マイケルアレフのことばの不思議な世界

2021年11月 
シリーズ 31 人間の持つ価値観について

背景について

「人類の歴史に戦争の無い時代はほとんどなかった。有史以来6000年もの時が経過しているにもかかわらず、又これほどまでに文明が発展している現在においてもなお、どこの国でも犯罪も殺人事件もなくならず、地域によっては紛争も戦争もあり、さらに世界に影響を与え得る大きな戦争の危険もある。
人類はこの基本的な問題を解決することはできないのだろうか。
国際連盟、国際連合も作ったではないか。
人類の叡知を持ってしても、何故根本的に改善されないのか。人間の認識は何故こうなのか。認識することの問題はどこにあるのか。」

これは個人が抱えた疑問で、人類の在り方への問いである。これがきっかけで、このサイトを始めることになった。

答えを見つけられるかどうかもわからないまま、考えてきた過程をシリーズとして書いてきた。

30代の頃、基本的なことが、わかっていないのにわかったつもりでいたことに気が付いた。その頃から新たに真実を追求することが始まったように思う。
個人の抱えた疑問に対する答に思えても、結論は個人が考えたその時点での結果という意味で、考えが十分であるという意味ではない。
現在その答えをシリーズ31としてまとめている。

シリーズ6に、美しさはないのではないかと書いた時、そんな馬鹿げた考えはあるかと思った。が、続けて書いている内に、美しさだけではなく、正義、人権、命、死など全ての価値観が思い込みにより作られているという結論に行き着いてしまった。

そんな馬鹿げた話はあるか? と思われても、これが考えてきた結果である。個人としての考えは重要とは思わないが、真実であれば重要な意味がある。確認作業は必要に思える。

大衆に馬鹿げた話だと思われても、真実は大衆がどう思うかと関係はなく、あるがままである。このサイトの内容が今まで当然のこととして受け入れられてきた内容に反することは理解しているつもりでいる。その理由をできる限り説明してきた。個人的に力量が足りない部分は当然あると思っている。

その時点の考えで書いているが、今振り返ると、考えがずいぶん変わってきたと思えるものもある。

個人が抱えた最初の疑問、争いはなぜ起きるのか? に対する答えは価値観にあるという、結論に行き着いたが、これはことば(単語)の理解に間違いがあることに原因がある。6000年もの間気付かなかったことであるように思える。



物を表す単語とは異なる、考えで作られている単語、感情表現などに問題があると書いても、理解することはなかなか難しい。
争い、戦争の原因が価値観にあると書いても、理解することは難しい。
それ故、その意味をわかりやすく説明することが必要である、と思っている。

考えを表す単語が重要な意味を持っていると思うようになり、今までにない大切で重要なものと評価するようになり、なくてはならないと思うようになると、その単語は人間に欠かせない価値観になる。それは他の何よりも大切に思えてくる。

例えば、人の持つ主義、主張は、守らなければならない価値観になるが、そう考えるようになると、その価値観を守るために、それが侵されるなら、何としても守らなければならないという、大義名分が成り立つようになる。

人は自由のため、平和のため、正義のために戦う。何よりも大切だと考えることにより、その考えが価値観になるからである。

ところが、正義、平和、自由という単語は人間が作った単語であり、それ自体は問題の原因であるようには思えない。

しかし、過去の多くの戦争では、正義、平和、自由のために多くの人が殺され、住む場所は破壊され、廃墟になった。
なぜ廃墟にする程、敵を憎むようになるのか?
戦争が終わってから考えると、理由がよくわからない。
理由がわからなくなるほど、敵を憎んだ。しかし、敵は人間である。

その理由は本当は敵ではないのに、敵と思い込むようになり、憎むよう思考と感情がコントロールされていたからである。

太平洋戦争で日米が互いに憎みあい、壮絶な戦闘を繰り返した。日本では鬼畜米英と信じて疑うことはなく、敗戦になれば男は強制労働に処され、若い女は暴行にあうと信じて疑うことはなかった。日本は神の国であるから、負けることはないと、固く信じていた。

しかし、日本は戦争で負けた。米軍が進駐してくると、米兵の多くは鬼畜などではなく、統率された軍の兵隊であり、人間として思いやりを示す紳士はたくさんいた。
現実を知るようになると、米国に対して親近感を感じるようになった。

今も基本的な人間としての状況が変わっているわけではない。
戦争が悪いから、戦争はしてはならないと、同じ間違えを繰り返している。戦争が悪いということはない。戦争に責任があることはない。人間に問題があり、責任は人間にある。人類の問題である。

それは人間の在り方を見直し、修正することが必要であることを意味する。今まで当たり前に思ってきた価値観をまず見直すことである。


戦争する時、どこの国も、自国の神に勝利を祈願した。個人も皆同じように祈ってきた。神ということばがわからない存在であることから、どのようにも考えられた。神という単語も人間の考えで作られた価値観である。

主義主張をすることが、価値観を作りだす。
価値観全てが悪いのではないが、再考は必要である。
人類の存続のためには、人間という存在、人間性という価値観を含め、すべての価値観を見直すことが求められている。

人間は価値観という思い込みにより、残虐な行為を平気で行えるようになる。
幼い子供が虐待され、殺される事件が起きるのはなぜか?
たくさんの人を巻き添えに自殺しようとする人間がいるのはなぜか?
争いが起きるのはなぜか? 戦争が再び起こるのはなぜか?

人間の持つことばと高度な知能が関係する。ことばの理解に問題がある。
思い込みにより正義を持ち出してはいけない。正義は自分の主義主張が正しいこと、相手がまちがっているを意味する。相手を敵にして、抹殺しようとする。
平和も自由もかけがえのないものである。その考えが価値観であり、守らなければならないと考える。それ故、その価値観を侵す者を敵にする。

平和は敵を作ることではない。自由も同様に敵をつくることではない。
それなのに結果として敵を作り、抹殺しようとする。平和を自由を守ろうとするからだ。


自然界に平和も自由もない。正義はない。人間性もない。全ての考えは、人間の考えで、人間の世界だけにある。人類は元々無かった考えで戦い合っている。
人間の知性はもう少し賢くあるべきだ。


人類の一人一人が人間であることの意味、ことばと知力を持つことの意味を考え、人間としての責任を自覚すれば、争うことの愚かさを認識できると考える。
現状を認識し、反省し、人類としての目的を掲げ、改善すれば、戦争のない新たな人間の世界を作ることは可能であると考える。

マイケル アレフ 2022年2月





価値観について
人間の持つ優越感から比較対照により作られたことばと考えられ、相反する 良い―悪い、美しい―醜い、偉い―卑しい等、一組になっている場合も多いように思える。その中間は無いか曖昧になる。時代、場所、環境でも、国、民族、個人の考えでも大きく違う。

価値観に実体はない。人間の考えで作られたものである。人間の世界にしかないものである。曖昧なもので、思い込みで作られたものである。
そう強く思えば有るようにも、無いものにもなる。信じると同じことのように思える。


価値観の例
考えとしては、人間の命は大切である。死は恐ろしい。
人間は強く、優秀でなければならない。一番になりなさい等がある。
人類に大きな影響を与えてきた正義、人権、愛、平和、平等、自由、幸せ、常識、お金などの名詞も具体的な例である。時間も価値観になり得る。

良いー悪い、美しいー醜い、偉いー卑しいなどの形容詞も代表的な例である。

昔わからないからを背景に、人間の想像により作られてきた死後の世界、天国、地獄、神、神々、天使、悪魔、幽霊、霊魂、などもある。

これら全ては情報を伝えるもの、ことばではあるが、五感により認識できるものではない。考えで作られているため、実体はない


美しい実体はたくさんあるではないか? という具体的な例を考えた。
美しさがあるのではなく、あると思い込んでいることがその背景にある。
シリーズ6 美しさについての考察の中に説明を書いた。



価値観であることば(単語)の特徴と共通点
価値観であることば(単語)には以下のような共通点があるように思える。

・ 人間の考えで作られた表現、ことば(単語や考え)で、その多くは幼少の頃から、昔からの価値観を正しいもの、存在するものとして教え込まれ、強い価値観を持つようになる。すると当人は価値観を持っていることに気付かない。それは偏見を持つことと同じに思える。
自分の国、民族、宗教などが優れている等と教え込まれることが、知らない内に価値観である偏見を持つことになる。

・ 価値観は考えで作られるため、五感により認識できない。実体はなく、物理的な評価はできない。人間の世界にあっても自然界にはないもので、定義は曖昧になる。
 思い込みであるから、在ると思い込めば在るようになり、無いと思い込めば無いようになる。考えの強さ次第でどちらにも変わる。
  国家、地方、個人によっても、時代、環境、文明の進歩等によっても違いが生じる。

・ 人間の争い、利己主義、自己主張の背景になる。
 ただし、特定の価値観は人間としての存在意味を持つものと考えられ、大切にする必要を感じる。



実体のない価値観が生まれる背景

人は幼少の頃より、比較対照すること、大きい―小さい、きれい―汚い、頭が良い―悪いなどと教えられ、そのことばを覚えた。そこから比較することを学習した。しかし、比較することば(単語)に実体はない。
比較しないと意味がないのに、あると思いこむ。大きい、小さい、美しい、醜いがあると思いこむ。
比較対照することが良い悪いのではなく、比較対照しているという事実を教えられていないことに実体のない価値観が生まれる理由がある

人間の世界では、子供は比較対照により優秀になるよう教えられ、優越感を求め、一番になりたいと思うようになる。
そこに人間の考えに欠落、つまり実体のない価値観が生まれる理由があるように思える。人間の世界が虚構に思える理由である。

人間にそう見えるのは、この世界が人間の世界であり、幼少の頃からそう教えられ、その価値観を身につけてきたからである。人間の世界は自然界とは違う別の世界である。

自然
界は真実というあるがままの世界である。
人類は自然からたくさんのことを学んでいるが、人類は自分たちの価値観を作り、自分たち独自の世界を作り上げてきた。それが人間の世界である。


なぜ人間の価値観は問題なのか。
それは人間がこれらの価値観を理解せずに作ったものであり、定義が明確でなく、どのようにでも作り変え、言い訳ができるものであるからである。
これが、価値観となることば(単語)に、定義が必要である場合があると考える理由である。

それは定義を明確にすることにより、人間としての考えを安定させ、人類を自滅から守るためである。

大切にすべき価値観はあると思うが、正しい理解と定義は必要に思える。
優越感を避け、利己的にならないようにするためである。


なぜ修正が必要なのか

今まで教育はそれぞれの地域で、民族、人種、国家等により独自に行われ、独自の価値観が作られてきた。その価値観は互いに尊重され、容認されてきた。
しかし、そこに許容範囲は認められても、人類として共通の考えを持ち、幼少の頃より教え込まなければならない非常に重要な基本的考えはある。

それは人間の持つ多様性と独自性の前に、つまり民族、人種、国家である前に、人間であることの意味を教えることである。
別の表現で言えば、日本人、韓国人、中国人等である前に、欧米人、アラブ人、ユダヤ人等である前に、白人、黒人、黄色人種である前に、人間であることの意味を教えることである。

人間の意味、起源がわかっているという意味ではないが、人間は遺伝子でできていることから新たな考えを持つべき時代になっている。人間はヒトゲノムという共通の遺伝子を持っている。

今までの人間の考えに間違っている古い価値観があることを書いてきた。その部分は修正されるべきであると考える。ただし、その価値観を変えることは非常に困難であることも事実である。

シリーズを通して以下のように考えるようになった。

・ 人間の認識は、脳の働きである思考と感情から作られている。
  認識は、人間の持つ心と表現されてきたが、思考と感情のことである。
・ 人間の思考と感情は思い込みにより価値観を作り出す。
  価値観は人間が作っている思い込みの結果である。
  五感による実体の認識と違い、思い込みであるから、実体はない。

美しいと感じることは実際にあっても、それは美しさがあるからではない、と書いてきた。
価値観は実体は無いにも関わらず、思い込みによって生じ、非常に大きな影響力、人々を戦争に向かわせるほどの力を持っている。

価値観はことば(単語、文章、考え、イメージ等)からできていて、人間の認識の中に広く多く見られる。全てが人間が作ったことばであるが、その多くは思い込みで作られていて自然界には無い。


科学的思考は 思い込みによる価値観に挑む


人の持つ価値観は思い込みで作られていて、「有ると思えば有るし、無いと思えば無いものである」と書いた。思い込みが強ければ、信仰と同じように、間違いの無い確かなものになる。

しかし、有るものは有ると強く思っても、実際には無いこともある。無いと思っても有ることもある。それを明らかにするのを助けてきたのは科学である。

科学は在るがままの姿を明らかにすることを助けてきた。科学と言っても、目に見える科学技術の進歩のことではなく、その進歩を支えてきた考えのことである。

価値観が思い込みによって、強く思いこめば、有るものでも無いものになり、無いものでもあるようになるのと異なり、科学の考えは確かな理論を作るための方法を考えてきた

新しく考えたことは仮りの説として捉えるようになり、それを直ぐに正しい考えとは受け入れられない。その仮説が正しいかどうかを、多くの科学者が実際に同じように実験をして検証している。それは理論ととして認める前に、確認作業が行われていることである。

価値観にはそれがない。自分勝手と思われる考えが、野放し状態である。

言論の自由は必要に思えるが、真実として受け入れられる前に、価値観が作られる前に、難しいことのように思えるが、確認作業が行われる必要があると考える。

人類の考えが混乱し、それぞれの価値観に基づいた主張がなされている。その元になる価値観に古い歴史がある。勝手に作られたものであるから、統一性はなく、思い込みであるから、それぞれが間違いないと思ってしまう。
人類の思い込みによる価値観に確認作業が必要である。

先ずはこの事実、価値観の問題を知り、理解し、認識し、それから修正を始めることが必要である。今は、人類の歴史が始まって以来の転換期にあることを、皆が認識しなければならない。
遺伝子の存在と脳の働きの理解を含め科学技術の進歩により、人間そのものの存在意義が明確に変わり始めているからである。



価値観に究極はあるか?

価値観に究極はあるのだろうか? それは完全、完璧、絶対という価値観を意味するように思えるが、現実には無い。しかし、思い込めばあるのが価値観である。そう思い込めば、人間にとって究極の価値観になるものは存在するようになる。それは、対象が何であれ、間違いがないという価値観を持つこと、信じることである。

しかし、それは前回指摘した以下の内容と対極の関係にあるように思える。

「完全、完璧、絶対、100%間違いないことは、人間の進歩を否定することと同じである。
それはまた人間の持つ自由を否定することでもある。」

人類が現状を認識し、反省点を見つけ、改善しようと進歩を望むなら、究極の価値観を持つことは間違いではないか? 確かにそう思える。


しかし、そうではあっても、人間には進歩を望まない、望めない場合もある。

様々な事情から感情的になって自暴自棄に陥る人はいるし、生きることの苦しみから解放されたいと願う人もいる。
病気の治る見込みがない人の中には、病気の苦しみから解放されるために、生きることをあきらめたい人もいる。高齢になり、これから進歩する意味はないと考える人もいるだろう。

戦争で相手に打撃を与えることを目的に、例えばイスラム過激派の人達による自爆攻撃がある。かつて日本の神風特攻隊のように自殺行為を強いられる人達もいた。

人類社会が安定し、周りの人から思いやりが示され、生きる希望が見え、教育、支援が十分受けられる環境があれば、進歩を望まない人達の見方を変えることはできるかもしれない。

地球上に人類として一つの連邦政府のような組織を作り、軍隊は一つ、全て今ある国は地方自治体のように改善できないのだろうか。




価値観の例

価値観の具体例1:  「人の命は大切である」 

この答を得るためには、命に対する理解が欠かせない。

命はことば(単語)である。人間が様々な生命体が生きていることから命があると考え、作ったと思われる単語(名詞)である。

シリーズ8 命についての考察の中で、
「命は生命体を生かすエネルギーのこと、遺伝子でできた食べ物のことである。」 と書いた。
最近それに加えて、「命はことばである」と書いた。
専門家の定義によると、命とは自己複製と代謝を行うものとある。

命がことばである理由は、全ての生命体が遺伝子から作られていることがわかるようになり、その遺伝子DNAはアデニン(A)、チミン(T)、グアニン(G)、シトシン(C) と呼ばれる4種類の塩基対の並びの文字からできていて、人間の場合、60億の文字の並びからできている。半分は同じなので、ヒトゲノムとしては30臆の文字の並びになる。遺伝子としての情報は約2万であるという。

命は文字によるプログラムから作られていることから、命はことばである、と書いた。
人間は皆共通のヒトゲノム遺伝子から作られているので、人類は一つの家族である。


人間の命の価値に違いはあるのか?

命の価値は人が人をどう評価するかに表れる。白人は優れているという白人至上主義の考えは昔からあった。

米国では黒人の奴隷解放宣言は南北戦争中の1862年9月エイブラハム・リンカーン大統領により出され、奴隷制度は廃止されたが、その人種差別の影響は今でも残っている。

第二次世界大戦中ナチスドイツでは人種差別により女性、子供を含む無実のユダヤ人が強制収容所で組織的に毒ガスなどにより殺害された。その数500万人以上いたとされる。

人種差別による虐殺はナチスドイツだけではなく全世界の多くの地域で行われてきた。
現在、南アフリカでは「白人を殺せ」という白人排斥運動が危機的状況を迎えている。

命の価値はどのように示されているか。それは人を差別することに表れている。
現在、命の価値は同じだと思う人は多いが、
「人の命は大切である」という価値観に間違いはないのだろうか?

ここで初めに書いたことを思い出して欲しい。
価値観は人間が作っていて、変わるものであり、正しいものはない。

「人間の認識は脳の働きによる思考と感情で作られている。
認識は、人間の持つ心のことである。
人間の思考と感情は、思い込みによる価値観を作り出す。

思い込みであるから、在ると思い込めば在るようになり、無いと思い込めば無いようになる。考えの強さ次第でどちらにも変わる。
価値観は実際には無いにも関わらず、非常に大きな影響力を持っている。
信じることと同じである。

命が大切であれば、全ての生き物は大切であることになる。
他の動物も、鳥も、虫も皆同じATGC (塩基対)という文字列から作られている。命が違うように見えるのはプログラムの内容が違うからで、元になる塩基対は同じである。

なぜ人間の命だけが大切なのか? という質問が生じる。
その答えは、価値観は人間が作ったもので、人間の世界にあるからである。
人間がそう考えれば、人による考えによる影響で、そうなる。人間は天使にも、悪魔にも、神にもなるのである。


「大切」とはどういう意味か?
それは、人間の視点、人間の世界では重要であるという意味である。言い換えれば、人間以外の世界、身近にある自然界には大切という考えはない。

人類は想像を越える大量の牛、豚、羊等の動物、鶏、魚、植物の命を奪い、殺して食べているが、動物を殺すことは悪いことなのか? 
悪いなら動物の命を奪うことは間違っていることになる。
しかし、悪いも良いもない。価値観は人間が作った思い込みによるからだ。
どちらとも言えない。どちらでもない。

皆でルールを決めるなら別の話になる。価値観を全人類が守るべきルールとして規定すれば、それはルールとなる。良い、悪いは価値観であるが、あいまいなものであり、思い込みでできていて、ルールではない。皆がその情報を知り、理解した上でルール(罰則を含む)を作れば、それはルールになる。

ルールは人間として誰にでも理解でき、自ら進んで責任を持ち、守るべきものとすることが必要に思える。全ての人が大人になる前に、人間の意味について、人間として知らなければならない基本的な情報を学習することが必要であると考える。

大人とは、個人に与えられている自由と責任の意味を理解し、
人類協同体という社会に対する責任を自覚し
自主的にその責任を引き受ける決意を持っている人と考えたい。



価値観は思い込みで作られている

具体例 2: 「死について」 

恐怖について

人間の赤ちゃんは全く無防備に見える。生れた頃の赤ちゃんは恐怖を知らないように見える。命の危険があっても、回避する行動は取らないし、取れない。

人間の赤ちゃんはすべてをその両親を含めた社会からの保護を必要としている。

時代も環境も個人の能力などにもよるが、一人前になるまでにおよそ18年もかかる。その間に、人間の場合は教育により、危険なものがあることを学習する。その中で恐れや恐怖の感情を身に着けるように思える。

恐怖は人間に初めからあるものではない。人間の危険回避という行動は教育により作られたもの、学習により身に着けたものであると考える。



死という単語はことばの媒体であり、考えを伝えるものである。

生命体が時を経て朽ち果て、存在が無くなっていくのを見て、人類はそれを死と表現した
人間は死を恐れる。しかし、人間以外に死を恐れているものはいない。
なぜなら、人間以外は、死があることさえ知らない。

高度な知能を持たない生命体は死ということばを知らない。
(危険回避行動はプログラムされているように思える。)

死とは、人間が作ったことば(単語)である。
自然の中に死は無い。人間の世界だけにある。
死は人間の考えにより作られたことば(単語)であるからだ。

人間の世界から見ると、死があるように思える。
それは生命体が時を経て朽ち果て、存在が無くなることであり、それ以上の意味はない。
それは自然の中にある。ただそれだけである。
自然界には星でさえ、新たに生まれるものもあり、消えていくものもある。死をリサイクルと考えることが必要なのかもしれない。

人類は死が何かをわかろうとし、想像による世界を作りあげてきた。
人間は死を恐れる理由を作ってきた。しかし、人間がわかろうとしても答えはない。
わからないから人類は死後の世界を作り、天国、地獄を作り、神、神々、悪魔、幽霊、なども作ってきた。結果として、人類は現実に無いものをたくさん作り出してきた。

現在わかっている人間にとっての死とは、脳死が死であることで、脳死と共に自分という存在を含め、個人の持つすべての記憶は失われる。

人間には本来、美しさも、醜さも無い。シリーズ6 美しさについて の中に説明を書いた。
そこから始まって、人間の持つ価値観すべてに問題があり、見直すべき必要があることに気付いた。

価値観とは思いこみのことで、「在ると思い込めば在るようになり、無いと思い込めば無いようになる。考えの強さ次第でどちらにも変わってしまうもの」である。
価値観が人によって異なる理由であり、感動の理由にもなれば、戦争の原因にもなる。



具体例 3: 「常識について」 
常識
ということば(単語)は、思い込みにより作られた価値観である。

常識という言葉は「普通誰もが持っている、また、持っていなければならない知識や考え方」と辞書にはあるが、時代背景、育った環境、受けた教育などで、人によってまるで違う。価値観が多様化している現在はなおさらその傾向は強い。常識とはある特定の枠の中での価値観のことである。

世界が小さい人ほど、価値観が小さい人ほど、学ぶことが少ない人ほど、この常識の枠は小さく狭い。この枠が小さい人の問題点は、その枠を越えたものはみな非常識になること、そして枠の中に留まっている間はそれが正しいことになってしまうことである。

常識の枠は家庭にとどまらない。ある土地で生活する者にとっては、その地方の生き方、考え方、価値観などはやはり共有するものになり、それが常識となる。会社でも規律、ルールが常識として定着することもある。国を取り上げても同じことが言える。日本に共通する生き方、考え方、価値観などがあり、日本だけでしか通用しない常識がある。その常識の枠は情報を取り入れ、新しい認識を持つことにより広げることは可能であるが、その枠の中にいる限りは問題意識を持つことはほとんどない。

新しいことを知れば知るほど常識の枠は拡大され認識が変わる。認識の枠を広げることにより常識という言葉に惑わされなくなる。全ての人はこの認識の枠を拡大することにより広い視野で物事を見ることができるようになる。

人はそれぞれの価値観を持って生活している。それがその人にとっての常識の範囲である。その人が置かれている立場とも言い換えることができる。そこから物事を見ると、あたかも色眼鏡で見たかのように、人それぞれが違った色の物事を見る。

全く法律にも違反しない小さな間違いなどに対して、「常識がない」とする批判は間違っている。それは批判する人が持っている常識が狭いだけである。許されるべきことであれば、自制心がない自分を批判し、寛大になるよう努めるべきである。寛大になるとは相手をより良く理解することである。

その他の作品II, 常識に捕らわれず、人を理解することの大切さ、より) 





具体例 4 「幸せについて

その他のシリーズ I に 「幸せを理解することが、幸せでいられる理由」 という内容を書き、人間が幸せでいられない理由を説明した。

「幸せを理解することが、幸せでいられる理由」という記事の後に、ヘレン・ケラーは三重苦を乗り越えた奇跡の人と語られてきたが、この表現はヘレン・ケラーではなく、健常者の考えで作られていると書いた。ヘレン・ケラーに三重苦はなかったと思えるからである。

なぜ三重苦はないのか。
ここに価値観の問題の原因、具体例を見ることができるように思える。

確かに、目が見えない、耳が聞こえない、口で話ができないことは不幸そのもの、三重苦に思える。しかし、生まれつき目が見えない、耳が聞こえない、話ができないことは不幸なのか、と問えば、必ずしもそうであるとは言えない。

反対に、目が見えれば幸福なのかと問えば、それもそうであるとも言えない。

目が見えていても幸せではない人はたくさんいる。不幸になる理由はいくらでもある。
そう思い込むなら、そうなるように思える。

不自由の無い健常者から見れば、不自由で、苦痛に見えるかもしれないが、
生まれつき障害がある場合、当人は初め、障害があることを知らない。適応能力があるため他の能力がカバーし補う。他の感覚が大きく発展することもある。

障害があれば不自由で、苦痛、不幸であると決め込んでしまうこと、その考えが思い込みであり、価値観を作ることであり、間違いであるように思える。

事故や病気により突然目が見えなくなるなら、今までにない大変困難な生活をすることになり、苦しく、辛く、絶望的に思える状況だ。

ここで改めて考えてみる必要があると思えるのは、
今まで目が見えていたことを含め健康であったことを幸せと感じていたか?
幸せであったのかと質問すれば、考えたこともない。健康であることを当然と思っていた。

無くなれば不幸である。あれば当たり前。失って初めて大切だったとわかるのはおかしくないか? それは誰でも同じなのか? なぜなのか?

勝手に思い込んでいることに問題があるように思える。作られた思い込みに間違いがある。人間としてあるべき基本的考え方が不足しているのではないか?

「無くなれば不幸である。あれば当たり前である。」
これは思い込み、価値観の問題と考える。

あれば当たり前になるのはなぜなのか?
認識できなくなるからと思っても、考えれば認識できる。
「理解することが、幸せでいられる理由」である、と書いた。
当たり前になることを許している状況がある。周りに感謝している人がいない。

当たり前になるとは、それは考えなくなること、考えないことである。
考えない、忘れる。これを修正することで、幸せでいることができるのではないか?


多く持っていれば、失うものも多い。
どれ程、何を、持っていても、失う定めにある。
今だけの、つかの間の喜びを楽しんでいる。
全ては生きている間だけ
個人のもの、自分のものと思っても、
リサイクル(死)と共にすべてを失う。

目の見えない人は、見える人より不幸か?
足のない人? 手のない人? はある人より不幸か?
できない人はできる人より不幸か?

重要なのは何か?

意義があるのは人間にことばがあり、考えることができるからである。
もし人間に知力がなかったなら、意義はない。

人生で、生きることで得られる喜びも悲しみも現実である。
生きたことに意味があり、喜びもあった。幸せもあった。過去であれ、命に喜びはあった。
生きたことに意味はあった。人生は素晴らしいと感動することもあった。

人は皆、人生に意味はあったことを忘れてしまう傾向がある。
忘れてはいけない。人間であるから、素晴らしい人生を経験することができることを。

人生には辛く悲しいこともあるが、人間でなければ認識できないことである。自然界には楽しいも悲しいもないからだ。



人生の終わりであれば、今はその幸せをかみしめながら、安らかに死んでいくことが可能な時代である。安楽死することはできる。自分の人生を自分で最善の状態で終わらせることができるように思える。

未来において安楽死が認められる時代がやって来ると考える。人はひとり寂しく死を迎える必要はない。皆、命を活用することの意味を学び、最善を尽くして人生を終えることができるようにしなければならない。
人類が力を求めて覇権争いをするのではなく、その資金を人類のために有効活用するなら、幸せに生きること、幸せに死んでいくことは十分可能である。

人間は初めから間違っていたのかもしれない。死を怖いもの、醜いもの、悪いもの等という価値観を作ってきたことである。死を自然なもの、星や宇宙を含め全てが古くなり消滅していく。新しく生まれてくるものがある。
人類は死をマイナスのイメージで作ってきたが、リサイクルと考えれば、新たな生き方ができるかもしれない。 リサイクルでなくても何か良い表現があるかもしれない。新しい価値観を持つことは可能であると考える。




具体例 5 「正義、自由、平和

遠い昔から人類には考えてもわからないことがたくさんあった。考えてもわからなくても、考えるしかなかった。これが哲学が発展した背景かもしれない。

人類は自らの考えが十分でなくても、理想に思えることば(単語)を作ってきた。そのことばに縛られ、思い込みにより価値観を持つようになり、それが争いを起こす原因にもなってきた。戦争により多くの人の命が奪われてきた原因である。それは思いもしなかったことであった。なぜなら今でも同じ状況が見られるからである。

人類は今でも正義、自由、平和を掲げ、その名の下に戦い合ってきている。
なぜ正義のため、自由のため、平和のために戦うのだろうか?
それは正義、自由、平和という価値観が戦う理由であるからだ。

なぜ人は平和のために戦うのか?
平和は、人の命が大切であるから戦わないためにある。
それなのに、なぜ平和のために戦うのか?
平和ということばを人間が作り、思い込みにより、かけがえのない価値観を持つようになったからである。
平和とは何か? 実体の無い曖昧な考えで、戦争の反対、争いの無い状態だと考えている人もいる。平和はあると思えばあるが、無いと思えば無いものである。
自然界に平和は無い。人間が作った考えであるから、人間の世界にだけある。


なぜ正義のために戦うのか?
正義は力の象徴で、問題を力で解決することにある。正義は公正ではない。しかし、正義が正しい、公正であると信じることになるため、力による解決、戦争となり、破壊による悲惨な結果を伴う。それは敵を作り、憎み、滅ぼすことに発展するからである。正義は人間の世界だけにある。
人間の世界から見れば、自然界に天敵などがいるように見えても、そこに憎しみは無く、敵という考えもない。


なぜ人は自由のために戦うのか?
自由とは人間が作り、思い込みにより、非常に大切であるという価値観を持つようになった。
自由を束縛することは許せないことになり、束縛する者は敵にして、戦うことになる。
自由とは人間が作ったことばであり、考えである。
自然界には、あるがままの自由はあるが、人間の世界の自由はない。

正義のため、自由のため、平和のために人は命をかけて戦う。これらは戦いを正当化するために使われることばである。もっともらしい言い訳、口実になり、敵を作り、滅ぼす理由になる。

人間が作ったことば(単語)は何であれ、思い込みが強ければ、みな価値観に成り得る。

神という言葉は人類の無知を象徴することばであると書いた。しかし、神ということばだけでなく、平和、自由、正義等ということばも人類の無知と愚かさを象徴するものであるように思えてくる。

今に至るまでそれに気づくこともなく、理解できないでいることが、人間の世界が変わらない、戦争が無くならない理由であると考えるに至った。。




具体例 6: 「正しい、間違い」について

正しいとは何か?
この質問は、「何を基準に正しいと考えているか?」 と捉える必要があるように思える。
なぜなら、「正しい」ということば(単語)に実体はなく、対象を評価するためにあるから。

昔、国が教える基準が正しいことであり、国民は国の政策に従うことが強要された時期もあった。

現在学校で使われている教科書は「正しい」かどうかの基準になる例である。

学校で行われるテストで答えが正しいかどうかは教科書の内容で判断される。教科書に一致していれば正しいことになり、そうでなければ誤りになる。先生の考えによる影響も考えられる。

正しいかどうかは、正しいの元となる基準、教科書のように特定の内容(仮定)と比較することにより正しい、間違いかを判断している。

幼児期、正しいことが何かを教育された。親が持つ正しいという基準のこと、価値観のことである。
その後9年間学校で義務教育を受け、高等教育まで進んだ人もいる。
大人になるまでに、教育と経験を通して、「正義、自由、平和、常識、命、死、幸せ、富」等に対する価値観を持つようになる。その様々な価値観が「正しい」と判断する基準を作っていると考える。

ここで重要な質問が提起される。
それは、人の持つ様々な価値観の集まりは、「正しい」の元となる確かな基準となるのか、間違いはないのか? という質問である。


注意が必要に思えるのは、特定の基準になるものに思い込みを持てば、それは間違いの無い価値観となり、そう信じるようになれば、絶対正しいものにもなってしまうことにある。

考えに限らずそれが人間の作った絵、本、像など何であっても価値観になり、神聖な物にもなってしまう。反対の価値観を持てばそれらを一掃することにもなる。今でも思い込みにより、物質でできた物、偶像を作り、神様として拝んでいる人はたくさんいる。


物が思い込みにより価値観となる具体例

ローマ帝国の皇帝コンスタンティヌスがキリスト教を公認した西暦313年以前には、いたるところに人間が造った神々の像である彫像が置かれていた。ローマには30.万を越える神々がいたとされるが、キリスト教が異教の宗教も神々の存在も許さなかったため、その多くは破壊の対象となり失われてしまった。

ユダヤ教は偶像崇拝を禁じている。イエスキリストはユダヤ人として生まれ、その神を信じていた。キリスト教も偶像崇拝を禁じている。しかし、現実にはキリストの像、聖母マリア像、たくさんの聖人の像が作られている。単なる像であっても、思い込みにより神聖なものになり、作った偶像に向かって感謝し、願いごとを祈る。


エジプトで奴隷のような境遇からモーセをを通して解放されたイスラエル人およそ200万人は、シナイ山に登ったモーセが不在の間に、黄金の子牛の像を造り、それがエジプトから自分たちを解放した神であるとお祭り騒ぎをしていた。山を下りてきてそれを見たモーセは十戒の書かれた石の板を投げだし壊してしまった。その十戒には偶像を神としてはならないことが書かれていた。
その結果、モーセを含めイスラエル人200万人は40年間荒野をさ迷うことになり、約束の地であるペリシテ人の地パレスチナに入ることは許されなかった。


日本でも実際にあったキリシタンと踏み絵は、キリスト、聖母マリアの絵や像でさえ自分の命に代えても守りたいものになる具体的な例である。

1612年徳川家康によるキリシタン禁令から始まり、江戸幕府は度重なるキリスト教の禁止を経て1629年に絵踏を導入、以来、年に数度「キリシタン狩り」のためにキリストや聖母が彫られた板などを踏ませ、それを拒んだ場合は「キリスト教徒」として逮捕、処罰した。
時間を経て多くは隠れキリシタンになり、踏み絵による方法の効果は無くなって行ったという。

2019年11月29日、BBCニュースに、ローマ教皇が長崎で追悼、日本26聖人と踏み絵 という内容が報道された。それによると、当時およそ50万人のキリスト教徒がいて、棄教を拒否して殉教した信者の数は2000人に上るという。


米国の裁判で証人になる人が本に手を置いて宣誓するのを見たことのある人もいると思うが、米国はキリスト教国であることが示すように、基本的に聖書を神のことばと信じている。聖書に手を置き真実を語ると宣誓することにより、嘘をつくことは神に対する罪を犯すこと、神に対する冒涜であり、許されないと行為であると警告する。人々がそう信じている限りは真実を語るように仕向ける効果があるが、信じていなければただの本になってしまう。

これらは人間が思い込みにより、物に価値観を持つようになることを示す例である。



さて、人類に絶対正しい基準というものは存在するのか? に戻そう。 

学校で行われるテストのように特定の枠を作り、その中に限れば、存在することはあり得るように思える。しかし、枠を設けずに全てに適応できるものは存在しない。

正しいという考えは人間が作ったことば(単語)であり、自然界にはない。絶対正しい等という基準は、人間に限界がある以上、存在することはないと考える。
人間の作った教科書が絶対正しいことはない。時代の変化と共に教科書の内容は書き換えられている。
このように正しいの元になる基準は変わっていく

進歩があるのは、人類が自分たちの歩みの中で間違いを見つけ、改善してきたからである。
このこと、進歩があるとは、それ以前の歩みに改善する余地があったことを意味する
間違いを見つけ改善すること、考えを広げること、新しい考えを持つこと等は、人間の進歩を意味し、人間の持つ知性の素晴らしさを示すものである。、


☆ 以前書いた「信じる、信頼する」ということばの新しい定義についてをシリーズ22に加えた。
その中に、以下のように書いた。

「疑わない」「間違いはない」とすることは、「完全、完璧、絶対」という一つの価値観を作ることで、この価値観は他のすべてに優先し、すべてが許されるようになる
この価値観は知らないうちに人の心を奪い、虜にし、操り、支配するようになる。

信じることにおいて、その内容、対象に間違いがあってはならない理由がここにある。

信仰の対象には間違いがあってはならないのは、信じる行為が人の心を奪い、虜にし、操り、支配するようになり、重罪を犯すことさえ可能にするからである。

この新たな定義により、人間は信頼する対象ではあっても、信じる対象ではないことになる。

「人間は間違える存在である故、完全ではなく、絶対もない。
しかし、人間は完全ではないからこそそこに進歩できる理由がある。
実態を把握し、間違いを見つけ、反省し、改善し、進歩することができる。
完全、完璧、絶対、100%間違いないことは、人間の進歩を否定することと同じである。
それはまた人間の持つ自由を否定することでもある。」

進歩という表現はあるが、本当は何が進歩なのかをわかっているわけではない。
現代の科学は人類を滅亡させるだけの力を持っている。その力が使われれば人類は滅亡する。
その結果から考えると、人類は進歩してきたのか、科学は進歩してきたことになるのかという疑問が生じる。

人間は利己的でもあるために、また間違いを犯す存在であるために、結果を考えれば、進歩してきたかどうかはわからなくなるとも言える。ある枠を決めれば答えることはできる。今までという時間的な範囲に限れば、人類の文明も科学も進歩してきたと言うことはできるだろう。

利己的であるから人間は失敗することは多い。しかし、その後、反省し、改善し、そこから人類として進歩してきた、と表現することもできる。

しかし、人類は今、その歴史の最終局面に近づきつつあるのかもしれない。それは人類が人間について真剣に考えてこなかった結果であるようにも思える。
数千年〜数百年前からの人々の考えを、先祖代々からの教えとして大切にし、そのまま真実なこととして受け継いでいることである。

人類は今までの価値観を修正しない限り、争いを止めることはできないだろう。




具体例 7: 神という価値観について  

見えない神は人間の五感機能を持ってしてもわからない。 

6000年前から人間の五感機能そのものに大きな変化はないと思うが、人類の科学の進歩と共に、視覚に関して言えば、望遠鏡や顕微鏡が開発され想像を越える世界が見えるようになっている。 

視覚が補強されて無限大に思える程まで、宇宙の果てまで見えるようになっても、又小さすぎて見えないウイルスや物質の元である原子レベルの存在がわかるようになっても、現実の世界に神の存在は見つからない。これだけ科学の進歩があっても神の存在はわからない。 

なぜ見つからないのか?

神の存在は思い込みにより作られた価値観であるからと考える。

そうであれば、どれ程人間が追求しても、答えは見つからない。
価値観であれば、神は思い込みで作られていて、仮想の存在だからである。

人間は想像によりたくさんの神を描いてきたが、人間の作品である以上、人間という枠の範囲内にある。その限界を越えることはできない。それが理由で、神は人間に似ていることが多い。

人間の五感で認識できないなら、人間の認識できないものを示したとしても、わかることはないからである。
人間にわかる神であれば、その神は人間という枠の中で認識できるという意味であり、無限も、永遠も、絶対も関係ない。

人間は人間に限界があること、そしてその限界の範囲を、理解する必要がある。
人間に知能があるのは進歩する定めにあるためと思うが、永遠に探究しても、わかり得ないことが存在する。




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雑記

価値観は人類に素早い判断力、共通の認識、解決方法をもたらしてきた。
しかし、それは人間が考えなくなる、考えずにいられる理由になっている面もある。
当たり前だ、常識だと思うのは、共通の認識があるからである。

古代ローマにおいて見世物として闘技場で戦ったグラディエーターがいた。大衆は人間どうし、人間と野獣の間の戦いで血を流し殺し合うことを熱狂して楽しんだ。

今はこうした現実の戦いを直接見ることはできないが、様々な戦う試合は今でも楽しむことができる。殺人行為であっても、戦闘行為であっても、映像で作られたものであれば楽しむことができる。ゲームの世界、バーチャルな世界であれば、自分が主人公になって戦い、敵を殺すことを楽しめる。
楽しんでいる内に現実との境がわからなくなり、人を殺してみたいと思うようになっても、ニュースになっても、個人の問題である。

人間は数千年前の昔と何も変わっていないようにも思える。
戦争は悪いこと、人を殺すことは許されないと教えられていながら、子供も大人もそれを楽しんでいる。

この現実を見て、人は何かおかしいと思う場合はあるかもしれない。

思考力が犯され麻痺してきているのだろうか?

人から考える能力を奪えば、知的生命体としての意味を失うことになる。存在の意味を失う。ことばで考えることがないなら、人間の存在意義はなくなる。


人類とは何か。

人類とは兆を越える数の銀河を持つ無限に広がるように見える宇宙の中にある一つの銀河、それは2000億以上の恒星を持つ星の集団、銀河系、また天の川銀河と呼ばれていて、その銀河の中の太陽と呼ばれる恒星を中心とする太陽系の惑星8つの内の一つが地球であり、その地球の上に繁栄している高度な知能とことばを持つ知的生命体を人間と呼び、現在およそ75億の人間の個体が生存していて、その総称を人類と呼ぶ。

人類の歴史は争いと戦争に溢れていて、人間は好戦的であり、自分たちの思い込みから正義、人権、自由、善悪などの価値観を作り、その価値観により敵を作り、敵と戦い、敵を倒すことを正当化し、同じことを繰り返してきている。

地球上の土地はたくさんの国に分かれ、それぞれが自分の権利を主張し、土地は自分のもの、自分達の国のものという価値観を持っている。
地球は人類のものではないのに、先住者優先の法則なのか、自分たちのもの、人類のものと思い込んでいる。 

人類は高度な技術力を持つようになり、地球上の生命体すべてを滅ぼしても余りあるほどの兵器を持ちながら、なおも正義は力であると自分を強くしようとする価値観を持っている。地球の外にも影響がすでに出ていて、覇権争いの中にある。

宇宙に存在する高度な知能を持つ生命体と言うには恥ずかしい限りであるが、これが現在の人類の姿である。幸せを失うまで、幸せに気付かないのが人間である。このままの状態で地球上の人類が存続することは非常に困難に思える。

人類が自らを存続させることができないなら、高度な知能を持つ生命体とは言っても、愚かな存在である。かつて恐竜が存在していたという意味と同じように、地球上に人類の存在の痕跡、記録だけが残り、消えてしまった人類ということになるのかもしれない。

人類存続のカギは価値観の修正にあると考える。


自然界には無いという意味は、「人間が花は美しいと感じても、花は自分が美しいことを知らない。ライオンは強い動物だと思っても、ライオンは強いことを知らない。人間のように高度な知能とことばがなければ、花は美しいと考えることも感じることもできない。ライオンも生きていることさえ認識することはできない。」 という意味である。

花は遺伝子情報に従い、花を咲かせている。その花を咲かせていることさえ知らないのである。地上では人間だけが美しいと思うことができる。

自分から見て、自分は美しいと思うのは、人間だけだろうか。
醜いと思うのも、人間だけだろうか。
美しさの中に醜さもある。醜さの中に美しさもある。見る人が見ればそう見える。
見えない人には見えないものである。

アゲハ蝶が舞っている様子は美しいと思う人でも、
蝶になる前の芋虫は気持ち悪い、嫌いだと言う人もいるだろう。
アゲハや芋虫の立場からすれば、
「勝手に判断するな。いい迷惑だ。」 になるのだろうか。

美しいものはある。それは見る人の感情としてある。
そう感じる人には、感情から人の思い込みとなって美しさは作られるからだ。
思い込みとして実体である美しい花、景色、人、絵などが存在する。
(以上は、シリーズ6 美しさについての考察から部分的引用)


ライオンは強い。百獣の王と呼ばれてきた。
しかし、ライオンは強いという意識を持っていない。
ライオンには人間のようなことばも思考力もない。
受け継いだ遺伝子により動物の世界で強いだけである。
人間には強い動物の代表に見える。そう教えられてもきた。

ゾウは大きい。何と大きな体なのだろうか。
アフリカゾウの体重は平均で4〜7トン、体長6〜7.5m。
同じ哺乳類のシロナガスクジラには体重はゾウの20倍あるものもいる。
体重50〜150トン、全長約26m、
しかし、海は大きい。海の中では、そのクジラすら蟻のように小さく見える。
海は地球の一部である。
その地球は太陽の直系の約109分の1しかない。
「大きい、小さい」ということば(単語)は、比較対照をするためにある。
人間の世界にしかないことばである。


6000年もの間、人間は五感に認識機能があると考えてきた。

50年ほど前まで、目が見ている、耳が聞いている、舌が味わっているという表現が使われていたように思う。現在は目で見ている、耳で聞いている、舌で味わっているに変わってきている。
当時、美しいのは目があるから、美しい曲と感じるのは耳があるから、美味しいのは舌があるからだと思っていた。当時脳の働きや遺伝子に対する認識はほとんど無かった。

ところが今では五感はパソコンの入力装置に相当するもので、五感自体に認識機能はなく、認識しているのは脳であるに変わっている。パソコンの普及が脳の働きの理解を助けてきた。

つまり五感だと思って作り上げてきた価値観は、五感ではなく脳の働きであるに変わっている。美しいと感動するのは五感の目で見ることによるのではなく脳の働きである。



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シリーズ 31 人間の持つ価値観について

その背景について
価値観について
価値観の例
価値観であることば(単語)の特徴と共通点
実体のない価値観が生まれる背景
なぜ人間の価値観は問題なのか
なぜ修正が必要なのか
科学的思考は 思い込みによる価値観に挑む
価値観に究極はあるか?


価値観の具体例
具体例1: 「人の命は大切である」 
具体例2: 「死について」 
具体例3: 「常識について」 
具体例4: 「幸せについて」
具体例5: 「正義、自由、平和」
具体例6: 「正しい」について
具体例7: 神という価値観について 

雑記

価値観は人類に素早い判断力、共通の認識、解決方法をもたらしたが、・ ・ ・。
人類とは何か?
自然界には無いという意味について