マイケルアレフのことばの不思議な世界

シリーズ36 創世記の初めにある記録から 

創世記は66冊から成る聖書の中の最も古い部分で、今からおよそ6千年前に書かれたとされるが、誰が書いたのか正確にはわからない。
その記録が書かれたのは6千年前であっても、アダムの創造を含め起きた出来事はそれよりはるか昔であったとも考えられる。

今では神話扱いにもされる内容でもあるが、それで終わらせることはできないだろう。たくさんの知識のある現代だから作り話に思えても、当時にこれだけの内容が作れるとは思えない。その内容は現代に至るまで答えを出すことが難しかった善悪の問題を扱っているだけでなく、その背後に別の理由があるとも考えるからである。 

以下に3つの問題点を取り上げて考えてみる。 

1. 「初めに神は天と地とを創造された」に関するもの
 この文章は、ことば(単語)の理解と認識の不足が、わかっていないのにわかっていると考えてしまう具体的な例である。
 当時の人間が書いたとは思えない理由について指摘してみる。

2. 善悪を知る木の実について
 善悪の問題のように思われてきたが、実はそうではない。その理由を説明する。 

3. 人間の創造に関する記録の問題
  Part I の補足など (今後の課題)


1. 初めに神は天と地とを創造された。

「何と優れた表現ではないか
素晴らしいとしか言いようがない。」と6千年に渡り、信じられてきたことばである。このことばに人類の多くが惑わされ、そして今も騙され続けている。 
それはどういう意味か? 言っている意味がわからない? 

簡単に言うと、書かれている意味がわからないのに、ずっとわかったつもりでいたことである。
読むのは簡単である。ただし、意味がわかったつもりでも、わかっていないことはある。この文章は具体的な例である。 では質問してみよう。


* 初めにとはどういう意味か? 

何を指して初めにと言っているのか? 今から6千年前に書かれた言葉である。今ならビッグバンを指していると思うかもしれないが、6千年前には地球も、太陽系も、銀河系も、宇宙ということばさえなかった。

この初めが何かはわからない。何を基準にして初めなのかわからない。つまり、いつかがわからないから、初めなのである。
人類はわかっていないのにわかったつもりで受け入れてきた。

時間に一定の枠があれば、初めはある。終わりもある。しかし、枠が無ければ初めがあることさえわからない。

時間は無限の過去から無限の未来まであるのだろうか?
時間そのものに初めも終わりもないのだろうか?

有限の人間が作り、使っている時間そのものは、人間の世界には確かにある。しかし、人間の世界以外では、時間は何を意味しているのだろうか? 時間はあるのだろうか?


* 天と地を創造したと書かれてはいても、当時の人間に宇宙や地球の存在は知られていない。6千年前に一日は24時間であること、地球が自転していることも知らなかったのではないか?

太陽を中心に回っている太陽系のことも、銀河系のことも全く知らず、宇宙のことなど想像さえできなかった。
地はどこまでも平らだと思っていた。大空を天と表現してはいても、そこに現代の知識は全く無かったと考えられる。 

天と地を創造したとはどういう意味であったのか?
2節に、地は形なく空虚であり、闇が深く覆っていたと書かれてはいても、明確な意味はないように思える。

現代においても、天体がどのように作られたはやっと仮説を作り、わかりかけてきたところである。当時、創造の意味を理解していたとは思えない。 


ただし、注意が必要に思うのは、古代に現代の知識がなかったと思われてはいても、それが真実かどうかはわからないことである。
人類には無くても、人類以外に知的生命体がいるなら、進んだ知識も技術もあった可能性は十分にあるからだ。


* 神とは何か? 何を指して神と表現しているのか?

わからないから神なのである。
このサイトでは「神という言葉は人類の無知の象徴である」と書いてきた。

人類が無知であるとは、人類が事実を知らない事実確認ができないだからわからないという意味である。
知らないのにそれを知っていると当然のように思い、正しいと考え、そう信じてきたことが無知の理由である。

神が何かがわかれば、神ではなくなってしまう。

過去に存在した無数の神々の多くは、人類の進歩と共にそれが何かがわかるようになると消え去ってしまった。神とは人間にわからない間だけ神なのである。 

偶像崇拝が一般的と思われる時代に、聖書の神、イスラエルの神、ユダヤの神は一貫して目には見えない神である。見えるものを神としてはならないと、偶像崇拝は明確に禁じられていた。 

聖書の神は見えない存在だから、神が何かはわからない。実体は想像さえできない。

聖書では一貫して見えない神として出ている。神が行ったことは記録としてたくさん残されている。しかし、神の実体がわかるように描写されているところは、創世記の初めのアダムに関連する部分とヨブ記の天での集会の様子くらいである。それ以外は意味不明な夢で見たような抽象的な表現が多い。

加えて、聖書の神が示してきた行動に注意が必要である。以下の聖書の神の行動を思い起こして欲しい。

* ノアの時代、自分の善悪の価値観により、ノアとその家族を除き人類を洪水により滅亡させた。

* アブラハムの時代、ソドムとゴモラの町に義人はいないとして、ロトとその家族を除き、火と硫黄により焼き尽くした。

* アブラハムにペリシテ人の住むパレスチナ、カナンの地を子孫(イスラエル)に与えると約束した。エジプトで奴隷のように苦しみ、しいたげられていた約200万のイスラエル人は神による奇跡により解放された後、約束の地を得るために、神の正義の名の下に多くの戦争を行い、数えきれない人を殺害した。

ダビデ、ソロモンの王国の時代を経て国は分裂、イスラエル王国はアッシリアにより、ユダ王国はバビロニアによって滅びた。ユダヤ人はバビロンでの流刑を経験した後、祖国ユダヤに戻り、救い主の到来を待つようになった。

* 神はイエスを地上に送り、キリストの名の下にたくさんの奇跡を行い、キリストに罪をあがなわせることにより、それまで神である自分たちが犯した間違いを一方的に帳消しにした。それまでの恐ろしい正義の神であったのが、キリストにより愛の神に変貌した。
 

この時以降、神の見える行動はなくなったように思える。

聖書の神は全知全能だから、何をやっても許されると信じている人もいるが、それは間違いである。全知全能の意味がわかっていないことに間違いが生じる理由がある。 


聖書の神が肉眼に見えないことが神の存在が認識できないのではない。存在がわからないように見えないようにしたことが背景にあるように思える。
 

現人類の最先端の技術を使えば、人間であっても、姿を見せずに活動することは可能である。遠隔操作により遠く離れた所からでも、敵の基地をピンポイントで破壊することさえできる。

現人類は、見えない神を演出することは可能であり、聖書に記録された神の活動の大部分を再現することさえできるように思える。

聖書の神は一貫して目に見えない神である。
聖書の神の姿を知れば、神ではなくなってしまう。

今まで気付かなかったからではないか。長い間、人類は騙されてきたとも言える。
見えない神のことである。姿が見えないのには理由がある。


聖書の神は見えないのではなく、姿があっても姿を見せないからではないか?
姿を隠してきたからと考えることができる。今までそのことに気付かなかった。

見えない神の存在を確認することがなぜできないのか?
昔であれば、人間にはわかり得ないからと納得した。しかし、今は違う。科学技術の発展により光で見える宇宙のはてまで観測が可能である。

今では見えない理由の多くを知ることができる。
大きすぎても、小さすぎても肉眼には見えない。透明の空気も見えない。光が無ければ、見ることはできない。視力が無ければ見えない。

現人類は広大な宇宙の中の見えないブラックホールでさえその存在を明らかにすることができる

つまり、見えないことは昔真実に思えても、今ではごまかし程度の意味しかない。聖書の神は見えないのではない。姿を見せなかった。隠していただけである、と考えることができる。

今まで聖書の神は偉大すぎて、人間にはわからない存在だと信じられてきた。そして真実を追求することさえしてこなかった。
現在、真実を追求することができる時代になっている。 

「創世記の記録から読み解く神の真実の姿」の中に、神の本当の姿は高度な知能と技術力を持つ生命体である可能性があると書いた。


ここで考えるべき一つの事実を指摘したい。

創世記第1章のこの記録のすぐ後に、章4節に神の固有の名前が出てくる。

聖書の神は実は固有の名前を持ち、創世記2:4に初めて出てくるが、その名前は数千回も書かれている。それはヘブライ語で יהוה と書かれる4つの子音文字で構成され、右から左へと読み、神聖四文字、英語表記ならYHWH 、テトラグラマトンと呼ばれる。神の名前である。子音だけで構成されている文字のため、正確な読み方は分からなくなったとされ、主なる神などに置き換えられてきた。しかし、書かれている名前を隠すのではなく、正しく使うべきと「ヤハウェ、ヤーウェ、エホバ」など、今でもその表現を使う人々はいる。

ここで質問である。

人間には神の意味もわからないのに、なぜ神の固有名詞があるのか? 

それは当時の人間の考えで作られたとは思えない。高度な知能を持つ生命体が持っていた考えを人類に伝えたからではないか? 

人類の先祖が信じていた聖書の神は、元々は人類の神ではなく、地球外生命体の信じていた神ということも考えられる。 

出エジプト記20章にモーセの十戒が書かれている。その7節に神の名をみだりにとなえてはならないとある。

出エ20:2 私はヤハウェ、エジプトの地で奴隷の家から導き出した、あなたの神である。
出エ20:3 あなたは私以外にいかなる偶像も神としてはならない。
出エ20:4 あなたは私の前にいかなる偶像も、それが天にあるもの、地にあるもの、水の下にあるもの、どんな形のものであれ、作ってはならない。
出エ20:7 あなたの神の名前ヤハウェを誤用してはならない。

神の固有名詞ヤハウェは、主なる神という単語に置き換えられてしまった。正確な読みはわからないが、書かれているのは英語表記なら神YHWH、神ヤハウェである。 



以上のように、「初めに神は天と地を創造された。」という文章は長い間その意味もわからずにただ信じられてきた。 

ここに質問が生じる。

人間にわかり得ない内容にもかかわらず、このような表現を作れたのはなぜか? 
この疑問に対し、人類が存在する前に、高度な知能と技術を持つ知的生命体がいたとすれば説明がつくように思える。 

六千年以上前、人類が無知であることを背景に、知的生命体が自分達を神として壮大な計画を立て、特に人間の創造における自分達の失敗を修正しようと、ノアの洪水を起こして新しい人類を再生しようとしたのだろうか?

族長アブラハムの子孫にカナンの地を与えると約束し、イスラエルの歴史に関与してユダヤ教、キリスト教を作り、人類に救いの道を開こうとしたのか?

その聖書の神はどうなったのだろうか?
パート1に書いたように、人間は神の形に作られたと書かれているので、人類に同化したと考えることもできる。
まだ地球上に隠れて存在しているかもしれない。あるいは存在を残さず、地球から撤退してしまったのだろうか。




2.エデンの園の「善悪を知る木の実」から 善悪の問題について

アダムとイブはエデンの園にあるどの木の命の実からも取って食べることが許されていた。
唯一の例外として中央にある善悪の木の実だけは食べてはならないという命令があった。2:15 食べたら死ぬという警告もなされていた。

食べてはならない木の実の名前が「善悪を知る木の実」であることから、善悪は神だけが持つ権利のように思われてきた。

善悪とは何か? 誰が決めるのか?

アダムによる神の命令に反する行為、善悪を知る木の実を食べることにより、人間が神の持つ権利である善悪を決めるようになったと思われてきた。創世記の記録がそう思わせてきた。

しかし、天と地の創造者が提示した善悪とは何だったのか?
人類が六千年もの間、考え違いをしてきたことにあるように思える。

それは何か? 
それは実に巧妙に作られた責任のすり替えが、わからないように作られていることである。

善悪は、神に対する忠誠心を示すことが善であり、そうでないのが悪であると、この話の前に、神が決めていた。

そう決めたのは神であり、決めた責任は神の側にある。

ここで問題なのは、神は人間の忠誠心をなぜ試すのか、試すことは許されるのかということにある。

そうであるのに、この話は実に巧妙に、善悪を知る木の実を作り、アダムがその実を食べることで、その責任が人間に転嫁されている。

善悪は、神に対する忠誠心にあると思われてきたが、そうではない。
神自身が、自分に対する忠誠心を示すことが善であり、そうでないのが悪であると、決めていたのである。


善悪を決めることにアダムの関与はなかった。

アダムは神への忠誠心を示さなかった。それだけである。それが悪なのは神の側が一方的に決めていたからである。

善悪の木の実を食べるなら死ぬことになると事前に警告は与えられていた。イブは騙され、善悪を知る実を食べた。アダムはイブから渡されたその実を食べた。アダムは死ぬことを知っていて食べた。

死が何かという説明があったかどうかはわからない。

この食べる行為は、善悪を決めることと関係ない。善悪は実を食べる前に決められていた。

食べることを意図的に選んだとしても、善悪と関係はない。
たまたまその木の実の名前が「善悪を知る木の実」であっただけである。

どのようにして「善悪を知る木の実」という名前を考えることができたのだろう?
人々を混乱させ、悩ましてきたそのネイミングは素晴らしい知能の表れではないか。

繰り返しておこう。
善悪は初めから、神に対する忠誠心を示すことが善であり、そうでないのが悪であると、神自身が決めていた。
食べてもよい、食べてはいけないとアダムに告げることは、神がすでに善悪を決めていたという意味である。決めた責任は神の側にある。善悪は神の側の問題である。

明らかに神に対する忠誠心が善悪を決める判断基準とされている。その基準があるゆえに、アダムが善悪の木の実を食べたのは、神にとって悪であった。そして、その責任を人間に押し付けた。

一方的に命令を与えたのは神である。忠誠心を持たせることに失敗したのは神であり、人間ではない。このことは神の側の責任を人間に転嫁していることを示している。


神が人間の忠誠心を試す行為はアダムだけではなく、この後何度となく行われている。
(詳しくは、アブラハムの子イサクを犠牲としてささげなさいという命令について、を参考に)


創世記のこの話の内容を知る範囲から、こう考える。

アダムに責任はない。アダムは完全な人間として創造されていない。永遠に生きるという考えも無い。死はアダムのせいではない。

ここに出てくる天と地の創造者である神は全能の神などでは全くない。しかし、この神に対する思い込みにより、絶対的な価値観が作られ、長い間人類を誤導することになった。

創世記のこの天と地の創造者がアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であり、モーセを通してエジプトの苦役から救出されたイスラエル人200万人の神であり、イスラエル国家のダビデ王、ソロモン王の神、またイエスキリストが教えた天の父なる神のことである。

今も多くの人に信じられている神である。それが、聖書の偉大さを示しているとも言える。

しかし、今に至っても、神の実体はわからない。

アダムから4000年後のイエスの時代までに、強力な力を持つ神の実体に変化があったのではないかと思われるが、未だに真実はわからない。

創世記の初めのアダムとイブの記録は、この天と地の創造者である神が抱えていた問題を人類に投げ掛けたのではないかとさえ思えてくる。
あるいは人類を欺く意図があったと考えるべきなのか?
なぜなら6000年もの間、人類はこの問題に惑わされてきたからである。

自然界に善悪はない。人間がことば(単語)を作ってきた。
しかし、「善悪」という単語は人間の考えにより作られたのではないかもしれない。


六千年も前のこの話、そして「善悪を知る木の実」という名前を誰が作ったのか? 人間に善悪という考えを作り出すことができたのだろうか?



人間の世界における善悪という価値観

人間の世界で善悪は、神を信じることから正しい価値観として作られてきた。
人間は神とは何かがわからないことから、皆が信じていることを利用して、人間支配者が神に代わって善悪を決めてきた。

神が決めたことにすれば、それは絶対的価値観を持つことになる。
過去において、宗教指導者が実権を握り、神の名の下に指導者となり、世界を支配することができた理由である。今でも宗教指導者が実験を握り支配している国はある。それは間違いであり、修正されなければならない。

神は見えない。何かわからない。人間に神を信じさせ、価値観を持たせれば、言いなりになり、上手く扱うことができると考えられてきたが、その価値観の時代は終わっている。

人間はことばにより考えることができる。間違いに気付き、反省し、修正し、進歩することができる。人類の発展した文明が今も存在している理由である。
それは人間という枠の世界の中にあっても、人間の考えに完璧、完全、絶対は無いことを意味する。

人類が進歩することが、今までに多くの宗教が分列してきた理由である。様々な信心、宗教があるのはそれが背景にある。人間の考えに間違いは無いと考えること、絶対正しいと考えることに間違いがあるからだ。

今でも人類の多くは実体のない架空の存在を信じている。
修正が必要な時代に来ていると考えている。


(詳しくは、
5.時代の認識の違いから見えてくることの意味 を参考に)



3.人間の創造に関する記録の問題
  Part I の補足 (今後の課題)