マイケルアレフのことばの認識は世界を変える 人間の持つ権利について 見直し結果 人間の持つ権利について見直したが、視点が変われば答えは変わる、がその要点に思える。新たな考えは思いつかなかった。内容はそのままにした。 追記: 二度の世界大戦の反省から、国連憲章として「世界人権宣言」が1948 年に採択され、人間には基本的な人権があることになった。それから既に 70 年以上が経過している。 人間には生きる権利がある。思想の自由、信教の自由、学問の自由、生存権、教育を受ける権利、. 勤労の権利などの人権がある。 誰がそう決めたのか? ・ ・ ・ 人間が決めた。 人間が決めると、あることになるのか? 人間の世界では、人間に必要だから、権利は作られ、あることになった。 しかし、元々権利ということばはなかった。権利など初めはなかった。人間が作ったことばである。 初めからあるのは、変わり続ける現実、あるがままの世界、だけである。 地球上の人類に人権があるなら、宇宙全体の知的生命体すべてに、知的生命体としての権利を認める必要がある。 地球以外に生命体の存在が確認されていないのに、なぜそこまで考える必要があるのか? 必要かどうかは別であるが、それは今という時間だけでなく、未来を含む論理的帰結であると考える。同時に、そうでない生命体にはなぜ権利がないと言えるのかを明確にする必要がある。 未来において、生命体すべてに権利は無いことになるのだろうか? あると考えるのは、優越感が自分達は違う存在だと、そう求めるだけなのかもしれない。 人間の定義、人間とは何かがわからずに、それを明確にせずに、権利があるなどと主張することは論理的でない。不明瞭である。 権利は人間が作り上げた幻想の上に在るものに思えてくる。 それを言ったらおしまいよ〜。 確かに。人間の世界ではそうである。 それを認めるなら、人類が作り上げた多くのものが真実ではないことになってしまう。人類の文明の崩壊を意味するかもしれない。 しかし、そうであっても、それが現実なら、人類は受け入れる定めにあるように思える。 マイケル アレフ 2021年6月 ![]() ことばの認識は世界を変える シリーズ 4 人間の持つ権利について 「正義とは何かの考察」の中で、「正義とは自分の持つ権利こそが正当であり、自分の考えが論理的に正しいとすること」と書いた。人間は自分に権利があると思っているから正義を主張し争いが起きると。 人間の権利が争いの原因になるのは、権利に対する理解に問題があることのように思える。そこで人間の権利について考えてみた。 人間一般大衆は生きる権利、基本的人権があると思っている。 しかし、地球上の人間に基本的人権はあるのだろうか。 あると言える理由は何か。ないと言えるのはなぜか。 内容: 1.歴史から見た人権について、人権があると言える理由 2.動物を含む人間以外の生命体に生きる権利はあるのか 3.考える枠(視点、人の観る立場、持っている常識、認識、価値観、世界) ・広い世界から見た地球と人間 ・視点の変化、価値観の変化、世界の変化、 4.人間の教育で大切なこと 5.まとめ 1.歴史から見た人権について、人権があると言える理由 人類は地球上のこの世界は人間の世界であると考えてきた。 地球は人類によって占有されている。 地球上に人間以上に英知を持つ存在は(現時点では)無い。 歴史、文化、文学、科学、宗教、政治、経済、哲学、法律などすべてが人間によって作られてきたように思える。 それ故、地球上のすべてが人類を中心に創られ、帰属しているように見える。 これが一般的な理解であり、人間には権利があるとする理由であると考えられる。 人類は生存するために、どうしたら人間の世界はうまく機能するのだろうかと様々なことを考えてきた。 歴史を振り返れば、古代イスラエルに見られる神権支配、古代ギリシャの哲学、宗教や考えを異にする人々を導く法律も古代ローマで作られローマ帝国内で広く適用された。西暦392年ローマ帝国がキリスト教を国教と認めて以来、他の宗教も神様も許さない排他的な暗黒の時代が長く続くことになった。その後の様々な改革を経たが、人類は世界を巻き込む二つの大戦を経験した。反省から国連もできたが戦争は無くならず現在に至っている。 歴史上のほとんどすべては、失敗も反省も改革も人類を中心に行われ、作られてきた。地球上に人類以上に英知を持つ力のある存在は無い。 地球上の人類を基準に考えてきた結果、人類は一つの世界となり、多くの人の犠牲と努力と働きのおかげで、人間には誰もが生きる権利、基本的人権があることになった。 ウィキペディアには、「基本的人権とは人間ゆえに享有する権利である。人権思想においてすべての人間が生まれながらに持っていると考えられている社会的権利である」と書かれている。 長い人類の歴史の中で守るべきものとして考え出された基本的人権は人間にとって大切なものとして導き出されたものであり、重要な意味があることに間違いはない。 しかし、それは「人権思想であり、社会を構成する上での権利である」と書かれているように「人間の世界で考えるなら」という条件が付く。 人間という限られた枠の中で考えるなら、人間には人権があることになる。 人間には生きる権利がある。所有する権利がある。買った土地も、財産も自分の物であると誰もが考えている。すべてが人間中心の社会であるからである。 あまり考えることのないことかもしれないが、基本的な質問をしてみよう。 地球上の土地は誰のものか。 その土地に建っている家は誰のものか。 人はお金で買ったから所有権があると思っている。法律で認められているからだ。 しかし、お金は人間が作ったもの、法律も人間が作ったものである。 お金も土地も時代によって価値観に違いがある。お金というものが無い時代もあった。見方にもよるが一万円札もただの紙切れに過ぎないという一面はある。 土地が価値のない、無償の時代もあった。 日本では法律で決められているので、自分の家、土地として買えば、自分の所有物となり、それは当然の権利だと思っている。国が保証してくれる。警察により守られているのでたいていは強盗に入られることもない。法律があるおかげで、問題が生じても解決することができる。 しかし、時代を振り返れば、金融危機によりお金の価値がなくなることもあった。戦争により国が財産を没収することもあった。土地もお金も状況によってどうなるかはわからない。 法律も、警察も、国も人間が作ったもので、目的は人間社会の維持にある。人間のため、人間が存続するためにある。その考えの基本は人間が中心である。 繰り返しになるがその根拠と思えるのは、人類の歴史、科学、政治、経済、宗教等すべてを人間が作ったことにある。それ故、人間が中心なのは当然のように教育され、受け入れられ、疑問に思うこともなくなった。人類は地球のあらゆる場所で繁栄している。これは現実である。 以上が人間に人権があるという背景であると考えられる。 ところが20世紀になると、人類が自分たちだけのことを考えていたのでは、人類が滅びてしまう可能性に気づくようになった。第2次世界大戦を経験し、原爆が使用され、戦争をすることにより人類が滅びる可能性があることが実感としてわかるようになった。より強力な兵器も作られてきている。 自然を破壊すること、海洋生物、鳥類、野生動物、自然環境にある植物などの生物を大量捕獲することは自分たちにも影響する。人類の活動が天候にも影響を与えることが分かってきた。絶滅した種もある。絶滅危惧種もある。人類だけを中心に考えていたのでは、人類のためにならないことが明らかになってきた。 人権とは人類が自分たち人間という枠の中で、自分たちで決めたことである。 しかし、人類という枠の中、閉じた枠の中だけでは、人類は生き残れないことに気づき始めた。 2.動物を含む人間以外の生命体に生きる権利はあるか 人間以外の動物は高度に発達した言語を持っていないから、考えることも、話すこともできない。自分たちから主張することもできない。人間が思いやる気持ちをもって初めてその事実に気づく。 食用にされる牛や豚や鶏に生きる権利があるとすると、人間が困る。食用にできなくなる。動物愛護と言いながら、一方で大量の動物を殺し、食用にしている事実は矛盾する。 ペットは家族の一員だ。人間にとってペットは大切な家族だから、病気になれば医者にも連れて行き、命の権利があるかのように扱う。動物虐待は法律違反になった。 動物の世話をすれば愛着を感じるようになる。牛や豚でさえかわいい存在になる。 食べるために殺すことは問題ないが、ペットの虐待は許されない。牛でも、豚でもペットにすればかわいい家族の一員になる。一方では食べるために殺し、他方ではペットとして大切にする。これは矛盾に思える。なぜ矛盾に感じるのか。 それは人間の世界を動物にまで広げるからである。 3.考える枠(視点、人の観る立場、持っている常識、価値観、世界) 人間にだけ生きる権利があるとしたことが矛盾を生じさせるように思える。 人間も動物も共に生きる権利はあるとした上で、新たな考え方をする必要があるのではないか。 又は、人間も動物も生きる権利はないとすれば矛盾は生じないのかもしれない。 人間だけが一方的に人権があるとしたことに問題があるとも考えられる。 人間を中心とする枠を外し、地球全体を考える枠を新たに作ると、それは人間の持つ価値観、認識を大きく変えることになる。 時代が変わり、今までの人間中心の考えではやっていけなくなってきている。 そこで、人間中心の枠ではなく、地球上の生物すべてを含む枠を考えるようになってきた。 権利は人間が作ったことばである。人間はルールを作り、そのうえで権利を持たせた。 今後、もっと重要な視点で物事を考える必要が出てくる。 ・ 広い世界から見た地球と人間 ![]() 地球は太陽系の中でも小さな惑星である。太陽系も銀河系の中では非常に小さなものである。 ウィキペディアによると地球が所属している銀河には恒星が2000〜4000億個と書かれている。2016年10月14日(CNN)、米航空宇宙局(NASA)は13日、観測可能な宇宙の範囲内にある銀河の数は 2兆個と、これまで推定されてきた数の10倍に上ると発表した。 地球が属する銀河系は観測可能な宇宙の中にある2兆個の銀河の中の1つである。 その一つである銀河系には2000〜4000億個の恒星(太陽)があり、地球はその中の一つである太陽を中心とする惑星に属する。地球は宇宙の中で(比べるなら)限りなく小さい存在である。 宇宙という大きさの中では、限りなく小さい地球、その上に住む人類は、地球上に間借りしている存在でありながら、限りなく大きな存在、宇宙の中心であるような考え方をしてきた。それは人間が中心の視点、人間が中心の社会、自己中心の考え方である。 人類は地球が自分たちの星であると思い込んでいる。ここで、質問してみよう。 地球は誰のものだろうか。 太陽系は誰のものだろうか。 銀河系は誰のものか。宇宙は誰のものか ・ ・ ・ 現時点での答えはない。 しかし、宇宙から見た人間の存在の位置を考えることはできる。無いに等しい存在である。 近隣の惑星に知的な生命体が存在していたら、その生命体のことも考えに入れなければならなくなる。その知的生命体は人間の権利を認めるだろうか。人類はその生命体の生きる権利を認めるだろうか。もし、自分たちの権利だけを互いに主張するなら、争いが起き、戦争になる。相手の知的生命体の持っている科学技術は人類より進んだものかもしれない。 人類の存続を望むのであれば、未だ見ていない相手のことさえ、考えてみる必要があるのではないか。ここに、絶えず新しい考え方、新たな視点を持つ必要があるように思える。 現時点では人間だけが高度なことばを持ち、考える知能があることから、人類が人間を含む世界の新たな在り方を考える立場にあるのではないかと考えられる。 人類は小さな存在ではあるが、無限に広がる宇宙の中で重要な存在に成りえる可能性がある。 これからの人類は、人間だけではなく、地球を中心に考え、時代を経て太陽系を中心に、ずっと先の未来には銀河系を中心に、さらに先の未来では無限の宇宙を中心に考える時代が来るのかもしれない。そうなるためには人類の存続は欠かせない。 ・ 視点の変化、価値観の変化、世界の変化、 小さい時から成長と共に、気づかないうちに個人の世界は広がり続けてきた。幼稚園や小学校に入るまでは親の元での小さな世界であった。それが小学生に入るとたくさんの友達ができた。その後中学、高校、大学と進学する中で、その世界は大きくなっていった。バス、電車も利用するようになり、会う人も、関わる人の数も、考えも、通う地域も広くなった。海外旅行にも行き、人種、国籍、言語、文化の違いがある人々を知り、世界がますます大きくなっていった。科学の進歩は、テレビを通し、映画を通し、インターネットを通して個人の世界を広げてきた。 ある特定の土地に生まれたことから村民、町民、市民、区民になり、地域の見方を広げることで都民、県民となり、さらに日本という国に住んでいることから日本人となり、同じ人間であることから国際人、地球人というように考えが広がっていく。 表現を変えると自動車、航空機、インターネットなどの科学技術の進歩と普及は人類の世界をより小さいものにしてきたとも言うことができる。人類はより広く考える能力を身に着けたと言うこともできる。 社会人になりある程度の時間が過ぎると、学生の時のようにすすんで新たなことを学ばなくなり、学習意欲、向学心を無くしてしまう傾向があるように思える。同じことの繰り返しの生活になり、目先のことや楽な生活が重要になり、価値観、常識の範囲が広がらなくなるように思える。 世界が小さい人ほど、常識の枠は小さく狭く、価値観も小さい。その小さな世界で考えるなら、大きな世界を理解することは難しい。しかし、困ったことに、小さな世界に住んでいる人には大きな世界を知らなくても困ることはない場合が多いように思える。 「井の中の蛙、大海を知らず」である。 世界が小さい人は、自分たちの考えや常識に頼り、権利を主張し、他の人の意見や考えを受け付けない傾向が強いように見える。歩み寄ることを知らないかのような振る舞いもある。個人に限ったことではない。特定の地域、国もそういう傾向になり得る。その世界の中で通用する常識、視点、価値観で考えるから、自分たちだけが正しいことになり、争いが起きる可能性につながる。 宇宙の中で限りなく小さな地球に住んでいながら、人類は宇宙の中で一番大きな存在であるかのように考えている。より大きな世界から見るなら、人類は全体として、無いに等しい小さな世界に住んでいることを示している。 小さな世界の中にいながら、大きな世界を理解することは難しい。過去において、その間に問題が生じた時、人類は力で解決してきたことを示している。 ロバート・ハインライン(SF作家)は「暴力(バイオレンス、ありのままの力)は歴史の中で他のいかなるものよりも多くの論争を解決してきた」と書いている。 短期決戦が可能であれば、問題の解決につながる可能性はある。 拉致被害者の問題が解決できないのは、力による解決を避けるからである。 しかし、力による解決は一時的に、その点だけはうまくいったように見えても、紛争後の責任は誰が負うのかを初め、想像を超えるたくさんの問題が出てくることが当然考えられる。 小さな世界に反省がないなら、孤立することは避けられない。 小さな世界はより大きな価値、世界を、考えを理解できないから反発する。 脅しには乗らない。冷静になり、じっと我慢し、時が過ぎるのを待つ。 理解できるように待つしかない。 それには長い時間がかかる。人間としての成長に時間がかかるのと同じである。 人間の寿命は短いので、時間がかかることに耐えるのには相当の忍耐が必要である。 今後、力による解決は将来に適応できる考えとは思えない。今は個々の人間が生きる権利を持つ時代であり、平和に生きる多くの市民が犠牲になることは許されない。人類が滅亡してしまっては、争うこと、戦争することに意味はないでは済まされない。手遅れになる前に知力で解決することが求められている。 歴史的に見れば長い間、時の権力者や支配者は情報を統制することにより、国民を無知のままにし、同じ考えにさせてきた。それは人権を無視していることであるが、大衆はそのことに気づかないでいた。 人は学習すると、人間として目覚め、自分には自由がある、人間として同等の権利があることに気づく。すべての人に人権が認められる理由である。基本的情報公開は必要である。 ことばの認識を深めることは、視界を広げ、世界を広げることにつながる。そしてより大切なものが何であるのかを考えるようになる。 4.人間の教育で大切なこと 初めに人の権利に気づき、考えた人達は、利己的であったのではない。人間の在り方を考え、社会を考えて、人の持つべきものとして権利を考えた。人権が生まれた背景には、人間としての生きることの意味、人に対する義務、社会に対する責任があった。 しかし現在、人間は利益中心の社会にいることからか、人の持つ権利の意味を忘れ、だれもが自分の権利としての人権だけを主張するようになったように思える。 それは人間がそのままでは、自分中心に考えるようになり、利己主義に走ること、争いになること、戦争になることを意味しているように思える。 そうならないために教育、学習は欠かせない。 義務教育を通してたくさんのことを教えられてきたが、人間としてあるべき重要なことが欠けているように思える。幼少のころから肝心な教育がなされていないのではないか。 人としての責任については教えられてきただろうか。 社会に対する責任についてはどうか。 働くとはどういうことか、人のために働くことの意味、働く喜びについてはどうか。 考えることについて教えられただろうか。 人間としての生きることの意味についてはどうか。 なぜオレオレ詐欺、振り込み詐欺が横行するのか。犯罪はなぜ無くならないのか。 幼少のころから大人の模範と共に、毅然とした態度で教育が行われるなら、犯罪の少ない社会を作ることは可能であると考える。大切なことを教育せずに、大人がみな利益追求を目指しているなら、その影響は必然的に、結果に現れる。 ルールの意味を学習すること、ルール違反に対して毅然とした考え、態度、大人の模範が必要である。 犯罪がなくならないのは、皆がルールに対していい加減な態度でいるからではないか。 自分さえ危害を受けなければいいなどと考えているからではないか。 うそも方便だなどと言うからではないか。 嘘をついてはいけないと言っている大人が平気でうそをつき、 約束を守ることは大切だと言っている大人が約束を破る。 盗んではいけないと言っている大人が盗んでいる。 利益中心の社会であるからか、儲けることしか考えない人が多い。 国民の代表である国会議員でさえ会議でヤジを飛ばし、喧嘩腰で言い争う。 本来の話し合うべきことを忘れ、ことばによる暴力、批判ばかりが目立つ。大局を忘れている。 見習うべき模範はどこにあるのか。 指導者が感情的になり、脅しに乗って、自分からも脅し、相手を滅ぼしてやるなどと言う世界を見て、人はどこに模範を探せばよいのだろうか。 質問によっては答えが永遠にわからないものもあるかもしれない。 だからと言って、知っているつもりになってはいけない。 適当に答えてしまってはいけない。 知っているふりしてごまかしてはいけない。 これらのことは、幼少の頃より毅然とした態度で教育されなければならないと考えるが、実際には教えられていないし、大人自身が分かっていないのだから、教えようがない ・ ・ ・ と思うかもしれない。 しかし、そうではない。大人が謙虚になって、大人がわかっていない現実を認め、それを教えれば、子供たちは遠回りをせずに、自分で考え、判断するようになる。よりよく理解することができるようになる。 教育に欠けている人間としてあるべき重要で肝心なこととは、大人の模範、大人が自分も知らないことはたくさんあることを謙虚に認め、それを伝え、模範を示すことである。 それは、自分の権利ではなく、他の人の権利、人間としての権利、なぜ人間の権利が生まれたのかを身をもって教えることでもある。 人権について考えたことのまとめ 人権があるという理由: 歴史上のほとんどすべては人類を中心に作られてきた。地球上に人類以上に英知を持つ力のある存在は無いように思える。これが主な理由になるが、「人間の世界で考えるなら」という条件が付くが、人間には人権があることになる。 人権がないという理由: 宇宙の中では限りなく無に等しい地球上の人間は、地球上に間借りしている存在でありながら、限りなく大きな存在であるような考え方をしてきた。それは人間中心の視点、社会、自己中心の考え方である。視点を人間の世界を超えて、地球全体、さらに大きな太陽系や銀河系にまで広げるなら、人間による一方的な主張である人権はないことになる。 視点によって、言い換えると、観る立場で、持っている常識で、価値観で、どの枠で、どの公理系で、どの世界で考えるかで、質問に対する答えは変わってくる。 人間各自、人類も総じて、「より大きな視点に立てるか」がいつも問われている。 マイケルアレフ 2017年8月 |