マイケルアレフのことばの不思議な世界

 「ことば」の認識は、世界を変える  シリーズ 21
人類が作り上げた思い込みを修正できるか?

その背景:

親にとって自分の子は可愛いと思っても、他人には可愛くは見えないこともある。
子供が可愛いのは、子供という対象が可愛いからか、それとも見る側にそう感じる意識があるからか、という疑問が生じた。40年ほど前のことである。
この質問の答を長い間考えてきた。これが後に、シリーズ6の美しさはあるか、というテーマで書くことにつながった。

親にとって自分の子は可愛い存在でも、他の人からはそう見えないということは、見る側の意識によって違って見えることになる。

見る人の意識はなぜ違うのか。感情から作られる思い込みのせいで、自分の子はかわいいと思うようになるのか。本当は可愛いという実体はないということではないか。

思い込みとは 辞書によると、そう思い込むことの意味で、既成観念、偏見、固定観念、先入観、偏った見方、決めつけのことである。
人の考えや思いは偏見や決めつけでできているのだろうか?

動物の赤ちゃんは可愛い。ライオンの赤ちゃんは可愛い。

「ライオンの赤ちゃんがいます。みんなが「かわいい」と言っています。
でも、チンパンジーに見せたら大騒ぎして、逃げていきました。
チンパンジーにとってライオンの赤ちゃんは「かわいい」存在ではないのです。」
(絵本:約束とルール2より)

見た目に、ライオンの赤ちゃんはただ無邪気で、無防備に見える。人がそう反応するのは現実について知識、実態、背景を十分に知らないからではないか。認識に問題があるからではないか?

可愛いと見える、無邪気に見えるのは、見る側に邪気が無いから、悪意はない、同時に、知識もなく、感情による思い込みがあるからではないか。

チンパンジーに見せたら、大騒ぎして逃げていった。チンパンジーは本能的に危険を察知している。つまり生まれながらに、プログラムとして、ライオンは危険であることを知っている。
経験は遺伝子に記録されるかどうかはわからないが、動物は教えられていなくても、本能として、プログラムによって知っている。

ここに人間と動物の大きく違う点があるように思える。

人間は学習しないと解らない。情報がないと認識できない。
人間には必要な情報の提供がなければならない。
人間が無知であってはいけない理由がここにある。

すぐに可愛いなどと反応するのは、重要なことが教えられていないからではないか。学習していないからではないか。

若い人がオレオレ詐欺などの犯罪に走るのは、重要なことが教えられていない、当人も学習していない結果であるように思える。学習していれば、こうはならないように思える。ここに人間としての問題があるのではないか?(飛躍しすぎか?)

認識が無いのは重要なことが認識されていないためで、一般の大人も認識していない、言い換えるなら、人の重要な考えが思い込みでできていることに気付いていないためではないか。

そこで、具体的な例で考えてみることにした。

例1: 敵はいない。正義はない。

人間に敵はいないのに、敵がいるように教えられ、正義は無いのに、正義によって敵を倒し、滅ぼすように教え込まれ、人類は数えきれないほどの戦争をし、殺し合ってきた。
敵や正義という基本的に重要な考えが、思い込みの上に築かれてきたためである。

人間に本来、敵はいない。キリストの教え、「敵を愛しなさい」は間違いである。
敵とは人間が自分達の考え、利己的な動機、感情で作り上げたものだ。人間の考えで、昨日の敵は今日の友になる。今日の友は、明日は敵にもなる。もともと敵などいない。敵を愛するのではなく、「敵を作ってはならない」であるべきだ。

そう思い込むから、理由を作り出し、敵にする。友にもなる。人間の思い、感情でどちらにもなる。本来どちらでもない。同じ人間を敵にするな。

自分の都合で人を疑い、嫌いになり、悪人だと決めつけ、敵にするのは止めなければならない。

敵ということばは思い込みの表現である。敵がいるから戦う必要が生じる。戦う理由が必要になる。正義はもっともらしい理由を与える。しかし、敵がいないならこの場合の正義は必要な理由にならない。

「明らかに正義は問題を起こす源として働いている。基本的に正義を主張するなら争いになる。正義という言葉はもっともらしく聞こえるが、正義があるから争っているのではない。自分の欲望をごまかす手段として正義という言葉を使っているだけである。

アメリカ合衆国の法律家であり連邦最高裁判所陪席裁判官であったオリバー・ウェンデル・ホームズは、「若者よ、これは法律の法廷であって、正義の法廷ではありません。」ということばを残している。
シリーズ3 正義とは何かの考察から)

個人間でも利害関係に問題が生じ悪化すると、争いになる。国家間でも争いになり、戦争になることもある。戦争になれば相手は敵になる。相手は敵、悪人、殺すべき人間に成る。しかし、利害が一致すれば、友にもなる。仲良しにもなる。

人類の歴史は、このようなことが理由でたくさんの戦争が起きた。自分達の感情で、考えで、利害関係で、思い込みで敵を作り殺し合った。

今でも同じだ。世界の批判の目がなければ、すぐに敵にして、攻撃したがる人がいる。自分達の思い込みによる正義により、力によって戦争して解決しようとする。世界の指導者の中にさえ、そんな考えの人がいるように見える。

相手は人間である。感情と思い込みにより、勝手な理由を見つけ出し、敵にしてはならない。



いじめも同じように思い込みである。人の認識はそれぞれ違う。その違う自分の思い、感情、価値観で、嫌いな人間を作り、理由を作り、いじめの対象を作り上げる。

本来いじめの対象ではないのに、疑う心、自分の価値観、高慢さ、感情などで勝手にそう思い込み、嫌なやつにしてしまう。思い込みである。

初めは小さなこと、小さな違いで、嫌な奴と思ったことが、だんだんと嫌いになり、理由を見つけては正当化し、さらに悪意を募らせる。正当な理由の様に思い込み悪人に仕立てる。仲間は同じように反応するようになる。こうしてみんなでいじめる。

子供のいじめが問題になってきたが、それは大人の社会を映し出しているからだ。大人がいじめをしている。

テレビに映る人間として模範を示すべき政治家が反対派の政治家を批判する。その言い方、メディアの取り上げ方を見れば、誰でもいじめがあって当然のように感じる。
相手に対する思いやりのかけらも感じられない。頭から否定するだけである。

反対派だと思い込んでいる人にとっては、相手がどんな人でも、反対する理由を探し、無理やりでも作り、攻撃する理由にしようとしているように見える。それを正義だと思い込む。そう思い込んでいる間、自分たちは正しく、間違いはないと信じている。

その考えは幼稚で馬鹿げていると思っても、人類はそうした思い込みで行動してきた。その結果、第2次世界大戦だけでも数千万人もの人が殺された。
思い込みで行動することは止めなければならない。

敵はいない。敵を作ってはならない。人類の存続のため、社会の安定のために、人類の危機を乗り切るために。正義を大義名分にしてはならない。
同じ人間であり、敵ではないことを認識しなければならない。

疑いは疑いを呼び、憎しみは憎しみを増大させ、信頼を破壊し、争いを産む。
信頼は社会の基盤である。信頼とは約束を守ることにより築かれる。
信頼を築き上げること、信頼を回復させることを優先しなければならない。

誰でもわかっているつもりの当たり前のことが、実はわかっていないのではないか。


考えはことばで作られる。そのことば(の定義など)に間違いがあれば、考えにそして行動に影響する。 重要な考えが思い込み、偏見、固定観念の影響を受けている。
それを修正する必要がある。

人類は数千年にわたって、間違ったことを信じ、ことばの思い込みを作り上げてきた。
そんなことがあるのだろうか。あり得ないことのように思える。本当にそうなのか。
しかし、これが現実である。これが結論である。
それ故、そう考える理由を明確にしなければならない。
思い込みの実体を振り返ってみて、わかりやすく説明することが必要だ。

シリーズ 「ことばの認識は世界を変える」はその試みである。


・ 人類はなぜ思い込みの世界を作り続けてきたのか?

情報が少なく、知らない、わからない、理解できなかったからであるように思える。

そう願うから、そう思いたい、そうあるべきと考えるようになり、感情が思い込みを作り続けてきたのではないか。

思い込みが人類に有害であるなら、避ける必要がある。
その主な理由は、思い込みによる戦争により人類の大量殺戮が起きてきたからである。

思い込みを無くすとは、原点に立ち返って考えることで、現実を直視することであると考える。


(2021年シリーズ全体の見直しに伴い、他のシリーズと重複があるものは削除した。)


思い込みを追求すると、人間が実に曖昧な存在に思えてくる。

大義名分として、人のため、正義のため、自由のため、愛のためなどと何でも持ち出すが、実はそのすべてが思い込みであり、偏見、先入観、偏った見方、決めつけの影響を受けている。

人類が作り上げた思い込みを修正できるか?という問いに対して、答えは、全てを修正することは不可能だ。まず、思い込みは人間の持つ傾向で、それに気付く人はほとんどいない。気付く人にはその意味を知り、修正する機会はあるように思える。しかし、一般大衆が望んでいるのは優越感と楽しみ、自分の欲望を満足させることのように思える。それを変えることは不可能ではないか。

例えば、命とは何か
「命は大切だから、殺すことは悪いことである」と思う人がいる。
大量の動物を殺して食べているのに、殺すことが悪いという発想、認識ほど、道理に合わないものはない。

人を殺すことにも良い悪いはない。戦争で数えきれない人間を殺してきた。殺人を犯す人はたくさんいる。裁判で死刑が確定され処刑される。悪いのなら、なぜその時々で判断が変わるのか。悪いと思うのは思い込みである。

法律は善悪ではなく、良い悪いではなく、人類が社会を維持するために作り出したルールである。

(シリーズ8 命についての考察)


常識
常識とは、個人、家族、地域、国の持つ価値の枠、範囲のことで、常識の小さい人ほど、他人は非常識に見える

(シリーズその他の作品II 常識という言葉に捕らわれずに、人を理解することの大切さ)


結論?

思い込みを追究していくと、人類の思考にはたくさんの問題があることに気付く、と同時に、間違いを正すことは必要なのだろうかという疑問さえ生じる。思い込みがあまりにも多いからだ。

人間は間違いに気づき、反省し、修正し、新たな生き方をすべきだと考えてきたが、そこにすでに間違いがあるのではないか。すべきなどと決めること自体が間違いかもしれない。

追究することは、自分とは、人間とは、人間性とは何かという課題に行き着くように思えるが、普遍的な人間、人間性はないと思われる理由についてはすでに書いた。自分についても、遺伝子と頭脳が作り上げた体と自分という意識、存在のことであると書いた。

その自分という存在、自分の意識が作られる過程に、思い込みの原因がある。
幼少の時期に人の基本的な認識は作られる。自然環境、社会環境、両親とその家族、親族よりことばを学ぶときに、ことばを通して人の感情や思いを受け継ぐ。感情は、ものに対する好き嫌い、良い悪い、綺麗汚い等も含まれている。親からの教え(情報提供)は未熟な子供にとって是非の判断は難しく、それがそのまま思いこみになる。

人間は優越感に浸り、楽しいことを望む傾向がある。間違っているかどうかは気にしない人が多い。思いこみなどどうでも良いのが現実であるように思える。それが理由で間違いだらけの世界になっているように思える。

間違いだらけといっても、そう気付く人の意見に過ぎず、大衆は気にしていない。気にする存在がないなら、このままで良いではないか、という考えも生じる。

しかし、ここまで人類が生き延びられたのは、文明に進歩がみられたのは、誠意を持つ人達による。人類の進歩は少数の誠実な人々の働きの上に成り立ってきている。これが理由で人間として誤りがあることがわかるなら、諦めることは間違いに思える。

人類のあり方が問われている。人間の生き方が問われている。人類としての責任が問われている。人類が生き延びるための修正の時間はますます少なくなっている。根本的な解決が必要に思えるが、答えはあるのだろうか ・ ・ ・ 考え続けるしかない。

2020年1月 マイケル アレフ




具体例: 個人の経験
60年以上も前のことになるが、小学校低学年の頃、テレビの影響を受け、正義の味方にあこがれていた。時代は貧しく、偏見が横行していた。心身障害者に対する思いやりはなく、劣っているなどの偏見があり、心身障害者は外には出さない雰囲気、傾向があった。

一般社会がそうだったからという理由もあるが、母親は障害を持つ人を「気持ち悪い」と言ったことがあった。自分はそのことばから心身障害児に偏見を持ち、なぜ同じことができないのかと弱者をいじめるようになった。ひどいいじめっ子になっていった。それが正しい、正義のように思っていた。何ともひどい子供時代であったことかと思うが、取り返しはつかない。

もし社会が、両親が、正しい情報を与えてくれていたなら、正しく導いてくれる人であったなら、他に誰かが真実を教えてくれたなら、いじめに走ることは無かったのではないか。

自分の間違いに気付くまでにたくさんの時間と経験を必要とした。

なぜ障害を持つ人がいるのか。様々な理由が考えられるが、それは基本的に個人や家族の責任ではなく、人類としての責任であることを理解する必要がある。

60年経った今、社会は表面的に大きく変わったように見える。弱者に対する配慮、セクハラ、パワハラ、飲酒運転、喫煙に対する制限など大きく変わった。
しかし、大衆の人間性、人間の本質は何も変わっていないのではないかという疑問は残る。

人間を信頼する社会の実現が、人類の存続に欠かせないように思える。
それはことばの理解に基づく信頼と、約束を守る社会のことと考える。