マイケルアレフのことばの認識は世界を変える


シリーズ13 愛について考える Part II 修正文

「愛」は人間にとって最も大切な資質、持つべき理想、として考えられてきたものである。重みのある大切なことばとして使われているが、「富を愛する」「不義を愛する」など、相反する価値のものさえ愛すると表現される。愛すること自体が矛盾しているのだろうか。
「愛」とは何かという質問に明確な答えはあるのだろうか。愛ということばは何となくわかっているようでいて、本当は分かっていないのではないか。   

「愛」について考えるとは、「人間とは何か」を考えることでもあるように思える。
考えることにより答えが明確になることもあるが、そうならない場合もある。
ここに書いた内容は愛することの意味を理解するための試みである。


「愛」について考える ・ ・ ・  Part II

内 容
1. 基本的なことばの意味と働きについて
2.愛する対象
  ・ 対象には何があるか
  ・ 愛することの問題点について
  愛すると表現するが、人の何を愛するのか
  富やお金を対象に愛する時、物の何を愛するのか
3.愛の問題点、愛することの矛盾
  愛の不確さは、矛盾するものを愛する対象からもわかる。
4.愛のことばの定義について
5. 見直し結果について 2022年3月
6.最近、思い付いたこと 2025年 
  その 3. 「恋」と「愛」の違い、愛の反対語について

1.基本的なことばの意味と働き

愛の意味を理解する必要がある。
「愛」ということばがなかったなら、人はそれをどう表現するのだろうか。
「愛する」は動詞である。動きを表すことばである。何の動きのことか。脳の思考と感情の動きを表すことばであると考える。

何を指して、愛するということばを使っているのだろうか。
愛ということばは時代の変化の中で広い意味で使われるようになった。その対象も様々である

愛するとは、基本的に
1. 子を愛する親の気持ち
2.異性に心が引かれる。慕わしく思う、ほれる愛の行為を交わす。愛撫(あいぶ)する。
3.物を好む。 山を愛する、酒を愛する
4.大切に思う 祖国を愛する、学問を愛する
等がある。

ことばは変化する。
何が大切かは人によるが、どんなものでも大切であれば、愛する対象になる。
愛ということばの正確な意味と新たな定義を考える必要があるように思える。


2.愛する対象
 人を愛する、友を愛すると表現するが、人の何を愛するのか
 物が対象となる場合、物の何を愛するのか

・対象には何があるか

A.  広い意味での人間
人間を対象に、夫を愛する、妻を愛する、子供を愛する、異性を愛する、友を愛する、自分を愛する、隣人を愛する、人類を愛する等と表現される

B. 動物を含む自然界
家族の一員にもなっている犬、猫、鳥などを愛する。自然の中にあるそのままの動物を愛する場合もある。
動物を含む自然界:様々な生き物を含む山を愛する、海を愛する、自然を愛する、宇宙を愛する

C. 物
富を愛する、お金を愛する、装飾品を愛する
元々あったことばの意味から離れ、物にまで愛という表現が使われるようになっている

D. 実体のない抽象的な概念、相反する性質も対象になる。
美を愛する、権力を愛する、名声を愛する
神を愛する、正義を愛する、真実、真理を愛する、
悪魔を愛する、悪を愛する、偽善を愛する、偽りを愛するなどとも使われる。

E. その他

時代と共に人々の考えは変わる。善・悪などは神による昔の価値観のように思える。
想像でしか存在していない実体のわからないものでも、大切なものと信じるなら、何であっても愛する対象にしてきたのではないか。

・ 愛することの問題点について

人を愛する?

夫、妻、子ども、異性、同性の何を愛するのか、隣人の何を愛するのか、人類の何を愛するのか。人であることは何となくわかっているつもりでいる。本当は分かっていないすべてが対象であるように思える。人間には醜い面も、汚い面もある。よくわかれば嫌いにもなるが、それでもその人を愛することもある。わかっても、わからなくても愛するのではないか。

基本的に人間は自分のこともよくわかっていない。自分の体のことなどまるでわかっていない。
自分の感情もわかっていないし、感情をコントロールさえできない場合もある。自分が物事になぜどう反応するかなどわからない場合もある。

テストの結果等で成績が悪いと評価される場合でも、頭はよいかもしれない。成績が悪いのは頭が悪いせいにするかもしれないが、本当は違うところに原因があるのかもしれない。

食べ物、趣味、動物などで自分の好きなものは知っている。しかし、好みは変化する。年齢によっても変化する。なぜ変わるのかわからない場合もある。好きな人も変わる。憧れの人も変わる。
意識に上らないことはたくさんある。まして、他の人のことなどほとんどわかっていない。
他人とは表面的に、非常に限られた時間しか接していない。すべてなどわかるわけがない。
しかし、この世はすべてが分かっているつもりの世界である。

愛するために対象になる人のことを十分にわかっている必要があるのだろうか。 ・・・ いいえ。
その理由は基本的に、人は自分を含め他人(ひと)のことを十分にわかっているとは言えないからである。
ここで使った「十分にわかっている」という意味がよくわからない。状況によって必要とされる「十分さ」は違う。普段は知らなくても問題は起きない。

それ故、愛するのは、知っているからではなく、知っていると思っているからであり、基本的に主体的なものであると思われる。相手がどういう人かに関係なく、相手がどう思っていても、一方的に愛することができるように思える。


* 愛する対象とは何か?

自分を愛する: 自分とは何か、自分の何を愛するのか
過去、現在、未来に存在する生命体としての自分の存在か。能力、人格、可能性を含む人間としての自分か。自分のことでも、多くは分かっていない。それで自分の何を愛するのか。
人間としてのあるべき姿、理想を踏まえた上での、人類の一員、人間としての自分のことか。

隣人を愛する
隣人が誰で、何をしているかなどは、ほとんどわからない。知っているに関係なく、人間として愛すると言う意味であるように思える。
対象としては困っている人を含め、同じ人間として助けることではないか。人間が持つ「自分という主体性」により、人類を愛するという意味のように思える。


人類を愛する
「人類を愛する」、「世界を愛する」と言っても、一生を通して世界の大半の人とは会ったこともない、会うこともない、知ることもない人達である。過去における大きな業績を残した人のことは学ぶが、過去のほとんどの人のことは知らない。
個人の存在は、時間的にも短く、力においても小さいが、同じヒトゲノムという遺伝子を持つ存在としては、共通の願いが存在するように思える。それは人類の永遠の未来への存在への願いである。そのために各人が最善を尽くすことが人類を愛することであるのではないか。

今までは人類愛が最大の意味のように考えられてきたが、人類に対する愛は人間だけの愛という意味では非常に狭いものである。地球上の他の生命のことについては触れていない。自然界のあらゆる生命に対しての表現ではない。宇宙に存在している可能性のある人間以外の知的生命体に対しても愛を広げることが必要ではないか。
地球愛、宇宙愛などの広い表現があってもよいように思える。


友を愛する
友が何かをわかっていなければ、友を愛することはできないのか。
友のために命を犠牲にすることができるのは、友を知り、理解している必要があるのではないか。 ・ ・ ・その必要はないように思える。

自分を犠牲にしても、幸せにしたいと願いがあればいい。しかし、自分にそうした強い願いを持つことができるのだろうか。
友を愛するとは、思いと心にその願いがあることではないか。

友とは言え、意見の対立などにより、仲が悪くなることもある。嫌いになり、敵になることさえある。仲良くする間だけの愛なのか。喧嘩別れになる時、友に対する愛はどこに行ってしまったのか。
そもそも、意見の相違や好みなどで、友でなくなるのであれば、友とは遊び友達程度の意味でしかないのではないか。初めから友を幸せにしたいという願いがあるわけではない。

一緒に生活の一部を共有すれば友になる。犬や猫でも家族の一員になる、友になる。
友の定義そのものがはっきりしていない。フェイスブックで友達が何人いるか。友達がたくさんいることが大切か。友がたくさんいることは愛することと関係があるのか。

友には飼い犬なども含まれる。心の通った家族の一員であれば、何か困ったことが起きれば、犬でさえ助けるために最善をつくすだろう。犬に人間と同じような価値があるかどうかは関係ないように思える。友に対しては助けたいと願う気持ちが生まれる。

遊び友達、学友、飲み友達、趣味仲間、メル友などいろいろな友がいる。
犯罪者でもグループとして仲間である友を作る。義理、人情を忘れない人は友を大切にする。
友の定義を考える必要があるのだろうか。

人の信頼は普段からの約束を守ること、その人の人格、持っている考え等、人の持つあらゆる可能性から作られる。
人は間違いを犯す存在である故に、100%信頼すること、信じる対象ではないが、100%近くまで信頼することはあり得る。信頼に足る人はいる。その人のためには自分を犠牲にしても尽くしたいと考える場合はある。友人でもそうなれる人はいる。

自分の子供を愛する
自分の子供の何を愛するのか。時間的には、自分も自分の子も生きている間だけの関係である。人生は短い。親は子供に対する責任がある。人間としての可能性を最大限残せるように、人類を愛する人間となるように、育てることか。子供が子孫として未来に生き延びるよう願うことか。

妻、子どもを愛する
妻、子どももその対象になるが、友人とは違い、理由は違う。つまり、信頼すると言うよりも、自分を犠牲にしても幸せになってほしいと願いがある。責任が関係するのだろうか。理由はいらないように思える。

ただし、愛する妻であっても、離婚に至るケースはたくさんある。つまり最愛の人でさえ、嫌いな人にもなる。
子供に対しても、小さい時は愛らしくても、成長するに従い対等な関係になっていき、言うことを聞かなくなり、喧嘩も起きる。親子げんかで、殺人さえ起きることがある。

子供を愛する。
自分の子供を溺愛するという表現もある。子離れができない親。これは愛か。
子供の将来を考えず、自分の感情だけを大切にしている親は、子どもを愛しているといえるのか。
人間の思いはいい加減な面がある。時間や状況によって変わってくる。

日本では、幼い子供であれば愛する対象になるが、大人になれば対等の立場になり、愛するとは言わなくなる。愛は変わってしまうのか。

愛には時期、時間も、環境も関係するのだろうか。


異性を愛する

人間は受精卵の時から、遺伝子の指示に従って生きてきている。その遺伝子により人間の頭脳も作られた。一生という時間の中での成長過程もプログラムされ、必要に応じて成長ホルモンの生産も行われる。人間はその意味では初めから遺伝子によりコントロールされている。その成長過程には、異性を愛することも含まれているように思える。本能と考えられる。特定の人を好きになるのは幼少のころから作られた認識の中にあると考えられる。

愛は感情面と、思考との両方が関係しているように思える。遺伝子からの指示でもあると考えられる。
感情が思いに作用し、特定の女性を最高の女性にもする。感情が好意的であれば最高の女性にもなるが、感情的に嫌になれば最悪の女性にもなる。愛すると言っても、状況次第で正反対の対応になる。

理想の愛があるのだろうか。愛の理想があるのだろうか。

異性に対する愛、これは理性による理解を超えるものである。
対象に対する理解は無くても、感情が先行する。
恋愛し、世界で一番好きな人と結婚し、子どももでき、幸せになった人でも、三分の一は離婚し、離婚待機組も沢山いることを考えると、愛するとは考えることが必要ではないのかもしれない。感情が思考を支配する。しかし、感情だけでは長く続く関係を維持することはできないだろう。

世界一素晴らしい女性だと思っても、それはその人の思い込みであり、その人にとって世界で一番素晴らしい女性なのである。どうしたら世界一を決められるのか。決める基準などないだろう。自分がそう思えば世界一なのである。
世界で一番好きな人が、世界で一番嫌いな人になる。確かに人間は愚かで、間違いだらけだ。
恋愛の意味では間違いだらけでも、それはそれで成り立っているように思える。

年末報道番組で、車で生活する一人の男性をインタビューしているのを見たことがある。彼は「世界で一番好きな、愛する人が、世界で一番嫌いになってしまった。どうしてそうなったのかわからない。」と嘆いていた。
男女関係での愛は無くなるものなのか。初めに持っていた愛はどこにいってしまったのか。

異性に対する愛は幸せに対する感情に似ている。初め幸せであっても、時間と共にその幸せを感じなくなってしまう。

自分が死ぬまで、脳の働きが停止するまで、愛した人の思い出は永遠に忘れることがない場合もある。
愛する人に会う前、対象が現れる前は、愛する人ではなかった。愛する人ができるまではその人に対する愛は無かったことを考えれば、愛は作られるものであることがわかる。

しかし、愛する記憶、愛する対象は、生きている限り忘れることはないほど強い感情による記憶でできている。

死んだ人を愛する。すでに亡くなった人でも愛する。
愛するのは、思いの中にその人が未だ生きていると思えるからではないか。思いとは記録である。過去の記録は変わらない。記録から思いは想像することができる。想像することで夢を見ることができる。夢であればなんでも可能であるように思える。人間の持っている想像力には力がある。希望も夢も与えてくれる。
実際にはない、架空のものであっても、それが現実のように思えれば、幸せになることも可能である。その意味では、愛は永遠に思える。



物が対象となる場合、何を愛するのか

絵画を例に考えてみる。絵を愛する場合、絵の何を愛するのか。美を愛するのだと思うかもしれない。しかし、美とは何か。シリーズ6の「美しい」ということばの意味のなかで、美とは自分の中に作られた認識から作られる思い込みのことであると書いた。美しいと感動しても、その感動は続くことはない。美しさには実体がない。思い込みで美の実体が作られる。

「美しい」ということばの意味について考えている時に、その起源について調べた。その結果として、「美しいとは「美しい」と感じる感情、感動そのもののこと」と表現できると書いた。

絵を見て、美しいと感動し、愛するのは、自分の感情のことである。愛するのは物そのものではない。

同様に物を愛するとは、自分の感情、自分の欲望、つまり自分の感情を愛することと同じ意味になるように思える。

お金を愛することも、富を愛することも、結局は自分を愛することであり、実際には物を愛することはできない、又は物を愛していると錯覚することではないか。お金を愛する場合、その人は自分の欲望を愛していることになるのではないか。

物は物質である。ある物、例えば文化財などを将来の人類のために貴重な資料として、歴史的価値を残すためにその状態を保存、維持する様々な工夫を凝らすことはある。物を大切にする目的は将来の人間のためであり、物そのものを愛するからではない。

人の思い出として物を大切にする場合はある。物そのものを愛するのではなく、その物を通して大切な人を思い起すことができるからではないか。
プレゼントも大切なのは物そのものではなく、それを贈ってくれた人への思いと心が関係するからではないか。

こうして考えてみると、物質そのものは愛する対象ではないように思える。

愛することの基本は、自分の利益ではなく、他人(ひと)の幸せを願い、求めることである。
それは自分中心に自分の利益を求めることではない。

シリーズ「命の意味」についての中でこう書いた。
命は活かして初めて意味を持つ。他人のために役立つことが、命の目的である。
愛はこの目的と一致するように思える。人の幸せを願い、自らを役立てることでもあるからである。



3.愛することの矛盾から、愛の問題点

愛の意味の不明確さは、相矛盾するものを愛するその対象からもわかる。
  
愛ということばは矛盾を含む。愛ということばの意味がはっきりしていないからでもあるが、全く相反することを愛せると表現する。善を愛する人もいれば、悪を愛する人もいる。義を愛する人もいれば、不義を愛する人もいる。
神を愛する人もいれば、悪魔を愛する人もいる。人を愛する場合でさえ、人の何を愛するのかがわかっていない。

つまり対象になることばに対する理解が不足しているためである。対象の何を愛するかがわからずにいる。しかし、愛する対象の完全な理解など存在しない。主体的な姿勢が関係する。自分から愛するのである。
理由は様々作れるが、理由はいらないように思える。理由は何であっても自分の意思と判断で愛するように思える。


ことばで重要だと思えるのは、定義が明確になっているかどうかという点である。
現在不明確な定義であっても、そのままにせず、定義を明確にすれば、問題点を明らかにし、間違いを防げるように思える。ことばは絶えず変化している。新しいことばが時代の変化と共に作られ、またすたれて使われなくなることばもある。

愛の意味が様々であっても、基本になるべき意味が明確であれば、基本に戻り考えることができるのではないか。



4. 愛の定義を考えてみる

シリーズ5に感動することについて書いた。

その中に大自然の一部の人間に関連するが、感動するものとして人と作品があることをあげた:
以下の作品のそれぞれには数えきれないほどのものがある。
絵画、映画、本、小説、話、歌、音楽、曲、花火、工芸品、電飾、和服、洋服、建造物、料理等、それに人の素朴さ、親切な行為、謙虚な姿勢、やさしさ ・ ・ ・

たくさんの作品があるが、そのほとんどは人と関連している。感動するのは人間のすばらしさを知ることにあるように思える。作品の出来具合、内容、テーマ、表現力、作者の意図、新しさ、美しさ等様々な要素はあるが、すべては人と関わりがある。
さらに人間の持つ資質、スポーツ選手等の目標に向かって絶え間なく努力する姿、ひたすら生きるために頑張る姿、互いに助け合う姿など、あらゆる角度から見た人間の素晴らしさに感動するように思える。

人の作品を通して感動するのは、読書にしても、映像によるにしても、見えないものが関係するように思える。
それは人間としての励ましとなる資質、人の謙虚さ、人のやさしさ、誠実さ、助け合い、愛情、など ・ ・ ・ みな人の心が関係している。
人が心を動かされるのは、人が持つ認識が心と深い関係があるからのように思える。

人の心はその人がそれまでに培ってきた知識、知恵は勿論だが、作り上げてきた思い、願い、夢、精神等が深く関係しているように思える。
作品に感動するのは心の共鳴であると表現できるかもしれない。

愛するとは脳の思考と感情の動きを表すことばである。人が感動する時に愛を感じるのではないか。


人が「愛がある」と思う時、感じる時はどういう時か。
 人が思いやりを示す時、優しさを示す時、人のためを思って叱る時、人を助ける時、救助する、教育する時など。
 人間の素晴らしさを感じる時ではないか。人間として励まされる時、人間であることに誇りと喜びを感じる時、理解する時ではないか。

 社会とは人間が集まることにより、安全、協力、発展するために組織された世界であると考えると、社会を維持し、貢献するために働くことに、人間として愛を感じるのではないか。


愛の強さは強弱いろいろあるように思える。
人の愛は変化する。強い時もあれば弱くなることもある。愛の強さを量る必要はないように思える。

愛するのは人間だけだろうか。動物は愛することはないのか。
動物や鳥が子育てをしている様子を見ると、親は子を大切に育て、教育さえしているように見える。それは単に本能なのだろうか。人間の場合も本能なのだろうか。
遺伝子による指示で動物も人間も成長する。しかし、現時点で高度に発達したことばを持つのは人間だけのように思う。ことばがなければ考える力、思考力を持つことはできない。愛とは感情と思考力の働きである。

動物は遺伝子のプログラムにより子育てをする。本能による子育てである。
小鳥は卵を温める。卵からひなが孵ると、親は餌を運ぶ。一人前になるまで親が世話する。
この一連の活動に鳥が自分で考えて行動しているものはないように思う。すべてがプログラムにより動いているのであり、人間のように自分という考えも意思も持っていない。

人間の場合は、生まれた時から赤子は自分で学習し始める。眼が見えるようになれば、観察を始める。脳が入力されるすべての情報処理を行っている。親は教育を通して学習を助ける。
人間の場合には考える力がある。なんの考えもなく子供が生れるわけではない。意思がある。親は責任を自覚している。子供の将来を考える。

愛は人間が生れた時から持つ資質、本能の一部として働いているものであると考える。しかし、全てではない。愛には思考が関係する。親は将来について考える。子供の未来を考える。人間が一人前になるまでには長い時間がかかると考えられてきた。教育により学習する期間は小学校、中学校、高校まででも12年、大学まで行くと16年近くになる。

愛するのには思考力が関係する。本能、遺伝子による指示だけで人間は動くのではない。自分の考えで行動する。愛はそれ故、思考に基づく主体的なものであると思われる。


愛の新たな定義の一つの例を考えてみた

これだけわからない様々な愛がある中で、定義を考えること自体に無理があるのかもしれない。
当然ことばの枠に入らないものもあると考えられる。しかし、なんでもよいわけではない。
皆で考えるべきことだと思う。一つ例を考えてみた。

愛は人間の思いと願い、思考と感情から作られると考える。
愛があるといっても、それは心にあるのであって、物として提示できるものではない。
人間の脳が作り出すものである。

「愛するとは人類を含むあらゆる知的生命体の存続のために強いきずなで結ばれ、一つになることを願うことであり、そのために自分を犠牲にしても、他人(ひと)を幸せにしたいと願うことである。」と定義してみる。
簡単に表現すると、「愛するとは他人(ひと)の幸せを願うこと」である。

知的生命体だけの存続のための愛でよいのか。ペットの動物や自然に対する愛は含まないのか。
高度に発達した言語を持たない、考える力のない動物には、愛することも幸せの意味も理解することができない。
まずは人類が愛することの意味を理解することから始める必要であると考える。

どんな動物でも、物でも、長く時間を共有すると愛着を感じるようになる。愛着を感じるのは時間を共にすることが関係している。たくさんの動物を殺し、食料にしている事実から考えるなら、動物を人間と同等に考えるのは誤りであるように思える。

幸せにしたいというのは、何を願うことなのか。

幸せとは

* 未来における安らかな気持ち、平安でいられること、活動する自由を持つこと、未来におけるあらゆる可能性を残すことであると考える。

知的生命体という特定の対象とは人類、家族、親族、友人など知的生命体を構成する各人のことである。
それは異性をも含め、隣人から人類にまで、未知なる知的生命体から、自然界から、宇宙全体に広げることができるものであると考える。

愛することの定義と目的を考え、条件を付ければ、ある程度の枠が決まるかもしれない。責任の自覚が必要になることも考えられる。その枠の中で愛ということばを使えば統一したものができるかもしれない。


統一した考えにするために、愛する定義の対象にならないものを決めておく。

愛の定義を決めると、その定義に反するものは、愛する対象ではないことになる。
不義を愛する。悪魔を愛する。お金を愛する。名声を愛する。
これらは新たな定義によれば、愛する対象にはならなくなる。
他人(ひと)の幸せを願うことではないからである。

物は愛する対象ではなくなる。
人は物を愛することはできない。愛すると表現はしても、単に好きである、大切である、好物であるなどの意味である。
「酒を愛する」という表現は、他人の幸せを願うこととは違うので、酒は愛する対象にはならない。
「山を愛する」「本を愛する、たばこを愛する、食べ物を愛する、は愛するという表現は適切でない。

神様も悪魔も人間の想像物として作られたものである。初めから神様による善悪はない。正義も不義もない。
神様、天使、天国、永遠の命、奇跡、悪魔、地獄、永遠の刑罰は人間の想像により作られたものと考える。これ等は人間の想像物であるため、愛する対象とはならない。

人類が発明してきたものは人間の想像によるものである。美も音楽も科学も人間が創ったものである。人間は愛する対象になるが、人間が創ったものは対象にはならないのだろうか。
美を愛する。音楽を愛する。科学を愛する。智を愛する。人間の持つ機能を示すものなので、愛する対象にすることができるようにも思える。
人間の持つ、人類が持つ最大の力は、イメージを含むことばによる知力(知識、知恵、理解)であり、想像力のことである。人類は想像力により文学、芸術、科学などあらゆるものを作り出してきた。人は想像の世界、夢の世界、バーチャルな世界を作り、自らを神にさえすることができる。その世界の中では、自分の願いも欲望も思うままである。その中で描かれるものの中には人が好んで見る暴力、犯罪、殺人、戦争などがある。これは「他人の幸せを願うこと」ではなく、利益追求、人の利己心に訴えかけるものが多い。
しかし、その想像力により作られた映像の世界、アニメや映画の世界の中には愛を示すものもある。
創作におけるテーマが関係するように思える。
愛ということばを注意深く使う必要があるということのように思える。



5. 見直しの結果
愛するとは、思い込みによる価値観と考えるようになった。
その理由は多くの価値観と同じように思えるからである。

思い込みであっても、人間が持つべき、大切な価値観とするように望むものがある。ことばに定義が必要であると考える。

思考に感情が伴う、好きー嫌い、良いー悪い、正しいー間違い、などの多くの価値観と同じように思えるが、ことばの意味を明確にすることにより、すべての人間が同じ認識を持てるようにすることが重要に思う。愛することの意味を明確にすることが一つの具体例になると考える。

まとめ:

このように考えてみると、愛は大切なもの、人間の願いを示すものではあっても、現実には人類の存続を約束する確かなものではないように思える。人類全体が強く示すものではなく、利己心や欲望に負けるものであるように思える。愛は風前の灯火のような存在になっているのかもしれない。

愛の意味を考え直し、定義に示したように、「愛するとは人類を含むあらゆる知的生命体の存続のために一つになり、強いきずなで結ばれることであり、特定の対象に対して自分を犠牲にしても、幸せにしたいと願うことである。」、人間の持つべき目標として掲げ、一致協力して対応していかないなら、人類の未来は決して安定することはないように思える。

人類の歴史は争いとその反省の歴史である。反省し改善し、より良い世界を作ることは大切であるが、それを繰り返すだけでは、未来はない。現実には争いは無くならず、人類の滅亡する可能性は大きくなっていく。
人間の生き方を見直し、新しい価値観を持ち、未来を創るという考えを確立しない限り、改善することはできないのかもしれない。このままでは、人類に残されている限られた未来はあっても、永遠の未来はありえない。

ことばの意味を正確に定義することから、新しい考えが作られるように思える。人類は他人(ひと)の幸せを願うという意味の愛で一致することが必要であるのではないか。

人類に地球は我々のものだと主張する権利はない。権利は初めからない。これを認識し、主張を止め、願望をコントロールすることが、未来を維持することにつながると考える。今の子供達を、人類を導くリーダーになるよう教育することこそ、必要とされているものであり、それには大人の模範が欠かせない。

愛するとは他人(ひと)の幸せを願うこと」である。大人が愛において模範を示すことが、人類の存続する意味であると考える。


マイケルアレフ 
修正文 2022年3月