マイケルアレフのことばの不思議な世界
最近、思い付いたこと 
2021年
9月
 * 人間は高度な知能を持っているとはどういう意味か?
   子供を躾(しつけ)ることの問題は何か?

8月
 * 人間であることの限界について
 * 人間に生きる価値はあるか? からわかる確かなこと

7月
 * 大人の意味と大人になる条件について考える
 * 地球外生命体の地球訪問について
 * 恋愛について
 * 事実とは何か、偽りとは何か、について
 * 小説は事実より奇なり

6月
 * 現実を理解する
 * 情報の確認について
 * 人の持つ悪意について

5月
 * 遺伝子と脳により生かされている人間

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2021年

9月
 * 人間は高度な知能を持っているとはどういう意味か?
   
人は一般的に下等動物ではないと思っていても、自分が高度な知能を持っているという認識はなく、自覚もない。人間は皆同じ程度の能力を持っていると思っている。
それは人間という社会の中で、同じような生活をしているから、気付かない。

犬や猫と比べたら、人間は頭が良い。それは当たり前だと誰もが思う。人間は下等動物ではない。それは皆知っている。しかし、高度な知能を持っているという認識はなく、自覚もない。

なぜなら、人は高度な知能を持っているという意味を知らない。考えたこともない。人間の社会の中では知能に大きな違いはないように見える。

高度な知能を持っているとは、どういう意味か?
人間には意思の疎通を可能にすることばがあり、考えることができるという意味である。
しかし、だれもが当たり前にしか思ってない。

人類が今、高度な科学技術を持っているのは、ことばによる意思の疎通、考える力、創造力があるからで、インターネット、人工知能、スマホなどを作ってきた。ことばは情報を取り扱うシステムである。


  子供を躾(しつけ)ることの問題は何か?

躾(しつけ)は下等動物に対して有効であっても、人間には不適切である。
子供は人間であり、高度な知能を持っている。大きな違いがある。

ウィキペディアによると、
「しつけは社会性の教育であって「大人(保護者)の都合」を子供に強いるための行為ではない。児童虐待で逮捕された親の多くが取調べに対して「しつけだ」と弁解しているが、そのほとんどにおいて主張の妥当性は認められず、暴行であるとして有罪となっている。」

今までその認識がないために、子供を力で、正義で躾により押さえつけ、言うことを聞かせようとしてきた歴史がある。それは重大な間違いである。

正義は力の象徴であると書いた。大人が正しいと思って、子供をしつけるとき、それは力で言うことを聞かせようとすることで、虐待に走る傾向になる。

間違いは躾(しつけ)にある。力による矯正は躾でも、人間の子供に対して行使すべきではない。人間の子供をしつけようとすることが虐待になる理由である。

正義は正しいと思っていることから、力により子供である弱い者に向けられることが多い。
しつけは、正しいという思いから行動に移し、その思いがエスカレートし、言うことを聞けないと許せなくなり、虐待に走る。

自分の人間としての資質に疑問を抱くべきで、なぜそうなるのかと考える必要がある。人間は皆、自分で考え、自分で判断し、自分で責任を取ることを学ぶ必要がある。それを強制するのは間違いである。

子供の訓練は必要でも、強制の意味があってはならない。強制では子供が自分で考え、判断し、自分で責任を取ることを学ばない。自分で学習することではないからだ。

人間は情報を与えれば、自分で考え、理解し、行うことはできる。
情報を与える際、理解しやすく、分かりやすくすることは重要だ。

ことばを覚え話すようになっているなら、ことばを介して情報提供は行うことができる。
動物をしつけることが正しく思えても、人間の子供は高度な知能を持っているという認識を持ち、情報を与え、自分で考え、判断できるように助けることが重要であると考える。


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8月


8月13日(金)
* 人間であることの限界について

人間という枠の中で、感動することは真実であっても、全ては人間としての枠の中での真実である。言い換えるなら、人間の限界を越えて、真実である現実を認識することはできない。人間の認識は、人間としての脳の機能の働きの結果であるからだ。

人間の限界を越えて、認識できないとは、どういう意味か?

例えば、人間の視覚だけでは非常に限られた範囲の物しか見えないが、望遠鏡の助けを借りて宇宙の端まで認識できるようになっている。元々ある視覚の限界をはるかに越えている。

人間の持つ体力も限界があるが、人類は空も海も陸も征服し、地球上で最強の存在になっている。人間は持っている限界を越え宇宙にも進出している。

しかし、ここに間違って受け止めてはいけないこと、注意が必要に思えることがある。人類の文明が進歩している理由は、人間の人類としての知能の働きであり、人間個人の能力が実際に進歩しているわけではない点である。

人間の能力、人間の持つ可能性、人間の存在自体は、人類の文明が始まった約6千年前と変わっていないのではないか?

数千年前の人間と比べて、進歩していると思っていても、人間の持っている機能そのものに、進歩はほとんど見られないように思う。
視覚の限界を越えて宇宙の果てまで認識できるようになっても、人間個人の持つ視力は昔と変わっていない。聴く能力が変わったとは思えない。人間の持つ入力装置に相当する五感に大きな変化はない。

スポーツ選手として専念できる環境、時間も支援も変わり、オリンピックの結果が素晴らしい変化に見えても、数千年前に人間として持っていた能力、元々持っている素質、可能性が大きく変わった訳ではない。人間としての運動能力も変わっていないように思える。

つまり、人間の限界は昔から変わっていないのではないか。

人類として、これ程の素晴らしい知力を持ちながら、人間の能力だけでなく、人間としての資質も、大きな変化はない。数千年前の昔と大きくは変わっていないように思える。

何が大きく変わったのか? 何が大きく変わったように見せているのか?

ここ数十年の間に起きている変化はそれ以前の数千年の変化と比較にならない程大きいように思える。自然と現実への理解、科学技術の進歩、情報量などは大きく変わっている。
それに伴い人間の世界は大きく変化している。スマホに示される人類の技術力は大きく変わり、人間の弱点を補う人工知能やロボット、センサー技術は大きく進歩している。

感動する対象は多くなっているかもしれない。


6000年前の人口は数千万人?、現在は75億人、人口の総数には大きな違いがある。
当時と現代の人間の能力の差を正確に比較できるかはわからない。現代に生きている人の間でも、能力の個人差はかなりあるように思える。それは昔から同じだったのか?
数千年前に今と変わらない、又はそれ以上の能力を持つ人間がいたことは明らかに思える。

それが何を意味しているかはわからないが、人間の能力に大きな進歩はないのかもしれない。

そんな馬鹿げたことがあるか?人間自体は進歩しているし、猿のような存在ではない。人間そのものは大きく変わっている、と思っている人は多いように思える。


人間であることの限界について
つづき

8月20日(金)

数十万年も前のことはわからないし、それ以前、人間がどのように存在するようになったのかもわからない。猿のようなものから進化してきた可能性を否定する気はない。人間は猿より前に魚やアメーバであったことも真実なのかもしれない。

個人的な考えに過ぎないのかもしれないが、わかっていることがある。
ことばは初めからあったと考えられることである。ことばは人類が文明を築く前にすでにあった。人類は最近まで気づかなかった。

それは遺伝子DNAのことである。それは設計図であり、分子言語でできている。
全ての生き物は遺伝子でできている。

人類はそのプログラムを解読し、応用できるようになったが、生命が何かはわからない。生命である生きた細胞一つを作れない。

人間の一つの細胞には人間の情報の全てが書き込まれたDNAがある。
一人の人間は、およそ6兆個の細胞からできていると言われるが、その一つ一つの細胞に人間のDNAがある。

目も鼻も口も髪の毛も全てが同じ細胞で作られていることなど、どうして可能なのか、人間の理解を越える、信じられないほど素晴らしい造りである。それは現実にある。

食べるためにある口は、食べることとは別に、舌と声帯と喉と鼻、肺と協力して声を出し、ことばである情報を発信することができる。空気の振動により情報を伝えることができる。情報を伝える上では画期的な方法である。考えを話す、歌を歌うこともできる。

人間がことばを話すのは当たり前にしか思われていないが、話すことで情報を伝えることなど、どうやったら考え付くのだろうか?

その複合的な機能はどうしてあるのだろうか?
こうした人間の設計図全てが一つの細胞の中にDNAとして存在する。

ES細胞(受精卵から発生が少し進んだ胚盤胞の中の内部細胞塊の細胞を取り出して培養することにより作製される多能性幹細胞)を利用して臓器等を造る研究が進んでいる。

人類は遺伝子が持っている機能を活用することはでき、臓器を作ることができても、それは創ることではない。利用しているのである。その機能を持つ細胞が人間を作る進行過程でなぜ存在するのかさえわからない。わかるのはそのようにプログラムされていることだ。


現代のヒトゲノムを6000年前のものと比較するとどんなことがわかるのだろうか? 人間の遺伝子に大きな変化はあるのだろうか?
親子の間でも変化はあるのだから、変化が無いわけではないと思われるが、大きな変化と言えるだろうか?

人間には類似性と多様性がある。仮に未来において、人ゲノムから人間を造れるようになる時、その多様性は維持されるのだろうか、という疑問が生じる。

さらに脳により思考と感情が作られ、隣人に対して思いやり、親切、信頼、勇気、人間愛を示す。なぜそれが可能なのか? 

現実には、わからない、わかり得ないように思えることがたくさんある。
無限と有限の違いにあるのだろうか?

人間の限界を越えて、認識できないとは、どういう意味か?
人間は自分を正確に見ていない、認識していない、認識できない、という意味である。情報は人間そのものに生かされてこなかった。
科学の進歩により生活は安定し、快適に過ごせるようになったように見えても、好戦的で、自分本意の優越感は変わっていないように思える。人間そのものに進歩はないのではないか。

それ故、情報量は増えても人類の認識を変えることは難しいように思える。
情報が溢れるほどあっても、情報は人間そのものに貢献することができないでいる。
情報の扱い方に問題があるからと思われる。

確かに医学では、寿命を伸ばしてきたように見えるが、それは人間に適応能力があるからではないか?

人類は人工知能を作り、人類以外にことばを与え、新たな情報システムを作り出し、人間の持つ五感に代わり、更に優れた技術力によるセンサーを作り、人類に代わって世界を変えることを許している。人間不在の世界が広がっていくように思える。それは何を意味するのだろうか?

人間の愚かさを示していないだろうか?

知恵のことばの中に、ガートルード・スタインのことばが載せられている。彼は、「答えは無い。将来も答えは無い。今までも答えは無かった。それが答えだ。」と書いた。
そういう見方はある。無限に広がる現実の世界では、そう考えるのはわかるように思える。

一方、これまで人類は自分達の力で考え、探求し、答を出してきた。それを思い、
「答はある。将来も答えは有る。今までも答はあった。それが答えだ。」ということも可能だろう。

真実を求めること、現実という情報を持つことの意味は何か? 
答を得ることは難しいのかもしれない。
知的生命体であれば共通の、永遠の、究極の問いであるように思える。

しかし、人類は6000年もの間、答があると信じてきたのも事実である。
間違いを信じてきたとも言える。
わからなければいい。わからなければ、信じていても気づかない。
騙されていても、それに気付かない限り、わかりようがない。それが理由である。

「信じなさい。そうすれば、救われるのです。」

イエスの弟子、使徒パウロとシラスの語ったことばである。
昔はそれでよかった。わからなかったのであるから、気付きようがなかった。

今人類が直面し、乗り越えなければならない課題は、真実が見えるようになったことにあるように思える。現実が何かを理解するようになったことである。
それは今までに人類が築き上げた価値観をどうしたら修正できるかという問題をつきつけているように思える。

その問題点は シリーズ26に 人間性に進歩がない理由 として書いた。 
人類は共通の土台、基盤、認識を持つことが必要であるように思える。



   

情報が溢れる現代、様々な視点、価値観、考えがあり、真実が何かを知ることは難しくなってきているように思える。考える機会もなくなりつつあるのかもしれない。そんな中、確かなことがあることに気付いた。

* 人間に生きる価値はあるか?

確かなことがある。
この質問を考えるのは、人間に高度な知能とことばがあるからである。

ことばがないなら、価値があるという意味さえわからず、考えることはできない。

400年ほど前、デカルトは「私は考えている、だから私は存在している]と考えた。

考えは、ことばでできている。考えているのは、ことばがあるからである。高度な知能を持つ生命体であるからである。

ことばについては以下のようにも書いた。

「すべての生命体は、それぞれの生命体としての制限はあるが、自由である。ただし、知能が十分に発達していないと、考えることはできない。自由が何かを知ることはできない。地球上では人間だけが、高度な知能とことばを持ち、自由とは何かを考えることができる。

地球上の人間以外の世界は、自然がそのままの世界で、人間以外の生命体には高度に発達したことばはなく、したがって人間のような思考も感情もない。」

人間にはことばがあり、人間に生きる価値はあるか? と考えることができるのであるから、それなりの意味も、価値もあると言える。

価値がある、ないは比較対照の考え方である。何を基準にあると言えるのかを考えてみることが大切に思える。

わかっているわけではないが、全ての存在には、それぞれ存在する理由があるかもしれない。
もしその存在理由を理解できるなら、共存の道を探す必要があることになるかもしれない。
存在する理由がないなら、なぜ無いのかを明確にすることが大切になる。

嫌いだから、いなければいい、ゴキブリは殺虫剤で殺せばいい、という考えだけでは共存はできないだろう。嫌いだから殺してしまえという考えを許せば、人間社会が崩壊する。

ウィルスの存在がなぜあるのか? 個人的にはわからない。
コンピューターウィルスに代表される人間が作ったウィルスはたくさん存在する。兵器として開発された細菌兵器もある。
病気に苦しむ人はたくさんいる一方で、九割近くの人は医者に通う必要はないという意見もある。
人間の社会が病んでいる。人間の在り方、認識に問題の原因があるように思える。
人を信頼することが難しい時代になってしまった。
笑いと優越感を求めている間に、信頼を築くことをなおざりにしてきた。
その結果、深刻な問題が山積みになったように思える。

なぜ生命体は存在するのか? 難しい問いである。永遠の課題に思える。

人間であるからそう考え、答えを見い出そうとする。そこに人間が知的生命体である理由があり、生きる意味と価値があると考える。

人類は自分たちの人間という存在を根本的に見直す時代に生きていることに気付く必要を感じる


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7月


* 大人の意味と大人になる条件について考える

これは思い付きであり、今後十分に考えを発展させる必要があると思うが、その土台になると思われる考えを書いてみた。

大人になることを年齢ではなく、自分の責任において、自分で大人であることを決められるようにすることである。人間としての持つべき情報、人格を含めた目標を決め、人類社会への入口、通過点にするという考えである。

大人は人間社会が互いに助け合う協同体社会であることを認識している必要がある。
大人になることを個人の自主性に任せることの大切さは責任を持てない大人を作り出さないことにある

大人になることはある程度の年齢を過ぎた人の自主性にまかせることはできないか

責任を自覚できない人が、どんな人であっても、単に年齢が二十歳になったからという理由だけで、大人としての責任を負わせることは当人のためにも、社会のためにもあるべきことではない

大人であるためには、大人になることの意味、個人と人類協同体としての社会に対して責任を持つことの意味を理解していなければならない。それを理解した上で、自分から大人になることを選ぶべきである

この考えを元に、地球上の人類すべての大人の定義、全ての人が理解した上でルールにすることはできないか。


例えば、大人になれる年齢を15才から選べる自主性にする。
自分で大人になる時期を考え、自分で決める。

大人の条件とは、例として、
大人になるための十分な教育を受けていること
個人に与えられている自由と責任の意味を理解していること、
人類協同体という社会に対する責任を自覚していること
自主的にその責任を引き受ける決意を持っていること
等とする。


基本的に大人は人の模範であり、責任を持ち、リーダーの資格を持つ人のことである。

人々を二つのグループに分け、大人の資格を持つグループとそうでないグループとすることである。大人のグループが社会全体を導く責任を負う。

今までのように単に年齢で大人になるのではなく、又多数決で指導者を選ぶのではなく、大人のグループの指導に替えていく。具体的には考えていない。

大人の責任を果たせないなら、大人としての資格を失うことも考えなければならない。。

子孫を持つことは大人が持てる権限とする。子供を持つためには、大人でなければならず、子どもを育てる資格(定義は難しいと思われる)を必要とする。
人類の人口増加を止めるためにも、こうした考えは必要に思える。

年齢だけではないことから、若くても大人になり、年老いても大人にならない人も出てくる可能性はある。責任と差別は関係するように思える。

以上は思い付きであり、今後十分に考えを発展させる必要があると考える。




+ 地球外生命体の地球訪問について


宇宙を光速に近い速さで移動できる技術を持つ生命体にとって、資源を求めて、食料を求めて、人間を食料とするために地球にやって来ることはない。人間のように好戦的であることもない。

これらの諸問題は低次元レベルの生命体にとっての課題であっても、宇宙を移動して地球にやって来れる程の高度な知能を持つ生命体にとっては、とうのむかしに解決済みであると考える。

人類でさえ、1960年頃人口が36億人、現在75億人、1日20万人、年間7千万人増えても、食料が不足しているようには思えない。食料不足になる理由は他にある。

宇宙人が地球の人間を食料とするために来るという発想はなぜあるのか?

その考えは、人類が未熟だった時に作られたからであると考える。
知的生命体が文明を発展させていく段階においては、自分を中心に考えることは必然的であり、今でも人間が恐怖を恐れ、敵を作り、好戦的になる理由に思える。

しかし、宇宙を移動する程の高度な文明を築くことができるのであれば、エネルギー問題は解決し、衣食住を含む全てが快適に思える環境を作れる。好戦的である理由、優越感もなくなるように思える。

では、その生命体は何かを欲しがることがあるのだろうか?
何を目的に生きているのだろうか?

知的生命体が成長する主な理由は、わからないことを追求することにある。文明が発展する理由である。どれ程文明が進んでも、わからないことが存在する。存在そのものの意味を追求する。究極的に宇宙がなぜ存在するのかを追求する。

存在があるのは、高度な知能を持つ知的生命体の存在があるからである。それが知的生命体の存在理由である。それを背景に、知的生命体はなぜ存在があるかを追求する。
宇宙に出かけて行き、情報収集を行う。



仮に人類の最新技術で秒速20kmが可能として、光の速さは1万5千倍の速さである。太陽系を出るのに2〜3日かかるとしても100年はかかることになる。(3日x15,000/365=123年)

天の川銀河の直径は約10万光年。光の速さで10万年。今の技術では10万年X15,000、15億年かかる。宇宙には2兆の銀河が存在している。宇宙はあまりにも広大であり、地球から遠く離れた世界に出ることなど考えられない。

宇宙空間を移動することを現実にするためには、光を超える移動手段が必要である。全く違う考え方をしない限り、解決策は見つからないように思える。




+ 恋愛について

人生で最も大切で影響力があるのは恋愛である。その力は非常に強く、特に若い時に男女間に引き合う力として遺伝子に組み込まれていて、子孫繁栄につながってきた。その影響は一生続くことも多くあり、比喩的に1000年も続く恋とさえ言われるものもある。永遠に続いて欲しいと願うこともある。

人生で最も大切なものであるから、映画でも歌でも小説でもテーマとして最も多く取り扱われている。

しかし、現在恋愛などの結果として結婚したカップルの3分の1は離婚し、離婚待機組もいる。幸せになるという願いに反し、およそ半分はうまく行っていないのが現状に思える。また性犯罪が無くならず多発する理由でもあるように思える。

子孫繁栄は望ましいことのように考えられてきたが、今や地上には人間が増え過ぎて、対策が急務の諸問題の一つと考えられるようになっている。地球の土地も資源も有限であり、増え続ける人口をいつまでも支えることはできない。

恋愛と子孫繁栄は、切り離して考えることが必要な時代なのかもしれない。

今は特別な時代、人類の存続をかけた、人類史上最大の転換期にあるように思える。




* 事実とは何か、偽りとは何か、について:

ウィキペディアによると「偽り」とは、いつわること、事実でないこと、うそ、とある。

事実とは何かがわからないと、事実でないことの意味がわからない。
同辞典によれば「事実」とは、実際に起こった事柄、現実に存在する事柄である。

しかし、それだけの定義では不十分である。なぜか?
事実は、過去において、そのように理解されてきたが、重大な欠陥がある。

事実には、その時代の、起きた背景や理由が関係しているし、事実に関する情報は時と共に増え、理解が増していくからだ。事実はいつも同じ状態に留まっているとは限らない。

昔、人々は事実を知っていても、その理由がわからず、勝手な理由付けをしていた。
地震、雷、台風、干ばつ、などで被害が出れば、神のたたりだ等と恐れた。

地震という事実を知っていても、なぜ起きるのかがわからず、60年前には地震の原因を突き止めるために、水槽でナマズを飼い、観察し、研究する科学者がいた。しかし、地震の原因、背景がわかるようになると、地震に関する知識、情報から、事実に対して違う見方をするようになり、対応の仕方も変わった。

気象現象の情報が無かった時、人々は大自然の脅威を恐れ、神を讃え、祭りを行い、お供えを捧げた。今でも昔からの慣習を続けている人々がいるが、事実の情報が増えるに従い、対応は変わっていく。

美しさはない、美しいと感じることはある、シリーズ6 にその理由を書いた。

事実に対する理解、認識により、人の対応は変わっていく。
美しさはないが、それを事実と理解できない限り、美に対する考えは簡単には変わらないように思える。
事実を正しく認識していることが重要で、事実を正しく認識していないと、偽りの意味を理解することは困難に思える。

間違いがあっても、理解できないことから、正しいこととして受け入れてきたことはたくさんある。

偽りは、事実でないこと。その意味は、事実に対する理解の不足、誤解、情報の不足などから生じる誤りが含まれる。思い込みのことでもある。

科学技術が発達していない時代であれば、今のような知識も情報も無かったので、間違いを信じていても、その時代の人々を非難する理由にはならない。事実を知ることには、情報による理解が欠かせない。事実は時代と共に変わっていく。

人類に最大の影響を与えた偉人の一人、ユダヤ人のイエスは、次のように語り、人々を教え、導いた。

神は、邪悪な者の上にも、善良な人の上にも自分の太陽を昇らせ、義人の上にも不義の者の上にも雨を降らせる。天の父のように完全になりなさい。

神を、人々に恵みを与える、親切で、善意に満ちた、寛大な方、公平な方、良い手本のように、見習うべき存在として表現した。その通りであるとユダヤ人の多くがその教えに共感した。
しかし、この内容は太陽、雨の働きの一面だけしか取り上げていない。

太陽による日照り、雨が降らないなどの理由により土壌が乾ききってしまい、農作物が育たず、枯れてしまい、飢饉が起き、多くの人が死んだことは世界中で何度となくあった。今でも起きる。日本では神に雨ごいをした。それでも神は答えず、雨は降らず、多くの人が死んでいった。

ウィキペディアによると江戸時代に起きた長期にわたる異常気象や害虫の異常発生、病害、火山噴火などでの凶作の連続による飢饉だけでも数百万人が死んだ。

偉人イエスは自然災害に触れていない。台風、地震、津波で多くの人が死んでいる事実を取り上げていない。
大自然の一部を取り上げ、それがすべてのように教えた。一部分が事実であっても、全部を取り上げていない。
事実であっても、その背景を理解することは重要である。事実だけでなく、その理由と共に背景を知ることは大切である。

雨が降る、風が吹くことを事実だと知っていても、気象現象の知識がなければ神様がそうしたことにもなり、間違ったことを信じることにもなる。

それは敵は本来いないのに、思い込みによって作られるのに似て、偽りはわからないからという思い込みによって作られる場合がある。

昔から人々は事実を知っていた。現実に存在することも知っていた。しかし、なぜ起きるかを知らなかった。知らないと、想像で思ったことを言い、昔からの人の言葉を信じることになった。

今の常識である気象に関する知識は数十年前までは無かった。事実をその背景と共に正しく認識することがいかに重要かを知る理由がわかる。

昔は、事実でないと、偽りだと思ってきた。事実の背景を認識できないので、事実でない、偽りである、と想像で考えてきた。理由がわからないのであるから、何とでも考えられ、偽りになる理由が作られた。

事実であっても、良いと思える面だけを取り上げて、神は善であるなどと言うのは間違いである。重要なことを隠していることは、人々をだましていることと同じように思える。

現代の理解は、太陽による恵みも災害も自然現象として捉えている。神の介入は考えられない。現代のあるべき認識は、災害が起きるのは神の意思とは関係ない、である。人間は自然界におけるこの現実を直視すべきである。

偉人イエスの神が人間にとって完全さを示す手本ではないことは明らかである。
ある事実の一部分を取り上げ、正しいと考えることは、間違いを正しいと受け止めることと同じ危険がある。

人間の世界は、大自然の一部であるが、知力により人間が作り上げてきた世界であり、自然界とは大きく異なる世界である。

シリーズ5、6 の見直しの一部より

人間の社会は、人間が高度な知能を持ち、ことばで情報交換を行っている特別な世界である。

人間以外の世界はあるがままの世界で、人間以外の生命体は高度に発達したことばはなく、したがって人間のような思考も感情もない。

人間の世界は、大自然のような、あるがままの世界ではない。人間が作り上げた世界である。人間の世界はことばで作られてきた。人の考えはことばでできている。人間同士の意思の疎通もことばで行ってきた。文明が発達したのはことばを活用し、考え、意思を伝え、協力して働いてきたからと言える。

自然界に嘘、偽りはない。生命体等の遺伝子(分子言語でできたプログラム)の中には間違いに相当するものはあるように思えるが、偽りということばは人間が作ったものである。

美しさはない、美しいと感じることはある。
これは事実であるが、理解することは簡単ではないかもしれない。
可愛い、きれい、醜いもないが、そう感じることはある。
これも事実であるが、一般に理解されるまでには、かなりの時間がかかるように思える。


知力の源:知恵のことば、より

事実とは何か。何度も、何度も、そしてまた繰り返す・・・ 事実とは何か。
願望的思考を止め、神のお告げを無視し、星の予見を忘れ、意見を避け、隣人の考えを気にせず、推測不能な‘評決の歴史’も気にせず、そして再び ・・・
 事実とは何か、
どこまで(少数以下何桁まで)事実か。
先導はいつも未知なる未来に向かう。事実とは唯一の糸口。事実を捉えなさい。


作者 不明




*事実は小説より奇なり」ということわざがある。 

現実の世界で実際に起きる出来事は、空想によって書かれた小説よりもかえって不思議である、という意味であるが、書かれたのは100年以上前である。当時は事実の背景を未だ知らず、なぜ起きるのかはわからなかった。

今は反対である。事実の背景はわかるようになり、不思議であると思う人は少なくなり、考えることもなくなり、当たり前に思うようになっている。

人間が空想によって書く小説は、より深い真実を求めるテーマとして、映画にもなり、楽しむようになっているが、事実以上に不思議な世界を見せている。今は「小説は事実より奇なり」である。だからと言って、空想を信じる対象にはしていない。可能性として捉えるだけである。



* 教えるとは情報を伝えることである。学校教育で教えている情報が伝わっているかどうかを確認する必要がある。テストの目的は人の評価ではなく、情報が伝わっていることを確認するためである。
どんな情報を伝えるべきか? 人間の遺伝子、脳の働きから見えてくる自分とは何か、親と子の関係、人類社会の目的、責任とは何かなど、たくさんあるように思う。



+ 現実を理解する

現実を理解するのを阻んでいるものは何か?

今のように科学技術が進歩している時代と違い、昔は情報が非常に少なく、太陽がなぜ燃え尽きないのか、物はなぜ落ちるのか、月はなぜ落ちてこないのか、色はなぜあるのか等、又空気があることも、気象のことも、今では常識であることをほとんど知らなかった。

知識、情報が無ければ、物事がなぜ起きるのかわからない。
数百年、数千年後の現在まで、わかるようになる前には、情報はなく、わかりようがなかった。
そこで、想像により様々な理由を考え出した。

数十年前まで、わかりようがないと、多くの人が、在ると思えば、在ることになった。無いと思えば、無いことになった。知識が無ければ、わからないので、皆と同じように信じる他はなかった。時の権力者の意向も大きく影響したと思われる。
それ故、多くの人がどう思うかに左右された。多く人が思うことが正しいことになり、信じる対象になった。

長い間、想像によって作られた考えである幽霊もお化けも、神も悪魔も、天国も地獄も、誰も否定できないので放置されてきた。わからないなら証明はできず、答えは出しようがないからだ。

しかし、それは古い時代の、わからないことに対する誤った対応である。
今の時代、わからないなら、違った対応を取る。
どのように違う対応をとるのか?

答えがわからない、答えが出せないなら、その時点での答えは出せないものとしても、今後の研究の対象とする。答を無理やり勝手に作ることは間違いである。可能性として考える。
答を想像により造るだけでなく、それを信じることなど、今ではありえないこと、あってはならないことである。

しかし、今でも昔のままの想像による考えや教えは、多くの人の支持を得、受け継がれている。それは人間性に進歩がない主な理由でもある。

確かに、人間にはわかり得ないことがある。人間が有限であることから、無限の世界のように、永遠にわたって答えが無いものが存在するように思える。それを神と言うなら、誰も否定できない。それ故に、「神」とは永遠にわたって人類の無知を象徴することばなのである。

ただし、今までにあった偶像を含む数えきれないほど存在してきた神々は、すでに神様の座から引き下ろされている。その大半は人類の文明の進歩、情報の発展により、それが何かがわかるようになったことにより、神とは言えないことが明らかになったからである。

それでも人間は不安から、わからない何かを頼りにする。人間の心、認識に問題があるからで、神からの罰や呪いやたたりを恐れ、昔からの慣習や儀式を大切に守り、昔からのわからない神様に頼っている。

今でも人類の大多数は神を信じている。たくさんの宗教があり、それぞれは違った神、教え、慣習などを持っている。なぜ違う宗教を、異なる考えを信じていられるのか? 昔からのわからないという認識が変わっていないからである。つまり、現実を未だ直視できないでいる。古代からの、わからないから想像して作ったものを、今でも信じている。

昔からの、わからないからと放置してきた時代は、過ぎゆきつつある。
現実を、真実を知るようになるからである。
現実を理解できるなら、それを受け入れ、今までの在り方を変えていく必要がある。

人間という知的生命体の存在の重要な意味は、現状を認識し、間違いを認め、反省し、改善してきたことにある。それは人類が進歩することであり、現実を理解することであると考える。
現実をそのままにしておいてよいという意味ではない。



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6月


* 現実を理解する人の特徴の一つがわかってきた。(続き)

前回、現実を理解する人は、幽霊、お化けを認めない。天国、地獄を認めない。空の上、雲の上の神様を信じない人のことである。現実は真実を伝えている。
情報を見きわめるために、人間の知力が試されている、と書いた


目の見えない人はお化けや幽霊を怖がるだろうか?

* 現実を知る、理解するとはどういう意味か?
真実を知ることである。あるがままの状態を理解することである。

現実に想像はない。
想像がないと、幽霊も、お化けも、天国、地獄も、雲の上の神様もいなくなる。

現実を知るには希望、願い、好き嫌いを除いて考えることが必要である。
五感による思い込みを無くすことである。
思い込み、信じていること、を除けば、現実を認識することができるように思える。

思い込みと信じていることとは、幼少の頃から教えられ、当然のことのように受け継がれている価値観、常識、ものの見方、考え方、感情、好き嫌い等のことである。
つまり、作られた認識のことで、生まれ育った環境が関係する。認識は個人によっても、国、地方、言語によっても違ってくる。その違いを除いて考えることが現実を知ることであると考える。

美しい、醜いは本来は無い、感情によって作られると書いた。
現実は、あるがままの姿を見ることである。
好き、嫌いという気持ちが、現実を変えることになる。

つづく




* 人の持つ悪意について
人間には悪意がある? 確かにあるように思える。
しかし、悪意とは何か。なぜ悪意があるのだろうか?
正常に思える普通の人が悪意を持って、他人に害をもたらそうとする。人を陥れようとする。

悪意を持つとは、必ずしも表だって犯罪を犯すという意味ではなく、他人の不幸を願い、失敗するように、裏で画策するというような意味で使われるように思える。

隠れて意地悪をする。わからないように嘘をつく、差別する。
他人を陥れるために平気で作り話をする、
賄賂、プレゼント、お土産をあげて、自分の便宜を図る。
周りの人には親切な人に見え、悪意のあるような人には見えない。

なぜそうした行動を取れるのか?
自分でも気づいていないかもしれない。精神的におかしいのかもしれない。

育った環境に正義が関係しているからということも考えられる。歪んだ正義感の強い人にこの傾向が見られるのかもしれない。
自分が正直で、真面目であっても、他人の不誠実で不真面目な態度が許せないと、感情に走る場合があることはあるように思える。

自分を忘れ、他人を悪人と決めつけ、その人の間違いを明らかにしたくなる、暴露したくなる。不真面目に見える人を許せない。
そんな人がリーダーであればパワハラに走り、あることないことを言い、有無を言わせず叱り飛ばすこともあり得る。恐ろしい人にも見える。仕事をやめさせられる。そんなリーダーの下では、人は育たない。

悪意には、正義が関係しているかもしれないと、思える一面である。

悪意の解決策はあるのか? どうすることができるか?

パワハラであれば専門家に相談してみるのも一つの方法かもしれないが、見えない悪意では、対応することは非常に困難に思える。

個人の反省と成長、周りの社会全体がより人間として成長することが解決の糸口のように思える。課題として考え続ける必要がありそうだ。

ねたむ、嫉妬(しっと)、うらむ、うらやむ等の表現には現代とは違う作られた時代背景があるのだろうか

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5月

* 遺伝子と脳により生かされている人間
人間は地球上で唯一高度な知能を持つ生命体であり、ことばを持ち、考えることができ、感情を持っている。そうではあっても、五感である入力装置には限界があり、思考も感情もその影響を受け、認識には偏りがある。

人間は遺伝子と脳の働きにより、自分とは、そう思い込むように作られた存在である。

現実に存在するすべて、美しさ、醜さ、楽しさ、悲しさ等も、そのように脳が反応するように作られているからである。

美しさがあると思っても、現実の世界に美しさがあるからではく、そう脳が反応するように作られている。醜さも作られた思い込みである。楽しさ、悲しさも脳の働きによりそう感じる。苦しみも脳の反応である。

+ 脳がなければ、思考も感情もなくなる。脳死と共に体も維持できず、全てはなくなってしまう。

現実はある。あるがままの世界は現実としてある。真実は現実の中にある。しかし、この世界は、人間の持つ脳の働きである知力により、そう認識している世界である。

なぜ人間にことばによる高度な知能があるのか? 
人工知能などの発展により、わかるようになる可能性はあると思われる。


人生は楽しければいいではないか? 
生きる上で大切なのは、楽しむことである。
一生を楽しく生きたらそれでいいではないか?

その通りであると思う。

問題なのは、楽しく生きることが続かないことにある。

幸せになれても、すぐに幸せを忘れてしまう。幸せは長くは続かないのか?
「幸せ」ということばの意味を知らずに、幸せでいることはできない、と書いた。

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人間の知力により科学が進歩し、現実が何かを明らかにしてきている。

遺伝子と脳の働きがわかるようになるにつれ、人間の働きについてもわかるようになってきた。コンピューター、インターネット、人工知能などの出現も拍車をかける。

それは今までに人類が作り上げた価値観の崩壊と変化を意味するように思える。
人間そのもの、親子のあり方、生と死、人生観、生き方、考えが変わりつつある。

現実は、思い込みによる影響を受けてはいても、夢や想像の世界ではない。現実を変えること、理想に近づけることは、可能であっても、真実として受け入れるしかない。現実以外に選択の余地はない。

人間は信じることで現実を見ないでいることはできる。
無いものをあると信じること、あるものを無いと信じることで、現実から目を背け、認識しないでいること、幸せでいることもできる。薬漬けも可能かもしれない。

この現実の中に全てがある。信仰も仮想現実も現実の中にある。現実を認識することは、真実を知ることであり、真実とは現実を認識することにある。人間には、どう考えても、現実以外の世界は存在しない。脳の働きに限界があるからである。

人間の幸せはどうなるのか?
幸せであるためには、現実を理解することが大切である。
知らない方が幸せに思えても、現実を受け入れるしかない。

現実はうそ、偽り、犯罪が横行し、正直者はバカを見る、矛盾だらけのひどい世界である。しかし、その多くは人間が作り出したものである。そして、どう努力してみても最後には死を迎える定め。人間の一生は空しいようにに思える。

歴史の理解がどう変わっても、歴史は過去の在るがままの姿であり、それは歴史である、と同じように、現実はどう変えても現実である。現実をそのままにしておいて良いという意味ではない。
世の中を変えても、現実は変わらない。現実を修正することはできるが、現実は修正しても、現実である。 

現実である歴史は変わっても、それがそのまま現実である。何を変えても、現実はあるがままの姿であるからだ。現実ということばの定義が、あるがままの姿であるからだ。

そうであっても、現実を変えていくために、それがどれ程難しくても、知的生命体である人間は、現実を正しく認識することから始めること以外に無いように思える。

つづく

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