マイケルアレフのことばの認識は世界を変える ことばの認識は世界を変える シリーズ 8 「命」 についての考察 (シリーズ見直しは後半に) 命に対する考えは様々あり、統一することは困難と思えるが、人間にとって命ということばの意味をより正確に、より深く理解することができれば、人の持つ命に関する間違っているかもしれない認識を変える助けになるのではないか、という思いから以下のように書いてみた。 1. 命について ・ 命とは何か、 ・ 命はなぜ大切なのか。 ・ 命は誰が作ったのか、 ・ 人の命は誰のものか、 自分の命だと思いこんでいる理由 いつから自分がいるようになるか ・ 命の目的は何か、 ・ 命はどのように扱うべきか。 2. 殺すとはどういう意味か 死ぬとはどういう意味か ・ 人はなぜ 「命は大切だから、殺してはならない」 と思うのか ・ 誰もこたえられない?「なぜ人を殺してはいけないのか。」 3. 若者の自殺に対する考えの一面とそれに対する考えについて (大人は)言葉では綺麗なことを並べる。 ・ 「命は大切なものだ」 ・ 「せっかく生きていたのにもったいない」 ・ 「生きていればきっといいことがある」 ・ 「生きたくても生きられなかった人がいる」 ・ これらは全て詭弁であり建前である。 ・ 「人は生きるのも自由。死ぬのも自由であるべき。」 4. 自殺にについて 結び 追記 2020年11月参考資料 人間は作られた存在か 2023年 人間の命は大切か? ![]() 1.命について ・ 命とは何か 最近の思い付きの中の、素朴な質問に、「すべての存在理由は分かっていない」ことについて書いた。現代の科学をもってしても、命とは何かについて確かな答えがあるわけではない。部分的な答えにならざるを得ない。見方も様々あると思う。 「命の目的は何か、殺すとはどういう意味か」の中に、一つの大切な考えとして、命とは食べ物のことでもある、と書いた。命は生命体を生かすエネルギーのこと、遺伝子でできた食べ物のことである。 個人の命、人が集まってできる社会、人類のように、命とは個々の命の場合だけでなく、集合体としての命として考える場合もあるように思える。 命の見方は個人での視点もあるが、人類という視点でも、宇宙という視点でも考えるべきものなのかもしれない。 ・ 命はなぜ大切なのか 誰でも「人間の命が大切で、かけがえのないものである」と思っている。しかし、命そのものが大切なのだろうか。命が同じ価値を持っているなら、殺人を犯した死刑囚の命も大切で、かけがえのない人間の命だと言えなければならない。 では、裁判で死刑が許されるのはなぜか。 親が子供を虐待し、命を奪うことが報道されている。その親の命は失われた子供の命と同じように大切で、かけがえのないものだと言えるのだろうか。 人間の命が大切なら、なぜ人間は死ぬ定めにあるのだろうか。なぜ人間は虫や鳥や犬や猫と同じように死んでいくのか。 命の意味がわからないから、人間の命は大切でかけがえのないものと思い込んでいるのではないか。 人間による命そのものの価値に違いがあることは、生命保険や損害賠償などに金銭で量る命の価値にも表れている。 人間の命が大切であり、かけがえのない普遍的なものなら、殺人は起きないし、人の命を奪い合うことはありえない。 普遍的なものではないから、人によって命の意味、価値が違ってしまう。命のことなど考えてもいない人も多い。 宗教、イデオロギーなどに見られる過激な思想や考えは、目的は命より大切だととらえ、そう信じているテロリストの人々がいる。人々の命を奪うために、自分の命を犠牲にする。 日常の生活で殺人事件がなくならないのはなぜか。 人類の歴史は戦争による人間の殺害で溢れているのはなぜか。 女性や子供などの弱者を含むたくさんの虐殺の歴史があるのはなぜか。 人の命の価値が同じであれば全ての人の命が同じあるはずであるが、実際はそうではない。人の命に対する考え方も変化する。ただし、命は個人にとって大切なものであるという意味では同じであるように思える。 なぜ命は大切なのか。 その理由は、全ての人は死の定めにあっても、自分の考え、意思により、自分の生き方を選び、自由に生きることができるからである。 生命はエネルギーから作られているという意味では同じでも、それが持つ可能性も、結果も、目的も、意味も違う。 人間の命は素晴らしいと感動するものにもなれば、残酷で非道な殺人犯になる場合もある。 人間の命が大切な理由は、その命が可能性の源であるからである。命はすべてを可能にすることができる力であり、命があるから何でもできる可能性がある。人間の命が大切な理由は、その命が可能性の源であるからだ。 命は大切でも、間違った生き方により無駄な命、生まれなければよかった命にもなり得る。命が大切なのは、命に成し遂げる目的、意味を持たせることができるからと思う。 人間の命は加齢と共にその持つ可能性は小さくなっていく。命がすべて同じであると考えることには誤りがある。 人間の新しい命、年老いた命では、意味する内容に大きな違いがある。新しい命には可能性がある。将来どのような人間になるかわからない。政治家、経営者、学者、芸術家、先生等となり社会に貢献するかもしれず、反対に犯罪者として社会に害を与えるかもしれない。 年老いた命には、その命で何がなされたのかという実績がある。年老いた時点で、若い時の可能性の結果が明らかになる。単に社会的な仕事の意味だけでなく、人間としてどのように生きたのかという意味も明らかになる。 簡単に評価することはできないが、人間の命とはいえ、それぞれの命であり、全く同じであることはない。 命は大切だと思っても、大切ではないかもしれず、単に生命という意味よりも、命で何を成し遂げるかに意味があると考えることが大切に思える。 命の理解に違いが生じるのは、そこに理解の誤りがあるからで、普遍性はないように思える。思い込みを無くして、現実にある人間の命を考える必要がある。 ・ 命は誰が作ったのか 命がプログラムでできた生命体であることから、設計者、創作者がいることは理解できる。 現人類も遺伝子操作をすることで新たな生命体を創ることができる段階にきている。 しかし、地上の生命体を誰が作ったかはわからない。 人類が新たな生命を作り出した時、その新しい生命体は人類が創ったことになるのか。 遺伝子を操作しプログラムを作り変え、新たな生命体を創ったことは確かでも、新たな生命を創造したという意味とは違う。人類は現代の科学をもってしても一つの細胞さえ創れないという現実がある。 人類が新たな生命体を造ったという場合、それは車の全面改良のようなものではないか。車の歴史は1769年の蒸気自動車にまでさかのぼる。それ以来現代に至るまでたくさんの改良がなされてきた。全面改良して新しい車を作ったとしても、見た目には新しくても、それまでの技術を使っているという意味では、全く新たな創造とは言えない。 同じ質問が地球上の人類を含むあらゆる生命体の存在に対しても言える。 つまり地上の生命体も高度な知能を持つ生命体により、遺伝子の操作によって創られただけなのかもしれない。言い換えるなら、地球上の生命体はオリジナルでない可能性がある。 もしそうなら、地球上にある生命体に類似した生きものが、地球以外にも存在する可能性は大きい。 すると、誰がその元からある遺伝子を創ったのかという質問が生じる。 同じような質問の繰り返しになる可能性がある。答えを得ることはできないのかもしれない。 * 脳細胞は有限である。その有限の枠の中で人間はことばで考えている。今まで人間の観測にも思考にも限界があるため、宇宙や素粒子の世界、時間、数の世界等は、無限、永遠ということばで表現されてきた。しかし、現実はそうでない可能性もあるように思えてきた。 無限や永遠に思えるものは今の人間にはわからないだけであるのかもしれない。 無限を限界が無いと考えていても、また果てしなく続くから永遠と考えていても、人間の思考を超えているから、そのように表現しているだけとも言える。 神ということばは人類の無知の象徴と書いた。わからないという根拠に基づき無限の神、永遠の神という表現は使えると考えていたが、変更が必要に思えてきた。それは神という表現が人知を超えているという点ではその通りであるが、絶対者、創造者という人間との関わりから抜け出せていないように思えるからである。 2020年6月 ・ 人の命は誰のものか 命が特定の存在に属するものであるということはできないが、人間の成長過程を考えれば、必然的にある程度の答を得ることはできる。 人間は生れるまで遺伝子により創られ、赤子として生まれ、生まれてからは創られた脳により制御され成長してきた。 赤子として生まれた時、その命の一部を自分で作ったと言える人などどこにもいない。 生れてから一人で生きられない存在が、親の保護の下で、衣食住を与えられ、大切に扱われ、育てられてきた。そして大人へと成長した。 命は自分のものであると考える理由はどこにあるのだろうか。 どこに自分の所有権があると言えるのだろうか。 生命体として自分自身が作ったものなどどこにもないのではないか。 親の持つ遺伝子は親自身が創ったものではない。遺伝子は受け継がれ、そして子に伝えただけである。自分の命という考えは、命に対するはなはだしい認識不足である可能性がある。 しかし、事実はそうであっても、人はみな自分の命だと思いこんでいる。なぜだろうか。 自分の命だと思いこんでいる理由 昔は命の存在の意味を考えても詳細を知ることはできなかった。 誰も知らない、わからないことなので、神様が創ったということで皆納得した。 昔は、遺伝子を受け継いでいるという考えはなく、遺伝子によってすべてが作られているという考えもなかった。針先ほどの受精卵から、プログラムにより、一人の人間が赤子として造られることなど想像できなかった。 今は医学の進歩によりDNAの意味を知り、解読され、ヒトゲノムなどのことばが作られている。 生命に対する理解という意味では、現代は昔とは大きく違う。昔の認識は現代の知識も理解もない時に作られたものである。時代が変わり、科学の進歩と共に知識は増し、理解が変わる。昔の認識がそのままで良いわけはないと考えられる。 人は生れた時にはまだ考えることはできず、創られた脳により制御される。自分という意識、考えはどこにもなかった。自分はいなかった。 ではいつから自分がいるようになったのか。 自分がいるようになるのは、自分の存在に気づき、自分を意識するようになってからのことであるように思える。 生れて1歳、2歳と成長する中で、自分の意思で自分の体をコントロールできるようになる。親に名前を付けてもらい、自分の名前を呼ばれ、全ての物に名前があることを教えられていく。歩けるようになる。食べることができるようになる。話すことも始める。その頃は未だ自分の存在に気づいていない。 そうしている内に、自分の食べたいもの、欲しいもの、やりたいことなどを主張するようになる。自分の存在に気づく時期の始まりであると考えらえる。 この頃から、自分の意思を表すようになる。 それまでは置かれた環境の中で、親が中心になり、ことば、感情、慣習などすべてが入力され、基本的な認識が作られてきた。 自分を意識し始めてから、自分という存在、自分に命があることに気づき始める。それは自然環境、社会環境からの脳による学習、教育によるように思える。 脳自体も人間の体の一部として、人体の成長と管理、維持・制御のためにあらかじめ人間の機能の一部として備えられているものである。 初めは自分という意識はなかったが、自分の存在が大きくなるにつれ、すべてを自分中心に考えるようになる。学習している。わがままを言うようになる。自我を通すようになる。親は未だ人生のほとんど何も知らない子供がかわいいという理由で言いなりになることも起きる。子供の自分中心の考えが助長される。 2021年8月、以下を追記 「幼少の頃の、自分の存在に気付く前と、自分の存在に気付いた後の違い 産まれ育った時代の自然環境と社会環境とは、子供に与えられる情報の質と量と与えられ方のことで、それぞれの人で違うし、時代によっても大きく異なる。 自分という存在に気付く時、自分という存在を考えるようになるが、長くは続かない。昔は今のような知識、情報はなく、考えても答えはなかった。答えてくれる人もいなかった。 人間の周りの環境が安心感を得るために、皆と同じであることを求めた。 脳はこれ以降も思考と感情を作り続けるが、この時から自分という存在が、自分の思考と感情を運用し始める。それまでは自分は存在せず、いなかった。 好き勝手をするようになるが、親を含め社会が、教育により制御しようとする。 自分で、自分を教育し始める。学習を始める。新たなことに気付き、教訓を得るようになる。自分の意志を持つようになる。自分がいるようになる。 自分で考え、判断し、失敗もするが、そこから学び、前進する。 自分とは遺伝子と脳の働きにより作られ、自分という意識が作られてからは、自分でも作るようになり、一生をかけて作り続ける存在のことである。」 二歳になった孫を見ていると、自分の物という考えが出てきている。教育され、制御されないと、なんでも自分の物と思い込む。 親は子供がかわいいから、喜んでくれるなら何でもしてあげたいという思いはあっても、親自身が良く考え、自制し、対応しなければならない時期のように思える。 この時期こそ、ことばによる教育を通して、「自分の物、人の物」ということを教える最善の機会に思える。安全のためにも、自分の好きなようにはできないことがあること、自分の物ではないものもあることをきちんと教育する。自制することを教える。人間にとって最も重要な教育の時期とも考えられる。親にとっては大変な仕事である。 この時期を逃し、時間が経てば経つほど、子供の主張は強くなり、親の言うことを聞かなくなり、自分の生き方を変えることに抵抗し、調整が難しくなるとも考えられる。 人の命は白紙に絵を描くことに似ている。子供の脳が未だ白紙に近い状態の頃から、ことばの教育を通して、ことばの意味、意思の疎通、考えること、学習すること、信頼すること、謙虚さ、忍耐、我慢など、人間性を描いていく。それは子供の将来像を描くことでもある。 親の教育と手本により、子供は賢くなることも、人の気持ちがわかる心を持つことも、試練にたいして強く生きていくための勇気を持つこともできる。 しかし、親が自ら学ばず教育を怠れば、命を役立てる人間に育つことは難しくなることも考えられる。 学校の勉強を頑張ったとしても、良い成績をとったとしても、スポーツを頑張ったとしても、仕事を頑張ったとしても、その結果は個人の業績なのだろうか。 受け継いだ能力も人によって違うので、才能に恵まれる場合もあるし、そうでない場合もある。その才能は努力して作り上げたものであれば、個人の貢献は認められる。しかし、与えられた体も能力も自分が作ったわけではない。受け継いだものであり、多くの人の支援があって今があり、頑張ることが可能になったのではないか。 この自分の命と成長に対する認識がないのは、教えられてこなかったことにも原因はあるかもしれない。自分の命について誰にも教えられたことはないのではないか。 親自身も自分の命に対する認識はなく、自分の命が何なのかわかっていないのではないか。人類全体としても命に対する認識が欠けていると言えるかもしれない。 殺人などの重大な罪を自分の子が犯したとき、その親はどう感じるのだろうか。 自分の子が自殺した時、親はどう感じるのだろうか。 結果にはそれに至る過程がある。子供のころからの育て方にも問題があることも考えられる。環境も関係するだろう。その親はしっかりとした考えを持って育てたのだろうか。 考えを持つとは責任を持つ、責任を自覚していることでもある。 初めての子を育てることは、誰にとっても初めての経験で、どう対応したらよいのかわからない。一生懸命学習し対応する親は多いと思うが、子育ては大変な労働であり、忍耐と自己犠牲を強いられる仕事でもある。 親にしっかりとした考えがないと、決意がしっかりとしていないと、成り行きになり、子供は自分勝手に成長していくことになる。子供は自分で学習を通して大切なことを学ぶかもしれないが、たくさんの時間と労力を課すことになる。 人間は子供の時に必要な教育をされないと、自分中心の考えに傾き、自分勝手な生き方をするようになるとも考えられる。 重罪犯の中には、自分は何のために生まれてきたのだろうか? 生れてこなかった方がよかったのではないか? と考える人もいるかもしれない。 「なぜこんなおれを生んだ」と親に文句を言うかもしれない。 親は、「そんな子に育てた覚えはない」と反論するかもしれない。 どちらにも考える習慣がないから、こういう結果になるのではないか。 人間は誰でも一人では生きられず、両親の支えが必要であり、家族、親族、地域の人々、学校での先生、その他多くの人の助けがあって、成長していく。親も子も皆そうやって大きくなった。しかし、いつの間にか、自分一人で大きくなったように錯覚してしまう。 特に親元から離れ、独立し、自立するようになると、自分の命は、自分のものと考えるようになるのではないか。 他の生き物、鳥や動物であれば大人になれば独立して、自分の存在を中心に生きて行く。 人間と動物は同じ存在とは言えない。人間には考える力があり、社会を作り、共同で生活をしている。人間が動物と同じでレベルになり、自分中心に生きて行くわけにはいかない。 人の命は自分だけのものではない。それは時代を超えて人類、社会、皆の共有財産であるという認識を持つことが必要であると考える。 ・ 命の目的は何か 明確な答えが現時点ではわかっているわけではないが、こう考えることはできる。 命は存在するだけでは意味はない。命は活かして初めて意味を持つ。命の目的は命を活かすことにある。命を活かすとは他の生命体のために役立てることである。 すべての生命は他の生命を食べて生きている。まさに他の生命のために役立てている。 命の目的は他の生命すべてのために役立てることであると考えることができる。 それ故、人の命も存在だけでは意味はないと考え、命を活用することが重要である。人の命の目的は、他人のために自分の命を役立てることにあると考えられる。 命の目的の中には子孫を残すことも含まれる。 ・ 命はどのように扱うべきか 命は大切なものとして扱う必要がある。 人間の命を大切に扱うとは、人の命が何かを知り、理解し、その目的が他人の役に立つためにあることを認識することであると考える。 人間の子供達は人類の未来を創る大切な子孫である。親は自分の所有物であるかのような考えを避け、人類の未来を担う者であることを念頭に置き、十分な心構えを持って育てる必要がある。 親自身が自らよく考え、模範となり、人類の一員として役立つことが、命を大切に扱う意味であることを認識する。 人の命を大切に扱うことは、全ての人の責任である。自ら謙虚になり、子供達のあるべき模範となり、自らも学び、思いやる心を持ち、他人を大切にし、人を助けることである。 2.殺すとはどういう意味か 「生命体の持っている未だ生きていられる時間、可能性を無くす、また奪うこと」と定義できるのではないか。 すべての生き物は他の生命を食べて生きている。 言い換えるなら、すべての生き物は生きるために、食べるために他の生命を殺している、またはその恩恵にあずかっている。これが現実である。現実を認識しないことは、命に対する間違った考えを持つことになる。 人間の世界では昔はどこに住んでいても、生活のため、生きるために、魚を取り、鶏を飼い、野生のシカ、ウサギなどを捕って食べていた。動物を殺すことに違和感はなかった。むしろごちそうとして喜んだ。日本では、身近に鶏や動物を殺していることを見る環境が無くなった。以前には、殺して食べるのは日常の生活にあったが、それが見えなくなると、殺して食べていることを知らない大人になる。殺すことが異常に思える、違和感を覚えるようになる。殺すことが何かわからなくなる。 小学校の低学年の頃に、事前に命とは何かの教育をし、団体で屠殺場(トサツじょう)の見学に行けば、動物を殺していることを見、それを食べていることを認識することができるのではないか。人間が昔からそして今も牛や豚や鶏などの生命体を大量に殺して食べているという現実を認識することができるようになる。殺すことはすべての生命体にとって欠かせないことである。そう認識するために、親がまず見学に行ってみたらどうか。 植物でさえ、実際には殺して食べている。植物を殺していないと思うのは、植物を生命体と考えていない、認識できない人間の勝手である。 植物は他の生命体を直接殺してはいないように見えるが、植物の葉、虫、鳥、動物などの死骸が朽ち果て土に栄養となり、それを吸収している。 すべての生命は基本的に他の生命を殺し、食べて生きている。命は他の生命のために役立っている。 死ぬとはどういう意味か 死ぬとは「生命体としての活動を永久に停止すること」と定義できるように思える。 動物を殺すことの意味を知る時に、人間も死ぬということの意味も理解することができるのではないか。人が人を殺しても平気なのは、命の意味、殺すことの意味、死ぬことの意味が解っていないからではないだろうか。 ・「命は大切だから、殺してはならない」と人はなぜ思うのか 「命は大切だから、殺してはならない」と思うのであれば、動物の肉、鶏の肉、魚も食べるべきではない。植物も食べるべきではない。これらはみな命である。徹底して食べるのを止めるべきである。すると人は生きてはいられない。人は死ぬことになる。 「命は大切だから、殺してはならない」という考えにはどこかに矛盾があると思わないだろうか。 「命は大切だから、殺してはならない」と思う理由 ・ 人間には高度に発達したことばがあり、考えることができるため、動物と同じように「自分が食料にされることを考え、殺されて食べられたら困る」と思うことができる。だから、中には、他の生き物も、同様に殺されたら嫌だろうと考える。 思いやる気持ちは大切である。しかし、人間の思いやる気持ちが「他の生き物も人間と同じように考える能力、認識がある」と考えることは基本的に間違いである。 野生の熊、イノシシ、ライオンと一緒にいたら、動物に人間のことを思いやる気持ちがあるかどうかすぐにわかる。 では、なぜ人間だけが他の生命体を殺して食べることを悪いと思うのか。 人間の認識の根底に善悪に基づく価値観があるからであると考えられる。それは思い込みに過ぎないが、数百年にわたり、そう教えられてきたことにより、誰にもそういう認識をどこかに持つようになったのではないか。 命は大切か。食料にできる命は大切である。人間が生きていくために欠かせない。 動物の命を殺すことは悪いことか。悪いわけがない。人が生きるのに役立っている。 では、なぜ悪いと感じるのか。認識の中に善悪という価値観が思い込みとして作られているからであると考えられる。どういうことか。 幼いころから、どこかの時点で、命を殺すことは悪いことだと教えられた可能性がある。 両親からか、祖父母からか、テレビか、学校教育からかは覚えていない。むかし話などの物語にそうした考えが書かれていたかもしれない。 思い出した言葉がある。殺生(せっしょう)である。その意味を調べてみた。 宗教用語ウェブリオ辞典に殺生とは次のように書かれていた。 「仏教語。生きものを殺すことで、その行為を殺業という。仏教では最も重い罪の一つとし 、僧俗の別なく禁じている。五悪・十悪の一つ。とくに大乗仏教ではこれを重視し、殺生 禁断を強調する。だが、実際は殺生なしの生活はありえないので、懺悔(ざんげ)の教えが説かれる」 仏教は日本人の生活に大きな影響を与えてきたが、今も人々の認識の中にこの考えがしみ込んでいるように思える。日本人の認識のどこかに「殺すことが悪い」と感じる理由は、昔からそう教えられてきたからかもしれない。 ★ 誰もこたえられない?「なぜ人を殺してはいけないのか。」 最近の思い付きより 誰もこたえられない?「なぜ人を殺してはいけないのか。」 その理由 いろいろな考えがあるようだ。以下は参考までに個人の考えを書いてみた。 人間が存在するようになる前から、人類の歴史の初めから、人間には「何かをしてよい。何かをしてはいけない。」という規定は存在していない。 人間だけではなく、存在するすべての生命体についても同じことが言える。言い換えるなら、生命体としての制限はあるものの、すべては自由である。 人類は歴史、文化、文学、科学、宗教、政治、経済、哲学、法律などすべてを作り、生みだしてきた。善悪も道徳も人間が作り上げたものである。法律もルールもすべて人間が作ったものである。 自然界を除き、地球上のすべては人類が作ってきたと考えられる。 (例外:人類の歴史に高度な知能を持つ生命体の関与があった可能性は残る。) 神、神々、悪魔、悪霊、天国、地獄は人間による想像物である。人間の「わからない、理解できない」という認識が、こうした想像物を生みだしてきたと考えられる。 初めから人間には「何かをしてよい。何かをしてはいけない。」という規定は存在していない。しかし、人間が作り上げた神様や道徳、法律により、様々なルールが存在するようになった。人間が社会を作り、それを維持して行くためには、過去においては神様による善悪、道徳、またルールを作る必要があったからと考えられる。人類はそういう過程を踏む必要があったからとも言える。 地球上では、人間には他の動物にはない「ことばによる知力」がある。この知力により科学を進歩させてきた。一日20万人もの人口が増え続けることを可能にしている。年間およそ7000万人。もし人間にこの知力がなければ、ずっと昔に人口増加は止まっていたと考えられる。食料がなければ、生きるために人間は争う定めにある。 ローマ帝国が誕生する前、ガリア(後のドイツ、フランス、スイスなどの地域)を征服したユリウス・カエサルは占領地と未占領地の境に軍隊を置くことにより他民族の侵入を防ごうとした。帝国になってからもこの問題は尾を引き、結局、西ローマ帝国が滅びることになるのも他民族の侵入を防げなかったことが大きい。強い軍隊をもってしても、民族の移動を止めることはできなかった。なぜ民族は移動したのか。生きるため、食べていくためであった。 人間は食料無くしては生きていけない。食べていくためには何でもする。歴史はこの事実を示している。 人は殺してはいけないのではない。もともとそのような規定はない。法により死刑が執行されることもある。戦争になれば敵を殺すことが奨励されてきた。 今は食料も十分あり、争う必要はなく、殺す必要もない。法律もある。善悪も道徳も人間を制御させている。しかし、食料不足が生じれば、人は他人を殺してでも生きようとすることになる。それは歴史が示していることである。 命とは食べ物のことである。すべての生き物は他の命を食べて生きている。 人間だけが「ことばによる知力」により、命の大量生産を可能にし、生き延びてきている。人間は命である牛、豚、鶏、魚、植物を大量に殺して食べている。 殺すことそのものに善悪も道徳も関係あるとは思えない。 一日20万人もの人口増加を人間の知力により今までは維持してきたが、地球が有限である以上、この状態は維持できなくなると考えられる。ある時期、人口増加に耐えられない状況になれば、人口を減らすことが必要になるかもしれない。必然的に戦争が起き、人口を減らすことになるのかもしれない。 すでに多くの人がこの問題を解決するために働いていることと思う。 ことばによる人間の思考、知力にこの問題を解決する糸口があるのではないかと考えられる。 ・ ・ ・ 2017年12月 3.若者の自殺に対する考えの一面とそれに対する考えについて (大人は)言葉では綺麗なことを並べる。 ・ 「命は大切なものだ」 ・ 「せっかく生きていたのにもったいない」 ・ 「生きていればきっといいことがある」 ・ 「生きたくても生きられなかった人がいる」 ・ これらは全て詭弁であり建前である。 ・ 人は生きるのも自由。死ぬのも自由であるべき。 これらの考えに何と答えることができるだろうか。 ・ 「命は大切なもの」 命の意味が解っていないと、なぜ大切なのかがわからない。命は食べ物のことでもある。自分の命を自分だけの命と考える理由はない。 命は大切なものである。しかし、命が大切だと言う人が、「自分は死にたくない。生きていたい。」という意味であるなら、実にばかげたことを言っていることになる。命のことをわかっていないのに、死にたくないだけになり、自分は利己的だと言っていることと同じになる。相手は死にたいと思っているのだ。相手の身になって考えることが必要である。 ・ 「せっかく生きていたのにもったいない」 命が粗末に扱われて惜しい。有効に生かされず残念だ、という意味であれば、その通りだろう。しかし、人の高慢さから出てきた言葉であれば、不快に感じる。同情する気持が無いようにもとれる。命に対する認識のない人のことばに思える。命と物を同じに考えているように聞こえる。 ・ 「生きていればきっといいことがある」 「きっと」という表現は言った人の無責任さを示している。生きていても、いいこともあれば、わるいこともあるのが現実である。いいことがあるかどうかわからない。ただし、何が起きても、どう捉えるかで、物事は変わってくる。主体性が関係する。単に期待して生きるのではなく、成し遂げる気持ちをもって生きれば、わるいことでもいいことに変えることさえできる。本質的にはいいこと、わるいことはなく、現実があるだけである。 ・ 「生きたくても生きられなかった人がいる」 確かにその通りである。恵まれた人生もあれば、悲惨な人生もある。これが現実である。 生きたくても生きられない人の命がある。それは現実で、その人が立ち向かわなければならないその人の人生である。誰もその人の命と代わることはできない。思いやることはできる。多少でも助けることもできるかもしれない。その人の分まで頑張って生きることもできるだろう。 個人が抱える遺伝や重い病気や死は、人類共通の問題として対処することが必要だ。 自殺する人の命にしても、その人が立ち向かうべき人生である。自分で考え自分で結論を出したのだ。ただし、若いゆえに、人生が何かもわからずに死ぬことに意義があるとは思えない。命の意味さえわからずに、死ぬことに何の意味があるのだろうか。 ・ これらは全て詭弁であり建前である。 ウェブリオによると、詭弁とは「間違っていることを、正しいと思わせるようにしむけた議論」、建前とは「表向きの方針」の意味がある。 間違っていると決めつける必要はないように思える。 人は皆、考えにおいても行動においても間違いだらけである。 言おうとしていることは良くわかる気がする。大人の社会が利己的で、利益追求の社会であるということだ。皆自分中心に動いている、と言いたいのではないか。 皆が命の意味を自覚し、謙虚になって、反省していけば、きっと問題を克服していくことができる。 ・ 人は生きるのも自由。死ぬのも自由であるべき。 人が生きているのは、好きなように勝手にできるという意味の自由なのではない。 自分の存在など初めはなかった。体も能力も考える力もなかった。すべてが与えられ、親を初めとするたくさんの人々の支援を受けて一人前になったのである。自分が生きるのは勝手にできるという自由であるはずはない。そう考えるのは命に対する認識不足である。 死ぬのも自由であるべき。 若い人は人生が何かを十分にわかっていないで、死ぬのも自由だと言うには未熟すぎる。 自分で生活し、結婚し、親になり、子どもを一人前に育てるなどの経験を経てからでも、死ぬのも自由だ、と言うには遅くはない。 考える力と経験を通して知恵を得れば、簡単に結論は出さないようになる。人生はそれほど簡単ではない、単純ではない。複雑でもあるという意味である。 感情に動かされ、考えずに行動することは、若い時期の傾向とも考えられるが、命に対する認識の欠如でもある。 死ぬのも自由であるべきではなく、死ぬのはもともと自由である。 誰でも苦しい時に死んだ方が楽なのではないかと思ったことくらいはあるのではないか。 でも、死ぬことを選ばなかった。それは、命が単に自分のものだとは思わず、親を初めたくさんの人のことを思い起こしたからでもあるのではないか。 生まれた時、みんなの祝福の下で出発した人生である。自分一人の思いだけで、人生を簡単にあきらめるわけにはいかないと考えることが必要である。 4. 自殺について 人の命は個人の所有物ではない。人を殺すことは違法であると同じように、自分の命を殺すことも殺人であり、違法であると考えられるが、法律ではそうなっていない。自殺と自殺未遂自体は無罪放免である。当事者が生きていなければ、裁きようがないからという理由があるのかもしれない。 法律は人間が作ったものである。間違いも当然ある。命が自分のものであると考えることは間違いであると考えられる。 与えられた命を自分のものではないと理解しても、命を絶たねばならないと思う場合もあることは考えられる。 肉体的に生きていることの苦痛に耐えられないような場合。精神的に生きているより死ぬ方が楽だと思える場合、精神的な病の場合もあるだろう。 死ぬことにより責任を取るつもりの場合も、責任を回避するためにという場合もあるように思える。人の考えによるのだろうが、様々な思い、理由があるだろう。 自殺は個人だけの問題ではない。家族として、社会として、人類としても考えなければならない問題であるように思える。 自殺に関して、若い人の場合と、大人の場合と、年老いた人の場合では、同じように考えることはふさわしくないように思える。自分で死ぬことに決めるという点では同じだが、置かれている立場や条件が違いすぎる。 若い人は学習、経験という面で、人間について、社会について、十分な教育を受けているとは思えない。命についての学習も不足していて、理解しているとは思えない。 人生の意味が解らないのに、自分の命を殺すことは早すぎると考えられる。 恐らく、いじめ、いやがらせに辛く、苦しく、絶えられないことに原因があるのかもしれないが、それに耐えるだけの力がない。なぜ対処するだけの力がないのか。 親も社会も子供に命とは何か、命に対する責任、人間としての責任を教えていないからではないか。現実を教えていない。結果として忍耐することをしらない。問題の対処の仕方を知らない。簡単にあきらめるようになるのではないか。 子供は親から甘やかされて育てられ、自己中心になることを教えられ、弱い人間が作られていく場合が多いのではないか。親は子供に人生について教えることもなく、命の意味も教えない。にもかかわらず、自分を殺すことを誰かが教えた。誰が子供に自分を殺すことを教えたのか。テレビやゲームで人を簡単に殺すのを見ているからかもしれない。 人の命は自分だけのものではない。生まれた時から多くの人の支えがあって大きくなれたのであって、一人で成長したわけではない。 育てるために、父親は働き、母親も家を守り、想像を超える労力と忍耐、苦しみも悲しみもあった。子供は何にも代えられない大切な命である。親にとっては生きる希望である。 このことをなぜ十分に認識しないのだろうか。 どんな理由があるにせよ、問題と戦うべきであった。人の助けを求めるべきであった。命がなければ未来はない。可能性がなくなる。命があれば、命の目的を果たすことができる。人のために役立つことができる。 人間の世界で生きることは自然界で生きることと同じように厳しい側面もある。大人になれば問題がなくなるわけではない。大人になっても失敗することも、間違いをおかすこともある。責任が問われることもある。誰でも現実と向き合わなければならない。人間が社会を作り、皆で協力して生きているは、人間には誰でも弱い面があり、生きて行くための支えや助け、励ましを必要としているからである。 平成26年度の自殺者の総数は25,427人。性別では、男性が17,386人で全体の約70%を占めている。40歳代〜50歳代の自殺者は全体の33%を占める。 生活費を稼ぐ働き盛りの男性が病気、怪我など健康問題を抱え、職場での問題、人間関係による悩み等で精神的な負担を抱えると、生きて行く気力がなくなることもあるだろう。そこに経済的な不安が生じれば、家庭内でも不和が生じるかもしれない。 個人で抱えるには問題が大きすぎる場合もある。一個人の問題としても、社会の問題としても適切なところ(いきる・ささえる相談窓口など)に相談すること、助けを求めることが必要になるだろう。人間社会、人類はそのために共同体として存在している。 老人の自殺について 老人でも考えはそれぞれ違う。人生を一生懸命生きた人と目的もなくなんとなく年を取った人では、命の意味が違う。 その結果も違うはずである。人生に対する見方も違ってくる。残りの人生に対しても考え方は違ってくる。 生きるとは人のために生きることである。希望を持って、他人の役に立てることを考える事ができれば、命に意味はある。命に意味があれば自殺は考えない。 医療制度では75歳以上は後期高齢者とされる。90歳、100歳であっても頭脳明晰でしっかりとした意思をもって行動できる人はいる。 ここで言う老人とは、自分で他人の役には立っていないと判断することのできる年齢の人のことである。ただ死ぬのを待つだけの人生なら、生きたいとは思わない人もいるだろう。 人は誰でも年老いて死んでいく。いつ死ぬかは誰にもわからないが、自分で決めることができれば別である。 命の意味は、他人のために役立つことである。しかし、他人のために役に立っていない、将来も役に立たないことが自分でわかるのであれば、自分で自分の命の意味はないと判断することはできるのではないか。 死ぬとは「生命体としての活動を永久に停止すること」と書いた。 有史以来、あらゆる生命体、動物も人間も、みな死んで来た。 死は自然のことであり、当然のこととして受け入れる必要がある。 人間だけが何か特別な存在であり、長生きすべきだと考える理由はどこにもないだろう。 人間には自決する権利はあるのかと考える必要はない。 人間は自分が自分を認識できなくなる前、病気で間もなく死ぬことが予想されるなど様々な理由から、自決する選択肢があると思われる。 法律は人間が作ったものである。権利は人間が創り出したことばである。初めから人間には普遍的な規制はないということである。 権利のあるなしにかかわらず、考えなくても、自殺は法律によって罰せられることはない。自殺する人はこれからも止まらない。自決することは自由であるという意味であることと同じなのだ。つまり人が死ぬのは自由なのである。 人間には死ぬ自由はある。自殺と自殺未遂自体は無罪放免である。 ただし、誰にも気兼ねなく自決できるわけではない。それなりの準備は必要だ。 生前葬をやり、皆に感謝して、当たり前のこととして静かに死んでいくことも、一つの人生の在り方だろう。 結び: 人は、自分に与えられた命で、自分の未来を切り開き、自分の人生を作り上げていく。 自由があるのは、自分の意思次第で、未来をどのようにでも作ることができるからである。 命はすべてを可能にすることができる力であり、命があるから何でもできる可能性がある。人間の命が大切な理由は、その命が可能性の源であるからだ。 人類のためにその命を活用し働くことが生きることの意味であると考える。 マイケルアレフ 2021年10月 シリーズ8 命についての考察を読み返してみて、新たに気付いたとなどを以下に書いた。 見直し その1 生き物、命にあふれている地球は美しく、素晴らしい。 自然界に美しいは無いのに、なぜ地球は美しく、素晴らしいのか。 ことばの認識は世界を変える シリーズ 5 感動することについて の中に、人間がすばらしいと言える理由について書いた。 「人間は一人では生きていけない。人間が社会を作ってきたのは、助け合い、協力しあうことで、危険に対処し、安全に生活するためである。共に喜び、楽しみ、働き、共に生き、子孫を残して行くためである。 感動することは、人間だけが人間であるが故に経験できることである。 「人間は素晴らしい存在である」と考える理由の一つと言える。 人間はことばと考える知力を持ち、未来を創る存在である。 人によるとは言え、謙虚さ、誠実さ、感謝の気持ち、隣人愛、人類愛を示すことができる。 その人間性に素晴らしいと感動する同じ人間は、なんと素晴らしい存在ではないだろうか。 その素晴らしさは、純粋に受け止めることが必要だ。 その際、同じ人間の無理解と愚かさにより、その感動を曇らせてはいけない。 感動することは、「人間が素晴らしい存在である」ことの意義を示すものであるからである。」 確認しておきたい。この素晴らしさがある理由は何か? それは人間に命があること、そして、人間にことばによる知力があることである。 これが、人間の素晴らしいことの意味であり、人類の出発点として考えたい。 シリーズ30一つの結論の中に、 人間をとりまく自然界に美しさはない。幸せもない。敵もない。 では、なぜ人間にはあるのか? ・ ・ ・ その問いに対する答を書いた。 自然界には感動の理由となる素晴らしいと感じるものがたくさんある。 それは人間にとって感動になるが、人間以外の生命体にとって感動とはならない。 自然界に感動はない。高度な知能とことばを持つ人間であるから、そう感じることができる。視点も関係するが、それは人間であることの素晴らしさを意味しでいると考える。 人間の持つ価値観について 人間の持つ認識の一部である価値観は、人によって様々であるが、共通していることがある。価値観は人の考え、思い込みで作られている。 なぜそう言えるのか? 人間の世界はことばによって作られているからである。 全ての情報はことばである。人間の考えはことばである。人間が持つ価値観は考えにより、元々ことばによって作られている。その価値観の多くは幼少の頃に受け継いでいると考えられる。 人間の価値観すべては、人間の世界の中にある。人間である自分達で作っているもので、そのことばは自然界にはない。それが理由で自然には存在していない。自然界には人間の持つ多様な価値観である美しいも、醜いも、嬉しい、悲しいもない。これは自然界におけるあるがままの状態、現実である。 ところが、人間の世界は違っている。人間は「命はすばらしい。人間の命はかけがえがない」と考えても、その価値観を、自分達の都合で基準を設け、変え、使い分けてきた。 命に対する価値観も変わる。 人間の命は大切だと言いながら、戦争をするためには、敵を作る。敵を殺すのは良いことになる。 凶悪犯罪者は裁判により死刑になる。その犯罪者の命を奪うことは良いことになる。 ライオンがシマウマを襲い、殺し、食べているのを見て、残酷だ、シマウマがかわいそうだ、等と言う。ところがライオンもシマウマも残酷だという意識はない。その考えはない。 これは人間の自然に対する考えに大きな違いのあることを示している。 人間は無数に思えるほどの動物、魚、植物を殺して食べているのに、何も殺していないかのような意識である。それでいて、人間は愛護動物の虐待は違法であることにして、動物愛護の精神にあふれていると思っている。 命はなぜ大切なのか? 命が大切か? と考えるためには、考えるための十分な思考力が必要だ。地球上では人間だけにその能力がある。つまり、命は大切だと思うのは人間だけである。 なぜ大切なのか? 命は生きていくための食料であるからだ。 それは人間に限らず、全ての生命体に言える。 基本的に命は食べ物であり、生命体は命を食べて生きている。ライオンが命を奪い食べていることは、あるがままの姿、現実である。そこに良い悪いはない。残酷もない。悲しいもない。 人間は考え、都合で価値観を作り、残酷だなどと表現する。 自然は、人間の命が大切だと思うことも、考えることもない。 地震、津波、台風、土砂崩れ等によりたくさんの人が犠牲になり、命を失う。自然は人間を守ろうとはしていない。 宇宙に対する理解が進むにつれ、わかってきたことがある。地球は昔、存在していなかったことだ。新たな天体が作られることも、天体が終わりを迎えることもあることを知るようになった。 地球には、海がありそこには様々な海洋生物が生息し、陸があり、たくさんの植物、昆虫、鳥、動物が生きている。命あふれる天体だ。しかし、地球の存在がない時代があった。その時、そこに住む生命体の存在はなかった。 なぜ生命が存在するようになったのかはわからない。推測の域を出ないように思える。でも、わかっていることはある。 地球上でも新たな生命が生まれることも、絶滅することもあった。恐竜がいた時代もあったが、絶滅した。人間が絶滅種になることは、当然あると考えられる。 人間が神様にどれほどお願いしても、人間の命が守られることはない。神は人間の思い込みで作られ、何の力もないからだ。自然は神ではない。 現実的に助けになるのは、人間による、人間の社会からの助けである。 しかし、人間の社会は思い込みに支配され、健全な働きが十分にできないでいる。価値観は勝手に作られるし、変えられてしまう。人類は今も人間の作った古い価値観に縛られている。自然界にその価値観はない。 人類はその違いにまず気付き、現実を理解し、優越感を求めること、利益追求の社会から解放される必要がある。思い込みにより作られている束縛からの解放のことである。 人間の価値観は思い込みにより作られることを現実として認識することは、人類の存続を左右するほど重要であると考える。 それがわかれば、敵を作らず、戦争をしないですむ。欲望を制御できるようになり、利益追従の世の中を修正できる。 人類は自分達のあるべき姿、基準を考え、それに沿った生き方をすることを考えなければならない これが人間の素晴らしさを、人間の命を大切にすることの意味であると考える。 見直し その2 では、遺伝子で作られている命が自然界にあるのはなぜか? 植物も虫も魚も動物も人間も遺伝子で造られているではないのか? 自然界に物理の法則があるではないか? それは高度な知能の表れではないか? 自然界には人間のような考えはない。しかし、人類はそこに数学、物理等の法則があることを発見し、それを活用することで月や火星に行き、移住することさえ可能にする時代になっている。法則は現実にある。ただし、法則があるのは人間の世界だけである。高度な知能を持つ人間の存在なくして、法則はない。 人間は知力により、法則は作られたものだという認識を持つが、それは人間の知力が非常に限られたものだからであるからかもしれない。つまり、作られるという意味がわかっていないことも考えられる。 人間の遺伝子のように、人間が考えても作れないどころか、想像さえできないほど優れた設計図がDNAとして存在するのはなぜか? 個人的な考えに過ぎないが、それは宇宙には物理の法則があるように、生命体が創られる法則があるからかもしれない。人間は作る、造る、創ると表現するが、作ることの意味がわかっているわけではない。自然界に命が誕生する法則が隠されているのかもしれない。 作るという意味は人間の世界ではわかっても、自然界に広げたらわからない。命の意味さえわからない。星が生まれるように、生命も生まれる。その理由はこれからの人類が探究し続ける課題であると考える。 全てを作った創造者がいると考えることには無理がある。 昔は平らな地上から考え、創造者を太陽のような存在としてイメージしたと思われるが、今の人類の考える対象は太陽系から、天の川銀河、2兆の銀河を抱える宇宙を超えるまでに、無限の広さに広がっている。 有限である人間が、無限の存在の答を出すことは無謀なチャレンジに思える。人間の能力を越えている。 「神ということばは、人類の無知の象徴である」と書いた。 過去、現在、未来において人類にはわからないこと、理解できないことが存在するという意味である。それを神の領域と呼ぶことは可能である。ただし、過去における人類の無知の多くの原因は理解できるようになり、神の領域ではなくなっている。 それ故、現在わからないからという理由から、宇宙の創造者としての神という結論を持ち出すことは、早計に思え、賢明とは思えない。しかし、それを否定できるわけでもない。無知のままではなく、真実を探究し続けることが、人間であることの意味であると考える。 未来において、人類が地球以外の高度な知的生命体に遭遇する機会がある時、相手を理解する上で大切に思えるのは、自分達の持っている人間の価値観ではなく、あるがままの自然を理解していることで、それは共通の土台となり得るからのように思える。 以前、命は命からしか生まれないと考えてきたが、間違いかもしれない。 地球が生まれた時、生命はなかったが、現在、多種多様な生命が存在しているからだ。 生まれては死んでいく星に命はあると言えるのか? 物質に命はあると言えるのか? 無数の生命体が生息している地球は、生命が宿る惑星であることは間違いない。では、地球は単に物質できた惑星と考えるか、それとも惑星そのものを生命体のように考えるか? 地球は命にあふれている。地球は生きているのか、命を持っていると言えるのか? もし地球を生命体のように見なせるなら、地球が存在する銀河系には無数の生命が存在していると考えられるので、天の川銀河は生命体が宿る銀河であることになる。では、銀河そのものを生命体のように考えることができるか? もしそう考えられるなら、2兆の銀河を含む宇宙全体は生命体と見なすことができるのではないか? 人間の価値観は自然界のものではない。人間独自のものである。 人間の価値観は人間が独自に思い込みで作り上げた世界であり、人間の世界だけに通用するものと考える。人類は自分達の都合の良いように基準を作ってきた。そこに人間の抱える問題の原因があるように思える。 命とは何かと考えることは、遺伝子とは何かと考える段階に移行しているように思える。 遺伝子の二重らせん構造が明らかになったのは1953年、ヒトゲノムの解読は2003年に終わっている。 人類はその遺伝子を操作して新たな皮膚や臓器まで作れる時代になってきている。昔であれば、DNAの設計者、制作者がいると考えた。 情報がないため、全てを神様が作ったと考えた時代は遠い昔のことである。現代は情報が溢れる大きく違う時代である。遺伝子を操作するほど科学技術は進歩している。にもかかわらず、遺伝子の存在の意味はわからない。 遺伝子の存在がわかり、ヒトゲノムの解読ができて約20年が過ぎようとしている。20年近く経ったが大きな進展はまだ見られないようだ。まだわかり始めたばかりであるとも言える。 人間の設計図がどうしてあるのか? それが可能なのはどうしてか。 命とは何か? 宇宙はなぜあるのか? 少しわかるようになれば、さらにわからにことがたくさん出てくる。人類の未来は未知の世界のように思える。人間の思考では簡単に答を出せない問題がたくさんある。 それ故、知的生命体である人間の存在は非常に貴重に思える。その人間の持つ知力の役割に気付き、未来にその存続を通して真実を追求していくことが重要であると考える。 それが知的生命体である人間の究極の姿、生きていく喜びを見出だすための全体像のように思えてくる。 マイケル アレフ 2021年9月 人類の無知を象徴する神から、人類の知力を象徴する神へ 「神」とは人類の無知を象徴することばであると書き、その理由については説明してきた。人類の知力を象徴する「神」に変えることはできないのだろうか? 文明の歴史はその初めから、人間がわからない存在に対して感謝と恐怖を抱いてきたことを示している。そのわからない理由は、およそ6000年をかけ、人類の知力と探究により、わかるようになった。その多くは自然界に見られる不思議に思える存在や現象だった。太陽、雨、嵐、地震、津波、気象現象それに力ある生命のライオンやワニそして人間の存在などである。 背景がわかってきても、人類は何かに対して感謝の気持ち、恐怖からの救いを求めている。人類の大多数は今もなお昔からの神を信じている。理由がわかっても、変えることができず、大昔からの慣習をひきずっている。 人類はわからないという思い込みから解放され、真実を知り、新たな認識を持つことが必要である。人間が造った偶像や見える神々のことではない。太陽系や銀河の存在を知らない時代に信じていた見えない神のことでもない。 人類は、必要であるなら、現代の文明にふさわしい神を持つべきと考える。それは神ということばが無知の象徴である面は変えようがないが、人類に知力があることの象徴として現実、真実として受け入れられるものがある。今もなお全くわからない存在のことであるが、人間の介入による誤りを作ることなく、争いの原因にならない存在である。 無限とは有限の存在である人間からは、わからない存在である、永遠の問いである。数には濃度の違う無限がある。二兆を越える銀河を含む宇宙も無限である。その宇宙はたくさんあっても無限である。素粒子の世界も無限の世界に思える。多次元の世界もそうかもしれない。 これらの存在全ては宇宙が始まったとされるビッグバン以降に作られ知られるようになった。正しいかどうかは、わかりようがないことだが、それ以前、人間の思考では考えられない何か、存在と言えるかどうかもわからない、があったとすることはできるのではないか。人間は無知の一面からは逃れられない。人間に限界があるからである。その存在を現代の神とすることはできるように思える。人間の思考を超越した神である。 人類が神を必要としているなら、全てが始まる前、宇宙が始まる前の存在を、今という時代にあったふさわしい神として、人類の未来への導きを願い、祈り、感謝することができるように思える。 人類が間違った神、誤った教えを信じたために、間違った価値観から互いに戦争をし、大勢がその犠牲になってきた。こうした価値観を避けるために、人類は自分達の知力で作り出した神を信じることが望ましいと考える。それは、全ての存在が始まる前、宇宙ができる前の存在を神とすることである。 これにより現代にふさわしい、わからない、わかりようのない神ができる。 人類は、今までに数えきれないほどの目に見える神々、大自然の見えない神などを信じてきた。死者を神としても祭ってきた。わからないので、自分達で作った神である。それ故、長い人類の歴史の中で神とは無知の象徴であった。それは同時に、愚かさの象徴でもあった。しかし、宇宙が存在するようになる前の神は、もはや人類の無知の象徴ではなく、愚かさの象徴でもない。人類の知力の象徴となり得る存在として受け入れることができるように思える。今までの無知の象徴としての神ということばを使わずに、新たな神に代わる名称を使うこともできるかもしれない。
当たり前のことを質問するな、とお怒りの声が聞こえそうである。 命は大切である。誰でも当たり前だと思っている。 しかし、なぜそう思うのだろうか? その意味はどこにあるのか?
幼い頃、人は自分を中心にしか考えられないから、世界は狭い。 数百億の人間が生きては死んでいった。その結果が今現在である。 現在から過去を振り返ると、人間、人類にとって何が大切なのかがわかるのだろうか?
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