マイケルアレフのことばの認識は世界を変える

シリーズ48 考えることの意味

* 前置き メッセージ


1.考える対象について

2.考えるきっかけとは何か?
   脳は言葉により考えるが、様々な刺激に反応して考えている

3. 考えることで気付いたこと その1〜その4
  その1 AIは考えているのか? 人間は考えているのか? 考えるとは何か、
  その2 考えるという言葉の意味を考える、思うと考えるなど
  その3 言葉とは何か
  その4 価値について 
    その4−1.人間の存在と価値の意味
    その4−2.人間は価値をどのように作っているか?
    その4−3.人間の価値と未来を考える

 * 現在執筆中
4.考えが抑制 (制御) される場合
  * 考えることを抑制しているもの 遺伝子、情報伝達物質、他
   感情的、理性的?
  * 考えない、考えさせない、無いものをあることにする 脳の働き 信じる
  * 考えに方向付けは必要か

5. なぜ考えるのか?
  * 成長する過程で、考える能力には違いがある

6. その他 

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           シリーズ48 考えることの意味
* 前置き メッセージ

およそ60年前  「花はどこにいった?」 'Where Have All the Flowers Gone?'
という反戦歌が世界中でヒットした。
歌詞は、問いかけていた。
When will they ever learn?
彼ら(人間) は、いったいいつになったら学ぶのだろうか?

作者は、戦争を絶つには過去の過ちに気付くしかないと考えていたようだ。
しかし、人間の世界は、60年経った今も、同じように争いの世界の中にいる。
それどころか人間の歴史は始まって以来変わっていないようにさえ思える。

人類は、重要なことを学んでこなかったからではないか?

歴史で重要なのは、史実を学ぶことではない。
重要なのは、歴史から学ばないという 人間の本当の姿 に気付くことではないか?

歌詞は 「学ぶのはいつか?」  と問いかけているが、何を学ぶのかについては明らかにしていない。
今問われているのは、今まで何を学んできたのかではなく、
何を学んでいないのか? ではないか。

前回以下のように書いた。

「現在の人間の世界は人間の価値観に基づく評価、判断の世界である。国が違えば、考えも、価値観も違う。

それぞれの国が、自分の国を第一に考え、土地を国家の領土だと主張し、防衛予算を増やし続けているのは、地球を人類の所有物と考え、考える自由を自国の利益追求に使うことである。

人類に求められているのは、今までの考える自由の在り方を見直し、修正し、知的生命体に相応しい、事実に基づいた考えで、人間社会を作り直すことではないか。」



人間は、針先ほどの受精卵からおよそ10っか月で新生児として産まれる。
その細胞一つ一つに遺伝子があり、同じ細胞から髪の毛、ツメ、集合体として目、耳、手や足、心臓などの臓器も作られる。同じ細胞なのに、どうしてそれが可能なのか?

人類はそこに遺伝子を見つけ、今では遺伝子を操作する技術さえ作り、応用している。新たな生命体を作る可能性さえ考えられる。

科学の進歩は知的生命体である人間が持つ計り知れない考える力による。それは人類として持っている全てを可能にする力の原動力に思える。


* 人間が知的生命体であるのは、言葉を持ち、考える力を持っているからである。

生命体であれば、遺伝子があり、「ことば」で表される情報の受け渡しをするシステムを持っている。そのプログラムにより、その生命体の中で情報交換が行われている。

人間の血液は体の隅々まで、細胞に酸素や栄養分を運んでいる。細胞はその血液から酸素や栄養分を取り入れ、いらなくなったものを排出する。それは情報交換が行われているという意味である。

自分の体だと思っていても、その体のほとんどは個人の意思とは関係ない部分で、情報のシステムにより運用され、管理され、制御されている。


人間の使う言葉は「ことば」という情報のシステムの一部である。

考えるのは、言葉により、情報を扱うことが関係する。

子供に言葉を教え、情報を与える。すると、学習し、覚え、話すようになる。
食べたい等と意思を表すようになるが、それは、考え始めたことを示していると考えた。

「おなかがすいた。ご飯が食べたい」と言うのは、体の欲求によりその考えが作られることを示すが、そこに使われる、ご飯、食べたいという表現も、覚えた言葉を使っていることを意味している。

考えるとは言葉を使って、文章を作ることではないか、と以前書いた。

確かに、考えるとは、言葉を学び、学習した言葉を使うことから始まるように思える。

しかし、幼児期の言葉に示されるように、覚えたことを、考えずに、欲求に反応し繰り返しているだけのこともあると考えられる。

考えるとは、言葉を学び、話す、言葉で学習すること以上の意味があると考えるようになった。

* 考えるとは、学ぶ、学習することとは意味が違う

学び、学習するのは受動的で、主に情報を収集することである。様々な情報を、自分から学び、吸収し、知識を得、記憶に残すことである。
幼少時における情報のほとんどは、生まれた地域の社会環境から与えられる常識のことである。

今までの教育は情報の収集、学習に重点が置かれてきた。

しかし、学習は学び、習うことで、学習するだけでは、模倣することはできても、新たな発明、新たな考え、新たな行動は生まれない。

考えるとは、能動的で、学習で得た情報を活用し、新たな考えを含め、作り出す働きである。

これが考える(思考)の意味で、学習と同時進行の面もあるが、学習とは異なり、学んだことを活用し、応用したりする働きである。人間の計り知れない能力はその考えることにある。

学習し得た情報や経験を通して学んだ情報から考えが作られ、その考えから行動を起こす意思、動機も作られる。

学習したことや経験から、教訓を学び、新たな認識が作られるのは、単に知識を得るからではなく、そこに考える働きが加わるからで、情報を得ることからその背景にある全体像を知るようになるのも、考えているからである。


* 学び学習することは考えることではない

意識があれば、考えているように思えるが、それは脳の働きの一部であっても、能動的、積極的な考えることとは意味が違う。

新聞、本などを読む、テレビやネットでニュース、バラエティー、映画、スポーツ、様々な番組を見る、また人の話を聞くなどは、主に受け身で、情報を収集することであり、学び、学習することに相当し、考えることとは意味が違う。

人と会話をしているときのやり取りは情報の交換である。互いに情報を出し、また収集していることである。
話を聞くことは、情報の収集に当たり、学習に近い意味である。
話をすることは、情報を発信することであり、考えることが関係する。

考えることには、浅く、軽く、深く、真剣に、深刻になど、程度が関係する。また、考えたことであっても、ただそれを繰り返すことは、考えることではない

考えるとは、基本的に情報を学ぶという受け身ではなく、学んだことを活用し、能動的に、作り出す働きである。

何らかの刺激により、何かに気付き、疑問を感じ、そこから、なぜ、何などの質問を作り、その答を見出だそうとする働きでもある。

答を見出だすために、想像し、計画し、目標を作り、その実現のために、あらゆる可能性を考えるようになるように思える。


* 考えようとしない理由

考えようとしない、わかろうとしない、わかりたくないのには理由があるように思える。
それは、考えることに人間であることの意味が関係しているからではないか?

その具体的な理由については このシリーズ48の3. 考えが抑制 (制御) される場合
* 考えることを抑制しているもの、の中で取り上げる。

考えようとしないのは、今までの教育が覚えることを中心にし、考えることの意味を知らずにいたからか?

考えてわかるようになることは、より広い視野で物事を見るようになり、自分の置かれている状況を知ることでもある。それは自分の責任を自覚することにつながる。
つまり、考えることは責任の自覚をもたらすことになる。

考える人は責任を自覚しその責任を果たそうとするが、考えない人は責任を回避し、他の人に押し付ける傾向がある、と言えるかもしれない。

世の中が悪い、政治が悪い、教育が悪い等と批判し、他人のせいにし、自分に責任はないかのように言う人は多い。
それは考えていない人に見られる傾向ではないか?

そう批判することも、犯罪を犯すことも、戦争をすることも、全てが脳の考える働きであると思われていても、脳の考える働きとは違うのではないか

「戦争が悪い。二度と繰り返してはならない」という人は多い。その考えに同調する人がほとんどに思える。
これは、考えることとは違うのではないか?
考えているのではなく、同じ価値観に同調することではないか?


人間は自分達で作った価値観で、戦争が悪いと、評価、判断している。
戦争はあるがままの事実である。事実に良い、悪いはない。

事実を価値観で良い悪いと評価、判断していることに問題が生じる原因がある。

数えきれないほどの戦争をし、その後反省し、改善しようとしても、また繰り返し続けるのは、人類が事実に気づいていない、あるがままの事実に向き合っていない、考えていないからではないか?

持っている価値観で判断することは、考えることではなく、考えていないことではないか?

言い換えると、戦争が悪いことにして、自分達、人間は悪くないという言い訳を作り、ごまかし、責任を転化しているのではないか?

考えるとは、何らかの刺激により、何かに気付き、疑問を感じ、そこから、なぜ、何などの質問を作り、その答を見出だそうとする働きである。
学んだことを活用し、能動的に、新たなものを作り出そうとする働きである。

すでに持っている価値観で美しい/醜い、良い/悪い、常識/非常識と判断することは、考えることではなく、すでに作られた判断基準に従っているだけになるのではないか?

判断基準の価値観は幼い頃から作られている。基本的に新しいものはなく、新しい考えでもない。
価値観で物事を判断することは、新たなものを作り出そうとする脳の考える働きではないように思える。



美しさ」は、実際にはないのではないかと気付いて、シリーズ6
美しさについての考察、 美しさがない理由 を書いた。

もしそこで終わり、考えることを止めていたら、人の持つほとんどの価値観が作られたものであることに気づくことはなく、今取り上げている 「考えることの意味」 も書くこともなかった。
しかし、個人に関係なく、誰かがこれを明らかにし、人類として認識する必要がある。

人間が「その価値観により評価、判断し、選択していることの問題」である。。


価値観は考えているのではなく、頭にある法律と同じような決まりである。
価値観で判断するとは、ルールや法律と同じように、決められたものにより、それに従って行動しているだけである。

人は幼少の頃に育てられた環境から、教えられた常識などの価値観を、正しいものと思い込んでいる。

その決まりは昔の人が考えたものや、国の代表により考えられ、作られたものではあっても、自分で考えて、作ったものではない。決まりとして教えられ、従うことが求められている。

自分で考えて判断していないなら、そこに責任の自覚は生まれない。無責任な行動をする理由になる。

価値観は、自分が考えているのではなく、思い込みにより、他人の考え、教え、信条、また自分の邪推(疑心暗鬼など)であっても、それを正しいと信じることで、人を殺すことを含め全ての行動を正当化させる。

自分で考えていないことが、真面目な人間でさえ恐ろしい殺人鬼になる理由、たくさんの地域で大量虐殺が起きてきた理由、今も戦争で多くの人間が殺されている主な理由である。

それに気付かず、自分は正しいことをしている、と信じて疑うことがなくなるからだ。

考えるとは、思い込みで判断することではない。
物事の仕組みを学び、理解するという学習する過程とその後に、不思議に思い、質問を作り、答を見いだそうとすることであり、新たなものを作り出そうとする脳の働きである。

思い込み、信じ、それにより評価、判断することは、自分で考えていないという意味になる。それでは、人間は騙され、操られていることと同じになる。

人類の多くは、この事実に気付いていないのではないか?
在るがままの事実を知り、他人の考えではなく、自分で考え、判断することを始めることが必要に考える。


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シリーズ48 考えることの意味

シリーズ 48−1 考える対象について

考える対象はたくさんあるのではないか?
その通りである。

考えることの対象に制限はない。範囲もない。
人間の脳は、存在しない無いもの、あり得ないことまで、制限なく考えている。

制限が無いのは、対象になる数だけではない。
対象自体にも、それぞれ無限の情報の広がり、深さが関係するように思える。

全ては制限なく拡がっていて、どこまで行っても、終点はなく、究極の答はないのではないか?
それが考えることの究極の意味ではないかとさえ思える。

対象になるものには、境がなく、無限だからか?

宇宙は無限に拡がっているように見える。宇宙は膨張していて、見えている堺にある空間は光を越える速さで拡がっているため、その先は光で観測することはできない。現時点では観測不能、わからないという意味に思える。


小さな世界も、最小のものがあるかと研究されてきたが、何が最小なのか?

人間は、物は何か、何からできているのかと考えることから、物の最小単位を追求し、元素を発見した。

元素は2010年の時点で117種類あるとされている。
その元素は構造的には同じ原子で作られている。
原子はそれを構成する陽子と中性子から作られた原子核と電子の雲できている。
元素の違いは陽子と電子の数の違いである。

陽子は現在クォークという基本粒子(アップクォーク2つとダウンクォーク1つ)で構成されていると説明がある。これが現時点での最小単位である。

しかし、これで終わるのだろうかという質問が生じる。


人間には限界があるのに、なぜ限界を越えて考えることができるのか?
この表現にある限界という言葉の理解に問題があるのかもしれない。
限界は不可能という意味ではない?

生命体にはそれぞれ生きる上での制限がある。人間以外は基本的にその制限を越えることはない。それはその生命体にとっての限界である。

人間にも生きる上での制限はある。過去のある時点まで、制限は限界を意味していたが、人間の考える力がその限界を越えさせてきた。
人間の考える力がその限界を越えさせる理由である。

人間一人の脳細胞は有限である。現時点での生命体としての生きる時間にも限りがある。一人では人間としての限界を越えることはできないように思える。
数千年もの間、空を飛ぶことさえ不可能だった。

しかし、人類としては、個人の命の時間を越えて、有史以来6千年以上もの歴史を作り、人口は増え続けて80億以上になっている。その間、情報は蓄積され、研究は引き継がれ、人類として継続して考え続けている。

文明が進歩、発展してきたのは、一人の力ではなく、人類として考え続けているからである。

考える自由とは、対象に制限はないという意味でもある。
ただし、全てを考えることができるという意味ではない。


人類として考えるその延長線上には、次のような質問も作られる。

* 地球上に限定すれば、人類の増加に限界はあり、絶滅する恐れもある。人類が絶滅すれば、人類としての可能性は絶たれるのか?

人間の知的生命体としての遺伝子が現実に存在していることを考えれば、その起源はわからなくても、同じ遺伝子を持つ生命体はこの宇宙に数え切れないほど存在している可能性はあることになる。

* 今まで人類は、考える自由を優越感に、利己的な目的に使ってきたように思える。この状態を改善せずに、人類はいつまで存続することができるのか?

物理学者スティーブン*ホーキング博士が指摘したように、高度に発達した文明は滅びてしまうのかもしれない。人類も同じような理由から絶滅する可能性はある。

人類の考える力だけが、解決を見出だす方法なのか?

人類の存続を単に願うだけでは問題の解決に結び付かない。
解決するためには、その願いに考える力を伴わせることにより、人類の意志を作り、行動させることが必要であるように思える。

現在ある問題の本質を理解し、修正する方法を見いだし、結果を出すことが必要に思える。


考える対象に制限はない。わからないことは無数にある。わかっても、わからないことが次から次へと出てくる。人間は考えるから、質問が生まれ、答を出そうとする。

人間は究極の答えがないものをなぜ考えるのか?
今まで、答えがあると考えてきたからではないか。

答があるとはどういう意味か?
それは有限という枠の中で、その時点での答があると考えることであり、枠を外せば答ではなくなる。
答はないのではない。有限の枠の中で考えれば、答はある。
しかし、更に追求し続ければ、それまでの答は古い考えに基づいていたことになり、新たな質問も、新しい答も出てくることになる。

質問は作るもの、答えも作るものである。
質問も答も初めから用意されているのではない。
考えることにより作られるものである。
人間が考え続ける限り、質問も答も終わることはない。

人類が文明を進歩させてきた背景には、人間に考える自由があり、考える対象を制限せず、何にでも関心を払い、違いに気付き、疑問を感じ、その理由を見つけようと考えてきたからではないか。


シリーズ 48-2.   考えるきっかけとは何か? 

辞典によると、「考える」 「思う」という言葉には、理性的に考える、感情的に思うという、意味の違いの説明がある。

しかし、考えることの意味を調べても、考えるとは何かを説明するものに出会うことはなかった。そこで、考えるとは何か? と考えた。(シリーズ1、2022年 考えるとは何か)

人間は、成長する過程で、言葉を学び、記憶すると、自分の意志を表し、食べたい等と言うようになる。

それは考えること、考え始めたことではないか?
考えるとは、頭で文章を作ることではないか、と考えた。

幼児は言葉を学び、覚え、真似し、繰り返すことで話すようになる。

言葉を覚えた子供は、話すことを始める。しかし、言葉を使ってはいても、言葉の意味を知らず、理解してるわけでもない。それは、言葉を活用し考えていることではない、と気付いた。

話すことは、言葉を使い、文章を作り、声を出して、言うことである。
そうできるのは、脳が言葉を使い、考えているからであると、初めは考えた。
しかし、幼児が言葉を話すのは、考えているとは言えない。
言葉を使ってはいても、「お腹がすいた」などのように、欲求に対する反応を直接言葉で表現しているだけで、考えているとは言えない。
言葉をただ繰り返すことも、考えていることではない。

言葉を使わずに「考える」ことはできるか?
考えることはできない。考えるためには、条件として言葉が必要である。
ただし、幼児期の子供の例が示すように、言葉を使うだけでは、考えていることにはならない。言葉の単なる使用は、言葉を活用し考えることとは違う。

人間が言葉を持つだけでなく、言葉を活用し考えることが、知的生命体である理由である。

生命体の細胞レベルでも、情報のやり取りは行われていることから、考えるとは単に情報のやり取りではない。

考えるとは、「ことば」である情報のシステムを活用し、新たなものを作り出す働きが関係する、と考える。


* 人間は言葉により考えているが、何により考え始めるのだろうか?

質問されれば、その答をさがそうと考える。
考えるきっかけは、質問、問いにある?
質問とは何か? 問いとは何か?

脳には違いを認識する機能がある。
知りたいという欲求がある。
そこに何かに気づき、問いが生まれ、質問が作られるのではないか?
知りたいから、質問を作り答を見つけようとすることが、考える背景にある。

気付かせるものとは、脳に与える刺激のことか?

刺激には様々なものがある。
人は違い、変化に気づく。新しい物、五感からの刺激、体の痛みに気づく。感受性が関係し、新しい経験、素晴らしいと感動すること等が含まれる。

間違いに気づくのは、新しい刺激により、質問が作られ、その答を求めて、考え始めるからではないか?
比較対照して、違いを見つけ、その違いから、新たな考えが生まれるのではないか?

質問の内容は、その置かれた状況により違うが、質問の基本的な内容は英単語の頭文字、5W1Hという形で決まっている。
それは When, Where, Who, What, Why, How から作られている。
いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのように、である。

脳は、五感による入力から現実という刺激を受ける。

「苦しい時期を乗り越え、やっと静かで平安な時を迎えられたと思っても、
人生はそこで終わらない。人間は生きている限り、新たな展開が待っている。」

生きている限り、命の危険はあり、乗り越えなければならな問題が起きる。
現実に起きる変化を体験することから、一時的に満足しても、それで終わることはない。
そこに、その理由、背景を知ろうとする、脳jの真実を知りたがる働きがある。

しかし、それだけが考える理由なのか、それ以外にも様々な理由があるのではないか?


 シリーズ 48ー2 その2

考えるきっかけとは何か?

AI技術により、ロボットは、人の質問に答え、応答することができるようになった。
ここに、新たな問いが生じる。
人間は言葉を使うことだけで、考えていると言えるのか?
ロボットは考えているのか?

考えるとは、単に言葉を使用することではない。

子供が食べたいと言うのは、欲求を言葉で表現していることではあるが、考えているとは違う。
AIの反応は考えているのではなく、質問に対して決まった答を表現しているだけに思える。

会話をすること自体は、ルールに従って言葉を使用することであり、考えることではないように思えてくる。

考えるという言葉の意味を明確にして、使う必要があるのではないか?

考えるという表現は、いろいろな意味で使われているが、同じ脳の働きであっても、学ぶ考えるでは意味は違うことを説明した。

学ぶ、学習するは、主に受け身の情報を収集することであり、
考えるは、能動的で、積極的で、新しいものを作り出すという働きがある。
学ぶ、学習すると考えるの意味は明らかに違うため、区別して扱う必要がある



しかし、現実の世界では、新しいものを作り出すことなど考えていなくても、考えていると表現されることはたくさんある。

宗教では、同じことを何度も繰り返し祈る場合が広く見られる。
その祈りには、自分から積極的に、新しいものを作り出そうとする目的がないのではないか?
もしそうであるなら、それは、考えていることではない。
新しいものを作り出すことはできないことになる。何のために祈りを繰り返すのか?

感情の影響受けて、悩むことはよくあるが、悩むことは考えることか?
解決できずに、同じ思いを繰り返しているだけでは、進展がない。
堂々巡りのように、ただ同じ思いを繰り返し悩むことは、考えていないことになる。
考えるとは、自分から積極的に、新しいものを作り出そうとする目的をもって対処しようとすることである。

人が会話をすれば、考えていると思っていたが、話すことだけならAIにもできる。ただ情報交換するだけなら、生命体の細胞レベルでも行われている。考えていなくてもできる。

考えるとは、現状を見直し、改善する目的を持ち、新しいものを作り出そうとする脳の働きを意味すると考える
その脳の働きがなければ、考えていることにはならない。

今までに使われてきた「考える」という言葉の意味を、見直し、修正する必要があるのではないか。

考えるとは、言葉を活用し質問を作り、答を見いだそうとする脳の働きで、新たなものを作り出すという意味がある。



考えるきっかけ

「人間には限界があるのに、なぜ限界を越えて考えることができるのか?

人間一人の脳細胞は有限である。現時点での生命体としての生きる時間にも限りがある。一人では人間としての限界を越えることはできないように思える。
数千年もの間、空を飛ぶことさえ不可能だった。

しかし、人類としては、個人の命の時間を越えて、有史以来6千年以上もの歴史を作り、人口は増え続けて80億以上になっている。その間、情報は蓄積され、研究は引き継がれ、人類として継続して考え続けている。

文明が進歩、発展してきたのは、一人の力ではなく、人類として考え続けているからである。」 (シリーズ 48−1 考える対象について)

ここから新たな質問が提起される。

人類に意志はあるのだろうか?


考えるきっかけとは何か?

学び、経験したことは記憶、記録として残される。その記憶は、様々な刺激により、新しい考えを作ること、見直しをすることに使われる。

学習により脳に蓄積された情報が、五感からの刺激、言葉からの刺激、経験からの刺激などにより活用されることが、質問を作り、答を出そうとする考える背景に思える

五感、言葉、経験からの記憶に対する刺激とは、違和感から何か変だとか、なぜか等の疑問を感じ、質問を作ることではないか?

問題提起は、答を出すために、目標を作り、それを実現させるための計画を立てることにも発展する。


新しいものを作り出すことなど考えていなくても、考えていると表現されることはたくさんある

食欲、睡眠欲、性欲などの人間の生理的欲求、また 優越感からくる利己的な物資欲、名誉欲、などはどうなのか?
欲求を満たすために、どうしたらできるか、と考えているのではないか?

欲求に対する反応は、考えることではない
それは感情という価値観の反応に似ている。

評価する、判断する、選択するは、作られた価値観で決めることであり、考えることではない

価値観は幼少の頃から、皆と同じように、生まれ育った社会環境からの情報を教えられ、その決まり、基準を持つことである。
その決まり、基準は国、民族、宗教、教育等により、違うものであるが、周りにいる人の間では、同じに思える。

価値観を使い、評価、判断することは、過去に作られた決まりや基準に従うことであり、考えていることにはならない


人類に意志はあるのだろうか?
という質問を作り、答えを探そうとすることは、考えることである。

質問に対する答はあると教えられ、誰でも答はあるものと思っている。
しかし、答はあるのではない。作るものである。

考えるとは、答えを探そうとする脳の働きであるが、答えそのものがあるのではない
。答えは無条件で正しいことはない。絶えず新しい問いが生まれ、新しい答えが求められる。答はその時点におけいて、修正する必要はないと考えることである。

人類に意志はあるのだろうか?
答はないが、こう考えることはできる。

人間には考える自由がある。その考える自由は、全てを作り出す源である。
何であれ、作ることは可能である。

人類に意志はあるかという問いに対する答は、あるかないかではなく作ればあることになる、である。

人間に人権はあるか、自由はあるか、平等はあるか、平和とは何か等の質問全てに答えがあるのではない。答を作ってきたからあると思っている。
しかし、無条件に間違いのないものを人間は作れない
人間の世界という枠の中だけに通用する答を正しいと思い込んでいる。

理想はあるのではない。理想は作るものである。
それは正しいという理想ではなく、考える自由により変わり続けるものである。

理想は全ての人の意思であるという意味ではない。

科学の進歩にみられる個人や一部の人々の考えたものであっても、人類を導くものになってきた。
個人の考える自由が、人類を導く意志を作り出す可能性がある。


そう考えていたら、意志とは何かという質問が出てきた。
意志と意思という漢字がある。どう違うのか?
先人はなぜ違う漢字を作ったのか?

他人が言うからではなく、それを自分で考え、自分で理解し、納得し、自分で責任を自覚し、意識を持つことが、人間社会の基盤に必要と考える。



事実を知り、理解し、受け入れることが人間にとって不可欠な理由

人は皆、誰でも、自分は人間だと、当たり前にそう思っている。
しかし、人間とは何か? 人間の意味は何か? と質問されて、答えられるだろうか?

考えるとは、情報を収集するという意味の学ぶ、学習するという過程から、その得た情報を活用し、全体を把握し、新しいものを作り出そうとする脳の働きである。
質問を作り、答えを見つけようとすることが、考えることの意味である。

しかし、それは脳の働きの一部にすぎない。

自分という存在、その認識、価値観、意志も脳によって作られている。
その全ては、自分という認識が作られていく過程で、脳により、自分が作ったと思うようになったものである。

自分の体全てが自分のものと思っていても、自分のものではない。自分で作ったものではない。
全ては遺伝子により作られている。
心臓を動かし、血液を体の隅々まで送り、細胞を生かしているのは、自分ではない。基本的に自分の意志とは関係がない。

食べること、体を動かすこと、体を鍛えることは、自分の意志でできる。
しかし、その食べたものを消化し、栄養を取り入れ、体の細胞全てに送っているのは、自分ではない。自分の体を成長させるのも、大人の体に変化させるのも自分の意志ではない。

その自分の意志は、幼少の時期に社会の常識という価値観の影響を受けて作られている。

今その人間の存在意味考えることの意味が問われている。


* 事実を知り、理解する

人間の体は、遺伝子により作られている。
人間の体は、自分の意志、親の意志とは全く関係なく作られているという意味である。

人間に限らず生命体であれば、生命体というシステムそのものがある。
その生命体は、その個体が作っているのではなく、受け継がれている遺伝子が作っている。

人間の体は、ヒトゲノム遺伝子の設計図に基づいて、そのプログラムにより、一つの受精卵から、細胞分裂を繰り返し、およそ10ヶ月かけて作られ、新生児として生まれる。その後も遺伝子と脳の働きにより成長し続ける。

人が生き、成長する理由は、その設計図である遺伝子のプログラムにある。

細胞分裂、新陳代謝による成長、肺による呼吸、心臓を動かし血液を体の隅々まで運び、細胞に必要な酸素や栄養を与え、老廃物を受け取ることなど、体の持つ機能全ては、自分の意志とは関係なく遺伝子のプログラムにより作られ、運用、管理されている。

生きているという自覚があっても、体は自分のものだと思っていても、そう考えている自分の脳の働きでさえ、作られていることに気付いていない?

人間は、知らないのに、知っている気になり、自分で生きていると思っていても、実際には自分で作った体ではなく、生かされていることになる。

もちろん親からの世話、人間社会からの助けがなければ、人間は生きることはできない。親を含む人間社会は人間が生きるために欠かせない。
以前はそれがすべてだった。人間社会はそれで成り立っていた。
試験管ベビーや体外受精などという言葉はなかった。

ところが、今は人間の存在する理由が、以前とは大きく変わってきている。
遺伝子を提供する男と女、受精卵を育てる母体、育ての親などが別々であることがあり得る時代なのである。

それは、昔の価値観のままではいられない時代に生きているという意味である
ここに、人間が事実を知り、理解することの重要な意味がある


人が皆、自分は人間だと誰でも当たり前に思っている理由

人類は、100年以上前であれば、遺伝子の存在を知らなかった。脳の働きも知らなかった。ほとんどの電化製品のない時代である。

今では信じがたいことであるが、当時の日本では、だれもが漠然と月にウサギがいると思っていた。地殻変動のプレートの存在も知らず、ナマズが地震を起こすのではないかと真剣に研究されていた。

それ以前、遺伝子も脳の存在も知らなかった時代であるが、人間とは何か、なぜ存在があるのかなど、考えてもわからないことがたくさんあった。情報が極めて少ない中で、わからなくても、その問いに対する答えを、脳の考える働きが、想像により作り出していた。

自然界に突然、地震、津波、雷、暴風雨、日照りによる干ばつなどが起きる。情報が無いため、その起きる理由がわからず、理解できず、ただただ恐ろしいと震えあがっていた。

その時代の人々が、なぜ起きるのかと考え、その答えを探しても、わかりようがなかった。

現代のような自然に関する情報はなく、わからないから、恐ろしい大自然だった。その計り知れない恐ろしい出来事から、それを起こしているものを神様にし、神様が人間を作ったなどと考えた。神様にすがるしかなく、安全を祈願し、豊作を願い、捧げ物をしてきた。

地球という考えはなかった。平らな土地はどこまでも続いていると考えた。後に地球は宇宙の中心だと考えるようになった。
それが、その時点で、脳の考える働きが作り出した新しいものであった。

生き物がみな朽ち果て死んでいくのを見ても、死が何かわからなかった。想像することにより、新しい世界を作った。死後の世界、天国、天国にいる神様、地獄、地獄にいる閻魔様などを作った。そう信じる以外に心の安らぎを得る方法はなかった。

脳があることさえ知らない時代である。自然界のことを知らず、わからない中で、考える働きが新しいものを作り出し、それを正しいものと信じるようになった。

以来数千年が過ぎる過程で、人類は新たな発見、科学技術の進歩等により、世界は大きく変わっている。

脳の働きが、考えることにより、事実に気付き、その情報を活用し、新たなものを作り出してきた結果である。人類が情報の無い中で考え、想像で作り出した時代とは、比べられないほど違う世界である。

事実に関する情報の蓄積、継続して受け継がれてきた研究など、人類社会の基盤は、昔の人々の努力と労苦の上に作られている。

それぞれ人々が生きた時代に、人間の考える力が生み出したものを大切にしたことは、その時点では正しかったと理解することはできる。
しかし、新しい時代と共に、新しい情報が増え、新しいものが作られ、新しい考えが作られ、環境も、教育内容も、社会も変わっていく。

それなのに、時代が大きく変わり続けた今現在でも、昔からの常識、価値観を受け継ぎ、それを守ろうとする人々が大半であるのはなぜなのだろうか?
これほどの情報に恵まれた時代であっても、逆に知りたくない、考えたくない、昔のままでいたい、好きなことをしていたいと、態度で示しているように見える。


事実を知ることは、学び、学習することで終わるものではないことにある。
ここに人類が抱える問題の原因、理由がある。

以前は、事実がわからないために、無いものを作り、信じてきた。
その土台の上に世界を築いてきた


今の世界が不安定になるのは、間違った価値観、無いものを信じるという土台の上に世界を築いてきたからである。

事実は、学び、学習するという単なる知識ではない。
事実とは、わからないものではない。
事実とは、大自然、宇宙の在るがままの真実、現実のことである。
事実は、理解し、受け入れるものである。

遺伝子と脳の働きが示しているのは事実である。それは真実、現実である。

この人間の真実、現実という事実の上に世界を作り直すことが、人類を永遠に救う唯一の方法、人類の未来の在り方を示すものとなるのではないかと考える。



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シリーズ48 考えることの意味

3.考えることで新たに気づいたこと

3.その1〜その4

考えることで新たに気づいたこと 3.その1

AI(人工知能)は文章を作り、様々な質問に答えるようになった。
車の自動運転にも使われ、AI が車を運転している。
AI は人間が作った素晴らしい機能であり、今までの人類の経験からすると、考えているように思える。

「AI は考えているのか?」 という疑問が生じる。
それは同時に、「人間は考えているのか?」 という質問でもある。

AI は、人間の持つ五感の機能に対する脳の働きの代わりしているように思える。
質問に答え、文章を作るだけでなく、車でさえ動かしている。

人間の目の役割をするセンサー、それに人間がどのように反応しているかに関する脳の働きなどの情報を使うことで、AI は人間と同じような動きを実現させている。

人間の目は二つ、視力にも限界があるが、人間の脳の働きは、細菌のような見えない小さなものから宇宙の限りなく広大に思えるものまで認識することを可能にする。その脳の新たなものを作り出すという 「考えるという働き」 を使い、目に代わる複数のセンサーで、人間以上の見る働きを可能にしている。

AIは、車を運転をする際、人間の不注意や交通ルール違反などを無くすことができ、格段に安全性を向上させることが可能に思える。

「AI は考えているのか?」
それは「人間は考えているのか?」と同じ意味なのかいう質問でもある。

シリーズ1の2022年4月に「考えるとは何か?」と、質問を提起し、答えを探したことが書かれている。一部を以下に引用する。

考えとは何か?
考えは何から作られているのだろうか?
ネット上で調べると、「考えること。また、考えて得た結論・判断・予測・決意など」とあるが、考えとは何かを具体的に示すものは無いようだ。
そこで、考えとは何かを考えてみた

幼児は、ことば(単語)を学ぶと、それを組み合わせて文章を作るようになる。
親を含め周りにいる人が話しかけ、主語になる私、僕から、動詞の食べる、歩く等の単語を覚え、真似するようになるからであるように思える。
それは幼いとは言え、子供の持つ意志を表す。つまり考えである。

文章は単語から作られる。文章は考えを作っている。たくさんの文章はたくさんの考えを作っている。その文章の考えとは、文章の内容のことである。そこから次の様に言うことができるように思う。

考えるとは、頭の中で文章を作ることである。
考えは、その文章の内容のことである。
文章を書くとは、考えを文字を使った文章で表現することである。

会話で意思の疎通をするとは、頭の中で文を作り、その考えを互いに伝え合うことである。


2022年4月の時点ではそう考えていたが、今は違うように思うようになった
シリーズ 48ー2 その2 に理由を書いた。

幼児は言葉を学び、覚え、真似し、繰り返すことで話すようになる。

言葉を覚えた子供は、話すことを始める。しかし、言葉を使ってはいても、言葉の意味を知らず、理解してるわけでもない。それは、言葉を活用し考えていることではない、と気付いた。

話すことは、言葉を使い、文章を作り、声を出して、言うことである。
そうできるのは、脳が言葉を使い、考えているからであると、初めは考えた。
しかし、幼児が言葉を話すのは、考えているとは言えない。
言葉を使ってはいても、「お腹がすいた」などのように、欲求に対する反応を直接言葉で表現しているだけで、考えているとは言えない。
言葉をただ繰り返すことも、考えていることではない。

言葉を使わずに「考える」ことはできるか?
考えることはできない。考えるためには、条件として言葉が必要である。
ただし、幼児期の子供の例が示すように、言葉を使うだけでは、考えていることにはならない。言葉の単なる使用は、言葉を活用し考えることとは違う。


学ぶ、学習するは、主に受け身の情報を収集することであり、
考えるは、能動的で、積極的で、新しいものを作り出すという働きがある。

学ぶ、学習すると考えるの意味は共に脳の働きであることは確かであっても、意味に明確な違いがある。考えるという言葉の意味をより正確に理解することで、言葉の使い方に修正が必要に思える。


考えるという言葉に明確な意味がなく曖昧だったのは、脳の働きが最近までわからなかったという事情があったからではないか? 意味が正確にわからなかったので、考えるという表現を、基本的に言葉を使うという意味に使ってきたのではないか。

頭で文章を作ること、文章を作って会話をすること、文章を書き日記をつけること、また悩む、心配する、評価する、判断する、決める、選択するなども考えることにしてきたのではないか?
しかし、最近その違いに気付き始めた。

良く使われる「思う、思える」という表現も脳の働きで、考えると同じような意味で使われてきているが、基本的には感情と結びついた表現で、人の持つ美しい、醜いなどの価値観の反応を表現する時にも使われ、また、人の持っている意見、主義、主張を感情的に相手に直接ぶっつけることを和らげる働きをしているように思える。


知識、情報の非常に少ない時代があり、作られた想像による考えを、真実、現実として信じてきた長い歴史があることを指摘したが、それも考えることだった。

人間はわからない間だけ、神として扱うが、わかるようになると神ではなくなるのは、信じる理由が、対象ではなく人間の理解、認識にあることを示している

科学技術の進歩が、真実、現実を明らかにするようになると、嵐、干ばつ、地震、津波などの自然現象を神によるものではないと理解するようになる。


考えるという言葉の意味は、新たなものを作り出す脳の働きのことで、全体像を把握し、質問を作り、答えを探そうとする機能のことである、と考える。

この意味からすると、AI は考えているのではない。人類が今までの考えるという表現を使ってきた大部分は、考えているのではないことになる。

人間の新たなものを作り出すという特別な脳の働きは、AIには未だない。
人間にはあるが、人類としてはそれに気づいていないのかもしれない。
この能力がどのようにして作られるかは。これからの研究課題になるのだろうか。
人類がこの能力の意味を理解し、その機能を作り、AIに与えるなら、人間の意味は失われるのだろうか?



さて、このサイトでは、今でも、当たり前に思っていることでも事実ではないことがあると個人の考えを書いてきた。

人間の考え、人間の作ってきた考え全ては、在るがままの事実、真実、現実ではない。
人間が言葉で作ってきた全ての考え、理論、思想、信条は事実ではない。
その理由は、言葉自体が、実体の代わり、想像によるイメージであり、実体を持たないからである。

事実に基づいた考え、法則であっても、人間が作ったものは事実ではない。
人間の作ってきた科学は事実ではない。事実に基づく人間の作り出した考えである。
数学、医学も学問としては、人間が作ったものあるため、事実ではない。

人類が存在する前から在ると考えられるもの、元から、初めからあるものは現実、真実であり、事実と考えられるが、人類が言葉で作ってきた全ての考え、理論、思想、信条は事実ではない。

人間が作った物は、実体から作られ実体と認識できるため、事実ととらえることはできるように思える。人類の歴史そのものは、在るがままの事実と考えることができるが、そこに人間の解釈が伴うなら事実ではなくなる。


間違っていても、今でも受け入れられている考えはたくさんある。

年を取る、年を重ねることが、老化することであると思われているが、
これは明らかに間違いである。それが理由ではないからだ。
しかし、理由がわからなければ、真実はわからない。それが理由で今でもそう思っている人が大半である。
わかる時がくれば、この考えはなくなる。

地球の自転、太陽のまわりを公転していることは事実である。
しかし、そこから作られた暦、時計の時間、明日という未来、老化などは人間の考えであり、事実ではない。ただし、人間にとって非常に便利なものである。

時間がある。人間が作った時間は、地球の自転、周期、サイクルから作られたその周期、繰り返しを計る、時計の時間である。時間は人間の作った考えである。

太陽のまわりを地球は自転しなからまわっている。それが理由で、明日がある、明日がやってくる。太陽系の外の宇宙空間にいると、その影響はなくなり、明日はない。明日がやってくることはない。地球上の時計を持っていけば、地球上での時間を知ることはできる。
(詳しくは、シリーズ33 言葉から考える時間について) 

数学は数の学問であるのは、数が何かわからないからで、数学で学ぶ自然数、整数、有理数、無理数など全ては、人間の考えで作ったものである。元から、初めから、あるのではない。



このサイトを始めた頃、「このサイトの全ての内容は未完成であり、変わり続ける可能性を持っている」と書いたが、その意味が明らかになったように思う。
言い換えると 「このサイトの内容は基本的に質問提起であり、その質問に対する答を探すという、考える過程を書いている」 という意味である。



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考えることで新たに気づいたこと 3.その2 

今まで考えてきて、わかったことを、現時点での理解として、次のように整理し、まとめてみた。

人間の脳の働きには、その一部に言葉を使うことが含まれる。
それは、人間が知的生命体であることの意味の大部分を占めている。
つまり、言葉を持ち、活用し、考える力を持っていることである。

言葉を使うことは、幼児期に始まる。
幼児に言葉を教えると、それを覚え、使うようになる。話をし、情報交換をするようになる。
ただし、この時点で幼児は、言葉の意味を知らず、理解してもいない。

AI が質問に答えるのは、人間によりプログラムとしてあらかじめ入力され、記憶され、用意された答えを返すことである。

人間が言葉を使うことは、人工知能のAI が、文章を作り、様々な質問に答えるプログラムによる情報処理と同じように思える。

今まで脳の言葉の働きを知らずに、その全てを考えるという表現を使ってきたが、脳の言葉の意味とその使い方には明らかに違いがある。

人類はそれに気付かずにいた。人工知能 AI の発達により気づくようになった。
AI は言葉を使い、考えているのか? という質問の答を探すことによる。

人類は数千年の歴史を経て、脳による言葉の働きを知り、理解することを始めたという意味である。

言葉は、定義ではなく、意味を考えることで、その働きを知り、理解し、活用するためにある。

考えるという表現を今まで通りに使い続けることは、脳の言葉の働きを理解できないままにすることになる。
そこで、簡単に分類できないように思えることもあるが、分類、整理してみた。

* 言葉の意味を明確にするために、脳の働きを以下の5つに分けてみた。

1. 思う
2. 学ぶ、学習する
3. 考える
4. 評価する、判断する、選択する
5. それ以外 (信じる、忘れる、夢など)

説明

1. 思うとは
人間の脳と人工知能のAI が同じように言葉を使い文章を作り、質問に答えている。今までになかったこの言葉の一般的な使用、広い意味に「思う」という言葉を当ててみる。

思うという表現は、考える(思考)などと区別し、言葉を使うという基本的な意味とする。これは人工知能AI の働きのことでもある。
言葉を使い、文章を書き、質問に答えるなどの意味のことである。

言葉を使うという基本的な意味の例をあげてみる。

食べたいと思う
思うとは、言葉を使い、欲求を表現すること。

美しいと思う
思うとは、言葉を使い、自分の感情を表現すること。

会話することは、思うこと。
思うとは、言葉を使い、AI と同じように、単純に情報交換すること

学校のテストで覚えたことを答えること。
覚えたことを、言葉を使い、答えることは、記憶を思い出すことで、思うことである。

単語により文章を作ること等に限定すると、それは言葉を使うという基本的な脳の働き、AI の働きのことで、思うことである。


2. 学ぶ、学習するとは、情報を収集すること。

広い意味の「思う」という意味の一部であるが、情報の収集という目的があることに大きな違いがある。

学習は自分からすることではあっても、教育などにより情報は与えられるものである。学習は情報を吸収することであり、作ることではない

人類が作ったAI の情報収集、蓄積機能は、これまでに人間、人類が持っていた情報量の範囲をはるかに越えるものになっている。


3. 考えるとは、学習により得た情報を活用し、全体を把握し、質問を作り、答を探そうとすること、新たなものを作り出すこと。

この考えることの中に、人間が自分という存在、認識を作ることが関係している
AI にこの新たなものを作り出す、考えるという能力は未だない。


4. 評価する、判断する、選択するとは、基本的に、それまでに作られた価値観で決めること。

人間の評価、判断、選択は、主に価値観の反応のことである。
感情による反応も価値観による。

価値観は、幼少の頃から言葉を通して常識として教えられ、基本的に好き、嫌いに基づく人間の好みで作られてきたものである。

その後の自らの経験などの学習を遠し、考えることにより、新たな視点で見ること、客観的に物事を見るなどの新たな価値観を作っていることもある。

幼児期に作られる価値観には、作られる基準があるわけではないが、思い込みにより、植え付けられるものである。
価値観は、人間の世界にはあるが、自然界にはない。
それが理由に、生まれ育った地域、国、言語、宗教、教育などにより人の持つ価値観はそれぞれ違っている。

人間には価値観があるが、AI には未だない。

ここに、元々規準の無い価値観を、どうやってAI にプログラムするのか? という質問が提起される。 
人間の本質に関わる問いである。


5 その他、今後の課題

情報が少なく、事実を知ることができない状況下で、脳は想像により、思い込みにより、無いものを在るもの、新しいものとして作り出し、人々はそれを無条件に信じてきた。

無い物でもあることにする信じるなどに見られる脳の働きは、なぜあるのか?
わからないことを理由に、間違っていてもわかったことにすることは、言葉と関係があるのだろうか?

忘れることは、脳の機能だけが理由で、言葉は関係していないのか?

睡眠時に夢を見ることは、思うことなのか?


今でもわかっていないことはたくさんあるが、昔と違うのは、事実を認識することの意味を理解するようになったことにより、わからないからを理由に信じることはなくなり、わからないという課題として残すようになったことである。


つづく



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人間の世界の真実、現実は、在るがままの事実とは違う。
事実とは大自然、宇宙に見られる在るがままの世界のこと。
人類は、自然界を知る、研究する、探求することで、事実を知るようになった。
科学の進歩は、事実を知る上に作られてきた。
しかし、人間の考えは事実の上に作られてはこなかった。
多くが感情という価値観の反応の上に作られている。
ここに科学と人間の進歩の間に、大きな開き、違いが生じた理由がある。 


考えることで新たに気づいたこと 3.その3

大人が幼児に言葉を教えるとき、何を教えているのか? 
幼児は何を学んでいるのか? 言葉とはいったい何なのか?


日常の一場面:
テーブルの上に赤いりんごが置いてある。
母親が2才の娘に「美味しいりんごだよ、りんごを食べようね」と言って、りんごの皮を剥き、切り、一つを皿の上にのせて渡した。

何度となく繰り返される会話の一場面であるが、こうした会話を通して、言葉が子供に伝えられていく。

会話により、りんごという実際に存在する食べ物の名前を教えていることはわかる。
りんごは食べ物の名前、名称、単語であり、言葉である。

この言葉を教え、教えられてきた長い間、言葉の働きに気付かず、見落としてきたことがある。

それは、脳とその働きを知らなかったために、言葉が何かわからず、物と言葉か同じだと思い込んできた背景でもある。

何を見落としてきたというのだろうか?
言葉の働きとは何なのか?

シリーズ1から何度となく説明してきた過程を経て、ようやく言葉の意味が、はっきりと明確になってきたように思う。

日本語では、単語、文章、考え、考えから作られるもの全てを言葉と表現している。
単語は一つの物に付けた名前のことで、言葉の元、基本である。
英語で言葉はワード WORD で、単語である。言語ではない。
単語が集まると文章になり、文章が集まると考えになる。考えから様々な話、意見、理論などが作られる。

言葉の元、言葉の基本は単語である。
単語は、物に付けた名前のことである、と書いた。
そう教えられ、そう思っていた。
ところがここに、今まで気付かないでいたこと、見落としてきたことがある。

単語は、物に付けた名前だけではないことである。

他に何があると言うのか?

言葉としての単語の意味は名前だけではない。

単語には五感からの情報が含まれている。
一般的には、見ることによる情報がその単語の名前と共にある。
簡単に言うと、画像(イメージ)のことである。

りんごという名前を聞いただけで、りんごを思い出す。
思い出すのは画像である。なぜ画像が出てくるのか?
脳に記憶として作られ、蓄積されているからである。

脳の働きを知らなかった時には、画像がイメージとして記憶に残されることを知らなかった。
それで、物と名前が同じだった

言葉としての単語の正確な意味は、物の名前と五感からの情報である。
簡単に言うと、単語は物の名前と画像(イメージ)から作られている

これを理解できたなら、以下の説明から、言葉の働きを理解することができる。



言葉(単語)とは何か?

物にはそれぞれの名前がある。
単語(言葉)は全て、画像のイメージとそれに付けられた名前である。

重要なのは、その名前が物にあるのではないことである。

そんなことはあり得ないと思う人もいるかもしれないが、
ここに今まで気付かないでいた重要な事実がある。

その名前は物にあるのではなく、脳に単語(言葉)として、つまり、物の画像のイメージとそれに付けた名前として記録されている

実体を見るとき、その名前を呼び起こし、みかん、イチゴ、バナナなどと表現するが、それは脳にある単語(言葉)である。

実体は五感で認識できる物、存在そのものの意味である。

「物に名前があると教えられてきた。しかし、これは事実ではない

物(実体)は名前ではない。言葉ではない。物に名前があるのではない。



その説明:

物である実体に名前を付けてみる。物を名前で呼んでみる。
その物に付けた名前で呼ぶようになると、その名前が物になる。それに慣れてくると、物と名前が同じになる。

物に名前を付けたから、名前があるようになり、その名前で物がわかるのであり、
名前を付ける前に物に名前はなかった。物は名前ではない。

実体は同じでも、呼び名を変えることができる。
物という実体に名前は初めからあるのではない。名前を付けたから名前がある。
その名前は物にあるのではなく、人間の脳に言葉(単語)として残される。

ここに果物がある。りんごである。英語ではアップルである。
言語が違えば、名前が違う。同じ実体に対して言葉(単語)が違う。
実体その物は同じでも、付けられた名前が違う。

このことは、物に名前があるのではなく、名前を付けたから言葉(単語)としてあり、その名前は実体にあるではなく、脳にその名前、名称、言葉として記憶されていることを示している。


人の名前
昔から、人は名前で呼ばれてきた。名前イコール本人であるかのように思われている。誰もそれに疑問を持たないできた。

赤ちゃんが産まれると名前を付ける。初めは、子供の名前に慣れていないため、違和感がある。しかし、名前で呼ぶことに慣れてくると、名前がその子になる。

人の名前は固有名詞であるが、同姓同名の人はたくさんいる。人口が多いと同じ名前の人がたくさんいるようになる。
つまり、名前が同じでも、本人とは限らない。違う人である場合もたくさんある。

実体である人間にはそれぞれ名前を付けられている。初めに名前はなかった。
名前は、その人ではないが、名前に慣れるとその人のように思い込む。
人の名前とその画像に当たる言葉(単語)は人間の脳にあり、個人を見分ける(識別する)情報として使われている。


みかんを見てりんごと思わないのはなぜか?
みかんを見て、りんごと思う人はまずいない。
なぜ、みかんをりんごと思わないのか?
その理由は脳にある。

脳には、みかん、りんご等の情報がある。みかんとりんごは言葉(単語)として、画像と名前が記憶されている。その単語が持つ画像が一致せず、脳が違いがあると判断している。その違いから、みかんをりんごと思うことはない。

もし脳にある単語の画像が同じであれば、みかんとりんごの区別はできない。
もしその画像が反対であれば、りんごがみかんになる。

人々の脳にある物に対する単語(画像と名前)は、言語が同じであれば、基本的に共有される。その共通の単語から作られる文章や考えを、情報として伝え合い、互いに理解することができる理由である。それが言葉である


単語の持つ可能性の意味
実体を見て、りんごと教えられる時、実際のりんごには色、大きさ、味など違うものがある。りんごは一種類の果物に付けられた総称の意味でもある。

初めに見ている実体を言葉(単語の名前)として教えられるが、経験と共に、その言葉(単語)には新たな情報が付け加えられていく。

絵本を見て本という言葉を教えられても、本には違うものがたくさんある。言葉は実体でないので、地球上にある無数の本を、本と表すことができる。言葉の持つ意味は深淵である。

物は実体であり、五感で存在として認識することができる。
単語(言葉)は、実際に存在する実体ではなく、脳に画像と名前の記憶としてある。その言葉(単語)に新たに学ぶ情報が付け加えられていく。

脳にある言葉(単語)の画像はイメージなので、例えばりんごは大きくすることも、小さくすることも、色を付けることも、ナイフで切ることも、手に持ってボールのように空中に高く投げるなど、どのようにも想像することができる。

このことは、言葉(単語)に意味を持たせることはできても、明確な定義を作ることはできないことも意味する。
その理由は、言葉(単語)は無限に広がる情報を持つことができ、そのイメージは変幻自在に変えることができるからである。

物は存在である、実体であるが、そこに名前と意味を持たせているのは、人間の脳の働きである。人間が物に名前を付けなければ、その存在に名前はない。

母親が娘に 「美味しいりんごだよ、りんごを食べようね。」 という会話をしている時に使われる美味しいという表現も言葉である。
美味しいは、五感の味覚の快い、好きに当たる。まずい、不味いは、不快で、嫌いに当たる。
人の持つ価値観のことであるが、知らない内に言葉と共に子供に伝えられていく。
知らない内に、人が価値観を持ち、それを当たり前のように思ってしまう理由である。


マイケル アレフ 2025年10月


上記の内容 「物に名前があるのではない」 ことが意味するのは、
思い込み、信じることにより、
無いものをあることにしていることがたくさんあることである。



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価値とは?
脳は五感からの入力に違いを認識するが、その違いは物の価値ではない。
違いは在るがままの情報で、事実である。
人間は、その違いに価値を付け、良い、悪い、美しい、醜いなどの
価値観を表す表現に変えている。

違いを価値観に変えることは、在るがままの事実に価値を付けて、
人間の世界のものにする(変える)ことである。
そこに人間の世界が現実、真実であると思っていても、
在るがままの事実ではない理由がある。


それは、地球上の人類が事実とは違う独自の世界を作っていることを意味している。


考えることで新たに気づいたこと 3.その4

価値の意味について

人間が物の存在を知るのは、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触るという基本となる入力器官の五感と、そこから得られる情報を処理している脳の働きによる。

* 物の価値は五感からの情報によるのか?

一つの例で考えてみよう。

目で見えないように目隠しをしてみる。
目で見ることができないと、見ることから得られる情報は脳に伝わらない。
目からの情報が脳に伝わらないと、その結果として、物が見えない。物が美しいことも、醜いこともない。

物を見ること自体と、物が美しい、醜いは、別の働きなのか?

言い換えると、見るという目の働きが、物の美しい、醜いという価値を決めているのか?
それとも目ではなく別の働きなのか?

目は、見ることの入力器官で、実体の画像、映像により形、大きさ、色、明るさ等の情報を神経細胞により脳に送っている。
送られた情報は、物を表す言葉(単語)に情報として付け加えられ、蓄積される。

この情報に初めから美しい等の価値が付いているのだろうか?

今日に至るまでの数千年以上の間、人類は、五感と脳の存在、その働きを知らず、気付かずにいた

それまでの人々の認識は、見えるのは、目があるからだった
目で見ていたのではなく、目が見ていた。
物は、見えるもの、実体そのもの、存在そのものであるが、
目が直接見て、認識していた

物の名前は物にあった。物が名前だった。

美しいは、物にあった。花が美しいのは、美しさが花にあるからだった。絵画が美しいのは、絵そのものが美しいからで、人が美しいのも、その人が美しいからだった。

醜いは、物にあった。醜いのは、対象そのものが醜いからだった。

人々は皆、同じように思い、同じ認識だった。
物に名前ある、価値があると信じて疑うことはなかった。

五感と脳の存在とその働きを知らなかったことが、事実を知らず、理解できない理由だった。

これが物に価値があるのではないのに、物に価値があることにしてきた理由である。

物に名前があると思うのは、前提に、人が名前を付けたからあるのであり、物に初めから名前があるのではない。
価値も同様に、初めからあるのではなく、価値を付けたからあるのである。


* 物に対する価値観は、五感からの情報でないなら、
なぜ物に価値があるようになるのか?


前回、物の名前と画像(イメージ)を持つ単語(言葉)は、脳に記憶されていると説明した。そして、その単語(言葉)に明確な定義はない理由を二つあげた。

1. それぞれの単語に情報が付け加えられていくが、その付けられる情報に制限はなく、限定できない。

2. 単語につけられたイメージ(画像)は脳にあり、固定したものではない。想像により、変幻自在に、どのようにも変えることができる。


得られた情報に意味を持たせ、価値を付けている理由は、の 単語(言葉)に、付け加えられていく情報の中にある。

違いを認識する脳は、単語に対象となる物の情報を持たせる時に、価値を付けている。

情報そのものは、脳に違いを気付かせるが、違いそのものは在るがままの事実である。
その事実に、価値という意味を持たせているのは、人間である。

個人の場合、価値を付けている情報とは、その人にとって、快い、不快という、物にたいする好き、嫌いという、主に好みのことである。

物に価値があるのではなく、人は物に意味を作り、好みにより価値を付けている。

例えば、リンゴ、イチゴ、バナナという単語には、美味しい果物で、体に良い食べ物という意味があると思っていても、それだけでは、全体を見ていることにならない。先入観になる。
その果物に健全な意味があるのではない。人間がその意味を付けている。

その果物の賞味期限が過ぎ、腐っていても、リンゴはリンゴ、イチゴはイチゴ、バナナはバナナである。同じ単語でも、物に価値があるのではない。健康に良いという食べるものとしての価値はなくなる。価値は作ったからあることを忘れている。

人がどのように条件を作るかによって、物には価値があることにも、価値がないことにもなる。
条件を意識せずに作っていることもあるが、その条件が価値の元である。
その条件の中に、好き嫌いという好みが含まれている。
基本的にその好みの情報が、価値観を作り、持たせている。

人はその人の好みにより物、人、動物、花、何にでも価値を付けている

もし物に価値があるのなら、価値は決まっていて変わりようがない。人は同じ価値観を持つことになる。しかし、実際には、人によって好みは違い、価値観も違う。

何にでも価値を付けたり、変えたりできるのは、物に価値があるのではないからである。
物の価値が変わるのは、人間が価値を付け替えているからである。


つづく


次回の予定 考えることで新たに気づいたこと その4-1

価値の具体的な例として、人間は物と同じように人、人間に価値を付けているのか?
この課題を考えるまで、人に値段を付けられるとは、考えてもみなかった。
人間には、同じ人間に価値を付け、奴隷として、人間を売買してきた長い歴史がある。



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考えることから見えてきたこと  3.その4

1.人間の存在と価値の意味
2.人間は価値をどのように作っているか?
3.人間の価値と未来を考える


11月30日(日) 

その4ー1 人間の存在と価値の意味について

人間は人間に価値を付け、奴隷として売買してきた長い歴史がある。今でも人身売買が行われているという報道を耳にする。

人身売買は違法であり、国際条約としての決まりがある。

人身売買は、昔の奴隷制度とは違う意味を持つようになり、今ではその制度というより、子供や女性の人格を認めず、物と同じように売買の対象にする行為、人間としての権利を奪い、踏みにじるような悪質な行為をさせることも含むようになってきている。
人間が、人間の尊厳を無視し、価値を決め、利用しているという意味である。

人身売買ではないが、人間は日常的に、人に良い、悪いという価値を付け、評価、判断、区別している。
個人のレベルで人を良い人、悪い人、偉い人、愚かな人と思うし、そう評価することは広く見られる。

人間には、自分たちの思いで、他国の人を見下し、奴隷のような扱いをし、敵にしてきた歴史がある。敵にすることで人を殺すことを正当化し、戦争をしてきた。
同じことが今でも行われている。

今までに殺害された人の数は数千万人をはるかに越え、数えきれない。
これは人間の一面ではあるが、ここに人間の恐ろしさ愚かさを認識することができる。
人間は価値を付けて仲良くすることも、敵にすることもできることである。
人間は人の価値を無くし、存在価値を無くすことができる。物に価値をつけることと同じようにである。人間が人の価値を決めている。

なぜ価値を決められるのか?

それは、自分の国、民族、文化などに優位性があると信じ、主張してきたことに表れているように思える。その優位性という価値観を持ち、決めることが、人類が抱える多くの問題を引き起こす原因ではないか。

例えば、価値は富んでいる人、貧しい人などの、貧富の差を作る。
物、人の価値を決めることが、差別を生む。
人を嫌うこと、嫌なやつだと思うことが、差別を生む
いじめは、差別から、人の価値を決めつけることから始まる。
差別は自分に優位性があり、他人を見下すこと、価値を決めつけることで、それが争いに発展する。犯罪、殺人、戦争の背景にある。

人間が物を含め全ての価値を決めている。
人間の存在価値を決めている


しかし物に価値があるのではない。
宝石は自分の価値を知らない。

土地に価値があるのではない。
土地は自分に価値のあることを知らない。

人間が宝石や土地に価値をつけ、売り物にする。
それを買えば、自分のものになると思っている。
これは、人間が決めている人間の価値の世界である。

この価値を付けることが、それぞれの国が、それぞれの土地の所有権を主張し、防衛のために膨大な資金を積み込み、他国からの侵略に備えをしている背景である。
互いに戦争の脅威を自ら作りながら、互いに疑心暗鬼になっている。

人が自分の土地があると思えるのは生きている短い間だけである。国が約束して守っている間だけである。
しかし、国家が守ってくれても敵が攻めてくれば、国家の土地はなくなるかもしれない。
ロシアはウクライナを侵略した。侵略は昔からあることだ。人間は正当な理由を何であれ作り出し、正当化する。

土地に価値はない時代もあった。誰の土地でもなかった。
土地は誰のものか? 誰がそれを決めたのか?
全ては人間が決めている。

地球外にいる高度な知能を持つ生命体から見れば、人間、人類はなんと愚かなのだろうと思うのではないか?
人間の子供でさえ、人間の大人の愚かさに気付く。

地球を、個人、国家、人類のものと考える限り、人間の社会が安定することはない。
地球は、人類を含む生命体が生きていくために間借りしている場所であり、宇宙もそうである、と考える。

国が持っている自分達の優位性という価値観をなくし、人類という視点で考えれば、今までとは違う新たな道を開くことができるのではないか?

新たな道とは、人間である自分達の恐ろしさと愚かさに気付き、人間の持つ優越感に基づく価値観を修正する方法を考え出すことであるように思える。


つづく


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12月14日(日)
3.その4ー2 人間は価値をどのように作っているか?

* 価値は情報により作られる

人間の言葉である単語、それから作られる文章、文章から作られる考えは全て情報である。画像、映像も情報である。
物だけでなく、あらゆるものに情報がある。
人間を含む全ての生命体は、その体そのものに情報を伝え合うシステムがある。
この情報の世界、情報を伝え合うシステムのことを、シリーズ1の中で「ことば」と表現したが、それが何かはよくわからない。学問として探究に値する課題と考えている。

情報には、提供される時期、提供者、内容など様々なことが考えられるが、人間が提供する情報には、健全と思われるものから、嘘、偽り、間違い、危険を伴うものまである。

幼いころ、嘘つきは泥棒の始まり、人を見たら泥棒と思え、と教えられた。

人間の社会からの情報に注意が必要なのは、事実との違いがあるからで、嘘、偽り、間違いに気付き、それを避け、騙されないようにする必要がある。

人間は、入力される情報に注意することが必要であるが、注意が必要なのは、入力される情報だけではない。
すでに人間、人類が持っている入力された情報にも、間違いがたくさんあると考えられる。
それは、持っている価値観に問題があることに気付いていない人類の姿である。

情報が人間に影響を与え、価値観を作っている

以下の英文は、以前シリーズ46で紹介したものであるが、情報が人間に影響を与え価値観を作っていることを示す、考えるためのサンプルとして取り上げてみる。

A Great thinker was asked, 'What is the meaning of life?'
ある偉大な考える人は、"命の意味は何か" と質問された

He replied, “LIFE ITSELF has no meaning. It`s an opportunity to create a meaning.”
彼は答えた。“命そのものに意味はない。それは意味を作り出す機会である。”

これを初めて読んだ時、興味深い文章、情報であると思ったが、
改めて、ここで質問し、考えてみよう。

彼は初めに、命そのものに意味はない、と答えている。
それなのに、次に、命は意味を持たせるためにある、と言っている
それは、命そのものにも意味があることではないか?
これは矛盾ではないか?
これは、偉大な人の考えることなのか?
それとも、ちょっと変わった人の考えたことなのか?


これが、次の質問を提起させた。

偉い人はいるのか?
もし、いるのは当たり前なら、劣っている人もいるのか?
それは良い人、悪い人がいると思うことと同じではないか?


なぜ偉い人と思うのか?

今までに何らかの方法で、その言葉がそう考えるように情報が入力され、その価値観を作っているからではないか?

この文の初めに、ある偉大な考える人が質問された、とあるが、
偉大なとか、偉いという表現は、書いた人の持っている価値観を表しているのではないか?

そう表現している時点で、自分たちと比べて、優れているという思いがあるので、そう表現したと考えられるが、書いた内容を強調するためかも知れない。

その思いが、価値観が、自由な考えを阻害している

比較することで、自分が、自分たちが劣っていることを示し、
偉くない自分たちは、偉い人のようにはできないと思い込ませる。

しかし、何であれ、何をするにしても、人間は初めから偉大な、できる人間はいない。
偉い人などの価値観を持つことは、自分はできない人間にすることで、事実に反し、間違いではないか?

事実を知らないことに理由があるように思える。

現代の科学、医学が明らかにしている情報を知らず、その認識がないために昔からの人々の持っていた古い情報を基に、古い価値観で判断している?

人間はヒトゲノム遺伝子を受け継いでいるという意味で同じ人間であり、
生まれつき体に違いはあっても、能力に差があっても、差別を正当化する理由にはならない

人間に偉いはない。劣っているもない。人間は皆、人間である。
人間は持っている価値観で人に価値をつけて差別しているが、事実に反し、間違いである。間違いとは現時点で修正が必要であると考えることである。

人間の情報には間違いがあり、わからないとそのまま受け入れてしまい、それを信じると、殺人さえ正当化する。人間は人間を大量虐殺してきたことを歴史が示している。戦争はその具体例である。

人間は恐ろしい存在になれる。正しいと思い込み信じれば、誰であっても殺人を犯す動機にする可能性がある。

価値観が作られ、そう考えるようになる前に、情報を吟味する必要がある。


偉大な人が、命そのものに価値はない、価値を作り出すものであると答えた。
その情報は正しいか?

情報は、その時代の進歩している状況によっても、個人の視点、育てられた環境、置かれている立場、教育等によって違って受け止められる。
命という言葉も、視点によって、考える答えは違ってくる

偉い人の言うことは正しいか?

イギリスのかつての首相チャーチルの知恵の言葉がある。
人生における最も大きな教訓は、愚かな者達でさえ時に正しいと知ることである。

それは何を伝えているのか?

偉い人でも時に間違える。愚かだと思う人でも正しいことはある。
特別に思える人はいても、元のヒトゲノムは人間としては変わらない。

考える力による謙虚さがなければ、人間は愚かになり、恐ろしい存在に変身する。
誰であってもその可能性がある。間違いの無い答えがあるのではない。



情報に関して重要なのは現時点で少なくとも、次の2点をを知り、理解し、認識することと考える。

1. 在るがままの事実
2. 人間に絶対はないこと


説明

1. 在るがままの事実とは

大自然、宇宙に見られる在るがままの姿とは、人間の脳が五感を通して入ってくる情報に、人間の持つ価値観の影響をなくして認識すること

在るがままの世界に、人間の世界の枠は無く、無限に広がっている。
その中に一番はない。一番強い、一番頭が良いはない。偉いも、愚かもない。

違いを意識することは自然である。しかし、人間は、その違いに価値を付けて美しい、醜いと評価し、それを価格に変えて利益を追求し、優越感を求め、差別する。
それは人間の世界にはある。つまり知的生命体の成長の過程や段階としてはあると考えられる。が、自然界にはない。

人間が作った考え全ては、事実ではない。事実に基づいていても、事実とは言えない。

人間の世界は、人間の考えで作られてきた。
考えは、単語、文章で作られる。その言葉に実体はない。言葉は実体の代わりである。
今までに作られてきた考えは、当たり前に思え、便利なものであっても、人間が作ったもので、事実ではない。

それは、情報が少ない昔に作られた空想による天国、地獄、神々、悪魔だけではない。
無いものを在るとしている考えは、気付いていないだけで、今もたくさんある。

地球の自転、太陽のまわりを公転していることは事実である。しかし、そこから作られた、過去、未来、時間、年齢による老化などの考え全ては事実ではない。人間の作った考えである。

元素、原子の発見、原子力の開発、ヒトゲノム遺伝子を発見し応用さえできるようになったが、人間が自分達が発見し、作ったと思っているなら、それは違う。全ては人間が発見する前から存在している。

無限のエネルギーを作り出す核融合の開発に取り組んでいても、太陽は50億年前からそのエネルギーを放出している。
AIは素晴らしい技術だと思っていても、プログラムは数十億年も前から生命体として存在している

人類は知らなかっただけで、全ては元々ある。気付かないでいるだけである。
そして、事実を認識していない間に、無いものをたくさん作ってきている。

情報に注意が必要であるのは、これからのことだけではなく、今までの過去に作ってきた情報を含め、修正する必要があるからと考える。


2. 絶対はない

完全、完璧、無限、永遠、絶対、100%、最高、一番などの表現があるが、その言葉の意味がわかって使われているとは言えない。

その言葉は一定の枠の中において、一定の限定した範囲の中で成り立つ考えである
その枠内であれば人間の作った物、作品、理論などについて、完全に正しい、100%間違いはない、完璧に正しいという表現を使うことができる。最高の出来、一番良く出来たとも言える。

成績を比較することで、学業やスポーツ等の結果を一定の枠の中で、クラスで一番、学校で一番、東京都で一番、県で一番、日本で一番、世界で一番の業績と表現することは出来る。
しかし、それには条件がある。一定の枠の中でという条件である。それは、現時点では、人間のいる地球上ではという条件がある

つまり、一番であっても、地球に限定せず、太陽系、銀河系、見える宇宙の範囲の中でとなれば、一番ではない。

無限という枠、言い換えれば枠が無く、条件がなければ、完全、完璧、無限、永遠、100%、最高、一番などは存在しない。

これが絶対はないという意味である。
絶対とは、永遠、無限、枠の無い、条件の無い、人間という枠を越えていることである。

ところが、絶対はないのに、絶対があると思わせてきたことがある。
それは、無いものを在るとする、信じるという行為である。
今までの信じることが、何であれ、あることにしている

正しいという意味はその時点で、間違いがないと考えられるという意味でしかない。人間に、絶対正しいはない理由である。

もし、信じるなら、何であっても、存在がなくても、あることにすることはできる。
価値を信じれば、殺人でも、戦争でも、何でもできるのである。
それが長い間、利用されてきている。
人間の指導者は権力により、情報を操作し、大衆を信じさせることで、思うように利用してきた歴史がある。



* 命そのものに意味はないとと考える理由はあるか?

命とは、人間だけでなくあらゆる生命体を意味する。命は生命体を活かす元、エネルギーのようなもの、命の息という表現もあるが、よくわからない。

数百億の人間が死んできた。そのほとんどの人の記録は残っていない。
人間の命に意味はないと思う理由になるかもしれない。

命とは意味を作り出す機会である。それも、確かにあり得るように思える。
人類が文明を進歩させ、科学、医学の恩恵を受けていることは、今までの無数の人の働きにより、命の意味を作り出してきた結果である。

命そのものに意味はないと答えても、命には意味があると考えることはできる。
命は食べ物であり、生命体は全て他の生命体を殺し食べている。

食物連鎖があり、人間はその頂点にいる。
人間だけが食べられていない。
人は死んでも、焼却されて灰になることも多い。
その死んだ肉体に意味はないのか?
人間はなぜリサイクルの対象にならないのか?

人間に対する人間の考えが、価値観により制約、制限されている。

人間の脳死は死である。死んだら人間の意味は失われる。

人間の自由な考えを阻む価値観は正しいのか?


人間が食物連鎖の頂点に居続ける理由はあるのだろうか?

人間の命は特別であると考えることはできる。
命に意味も、価値も付けることができる。
人間には考える力があるからだ。
新たなものを作り出すことができる
人類がそれを活用すれば、もっと違う社会を作り出すこともできる。

人間だけを価値観により特別扱いするのではなく、自由な考えを活用することを考えてみることはできないか?
知的生命体の持つ可能性をさらに拡げ、あるがままの自然界と調和するように考えることはできるのではないか?

事実とは在るがままの世界のことである。
人類が生まれる前からある世界のことである。
人間の世界は人間の価値観の上に作られている。

人類が事実と調和させるという理想を掲げて、考える力を活用することが、人類としての永続する道なのかも知れない。


つづく

次回の予定 12月28日(日)
その4ー3 人間の価値と未来を考える


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3.その4ー3 人間の価値と未来を考える
Part I

人間の世界は、人間の考えで作り上げた世界である。
真実、現実は人間の世界、人間社会、その枠の中にある。

人間の考えで作られたものは、素晴らしいと思えても、全てが事実なのではない。
当たり前に思っている便利な考えでも、人間が作った考えは、真実、現実であっても、事実とは限らない。

今まで真実、現実を、事実と同じような意味で理解していたが、違いに気付いた。

地球上に住んでいる人間の世界は、宇宙の中にある非常に限られた世界で、無限に見える宇宙と比べれば無いに限りなく等しい世界である。
それなのに、地球上にいる人間は自分達の世界が全てのような考えでいる。

地球上の人間社会の視点で考えるか、大自然、宇宙からの視点で考えるかという、見る視点の違いが関係している。

人間の地球上の小さな世界の真実、現実に対し、事実とは、無限の広がりの中で在るがままを意味する言葉である。
事実は時間、空間などの制限のない大自然、宇宙の中での真実、現実を意味する。

人間の考えは、地球上に住む人間の考えであり、今までに作られた考えは、事実とは言えない。大自然の事実に基づいて作られたものであっても、事実とは限らない。

当たり前に受け入れられてきた考えは全て、人間により作られたもので、基本的に人間の世界に通用するものである。
言い換えるなら、人間の考えは、人間の世界では、真実、現実であっても、大自然、宇宙にある事実と一致、調和しているのではない。

事実とは何か?  繰り返しておくと、
事実は時間、空間などの制限のない大自然、宇宙の中での真実、現実を意味する。
ただし、全ては変わり続けていると考えられるため、事実が普遍的なもの、絶対的なものであるという意味ではない。

言葉は対象となるもの代わりであり、その対象は実体だけに限らず、存在しないものや、嘘、偽り、間違いも含まれる。
言葉は対象の代わりであるため、言葉で作られてきた考えは、実体ではない。

具体的な例で考える

* 遺伝子
人類は最近まで、遺伝子の存在を知らなかった。生命体は遺伝子により作られていて、新たな技術が作られ応用されている。人間はヒトゲノム遺伝子より作られる。

人間の親は誰か?  今までは親に決まっていると思っていた。
現在では、親と言っても、遺伝子の提供者、母体の提供者、育てる親がいる時代である。その全ては変更可能である。つまり決まっているとは限らない。
その中で、人間の遺伝子が人間になるために欠かせないことは間違いがない。人間の考えでは、遺伝子が人間の親ではあり得ないと思う。 しかし、人間の元は遺伝子ということになる

人間社会、人間の考えでは、人間の親は人間であっても、視点を変えて大自然、宇宙から見ると、事実は違うとわかる。


物、物質は様々な元素でできている。水は、酸素と水素の化合物である。
今でも、気体の酸素と水素から水が作られることなど、学校で学ばなければ、あり得ない考えである。人類は長い間その事実を知らなかった。
事実は人間が存在する前から基本的に変わっていない。
人間が知らなかっただけである。

人間は様々な考えを作ってきた。その考えにたくさんの間違いがある。
当たり前と思っていることに間違いがある。


* 明日という未来はあるか?
誰でも疑うこともなく、あると思っている。

明日という日は、地球が自転しているため、地球の表面が太陽の光を受けて、明るくなり、やがて暗くなることを繰り返すことから作られた。
明日を未来と呼ぶが、未来があるのではなく、地球の自転により明るい面と暗い面が繰り返すことがあるだけである。太陽がない場所なら、明日はないことになる。
その繰り返しである明日を未来と考えていても、人間の視点による考えであり、事実ではない。

人間の考えで作られているもの、例えば暦、一年、一日、一時間などは、人間の考えで作られているため、事実とは言えない。

事実とは、人類が生まれる前からあるもので、例えば、自然界に見られる地球の自転、地球が太陽のまわりを公転していることなどは事実である。


時計は時間を計る便利な道具、物であり、実体であるが、時間は考えであり、事実ではない。

時計はサイクル、繰り返しの間、人間が作った時という間、基本的に一秒を計測している機械である。

時間は、人間が地球の自転そのものから作り出した考えである。
地球の自転一回転を一日とし、一日を24に割った一つを一時間と決めた。それを60に割ったのが一分、一分を60に割ったものが一秒である。これらは全て、地球の自転という事実から、人間が作った考えである。

その考えは地球上の人間社会にとっては真実、現実であっても、大自然、宇宙の事実ではない。

時間があると考えるようになったが、時間は人間が作った考えであり、事実ではない。時間が事実ではない理由は、それは人間により作られた考えであるからで、大自然、宇宙の事実と一致していないし、調和していない。

人間が時間を作る前に、時間はなかった。人間が時間を作ったから、時間があるようになった。数十億年前などと言うが、時間は人間の考えであり、事実ではない。

地球の時間を基準にすると、地球上での2年は、火星ではおよそ1年になる。太陽を公転している惑星の位置により、何を基準にするかで時間は変わる。

今の基準は地球上での人間が作った考えで、一年は地球上では一年であっても、地球上以外では同じではないため適応されない。
つまり、地球の自転は事実であっても、そこから作られた、一年、一時間、一分、一秒は地球上の人間が作った考えであり、事実ではないからである。

これらは、考えればわかることである。人間が作った考えは、事実とは限らず、全宇宙で通用するものとは言えない。

同様に、人間の考えで作られている数学、物理学、医学、などの学問における考えは、事実に基づいて作られてはいても、事実とは限らない。そのため、信頼に値する理論とする前に細心の注意を払いチェックが行われている。

考えで作られた正義、平和、人権などの考えを含め、美しい、醜い、良い、悪いなどの表現は、人間の世界に特有であり、人間の世界でしか通用しないと考えられる。

人間の考え(価値観など)は、人間の世界では、真実、現実であっても、自然界の事実とは違う。宇宙では、通用しないとも考えられる。

今までの人間による作品はなるほどと思えるように作られてきたため、事実よりも真実に見えるものもある。
ここに間違いがあることに気づかなくなる問題がある。


Part II

古代ローマのコロシアム(コロッセオ)で、グラディエーターが人間、野獣と戦い、聴衆はそれを見て楽しんでいた。

ローマの時代は終わり、現在では生身の死闘を楽しむことは許されないようになったが、それに代わって映像で楽しむことはできる。
仮想現実の世界を作り、その中にいると、全てが許されるように思える。
戦いでは、その主人公になって、自分が相手を残虐に殺し、スリルを楽しむことさえできる。

現実との違いがわからなくなって、自分がいる世界が、仮想現実かどうかもわからなくなっていくのだろうか?

知的生命体の成長過程には、人類の歴史が示すように、戦いに明け暮れる時期、好戦的な時期があるのかもしれない。
人間の傾向は、今もその時期にあり、変わっていないように見えるが、終わるのだろうか?

人間の好戦的な傾向はスポーツ競技などという形で今も存続し、一番を目指し、誰が、どのチームが、どこの国が一番強いかを競い会う。

争いは勝つことに闘志を燃やし、優越感を満たすことに理由があるのだろうか?
勝つことは、力を持っていることの証明であり、正義を正当化する理由にもなり、優越感に満足を与えてくれる。

争いは今も、人間の、人類の特徴であることは確かに思える。

勝利の優越感という価値は人間が作ってきたものである。
戦う理由も、敵も、人間が作っている。

憧れの最強のスーパーヒーローは、人間が作る小説、マンガ、テレビ番組、映画にも取り入れられ、その創作は面白く、楽しく、素晴らしいと感動するものさえある。
夢と希望、勇気を与えてくれるものもある。
人間の創作能力の素晴らしさを実感する。

昔から、人は新たに作り出す人間の作品を楽しんできた。
それを大衆は歓迎し、大いに楽しんできている。

人間の世界では、毎日の生活は、同じ繰り返しに思え、刺激が少なくなっていき、人はそのままでは満足せず、変化を求め、新しいものを探す。創作は人間のその要求に答えてきたように見える。



鏡に写る自分を見て、自分を美しいと思う人はいる。そう思わない人もいる。

本来、美しい/醜いはない、と書いてきた。
それは人間が価値を付けた結果であるからで、入力される情報に価値が初めから決まってはいない。

美しいは、時代でも変わる。人によっても変わる。そうなる時代背景もある。
価値が変わるのは、時代と共に変わっていく人間が付けるから。

美しく見せるために、髪型を変え、化粧品を使い、高価な装飾品で身を飾り、美しい服を着て、より美しく見せようとする。
自分は優れていること、優秀であること、力があること、を示すため、優越感を満たすためだろうか。

それは、在るがままの自分を、本当の自分の姿を見せないようにすることではないか?

自分を隠し、騙す人がいるから、人を信頼することができなくなるのだろうか?

それが自分にって、美しいと思っているからだろうか?
金持ちで、富を見せ、これ程までに裕福だと見せたいのだろうか?
自分を美しいと思わせる人がいる一方で、必要な手入れはしても、在るがままを見ても美しいと思わない人もいる。

視覚だけではなく、聴覚、味覚、臭覚、触覚も、人間の好みに合うように新しいものを作り出している。

単純だと飽きる。慣れると他のものを利用してみたくなる。
何であれ、満足することを知らないと、欲しくなる。
欲しくなるように仕向ける利己的な世界がある。

元々自然界からの情報はそのまま、五感を通して入ってきていたが、人間はその全てに自分達の好みに合うよう、価値を付け、その表現を作ってきた。
事実から新たなものを作り、人間の世界に変えてきた。

在るがままのものは、面白くない。つまらない。飽きる。
新しいものを欲しがる。
人間に優越感、欲望がある。
ここに、人間が抱える多くの問題の原因があるように思える。

これらのことは五感から入ってくる情報の多くが、人間の好みに合うように加工されていて、それは在るがままの事実とは違うものになっていることを示している。

自然界には嘘、偽り、間違いはなく、在るがままである。
しかし、人間の世界は、あらゆるものが、それを加工した作り物の世界であるように思える。人間が人間のために作り替えた世界のように。

なぜ作り替えてきたのか?
単純に思うことに、飽きる理由があることに気づかないできたのか?
事実に、単純な物はないが、人間は単純だと思い込んでいる。
今までの慣習からか、そう思い込まされている。

単純だと思っていたものであっても、単純にしか思えなくても、侮ることなかれ、知らないだけで、複雑、怪奇、底知れぬ内容なのである。それが在るがままの大自然、宇宙である。

一部の人だけが事実を追求し、大衆は、考えるという、新たなものを作り出す能力を持っていることを忘れて、目の前にあるもの、優越感を追い求めてきたのではないか?

考えないことが、単純に思わせている。
それが価値を作り、それに基づいて判断している理由に思える。
考えていないことに気づかない。
楽しくないのは、面白いことがないせいだ、と考えない。

なぜそうなるのだろうか?

人間の作った作品、童話、小説、テレビドラマ、映画、絵画、歌、彫刻、建物、美術品、素晴らしいと感動するものがたくさんある

知恵の言葉にトム クランシーの次の言葉がある。
創作と事実との違いですか?
創作はなるほどと思えるようでなけれなりません。

人間の世界は、創作を楽しむ世界である。
感情に訴える創作により作りあげた世界である。
創作は事実よりも本当に思えるものとして、作られている。

真実は反対である。事実は在るがまま、なるほどと思えなくても、それが事実である。
創作は、事実を隠すために、利用されてきている面もあるのではないか?

事実に基づいて作られた科学の世界は、想像を越えるものを作り出してきている。

人間の価値観で作られた世界は、感情で作られ、事実に基づいていないため、科学を自分達の価値観で利用し、絶滅の危機をもたらすまでになっている?

感情、価値観が大切なのか?

大衆にとって、事実は当たり前で、無味乾燥であるように思える。
そこに事実を知らないままできた理由があるように思える。

ここでいう事実とは何か? それは、

物にも、人間、人間の作品にも、価値はないことである。
価値は人間が作り、あると思い込んでいるから、あることになっている。その事実に気付いていない。

物に価値があるのではない。
人間に価値があるのではない。
価値は人間が作っている。

花は自分を美しいと思うことはない。
蛇が自分を醜いと思うことはない。
物は自分の名前を知らない
宝石も自分の価値を知らない。
人間だけが、在るがままの自分を見て、美しい、醜いと思う。
どちらにも思うことができる。
どちらにも思うことができるだけではない。
全ての価値を決めている。

人間は物に名前があり、価値があると思っている。
しかし、それは、人間の脳に作り出す力があり、脳に言葉(単語)としてある。

事実には、美しさも醜さもない。楽しいも悲しいもない。良い悪いもない。良い人、悪い人もない。
それが在るがままの事実である。真実、現実でもある。
ただし、人間の世界の真実、現実とは違う。

人間は違う世界を作り上げてきた。価値観を作り、その反応の感情を作り、良い悪い、美しい醜い、敵と味方に分かれる両極端の世界を作ってきた。それが創作の世界である。

創作は、人間の世界を楽しいものにする、が同時に世界を破滅に導くものでもある。

人間は物に価値を付けるだけでなく、人間の作り出す考えにも価値を作ってきた。その価値の代表が正義に思える。

正義は力の象徴である。誰もが力を求めている。力がもたらす優越感を誰もが求めている。優秀であること、一番、一流であることである。富を持っていることである。
正義は人間の考えに過ぎず、力を意味する。力で解決しようとすることは今まで人類が作ってきたやり方である。

正義では根本的な解決にはならない。
在るがままの事実を認識していないからである。

事実に基づいて考える必要がある。
今までの人間の価値観ではない、新たな考えが必要に思える。


人類の未来を考える

価値を付けることは簡単に思える。事実を考えなくてすむ。

事実を知らないようにすることは、人類の問題点である。
大衆は事実を知ることを望んでいない?
その理由は、人間にそう思うように価値を付けてきたからではないか?

価値を付けることに問題があるのか?
価値の付け方に問題があるのか?

価値が楽しみ、喜びであれば、それは人間の生きる意味ではないか?
それを無くすことなど考えられないではないか?
その価値を付けることを止めるべきなのか?
それは、可能なのか。

正に、ここに人間の存在の問題の本質があるように思える。
人類は、自分達の価値観で独自の世界を作っている。
他の知的生命体とは共有できる世界とは違う?

人類にとっての答があるのではない。答は作るものである、と書いた。
人間の理想はあるのではなく、作り出すものである。
ここに知的生命体である人間の存在理由があるのではないか。
考えることにより、新たな道を開くことで、
在るがままの世界と調和する世界を作ることではないかと考える。

マイケル アレフ
2025年12月記


2026年1月18日(日) 追記:

上記のように、人間の考えは言葉で作られている。
言葉の元は単語、単語から文章、文章から考えが作られる。
人間の持つ価値観は人間が決めているからで、言葉(単語、考え)に価値を付けることによる。

食物連鎖があり、人間はその頂点にいる。
人間だけが食べられていない。
人は死んで、焼却されて灰になることが多い。
数千年にわたり、死が何かわからなかった。
その死んだ肉体に意味はないのか?
人間はなぜリサイクルの対象にならないのか?

人間に対する人間の考えが、価値観により制約、制限されている。

人間の死後、人間の肉体も再利用することはできるのではないか。
臓器提供はすすめられている。
生きている内にドナー登録をし、死んだら臓器提供を希望する人がいる。
生きている人を助けたいという思いもあると思うが、
死は脳死であり、存在が無くなることを理解しているからとも思われる。

多くの人間は考える力を持っていても、考えてはいない
気付かずに価値観を持っていることを、考えていると思っている。
価値観の修正が難しい理由である

戦争で敵を殺すのは、人を殺すことである。
それが正当化されるのは、、考えていないからである。
考えているように思えるのは、価値を持つ言葉に理由がある。
指導者を初め多くの人は言葉で考えているが、それは持っている価値観のことである。

人間の考えには、なぜ? が抜けてきているように思える。
なぜか? という質問こそが、考えることにつながる。

なぜと考えずに、価値観により判断、正当化している現状は、新たなものを作り出す考える力によるのではない。

なぜかと考えることに意味がある。考えることには、新たなものを作り出す力がある。
科学を進歩させてきた理由である。

ここに、「人間、人類の持つ価値を修正できるか?」、という存続に関わる課題がある。


直線上に配置