| マイケルアレフのことばの認識は世界を変える シリーズ48 考えることの意味 * 前置き その1〜3 メッセージ 1. 考える対象について 2. 考えるきっかけとは何か? * 脳は言葉により考えるが、様々な刺激に反応して考えている 事実を知り、理解し、受け入れるとが人間にとって不可欠な理由 考えることで新たに気づいたこと 3. 考えが抑制 (制御) される場合 * 考えることを抑制しているもの 遺伝子、情報伝達物質、他 感情的、理性的? * 考えない、考えさせない、無いものをあることにする 脳の働き 信じる * 考えに方向付けは必要か 4. 考えるとは何か、なぜ考えるのか? * 思うと考える 言葉の意味について * 成長する過程で、考える能力には違いがある 5. その他 シリーズ48 考えることの意味 * 前置き その1 およそ60年前 「花はどこにいった?」 'Where Have All the Flowers Gone?' という反戦歌が世界中でヒットした。 歌詞は、問いかけていた。 When will they ever learn? 彼ら(人間) は、いったいいつになったら学ぶのだろうか? 作者は、戦争を絶つには過去の過ちに気付くしかないと考えていたようだ。 しかし、人間の世界は、60年経った今も、同じように争いの世界の中にいる。 それどころか人間の歴史は始まって以来変わっていないようにさえ思える。 人類は、重要なことを学んでこなかったからではないか? 歴史で重要なのは、史実を学ぶことではない。 重要なのは、歴史から学ばないという 人間の本当の姿 に気付くことではないか? 歌詞は 「学ぶのはいつか?」 と問いかけているが、何を学ぶのかについては明らかにしていない。 今問われているのは、今まで何を学んできたのかではなく、 何を学んでいないのか? ではないか。 前回以下のように書いた。 「現在の人間の世界は人間の価値観に基づく評価、判断の世界である。国が違えば、考えも、価値観も違う。 それぞれの国が、自分の国を第一に考え、土地を国家の領土だと主張し、防衛予算を増やし続けているのは、地球を人類の所有物と考え、考える自由を自国の利益追求に使うことである。 人類に求められているのは、今までの考える自由の在り方を見直し、修正し、知的生命体に相応しい、事実に基づいた考えで、人間社会を作り直すことではないか。」 その2 人間は、針先ほどの受精卵からおよそ10っか月で新生児として産まれる。 その細胞一つ一つに遺伝子があり、同じ細胞から髪の毛、ツメ、集合体として目、耳、手や足、心臓などの臓器も作られる。同じ細胞なのに、どうしてそれが可能なのか? 人類はそこに遺伝子を見つけ、今では遺伝子を操作する技術さえ作り、応用している。新たな生命体を作る可能性さえ考えられる。 科学の進歩は知的生命体である人間が持つ計り知れない考える力による。それは人類として持っている全てを可能にする力の原動力に思える。 * 人間が知的生命体であるのは、言葉を持ち、考える力を持っているからである。 生命体であれば、遺伝子があり、「ことば」で表される情報の受け渡しをするシステムを持っている。そのプログラムにより、その生命体の中で情報交換が行われている。 人間の血液は体の隅々まで、細胞に酸素や栄養分を運んでいる。細胞はその血液から酸素や栄養分を取り入れ、いらなくなったものを排出する。それは情報交換が行われているという意味である。 自分の体だと思っていても、その体のほとんどは個人の意思とは関係ない部分で、情報のシステムにより運用され、管理され、制御されている。 人間の使う言葉は「ことば」という情報のシステムの一部である。 考えるのは、言葉により、情報を扱うことが関係する。 子供に言葉を教え、情報を与える。すると、学習し、覚え、話すようになる。 食べたい等と意思を表すようになるが、それは、考え始めたことを示していると考えた。 「おなかがすいた。ご飯が食べたい」と言うのは、体の欲求によりその考えが作られることを示すが、そこに使われる、ご飯、食べたいという表現も、覚えた言葉を使っていることを意味している。 考えるとは言葉を使って、文章を作ることではないか、と以前書いた。 確かに、考えるとは、言葉を学び、学習した言葉を使うことから始まるように思える。 しかし、幼児期の言葉に示されるように、覚えたことを、考えずに、欲求に反応し繰り返しているだけのこともあると考えられる。 考えるとは、言葉を学び、話す、言葉で学習すること以上の意味があると考えるようになった。 * 考えるとは、学ぶ、学習することとは意味が違う 学び、学習するのは受動的で、主に情報を収集することである。様々な情報を、自分から学び、吸収し、知識を得、記憶に残すことである。 幼少時における情報のほとんどは、生まれた地域の社会環境から与えられる常識のことである。 今までの教育は情報の収集、学習に重点が置かれてきた。 しかし、学習は学び、習うことで、学習するだけでは、模倣することはできても、新たな発明、新たな考え、新たな行動は生まれない。 考えるとは、能動的で、学習で得た情報を活用し、新たな考えを含め、作り出す働きである。 これが考える(思考)の意味で、学習と同時進行の面もあるが、学習とは異なり、学んだことを活用し、応用したりする働きである。人間の計り知れない能力はその考えることにある。 学習し得た情報や経験を通して学んだ情報から考えが作られ、その考えから行動を起こす意思、動機も作られる。 学習したことや経験から、教訓を学び、新たな認識が作られるのは、単に知識を得るからではなく、そこに考える働きが加わるからで、情報を得ることからその背景にある全体像を知るようになるのも、考えているからである。 * 学び学習することは考えることではない 意識があれば、考えているように思えるが、それは脳の働きの一部であっても、能動的、積極的な考えることとは意味が違う。 新聞、本などを読む、テレビやネットでニュース、バラエティー、映画、スポーツ、様々な番組を見る、また人の話を聞くなどは、主に受け身で、情報を収集することであり、学び、学習することに相当し、考えることとは意味が違う。 人と会話をしているときのやり取りは情報の交換である。互いに情報を出し、また収集していることである。 話を聞くことは、情報の収集に当たり、学習に近い意味である。 話をすることは、情報を発信することであり、考えることが関係する。 考えることには、浅く、軽く、深く、真剣に、深刻になど、程度が関係する。また、考えたことであっても、ただそれを繰り返すことは、考えることではない。 考えるとは、基本的に情報を学ぶという受け身ではなく、学んだことを活用し、能動的に、作り出す働きである。 何らかの刺激により、何かに気付き、疑問を感じ、そこから、なぜ、何などの質問を作り、その答を見出だそうとする働きでもある。 答を見出だすために、想像し、計画し、目標を作り、その実現のために、あらゆる可能性を考えるようになるように思える。 * 考えようとしない理由 考えようとしない、わかろうとしない、わかりたくないのには理由があるように思える。 それは、考えることに人間であることの意味が関係しているからではないか? その具体的な理由については このシリーズ48の3. 考えが抑制 (制御) される場合 * 考えることを抑制しているもの、の中で取り上げる。 考えようとしないのは、今までの教育が覚えることを中心にし、考えることの意味を知らずにいたからか? 考えてわかるようになることは、より広い視野で物事を見るようになり、自分の置かれている状況を知ることでもある。それは自分の責任を自覚することにつながる。 つまり、考えることは責任の自覚をもたらすことになる。 考える人は責任を自覚しその責任を果たそうとするが、考えない人は責任を回避し、他の人に押し付ける傾向がある、と言えるかもしれない。 世の中が悪い、政治が悪い、教育が悪い等と批判し、他人のせいにし、自分に責任はないかのように言う人は多い。 それは考えていない人に見られる傾向ではないか? そう批判することも、犯罪を犯すことも、戦争をすることも、全てが脳の考える働きであると思われていても、脳の考える働きとは違うのではないか。 「戦争が悪い。二度と繰り返してはならない」という人は多い。その考えに同調する人がほとんどに思える。 これは、考えることとは違うのではないか? 考えているのではなく、同じ価値観に同調することではないか? 人間は自分達で作った価値観で、戦争が悪いと、評価、判断している。 戦争はあるがままの事実である。事実に良い、悪いはない。 事実を価値観で良い悪いと評価、判断していることに問題が生じる原因がある。 数えきれないほどの戦争をし、その後反省し、改善しようとしても、また繰り返し続けるのは、人類が事実に気づいていない、あるがままの事実に向き合っていない、考えていないからではないか? 持っている価値観で判断することは、考えることではなく、考えていないことではないか? 言い換えると、戦争が悪いことにして、自分達、人間は悪くないという言い訳を作り、ごまかし、責任を転化しているのではないか? 考えるとは、何らかの刺激により、何かに気付き、疑問を感じ、そこから、なぜ、何などの質問を作り、その答を見出だそうとする働きである。 学んだことを活用し、能動的に、新たなものを作り出そうとする働きである。 すでに持っている価値観で美しい/醜い、良い/悪い、常識/非常識と判断することは、考えることではなく、すでに作られた判断基準に従っているだけになるのではないか? 判断基準の価値観は幼い頃から作られている。基本的に新しいものはなく、新しい考えでもない。 価値観で物事を判断することは、新たなものを作り出そうとする脳の考える働きではないように思える。 その3 メッセージ 「美しさ」は、実際にはないのではないかと気付いて、シリーズ6 美しさについての考察、 美しさがない理由 を書いた。 もしそこで終わり、考えることを止めていたら、人の持つほとんどの価値観が作られたものであることに気づくことはなく、今取り上げている 「考えることの意味」 も書くこともなかった。 しかし、個人に関係なく、誰かがこれを明らかにし、人類として認識する必要がある。 人間が「その価値観により評価、判断し、選択していることの問題」である。。 価値観は考えているのではなく、頭にある法律と同じような決まりである。 価値観で判断するとは、ルールや法律と同じように、決められたものにより、それに従って行動しているだけである。 人は幼少の頃に育てられた環境から、教えられた常識などの価値観を、正しいものと思い込んでいる。 その決まりは昔の人が考えたものや、国の代表により考えられ、作られたものではあっても、自分で考えて、作ったものではない。決まりとして教えられ、従うことが求められている。 自分で考えて判断していないなら、そこに責任の自覚は生まれない。無責任な行動をする理由になる。 価値観は、自分が考えているのではなく、思い込みにより、他人の考え、教え、信条、また自分の邪推(疑心暗鬼など)であっても、それを正しいと信じることで、人を殺すことを含め全ての行動を正当化させる。 自分で考えていないことが、真面目な人間でさえ恐ろしい殺人鬼になる理由、たくさんの地域で大量虐殺が起きてきた理由、今も戦争で多くの人間が殺されている主な理由である。 それに気付かず、自分は正しいことをしている、と信じて疑うことがなくなるからだ。 考えるとは、思い込みで判断することではない。 物事の仕組みを学び、理解するという学習する過程とその後に、不思議に思い、質問を作り、答を見いだそうとすることであり、新たなものを作り出そうとする脳の働きである。 思い込み、信じ、それにより評価、判断することは、自分で考えていないという意味になる。それでは、人間は騙され、操られていることと同じになる。 人類の多くは、この事実に気付いていないのではないか? 在るがままの事実を知り、他人の考えではなく、自分で考え、判断することを始めることが必要に考える。 |
| シリーズ 48−1 考える対象について 考える対象はたくさんあるのではないか? その通りである。 考えることの対象に制限はない。範囲もない。 人間の脳は、存在しない無いもの、あり得ないことまで、制限なく考えている。 制限が無いのは、対象になる数だけではない。 対象自体にも、それぞれ無限の情報の広がり、深さが関係するように思える。 全ては制限なく拡がっていて、どこまで行っても、終点はなく、究極の答はないのではないか? それが考えることの究極の意味ではないかとさえ思える。 対象になるものには、境がなく、無限だからか? 宇宙は無限に拡がっているように見える。宇宙は膨張していて、見えている堺にある空間は光を越える速さで拡がっているため、その先は光で観測することはできない。現時点では観測不能、わからないという意味に思える。 小さな世界も、最小のものがあるかと研究されてきたが、何が最小なのか? 人間は、物は何か、何からできているのかと考えることから、物の最小単位を追求し、元素を発見した。 元素は2010年の時点で117種類あるとされている。 その元素は構造的には同じ原子で作られている。 原子はそれを構成する陽子と中性子から作られた原子核と電子の雲できている。 元素の違いは陽子の数の違いである。 陽子は現在クォークという基本粒子(アップクォーク2つとダウンクォーク1つ)で構成されていると説明がある。これが現時点での最小単位である。 しかし、これで終わるのだろうかという質問が生じる。 人間には限界があるのに、なぜ限界を越えて考えることができるのか? この表現にある限界という言葉の理解に問題があるのかもしれない。 限界は不可能という意味ではない? 生命体にはそれぞれ生きる上での制限がある。人間以外は基本的にその制限を越えることはない。それはその生命体にとっての限界である。 人間にも生きる上での制限はある。過去のある時点まで、制限は限界を意味していたが、人間の考える力がその限界を越えさせてきた。 人間の考える力がその限界を越えさせる理由である。 人間一人の脳細胞は有限である。現時点での生命体としての生きる時間にも限りがある。一人では人間としての限界を越えることはできないように思える。 数千年もの間、空を飛ぶことさえ不可能だった。 しかし、人類としては、個人の命の時間を越えて、有史以来6千年以上もの歴史を作り、人口は増え続けて80億以上になっている。その間、情報は蓄積され、研究は引き継がれ、人類として継続して考え続けている。 文明が進歩、発展してきたのは、一人の力ではなく、人類として考え続けているからである。 考える自由とは、対象に制限はないという意味でもある。 ただし、全てを考えることができるという意味ではない。 人類として考えるその延長線上には、次のような質問も作られる。 * 地球上に限定すれば、人類の増加に限界はあり、絶滅する恐れもある。人類が絶滅すれば、人類としての可能性は絶たれるのか? 人間の知的生命体としての遺伝子が現実に存在していることを考えれば、その起源はわからなくても、同じ遺伝子を持つ生命体はこの宇宙に数え切れないほど存在している可能性はあることになる。 * 今まで人類は、考える自由を優越感に、利己的な目的に使ってきたように思える。この状態を改善せずに、人類はいつまで存続することができるのか? 物理学者スティーブン*ホーキング博士が指摘したように、高度に発達した文明は滅びてしまうのかもしれない。人類も同じような理由から絶滅する可能性はある。 人類の考える力だけが、解決を見出だす方法なのか? 人類の存続を単に願うだけでは問題の解決に結び付かない。 解決するためには、その願いに考える力を伴わせることにより、人類の意志を作り、行動させることが必要であるように思える。 現在ある問題の本質を理解し、修正する方法を見いだし、結果を出すことが必要に思える。 考える対象に制限はない。わからないことは無数にある。わかっても、わからないことが次から次へと出てくる。人間は考えるから、質問が生まれ、答を出そうとする。 人間は究極の答えがないものをなぜ考えるのか? 今まで、答えがあると考えてきたからではないか。 答があるとはどういう意味か? それは有限という枠の中で、その時点での答があると考えることであり、枠を外せば答ではなくなる。 答はないのではない。有限の枠の中で考えれば、答はある。 しかし、更に追求し続ければ、それまでの答は古い考えに基づいていたことになり、新たな質問も、新しい答も出てくることになる。 質問は作るもの、答えも作るものである。 質問も答も初めから用意されているのではない。 考えることにより作られるものである。 人間が考え続ける限り、質問も答も終わることはない。 人類が文明を進歩させてきた背景には、人間に考える自由があり、考える対象を制限せず、何にでも関心を払い、違いに気付き、疑問を感じ、その理由を見つけようと考えてきたからではないか。 |
| シリーズ 48-2. 考えるきっかけとは何か? 辞典によると、「考える」 「思う」という言葉には、理性的に考える、感情的に思うという、意味の違いの説明がある。 しかし、考えることの意味を調べても、考えるとは何かを説明するものに出会うことはなかった。そこで、考えるとは何か? と考えた。(シリーズ1、2022年 考えるとは何か) 人間は、成長する過程で、言葉を学び、記憶すると、自分の意志を表し、食べたい等と言うようになる。 それは考えること、考え始めたことではないか? 考えるとは、頭で文章を作ることではないか、と考えた。 幼児は言葉を学び、覚え、真似し、繰り返すことで話すようになる。 言葉を覚えた子供は、話すことを始める。しかし、言葉を使ってはいても、言葉の意味を知らず、理解してるわけでもない。それは、言葉を活用し考えていることではない、と気付いた。 話すことは、言葉を使い、文章を作り、声を出して、言うことである。 そうできるのは、脳が言葉を使い、考えているからであると、初めは考えた。 しかし、幼児が言葉を話すのは、考えているとは言えない。 言葉を使ってはいても、「お腹がすいた」などのように、欲求に対する反応を直接言葉で表現しているだけで、考えているとは言えない。 言葉をただ繰り返すことも、考えていることではない。 言葉を使わずに「考える」ことはできるか? 考えることはできない。考えるためには、条件として言葉が必要である。 ただし、幼児期の子供の例が示すように、言葉を使うだけでは、考えていることにはならない。言葉の単なる使用は、言葉を活用し考えることとは違う。 人間が言葉を持つだけでなく、言葉を活用し考えることが、知的生命体である理由である。 生命体の細胞レベルでも、情報のやり取りは行われていることから、考えるとは単に情報のやり取りではない。 考えるとは、「ことば」である情報のシステムを活用し、新たなものを作り出す働きが関係する、と考える。 * 人間は言葉により考えているが、何により考え始めるのだろうか? 質問されれば、その答をさがそうと考える。 考えるきっかけは、質問、問いにある? 質問とは何か? 問いとは何か? 脳には違いを認識する機能がある。 知りたいという欲求がある。 そこに何かに気づき、問いが生まれ、質問が作られるのではないか? 知りたいから、質問を作り答を見つけようとすることが、考える背景にある。 気付かせるものとは、脳に与える刺激のことか? 刺激には様々なものがある。 人は違い、変化に気づく。新しい物、五感からの刺激、体の痛みに気づく。感受性が関係し、新しい経験、素晴らしいと感動すること等が含まれる。 間違いに気づくのは、新しい刺激により、質問が作られ、その答を求めて、考え始めるからではないか? 比較対照して、違いを見つけ、その違いから、新たな考えが生まれるのではないか? 質問の内容は、その置かれた状況により違うが、質問の基本的な内容は英単語の頭文字、5W1Hという形で決まっている。 それは When, Where, Who, What, Why, How から作られている。 いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのように、である。 脳は、五感による入力から現実という刺激を受ける。 「苦しい時期を乗り越え、やっと静かで平安な時を迎えられたと思っても、 人生はそこで終わらない。人間は生きている限り、新たな展開が待っている。」 生きている限り、命の危険はあり、乗り越えなければならな問題が起きる。 現実に起きる変化を体験することから、一時的に満足しても、それで終わることはない。 そこに、その理由、背景を知ろうとする、脳jの真実を知りたがる働きがある。 しかし、それだけが考える理由なのか、それ以外にも様々な理由があるのではないか? |
| シリーズ 48ー2 その2 考えるきっかけとは何か? AI技術により、ロボットは、人の質問に答え、応答することができるようになった。 ここに、新たな問いが生じる。 人間は言葉を使うことだけで、考えていると言えるのか? ロボットは考えているのか? 考えるとは、単に言葉を使用することではない。 子供が食べたいと言うのは、欲求を言葉で表現していることではあるが、考えているとは違う。 AIの反応は考えているのではなく、質問に対して決まった答を表現しているだけに思える。 会話をすること自体は、ルールに従って言葉を使用することであり、考えることではないように思えてくる。 考えるという言葉の意味を明確にして、使う必要があるのではないか? 考えるという表現は、いろいろな意味で使われているが、同じ脳の働きであっても、学ぶと考えるでは意味は違うことを説明した。 学ぶ、学習するは、主に受け身の情報を収集することであり、 考えるは、能動的で、積極的で、新しいものを作り出すという働きがある。 学ぶ、学習すると考えるの意味は明らかに違うため、区別して扱う必要がある。 しかし、現実の世界では、新しいものを作り出すことなど考えていなくても、考えていると表現されることはたくさんある。 宗教では、同じことを何度も繰り返し祈る場合が広く見られる。 その祈りには、自分から積極的に、新しいものを作り出そうとする目的がないのではないか? もしそうであるなら、それは、考えていることではない。 新しいものを作り出すことはできないことになる。何のために祈りを繰り返すのか? 感情の影響受けて、悩むことはよくあるが、悩むことは考えることか? 解決できずに、同じ思いを繰り返しているだけでは、進展がない。 堂々巡りのように、ただ同じ思いを繰り返し悩むことは、考えていないことになる。 考えるとは、自分から積極的に、新しいものを作り出そうとする目的をもって対処しようとすることである。 人が会話をすれば、考えていると思っていたが、話すことだけならAIにもできる。ただ情報交換するだけなら、生命体の細胞レベルでも行われている。考えていなくてもできる。 考えるとは、現状を見直し、改善する目的を持ち、新しいものを作り出そうとする脳の働きを意味すると考える。 その脳の働きがなければ、考えていることにはならない。 今までに使われてきた「考える」という言葉の意味を、見直し、修正する必要があるのではないか。 考えるとは、言葉を活用し質問を作り、答を見いだそうとする脳の働きで、新たなものを作り出すという意味がある。 考えるきっかけ 「人間には限界があるのに、なぜ限界を越えて考えることができるのか? 人間一人の脳細胞は有限である。現時点での生命体としての生きる時間にも限りがある。一人では人間としての限界を越えることはできないように思える。 数千年もの間、空を飛ぶことさえ不可能だった。 しかし、人類としては、個人の命の時間を越えて、有史以来6千年以上もの歴史を作り、人口は増え続けて80億以上になっている。その間、情報は蓄積され、研究は引き継がれ、人類として継続して考え続けている。 文明が進歩、発展してきたのは、一人の力ではなく、人類として考え続けているからである。」 (シリーズ 48−1 考える対象について) ここから新たな質問が提起される。 人類に意志はあるのだろうか? 考えるきっかけとは何か? 学び、経験したことは記憶、記録として残される。その記憶は、様々な刺激により、新しい考えを作ること、見直しをすることに使われる。 学習により脳に蓄積された情報が、五感からの刺激、言葉からの刺激、経験からの刺激などにより活用されることが、質問を作り、答を出そうとする考える背景に思える。 五感、言葉、経験からの記憶に対する刺激とは、違和感から何か変だとか、なぜか等の疑問を感じ、質問を作ることではないか? 問題提起は、答を出すために、目標を作り、それを実現させるための計画を立てることにも発展する。 新しいものを作り出すことなど考えていなくても、考えていると表現されることはたくさんある。 食欲、睡眠欲、性欲などの人間の生理的欲求、また 優越感からくる利己的な物資欲、名誉欲、などはどうなのか? 欲求を満たすために、どうしたらできるか、と考えているのではないか? 欲求に対する反応は、考えることではない。 それは感情という価値観の反応に似ている。 評価する、判断する、選択するは、作られた価値観で決めることであり、考えることではない。 価値観は幼少の頃から、皆と同じように、生まれ育った社会環境からの情報を教えられ、その決まり、基準を持つことである。 その決まり、基準は国、民族、宗教、教育等により、違うものであるが、周りにいる人の間では、同じに思える。 価値観を使い、評価、判断することは、過去に作られた決まりや基準に従うことであり、考えていることにはならない。 人類に意志はあるのだろうか? という質問を作り、答えを探そうとすることは、考えることである。 質問に対する答はあると教えられ、誰でも答はあるものと思っている。 しかし、答はあるのではない。作るものである。 考えるとは、答えを探そうとする脳の働きであるが、答えそのものがあるのではない。答えは無条件で正しいことはない。絶えず新しい問いが生まれ、新しい答えが求められる。答はその時点におけいて、修正する必要はないと考えることである。 人類に意志はあるのだろうか? 答はないが、こう考えることはできる。 人間には考える自由がある。その考える自由は、全てを作り出す源である。 何であれ、作ることは可能である。 人類に意志はあるかという問いに対する答は、あるかないかではなく、作ればあることになる、である。 人間に人権はあるか、自由はあるか、平等はあるか、平和とは何か等の質問全てに答えがあるのではない。答を作ってきたからあると思っている。 しかし、無条件に間違いのないものを人間は作れない。 人間の世界という枠の中だけに通用する答を正しいと思い込んでいる。 理想はあるのではない。理想は作るものである。 それは正しいという理想ではなく、考える自由により変わり続けるものである。 理想は全ての人の意思であるという意味ではない。 科学の進歩にみられる個人や一部の人々の考えたものであっても、人類を導くものになってきた。 個人の考える自由が、人類を導く意志を作り出す可能性がある。 そう考えていたら、意志とは何かという質問が出てきた。 意志と意思という漢字がある。どう違うのか? 先人はなぜ違う漢字を作ったのか? 他人が言うからではなく、それを自分で考え、自分で理解し、納得し、自分で責任を自覚し、意識を持つことが、人間社会の基盤に必要と考える。 |
| * 事実を知り、理解し、受け入れることが人間にとって不可欠な理由 人は皆、誰でも、自分は人間だと、当たり前にそう思っている。 しかし、人間とは何か? 人間の意味は何か? と質問されて、答えられるだろうか? 考えるとは、情報を収集するという意味の学ぶ、学習するという過程から、その得た情報を活用し、全体を把握し、新しいものを作り出そうとする脳の働きである。 質問を作り、答えを見つけようとすることが、考えることの意味である。 しかし、それは脳の働きの一部にすぎない。 自分という存在、その認識、価値観、意志も脳によって作られている。 その全ては、自分という認識が作られていく過程で、脳により、自分が作ったと思うようになったものである。 自分の体全てが自分のものと思っていても、自分のものではない。自分で作ったものではない。 全ては遺伝子により作られている。 心臓を動かし、血液を体の隅々まで送り、細胞を生かしているのは、自分ではない。基本的に自分の意志とは関係がない。 食べること、体を動かすこと、体を鍛えることは、自分の意志でできる。 しかし、その食べたものを消化し、栄養を取り入れ、体の細胞全てに送っているのは、自分ではない。自分の体を成長させるのも、大人の体に変化させるのも自分の意志ではない。 その自分の意志は、幼少の時期に社会の常識という価値観の影響を受けて作られている。 今その人間の存在意味と考えることの意味が問われている。 * 事実を知り、理解する 人間の体は、遺伝子により作られている。 人間の体は、自分の意志、親の意志とは全く関係なく作られているという意味である。 人間に限らず生命体であれば、生命体というシステムそのものがある。 その生命体は、その個体が作っているのではなく、受け継がれている遺伝子が作っている。 人間の体は、ヒトゲノム遺伝子の設計図に基づいて、そのプログラムにより、一つの受精卵から、細胞分裂を繰り返し、およそ10ヶ月かけて作られ、新生児として生まれる。その後も遺伝子と脳の働きにより成長し続ける。 人が生き、成長する理由は、その設計図である遺伝子のプログラムにある。 細胞分裂、新陳代謝による成長、肺による呼吸、心臓を動かし血液を体の隅々まで運び、細胞に必要な酸素や栄養を与え、老廃物を受け取ることなど、体の持つ機能全ては、自分の意志とは関係なく遺伝子のプログラムにより作られ、運用、管理されている。 生きているという自覚があっても、体は自分のものだと思っていても、そう考えている自分の脳の働きでさえ、作られていることに気付いていない? 人間は、知らないのに、知っている気になり、自分で生きていると思っていても、実際には自分で作った体ではなく、生かされていることになる。 もちろん親からの世話、人間社会からの助けがなければ、人間は生きることはできない。親を含む人間社会は人間が生きるために欠かせない。 以前はそれがすべてだった。人間社会はそれで成り立っていた。 試験管ベビーや体外受精などという言葉はなかった。 ところが、今は人間の存在する理由が、以前とは大きく変わってきている。 遺伝子を提供する男と女、受精卵を育てる母体、育ての親などが別々であることがあり得る時代なのである。 それは、昔の価値観のままではいられない時代に生きているという意味である。 ここに、人間が事実を知り、理解することの重要な意味がある。 *人が皆、自分は人間だと誰でも当たり前に思っている理由 人類は、100年以上前であれば、遺伝子の存在を知らなかった。脳の働きも知らなかった。ほとんどの電化製品のない時代である。 今では信じがたいことであるが、当時の日本では、だれもが漠然と月にウサギがいると思っていた。地殻変動のプレートの存在も知らず、ナマズが地震を起こすのではないかと真剣に研究されていた。 それ以前、遺伝子も脳の存在も知らなかった時代であるが、人間とは何か、なぜ存在があるのかなど、考えてもわからないことがたくさんあった。情報が極めて少ない中で、わからなくても、その問いに対する答えを、脳の考える働きが、想像により作り出していた。 自然界に突然、地震、津波、雷、暴風雨、日照りによる干ばつなどが起きる。情報が無いため、その起きる理由がわからず、理解できず、ただただ恐ろしいと震えあがっていた。 その時代の人々が、なぜ起きるのかと考え、その答えを探しても、わかりようがなかった。 現代のような自然に関する情報はなく、わからないから、恐ろしい大自然だった。その計り知れない恐ろしい出来事から、それを起こしているものを神様にし、神様が人間を作ったなどと考えた。神様にすがるしかなく、安全を祈願し、豊作を願い、捧げ物をしてきた。 地球という考えはなかった。平らな土地はどこまでも続いていると考えた。後に地球は宇宙の中心だと考えるようになった。 それが、その時点で、脳の考える働きが作り出した新しいものであった。 生き物がみな朽ち果て死んでいくのを見ても、死が何かわからなかった。想像することにより、新しい世界を作った。死後の世界、天国、天国にいる神様、地獄、地獄にいる閻魔様などを作った。そう信じる以外に心の安らぎを得る方法はなかった。 脳があることさえ知らない時代である。自然界のことを知らず、わからない中で、考える働きが新しいものを作り出し、それを正しいものと信じるようになった。 以来数千年が過ぎる過程で、人類は新たな発見、科学技術の進歩等により、世界は大きく変わっている。 脳の働きが、考えることにより、事実に気付き、その情報を活用し、新たなものを作り出してきた結果である。人類が情報の無い中で考え、想像で作り出した時代とは、比べられないほど違う世界である。 事実に関する情報の蓄積、継続して受け継がれてきた研究など、人類社会の基盤は、昔の人々の努力と労苦の上に作られている。 それぞれ人々が生きた時代に、人間の考える力が生み出したものを大切にしたことは、その時点では正しかったと理解することはできる。 しかし、新しい時代と共に、新しい情報が増え、新しいものが作られ、新しい考えが作られ、環境も、教育内容も、社会も変わっていく。 それなのに、時代が大きく変わり続けた今現在でも、昔からの常識、価値観を受け継ぎ、それを守ろうとする人々が大半であるのはなぜなのだろうか? これほどの情報に恵まれた時代であっても、逆に知りたくない、考えたくない、昔のままでいたい、好きなことをしていたいと、態度で示しているように見える。 事実を知ることは、学び、学習することで終わるものではないことにある。 ここに人類が抱える問題の原因、理由がある。 以前は、事実がわからないために、無いものを作り、信じてきた。 その土台の上に世界を築いてきた。 今の世界が不安定になるのは、間違った価値観、無いものを信じるという土台の上に世界を築いてきたからである。 事実は、学び、学習するという単なる知識ではない。 事実とは、わからないものではない。 事実とは、大自然、宇宙の在るがままの真実、現実のことである。 事実は、理解し、受け入れるものである。 遺伝子と脳の働きが示しているのは事実である。それは真実、現実である。 この人間の真実、現実という事実の上に世界を作り直すことが、人類を永遠に救う唯一の方法、人類の未来の在り方を示すものとなるのではないかと考える。 |