常識という言葉に捕らわれずに、人を理解することの大切さ 今の時代でも常識を盾にして、「常識知らず」とか「常識はずれ」などと攻撃をする人がいるかもしれない。 「そんなこと常識でしょう」とか「それは常識よ」とか「なんて非常識な」とか。 それぞれの家庭にはそれなりの常識というものが存在する。その家庭の中では生き方、考え方、価値観、作法など基本的に当然のこととして教育され、受け継がれている。それに従わないものは非常識な人間とういことになる。伝統、しきたり、慣習などを重んじる家庭環境はそうした考えを助長する。 常識という言葉は「普通誰もが持っている、また、持っていなければならない知識や考え方」と辞書にはあるが、時代背景、育った環境、受けた教育などで、人によってまるで違う。価値観が多様化している現在はなおさらその傾向は強い。常識とはある特定の枠の中での価値観のことである。 世界が小さい人ほど、価値観が小さい人ほど、学ぶことが少ない人ほど、この常識の枠は小さく狭い。この枠が小さい人の問題点は、その枠を越えたものはみな非常識になること、そして枠の中に留まっている間はそれが正しいことになってしまうことである。 常識の枠は家庭にとどまらない。ある土地で生活する者にとっては、その地方の生き方、考え方、価値観などはやはり共有するものになり、それが常識となる。会社でも規律、ルールが常識として定着することもある。国を取り上げても同じことが言える。日本に共通する行き方、考え方、価値観などがあり、日本だけでしか通用しない常識がある。その常識の枠は情報を取り入れ、新しい認識を持つことにより広げることは可能であるが、その枠の中にいる限りは問題意識を持つことはほとんどない。 新しいことを知れば知るほど常識の枠は拡大され認識が変わる。認識の枠を広げることにより常識という言葉に惑わされなくなる。全ての人はこの認識の枠を拡大することにより広い視野で物事を見ることができるようになる。 人はそれぞれの価値観を持って生活している。それがその人にとっての常識の範囲である。その人が置かれている立場とも言い換えることができる。そこから物事を見ると、あたかも色眼鏡で見たかのように、人それぞれが違った色の物事を見る。 全く法律にも違反しない小さな間違いなどに対して、「常識がない」とする批判は間違っている。それは批判する人が持っている常識が狭いだけである。許されるべきことであれば、自制心がない自分を批判し、寛大になるよう努めるべきである。寛大になるとは相手をより良く理解することである。 以下は2000年も昔のユダヤ人の言葉である。当時も同じ問題があり、今と変わらない。 「あなたは、兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 兄弟に向かって、『あなたの目からおがくずを取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。 まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおがくずを取り除くことができる。」 2000年も経っても大衆の人間性は基本的に変わっていない。人間性は簡単には変われないことを示している。ただ個人差は相当あり、このことに気付いている人も相当いる。 まずは少しでも気づいた人から、自分の持つ価値観を見直し、人をより良く理解することから始めることが必要だろう。 マイケル アレフ
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