに感情の問題がある。嫌いな人はいなくなると嬉しいのである。
悪人は死んだ方がよい、と感じるのは、悪人、敵だと決めつけること、嫌いだからと嫌がることに理由がある。いじめも、パワハラも同じ原因に思える。
嫌いな人は、何らかの理由があって嫌いになる。その理由は何かが重要である。それを知れば修正できるかもしれない。
* 「感情はヒトなどの動物が物事に対して抱く気持ち」 という定義の問題点
感情は人間にあっても、動物には無い理由について
もし人間に知能が無かったなら、感情はなく、喜びも悲しみも知ることはできない。
知的生命体であることが感情を作り、現実の意味を知ることを可能にしている。
感情は作られるものであり、単に物事に対して抱く気持ちではない。
地球上の人間以外の生きものは、人間のように考えることはできず、思考力は無いに近く、遺伝子のプログラムで動き、人間のような感情があるとは思えない。
物事に対する反応はある。それが動物にも人間と同じような気持ちがあると考えてきた理由に思える。例えば危険退避行動は虫にさえある。思考力があるからではない。
生きものには反応はあっても、それは人間のような感情ではない。
もし、動物に人間と同じように感情があるなら、大量に動物を殺し食料にしている人間の行為は許されないと考える人もいるだろう。
美しいという表現が物事に対する自分の気持ちを表すことばである、と書いた。
人間の感情は物事に対する単なる気持ちではない。
そう感じるのは、自分の気持ちをそう反応するように作ってきたことに理由がある。
気持は主体的で、気付かないとは言え、個人の脳が作るものであり、それを感情と考える。
人間以外の生き物は自分で考えることはできない、気持ちを作ることはできない。
感情に目的はあるか?
単純にあるとは言えないが、目的は作るものである。
感情は作られることから、人間の、人類の、あるべき姿に役立つようにその目的を作り、それに沿って育てることが大切に思える。
脳の働きに関連して
感情は人の持つ思い込み、信じること、価値観などとつながりがあると考えるが、 どのように繋がりがあるのかは、今後考えていく課題に思える。
例6 人類を滅亡に導く原因 それは力を求めること、優越感にある?
例6‐ 1回目 力を求めるとはどういうことか
力は繁栄を意味してきた。強い者が権力を得、富を得、繁栄が約束されてきた。
大昔からそして今も人類の大半は、自分の国の強いことが大切だと考えている。
弱い国だと他の国から侵略される。最近ではウクライナがロシアによって侵略されたことがその例である。
防衛のための予算は増え続け、さらに強い兵器を開発し続ける。地球上の人間全てを滅ぼす以上の核兵器を持っていても、さらなる力を求めて兵器の開発が続く。核廃絶を求めても無駄に思える。
世界大戦を二度も経験し、反省から国際連盟、国際連合も作ったが、戦争を止めることはできなかった。文明がこれ程までに進んでも戦争を始める。
人類は進歩したつもりでいても争いの繰り返しになるのは、人類がある面で昔のままで変わっていないことを意味しているからではないか?
力と優越感、力を求める理由
優越感は個人が作る自分を優れているとする気持ち、感情のことである。
優秀であること、秀でていること、優れていること、一流であること、一番になりたいなどに表れる。それは力があることを意味する。力のあることが優越感を満たしてくれる。
力は富を約束してくれる。富は力になる。経済力は力である。美しさも力になる。
力があれば裕福な生活、高級車に乗り、豪邸に住み、優雅な暮らし、好きなものを手に入れることができる。好き勝手も可能に見える。
正義は力を意味する。強いことが正しいことを証明してきた。
争いを解決するために戦争を始める。正しいことを証明してきたのは勝者であり、強い国であった。力は正しいことを証明してきた。
正義の味方、スーパーヒーローはどんな敵でも倒す力を持っている。それは力の象徴で、誰もがその力にあこがれてきた。
力のあることが問題を解決してきた。力は貧しさから、苦しみから、悪人、敵からの解放を約束する。
力にあこがれる背景には、強いものが弱いものを食べて繁栄する、という弱肉強食の考えがある。
長い間、人類はそれを正しいことと受けとめ、子孫に強くなることが正しいことだと教えてきた。歴史が戦争の記録で溢れているのは、人間が力を求めてきたことを示している。力は争いの解決方法である。その考えは人類の間に浸透している。
人間社会は競争を煽(あお)り、誰が優秀かを競わせてきた。一番、一流になるよう仕向けてきた。
競争することを進歩の理由にしてきた。競争を煽ることに成果はあったように見える。それが重大な問題であることに気づかなかった。人間のあるべき姿を忘れさせてきた。
こうした考えが、誰もが優越感を求め、力を持ち、人より偉くなりたいという感情を作っている。
昔から変わっていないように見えるのは、このことである。
人を見下げる、馬鹿にする、常識知らず等と非難する、このような行為はいじめの原因、パワハラの原因であるが、力を示そうとする行為である。自分が正しいと考えている。
力を求める人類の未来
人類は少しは賢くなったと思っても、権力闘争は今もある。
個人、国家、人類のレベルでも簡単には改善することはできない。このままでは、人類に未来は無くなるのではないか。
第二次大戦で戦争の悲惨さを経験し、反省し、再び戦争を起こさないよう国連を作っても、戦争を止めることはできなかった。
戦争が悪い等と戦争の原因を求めても無駄に思える。原因は戦争にあるのではなく個々の人間とその集合体である人類にあるからだ。
戦争が悪いのではない。戦争を起こす人間に原因がある。
平和を求め、戦争反対と声をあげても、それは現実、真実を見ていないことと同じように思える。
戦争反対する人でも、優秀になること、一番になること、富を求め高給取りになるを願う。そうした傾向を容認しているなら、力を求め、優越感を追い求めていることと同じである。
世代が変われば戦争の悲惨さは忘れられていく。
人間は好戦的であることを忘れ、その事実を認識できないでいる。
地球は人類のものか? この基本的な問いに対し、人類のものだと思うなら、人間の知的レベルの低さを示すものである。
それは国土を自分の国の領域と考えることと同じである。
個人の土地も、自分のものだと考える。
しかし、元々人類は地球の大きさを知らず、誰の土地でもなかった。
人口が少ない時には、土地の所有権のことなど誰も気にも留めなかった。
今では少しの土地でも争いの原因になる。
人類のこの傾向は地球だけで終わらない。
月は誰のものか? 火星は誰のものか?
先に定住した者がその所有権を得るのか?
太陽系が手に入れば、次は天の川銀河の他の領域に向かうのか?
地球以外の高度な知能を持つ生命体から見れば、地球人は宇宙侵略者というレッテルが貼られそうだ。
宇宙人による地球侵略という考えは以前あったが、現代では、文明が発達すれば必要な食料だけでなくあらゆるる物が手に入ることを明らかにしている。
高度な飛行技術を持つ知的生命体が食料のためにわざわざ地球を侵略に来ることは今ではあり得ないように思える。人類が食料求めて宇宙に出ていくという考えもない。
地球外生命体の侵略を心配している場合ではない。地球を汚し住めなくしているのは人間、人類であり、力にたいする欲望を制御できずにいる。
ゲームで戦争をし、敵を倒すことを含め、疑似空間で体験することができるようになり、欲望は野放しになりつつあるかのように見える。
人間が自分で自分を自発的に制御できない世界にしている。
取り締まる警察機関がなかったなら、どうなるのだろうか?
人間の模範を示すことができない。
親が子供に模範を示す必要があるのに、親が人間として模範になることは難しい。大人の模範になるような人間はいない。人間の模範が何かもわからない。
人間だけに子供の教育、模範と情報提供、を任せるのではなく、人類の知力より教育のシステムを作り、活用することが必要に思える。
人間の模範の意味と人間のふさわしいあり方に関する情報を教育者と共に、幼少の時からコンピューターなどにより提供することのように思えてくる。
個人の争いの原因
どこの国でも犯罪があり、殺人事件が起きている。争いは絶えずある。数えきれない程ある。個人間でさえ争いを止められない。
その争いを起きないようにできずに、大きな争いを止めることはできないだろう。
その原因はみな同じであり、力という優越感を求めること、それを価値観にしていることに原因がある。それが人類の現状をもたらしている。
例6- 2回目 ことばはどのように関係しているか?
人類が作り上げた世界は人間によることばの世界である。
人間の世界は情報のシステムにより作られているという意味である。
ことばが人間の世界を作ってきた。
人間の体、思考と感情を作る脳はヒトゲノムという遺伝子により作られている。遺伝子はプログラムである。別の表現では情報のシステム、又ことばである。
人間が考え、学習する、意思の疎通をするなどの働きは、ことばがなければ成り立たない。つまり、ことばが人間の思考を支配してきたとも言える。今も支配しているし、感情もその影響を受けている。
人間の社会の教育、経済、法律も全ては人間の思考により作られたもので、ことばによる。正義、平和、自由などの考えもことばで作られている
今も戦争がある。他の国を侵略するためには、戦争をするための正当な理由を考える。正義、敵などは戦争をするには都合の良いことばである。正義を掲げ敵を作れば正当な理由になる。他国を侵略し、その国民を殺しても大義名分が成り立つと思うようになる。
それは人間の世界だからであり、人間の世界が、人間のことばでできているからである。多くの人がそう思えば、それが正しいことに見えてしまう。
多数決に問題があるのは、選択した結果が正しいとしても、人間の世界での決めごとであるからである。人間の世界で正しいとしているだけである。
なぜそうなのか?
人間、人類の能力には限界があり、絶対に正しいもの、間違いの無い完璧なもの、普遍的なものは作れないからと考える。
人間という枠の中でしか正しいものは作れないという意味である。
それ故、人間の世界では正しいことは作れる。しかし、正しいと思えても、それは人間の世界だからであり、自然界から見れば、人間以外の知的生命体からは違って見えるかもしれない。あるがままの大自然から見れば、人間の世界は矛盾だらけに見える可能性もある。
人間はおごり、高ぶり、自分は偉い等と考えるのは、人間に高度な知能とことばによる考える力があるためであるが、人類は人間以外に知的生命体を見たことがない。想像することも難しい。それが主な理由になるかもしれないが、宇宙で一番優れている等という考えを持つ。昔、地球は宇宙の中心だと考えていた。人類は地球上で最強の存在である。
そう思っていても、それは人間は単に知らないからであり、無知であるからとも言える。
かつてその知らないことが天地の創造者を初め、無数の神々を作り出した。信じれば無いものでも在ることになる。在るものでも無いことにしてしまう。
こうして想像により、無いものがたくさん作られた。
人類は自分達の創造者、神々、天使、悪魔、天国、地獄、死後の世界、あの世、永遠の命、不滅の魂、霊魂、お化けなどのことばを作ったが、実体は無い。現代科学をもってしても、その実体、存在を証明することさえできない。
これらは信じれば、無くても在ることになる具体例である。
しかし、在るか無いかは、信じることと関係ない。
現実は信じることに関係なく、在るものはあり、無いものはないからだ。
同じように呪い、恐怖、運命なども実体はない。
それは美しさは無いのに、恐怖は無いのに、在ると思っているのと同じである。
これらは人間が作ってきたもので、外部に在るかのように思っていても、人間の心にあるもので、思考と感情によって作られる認識の中にある。脳の働きとして、思い込めば在ることにしてしまうものである。
同様に、幸せも外にあるのではなく、人の認識の中に、心にある。
感動するものが外にあると思っていても、その全ての理由は自分の中にある。自分の認識の働きである。脳の働きである。
人間はことばを作ったが、そのことばに人間があやつられてきた。
騙されてきたとも言える。それは信じることによる。
人間の世界はことばの世界
人間の脳がことばを作っている。思考と感情は脳の働きで認識の意味である。好き、嫌い、愛、美しい、また感動は脳の働きである。
人間に脳が無いなら、全ては無い。ここに人間の全ての存在理由があると考える。
人の死は克服すべきか?
人を殺すことは許されないと考えるなら、人間の在り方を見直す必要がある。子孫を作り続けることは、やがて死んで行く人間を増やすことであり、死ぬ定めに置くことと結果的に同じである。その数に注目すべきである。生活環境、寿命も違うため単純比較になるが、
世界人口
1650年 5億人
1960年30億人
1975年40億人
2022年80憶人
1650年代であれば5億人が死んだ。
今であれば100年で80億人が死ぬことになる。
それだけ多くの人が増え、死ぬことに、人類としての意義はあるのか?
どこにあるのかを見出だす必要に迫られている。
地球は有限であり、人数は関係ないでは済まされない状況にあるからだ。
人間の価値、人類の存在価値、意義は何か、どこにあるのか?
それに答えることはできるのか?
地球上では人間という枠の中でしか考えることはできないが、その中で人類の知力を結集して、人間のあり方、理想を考え、追求することはできる。それ以外に方法は無いように思える。
仮に人類が絶滅しても、誰も驚くことはない。その時、知的生命体である人間はいないのだから、驚きようがない。
人間全ては死ぬ定めにあるように、人類が存在しなくなっても、人類が作り上げた全てがなくなっても、それはあるがままの大自然に帰ることと同じではないか、ただそれだけの意味であるようにも思える。
人類は何人いれば、人類なのか?
今生きている人間が全てなのではない。
過去、現在、未来に人類の痕跡はある。
遥か昔に恐竜は絶滅して今その生きている姿を見ることはできないが、その記録が有る限り、恐竜が存在した事実は残る。遺伝子があれば再生できる可能性もある。現在絶滅種であっても、その遺伝子があれば、数百年後には絶滅種ではなくなるかもしれない。
同様に、人類が絶滅種になって、人間の存在が無くなっても、人類が存在したことに変わりはない。人類が存在した記録が残る限り、人類の存在は残ることを意味する。遺伝子が残っていれば人間の再生の可能性もある。
今生きていることだけが、すべてではない。
人間の遺伝子の保存により子孫を残す計画もあるかもしれない。
冷凍保存の技術もある。数百年後に人類の子孫を復活させる計画があってもおかしくはない。
今生きている人類の大半は100年も過ぎればいなくなる。
今生きているかどうかだけが重要ではない。
現在とはその一部に過ぎない。知的生命体としての人間の誕生から文明の発展、生存がなくなるまでの過程全てに意味があり、自分が生きているその時だけが人類ではない。それぞれの時代で人類という考えも違うように思える。
人間のDNAヒトゲノム遺伝子を残すことが人間の永遠の命、人類が永遠に存在することを意味するのか?
遠い未来において高度な知的生命体が絶滅した人間のDNAを発見したとしても、ヒトゲノムから人間を復活させるだけでは人間にはならない。なぜか?
高度な知能を持つ生命体である人間の場合、人間であるためには教育が必要になるからだ。何を情報提供するのか、これが重要な意味を持つ。どんな情報を与えるかで、人間は変わってしまう。
もし戦闘員になるよう情報を与え、育てるなら、そう思うように価値観が作られる。戦闘員になる可能性が大きい。
この事実は、人間を単なる生命体と捉えることの難しさを示している。ヒトゲノム遺伝子だけでは人間としての潜在機能を持っているだけであり、脳の機能による自分という存在がどうなるのかわからない。
情報は時代と共に変わっていく。これは、時代によって人間は違うことを示しているようにも思える。どうしたら人間を定義できるのか。人間に確定したものはないことになるのか?
それを追求することが、知的生命体である人間の意味であるように思える。
シリーズ32 大自然との調和 2022年6月〜
その1 大自然は在るがままの真実を示している
大自然はあるがままの真実を示している。それに対し人間の世界は人間の作った価値観の中にある。その価値観ゆえに、人間の世界は色眼鏡で見たように、あるがままの真実は見えない。この違いを認識することはできないのだろうか?
雨が降っても、晴れても、それはあるがままの天気である。しかし、人間の価値観はそれを良い天気、悪い天気と表現する。自然界に良い悪いはない。正しい、間違いもない。
自然界ではすべてはあるがままの現実である。
人間の世界では、人間にとってどうかは、大衆の持っている価値観で決まるように変えてきた。
自然界の真実、あるがままの現実を、人類は受け入れるしかないように思える。しかし、人類は自然界に属さない人間だけの世界を作り上げてきた。
美しさは自然界にはなく、人間の価値観が作っていると、シリーズ6、美しさについての考察、に書いた。美しいは子供には無い。良いも悪いもない。
では、あるがままの現実である真実を人類はあるがままに受け入れて来なかったのか?
いいえ。受け入れてきた。
人間の思い込みではなく、あるがままの現実を受け入れてきた。
現状を認識し、間違いを見つけ、反省し、改善し、進歩してきた。
それは科学の世界に見られる。自然界を修正したのではなく、あるがままを受け入れ、自分達の間違いを修正し、進歩してきた。
物質とは何か? 何からできているのか? 水は酸素と水素から作られている。そうは見えなくても、あるがままの真実として受け入れてきた。粗粒子の世界までわかるようになった。
変えようのないもの、在るがままの自然界から学び、自分たちを変えてきたことを示している。
物はなぜ落ちるのか? 物質に引っ張る力があり、地球が重力で引っ張っている。
色はなぜあるのか? 太陽のように白色の光の反射である。物質によって吸収する光が違うことによる。
科学の進歩はあるがままの真実を受け入れ、それを応用してきたことを示している。人間の知能の素晴らしさであると考える。
ところが人間の中にはそれを利用し、利益と権力を得ようとする価値観、優越感を求める人がたくさんいる。大衆は考えることを忘れているせいか、利用されてきたように思える。
人間の世界は自然の世界ではなく、優越感が支配する価値観の世界、人間の世界に変わってしまった。あるがままの真実ではなく、人間の価値観が支配する世界である。
人間の社会を難しくしているのは、あるがままの真実を受け入れていないからではないか?
大自然と調和した世界が、人類のあるべき世界に思えてくる。
その2 間違いについて
「人類は間違いだらけの世界の中にいる」と書いてきたが、具体的に何が間違いというのか? 間違いとは何か?
大自然はあるがままの世界、現実の世界であると考える。そこに正しいも誤りも無い。
間違いは自然界にはなく、人間の世界にある。人間の世界では人間の考えを中心に正誤を判断する世界を作ってきたからである。
人間の持つ価値観には偏りがあり、人によって大きく違う。見える美しさが違う。食べ物の美味しさが違う。好みは人によって違う。良い悪いも違う。楽しさも違う。一般的に、違いがあるのは当たり前であると受け止められている。
なぜ違うのか? その理由は対象にではなく自分自身にあるからである。違いが生じるのは自分の持つ価値観にあり、持っている脳や五感機能や好みで対象は違って見える。
価値観は人間である個人が幼少の頃から、置かれた社会的環境により作られたもので、人間の世界にはあるが、自然界には無い。
間違いは、人間が知的生命体であるが故に、人間の世界は人間の価値観で作られているからである。
長い間、正誤に慣れてしまったせいかもしれない。
学校でのテストの答案用紙に○、× を付けられ、正しい、間違いの考え方に慣れてしまった。
ここで言う正、誤とは何を意味しているのか?
学校時代には明確な基準があった。教科書である。
質問の答が教科書に一致していれば○、そうでないと×になった。
長い間のこの習慣から、全てに基準があり、正しい、間違いがあると当たり前のように考えるようになってしまったように思える。
しかし、教科書には間違いが無いわけではない。文明の進歩、時代の変化に伴い、内容に変化がある。進歩とは変化があるという意味でもある。
間違いは、人の考え方、立場の違い、見方、視点の違いなど見解の相違を表すものでもあると考える。
間違いを簡単に否定することは広く見られ、初めから間違いだからと否定することも多いが、そこに反省と修正、改善がなければ、人類の進歩に貢献しない。その違いを理解した上で、新たな考えを持つことが修正に繋がるように思える。
人間の社会を維持し、人間の社会を守っていくためには、人間として、人類として共通の考えを持つ必要がある。それは教科書のように、判断する上での明確な基準のことである。
難しい面はあっても、人間として持つべき資質は明確にする必要がある。人類はその人間としての資質に調和したルールや法律の在り方を学び、理解し、自分から責任を果たしたいと願う明確な基準を必要としている。
その3 真実という基準はあるか
人類が進歩してきたのは人間に完全はないからである。
真実とは人間による理想の基準というような意味が考えられるが、現実にはない。
真実が変わらないもので、完全、完璧、絶対という意味であれば、人類に進歩は無いことになる。
つまり、人類の考え方、立場の違い、見方、視点の違い等で、真実の基準は変わってしまう。
ただし、人類が特定の目的を持って歩むことができれば、その目的に沿って理想的な基準を作ることはできる。人間の社会を維持し、守っていくために、人間として持つべき人間性を明確にし、個人が責任を果たしたいと願う基準を示すことであると考える。
大人とは、個人に与えられている自由と責任の意味を理解し、人類協同体という社会に対する責任を自覚し、自主的にその責任を引き受ける決意を持っている人と考えたい。
年齢ではなく、人間としてあるべき基準に達しているという意味である。
その4 想像をはるかに超える無限のシステム
科学の進歩は偉大な人類の業績であると思っていても、自然界には元々あるもので、
人類はあるがままの自然界から学び、応用したにすぎない。
重力、電気、電磁波、核エネルギー、遺伝子の仕組みなどすべてが初めから自然界にはあるように思える。無限に見える宇宙、素粒子の世界もあるがまま、現実としてある。
人類はそれらが自然界に在ることに気づかなかっただけである。
人類が新たに創造したものは何もない。
人類が成し遂げてきたのは、自然界から学び、知識として蓄え、情報として活用し、応用してきたことである。元々あるものの存在に気付き、利用したにすぎない。
人間にとって便利で、快適で、役に立つものがたくさん作られてきた。
一方、人間の優越感は利益を追求し、力を得ようと殺人兵器の開発等に躍起になり、今でも覇権争いに夢中である。
自然界に正、誤はない。正しい、間違いもない。美しい、醜いもない。人間の世界に見られる敵、味方もない。
なぜ無いのか?
自然界には人間のような知的生命体に見られる「思考」が無いからではないか?
思考とは別に、人類の想像をはるかに超える、無限のシステムがあるかのように、あるがままであるように思える。
なぜ知的生命体が存在するのか? 争うためではないと考える。
人間の存在する意義は、はるかに大きいのに、気付いていないだけかもしれない。
シリーズ7に書いたように、未来において大自然が地球を浄化するということもあるかもしれない。人類の行っている行為に対する結果を刈り取るという意味が含まれる。
大自然という無限を前に、有限の人類はもっと謙虚であるべきであったのではないか。
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