4月
* 悩みについて
「苦しい時期を乗り越え、やっと静かで平安な時を迎えられたと思っても、 人生はそこで終わらない。人間は生きている限り、新たな展開が待っている。」
「人間は人生においてたくさんの問題を抱える。確かなものがない。全ては消え去るものである。人間の間に確かな信頼もないように見える。ことばに信頼がない。自分という存在も一時的なものである。人生はあっという間に過ぎ去って行く。すべての人が死んで行く。
確実に信頼するものがない。永続するものが無いように見える。 だから人間は不安であり、孤独であり、人生は悩みに満ちている。 人は確かなものを求めている。
一人ひとりはみな弱い存在でもあり、生きることに悩み、苦しみ、励ましを必要としてる。」
不安、悩みは生きている限り付きまとうものなのか?
幸せであっても、幸せであればあるほど、その幸せを失うのではないかという不安を感じる人もいる。なぜ不安に感じるのだろうか?
考えることが、あらゆる可能性を意識させるからか?
悩みは心配することで作られる。
心配すること、くよくよするのを止めれば、悩みはなくなる。 どうしたら止められるのか?
* 未来は誰にもわからない。心配は役にたたない。
心配しても未来を変えることはできない。
人間は最善を尽くして前進あるのみ。なるようにしかならない。
まさにケセラ・セラである。ドリス・デイが歌ったスペイン語のケセラ・セラは世界的な大ヒット曲で、英語では「What will be, will be」、日本語では「なるようになる」と訳されている。、
知恵のことば
* 見方を変える。視点を変える。
人生は近くから見れば悲劇だが、遠くから見れば喜劇である。
Charlie Chaplin
* 現実を、あるがままの姿を認識することが大切。
多くの人が抱える問題は、知力を持って考えるというより、自分の希望、恐れ、願いを一緒にして考えるからだ。
Will Durant
すべてのことに、光がなく音がない世界でも、それぞれの不思議があり、私はどのような状況にいようと、そこに満足することを学ぶ。
Helen Keller
アメリカを脅す唯一の脅威は家庭における敵のことで、それは無知(無学)、誤信、無能(能力、力量のないこと)である。
Elbert Hubbard
二十歳、八十歳であろうと、学ぶことを止めた人は老人だ。学び続ける人は何時までも若い。人生ですばらしいことは知性を若く保つことにある。
Henry Ford
人は歴史の教訓から多くを学ばないということが、歴史の教訓すべての中で最も重要である。
Aldous Huxley
悩みに対処するために
以上の知恵のことばは、学習することの中に、解決策を見出すことができるように思える。
ここに出てくる学ぶ、学習するということばの意味は?
覚えることではなく、考えることである。考えることから新たなことを学び、知恵を得ることができる。
自分を中心に考えるという個人の視点だけではなく、人類、地球、宇宙にまで広げることが悩みを無くすように思える。
人間が求めるべきなのは、不安を超える人間の生きる意義であるように思える。
人のためになることを考えること、人類に対して何かできることはないかと考えること、人類に対する貢献が、悩みを解消する助けになる。
それに加え、何が起きても動じることなく対応する能力を身につけることを生きる目的に加え、日ごろから自分を訓練することも大切であるように思う。
人間が安定した生き方をするために、以下の考えを持つことは助け、役に立つと思う。
* 考える人間になる。
* 死をあるがままの現実と認識する。
* 人間と人類の生きる意義を認識する。
* 古い価値観と優越感を捨てる。 国家、民族、宗教などの古い価値観を捨て、偉い人間はいないことを認識する。
* すべては幼少期からの教育により変えることは可能であることを理解し、幼少期から人間の存在意義を最優先に教育する、など。
逆に人間が不安、悩みを持つようになるのは、
人間が考えない、考えようとしない、考える習慣を失うことにあるのかもしれない。人間が知的生命体でなくなることを意味するのだろうか?
人間が考えないとどうなるか?
* 自分の間違い、過ち、欠点に気付かなくなる。 他人の批判ばかりするようになり、他人のせいにする。
* 自分を反省できなくなる。
* 自分を改善できなくなる。
* 進歩できなくなる。進歩しなくなる。
* 考える人間ではなくなり、動物と同じように行動するようになる。
* 真実が見えなくなり、今までに無い混乱が社会に生じる
現在、人間は知的生命体であることを忘れかけているのではないか、と思えるほど社会は混乱し始めている。これは、人間が考えることを忘れかけているからなのだろうか?

5月 情報の問題点
知識、情報、考えに、良い、悪いはあるのだろうか? 正しい、間違いはあるのだろうか? あると当然のように教えられてきたが、本当にそうだろうか?
情報は関係する人によって意味が違う。 関係なければ、関心さえない場合もある。
人間と関係のない世界では、良い悪いの意味はない。 自然界には良い悪いはない。善悪はない。 自然界に人間の世界にある正しい、間違いは存在していない。
知識は、情報を文字、文章、考え、イメージなどのことばの媒体により蓄積させたものの総称であると考える。使わないと保管されているだけであるが、調べる等の行動を取ると、知識は情報として扱われる。
情報とは、五感から入力される刺激が神経を通って脳に伝わる電気信号などを初め、ことばの媒体はすべて情報である。命、人間、重力、電磁波、宇宙もことばの一部を構成する情報である。人間は、あらゆる情報を人間の言葉に置き換えることにより、その情報を知り、理解し、活用している。 (サイト 一覧表より)
人間の世界を含め自然界にあるもの全ては情報である。どれ一つをとっても無限の情報が関係する。人間はそこから多くのことを学んできたが、わかり得るのはほんの一部である。言い換えるなら、人間はほとんど何も知らないことになるが、脳細胞が有限である以上、それでも十分に思える。
情報はただ知識を伝えている。情報自体に良い悪いはないのではないか?
知識、情報、考えに、良い、悪いはあるのだろうか? 正しい、間違いはあるのだろうか?
人類全体は学校で教育を受け、正しいと間違いについて学んできた。 正しい、間違いとは何を意味しているのだろうか? 正誤を決めている基準が教えられている。その基準とは教科書である。 テストで点数が良いのは、教科書に一致した答えを書くからである。
自分の考えで作った答えは間違いになる。
義務教育から高校までの教科書に一致した答えを書くことが正しいという認識を作っていく。いつの間にか、間違いのない正しい基準があるかのように思い込む。 こうしてあるがままの真実ではない、人間の世界が作られてきた。
教科書が改定されるのはなぜなのか? 時代の変化により、内容が新しくなる。間違いが見つかり修正される。 教科書は絶対正しいのではない。これを認識する必要がある。
教科書はお手本のようなもの。模範とする内容のことであると考える。 人間の世界に正しい、間違いは無いと思う理由である。
では、正しい、間違いはどのように考えることができるのか?
教科書がお手本、模範のことであることを参考に答えると、
正しいとは、現在、変更する必要がないと考えられるもの、
誤りとは、現時点で変更する必要があると考えられるもの、と理解すればわかりやすい。
有限の脳細胞を持つ人間には、人間を超えた絶対正しい、絶対間違い無い等という表現を使うことには無理がある。絶対という表現は人間という枠を超えている。
これが理由で、同じ情報を聞いても、人の持つ価値観により、違った印象や考えを持つことになる。
米国では、前大統領トランプ氏を支持する人々が大勢いる。 コロナウィルスワクチン投与に反対する人々がたくさんいる。 ロシアのウクライナ侵略に賛成する人々も反対する人々もいる。
同じ課題に対する人の考え、主張、理由、動機などは様々である。 それ故、何があるべき答えなのかよくわからない。 知識、情報、考えに対する正しい、間違いという答えはあるのか? という質問が提起される。
時代を振り返ってみると、わからないことはいつもあった。 わからないなら結論は出せないと思うかもしれないが、人類はその時点での結論を出してきた。
どうしたら正しいという結論を出せるのか?
その多くは多数決、争い、戦争などの力による。 力は正しいことの証明であった。力は正義の理由である。
しかし、それが間違いの元である。 強いものが勝つ。それが大衆の願いであった。 スポーツでも強いことが重要だ。一番になるためである。 今でも同じ考えのままである。
かつての百獣の王であるライオンは絶滅危惧種になっている。 強いことを求めて核兵器を開発し、人類は滅亡の危機にある。
それは優越感に根ざしている。人間の多くは今も優越感を求めている。 人間は人間の価値観で世界を作っている。 これが現在の高度な知能を持った人間の考えとは思えない。
数百年、数千年前に未熟だった人間の考えの世界のままである。
原因は優越感に根ざした価値観にある。 修正しなければ人類は破局を迎えることになる。 しかし、破局を迎え、人類がいなくなっても、自然界はあるがままである。
このことは何を意味しているのだろうか?
あるがままの自然界は人類の味方になることも、人類を助けてくれることもない。あるがままの現実があるだけである。 人類は自分たちで作ってきた歩みの結果を全て自分たちで解決しなければならないということである。頼れるのは人間だけである。
人類による選択の結果は出せても、それが人間の世界では正しい答であっても、真実とは限らない。正しいことは無いからであり、あるのはあるがままの真実であり、現実である。
人間世界の知識、情報、考えは時代で、科学の進歩で、人々の好みでも変わってきた。 知識、情報、考えに間違いのない判断基準はないのではないか? 自然界の情報は変わらないように思える。変化はあっても、あるがままである。
人間の世界では、情報の出所、信頼性などを確認することはできるように思えるが、情報をどう考えるかはそれとは違う。
人類で決めたことが良い悪いを判断する基準になっている。 人間の世界は、多数決の力の世界であるからだ。 人間の世界の枠の中では成り立っても、人間以外の世界では通用しない。 人間の世界は宇宙の中では小さい、無いに等しい世界である。 それをすべての基準と考えることは間違いである。 人類はそれに気付かないで済ませるのだろうか?
人類がどのように変わっても、進歩しても、結局はあるがままの真実、大自然に行き着くように思える。 人類が存在し続けるために知的生命体としての存在の条件と考えられるのは、その進歩、変化が、あるがままの大自然と調和することであるように思える。
マイケル アレフ 2023年5月

6月
* ヒトゲノムはプログラムに過ぎないか?
「花は自分の美しさを知らない。遺伝子情報に従って花を咲かせるだけである。人間はそれを見て美しいと表現する。」 なぜ美しい?
小学生低学年の子供に美しいとは何か質問してみる。美しいという認識のない子は多いと考えられる。 なぜないのか?
更に幼い子供であれば、美しいという表現だけでなく、怖い、疲れる、悲しい、正しい、間違いもわからない。 なぜなのか?
理由は簡単である。それまでに教えられていないからであり、その認識が成長していない。 その情報が脳に入力されていないため、脳にはその情報が無いからだ。
入力されるなら、教えられるなら、その情報により、脳はその教えられた情報に基づいて判断するようになる。
幼少時期に教えられるから、そう思うようになる。 幼少時に何を教育されたかにより、大人になった時の認識が決まってしまう。このことに人類は気づかなかったように思える。
美しさはない。醜さもない。現実には無いのに、人間の世界ではあることになってしまう。 人間の世界であるからだ。
だから何? そんなことはどうでもいいではないか? それが人間の世界ではないか?
問題点を指摘したい。
* 世の中がおかしくなっているのは、人間としての基本的にあるべき姿、人間としての責任が教えらていないからである。
* 人間が情報により作られているという事実は、人間を作るヒトゲノム遺伝子は、単なる設計図にすぎないことになる。
ヒトゲノムが人間なのではない。ヒトゲノムと共に情報の入力が人間を作っている。 幼少の時からオオカミに育てられればオオカミになるのと同じである。 ヒトゲノムだけでは形は人間でも、何になるかは決まっていないという意味である。
人間に育てられると、ヒトゲノムの脳は自分という存在を作る。自分の存在に気付いてからは、自分が人間としての自分を作っていく。 現実には、それに気づかない人がほとんどである。
人間とは、自分達人間の理想をどのように考え、決めるか、その情報をどう教育するかにかかっている。ヒトゲノムをその理想に近づけるためである。
ヒトゲノム遺伝子を研究すれば、医学的には人間に役立つ都合の良い情報を作れても、人間という意味の情報は直接出てくることはないのではないか? という疑問が生じる。
ヒトゲノムをただ育てても人間にはならない。 ヒトゲノムは何にでもなりえるプログラムであるからだ???
* 今まで「ことば」と「言葉」の違いを考えたことはなく、同じように思っていたが、明確に区別する必要があると考えるようになった。以下にその理由を書いた。
「ことば」と「言葉」に、どのような区別が必要か?
存在するもの全ては情報を伝えるものと考えられる。情報を伝えるものを「ことば」と表現してみる。
世界中には様々な国、地域などの民族により独自の情報を伝える手段として言語が作られてきた。
人間は情報を脳と入力器官である五感の働きにより直接知り、名前を付け、その意味を理解し、活用している。 それは、日本語では漢字表記で「言葉」である。
人間の「ことば」を「言葉」として表現してみる。
その元からある人間の「言葉」の意味も内容も時代と共に変わってきている。
現在の全ての情報を「ことば」と考えるなら、時代の変化を受け入れることができるが、以前からの人間の「言葉」では難しいものもある。
長い間、人間だけに「言葉」はあっても他の生命体にはないと考えてきた。
動物に言葉はあるか? 鳥に言葉はあるか? 虫に言葉はあるか? 魚に言葉はあるか?
あるとは思えない。ことばがあるはずはない、と考えてきた。 言葉は人間のものであるから、当然人間以外の生命体に言葉はない。
確かに人間の持つ高度な知能も言葉も持っていないように思える。 しかし、人間の言葉を持っていないが、「ことば」なら持っている。
二つの意味で持っていると言える。
1. まず思い出して欲しいのは、「ことば」は何か? である。
情報を伝えるものであると考えている。
全ての生命体は情報を伝えるものであるだけでなく、伝える手段を、つまり「ことば」を持っていると考えられる。
生き物が集団で行動し、社会を作るのは、情報を伝え合っていることを意味する。
人間には虫、鳥、動物などの生命体のことばが直接わかることはないが、オスとメスは相手を探し子孫を残す。情報を伝えるものが無いなら、引き合うことはない。
社会を作る生き物、アリ、ハチ等、情報を伝え合う生命体である。 群れを成す魚、鳥にも情報を伝える手段がある。
鳥や動物の鳴き声も情報を伝えるものであり、情報を伝える「ことば」があると言える。
2. 全ての生き物は遺伝子DNA があり、DNA つまり遺伝子で作られている。情報を伝える「ことば」でできている。
生命体は遺伝子でできたプログラムにより動いている。 今ではそのプログラムを理解することもできるが、人間の作ったものではなく、人間の世界のものでもない。 プログラムであり、情報を伝える「ことば」で作られていて、解読することができる。 DNAはことばであるが、人間の言葉ではない。 生命体は情報を伝える「ことば」で作られている。
DNA を人間の言葉と同じと考えることも、表現することもできないと思う。 「ことば」という表現を使うなら、DNAは情報を伝える「ことば」であると言える。 「ことば」は人間の世界、人間という制限を考えずに使うことのできる表現であると考えている。
このサイトでは、存在するもの全ては情報を伝えるものと考えてきた。その情報と情報を伝えるものを「ことば」と考え、「ことば」を情報のシステムと表現した。
人間は情報を脳と入力器官である五感の働きにより直接知り、名前を付け、その意味を理解し、活用している。それは日本語の漢字表記で「言葉」である。 世界中には様々な国、地域などの民族により話をするための独自の情報を伝える手段として言語が作られてきた。人間の言語も「言葉」も情報のシステムである「ことば」の一部である。
その言葉も言語の意味も今大きく変化している。 その理由は、人類が新しい情報を含め、膨大な情報を知り扱うようになってきているからである。
* 人間は特別な存在か?
高度な知能と言語を持ち、地球上で最強な存在になり、宇宙に進出しようとしている人類を見ると、人間、人類、地球も特別に見えてくる。しかし、それは特別なのか?
それは人の認識によるのだが、修正が必要だと考える。
今から50年前なら、地球は宇宙の中心ではないことがわかっても、地球は宇宙の中心という認識は変わってはいなかった。今でも大半の人はその意識に変わりはないように思える。
なぜ特別だと考えてきたこと、考えていることに修正が必要なのか?
別に弊害はないのではないか?
ところが、人は自分が特別だと考えるから、「そんな馬鹿なことがあるか」と初めから拒否し、考えることもなく、否定するようになる。
「そんなこと当たり前でしょう。そんな常識も知らないの?」 という態度になる。
それは、他の可能性を考えることを許さなくさせる。
人間が進歩してきたのは、自分たちに間違いがあるかもしれないと考えてきたからだ。
初めて動力飛行に成功した オービル・ライト のことば
「真実として受け入れられているものに間違いはないという前提で我々すべてが取り組むなら、進歩するという見込みはないだろう。」
人間が考えないとどうなるか?
* 自分の間違い、過ち、欠点に気付かなくなる。
* 他人の批判ばかりするようになり、他人のせいにする。
* 他の考えを初めから受け付けなくなる。
* 自分を反省できなくなる。
* 自分を改善できなくなる。
* 進歩しなくなる。
* 考える人間ではなくなり、動物と同じように行動するようになる。
真実が見えなくなると、今までに無い混乱が社会に生じる。
現在、人間は知的生命体であることを忘れかけているのではないか、と思えるほど社会は混乱し始めている。これは、人間が考えることを忘れかけているからではないか?
人は自分を特別な存在であると思いたいのはわかるが、それは優越感である。
それがあると、あるがままの真実は見えなくなり、利己的になり、好戦的になる。
宇宙は無限の拡がりを持ち、無数の天体が存在している。
観測可能な範囲だけでも2兆の銀河があり、その先はわからない。無限に続いている可能性がある。人間の理解の限界を越える現実である。
地球上に知的生命体である人間が存在しているという事実は、宇宙に無数の知的生命体が存在しているという根拠である。高度な知能を持った生命体はたくさんいることを示している。
大切なのは、その意味を理解することにある。
人間の世界は人間が作った世界であり、そこにある考え、思い込み、価値観は人間が作ったものであり、あるがままの世界のものではない。
情報が少ない枠の中で考えると、自分が正しく、間違いないと思うようになる。
常識の狭い人ほど、他の人が間違って見えるのと同じである。
世界を拡げれば、常識の枠も拡がり、自分の間違いに気づくようになる。

7月
* 自分という考えを広げる、視点を変える、
自分が思っている自分の能力と、気づいていない自分の人間として持っている能力には、違いがある。
自分はダメだと思っていても、人間の能力は別である。自分ではなく、人間である自分を正しく認識する必要がある。
赤ちゃんの時から言葉を覚え、話すようになり、歩くこともできるようになる。自分という存在に気付くまで、遺伝子と脳の働きによって成長するが、一般的に幼少の時期の成長過程は覚えていない。
人間は産まれた時から学習している。教えられるとは情報を伝えられるという意味である。人間はその時、情報を得ているだけでなく、人間について学習している。
学校で先生から教えられることを通して子供はそれぞれ学習しているが、情報を教えられることだけであれば、ラジオ、テレビ、コンピューター、インターネットでもできる。
重要なのは人間から学習していることである。
それは教科書の情報ではない。人間の手本を通して人間について学習していることである。
生まれた時から親を通して、家族、親族、学校の先生、友達を通して、気付かないうちに人間について学習している。
これが人間であるために一番重要な学習であることに気づく必要がある。
自分の存在に気づいてからは、自分がいるようになる。それ以降、自分が自分で考え、自分を動かし、自分で間違いを判断し、学習する。自分の能力に気づき、努力することを覚える。自分中心に世界を見るようになる。
幼稚園、小学校、中学校、高校と自分の世界が広がっていく。社会人となり会社に勤めるようになり世界が大きく広がっていく。自分の考え、狭い常識が現実の世界の広がりにつれ、変わっていく。
人間には受け継いでいる能力がある。
人それぞれ違うが、持っている能力に気付き、成長させることもある。
親が自分の知らない頃から訓練する場合もある。本人が気づいた時には、その道で成果をあげ注目されることもある。
誰でも自分の才能だ、能力だと思っても、それは遺伝子と脳により作られ、与えられたもので、親を含む人間社会からの支援のおかげでもある。それは個人の所有のように自分が思い、社会がそう評価しても、個人のものではなく、人類共有のものである。
それがわかるのは、困っている人を助けるのは、人類が協力していく社会であるからだ。
皆が利己的にならず、誠意をもって生きていくなら、人間の世界は理想的な世界になる。
これが自分の存在は自分だけではなく、人類社会の人間であるという意味である。
ヒトゲノム遺伝子により人間に産まれても、人間社会から人間の手本を学習しなければ、望ましい人間にはならないという意味である。
* 今は苦しむことなく安らかに死ぬことのできる時代であり、苦しくても生きることしか選択肢のない時代ではない。
人間は苦しくても、辛くても、どんな理由があっても生きなければならないのだろうか。
今まで人間にとって命により生きることが一番大切であるかのように考えられ、教えられてきた。確かに命がなければ何もできないし、喜びも楽しみもないことになる。
医学は人の命を生かすために進歩してきたように思える。
しかし、自分から自分の命を絶つ人はなくならない。
なぜだろうか?
死は苦しみからの解放を意味するからのように思える。
遠い昔から、死ぬことは苦しく、辛いものと思われてはいても、死は苦しみから解放であることを知っていたのだろうか。
いじめられると、その苦しみから逃れるため、小学生でも死を選ぶことがある。
なぜ知っているだろうか?
わかっていることは、生きているから苦しいのである。
生きることが苦しいからと死を選ぶ。
死を選ぶ理由は人によって違う。
こんな世の中にいたくないと思う人もいる。
死刑になりたいから無差別殺人を計画する人もいる。
命が大切だからという理由から、自殺を考え直すよう説得しても、医者が助けようとしても、死を選ぶことは個人の自由に思える。
人生を経験していない若い人が、経験を積まずに、苦しみから逃れるために死を選ぶことを自分から考え直すためには、柔軟な思考ができるよう幼少時からの人間の教育、社会からの助けが必要であるように思う。
人は全て死ぬ定めにある。遅かれ早かれ死ぬことに変わりはない。
人生にあせる必要はない。体裁にこだわることなく、経験を積み、なぜかと考え続けることは重要である。
昔、死ぬことは痛いこと、辛いこと、悪いことのように教えられたが、反対である。
生きているから痛みを、辛さを、悲しみを、苦しみを感じる。
死は苦しみ、悲しみ、辛さ、むなしさ、痛みからの解放である。
人間にとって死とは脳死のことであり、脳が死ぬと何も感じない。
痛いのも、悲しく苦しいのも、生きているからである。
昔の価値観で今も同じように考え、行動することは間違いである。
正しいとは現時点で、その時点で、修正の必要はないと考えることであり、間違いがないことではない。
正しいを間違いないと考えてきたこと自体が間違い(修正が必要)である。
死を選ぶことを尊重するのは人間としてのあるべき姿である。
死を選ぶことは人間の権利であり、それを止めることはできない。
死刑になりたいからを理由に無差別殺人をする人を、無理やりでも生かすことは望ましいことなのか。
早く楽に死ぬことができるように助けることの方が人間のあるべき姿ではないか。
人の苦しみ、悲しみ、辛さ、むなしさ、痛みから解放してあげることは人間社会の責任ではないか。
死だけが解放を意味するわけではないが、一つの選択肢ではある。
今は苦しむことなく安らかに死ぬことのできる時代であり、苦しくても生きることしか選択肢のない時代ではない。
死ぬこと以外に選択肢がなく、助けようがないという状況にあるなら、その意思は尊重されるべきではないか。
後期高齢者であれば、自分の意志で、自分の人生を終わらせる最善の時を決めることは、知的生命体として人間のあるべき望ましい姿に思える。
生きているから愛する人、お世話になった人に感謝の言葉を告げることができる。
自分の意志が明確でなくなれば、自分が何かさえわからなくなり、多くの人に負担をかけることにもなる。
安らかな死、尊厳死を選べる時代はすでに来ていると考えるが、実行に移すためには様々な準備と手続きが必要になると思われる。
昔からの価値観がそれに反対することは当然あるように思える。
人間の世界は矛盾に満ちている。時代の変化が人の持つ価値観に修正を求めている。
殺人は許されないと考える人がいる一方で、戦争で民間人、子供が殺され、それを止めることさえできない。
人種差別による殺人も起きる。殺人事件のような凶悪犯罪は世界中で起きている。
しかし、死刑による殺人は許される。死刑は殺人ではないのだろうか。
人間の正義は力の象徴であり、戦争する理由であり、人間の言い訳、価値観である。正義は間違いがないのではない。力である。
民主主義も多数決の力である。人間の世界は人間の理想とは違い、力で決まる。多数決で決まる。絶対正しい、間違いはない等と、もっともらしい言い訳を作る。人間の世界では、大衆は優越感を求め、利己的で好戦的であり、矛盾だらけの世界である。
死刑になりたいから無差別殺人をすると考えるのはなぜだろうか?
人は基本的に自分が悪いとは思ってはいない。
誠実に考える人であっても、世の中の矛盾には耐えられない場合もある。
真面目で誠実な人が、価値観の違いから世の中の非難の的にされる場合もある。
かつて多くの青年は世の中を良くしたいという願いを持っていた。しかし、間違いを信じ、殺人まで犯した人もいる。
死刑になりたいからという理由は、社会に対する非難、大衆への抗議の場合もあるのではないか。
死刑になりたいというのは実は言い訳で、社会に対して「こんな世の中でいいのか」と訴えているようにも思える。
しかし、どんな言い訳をしても法律を犯せば自分が犯罪者になるだけであり、反省しても取り返しはつかない。その行動により大衆の意識が変わるとは思えない。
人間の世界は昔からの価値観から抜け出せないでいる。
古い価値観に修正が必要になっていることに気付かない。
時代は改革を求めている。
価値観により見えなくなっている人間の在るがままの姿を知る必要がある。
戦争で兵役を拒否し、自分の良心に従い、人を殺すより自分の人生を犠牲にすることを選ぶ人はいる。良心的兵役拒否である。それはその人の持つ価値観から生じる。
価値観には様々ある。美しい、醜い、良い、悪いも価値観である。
価値観は考えが正しいという思い込みから生じるが、正しいとは間違いがないという意味ではない。その時点で修正の必要はないと考えることである。
当たり前と受け止められている人間の持つ価値観の多くは間違っている。つまり修正が必要である。しかし、間違いに気付かなければ、修正はできない。世界は変わりようがない。
修正が難しい課題であることは確かである。しかし、人類にとって修正ができる十分な時間は残されているのだろうか。

8月
知力の源:知恵のことばの中に、トムクランシーの次の言葉がある。
The difference between fiction and reality? Fiction has to make sense.
創作と真実の違いですか? 創作はなるほどと思えるようでなければなりません。
Tom Clancy
創作は、なるほどと思えるようでなければなりません。その通りである、と考えてきた。
2009年の映画「アバター」を見たとき、考えであれば何でも映像化できる時代になったと感じた。創作はすばらしい。
映像であれば、古代の恐竜でさえ生きているように見せることができる。未来に遺伝子から実物を再生出来るかもしれない。映像なら往年の大スターの復活さえ考えられる。
ただし、創作は作った作品であり、なるほどと思えても、真実とは違う。
真実は在るがままであるせいか、面白くなく、人気がない面もある。
人間は、創作に夢中になり、科学技術の進歩により、人間の世界は創作という作られた世界になり、そこに生きるようになった。なるほど素晴らしいと思える世界になったと言えるかもしれない。
しかし、同時に人間は大自然のような在るがままの真実、現実を置き忘れてきたのではないか?
楽しいことに夢中になっている間に、追求している間に、在るがままの人間であることさえ忘れてしまったのだろうか? という問いは考えてみる価値はある。
人間としての理想も創作ではないか?
その通りであると考える。
創作は人間の知的生命体である証であり、進歩する理由であると考えてきた。それはその通りである。
ただし、それは諸刃の剣と呼ばれる科学技術と同じように、扱い方によるように思える。
人間は好戦的か?
そう考えてきた。好戦的であるのは確かである。人類の歴史は戦争で一杯である。人類は争い合うよになっている定めのようにも見える。
しかし、そう決めつけるのは間違いかもしれない。
人間が好戦的であるのは、好戦的になるよう育てられているからかもしれない。
争う理由が自分の正当性を主張することにあるなら、そう考えるようになることが、好戦的である本当の理由かもしれない。
争いの原因は価値観にあるとこのサイトの中で訴えてきた。
人間の持つ価値観は、産まれてから入力される情報により作られるものであるが、当人は教えられたことを覚えていない。社会人になる頃には、人間社会の教育により正しいを含む多くの価値観は作られ、それを当然のように思っている。
その認識の作られる過程にこそ好戦的になる真の原因があるのではないか。
幼少の頃より何でも秀でて一番になるように、優越感を持つように、社会環境がそうなるように情報が流れている。
金持ちになりたい、贅沢をしたい、楽しければいいと思うようになるように仕組まれているかのようだ。この仕組みこそ、真の原因ではないか。
ヒトゲノム遺伝子は高度な知能を持つ生命体になる遺伝子であり、単に人間になる遺伝子ではない。産まれてからの情報の入力により学習するように作られているからではないかと書いた。
この遺伝子を受け継いでいる生命体は地球上では人間でも、地球以外の天体では人間ではなく、別の生命体で、好戦的でない可能性もある。
シリーズ40の3 遺伝子はどう関係するのか? を参考に。
だから何なのさ?
何か言われると 注意されると、反発する人の中に、「だから何なのさ?」と反応する人がいる。
「だから何なのさ?」と、この表現を繰り返す。
すると、注意される前の、言われる前の初めの状況に戻すことができる。
言う側は説明を繰り返すことになる。相手はわかろうとしない。
人の考えを拒否する論法である。
説明してもその意味がわからない、わかりたくないという意思表示である。
大切な考えを伝えても、猫に小判と同じ意味になる。
わからせる方法はあるのか?
わからせる方法はない。頭から押さえつけることはわからせることではない。
自分に間違いがあると気付くように助けることが必要だ。
当人の持つ学習能力に訴えかけること以外に無いように思える。
当人が自覚しない限り、進展は望めない。
ただし、相手ではなく自分に、つまり大切だと考え、伝えている自分に間違いがある可能性もある。まず、相手を理解しているかと自分に問いかける。
自分が正しいと思っても、それはその時点で、修正の必要はないと考えていることで、間違いがないという意味ではない。
人間には間違いが無い、絶対正しい、と考えることは、人間の限界を越えていて、有り得ない。
謙虚になり、自分に間違いがある可能性を絶えず考慮に入れることを忘れないことが人間のあるべき姿なのかもしれない。
わからせることはできないが、力で説き伏せることはできる。力が多くの問題を解決してきた正義である理由である。

9月
* お金には実体があるではないか?
お金に実体はある。花と同じように実体そのものである。
物には情報がある。五感でその情報を受け止め、脳が判断している。
実体であるお金に値段がついていても、価値ではない。価値とは、価値があると思い込んでいる脳の思い込みの状態のことである。
人間の社会が価値を保証し、皆がそれを信頼し、あると思っている。
人間社会を信頼することは大切である。
お金の意味は信頼にある。信頼は人間の社会の基盤である。
勘違いしてはいないだろうか?
お金に価値があるのは人がその価値を信頼することで、価値を持っているからである。信頼が実際には価値を持たせているという意味である。
聞いたこともない通貨であれば、実体であるお金を見ても価値があるとは思わない。物として受け止める。
最近、現金はキャッシュレスに移行しつつあり、現金である実物を見ない時代になりつつある。
お金という実物、実体が無くても、あると信じる時代である。そこに信頼があるからと言える。
しかし、システムに障害が発生したり、その信頼が失われたりすれば、実体の無いお金は消えてしまう可能性がある。
その価値は人間の社会が保証している間は、人間の価値観としてあり続ける。そこに、信頼できる社会であることの重要な意味がある。
人間の信頼は社会の土台である。人間は協力して信頼できる社会を維持することが大切である。人間の世界は信頼の上に成り立っている。
その信頼が失われれば、人間の世界は崩壊する。お金の価値もなくなる。
信頼は初めからあるのではなく、意思の疎通により互いに理解しあい、約束を守り、築き上げていく資質である。
人間の社会には、信頼を築き上げる生き方が大切である。
* 哲学はなぜあるか?
人間の考えは言葉でできていて、実体がない。その作られた考えを表す単語は間違いを含んでいることも多い。正しいという言葉にさえ間違いがある。
正義、愛、人格、平和、平等、希望、夢など人間の作ってきた考えには実体が無い。このため哲学が発展し、そのことばの意味は何なのかと考えてきたのではないか?
しかし、考えても、考えても、なぜかその答えは見つからない。
様々な考え(解釈)が作られてきた。
なぜ答えが見つからないのか?
答えは無いからではないか?
その考えである文章から作られたことばに実体はなく、間違いを含むことば(単語)から作られている場合も多いからではないか?
間違いとは、その時点で修正を必要とすると考えることであり、
正しいとは、その時点で修正の必要がないと考えることである。
正しいを間違いがないと考えることは、間違いであり、修正を必要とする。
その時点で正しくても、時と共に変わる可能性がある。
全ての疑問は言葉に行き着く。そして、なぜ言葉があるのかと考える。
* スーパーヒーローが与える偽りの憧れ
幼い頃、正義の味方に憧れた。
スーパーマンを含むスーパーヒーローは全て、力を持ち、悪を倒す正義の存在として描かれてきた。
その憧れが何を求めることなのか気づかない内に、子供は憧れるようになる。大人でさえ憧れる。
その憧れは、力という優越感を持つことだ。
力があれば強くなり、悪を、敵を倒すことができる。弱い人を助けることができる。
これが主な理由で、人間は力を求め続けてきた。
それが優越感を得るためであることに気付かない。
力は富であり、お金であり、裕福になること、権力を得ること、大衆の支持を得ることである。
そのために何でも一番、一流になるように、優秀な成績、有名大学、一流企業に就職すること等を目指すようになる。人気を得ること、利益を得ることを目指す。
それが個人だけでなく、全ての国が力を追い求めて、兵器の開発に挑み、人類を滅亡させる以上の核兵器を持ち、今も戦争をしている理由である。
良い、悪い、は人間が作った考えである。実体は無いにも関わらず、人間の価値観として信じられている。
思い込みにより、信じるから、あることになる。
正義は自分の考えは正しく、相手が間違っていると考えることである。正義という言葉に騙されてきた結果、人類の歴史は戦争で一杯である。
皆がそう思っているからと、考えなくなり、大衆に迎合することに重大な間違い、危険がある。
正義という人間が作った言葉(単語)の意味は人によって違う。正義は、争いを起こし、戦争をする大義名分である。
正義は神が定めた法、正しい義などと数千年にわたり信じられてきた。
しかし、正義は力の象徴であり、正しい考えであるという意味ではない。人類はこのことに今も気づかないでいる。
人間の作ってきた考え、言葉に修正が必要である。
人間の考えに完璧は無いが、理想を考え、理想に近づけることはできる。
* 心と認識について
人間の脳は、五感の働きを通して得た情報を、思考と感情の働きにより、幼少の頃からそれをどのように受け止め、どのように反応するかを教えられ、経験を通して学び、その認識を作っている。それは心と表現されてきた。
美しい、美味しい、楽しいは心、人の認識の反応である。
醜い、まずい、悲しいも心、人の認識の反応である。
美しいと感じるのは、美しさがあるからではなく、そう反応するよう学習しているからである。
学校に入る前の幼い子供たちは、教えられていないため、美しさは未だわからない。経験がなければ、悲しいもわからない。
このことは重大な問題提起になる。
国家、国民、民族、人種として持っている認識もまた価値観として作られ、植え付けられていることを意味するからである。
大人になる頃には疑問に思うことさえなくなり、当たり前のように受け止めてしまう。
* タイムマシーンは存在し得ない?
時間も、時計も、人間が作ったものであり、在るがままの自然界には無いものである。人間の考えで作ったものであれば、間違いはあり得る。
少しの間、人間の世界から時計をなくし、時間を忘れて、幼い頃の子供に戻ったつもりで、目を閉じ、1から10までゆっくりと数えてみよう。
さあ、始めよう。ゆっくりと数え始める。
1,2,3, ~ 9,10。
10を数え終える。
そして考える。
この10を数えた時間はどこへ消えたのか?
その数えた時間を含む1分前、5分前、10分、30分前はどこへ行ったのか?
どこにも行ってない。ずっと今だった気がする。
今とは瞬間のことではない。
スマホでその様子を記録する。それを見ると、今が同時進行で過去になっていることがわかる。
今 イコール(=) 過去である。
過去は現在と同時に進行している。
それ故、過去は、過去という時間があるのではなく、今の記録ではないかと書いた。
ビデオやスマホがある現代でなければ気付かないことかもしれない。
長く時間が経過すると、時間の経過を感じる。未来を考えると時間はゆっくりと流れているように感じる。しかし、時間が過ぎてしまうと、一生でさえ短く、瞬間のようでもある。
なぜ時間の長さに違いを感じるのか?
時間は人間が作った言葉、単語で、過去、現在、未来という時間の流れがあると教えられ、誰もがそう思っている。しかし、時間という言葉に実体はない。人間の作った考えである。
時間という考えは感情の影響を受ける。思い込みにより「時は金なり」という価値観にもなる。
考えは情報のことでもある。文明は人間の考えで、新たな情報と共に進歩してきた歴史の記録でもある。時代の情報の変化により社会は変わり続け、文明は進歩してきたように見える。現代社会は情報に溢れている。
過去の文明は時間の流れでみるとわかりやすい。しかし、それは時間の流れなのか、瞬間ではない今という記録ではないのか?
一年は365日であるが、それは地球が太陽の周りを一回りするサイクル(周期)のことで、30才の人なら、その間に地球が太陽の周りを30回まわったことである。
一年という時間は、サイクル(周期)が実在することから人類が作った考えである。
地球を遠くから見ると、太陽の光を浴びている部分と影の部分に分かれて見える。自転しているため太陽の光が当たる部分は朝、昼、夕となり暗い夜が始まる。地球が自転しているからであるが、地球上ではその変化を感じ一日と数える。一日という時間があると考えている。しかし、それは時間ではなく、一日と決めたのであり、それが365回続くと一年である。
人類は一年を12か月、一日を24時間、一時間を60分に分けて使っている。これほど便利な道具はないように思える。
確かにサイクル(周期)はある。しかし、時間は人間が作ったもので人間の世界のものである。時間はなくては困るが、在るがままの自然界のものではない。
今まで、光は秒速30万kmの速さと教えられ、それ以上に速いものは存在しないと考えられてきた。しかし、そう考える時代は終わりつつある。宇宙の果ての空間が膨張している速さはそれ以上、その数倍はあるという。
人間が考えてきた時間にさえ修正が必要になることはあり得る。
過去という言葉は、過ぎ去った時間を表すと考えられているが、時間は人間が作った考えを表す言葉であり、考えは科学の進歩と共に変わっていくこともある。
時間の流れがあると考えるとわかりやすい。時間で考えることは非常に便利であるが、それは人間の考えである。
もし、過去が現在と同時進行なら、時間は今しかなく、タイムマシーンは存在し得ないことになる。
しかし、その結論を出すには、答えなければならない質問がある。
時間が理由でないなら、変化とは何か? 変化はなぜあるのか?
時計と時間
時間は人類が作った言葉(単語)であり、時計の発明以来人間の世界は時計に囲まれ、時間はなくてはならないものになっている。
今では時計の無い、時間の無い世界を考えることはできない。
人間の世界の周りに変化はある。そこに、人類は便利な時計を作った。
時計で時間を計るようになった。
一日の活動を時計の時間で計画することができるようになった。
人間の世界はいつのまにか時間に頼る世界に変わった。
時間に支配され、時間で動く社会に変わってしまった。
周りに変化はある。それは時間の流れだと教えられた。
現在、過去、未来があると教えられたことに疑問を持つこともなくなった。
しかし、時間が変化の原因、理由なのだろうか?
時間も、美しいと同じように、人間の考えであり、価値観として作られている。
時間、それは脳の働きで、実体はなく、考えとしてある。
人間の考えで作られた認識表現は、実体ではなく、幻想であると考えられる。花という実体はあるが、美しさはない。
美しいはあるが、それは人間の心、脳の認識の働きとしてある。
時間も同じように思える。
* 現実を認識し、信頼を築く世界を作り出すために (信じるという言葉の説明)
義務教育や高等教育で学んでいる内容は、基本的に多くの人が長い時間をかけて調べ、研究を重ね、間違いがあれば修正し、吟味してきた結果である。
それを教えられるのは、現時点で間違いは無いと判断できるからであり、学ぶ側も安心して受け止めることができる。
学習している内容を自然に正しいもの、現時点で修正の必要の無いものとして受け止めている。
ここで重要なのは、学ぶ内容が事実に基づいていて、信頼でき、受け入れることに問題が無いと理解できることにある。
その事実は科学の進歩の土台になっている情報の正確さと信頼に基づいている。人間の世界はその信頼を大切にし、その信頼を基盤に社会を築いている。
その事実を受け止めることに「信じる」という言葉を使うことはない。学ぶ内容は基本的に学習すれば、理解できるからである。
物事を知り、理解することができれば、信じる必要はない。
信じるという表現は使わない。
「信じる」という言葉の意味と作られた背景を知り、理解するなら、今が人類の歴史を二つに大きく分ける転換期にいることに気付くことができる。
今はデジタルの時代、科学の進歩の基になっている情報の信頼に基づく新しい価値観の時代であると言えるが、それ以前の数千年は、わからないことを信じる古い価値観の時代であった。
物事に関する知識と理解、情報の違いが、昔と現在の社会と大きく違う理由である。
昔から、「信じる」のは前提が確かだからではない。根拠があるからではない。
信じることには、今も「わからない」という前提がある。
わかりようがないから信じる。
わからないことを信じるからだまされる。
信じるから間違いを正しいと受け止めてしまう。
その信じるという意味は、背景となる情報、事実がわからず、答がないために、想像することで、なるほどと思える理由を作り、それを無条件に受け入れることであった。
それが理由で、信じるとは、鵜呑みにすること、わからなくても間違いのないものとして受け入れることである。
今現在でも昔からの価値観の時代のままの国もあるし、そう信じている人々もいる。間違いに気付き、民主化により改革を求めている人々もいる。
数百年、数千年前であれば、わからなことはたくさんあり、答えのない時代だった。その時、人々はどうしたのか?
人びとは存在のわからない見えない神様を作り、見える偶像を作り、それを神様として信じたのである。
死後の世界、天国、地獄を作り、神々、天使、悪魔、悪霊を作り、恵みの理由、病気や疫病の理由にし、地震、津波、洪水等を天災の理由にした。
信じていても、信じることに根拠はない。根拠がわからないから信じるのである。これが信じることを基本にして作られてきた古い価値観のことである
当時、事実に関する確かな情報はなく、事実を知ることができず、できることは信じるしかなかった。それがその時代背景であった。
それ以外に考えようがなかった。「神」という言葉は人類の無知の象徴であると書いた理由である。
今でもわからないことはたくさんある。人間が有限である限り、これからもずっとわからないことはある。
しかし、わからないことを神様にして恐れることや感謝する時代は終わった。
わからないなら、調べ、研究し、真実を追求することができる時代である。
「神」という言葉に実体はない。作られた考えである。それを追求すれば何かを理解できる。理解できれば、信じることはなくなる。それはあるがままの真実であるからだ。
疫病が流行れば神さまがお怒りだと怖れる時代は終わっている。
地震、津波、ハリケーンのような災害をわからない天災という理由にする時代は終わった。
今は物事を知り、理解することができ、わからない理由を理解することができる時代である。信じる必要はない。
わからないなら、わからないものとして研究対象にすることができる。
今でもわからないことが起きると奇跡が起きたと大騒ぎすることはある。
マザー・テレサへの祈りにより奇跡が起き、奇跡が認められ、マザー・テレサは聖人の仲間入りを果たした
この点についてシリーズ7 の前置きに説明を書いた。
科学の進歩により恐怖の原因がわかるようになった現在、わからないから信じるという必要は無くなった。
人類が相反する考えを、間違いのないものとして受け入れることがなぜできるのか? その理由は、信じることにある。
正しいと信じるのは、その内容がわかっていない、理解していないからである。正義を信じることも理解していないからである。
戦争を始められるのは、自分の考えを正しいと信じるからである。
信じることは、騙されることと同じである理由は、わかっていない、理解していないことにある。
人類はこの事実を知り、理解することができれば、信じる必要は無くなる。
苦難の時、救援活動は人間の社会からやって来る。
確かな助けは天からでも、神さまからでも、偶然でもない。
確かな助けは、人間同士が信頼し、協力し、助け合う人間社会から得られる。
現実を認識し、信頼を築く世界を作り出すことが、人類にとって最も重要である理由である。
参考資料:
・ 言葉の定義 「信じる」
・ シリーズ7 奇蹟、キリストと使徒たちを現世界に招待したら、認識の問題 生命、地球外生命、未来
* 民主主義の危機?
米国では民主主義の危機が叫ばれている。
ネットに民主主義とは、人民が権力を所有し行使するという政治原理と説明がある。
人類の歴史の中で民主主義という形態にたどり着いたことには大きな意味があると思うが、民主主義には初めから問題があったのではないか。
多数決の問題である。人間である大衆の質の問題である。 人が人を統治することに関する問題である。
支持者の数で力が決まることの問題である。
正義が力であるように、民主主義も数の力である。
力は制御されなければ暴走し、破壊に発展する。
力を制御するために人間に必要なのは、知力、誠意、責任意識ではないかと考えるが、現状は未来に新たな政治形態が必要であることを意味しているように思える。

10月 人類は地球を代表することができるか?
人間の限界から見えてきたこと
五感により知ることのできる世界は非常に限られていたが、科学技術の発展により今では想像を越えるまでに情報は増え、なるほどと思える世界になった。
かつて自然界は広大に見えた。地はどこまでも広く続いていた。天も地上から見える太陽、月、火星、木星、たくさんの星空であり、それが全ての世界であった。
無限に広がる世界から見れば、人間の世界は限りなく小さい世界であることなど知るよしもなかった。小さな世界のことを広大な世界だと思っていた。
今でも太陽系の惑星やその衛星の数であれば覚えることはできる。
しかし今は、全ての星に名前を付けることも、それを覚えることもできない。
現在、太陽は銀河系(天の川銀河)にある2000億を越える太陽のような恒星の一つと理解されている。
見える宇宙という範囲だけでも、2兆の銀河がある。
その数だけでも生来持っている人間の記憶の限界をはるかに越え、コンピューターや人工知能がなければ、すでに認識を越える世界である。
身近な問いがある。一生涯に人は何人と知り合えるのか?
人の置かれる立場により違ってくるが、一生涯を通して知り合えると表現できる人の数は数百人程度ではないか? 知っているという人の名前だけでも数千が限度ではないか?
人口は日本の中でさえ一億2千万人、世界には80億人もいる。
そのほとんどを知ることも、知る機会も持つこともない。
人口が多いとは、それだけ多くの人間が死ぬ定めに置かれたことを意味する。以前であれば100年間に、約1億人が死んだ時期もあったが、今では80億人が死ぬことになる。
人間の命は大切だと誰でもそう思っているが、人類の数を増やせば人類愛なのか? 結果として、より多くの人間を殺していることにならないか?
人類、人類愛と言っても、わかっているつもりでいても、本当はわかっていないのではないか?
何が言いたいのか?
人間は言葉により考えることができ、新たな時代を築いてきた。進歩である。人間が知的生命体であり、全ての存在理由である。人類の進歩を止めることはできない。それは知的生命体の持つ定めである。
しかしながら、その進歩により人間の持つ限界は広がったが、新たに生来の人間の持つ限界を明らかにしてきた。
「人間は、全てを知ることは出来ない。知る必要もない。知らない方がよいのかも知れない」と思えることである。
全てを知ろうとすることは不可能にチャレンジすることで、他の大切なことを犠牲にすることになる。全てを知るどころか、小さな世界が無限の広がりを持っている。
探求心は重要である。ただし、生来の人間の能力は非常に限られていることを理解し、限界を知って、わきまえることが必要に思える。それは人間の存在の限界を知ること、人間の意味を認識することであるように思える。
人間にわかるのは、全てではなく一部分である。
自然界は在るがままの姿を人類に見せている。
人間は人間の限界を思い知らされるようになった。
大自然の前に地震や嵐を制御さえできない。
それなのに人類は自分達を優れた存在であると考えている。自然界を変え、制御しようとするまでになった。宇宙支配の夢を追っている。
それでいて、正義や平和を振りかざし、人間の思い通りに世界を支配しようとしている。力を求め、力に訴え、今も覇権争いを繰り返している。
人類は自分達の問題の原因に気づいていない。
人間の、自分たちの、愚かさのことである。
人種、民族、国家、政治体制も、宗教も信条、主義主張すべて、愛、正義、平和、人権も人間の作り出した言葉による考えに過ぎない。幼い頃から植え付けられたるために、人それぞれが矛盾した内容を信じている。
* 人類は地球を代表することができるか?
地球は人類の所有物ではないが、地球上では人類以外に知的生命体はいないため、人類が代表して、地球の運用と管理に責任を持てる立場にあるように思える。
しかし、人類が自発的にその責任を果たすことを期待できるだろうか?
個人の利益が優先され、国により土地の所有権を争い、戦争をするようでは、人類もその国家も未熟過ぎる。
地球を破壊し、自らの存続さえ危うくしている存在が、地球の代表と誰が認めるだろうか?
国際社会を一つにまとめ、一つの地球政府の下で互いを信頼し、協力して、物事に対処することができないなら、人類が地球を代表する機会はないように思える。

12月
大自然と調和した生き方をすることが、人類の未来を約束する条件か?
人類は文明の歴史が大きく変わりつつあることに気付き始めた。
ギョベクリ・テぺ遺跡の発掘により人類の文明の歴史は今までより6000年も古く、紀元前一万年前にはあったと考えられるようになったことが影響している。
今までの歴史上の新たな発見は、人類の考えを大きく変えてきた。
しかし、この変化に対して、人類の認識を変える必要があるのではないかと思えることがある。
人間の世界で新たな発見があり、歴史が大きく変わったように思えても、歴史は在るがままの過去の記録と考えるなら、歴史は何も変わってはいないことである。
新たな発見は、人間の世界で今まで教えられ、正しいと受け入れられてきたことに間違いがあったということで、修正が必要になるが、過去が在るがままであるなら、歴史そのものに変化はない。
言い換えるなら、人間の世界に間違いはないと思っていても、間違いはたくさんあるので、修正は必要になるが、在るがままの世界を修正することはできない。
天動説から地動説に変わった時も、地球が太陽の周りを回っている事実に変わりはなかった。人類が間違いに気付き、新たな事実に目覚めただけである。
太陽系が銀河系(天の川銀河)の本の一部であることがわかり、人間の世界の認識が変わっても、銀河系は元々あり、自然界はそのままである。
銀河系の外にある星が実は銀河系と同じように数億という星の集団であることが分かるようになり、それが見える範囲内だけでも2兆もある。その事実は人類の科学の発展によりわかるようになったが、その事実は大昔から変わっているわけではない。
人類が新たに気付いただけであり、人類の考えを変える必要が生じた。
光以上に速いものは存在しないと教えられてきたが、新たな発見は、宇宙は膨張しているため、宇宙の外れにある空間にある星は光の速さを越えて離れていく。このためその星の光は地球に届かず、宇宙の果ての先に何があるかは、現時点では観測不能である。
見えないという意味では、光さえ入ったら出てこれないブラックホールの存在も人類に新たな事実をもたらすかもしれない。
無限のエネルギーを求めて核融合の実現を目指して数十年が経過しても、成功させるに至ってはいない。
無限のエネルギーを取り出すという人類の願いは、身近かにある太陽が燃え尽きないことから大昔から不思議な現象としてあった。
核融合によるエネルギーという考えが新たな発見であっても、太陽は50億年もの間、輝き続けている。太陽のような恒星の寿命は100億年と言われる。
人間の世界が新たな情報を得ても、新しいのは人間の世界にとってであり、実際には新しいものではなく、大昔から変わってはいない。人間が知らなかっただけである。
これが在るがままの自然界が示している事実、現実、真実であり、人間の考えに関係なく存在している。
人間の世界では新たな事実を見つけると、今までの考えを修正する必要が生じるが、在るがままの世界に修正はない。変化はあっても在るがままである。
地球上の人間の世界は宇宙の中では存在が無いに等しいほど小さい。
その認識を人類が持てるように、人間の考えに修正が必要である。
人間の世界では、考えに間違いがあるとわかれば、その間違いを認め、修正することで、進歩してきた。人間は知的生命体であり、その進歩を止めることはできない。
進歩し続けるのは、人間が有限であり、在るがままの世界を知らないことに理由がある。
人類は優越感を求めてきたため、自分達が宇宙の中心であるような考え方をしてきた。
自然界を征服し、宇宙の征服者になる等の考えを持つ者もいる。
それは自分達人間の存在の意味を理解していないからではないか。
人類が絶滅して存在がなくなっても、大自然はそのままである。
人類が自分達の間違いに気付き、大自然と調和した生き方をすることが、人類が未来に存続する条件のように思える。
新たな発見により、以前の考えとは違った見方をするようになるのは必要なことである。
しかし、修正することはそう簡単ではないように思える。
脳死の意味について考える
介護に疲れ配偶者を殺害したというニュースが流れた。
人間としてあってはならない悲惨なニュースだ。
これは、人間の、人類の、あるべき理想とする考えがなく、それを追求してこなかった結果ではないか?
人の命は大切であるという価値観は大昔に作られ、全世界の人間に共通していても、現代に明らかになった見方、違う考え方もある。
死ぬことは人との別れであり、悲しく、辛く、苦しい、暗いイメージである。
死は、痛みを伴う苦しみ、悲しみのように思われてきた。
しかし、そうではあっても、嫌いな人間、高慢な人間、パワハラやセクハラをする人間、凶悪な犯罪を犯す人間はいない方がいい。悪い犯罪者などは死んだ方がいい、と考える人は多い。
戦争であれば、敵は殺せ、敵に死をと叫ぶ。
一方で人間の命は大切だと考え、他方で命を軽視し、死を願う。
なぜ、こんな矛盾があるのか?
この矛盾は人間の世界にあっても、自然界にはない。
矛盾は価値観を勝手に作りあげた人間の世界だけにある。
人間を含め生命体を殺すことに良い、悪いはない。
「生命体は基本的に食べるために他の生命体を殺している。
人間は食物連鎖の頂点にいる。
人間が一番多くの命を殺して食べているという意味である。」
にもかかわらず、殺すことを善悪で考える人は多い。
介護に疲れ配偶者を殺害したことが悪いことのように報道される。
人を殺すことは法律違反であるが、自分から死を選ぶことはできる。
痴呆症などで自分がわからなくなるなら、自分から死ぬこともできなくなる。
人を殺すことは悪いことだと報道記者がそう思っているからか? 一般社会がそう考えているからか?
人の見方は、その人の持つ価値観、つまりそれまでに作られた考えと感情で決まる。人間の世界では、新たな情報、人の置かれた立場、状況などによってもその価値観は変化する。
人間の死は脳死であることが明らかになってきている。
人類は長い間、死に対して間違った認識を持ち続けてきた。 死ぬことが苦しいと思い込んできた。
しかし、苦しいのは、生きているからであると脳死は明らかにしている
死は苦しみからの解放である。
悩み、悲しみ、辛さ、苦しさ等、全ての苦しみからの解放の意味がある。それが脳死の意味である。
生きているから喜びも悲しみも感じる。死は感じることが無くなるという意味である。死ぬことは産まれる前の状態、存在が無かった時に戻ることと同じであり、大自然に帰ることである。
これは、人間が幸せを感じながら死んでいけるように助けることも、現代医学の責任であると考えるべきではないかという質問を提起させる。
病気で苦しんでいる人が死を望んでいる場合、死ぬことはその人の持つ権利であるのに、助ければ自殺幇助の罪に問われる。矛盾に思える。
法律は人間が作ってきた。社会の必要に応じて変わる。
死は必然であり、自分の意思で死ぬことはできる。その意思を無視してよいのだろうか?
人に知られることもなく、一人寂しく死んでいく場合もある。
安らかな死を迎えられるように助けることは、医学、医師の目的にするべきではないか? それは人間社会のあるべき姿ではないか?
介護に疲れにより配偶者を殺害するまでに人を追い込む現状は修正が必要であるように思う。介護により人を生かすことだけが、重要とは思えない。
生きるという選択肢だけを押し付ける今の価値観に修正が必要ではないか?
それが人類の進歩の妨げになっていると考えられないか?
いつまでも古い価値観にとらわれているのは、間違いではないか?
人間の死について十分に考え、死の意味がわからなかった時の認識ではなく、現在の死の認識、脳死の意味を理解することに基づいて対応することが重要に思える。
人生には、十分生きた、もう思い残すことはない、と思える時もある。
ただ死を待つのではなく、人生の終わりにふさわしい時期があってもおかしくはない。
どの生命体もいつかは死ぬ定めにある。
その時を決めることができることに、他の生命体とは異なる、人間が知的生命体であるという言葉の意義があるのではないか?
人間の世界は人間が作ってきた。その世界の価値観は人間が作ったものである。今も数百年、数千年も前の認識のままの現実の世界がある。
敵を作り戦争をし人間が殺される。犯罪で殺人を犯す人間がいる。
大自然の在るがままの事実、現実、真実に基づいた人間としての認識を持つこと、そのように変わっていくという認識が必要であると思うのは、個人だけなのだろうか?
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