マイケルアレフのことばの認識は世界を変える

2017年4月 シリーズ ことばの認識は世界を変える その第1回
  ・  ことばとは何か、ことばが持つ10を超える働き、その他

2022年4月
 ・1 ことばは何のためにあるのか  単語の定義、考えるとは何か
 ・2 ヘレンケラーの自伝より、ことばが持つ意味について
   
ヘレンは単語を知り文章を書くようになると、七歳以前に実体から作った視覚と聴覚の入力を伴わないイメージを一般の単語に置き換え、一般の人でもわかる文章にして表現した。ヘレン・ケラーの自伝である。

2021年4月 ことばについて見直し結果
 ・1 ことばは何のためにあるのか 
 ・2 言語はことばでも、ことばは言語ではない理由
 ・3 知識、情報、ことば(情報のシステム)の関係について
 ・4 使徒ヨハネが書いた 「初めにことばがあった」の意味について
     10月
 ・5 「ことばの学問」が必要な理

2022年6月
 ・3 ことばと大自然に見られる情報のシステムについて

2019年8月追記 
  ・ 鳥や動物のことばについて、人間の場合、人間以外の知的生命体の場合、
   音楽はことば(の媒体)か?


2024年12月
  ・ 存在にかかわる言葉の問題点について



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「ことば」の認識は、世界を変える  シリーズ   2017年4月   

「生後6カ月目には早くも片言ながら『こんにちは』を言い、1歳の誕生日にはヨチヨチ歩き出すほどの成長ぶりだった。」 しかし7歳になった「ヘレンのわずかに記憶に残る言葉といえば、水を意味する「ウォー・ウォー」たった一言だった。」

社会福祉法人日本ヘレン・ケラー財団のホームページのヘレン・ケラー物語の一部をここに引用させていただき、「ことば」の意味を考えてみる。この記録には人間とことばの本質が記されていると思うからだ。

「ヘレン・ケラーは1歳7か月の時に「原因不明の高熱と腹痛におそわれ、一時は医師も見放すほどの重体に陥ったが、医師の努力で辛うじて一命だけはとりとめた。しかし、耳と目をおかされ、光と音の世界から完全に隔離されてしまった。」

「1887年パーキンス盲学校から、ヘレンのために家庭教師に推薦されて来たのが、同校を優秀な成績で卒業したばかりで当時22歳のアンニー・サリヴァン嬢であった。

サリヴァンがヘレンの家へ来たのは春3月、ヘレンは7歳になっていた。ヘレンは予想に反して四肢のすくすくと伸び、リンゴのような頬をした元気のいい子だった。一方怒りっぽくて乱暴、いささかも疲れを知らぬようにはね回り、両親も時に手を焼く有様だった。サリヴァンはこの子に素直さを教えることは並大抵の苦労ではないと直感した。しかしヘレンは、頭脳が極めて明せきで、ことに記憶力がよく、適切な教育により素晴らしい子供になれるとの確信を抱いた。」

ヘレン・ケラーは見ること、聞くこと、話すことができなかった。三重苦と言われる。しかし、ヘレン・ケラーには味覚(あじわう)、臭覚(においをかぐ)、触覚(触る)能力は残っていた。五感の一部は健全だった。この感覚を通して学習することができた。手話は耳の不自由な人のための「ことば」である。この時代、目の見えない人のために指文字という「ことば」があった。

「サリヴァンは着いた翌日から早速教育にとりかかった。最初にパーキンス盲学校から贈られた人形をヘレンに抱かせ、指文字で「DOLL(人形)」という字をその掌に書いた。もちろんヘレンは何のことか判らなかった。繰り返しているうちに、それが自分の抱いているものの名前であることを覚り、この調子で努力しているうち、数週間目にはすべてのものに名のあることを理解するようになった。もともと頭のいいヘレンの進歩は日に日に早くなった。サリヴァンはそれまでの経験によって、点字によるよりも指文字の方が、興味と快感を伴いながら進歩も早いことを知っていたので、最初から指文字による教育をはじめたのである。」

ヘレン・ケラーは指文字を通してことばを教育され、ことばを覚え、ことばの意味を知った。
ことばの意味がわかれば、認識は言葉に置き換えることができる。脳はことばにより文章を作り、考えることを可能にする。考えることが可能なら、そこからアイデアが生まれ、可能性が大きく広がる。

五感の一部である触ること(指文字)を通して、ことばは計り知れない能力をヘレン・ケラーに与えた。それは人間の考える力だ。認識する手段として人間に特有なのは「ことば」である。

「教育をはじめて3カ月目、ヘレンはもう300の言葉を覚えた。これはヘレンの天賦の知力にもよるが、サリヴァンの教育的手腕が普通でなかったことを物語るのである。一例をあげると、ある日ヘレンがコップとその中に入っている水を同じものだと主張してゆずらず、遂にサリヴァンとけんかになってしまった。サリヴァンはヘレンの気分を転換させるため、しばらく他のことに興味を移し、その上で初めて戸外に誘い出し、ポンプ小屋に連れて行って、持っているコップに冷たい水を注ぎこんでやった。と同時に「水」と指文字で書くと、瞬間ヘレンの顔色がさっと変り、コップを落して打たれたようにじっと考えこんでしまった。彼女の面にいつもと違う輝きが現れはじめた。自分の誤りが分ったのである。このことがあってから、あれほど頑固だったヘレンが急に素直になり、サリヴァンの教えをよくうけ入れて、進歩も目立って来たと、サリヴァンの記録に残っている。」

ことばにより考えることは「ことば」の意味を理解し、自分の誤りに気付かせる助けになった。
自分の誤りに気付けば、素直にもなれる。信頼が生まれ、教えをよく受け入れ進歩する助けになる。
自分の誤りに気付くことこそ、進歩の基本である。それは人間としての歩みにつながる。

「ことば」とは何か
指文字、手話はことばか? 正確にはそれは「ことば」を伝える、また扱う手段、ツールのことである。

小さい時から親から「ことば」を教えられる。この時、初めに「ことば」は単語であることが多い。
私がママよ。僕はパパだよ。君の名前は「カノン」だ。食べ物、動物、乗り物の名前などが教えられる。
成長とともに単語の数は増え、それに比較を表す形容詞や、動きを表す動詞の表現が追加されていく。
覚えたての「ことば」を使って文章を作り会話するようになる。

ある家庭、夜、部屋にはあかりがついている。母親が3歳、5歳の子供に本を読み、聞かせている。
この時、「本」は何を意味しているのか。
本には大きさがあり、色がついていて、表紙はかたい紙でできていて、中には文字が書いてある。
母親が読んでいる。物語だ。とても楽しい内容だ。
子供たちはその話を聞いているうちに寝込んでしまった。

ここでいう「本」とはこのすべてのイメージを含む情報のことである。
子供が持っている五感を通して入力されるすべてのことである。記録され思い出にもなる。

子供は成長するにつれ、本にもいろいろな本があることを知る。絵が描かれているもの、ひらがなで書かれたものから、漢字を含むものまでいろいろある。面白い本、面白くない本もあり、好きな本もでき、友達のように大切にする。人生に大きな影響を与える本に出合うこともある。
読んだことのある本は時と共に大きな数になっていく。
本に関する認識とイメージを含む情報はこのように変化していく。この膨大な情報量が一つの単語である本に対する認識である。これが本という「ことば」の意味だが、地上にある数えることさえできないほど存在する無数の本を、単に本として表現することができる。「ことば」の持つ意味は深淵である。

本と同様にそれぞれの「単語」に対して膨大な情報が蓄積されていく。それをあたかも一つの単語のように扱うことができる。これが「ことば」である。脳の中に蓄積される。日常生活など人との対話で深い情報は必要としない場合、表面的な表現で十分に意思の疎通ができる。必要に応じて蓄積された情報は引き出すことができる。

「ことば」とは何か?言葉をどのように定義することができるのか。
個人的には次のように定義できるのではないかと考える。

「ことば」は名詞(物などに与えられた名前)、形容詞(形容することば)、動詞(動きを表すことば)などに対する認識(五感を通して得られたイメージを含む情報)とその総称のことで、脳が管理し、蓄積し、運用し、活用するものである。文字、数字、単語、文章、絵、音読、歌、話、考え、音楽、指文字も手話なども「ことば」を構成する一部である。

「ことば」がどれほど人間にとって重要かについて気づいたことを以下にまとめてみた。

1. 学ぶ、学習する、情報を得るためのツール(道具)
本を読むのには「ことば」が必要
何かを学ぶために、学校の教科書、様々の本、インターネットなどを利用するが、
「ことば」が使われている。テレビでもラジオでも学習には「ことば」が介在する。

2. 意思の疎通、相手を知るため、理解するためのツール
人と会話ができるのは「ことば」のおかげだ。会話を楽しむことができる。
手紙、メールも「ことば」が必要だ。
テレビ、ラジオをでも「ことば」が使われる。それを見、聞く人が楽しむためだ。
その制作にはスタッフは「ことば」により意思の疎通をし、協力してプログラムを作りあげていく。

3. 考えるためのツール(道具)、プログラムを作るための「ことば」、
何か考えているとき、頭の中では「ことば」で考えている
計画を立てる時にも、頭の中で「ことば」が使用される
人の考えは「ことば」で作られる。
アイデアは「ことば」により考えること、そしてひらめきによって創られる。

4. 創造、想像のための「ことば」
人はことばにより日記を書いたり小説を書いたりする。想像したことを表現する。
映画の元になる小説はことばで書かれている。映像さえことばで表現する。イメージも
ことばの一部であるからだ。それ故、創造することもことばによる。
同じ小説であっても、それから想像することは一人ひとり違う。

5. 人を動かす力
過去において偉大な業績を残した人は言葉を巧みに使った。
言葉は大きな影響力を持っていて「ことば」が人々を動かした。かつて「ペンは剣よりも強し」という名言があった。「言論の力は武力よりも人々の心に訴える力が強い」という意味である。
「ことば」は文字を介して人に伝えられ、大きな影響力を持った。時代とともにラジオ、テレビ、パソコン、スマホなどと形を変えてはいるが、基本的にはすべては「ことば」が介在し、動かしている。その影響力は以前にまして大きくなっている。
インターネットを通じて世界に影響を及ぼすことができる。

6. 信頼の源、約束の源
約束は言葉によって、考えによって、作られる。「ことば」による認識がその源にある。
「ことば」を信頼できるかどうかは、その人の人格と関係する。

7. 人格を創る、人間性の源泉
生まれた後、親は「ことば」を通して子供を教育する。その際、人間性も伝えることになる。
親が持っている認識が「ことば」を通して子供に伝えられる。「ことば」に対する思い、感情も一緒に伝えられる。子供はまだ自分で物事を判断するようになる前に、知らずにその影響を受けている。こうして子供の人格に影響する。
「ことば」により、偉人の話などを聞いたり、読んだりした内容に深く感動すると、そのような人に自分もなりたいと願い、同じような人間、人格になろうとする。

8. 音声、抑揚、表情により感情を伝えることができる。
話ことばは意思の伝達ができるだけでなく、感情の怒りや喜びや悲しみを伝えることができる。
丁寧なことば、乱暴なことばも使うことができる。
人と会話している時、考えている時間が限られていることもあるためか、ことばを通して普段自分が考えていること、心にあるもの、人間性が現れやすい。会話の内容だけでなく、感情も、人間性もことばに表れる。

9. 笑いの源
 ことばは完全ではない。ことばは変化する。時代と共に人々の間に新しい文化が生まれ、新しい単語が生まれ、古い言葉がすたれていく。人々も時代とともに世代交代が進む。ことばはその時代を反映している。
ことばを完全なもの、完璧なものとして扱うことはできない。
しかし、ことばが不完全であるがゆえに笑いの源として働く。
ことばが不完全であることの意味は次のような例に見ることができる。
国語の授業で学んだある店の話。看板に「ないものはない」と書いてある。
数学の授業、「答えがないという答えがある」。
「悩みがないのがおれの悩みだ」
クレタ人が言った「クレタ人は皆うそつきだ」

10. 分子言語(人が使っている言葉ではないが、参考までに)
人間の細胞一つ一つに遺伝子が組み込まれている。遺伝子は分子言語でできている。受精卵の遺伝子はそのプログラムに従って、人間としてのそれぞれの臓器、血管、神経、骨、手も足も指もすべてが創られる。同じ細胞なのに目的に従って様々なものが創られ、そのように変化する。それ故、人間は「ことば」でできているとも言えるかもしれない。生命体はすべて遺伝子で動いているように思える。すべての生き物はその存在の源にことばがある。遺伝子はことばである。プログラムであり、ことばでできているのでそこにはパターンがある。これが理由で、人間にもことばができたのかもしれない。動物も、鳥も、虫も、植物もことばを使っている可能性がある。人間だけが高度に進んだことばを使っていると言えるのではないか。

11. 抑止力 (Part III 正義についての考察より)
ことばによる考える力は卑劣な手段も思いつかせるが、理性として行動の抑止力、争いがどのような結果に至るかを思い起こさせ、思いとどまらせる働きもしている。

12. ことばの目的は、現実を、あるがままの真実を、理解するためにある
(2022年2月追記)

以上、思いついたことをあげてみた。これ以外にもまだ重要な点があることと思う。


さて、ここでもう一度「ことば」とはなにか何かを考えてみる。

すでに述べたが、「ことば」は名詞(物などに与えられた名前)、形容詞(形容することば)、動詞(動きを表すことば)などに対する認識(五感を通してて得たイメージを含む情報)とその総称のことで、人間の脳が管理し、蓄積し、運用し、活用するものであると定義してみた。
そして文字、数字、単語、文章、音読、歌、話、考え、絵、映像、イメージ、音楽、指文字も手話なども「ことば」を構成する一部であると書いた。

では、すべては「ことば」でできていると言えるのではないか?
それは言えないと思う。しかし、次の例を考えてみてほしい。

机の上に消しゴムがある。この消しゴムは「ことば」か?
物質としてはことばとは言えないが、「消しゴム」は一つの単語で、名詞であるという意味ではことばの一部ではある。
その場にないとき、消しゴムを考え、それを伝えることは可能である。これはことばである。
物はなくても、考え、どんなもので、どういう目的で使うか、大きさも想像できる。実際過去の経験を思い出し、動きも表すことができる。
実物を除くと、消しゴムに対する認識はことばでできている。
脳の中の記憶はすべてイメージを含むことばでできているように思える。

さっき食べたナッツは「ことば」か?
同様に名詞であるという意味ではことばの一部である。
食べている時は、食べ物であるが、食べた後は目の前からなくなってしまう。
あとは「ことば」として頭に残る。
今日ナッツを食べたという時、ナッツはことばである。
色、形、味を覚えている。食べた量も。器に入っていたことも。一緒に飲んでいたものまでも。
実物を除くと、後はすべて頭の中にイメージを含むことばとして記録されている。

現実を把握するのは脳である。脳が五感を通して現実を認識している。脳はその認識をことばとして管理し、蓄積し、運用し、活用していると理解できる。

物が存在していると感じるのは現在のみである。
なぜなら、生きていてそう感じるのは、今生きている自分が存在しているからである。
それは現在のみのことである。
脳が働かなくなると、認識することはできない。脳死は人間の死を意味する。
人が死ぬと今まで蓄積したすべての情報がなくなる。
生きているゆえに、五感を通して脳が現在目の前にある物質を意識することができる。
物質に限らず、見るもの、味わうもの、触れるものなど五感を通して入力されるすべてのことである。

学習とは脳が現在の意識を通して物質などをことばの認識に置き換える、また認識を深める作業のことであると言えそうだ。

認識がことばに置き換えられる前に、脳はその置き換える作業のために物質などをそのまま物質として認識する。認識が一度ことばに置き換えられると、脳は物をことばにより認識するようになる。

こう考えてみると、現在(実物)をことばに認識するわずかの時間を除けば、たいていのものはことばでできていると言えるのかもしれない。

世の中にはこれから発見されるものがある。それらの物、物質と言えるかどうかもわからないが、まだ名前がない。未発見のものは「ことば」になっていない。これが「ことば」がすべてではない理由と思うが、他にも理由はあるかもしれない。

友人が指摘してくれた。「わからないもの、これから発見されるもの、そのすべてを「未知なるもの」としてことばで表現することができる。それ故、すべてはことばでできているということも言える可能性がある」と。・ ・ ・ なるほど、そうかもしれない。


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2022年4月
 ・1 ことばは何のためにあるのか  単語の定義、考えるとは何か

 ・2
 ヘレン・ケラーの自伝 (THE STORY OF MY LIFE) から、こと ばが持つ意味
     水とマグ(カップ)に隠された真実について
     ことばはなぜ重要なのか?


ことばは何のためにあるのか  単語の定義、考えるとは何か

シリーズ1を書いた頃、ことばを人間の「情報を取り扱うシステム」と考えていた。

ことばは、学習する、考える、意思の疎通をする等、およそ10の働きがあることをあげたが、それに加えて、ことばの目的は「現実を、あるがままの真実を、理解するためにある」と考えるようになった。
これはことばの定義とは思わないが、ことばを理解する上で重要な助けになる。

音楽はことばか? と質問してみる。
違うように思える。言語がことばであれば、違うと感じる。音楽はことばではない。

電波や光はどうか?
電波も光も、ことばには思えない。

命はどうか?
命はことばとは思えない。

色はことばか? 水はことばか? 空気は?  物質、元素、原子はどうか?

言語をことばと考えると、これらはことばとは思えない。

では、ことばが「情報を伝えるものである」と考える場合はどうか?

音楽は情報を伝えている。
電波も光も情報を伝え、運んでいる。
水も、空気も、周りにある物も物質も情報を伝えている。

命はどうか? 命は遺伝子から作られる。遺伝子はプログラムであり、情報を意味する。生命体の細胞は情報の交信により自分という生命体を生かし続けている。故に、命も情報を伝えるものである。

こう考えてみると、あらゆるものが情報を伝えていることがわかる。
ことばを情報を伝えるものと考えるだけで、全てがことばの媒体となることがわかる。

もしことばが言語であると考えていたら、情報を得ることが難しくなり、自分から学ぶ範囲、考える範囲が狭くなる。つまり、人間の考える能力が阻害され、十分に発揮できなくなる可能性がある。

大昔から情報は溢れるほどあったが、人はそれを情報として捉えていなかっただけとも言えそうだ。

問題を解決するヒントは身近にあっても気づかないだけかもしれない。
ことばは情報を伝えていると考えるだけで、周りの世界が変わって見えてくるようにも思える。

シリーズ1に「ことば」は名詞(物などに与えられた名前)、形容詞(形容することば)、動詞(動きを表すことば)などに対する認識(五感を通してて得たイメージを含む情報)とその総称のことで、人間の脳が管理し、蓄積し、運用し、活用するものであると定義してみた。
そして文字、数字、単語、文章、音読、歌、話、考え、絵、映像、イメージ、音楽、指文字も手話なども「ことば」を構成する一部であると書いた。

その頃はことばを人間の使うことばと考えていた。
今は、ことばを人間のことばに限定せず、ことばは生命、素粒子、宇宙など全てをその媒体としているのではないかと考えるようになった。


人間の持つ五感は情報の源である。五感は人間の脳が存在する世界を知るための入力器官である。

振り返ってみよう。一つの単語、ミカンということばは、どうやって作られるのか 又は、認識するようになるのだろうか?

一つの単語を作り、内容を決めるためには、先ず五感による入力により、その物の全体像を知ることが必要である。その入力とは基本的に人間の持つ五感のことである。

五感それぞれは大きく違う機能であるが、人間にとって世界を知るための情報(刺激)を取り入れる源である。コンピューターの入力装置に相当する。

五感による情報とは、ミカンを例に考えると、

視覚、目による色、形、大きさ等を知ることで、
   黄色い、オレンジ色、球体、丸い、子供の手のひらサイズと認識する。
聴覚、耳による音、ミカンそのものに音は関係してはいないように思える。
   ミカンに関連した話、歌、歌手、音楽、虫の声、鳥のさえずりなどがあるかもしれない。
臭覚、鼻による臭い、
   ミカンの木、ミカンの葉、花、実の匂い、
触覚、手ざわり、肌触り
   ミカンはツルツルしている、ザラザラしている等
味覚、口により味を知ること、等である。
   甘くすっぱい、美味しい、

五感のそれぞれは独立した器官であるが、脳が入力された情報を基に一つの単語の全体像として作り、まとめている。その単語に関する新たな情報は、すでに作られているその単語の情報に加えられていく。



考えとは何か?

前回、五感それぞれは独立した器官であるが、実体のある物などの場合、脳が入力された情報を基に一つの単語の全体像として作り、まとめている、と書いた。 

ところが、人間の考えは、五感により実体から入力された情報から作られる単語ではない。誰でも人間には考えがあることを知っている。しかし、考えに実体はない
考えに実体が無いにも関わらず、人間には実体があるかのように思い込む傾向がある。

考えは何から作られているのだろうか?
ネット上で調べると、「考えること。また、考えて得た結論・判断・予測・決意など」とあるが、考えとは何かを具体的に示すものは無いようだ。
そこで、考えとは何かを考えてみた

幼児は、ことば(単語)を学ぶと、それを組み合わせて文章を作るようになる。
親を含め周りにいる人が話しかけ、主語になる私、僕から、動詞の食べる、歩く等の単語を覚え、真似するようになるからであるように思える。
それは幼いとは言え、子供の持つ意志を表す。つまり考えである。

文章は単語から作られる。文章は考えを作っている。たくさんの文章はたくさんの考えを作っている。その文章の考えとは、文章の内容のことである。そこから次の様に言うことができるように思う。

考えるとは、頭の中で文章を作ることである。
考えは、その文章の内容のことである。
文章を書くとは、考えを文字を使った文章で表現することである。

会話で意思の疎通をするとは、頭の中で文を作り、その考えを互いに伝え合うことである。


それぞれの文章に考えが示されていても、関連性がなければ広がりを持てない。
関連性があると、そこにつながりがあり、より広がりを持った考えに発展していく。
その文章に可能性や重要性があることに気付くのは、その文章の内容に人間にとって意味があると思える場合である。

文章を書くのが得意で小説を書く人もいる。そこに書かれている内容が考えである。
しかし、文章を書くのが得意でも、考えが十分でない内容の乏しいものもある。
反対に文章を書くのが苦手でも、新たな考えを文章で表すことはできる。

このように考えると、考えることを脳の働きとして、次のように定義できるように思える。
考えるとは文章を作ることであり、考えとはその内容である。

シリーズ1のことばの10の働きの1つとして、その5番目に、ことばには人々を動かす力がある、と書いた。ことばは考えを伝えているからである。


考えに実体がないと書いたが、その理由は、考えは単語による文章の内容のことであるからと考える。
単語は実体そのものではなく、その実体に関する情報とイメージをことばの媒体の一つ(単語)に置き換えたものである。

鳥や動物の中にはことばで情報交換をしているものもある。勿論ことばと言っても、鳴き声程度のことである。では、人間とどこに大きな違いがあるのだろうか?

長い間、鳥や動物と違いがあることはわかっていても、それが具体的に何かに気付かなかったように思う。人間は同じ哺乳類である他の動物は頭が悪い程度にしか思っていなかった。
しかし、動物は頭が悪いのではなく、初めから持っている機能が違う。
そう考える方が適切に思える。つまり、人間と同じだと考えることに誤りがある。


その理由を書いた。

人間は単語を作り、文章を作ることで、考えることができることである。
考えるとは文章を作ることであり、考えとはその内容である。

鳥や動物には脳があり、記憶はできても、人間とは違う存在である。
大きな違いは、考えることができないことだ。

その意味はことばとしての単語を作れないし、認識できない。単語を覚えて文章を作ることができない。文章を作れないということは、考えることはできないという意味である。

考えは、それだけで終わるのだろうか?
これから考えていく中で気付くことがあるように思える。

例えば、可能性として思ったことがある。
考えることができないということは、人間以外は、起きた出来事を記憶に残すことができないのではないか。つまり過去の記憶はない? もちろん無いと言っても、短い記憶はあるかもしれない。

すると、なぜことば(文章)でないと記憶に残らないのか? という質問が生じる。

その理由は、考えることができないなら、記憶を文章として残せないからと考えられる。
人間は文章で記憶していることになるのか? それは今ははっきりしない。
ただし、こう考えることはできるように思う。

単語にはイメージや映像が含まれる。単語を認識しないとは、そのイメージを持つことができないことを意味するように思える。

鳥や動物が人を認識しないという意味ではないが、文章による思考ではない。

見た目には人間と同じように、目、鼻、口、耳、手足もあり、五感があるように見える。種によって持っている機能に大きな違いもある。遥かに遠くまで見える目、鋭く臭いをかぎ分ける鼻、超音波を認識する等、人間にはないものもある。

しかし、共通して言えることには、単語を作れず、理解できず、文章を作れないこと、つまり、考えることができないことである。ことばがなければ時の流れを表現することはできない。

過去とは現在の記録のことと考えるが、記録であるためには時の流れを知ることが必要に思える。
単語として、時間ということばは物ではなく考えであるという点で、その意味を知ることはさらに難しい。
それは記憶に残らないことを意味するように思える。



考えるとは頭で文章を作ることである」と書いた。その通りであると思うが、ここに新たな質問が生じた。

人間はなぜ単語をつなぎ合わせて文章を作ることができるのか、という点である。

考えはジグソーパズルのようなものかと考えてみた。
一つ一つのピースでは何ができるかはわからないが、全体が出来上がると絵や写真になったりする。
全体を一つの考えとすると、考えのパーツは単語に相当する。

同じようなものなのか?

間違いに気付いた。
ことばとしての単語はパズルの1ピースではないことだ。単語はそれだけで全体でもある。

単語は部品のように思えるが、部品とは違う。単語はそれだけで一つの考えである。
単語の元は実体であり、実体は部品のように1ピースのように考えることができる。しかし、単語は実体ではなく、実体の代わりに使われる表現、イメージでもある。

七歳になったヘレン・ケラーは考えることができなかった。(詳しくはシリーズ1を参照)
サリバン先生より人形を渡され、手に指文字で人形という単語を書いても、初めそれが何を意味するかを理解できなかった。繰り返しているうちに、それが自分の抱いているものの名前であることを悟り、この調子で努力しているうち、数週間目にはすべてのものに名のあることを理解するようになった。

特定の物という実体に対する、それを表すことば(単語)があることを理解したのである。ここに考えることができる理由があると考える。

全ての物に対応することば(単語)がある。
ヘレン・ケラーはこのことに気付いてから、たくさんの単語を覚えた。名詞や動詞などの単語を覚えることで文章を作ることができるようになる。子供は大人が話すのを真似している内に話すようになる。
人間が知能を持っているとはこの能力を言うのではないか。

単語として認識できることが、文章を作るようになる理由であると考える。
単語として物を認識できることは、考える基礎、基本が作られることを意味する。
基本となる1ピースができれば、積み木の材料がたくさん作れるようになり、重ねて組み立てることができる。材料がなければ、組み立てることさえできない。
ここに考えることができるようになる理由があるのではないか。

ヘレン・ケラーが単語を覚えたとき、文章を作れるようになった。考えることができるようになった、と考える。


「テーブルの上のお皿にリンゴとナイフが置いてある。リンゴを左手で押さえ、右手でナイフを取り、半分に切った。」
想像していただけただろうか?

ここに出てきたリンゴは実体ではない。テーブルもお皿もナイフも手も想像である。実体でないから頭の中でことばで想像することができる。文章は考えである。
この中に詳細は書いていない。リンゴは赤いのか青いのか、大きいのか、テーブルはどんな形、どんな部屋に置かれているのか、ナイフもお皿もどのようにでも想像できる。考える人によって大きく違うものになる。
リンゴである実体をことば(単語)として理解した時から、単語は実体ではなく、それに代わることば(単語)であり、考えになっている。

この様に、文章は考えであるが、その元になる単語も考えである。つまり、文章は単語をつなぎ合わせた考えでもあるが、つなぎ合わせなくても、単語一つでも考えなのである

物を実体から単語に置き換えることが始まる時から、単語をつなぎ合わせて文章にすることが可能になる。文章を作ること自体は、人の話すのを真似することを繰り返すことで、簡単にできるようになるように思える。



七歳になったヘレン・ケラーは考えることができなかった。
理由は物に対応する単語があることを知らず、文章を作れなかったからである、と考えた。
しかし、考えるとは文章を作ることだけなのか。

前回、単語は一つの考えである、と書いた。単語を作ることには基本的に人間の持つ五感全てが関係する。コンピューターの入力装置に相当する五感により人間は自分の外の世界を認識している。単語とは、実体を人間の五感による情報に置き換えたもの、物の名前などのことである。

単語が一つの考えを意味することから、考えを作り出す五感の働きも、考えの元または一部と考えられないか? 例えば、見ることは考えではないが、考えを構成する一部ではある。しかし、脳に対する刺激は考えとは言えない。考えは受け身、受動的ではなく、主体的、能動的である。

「秋になるとどこからかキンモクセイの花の甘い香りが漂う。」
単語を知らなくても、文章を作れなくても、こうした状況はある。知らなければそれが何かはわからない。それは考えとは言えない。単語や文章ではない。が、人間の臭覚が脳に考えを作り出させる要素ではある。

一般的に大人には二歳になる前の頃の記憶はほとんど残っていない。覚えていてもおぼろげである。
ヘレン・ケラーは7歳の時、ことば(単語)を知らず、文章を作れなかったのであるから、考えることはできなかった、と書いた。しかし、本当に考えることはできなかったのか。考えるとは、ことば(単語や文章)に限定されるのか? 考えるには他の意味はないのか?

ヘレン・ケラー自身は幼少時の記憶を覚えていたのだろうか。
彼女は自分の幼少の頃の記録を残していた。 調べてみた。

記録を調べて自分の情報に間違いがあることにすぐに気付いた。ヘレンが病気になった一才という時期を12ヵ月のように考えていたが、19ヵ月の時であった。
それは人間の子が、ことば(単語)を覚え、話し始める時期である。

病気の後、ヘレンは視覚と聴覚を失い、目は見えず、音も聞こえなくなった。光と音の無い世界である。しかし、味覚、触覚、臭覚は健全であった。

ヘレンの場合、生後19ヵ月の間に見聞きした記憶は全て無くなっていたわけではなかった。
単語としては認識していなくても、振り返ったときに映像のように美しい自然界の色とりどり花、緑の草や木々の記憶はあった。

それはことばによる考えではないが、ことばとしての単語がまだ形成されていない時に五感による記憶が作られていたことを示している。

病気の後でも嗅覚、味覚、触覚は健全であったことを考えると、実体の匂い、感触、食べ物の味覚を感じることはできた。母親の優しさも感じることはできたようだ。

ことばを知らないのだから、ことばで考えることはできない。考えるとは単語で文章を作ることである。
ヘレン・ケラーは七歳になるまでに物に名前があることを知らなかった。文章で考えることはできない。
にもかかわらず自伝によると、ヘレンは考えることはできたように思える。それはことばではないが、ことばが持つ一面を持っていたことを意味するように思える。
ヘレンは自分で合図を作り、遊び仲間である少し年上の黒人の女の子マーサ・ワシントンに送ったことを書いている。

ことばを知らないのに、どうやって考えたのだろうか?



ヘレンにはことば(単語)がないにもかかわらず自伝によると、ヘレンは考えることはできたように思える。それはことば(単語)ではないが、ことばが持つ一面を持っていた。

自分で考えた合図、シグナルを作り、同じ年頃の黒人の女の子に送ったことを書いている。

それは何か? 何を、どうやって考えたのか?


自伝の記録によると、病気の後ヘレンは母親の膝に座り、ドレスにぶら下がるようにして一緒にいたようだ。手で何にでも触ろうとし、動きを知ろうとした。

しばらくして交信する必要に気付き、独自のサインを作り始めた。
首を横に振るのはイイエ、縦に振るのはハイ、引っ張る動作は来て、押すのは行っての意味だった。周りの雰囲気には敏感で何かが起きていることを知ろうとした。

人は自分のようにサインを使わない。人が口を動かして何かしていることも知っていた。自分も真似したができなかった。

これらはヘレンがサリバン先生が来る前に覚えていたこととして書いている。サリバン先生が着任したのは、ヘレンが7才になる3ヵ月前であった。


ヘレンは七歳になった頃、覚えていたのは水を意味するウォーウォーだけであったという。しかし、生後19ヵ月の間に実際にはたくさんの単語、一般的なことばであるパパ、ママ、食べ物、飲み物、食器、植物の花や草木、動物の馬や牛、家などを教えられていたと、考えるべきだろう。

一般的にそれを繰り返すことで物などに対することば(単語)の認識が作られる。ヘレンの場合も、ことばを覚え活用する準備は十分にできていた。

しかし、ことばを覚え始めた頃にそれが病気で中断され、光と音のない世界で五年間過ごすことになった。覚え始めたことばのほとんどは忘れられ、思い出すこともなかった。ヘレン自身ウォーウォー以外のことばの記憶はないと思っていた。

人間はことば(単語)がないと考えることはできないのか?

考えるとは文章を作ることであると書いた。ことばがなければ考えることはできない。
幼少の頃のことばは大人と違い未熟な部分は多い。これから単語を覚え、文章を作ることを覚え、成長する段階にある。

物をことば(単語)に変えなくても、その実体の記憶を利用することは可能に思える。
ことば(単語)がないなら、基本的にその人の持つ考え、内容である情報を人に伝えることはできない。意志の伝達は不可能に近い。

記憶はことばではなくても情報である。見えなくて色も形も大きさもわからなくても、花を触った感触は覚えられる、それと共に匂いも覚えられる。実体の存在は記憶に残せる。
自分だけの記憶、情報を持つことはできるように思える。自分だけのことば(単語)に相当するサインを作ることもできる。

それは人間がことばではないと思っても、実は自分だけのことば、他の人には通じない言語を作っていることと同じであるように思える。
つまり、共通のことば(単語)でなくても、自分のことばは作れる。その独特なことばであっても考えることはできると言えるように思える。

ヘレンは考えていた。それはことばではないように思えたが、ことばの一面を持っていた、または未熟ではあっても独特なことばを持っていたと表現できるように思える。


ヘレンの幼い頃の話として出てくるが、幼児期のヘレンは人がやっているのを見て真似するのが大好きだった。六ヶ月の頃、ハウディ(やあ! )と声をかけ、ティーティーティー(お茶、お茶、お茶)とはっきり言えたそうだ。

バラの花、広い野原、明るい空、鳥の鳴き声、母親もことばとして知っていたと考えられる。それが突然失われ、光と音のない世界になった。それから五年間ことばは教えられなかった。

当人も周りの人も、ヘレンにはことばがないと思っていた。
耳が聞こえないから、ことばを覚えて、話すようにはならない。
しかし、初期段階のことばはあったと考えることはできる。


イタズラを思い付くのはことばで考える場合も、そうでない場合もあるかもしれない。発想、アイデア、ひらめきはただことばで考えるから作られるとは思えないが、脳の働きではある。

ヘレンはカギの使い方を自分で気付き、母親を食料貯蔵室に閉じ込めたことがあった。
サリバン先生が着任したとき、二階に用意された部屋のドアを閉め、鍵をかけ、部屋に閉じ込めた。そしてカギをじゅうたんの下に隠した。ヘレンの父親がハシゴを使って二階の窓から助け出したことを書いている。

ヘレンはカギ、じゅうたん、下、ハシゴ、二階、窓という単語を知らない。ことばを覚えた後に、文章で表現できるようになった時に描写した昔の記憶である。
単語を知らなくても実体の記憶はあったことを示している

自分で作った独特と思えるサインを使っていたことも書いている。

ヘレンの場合、ことばに置き換えなくても実体はあり、嗅覚、味覚、触覚それに部分的映像もあった。それらの情報は単語、文章を形成するために必要なものである。
人が使う単語としては作れなかったが、ヘレンは少しであっても実体をそのまま記憶し、それを独自のサインとして使っていた。

自分でサインを作った。それは考えることである。

草、木、花をことばで覚えていたのではない。ドア、二階という場所という単語も知らない。しかし、実体として知っていたと考えられる。

ことばが無くても実体を覚えていることはできる。物を触った感触、食べ物の美味しさはわかる。実体をイメージにより直感的に考えることはできたと言える。

ヘレンはサリバン先生から指文字により物に名前があることを学んだ。

指文字で何度となく書かれたサインが、人形という手元にある物の名前であることを理解した時から、単語の意味を悟り、数週間後には、全ての物に名前があることを知った。教育を始めて3か月目には300の単語を覚えた。

あたかも初めてことばを覚えるようになったように聞こえるが、七歳になるまでに視覚と聴覚は失われたとは言え、五感による情報はすでに蓄積され続けていたと考えられる。

実体に関する情報は誕生から二歳くらいまでの間、五感により作られていく。二歳くらいからことばを覚え話し始めるが、それまでに実体に関する情報はかなり蓄積されていると考えられる。

ヘレン・ケラーの場合、19ヵ月で視力と聴覚は中断するが、それまでの情報は大人になってもおぼろげながらでも残っていた。他の臭覚、触覚、味覚は健全であったと考えると、七歳になるまでに単語を作る元になる情報の収集は行われていた。花の匂いなどは中断されることはなかった。

約2ヵ月で300の単語を覚えられたのは、それまでに得ていた情報の蓄積があったからだとも考えられる。

例えば、リンゴという単語を覚える時には五感による入力が必要であるが、ヘレンは視覚と聴覚はなくても物としての実体から味覚による味も触覚による情報も得ていた。

指文字を覚えてから、その単語を理解することは、すでに知っている情報を組み合わせることであった。

ことばを覚えるということには何度も繰り返すという過程が関係する。数えたわけではないが、例えば「私はママよ」という表現は2歳になるまでに1000回近く聞いているように思う。身近な単語は同様に何度も繰り返し聞いている。

人間は見ても、初めて見ただけでは何かわからない。見た物が何かを知る、理解するには、何度も見て、他の五感によっても実体を認識することが必要である。そのために時が経過するように思える。つまり時間がかかる。時間があるように思えるようになる理由かもしれない。

ヘレンが単語を覚えることが早いように思えたのは、そうした背景があったからとも言えるだろう。

単語の意味を理解し、それを並べることで文章を作れるようになった時、ヘレンの人生は一変する。それは人間が持つ考える力を習得したからである。
目は見えるようにはならず、音も聞こえるようにはならなかったが、考えることはできるようになった。これが奇跡をもたらした。

動物は単語を作ることはできない。情報収集することもできない。
単語の意味を理解することもできない。

ヘレン・ケラーが七歳になる前でも考えることが多少であれできたことは、人間の脳がことばを覚えさせる準備をていたことを意味するように思える。人間の持つ能力が活用されていた。

人間の子が猿や狼に育てられた事例の報告がある。
人間は動物に育てられると動物の習性を身に付けてしまう。
人間の社会で育てられないと、人間になることはできなくなる。ことばを覚えないと考えることはできないからと思われる
人間の脳はあっても、人間として育てられ、教育されなければ、知的生命体である人間にはなれないことを意味するように思える。



前回、ヘレン・ケラーが文章で表現できるようになり、七歳になる前の出来事を書いた。
単語を知る前の出来事であるのに、カギ、じゅうたん、二階、窓といった単語を使っていた。単語を知らなくても実体の記憶はあったことを示している、と説明した。

これを読んだ人はその時の情景を浮かべていたと思うが、大切な点を指摘していなかったことに気付いた。

それは同じ実体ではあっても、ヘレン・ケラーの実体には視覚と聴覚による部分は無い。つまりヘレン・ケラーは視覚による情景を思い出したのではなく、主に触ることによる実体を表現していた。
同じ描写に思えても、ヘレンの文章による考えは、視覚によるものではなく、全く違う認識で作られていることに気付く必要があるように思える。

視覚と聴覚に障害があっても健常者と同じように考えること、理解することができるように思える。

ただし、文章による描写、考えはことばによる想像で作られている。映画のように見せられるなら視覚的には同じように理解できても、文章の場合、そこから作られる考えは、正確に表現すれば、同じとは言えないことを知っておく必要がある。



水とマグ(カップ)に隠された真実について

ヘレン・ケラーの自伝 (THE STORY OF MY LIFE) から
以下にその第4章の訳文を書いた。

ことばはなぜ重要なのか?

「私が住んでいた音と光のない世界には強い感傷や優しさはなかった。」
七歳までヘレン・ケラーが持っていた感情についての洞察である。
ヘレンの一生を通して音と光はなかった。それは変わらなかった。

にもかかわらず、ヘレンは思いやりや優しさを持つようになった。
自分のしたことを反省し、涙を流すこともあった。
それまでにない大きな変化である。

何が変えたのか?


ヘレン・ケラーの自伝 (THE STORY OF MY LIFE) 第4章から

サリバン先生は着任した次の朝、私を部屋に呼び人形をくれた。パーキンス施設の目の見えない子供たちが送ってくれたものでローラビッジマンがドレスを着せたものであると、後になって知った。

しばらくそれと遊んでいると、サリバン先生が私の手にd o l l (人形)とゆっくりと綴りを書いた。私はすぐにこの指遊びに興味を持ち、真似しようとした。
正確に綴れるようになると、子供の喜びと誇りから顔を赤くしてはしゃいだ。階段を走って母親の元へ下りて行き、私の手をあげてd o l l (人形)と綴った。

単語を書いていることも、単語が存在していることさえ知らなかった。
ただ単に猿のまねごとのように指で真似していた。

その日以降、考えることもなくたくさんの単語を綴ることを学んだ。ピン、帽子、コップ、それに座る、立つ、歩く等の動詞が含まれていた。
数週間後、全ての物にそれぞれ名前があることに気付いたが、その間サリバン先生はずっと一緒にいてくれた。

ある日、新しい人形と遊んでいるとサリバン先生が私の(昔から持っていた)大きなボロ人形を私の膝に置いてd o l l と綴った、私に両方ともd o l lであることを理解させようとした。

その日早く、マグ(カップ)と水のことで取っ組み合い(争い)をしていた。サリバン先生はマグはマグ、水は水であることを印象づけようとしていた。

しかし、私は二つが同じものだと言い張った。先生は失望してその時はその課題を止めてしまったが、あの最初の機会にそれを改めようとしていた。

私は彼女の度重なる試みに嫌気をおこして、新しい人形を掴まえると床に投げつけた。足元で人形が壊れてバラバラになったこと感じ、鋭く喜んだ。かんしゃくをおこした後に悲しみも後悔もなかった。

その人形を愛してはいなかった。私が住んでいた音と光のない世界には強い感傷や優しさはなかった。

私は先生が壊れた人形を暖炉の前の床の一方に掃除する(片付ける)のを感じた。そしてイライラの原因が除かれ、私は大いに満足した。

彼女は私の帽子を持ってきた。暖かい光の中を出かけるのだと知った。
この考えは、もしことばのない知覚を考えと呼べるなら、私を喜びで跳ね舞わせるのだった。

井戸の家へ、道を下って歩いていった。ハニーサックルでおおわれ、その香りが魅了していた。誰かが水を汲んでいた。先生が私の手をその注ぎ口の下に置いた。

片手に冷たい水が溢れ流れている。先生はもう一方の手に最初はゆっくり次に速く、水という単語を書いた。私はじっと立っていた。私の全てが彼女の手の動きに集中していた。

突然私は霧に包まれて忘れていた何かの意識(記憶)を感じた。その時、ことばの不思議な意味が明らかになった。水(という単語)が私の手に溢れ流れる冷たいものであることを意味すると知ったのである。

その生きていることば(単語)が私そのもの(人間の本質)を呼び起こし、自身に光、希望、喜び、自由をもたらした。

障害はまだあった。それは真実である。しかし、障壁は時間がたてば除かれるだろう。私は学びたいという願いを持って井戸の家を後にした。

全ての物に名前がある。それぞれの名前は新しい考えを産み出してくれる。家に帰ったとき、触るすべてのものが命で震えるように思えた。

私に与えられた新しい視界のような不思議なものにより物事を見るようになったからである。

家のドアを入ると私が壊した人形のことを思い出した。

暖炉のある床のところへ行き、壊れた人形を拾いあげた。
つなぎあわせようとしたが無駄であった。その時、目が涙で溢れた。私が何をしたのかに気付いた。初めて後悔と悲しみを感じた。

その日、本当にたくさんの新しいことばを学んだ。



何がヘレンを変えたのか?

ことばにより考えることができるようになったこと。
考えることの意味とその素晴らしさを理解したことによるのではないか、と考える。

人間が産まれてから、生きるために脳の要求としてある本能、そこから作られるように思える好き嫌いというストレートな感情があるが、基本的にそこに考えはない。

ことばを覚えることにより考えるようになると、 
思いやること、自分の行動を見て反省することができるようになる。

考えることが関係し、新たに作られる感情のように思えるが、考えることがその背景にある。

例えば、悲しいのは考えることができ、何が起きたか、なぜかを知ることができるようになるからではないか。悲しさは人間が知的生命体であること、考えることができる証しに思えてくる。

人間が知的生命体である理由はことばが関係している。ことばによる考えることが人類の進歩してきた理由に思える。

しかし、その重要性に気付き認識しているのは、ほんのわずかな人たちだけなのだろうか?



ヘレン・ケラーは、「 この考えは、もしことばのない知覚を考えと呼べるなら、私を喜びで跳ね舞わせるのだった。」 と書いていた。

ヘレン・ケラー自身まだはっきりとした自覚はなかったようだが、考えはことば(単語や文章など)でできているのかもしれないという思いはあったことを示している。

このサイトでは、「考えるとは、頭の中で文章を作ることであり、考えはその文章の内容のことである。」 と説明している。

当初、七歳のヘレン・ケラーに水以外にことば(単語)はなかったので、考えることはできないと考えた。ところがその行動から、ヘレンは考えることができたのではないかと思えるようになった。

確かに一般的に使われることば(単語)はなかった。しかし、実体を視覚と聴覚の入力を伴わないイメージで、ことばの代わりとして作っていた。単語を知らなくても実体の記憶はあったことを示している。それは一種のことばである。

ヘレンは、ことば(単語)のない知覚は考えではないのかもしれないと考えていたが、実際には自分だけの独特なシンボル、単語の代用を作っていた。それは単語であり、それで考えることができた。

その理由として、ヘレンは単語を知り文章を書くようになると、七歳以前に実体から作った視覚と聴覚の入力を伴わないイメージを一般の単語に置き換え、一般の人でもわかる文章にして表現した。
ヘレン・ケラーの自伝である。


その文章の中にヘレン自身の視覚と聴覚による情報はない。読むと、それに気付かずに普通の人によって書かれた文章のように読めてしまう。人間の持つ知力の素晴らしさを示すものであると同時に人間の弱さでもある。


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2021年 シリーズ1を振り返る

・1 とばは何のためにあるのか?

すべての生命体は、それぞれの生命体としての制限はあるが、自由である。
ただし、知能が十分に発達していないと、考えることはできない。
自由が何かを知ることはできない。
地球上では人間だけが、高度な知能とことばを持ち、自由とは何かを考えることができる。


地球上の人間以外の世界は、自然がそのままの世界で、人間以外の生命体には高度に発達したことばはなく、したがって人間のような思考も感情もない。

人間の世界は自然がそのまま在る世界ではない。部分的に混在していても、人間の世界は人間が作り上げた情報の世界である。 


人間の世界はことばで作られてきた。人の考えはことば(単語など)でできている。人間同士の意思の疎通もことばで行ってきた。創作はことばによる。

ことばにより考えることができるので、現状を把握し、間違いを見つけ、修正し、改善し、人類の文明を築き上げてきた。
 

文明が発達してきたのは人間がことばを活用し、考え、意思を伝え、協力して働いてきたからである。ことばがあることから、人間という存在の意味を考え、生きる理由、目的を考えてきた。
ことばは、人間が知的生命体である理由であり、存在の意味を知ることであり、人間が進歩する背景である


人間の社会は、高度な知能を持ち、ことばで情報交換を行っている特別な世界である。

自然界に存在する生命体全ては、人間のような高度な知能とことばを持たないため、その種に限られた情報手段しかなく、考える能力もほとんどない。

ただし、生命体の存在はことばによる。生命体は遺伝子ということばでできたプログラムにより造られ、そのそれぞれの生命体の中でそれぞれの細胞が情報交換を行い、生きている。人間の体も、体の細胞がそれぞれ情報交換を行い生きているという基本的な部分は、他の生命体と違うわけではない。


人間は完璧な存在ではなく、間違いを犯し、失敗する存在であるが、そこに進歩できる理由があり、自由がある。

ことばは、人間を動かしている考えの元である。思考を作り上げている素材のことである。
ことばの媒体である文章や考えを構成しているのは、単語(名詞、動詞、形容詞、数字、文字など)であり、人間が作りあげてきたものである。その単語の意味に誤りがあれば、考えにも、人間の行動にも悪い影響を与える。  


最近ではキーボードと共にカメラやマイクがコンピューターの入力装置として使われることも多くなり、インターネットを使い映画やニュースを見たりもする。情報を保存できる容量を含め、情報の世界は数十年前には想像できない程に進歩している。

これは、人類がことばの情報システムを応用していることとは異なり、すでに人間の能力を超えて、拡大しているように見える。 

つい最近まで、情報は人間の脳の中に集積され保管され、写真、文書として書籍などに残されてきたが、現在、膨大な情報はインターネット上などに、外部で蓄積、保管、保存され利用されるようになっている。


新たなことば、人間の能力をはるかに超えた情報のシステムが作られ、拡大しているかのようである。

新たなことばとは何を意味するのか。

現在、人口知能の発展により、膨大な情報処理が行われている。人間の知能に代わり、人工知能に移行し始めている。センサー技術の進歩は人間の五感より正確で安定的な機器を誕生させている。人口知能、センサー技術等には人間のような限界はないかもしれない。
それは、人間のことばが人類の文明を作りあげてきたように、新たな言葉も新しい文明、世界を作り始めているという意味になるように思える。人間の世界を離れて、新しい社会が生まれようとしているかのようである。



・2 言語はことばでも、ことばは言語ではない理由

ことばを学び、ことばを話す、という表現がある。
小さい時からことばを学び、ことばを話すようになる。
日本では、ことば、それは日本語である。全世界で人は同じように母国語である、ことばを学び、ことばを話すようになる。ことばは違っても、その国のことばである。であるから、ことばは言語である。
その通りであるように思える。ことばは言語であると。
これが理由で、長い間、ことばは言語であると思われてきた。

数千年という長い間、ことばに対する理解が難しかった理由のように思う。

それは「猿は動物である」と言っていることと同じように、その通りであり、間違いではないからだ。
ただし、猿は動物でも、「動物は猿か?」と考えれば、やはり動物はさるである、と思う人もいるかもしれないが、そうではない。

ここで (=) イコール(等号)の性質上、重要なことがある。
それはイコールが成り立つためには、左右を反対にしても成り立たなければならないことである。
猿は動物である、反対にして動物は猿である が成り立たなければならない。

すると、動物は猿だけではなくライオンやゾウなどたくさんの種類があるので、猿=動物である は成り立っていないことがわかる。猿は動物であっても、猿=動物 は間違いである。イコールは使えない。猿は動物であると言えても、動物は猿である、とは言えないからで、等号は使えない。

同様に、ことばは言語に思えても、ことば=言語ではない。言語はことばの一部に過ぎないからである。

言語はことばであると同じように、次のような表現も可能になる。
文字はことばである。点字もことばである。
単語はことばである。文章はことばである。
話はことばである。考えはことばである。
手話はことばである。指文字もことばである。

なぜこう表現できるかというと、言語がそうであるように、これらはことばの一部であるからだ。イコール(=)ではない。等号は使えない。部分的にそう言えるだけである。
このサイトでは、この関係をことばの媒体(ことばを構成する要素)と表現している。

四年前、シリーズ1の中でことばについて次の様に書いた。

「ことば」は名詞(物などに与えられた名前)、形容詞(形容することば)、動詞(動きを表すことば)などに対する認識(五感を通してて得たイメージを含む情報)とその総称のことで、人間の脳が管理し、蓄積し、運用し、活用するものであると定義してみた。

その中にある五感を通して得たイメージを含む情報とその働き、その総称、
これがことば「情報を取り扱うシステム」の意味である、と考えた。



3 知識、情報、ことば(情報のシステム)の関係について 新たな進展

今まで知識があって意図が加わると情報になるのかなどと考えたが、間違いに気付いた。実際は情報があって知識が作られてきた。

情報とは何か、知識とは何か、について説明を試みる。
先ず、考えた結果である。

情報とは、人間の脳に入力される五感の(刺激に対する)反応のことである。
知識とは、その蓄積された情報のことである。

情報はことば(情報のシステムの一部)として管理、蓄積される。
保存されている知識を再び呼び出すと情報になる。
入力された情報は、ことばの出力となって使うことができる。

知識は、情報をことばのシステムにより単語、イメージなどのことばの媒体として蓄積させたものの総称であると考えられる。
蓄積された情報は百科事典のように、使わないと保管されているだけであるが、調べる等の行動を取ると、知識は情報として扱われる。

入力された時には五感による電気信号でも情報そのものであり、総合的ことばのシステムの中で、単語、文章、考え、イメージなどとして、考えることに使われ、人との意思の疎通、会話、文章などとして活用される。

これは「ことば」がどのように情報を取り扱っているかを示すものである。


情報、知識について、みかんの例を思い出してみよう。

ここにみかんがある。単語としては誰でも知っているため、みかんがあるという表現だけで、情報が伝わり、それがオレンジ色のほぼ丸い形をした美味しいくだものだと想像できる。

もし、この単語を知らず、かんきつ類を見たこともなかったなら、初めて経験する人はどうするだろうか。

人は五感を通し、視覚により色、大きさ、形などを把握し、触覚により触った感じを、嗅覚によりにおいを、味覚により甘くておいしいことなどを知る。聴覚は音に関することを中心に働く。

これが存在を認識する時の脳の働きで、五感を通してその反応(刺激)を得る。それは情報であり、それをことばの媒体である単語やイメージと共に記憶する。

脳は物質などをことばという媒体(単語など)により認識するようになる。

これが初めてみかんを認識する時の脳と五感の働きであると考えられる。

ことば(単語)になる前に情報があり、脳はその物に関する名前と共に五感により色、大きさ、形、臭い、味、感触などの知識を得、認識し、その情報をことばに置き替えて表現する。

みかんという存在をことば(単語)に置き替えないと、それが何かを表現することは非常に難しく、他人に伝えることも困難である。


本についてこう書いた。

子供は成長するにつれ、本にもいろいろな本があることを知る。絵が描かれているもの、ひらがなで書かれたものから、漢字を含むものまでいろいろある。面白い本、面白くない本もあり、好きな本もでき、友達のように大切にする。人生に大きな影響を与える本に出合うこともある。

読んだことのある本は時と共に大きな数になっていく。

本に関する認識とイメージを含む情報はこのように変化していく。この膨大な情報量が一つの単語である本に対する認識である。

これが本という「ことば」の意味だが、地上にある数えることさえできないほど存在する無数の本を、単に本として表現することができる。「ことば」の持つ意味は深淵である。

本と同様にそれぞれの「単語」に対して膨大な情報が蓄積されていく。それをあたかも一つの単語のように扱うことができる。これが「ことば」である。

脳の中に蓄積される。日常生活など人との対話で深い情報は必要としない場合、表面的な表現で十分に意思の疎通ができる。必要に応じて蓄積された情報は引き出すことができる。


最近ではキーボードと共にカメラやマイクがコンピューターの入力装置として使われることも多くなった。インターネットを使い映画やニュースを見たりもする。ワードやエクセルのプログラムを使って文書を作ることもある。データとしてハードディスクに保存もする。

これは人類がことばの情報システムを応用していることとよく似ているように見える。

つい最近まで、情報は脳の中に集積され保管され、書籍などに残されてきたが、現在はインターネット上の膨大な情報などは外部で蓄積、保管され利用されるようになっている。新たなことば、情報のシステムが作られ、拡大しているかのようである。



 使徒ヨハネが書いた 「初めにことばがあった」の意味について

ヨハネによる福音書第1章1節 
初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。」

使徒ヨハネはイエスをメシヤ(ヘブライ語で油注がれし者、ギリシャ語でキリスト)と信じ、その意図を明らかにする目的で、イエス・キリストをことばとして表現した。

「初めに」とはどういう意味なのか?
神と共にあったと書いていることから天での話である。
イエスを初めその弟子たちは皆ヤコブの子孫イスラエル人であり、モーセの律法下にあった。エジプトで奴隷のような苦役から十の奇跡による災いにより解放された。神とはその奇跡を起こしたアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神のことである。

「初めに」ということばに、誤解を招く理由がある。
初めとは何か?

現代であれば、宇宙の初めビッグバン、無限の宇宙や次元の違う世界を考えるかもしれない。

しかし、使徒ヨハネが生きていた時代は地は平で、どこまでも続いていると考えていた。地球のように地が丸いという考えはなかった。

地が丸いという考えを実証したのはポルトガルの冒険家マゼランが西へ西へと旅して、3年かけて出発点に戻ってきたことによる。この時から地は丸いことが理解されるようになった。500年ほど前のことである。

地球が写真や映像で見られるようになり、人間が住んでいる土地が球体であることが常識になり始めたのは60年程前だろうか。それ以前、日本では月にはウサギがいると信じられていた。

60年前、白黒のテレビが出始めたばかりの頃であったが、地球が青いとわかったのは1961年世界で初めて有人宇宙飛行を成功させたソビエト連邦のガガーリン宇宙飛行士のことばと功績による。

使徒ヨハネが住んでいたのは、地球を知らず、太陽系も銀河系も知らない、身近に知っているのは太陽と月、たくさん星が見えることくらいであった。

使徒ヨハネが「初めに」と書いた時、何を考えていたのか?
初めといっても、その時代、その時代で、生きている人の持つ知識や考えによって違う。

ヨハネ以前の4000年間、科学の進歩はほとんど無かったことを考えると、使徒ヨハネが言及したのは、創世記の記録であると思われる。

創世記第1章1節に「初めに神は天地を創造された。」と書かれている。
使徒ヨハネが「初めに」と書いたのはこのことと考えられる。

ここで天地創造の「初めに」が出てくる。ここで言う初めとは何か?

使徒ヨハネより4000年程前になるが、昔に遡っても状況は変わらず、人々は地球を知らず、太陽系も銀河系も知らない。身近に知っているのは平らな地上から見えた太陽と夜空に見えた月、たくさんの星くらいであった。

初めということばから現在の考えに基ずいて、無限の宇宙を想像するのは間違いである。当時の人々は地が丸いことも、太陽系も、銀河系も知らないことを思い起こす必要がある。

当時考えていた天とは、神様のおられる場所で、雲の上、空の上だった。昔は皆そう思っていた。日本でもそうだ。今でもそう信じている人もいる。

イスラエルという名前を与えられたヤコブは神様がいる天の夢を見たことを記録に残している。

創世記28:12 彼(ヤコブ)は夢を見始めた。見よ、地の上にははしごが立ててあり、その頂は天に達していた。そして、見よ、神のみ使いたちがそれを上ったり下ったりしているのであった。

当時は空の上をどこまで行けば天国かを知らなかった。はしごの頂が天に達していたというのは、肉眼では見えなくなるほどの空の上の意味である。当時の理解はそれで十分だった。

これが当時の天国のイメージである。当時、雲の上、空の上というイメージ以上のことを想像するのはできなかったからである。

しかし、現代の理解では、空の上をどこまで行っても宇宙は無限の空間の広がりである。当時その理解はなかった。夜空には星が見えるが、昼は見えない。しかし、昼間でも全く同じ宇宙空間であり、昼でも星があることを知らなかった。空は宇宙に続いている。その宇宙は無限の広がりをみせている。どこまで行っても天国はないのである。


「初めに」ということばは、その時代の意味があることを理解することが必要であり、それを現代の理解に勝手に置き換えることは間違っている。
真実を求めるなら、謙虚にその事実を受け入れ、間違っている思い込みから解放される必要がある。


なぜ使徒ヨハネはイエス・キリストをことばと表現したのだろうか?
正確なことはわからないが、明らかにこのサイトで説明している「ことばは情報のシステムである」という意味ではない。当時、使徒ヨハネには、思いもつかない考えである。なぜなら、ことばは遺伝子の情報システムを含むからである。

では、何をことばと考えたのか? 
推測の域を出ないが、今でも多くの人にとってことばの意味がわからないのと同じであったと思われる。つまり、ことばが言語であると思っていた。

当時ユダヤ人はラテン語、ギリシャ語等たくさんの言語が使われていることを知っていた。使徒達の活動を記録した使徒行伝2章には、ペンテコステの日イエスの弟子たちが奇跡的に多くの異なる言語、異言を話し、キリストの教えを伝えたことが記されている。
多くの人々が自分たちの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを聴いて、、だれもかれもあっけに取られたと記されている。改宗した人は3000人いたことが書かれている。

それはキリストの教えが全世界に伝わるようにするという目的があり、ことばの働きによるものであった。使徒ヨハネはこのことをイエス・キリストはことばであると表現したのではないか、と考える。



  2021年10月 「ことばの学問」が必要な理由

ことばに定義はない。これが「ことばの学問」が必要な理由と考える。

ことばは言語であると考えることは、動物は猿であると考えるのに等しい。」
すべての人がこの文章の意味を理解できることを願うが、
共にその逆、「言語はことばであり、猿は動物である」が適切な表現である。

この意味がわからないと、次の内容を理解することは難しいかもしれない。

最近、シリーズ8の見直しで、命について考えてみた。 

人間の命は受精卵から作られる。針先程の大きさの受精卵のヒトゲノム遺伝子、高分子生体物質であるDNAはそのプログラムによりおよそ10ヶ月をかけて人間の赤子を造り出す。 

宇宙には命のシステムのようなものがあるかもしれないと考えたが、「命はことばである」と理解するようになった。命は、情報を取り扱うシステム、ことばである。命は、ことばの媒体の一つである。

言語学は言語の学問ではあっても、ことばの学問とは意味が違う。
人類は長い間、ことばを言語と誤って受け止めてきた。言語学では言語の研究からそれ以上の成果、発展は見込めない。 

数学は、数が何かわからなかった昔、数の学問を作り、時代と共に数が何かを探究し発展させ、ゼロ、マイナス、有理数、無理数、複素数、集合論等の発展がある。

物理学も物質の学問から、元素を初め、素粒子の世界の発展に広がっている。

ことばにはことばの学問が必要である。ことばにも、これがことばであると断定できるものはない。ことばに確かな定義は存在していない。このサイトでは、ことばは情報を取り扱うシステムであると総合的な表現を使っているが、本来は研究の対象として大きく発展していくものと考える。数学も物理学もことばの一部であると考えられ、情報を伝える媒体である。

ことばの認識は世界を変える シリーズ1の中に、「文字、数字、単語、文章、音読、歌、話、考え、絵、映像、イメージ、音楽、指文字も手話なども「ことば」を構成する一部であると書いた。
当時それは人間のことばと考えていたが、ことばは人間に限定されず、はるかに大きな規模で存在している可能性があり、存在の意味さえ関係しているように思う。DNAはプログラムであり、ことばでできている。命はことばの一部である。

ことばは数学等と同じように、わからないので学問の対象として考える必要を感じる。ことばは人類の未来を大きく変える可能性を持っている。



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2022年6月

 ・3 ことばと大自然に見られる情報のシステムについて

英語の ワード WORD を見て気付いたことであるが、初めに日本語のことば(言葉)という単語が作られた時も、それと同じような意味であったのではないか?
つまり、ことばとは元々、物に与えられた名前、単語のことであったのではないかと思える。

重要なのは、「物の名前」は何を意味しているのか? という点にある。

物に与えられた名前である。それは誰でも十分にわかっていることだろう。
わかっていなかったことがある。それは、その名前が付けられる過程の意味、のことである。

物に名前があることは、今では人間の持つ脳と五感の働きの結果であると知っているが、50年昔であれば、その意味を知る人は稀だった。五感の働きについても知らなかった。

当時まで、脳が見ている、脳が認識している、という考えはなく、目が見ている、耳が聞いている、舌で味わっていると五感が直接反応していると考えていた。それは一般常識で、当たり前のことだった。

現在、人間が自分以外の世界が在ることを認識できるのは、脳と五感の働きによる。物を認識するのは五感からの刺激を脳が情報として処理しているからである。
今ではこうした認識に疑問を持つことも無いかもしれない。不思議に思うこともなくなってしまった。物に名前が付くようになり、名前で呼ばれることに疑問の余地はないからだ。

しかし、物の名前は実体ではない。
名前を呼べば、実体ではないのに、思いの中に実体のような映像が浮かび上がってくる。
リンゴという名前だけで、頭にリンゴの映像が出てくる。
ミカンと呼べば、ミカンの映像が出てくる。

映像を知らない時代であれば、まるで幽霊を見るかのようである。

物の名前は全て実体ではない。頭の中に描かれた映像、イメージ、空想である。
この関係を当たり前のことと今では誰も気にもしていない。

これが初めて経験であったなら、何とも恐ろしいことが起きたとさえ思うことだろう。
それほどまでに、実体に代わって情報を伝えることができることは、夢の中にいるような不思議なできことである。

ことばが不思議な世界である理由はここにあるように思える。

物に名前があるのは当たり前に思われているが、物に名前を付けるようになったことは、人類にとって大きな進歩であったことに気づかなかった。

ヘレン・ケラーはすべての物に名前があることを学習した時、世界は変わって見えるようなった。実際に眼が見えるようになったわけではないが、ヘレン・ケラーにとって、それは考える能力を持つようになったことであり、新たな視界が開けたことを意味した。

ことばを持つことは、考えることができるという意味である。
単語はことばであり、実体に代わる情報である。単語が集まり文章になると、それは考えである。
ここから、ことばは情報を取り扱うシステムという考えが出てくる。


では、人間の考えはどのようにして伝えるのか?

人間はコンピューターの入力装置のような五感という器官を持っている。
五感から入った情報は脳により認識するようになる。
物に名前が付けられる。あらゆる物に名前が付けられている。
わたし、あなた、彼などの人称代名詞、それに食べる、歩く、などの動きを表す動詞が作られた。すると、「私はリンゴが好き」等の文章が作られる。
それは、考えが作られることを意味する。

考えが作られたら、それを出して伝えることが必要だ。
考えを伝えることに重要な意味がある。意思を伝えることができれば、皆で協力することができ、助け合うことができる。

考えはどうやって伝えることができるのか?
人間に入力器官はあるが、出力装置のような器官はあるか?
五感のような出力器官は無い

目は口ほどに物を言う、という表現はあっても、目は出力器官とは言えないだろう。目の出力としてはホンの一部の働きである。
体の動き、ジェスチャーによっても部分的に伝えることはできる。

文章である考えはどうやって伝えるのか?
鳥や動物には鳴き声がある。声は情報の一部と考えられるが、文章である考えとは違う。

人間が書いたとされる洞窟に描かれた絵が発見されている。
大昔に人間は手を使って絵を描き、情報を伝えた。
やがて、手を使って文字が発明される。長い時間をかけて、絵文字のようなものから複雑に見える漢字のようなものまで様々な文字が作られてきた。
その文字を使って考えである文章を書き、出力するようになった。

このように手を使って絵を描き、文字が作られ、作られた文章の考えが文字で表現されるようになった。文字の書かれた本も作られ、文字を読むことで考えを知ることができる。

なぜこのような変化が可能なのか?
 
人間はこうした機能を持っているが、初めから持っていたのではない。長い時間をかけて作り、教育と学習により皆が持つようになったと思われる。偶然とは思えないが、人間の持つ脳の働きによるものではあるように思える。

正確なことはわからないが、人類は未だ知らないだけで、自然界にこうした変化が起きるシステムが組み込まれているのかもしれない。


出力として重要な意味を持つものがもう一つある。

簡単に表現すると、考えは人間の口の奥にある喉の声帯で、そこを通る空気に振動を与えることにより声を出し、会話することで、伝わるようになった。

どうして考えが声となり、空気の振動で伝わるのか、人間にそのための器官があることも、人間の想像をはるかに超えていると思えるほど、素晴らしい。

考えを伝えるために、様々な器官が協同して働くことにより、話すことを可能にしている。
感情も伝えるようになった。歌で喜びも悲しみも伝えている。
加えて、色々な楽器も作られ、音による情報の拡がりにつながっている。

人類には知られていない未知なるシステム、可能性、発展がこれからもたくさんあるように思えてくる。それは自然界にある情報のシステムに思える。

昔の有線の電話の時代を経て、ラジオ、テレビ、インターネット、スマホ等と大きく変わり続けている。


ことばと自然界の情報システムについて

宇宙に存在する人間を含む知的生命体にとって、その存在意義はどこにあるのか?

その質問に対して、個人的には、その知的と表現されている部分にあると考えている。
考える能力のことである。

地球上の知的生命体である人間はどうやって考えているのか?
人間はことばを使って考えている。
ことばを情報を取り扱うシステムと考えるようになった。
脳も五感も、その元の遺伝子も、全てがことばの媒体として存在している。

宇宙に存在する人間以外の無数の知的生命体も、情報を取り扱うシステムにより、文明を作り、発展させていると考える。

宇宙は無限の広がりをもっているため、その存在を確認できるようになるためには、数百年、数千年という時間がかかるかもしれない。
人類が存在する銀河系の中だけでも、光の速さで10万年かかる。その中に太陽のような恒星が2000億以上もある。地球のような惑星がいくつあるかもわからない。
宇宙にはわかる範囲だけでも2兆の銀河が存在している。

物理学者ホーキング博士によれば、知的生命体全てが自滅の道を歩んでいる。
文明が高度に発達すると崩壊してしまうからという。
現人類を見る限り、その試練を越えることは、非常に困難に見える、
知的であるべき生命体が考えることを忘れてしまっているからか?

試練を越える知的生命体の存在はないのだろうか?
存続するためには宇宙に存在する新たなシステムの発見と開発が関係するのだろうか?

それとも、人類が謙虚になることが、試練を乗り越える解決策なのか?


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2019年8月 追記 
  ・ 鳥や動物のことばについて、人間の場合、人間以外の知的生命体の場合、
   音楽はことば(の媒体)か?



「ことば」とは、(脳が)五感を通して得られる情報とそれを文字などの媒体に置き換えたものの総称である。
「ことば」とは、基本的に情報のことで、遺伝子と脳が作りあげた情報を取り扱うシステムと表現できるように思える。情報をことばの媒体に置き換えて活用するものである。

様々な言語(遺伝子を含む)、文字、数字、単語、文章、指文字、手話、話、音読、考え、絵、歌などは「ことば」である情報を伝え、利用するための媒体(メディア)である。

単語や文章であれば「ことば」であると思いがちであるが、様々な言語、指文字、手話もことばを伝える媒体であるように、単語、文章、考えもそれぞれは情報を伝える媒体(メディア)である。ただし、総称として「ことば」の中に含まれるため、ことばと理解しても問題はないように思える。

五感から入力された情報は「ことば」に変換されないと、「考え」に発展することは難しい。
新たな考え、アイデア、創作は「ことば」の働きによる。学習も、意思の疎通も「ことば」の働きによる。人々に与える影響もことばによる場合が多い。

「ことば」は初めからあったのではなく、人類の発展と共に作られてきたものと思われる。ことば自体は完全なものではなく、新たに作られることも、改善されることも、発展することもあり、時代と共に変化するものである。

個人が持つ「ことば」は個人が作りあげた情報と認識に基づいているため、「ことば」は人によって違いがある。また、使われなくなった昔の文字、古語辞典などにある単語などを含め、人類に残された「ことば」など、ことばの様々な形態(種類)もあるように思える。


鳥や動物のことばについて:
すべての生命体が遺伝子から造られているという事実から考えると、遺伝子はプログラムであり、分子言語とも表現される。遺伝子は「ことば」により造られているという意味である。それ故、虫、鳥や動物がことばを持っていることは明らかであることになる。しかし、知能が高度に発達していないと、「ことば」に表される情報を活用することはできない。情報を伝える媒体もほとんどない。その種に特有の鳴き声などの限られた情報媒体しかないように思える。


人間の場合:
人間の遺伝子は数万種類にものぼるたんぱく質の設計図(プログラム)であり、体の目、鼻、口、耳、手、足、指、頭、心臓などの臓器、血管、神経、骨、髪の毛、爪、皮膚等のすべては遺伝子である分子言語、ことばによって造られている。体が管理・維持されているのは、ことばという情報のシステムにより、それぞれが情報交換を行い共同して働いているからである。

ひとりの人間として誕生してからも、遺伝子と脳はその体をコントロールし、成長を含む様々なホルモンの分泌、呼吸・体温・血圧・食欲・性欲・消化機能の維持・管理、心臓の制御、体内時計等、想像を超える働きをし続ける。ホルモンも分子言語であり、すべてがことばの働きと考えられる。


人間以外の知的生命体の場合:
未来においてその存在が明らかにされるかもしれないが、生命体が高度な知能を持っていると仮定すると、ことばの媒体は違っても、「ことば」という情報を扱うことは同じであるように思える。どのようなことばで考え、意思の疎通をするかはわからないが、「ことば」は情報を活用する道具を意味することから、高度な知能を持っている生命体は「ことば」を持っていると考えられる。


ことばは無限の情報を扱うためのシステムとして様々な媒体を作り出したと考えられる。
様々な言語、文字、数字、単語、文章、指文字、手話、話、音読、考え、絵、歌などは「ことば」である情報を伝え、利用するための媒体(メディア)である。

単語で文章を作り、文章で考えを作り、話を作り、音読し、歌を加える。小説を書き、映像にし、映画を製作する。ことばの働きは計り知れない。


音楽はことば(の媒体)か?

生命体が遺伝子である分子言語からできているので、ことばと表現できると書いても、一般的には理解できないことかもしれない。音楽もことば(の媒体)であると言っても、理解することは難しいかもしれない。それはことばの定義によるし、ことばの意味がわかっていないと理解できない。今までにない新しい認識を作ることになるかもしれない。

音は耳から入力されるもので、聴覚によって把握されるが、最近になるまで音が何かがわからないものであった。音が空気の振動であることがわかるまでに数千年もの年月がかかった。物によって振動数が変わる。音色が変わる。常温でおよそ一秒に340mの速さで伝わる。
弦楽器、木管楽器、金管楽器、打楽器などが作られ、今ではシンセサイザーで様々な音が作られる。メロディー、リズム、ハーモニーを音楽の三要素と表現される。

数学が数の学問であるのは、「数が何か」がわからなかったからであり、音学も音が何かがわからいことから音の学問である。ただし、音は学問というより楽しむために発展してきたので音楽になったように思える。

「ことばとは(脳が)五感を通して得られる情報とそれを文字などの媒体に置き換えたものの総称である」と定義したが、この定義に基づいて考えると、音楽は五感の一つである聴覚を通して得られる情報である。それを音楽ということばの媒体に置き換えて使っている。

ベートーベンが作曲した交響曲第5番「運命」は曲名であり、名詞である。そのベートーベンの「運命」という曲名を聞くだけで、頭の中に指揮者がオーケストラによる演奏をしている様子を映像により再現できる人もいる。それは脳がその曲に関する情報をことばとして蓄積しているからである。
楽器だけでなく、記録に使われる楽譜、音符などの記号も音楽という媒体の要素であると考えられる。
特定の曲を聴くと若かった頃を懐かしく思い起すこともあるが、それは脳が音楽をことばの媒体として情報を蓄積し、思い出し、活用しているからである。


このように考えてみると、五感である視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚も、脳はその感覚器官を通して「ことば」である情報を取り入れ、蓄積し、利用していることから、五感そのものも、ことばの媒体と表現することができるように思える。



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2024年12月から書いた 

存在にかかわる言葉の問題点について
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