地球上の人間以外の世界は、自然がそのままの世界で、人間以外の生命体には高度に発達したことばはなく、したがって人間のような思考も感情もない。」
人間にはことばがあり、人間に生きる価値はあるか? と考えることができるのであるから、それなりの意味も、価値もあると言える。
価値がある、ないは比較対照の考え方である。何を基準にあると言えるのかを考えてみることが大切に思える。
わかっているわけではないが、全ての存在には、それぞれ存在する理由があるかもしれない。
もしその存在理由を理解できるなら、共存の道を探す必要があることになるかもしれない。
存在する理由がないなら、なぜ無いのかを明確にすることが大切になる。
嫌いだから、いなければいい、ゴキブリは殺虫剤で殺せばいい、という考えだけでは共存はできないだろう。嫌いだから殺してしまえという考えを許せば、人間社会が崩壊する。
ウィルスの存在がなぜあるのか? 個人的にはわからない。
コンピューターウィルスに代表される人間が作ったウィルスはたくさん存在する。兵器として開発された細菌兵器もある。
病気に苦しむ人はたくさんいる一方で、九割近くの人は医者に通う必要はないという意見もある。
人間の社会が病んでいる。人間の在り方、認識に問題の原因があるように思える。
人を信頼することが難しい時代になってしまった。
笑いと優越感を求めている間に、信頼を築くことをなおざりにしてきた。
その結果、深刻な問題が山積みになったように思える。
なぜ生命体は存在するのか? 難しい問いである。永遠の課題に思える。
人間であるからそう考え、答えを見い出そうとする。そこに人間が知的生命体である理由があり、生きる意味と価値があると考える。
人類は自分たちの人間という存在を根本的に見直す時代に生きていることに気付く必要を感じる。

7月
* 大人の意味と大人になる条件について考える
これは思い付きであり、今後十分に考えを発展させる必要があると思うが、その土台になると思われる考えを書いてみた。
大人になることを年齢ではなく、自分の責任において、自分で大人であることを決められるようにすることである。人間としての持つべき情報、人格を含めた目標を決め、人類社会への入口、通過点にするという考えである。
大人は人間社会が互いに助け合う協同体社会であることを認識している必要がある。
大人になることを個人の自主性に任せることの大切さは、責任を持てない大人を作り出さないことにある。
大人になることはある程度の年齢を過ぎた人の自主性にまかせることはできないか?
責任を自覚できない人が、どんな人であっても、単に年齢が二十歳になったからという理由だけで、大人としての責任を負わせることは当人のためにも、社会のためにもあるべきことではない。
大人であるためには、大人になることの意味、個人と人類協同体としての社会に対して責任を持つことの意味を理解していなければならない。それを理解した上で、自分から大人になることを選ぶべきである。
この考えを元に、地球上の人類すべての大人の定義、全ての人が理解した上でルールにすることはできないか。
例えば、大人になれる年齢を15才から選べる自主性にする。
自分で大人になる時期を考え、自分で決める。
大人の条件とは、例として、
大人になるための十分な教育を受けていること
個人に与えられている自由と責任の意味を理解していること、
人類協同体という社会に対する責任を自覚していること
自主的にその責任を引き受ける決意を持っていること
等とする。
基本的に大人は人の模範であり、責任を持ち、リーダーの資格を持つ人のことである。
人々を二つのグループに分け、大人の資格を持つグループとそうでないグループとすることである。大人のグループが社会全体を導く責任を負う。
今までのように単に年齢で大人になるのではなく、又多数決で指導者を選ぶのではなく、大人のグループの指導に替えていく。具体的には考えていない。
大人の責任を果たせないなら、大人としての資格を失うことも考えなければならない。。
子孫を持つことは大人が持てる権限とする。子供を持つためには、大人でなければならず、子どもを育てる資格(定義は難しいと思われる)を必要とする。
人類の人口増加を止めるためにも、こうした考えは必要に思える。
年齢だけではないことから、若くても大人になり、年老いても大人にならない人も出てくる可能性はある。責任と差別は関係するように思える。
以上は思い付きであり、今後十分に考えを発展させる必要があると考える。
+ 地球外生命体の地球訪問について
宇宙を光速に近い速さで移動できる技術を持つ生命体にとって、資源を求めて、食料を求めて、人間を食料とするために地球にやって来ることはない。人間のように好戦的であることもない。
これらの諸問題は低次元レベルの生命体にとっての課題であっても、宇宙を移動して地球にやって来れる程の高度な知能を持つ生命体にとっては、とうのむかしに解決済みであると考える。
人類でさえ、1960年頃人口が36億人、現在75億人、1日20万人、年間7千万人増えても、食料が不足しているようには思えない。食料不足になる理由は他にある。
宇宙人が地球の人間を食料とするために来るという発想はなぜあるのか?
その考えは、人類が未熟だった時に作られたからであると考える。
知的生命体が文明を発展させていく段階においては、自分を中心に考えることは必然的であり、今でも人間が恐怖を恐れ、敵を作り、好戦的になる理由に思える。
しかし、宇宙を移動する程の高度な文明を築くことができるのであれば、エネルギー問題は解決し、衣食住を含む全てが快適に思える環境を作れる。好戦的である理由、優越感もなくなるように思える。
では、その生命体は何かを欲しがることがあるのだろうか?
何を目的に生きているのだろうか?
知的生命体が成長する主な理由は、わからないことを追求することにある。文明が発展する理由である。どれ程文明が進んでも、わからないことが存在する。存在そのものの意味を追求する。究極的に宇宙がなぜ存在するのかを追求する。
存在があるのは、高度な知能を持つ知的生命体の存在があるからである。それが知的生命体の存在理由である。それを背景に、知的生命体はなぜ存在があるかを追求する。
宇宙に出かけて行き、情報収集を行う。
仮に人類の最新技術で秒速20kmが可能として、光の速さは1万5千倍の速さである。太陽系を出るのに2〜3日かかるとしても100年はかかることになる。(3日x15,000/365=123年)
天の川銀河の直径は約10万光年。光の速さで10万年。今の技術では10万年X15,000、15億年かかる。宇宙には2兆の銀河が存在している。宇宙はあまりにも広大であり、地球から遠く離れた世界に出ることなど考えられない。
宇宙空間を移動することを現実にするためには、光を超える移動手段が必要である。全く違う考え方をしない限り、解決策は見つからないように思える。
+ 恋愛について
人生で最も大切で影響力があるのは恋愛である。その力は非常に強く、特に若い時に男女間に引き合う力として遺伝子に組み込まれていて、子孫繁栄につながってきた。その影響は一生続くことも多くあり、比喩的に1000年も続く恋とさえ言われるものもある。永遠に続いて欲しいと願うこともある。
人生で最も大切なものであるから、映画でも歌でも小説でもテーマとして最も多く取り扱われている。
しかし、現在恋愛などの結果として結婚したカップルの3分の1は離婚し、離婚待機組もいる。幸せになるという願いに反し、およそ半分はうまく行っていないのが現状に思える。また性犯罪が無くならず多発する理由でもあるように思える。
子孫繁栄は望ましいことのように考えられてきたが、今や地上には人間が増え過ぎて、対策が急務の諸問題の一つと考えられるようになっている。地球の土地も資源も有限であり、増え続ける人口をいつまでも支えることはできない。
恋愛と子孫繁栄は、切り離して考えることが必要な時代なのかもしれない。
今は特別な時代、人類の存続をかけた、人類史上最大の転換期にあるように思える。
* 事実とは何か、偽りとは何か、について:
ウィキペディアによると「偽り」とは、いつわること、事実でないこと、うそ、とある。
事実とは何かがわからないと、事実でないことの意味がわからない。
同辞典によれば「事実」とは、実際に起こった事柄、現実に存在する事柄である。
しかし、それだけの定義では不十分である。なぜか?
事実は、過去において、そのように理解されてきたが、重大な欠陥がある。
事実には、その時代の、起きた背景や理由が関係しているし、事実に関する情報は時と共に増え、理解が増していくからだ。事実はいつも同じ状態に留まっているとは限らない。
昔、人々は事実を知っていても、その理由がわからず、勝手な理由付けをしていた。
地震、雷、台風、干ばつ、などで被害が出れば、神のたたりだ等と恐れた。
地震という事実を知っていても、なぜ起きるのかがわからず、60年前には地震の原因を突き止めるために、水槽でナマズを飼い、観察し、研究する科学者がいた。しかし、地震の原因、背景がわかるようになると、地震に関する知識、情報から、事実に対して違う見方をするようになり、対応の仕方も変わった。
気象現象の情報が無かった時、人々は大自然の脅威を恐れ、神を讃え、祭りを行い、お供えを捧げた。今でも昔からの慣習を続けている人々がいるが、事実の情報が増えるに従い、対応は変わっていく。
美しさはない、美しいと感じることはある、シリーズ6 にその理由を書いた。
事実に対する理解、認識により、人の対応は変わっていく。
美しさはないが、それを事実と理解できない限り、美に対する考えは簡単には変わらないように思える。
事実を正しく認識していることが重要で、事実を正しく認識していないと、偽りの意味を理解することは困難に思える。
間違いがあっても、理解できないことから、正しいこととして受け入れてきたことはたくさんある。
偽りは、事実でないこと。その意味は、事実に対する理解の不足、誤解、情報の不足などから生じる誤りが含まれる。思い込みのことでもある。
科学技術が発達していない時代であれば、今のような知識も情報も無かったので、間違いを信じていても、その時代の人々を非難する理由にはならない。事実を知ることには、情報による理解が欠かせない。事実は時代と共に変わっていく。
人類に最大の影響を与えた偉人の一人、ユダヤ人のイエスは、次のように語り、人々を教え、導いた。
神は、邪悪な者の上にも、善良な人の上にも自分の太陽を昇らせ、義人の上にも不義の者の上にも雨を降らせる。天の父のように完全になりなさい。
神を、人々に恵みを与える、親切で、善意に満ちた、寛大な方、公平な方、良い手本のように、見習うべき存在として表現した。その通りであるとユダヤ人の多くがその教えに共感した。
しかし、この内容は太陽、雨の働きの一面だけしか取り上げていない。
太陽による日照り、雨が降らないなどの理由により土壌が乾ききってしまい、農作物が育たず、枯れてしまい、飢饉が起き、多くの人が死んだことは世界中で何度となくあった。今でも起きる。日本では神に雨ごいをした。それでも神は答えず、雨は降らず、多くの人が死んでいった。
ウィキペディアによると江戸時代に起きた長期にわたる異常気象や害虫の異常発生、病害、火山噴火などでの凶作の連続による飢饉だけでも数百万人が死んだ。
偉人イエスは自然災害に触れていない。台風、地震、津波で多くの人が死んでいる事実を取り上げていない。
大自然の一部を取り上げ、それがすべてのように教えた。一部分が事実であっても、全部を取り上げていない。
事実であっても、その背景を理解することは重要である。事実だけでなく、その理由と共に背景を知ることは大切である。
雨が降る、風が吹くことを事実だと知っていても、気象現象の知識がなければ神様がそうしたことにもなり、間違ったことを信じることにもなる。
それは敵は本来いないのに、思い込みによって作られるのに似て、偽りはわからないからという思い込みによって作られる場合がある。
昔から人々は事実を知っていた。現実に存在することも知っていた。しかし、なぜ起きるかを知らなかった。知らないと、想像で思ったことを言い、昔からの人の言葉を信じることになった。
今の常識である気象に関する知識は数十年前までは無かった。事実をその背景と共に正しく認識することがいかに重要かを知る理由がわかる。
昔は、事実でないと、偽りだと思ってきた。事実の背景を認識できないので、事実でない、偽りである、と想像で考えてきた。理由がわからないのであるから、何とでも考えられ、偽りになる理由が作られた。
事実であっても、良いと思える面だけを取り上げて、神は善であるなどと言うのは間違いである。重要なことを隠していることは、人々をだましていることと同じように思える。
現代の理解は、太陽による恵みも災害も自然現象として捉えている。神の介入は考えられない。現代のあるべき認識は、災害が起きるのは神の意思とは関係ない、である。人間は自然界におけるこの現実を直視すべきである。
偉人イエスの神が人間にとって完全さを示す手本ではないことは明らかである。
ある事実の一部分を取り上げ、正しいと考えることは、間違いを正しいと受け止めることと同じ危険がある。
人間の世界は、大自然の一部であるが、知力により人間が作り上げてきた世界であり、自然界とは大きく異なる世界である。
シリーズ5、6 の見直しの一部より
人間の社会は、人間が高度な知能を持ち、ことばで情報交換を行っている特別な世界である。
人間以外の世界はあるがままの世界で、人間以外の生命体は高度に発達したことばはなく、したがって人間のような思考も感情もない。
人間の世界は、大自然のような、あるがままの世界ではない。人間が作り上げた世界である。人間の世界はことばで作られてきた。人の考えはことばでできている。人間同士の意思の疎通もことばで行ってきた。文明が発達したのはことばを活用し、考え、意思を伝え、協力して働いてきたからと言える。
自然界に嘘、偽りはない。生命体等の遺伝子(分子言語でできたプログラム)の中には間違いに相当するものはあるように思えるが、偽りということばは人間が作ったものである。
美しさはない、美しいと感じることはある。
これは事実であるが、理解することは簡単ではないかもしれない。
可愛い、きれい、醜いもないが、そう感じることはある。
これも事実であるが、一般に理解されるまでには、かなりの時間がかかるように思える。
知力の源:知恵のことば、より
事実とは何か。何度も、何度も、そしてまた繰り返す・・・ 事実とは何か。
願望的思考を止め、神のお告げを無視し、星の予見を忘れ、意見を避け、隣人の考えを気にせず、推測不能な‘評決の歴史’も気にせず、そして再び ・・・ 事実とは何か、
どこまで(少数以下何桁まで)事実か。
先導はいつも未知なる未来に向かう。事実とは唯一の糸口。事実を捉えなさい。
作者 不明
*「事実は小説より奇なり」ということわざがある。
現実の世界で実際に起きる出来事は、空想によって書かれた小説よりもかえって不思議である、という意味であるが、書かれたのは100年以上前である。当時は事実の背景を未だ知らず、なぜ起きるのかはわからなかった。
今は反対である。事実の背景はわかるようになり、不思議であると思う人は少なくなり、考えることもなくなり、当たり前に思うようになっている。
人間が空想によって書く小説は、より深い真実を求めるテーマとして、映画にもなり、楽しむようになっているが、事実以上に不思議な世界を見せている。今は「小説は事実より奇なり」である。だからと言って、空想を信じる対象にはしていない。可能性として捉えるだけである。
* 教えるとは情報を伝えることである。学校教育で教えている情報が伝わっているかどうかを確認する必要がある。テストの目的は人の評価ではなく、情報が伝わっていることを確認するためである。
どんな情報を伝えるべきか? 人間の遺伝子、脳の働きから見えてくる自分とは何か、親と子の関係、人類社会の目的、責任とは何かなど、たくさんあるように思う。
+ 現実を理解する
現実を理解するのを阻んでいるものは何か?
今のように科学技術が進歩している時代と違い、昔は情報が非常に少なく、太陽がなぜ燃え尽きないのか、物はなぜ落ちるのか、月はなぜ落ちてこないのか、色はなぜあるのか等、又空気があることも、気象のことも、今では常識であることをほとんど知らなかった。
知識、情報が無ければ、物事がなぜ起きるのかわからない。
数百年、数千年後の現在まで、わかるようになる前には、情報はなく、わかりようがなかった。
そこで、想像により様々な理由を考え出した。
数十年前まで、わかりようがないと、多くの人が、在ると思えば、在ることになった。無いと思えば、無いことになった。知識が無ければ、わからないので、皆と同じように信じる他はなかった。時の権力者の意向も大きく影響したと思われる。
それ故、多くの人がどう思うかに左右された。多く人が思うことが正しいことになり、信じる対象になった。
長い間、想像によって作られた考えである幽霊もお化けも、神も悪魔も、天国も地獄も、誰も否定できないので放置されてきた。わからないなら証明はできず、答えは出しようがないからだ。
しかし、それは古い時代の、わからないことに対する誤った対応である。
今の時代、わからないなら、違った対応を取る。
どのように違う対応をとるのか?
答えがわからない、答えが出せないなら、その時点での答えは出せないものとしても、今後の研究の対象とする。答を無理やり勝手に作ることは間違いである。可能性として考える。
答を想像により造るだけでなく、それを信じることなど、今ではありえないこと、あってはならないことである。
しかし、今でも昔のままの想像による考えや教えは、多くの人の支持を得、受け継がれている。それは人間性に進歩がない主な理由でもある。
確かに、人間にはわかり得ないことがある。人間が有限であることから、無限の世界のように、永遠にわたって答えが無いものが存在するように思える。それを神と言うなら、誰も否定できない。それ故に、「神」とは永遠にわたって人類の無知を象徴することばなのである。
ただし、今までにあった偶像を含む数えきれないほど存在してきた神々は、すでに神様の座から引き下ろされている。その大半は人類の文明の進歩、情報の発展により、それが何かがわかるようになったことにより、神とは言えないことが明らかになったからである。
それでも人間は不安から、わからない何かを頼りにする。人間の心、認識に問題があるからで、神からの罰や呪いやたたりを恐れ、昔からの慣習や儀式を大切に守り、昔からのわからない神様に頼っている。
今でも人類の大多数は神を信じている。たくさんの宗教があり、それぞれは違った神、教え、慣習などを持っている。なぜ違う宗教を、異なる考えを信じていられるのか? 昔からのわからないという認識が変わっていないからである。つまり、現実を未だ直視できないでいる。古代からの、わからないから想像して作ったものを、今でも信じている。
昔からの、わからないからと放置してきた時代は、過ぎゆきつつある。
現実を、真実を知るようになるからである。
現実を理解できるなら、それを受け入れ、今までの在り方を変えていく必要がある。
人間という知的生命体の存在の重要な意味は、現状を認識し、間違いを認め、反省し、改善してきたことにある。それは人類が進歩することであり、現実を理解することであると考える。
現実をそのままにしておいてよいという意味ではない。

6月
* 現実を理解する人の特徴の一つがわかってきた。(続き)
前回、現実を理解する人は、幽霊、お化けを認めない。天国、地獄を認めない。空の上、雲の上の神様を信じない人のことである。現実は真実を伝えている。
情報を見きわめるために、人間の知力が試されている、と書いた
目の見えない人はお化けや幽霊を怖がるだろうか?
* 現実を知る、理解するとはどういう意味か?
真実を知ることである。あるがままの状態を理解することである。
現実に想像はない。
想像がないと、幽霊も、お化けも、天国、地獄も、雲の上の神様もいなくなる。
現実を知るには希望、願い、好き嫌いを除いて考えることが必要である。
五感による思い込みを無くすことである。
思い込み、信じていること、を除けば、現実を認識することができるように思える。
思い込みと信じていることとは、幼少の頃から教えられ、当然のことのように受け継がれている価値観、常識、ものの見方、考え方、感情、好き嫌い等のことである。
つまり、作られた認識のことで、生まれ育った環境が関係する。認識は個人によっても、国、地方、言語によっても違ってくる。その違いを除いて考えることが現実を知ることであると考える。
美しい、醜いは本来は無い、感情によって作られると書いた。
現実は、あるがままの姿を見ることである。
好き、嫌いという気持ちが、現実を変えることになる。
つづく
* 人の持つ悪意について
人間には悪意がある? 確かにあるように思える。
しかし、悪意とは何か。なぜ悪意があるのだろうか?
正常に思える普通の人が悪意を持って、他人に害をもたらそうとする。人を陥れようとする。
悪意を持つとは、必ずしも表だって犯罪を犯すという意味ではなく、他人の不幸を願い、失敗するように、裏で画策するというような意味で使われるように思える。
隠れて意地悪をする。わからないように嘘をつく、差別する。
他人を陥れるために平気で作り話をする、
賄賂、プレゼント、お土産をあげて、自分の便宜を図る。
周りの人には親切な人に見え、悪意のあるような人には見えない。
なぜそうした行動を取れるのか?
自分でも気づいていないかもしれない。精神的におかしいのかもしれない。
育った環境に正義が関係しているからということも考えられる。歪んだ正義感の強い人にこの傾向が見られるのかもしれない。
自分が正直で、真面目であっても、他人の不誠実で不真面目な態度が許せないと、感情に走る場合があることはあるように思える。
自分を忘れ、他人を悪人と決めつけ、その人の間違いを明らかにしたくなる、暴露したくなる。不真面目に見える人を許せない。
そんな人がリーダーであればパワハラに走り、あることないことを言い、有無を言わせず叱り飛ばすこともあり得る。恐ろしい人にも見える。仕事をやめさせられる。そんなリーダーの下では、人は育たない。
悪意には、正義が関係しているかもしれないと、思える一面である。
悪意の解決策はあるのか? どうすることができるか?
パワハラであれば専門家に相談してみるのも一つの方法かもしれないが、見えない悪意では、対応することは非常に困難に思える。
個人の反省と成長、周りの社会全体がより人間として成長することが解決の糸口のように思える。課題として考え続ける必要がありそうだ。
ねたむ、嫉妬(しっと)、うらむ、うらやむ等の表現には現代とは違う作られた時代背景があるのだろうか。

5月
* 遺伝子と脳により生かされている人間
人間は地球上で唯一高度な知能を持つ生命体であり、ことばを持ち、考えることができ、感情を持っている。そうではあっても、五感である入力装置には限界があり、思考も感情もその影響を受け、認識には偏りがある。
人間は遺伝子と脳の働きにより、自分とは、そう思い込むように作られた存在である。
現実に存在するすべて、美しさ、醜さ、楽しさ、悲しさ等も、そのように脳が反応するように作られているからである。
美しさがあると思っても、現実の世界に美しさがあるからではく、そう脳が反応するように作られている。醜さも作られた思い込みである。楽しさ、悲しさも脳の働きによりそう感じる。苦しみも脳の反応である。
+ 脳がなければ、思考も感情もなくなる。脳死と共に体も維持できず、全てはなくなってしまう。
現実はある。あるがままの世界は現実としてある。真実は現実の中にある。しかし、この世界は、人間の持つ脳の働きである知力により、そう認識している世界である。
なぜ人間にことばによる高度な知能があるのか?
人工知能などの発展により、わかるようになる可能性はあると思われる。
人生は楽しければいいではないか?
生きる上で大切なのは、楽しむことである。
一生を楽しく生きたらそれでいいではないか?
その通りであると思う。
問題なのは、楽しく生きることが続かないことにある。
幸せになれても、すぐに幸せを忘れてしまう。幸せは長くは続かないのか?
「幸せ」ということばの意味を知らずに、幸せでいることはできない、と書いた。
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人間の知力により科学が進歩し、現実が何かを明らかにしてきている。
遺伝子と脳の働きがわかるようになるにつれ、人間の働きについてもわかるようになってきた。コンピューター、インターネット、人工知能などの出現も拍車をかける。
それは今までに人類が作り上げた価値観の崩壊と変化を意味するように思える。
人間そのもの、親子のあり方、生と死、人生観、生き方、考えが変わりつつある。
現実は、思い込みによる影響を受けてはいても、夢や想像の世界ではない。現実を変えること、理想に近づけることは、可能であっても、真実として受け入れるしかない。現実以外に選択の余地はない。
人間は信じることで現実を見ないでいることはできる。
無いものをあると信じること、あるものを無いと信じることで、現実から目を背け、認識しないでいること、幸せでいることもできる。薬漬けも可能かもしれない。
この現実の中に全てがある。信仰も仮想現実も現実の中にある。現実を認識することは、真実を知ることであり、真実とは現実を認識することにある。人間には、どう考えても、現実以外の世界は存在しない。脳の働きに限界があるからである。
人間の幸せはどうなるのか?
幸せであるためには、現実を理解することが大切である。
知らない方が幸せに思えても、現実を受け入れるしかない。
現実はうそ、偽り、犯罪が横行し、正直者はバカを見る、矛盾だらけのひどい世界である。しかし、その多くは人間が作り出したものである。そして、どう努力してみても最後には死を迎える定め。人間の一生は空しいようにに思える。
歴史の理解がどう変わっても、歴史は過去の在るがままの姿であり、それは歴史である、と同じように、現実はどう変えても現実である。現実をそのままにしておいて良いという意味ではない。
世の中を変えても、現実は変わらない。現実を修正することはできるが、現実は修正しても、現実である。
現実である歴史は変わっても、それがそのまま現実である。何を変えても、現実はあるがままの姿であるからだ。現実ということばの定義が、あるがままの姿であるからだ。
そうであっても、現実を変えていくために、それがどれ程難しくても、知的生命体である人間は、現実を正しく認識することから始めること以外に無いように思える。
つづく
