3.  アブラハムの子イサクを犠牲として捧げなさいという命令について

 天地創造の神が抱えた問題はアダムが神の指示に従わず善悪の木の実を食べてしまったことに示される「人間の忠誠心である」とする一方的な考え方がある。しかし、そのように理解されているが、これは主に「天地の創造者である神の側の問題である」ことを知らなければならない。全能の神であればこの問題は起きていなかったからである。

 アダムは初めから完全な人間として創られたと理解されてきた。キリスト以降の使徒パウロによる解釈であるが、アダムが犯した罪により失われた完全な人間の命、受け継がれた死、魂には魂という基準から、それを贖うために、神の子イエスキリストはアダムに相当する完全な人間として地上に送られたとされる。
 重大な問題提起がここにもある。アダムは完全な人間として創造されたと一般に理解されているが、完全な人間とは何かが明確でない。永遠に生きる資格のように考えている人も多い。この21世紀になってさえ、完全な人間の定義などない。
 完全ということばには、改善する余地がない完成品のようなもので、進歩する余地がないことである。ある一定の枠を設けるなら、完全な人間としての定義が可能かもしれないがその枠もない。
神の命令に背かず、間違いを犯さない人間とは自由意志を持たないロボットのような存在であるように考えられる。
 完全な人間であるアダムは神の命令に背いた。完全な人間でさえ、罪を犯すのだ。不完全な人間なら神の命令に背いて当たり前である。

 天地の創造者である神は重大な間違いを犯した。これ以後も同様の間違えを繰り返している。それは何か。それは人間の忠誠心を試す行為である。アダムで失敗したにもかかわらず、この神に対する忠誠心がこの後も何度となく試されることになる。

 今回は創世記のアブラハムとイサクの記録から天地の創造者の神の真実の姿を考えてみる。「アブラハムがその子イサクを犠牲として捧げるように」試されたことに焦点を当て、神であれば人の子の命を犠牲にするよう試すことが許されるのか、それは全能の神がすることかについての考察である。

創世記17章−22章
 神(高度な技術力を持つ知的生命体)はアブラハムが100歳、その妻サラが90歳の時に奇跡的に子供を授けた。名前をイサクという。サラにはハガルという侍女がいて、このハガルを通してアブラハムにはイシマエルという子がいた。

 夫婦は子供を持つには年をとりすぎていた。アブラハムの認識は「百歳の者にどうして子が生れよう。妻サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか」であった。当時においても高齢で子供を産むことはできないと考えられていた。

 神はマムレのテレビンの木のかたわらでアブラハムに現れた。それは昼の暑いころで、アブラハムは天幕(テント)の入口にすわっていたが、目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。
ここでは神が現れたと述べた後、三人が立っていたと表現されている。この3人は人間に見えた。しばらくして神の使いと理解された。しかし、アブラハムはこれを見て、天幕の入口から走って行って彼らを迎え、地に身をかがめて、「わが神よ、自分のもてなしを受けて欲しい」と伝えた。

 アブラハムの頃から、神の使いとして目に見える人が出てくるようになる。三人はソドムとゴモラを滅ぼす目的で派遣された使いのように思える。(実際にソドムとゴモラに行ったのは二人となっている)

 彼らはアブラハムに言った、「あなたの妻サラはどこにおられますか」。彼は言った、「天幕の中です」。 そのひとりが言った、「来年の春、わたしはかならずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたのサラには男の子が生れているでしょう」。サラはうしろの方の天幕の入口で聞いていた。 アブラハムとサラとは年がすすみ、老人となり、サラは女の月のものがすでに止まっていた。それでサラは心の中で笑って言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」。

この時にもアブラハムに約束が繰り返されている。「わたしは彼女を祝福し、また彼女によって、あなたにひとりの男の子を授けよう。わたしは彼女を祝福し、彼女を国々の民の母としよう。彼女から、もろもろの民の王たちが出るであろう」。

 アダムから2000年後、アブラハムの時代には人間の寿命が100才代まで短くなっていたことがわかる。
子供を持つ年齢ではないというのが一般的であった。しかし、知的生命体はイサクを授けた。

 今の医学でこの年齢の夫婦に子供を持たせることは可能であろうか。試験管ベビーと言われてから 30年が経っている。今は代理母もいる時代だ。日本産科婦人科学会によると高齢出産(初産)とは、医学上、女性が35歳以上で子どもを出産することである。サラは90才である。すでに排卵はない。そんな高齢の婦人に子供を授けるほどの技術を現代医学はもっているのだろうか。今の医科学をもってしてもこれは奇跡に相当すると考えられる神の技、知的生命体の持つ高度な技術である。

 知的生命体は奇跡的に子供を授けた。アブラハム(100歳)その妻(90歳)の時に、老齢でイサクが生まれた。人間アダムを創造した時のような表現はない。イエスの時のように聖霊によって身ごもったという表現も使われていない。推測の域を出ないが、高度な技術により二人の生殖能力を回復させたのかもしれない。

 それからおそそ20年後、神はそのイサクを犠牲としてささげるようにアブラハムの信仰を試した。22章9,10節には二人が神に指定された場所に行き、アブラハムは祭壇を築き、まきを並べ、息子イサクの足を縛って、祭壇の上に、まきの上に寝かせ、次いで屠殺用の短刀を取り、自分の子を殺そうとした。その時、み使いが声をかけて止めた。「あなたの独り子をさえ私に与えることを差し控えなかったので、あなたが神を恐れるものであること」がよく分かったと。
 アブラハムが神に対する信仰を実証した時、神はイサクの代わりに動物の犠牲を備えた。この時アブラハムは120才、イサクは20才の若者であった。
 アダムが罪を犯した時に神が蛇に向かって言われたことばが繰り返されている。全く同じ表現ではないが、17,18節で「あなたの胤はその敵の門を手に入れるであろう。あなたの胤によってすべての国民は必ず自らを祝福する」と述べた。

 しかし、ここに重要な問題が提起されている。このような形で天地の創造者なる神(知的生命体)は、自分に対する忠誠心を試す必要があるのだろうか。すでにアダムで失敗したではないか。ノアの時代にノアの家族を除いてすべての人類を滅ぼしたではないか。今回また自分たちの考えを実行することで同じ失敗を繰り返しても許されるのか。それはあまりにも身勝手な考え方ではないか。

 奇跡であったにせよ、正当に産ませた一人の子を犠牲にささげなさいというのは、許されない要求に思える。一度与えた子供を犠牲にささげるように言うのはおかしくはないか。

 アダムの時は善悪の木の実を食べないようにという命令だったが、今度は自分の愛する子を犠牲としてささげなさいという命令である。アダムは食べてはいけないという命令を守ることができなかった。天地の創造者は予知できず、予想に反してアダムは善悪の木の実を食べてしまった。その出来事は天地の創造者なる神が全能の神とは程遠い存在だったことを示したではないか。今回はどうなのか。はるかに難しい要求である。

 結果はすでに述べたが、アブラハムは神の要求に答えたのである。実際に自分の子供を犠牲に捧げるため殺そうとしたのである。息子は20才、抵抗しようと思えば120才の老人である父親など簡単に抑え込むこともできたかもしれない。しかし、二人ともに神の要求に従ったのである。信仰の模範などと言われる。

 このアブラハムとイサクの関係が後に神が自分の一人子を人類のために差し出し犠牲とする将来を暗示するひな形であったとする解釈がある。使徒ヨハネは福音書3:16にイエスの言葉として「神はその子を使わされるほど世を愛した。その子を信じることを通して世を救うため永遠の命を得るためである」と書いている。しかし、ここでもアブラハムとイサクについては何も触れられていない。

 天地の創造者が予表する目的でアブラハムの忠誠心を試したという記録は無い。 新約聖書の中にアブラハムとイサクの件を将来の予表として書いた記述は見つからない。アブラハムとイサクに関する記述は使徒パウロがヘブライ人への手紙11:17に「アブラハムは信仰により神の試練に耐え、自分の愛する子イサクを犠牲として捧げた」と書いているだけである。

 アブラハムがイサクを犠牲にすることがそれを暗示していたというのは、時代が経る中で出てきた考えのように思われる。

 現在なら、神に生きた人間を供え物とするようにという考えは、あまりにひどくて言葉にもならない。考えられない、許されないことである。時代が違うからと許されるものなのか。信仰心とは言え、無知の典型であるように思える。そういう時代だったからで済ませられるだろうか。しかし、これを神に対する信仰の模範として、今でも信じている人がたくさんいる。

 これは時代が違うという問題ではない。
 現代に同じことをアブラハムに子供を犠牲として捧げるように言う神がいたなら、それがどのような神であれ、声を大にしてその命令は間違っていると言うであろう。
 神は命を与えたのだから、また命を与えることができる存在だ。全知全能だ、などと言う人もいるだろう。このように言う人は全知全能の意味を理解していない。全知全能であるならこのようなことをする必要はない。このような試練も与える必要はない。そうでないから、このような馬鹿げた人間的な試練を与えるのである。それを信じてきた人類の大多数は何を考えてきたのだろうか。

 その1より、天地の創造者が全能の神であったなら、アダムが罪を犯すことはなかった。罪を創ったのは天地の創造者のせいである。罪を作ったという意味は、善悪を知る木のみを食べてはいけないという命令のことである。こんな命令を与えたから、アダムは罪を犯したことになった。食べてはいけないという命令を与えなければ、罪はなかった。全能の神であればいくらでも他の方法を考えられたはずである。

 自らが作った命令が、大失策となり、人類に死をもたらしたことになってしまった。なんと愚かなことだろう。明らかに創世記に出てくる天地の創造者は全能者などではないのだが。

 創世記の中では神の側にも敵がおり、信頼することの意味が問われていた。天地の創造者は人間に信頼を置いていない。そんな折、人間に忠誠心を試すのはひどすぎるではないか。
 そのような絶対者でもない神、知的生命体を、絶対者として受け入れなさいという知的生命体の要求は許されるものではない。

 その1で、天地の創造者(知的生命体)が人類の先祖である可能性について書いた。人類はすでに知的生命体の持っていた技術レベルの一部を越しているかもしれない。しかし、当時の知的生命体の愚かさに似て、人類も相変わらず同じようなレベルの人間性しか持ち合わせていない。人類の先祖といい、現人類といい、なんとも情けない存在ではないか。共に科学技術だけが進歩し、人間性が置き去りにされている。

 アダムの時は木の実を取って食べてはならないという簡単な命令だった。アブラハムの時は自分の愛する子を犠牲として殺しなさいという難しい命令である。この難しい命令でもアブラハムは忠誠心を示した。
 どうしたら自分の子供さえ犠牲にする忠誠心を持たせることができるのだろうかという質問に対する答えがここにある。 それは信仰である。使徒パウロはアブラハムが「信仰により神の試練に耐え、自分の愛する子イサクを犠牲として捧げた」と書き残している。

 天地の創造者はここに、人間の忠誠心が信仰にあることを見出した。信仰を持たせれば、自分に対する忠誠心を持たせることができると。この後のエジプトからイスラエル人を救出し、約束の地へ導き、イスラエル国家となっていく中で、イスラエルは一神教のユダヤ教という信仰、宗教を持つ国として発展していくことになる。それはアダムが罪を犯した時に立てた、約束の胤に至る、天地の創造者の壮大な計画を半ば強制的に実行するためであったと考えられる。

 神の子への信仰がなぜ救いをもたらすことになったのか。救いは信じる者のみに対してある。 しかし、信じることこそ問題を引き起こしてきた原因でもある。イエスキリストの足跡からは、人間としてあるべき貴重な模範の一面を見ることができる。しかし、その後のキリスト教の歴史、信じることの結果は決して人間として許されない争い、戦争の歴史である。信じることが他の人を否定する力、排他性をもたせることになるからである。

 このことは、天地創造の神の壮大な計画が結局失敗に終わったことを示しているように思える。天地の創造者なる神(知的生命体)がアダムの時から人間の忠誠心を問題にしたこと自体が、失敗の原因であると考えられる。人類は簡単には忠誠心を示すような存在にはならなかった。それこそが、人類が発展してきた理由とも言えるかもしれない。


 信じること、信仰は人間に忠誠心を持たせ、服従させるものとなる。自分の子供さえ犠牲にしても、それが正しいという認識になれるのである。現在、世界中で起きているイスラム過激派の人達が自爆テロでたくさんの人々を犠牲にすることができるのは、イスラム過激派の人々の持つ信仰による。

 認識の多面性の中でも説明したが、間違いがないこととして信じること、信仰を持つことには重大な問題が含まれている。それは宗教を含め人間が創り出してきたものに間違いのないこと、絶対正しいことは存在しないからである。



アダムの完全性に関する問題点:

創世記によると、アダムは初めから神との間に意思の疎通ができた。ことばによる意思の疎通そして理解である。なぜ、創造された初めての人間はことばを話し、理解することができたのか。脳に言語中枢が十分に発達していないなら話すことも、考えることも、理解することも困難である。天地の創造者は初めの創造の時に、十分に発達したことばを与えたのだろうか。

 意思の疎通ができたということは、アダムは初めから脳を十分に発達した状態で創造されたことになる。十分な認識を持っていたことになる。このことには重大な問題が含まれている。ことばの認識の中で示したように、ことばの認識には単に意思の疎通の働きだけではなく、考える、学習する、人間性、信頼などたくさんの働きも関係するからである。それを初めから与えていたなら、アダムの自由意志はどこにあったのだろうか。ここにも矛盾があるように思われる。

2017年5月 マイケルアレフ