思い付き ☆18 雑感の記録 *「教える」ということばの問題について 8月10日(月) 以前シリーズ11「教える、教育する、学習する」の意味についての考察 に、 「教える」という言葉の意味に大きな間違いがあることについて書いた。 「教える」は、情報提供する(手本を見せることを含む)という意味に限定して使うべきであると。なぜなら「教える」には情報を提供するだけで、教訓を与える、諭すなどの意味は実際には無いからだ。 そこから言えることとして今日思い付いたのは、すべては教えているという事実である。 教育番組に限らず、テレビ、ラジオ、映画、書籍、親族、友人、動物等、自然界のあらゆるものが情報を提供している。つまり教えている。教えるという言葉の定義は、情報の提供であると認識すべきと考える理由である。 高度な知能を持つ人間はそこから、つまり情報から、あらゆることを考え、学んでいる。 教訓を得られるのは人間に学習する能力があるからで、教訓が与えられるからではない。 今まで「教える」という言葉の意味を、間違って理解してきたことは、人類の歩みにおいて重大な悪影響を与えている。 動物をしつける(躾る)を人間に適応させてきたことは、人間に対する重大な間違った行為である。 「人間の学習能力は想像を超えるものがある。その能力を正しく認識することがすべての人にとって非常に重要であるといえる。」 教えることの意味に教訓を与える、反省させる、学ばせる、気付かせるという意味はないと言っても、過去にそう教えられてきた人にとっては簡単には受け入れられない考えである。これを理解することはかなり困難なようだ。 教訓を与えられたと教えてくれた人に感謝している場合、自分が学んだとは思えなくなっている。教えてくれた人に失礼である。自分が気付いたのではなく、学んだのでもなく、教えて頂いたからだと思っている。 その教訓の意味が後になって、10年、20年経ってからわかったとしても、あの時教えてもらったから、教訓を与えられたからと思っている。 教えてくれたのなら、その場でわかってもいいはずなのに、なぜ長い間その教訓の意味がわからなかったのか? それは自分がその意味を理解できなかっただけではないか? それが単なる情報であっても、そこから学べるかどうかは当人の学習能力に依存していることを示しているではないか? なぜ教えられたと思うのか? それは今までの教育の在り方にある。先生を偉い人と教えられ、感謝してきた。 特にスポーツの世界では、先生と生徒という上下関係が築かれ、力があるとされる偉い指導者が幅をきかせてきた。偉い人に対してはただただ従順に、黙って言うことを聞き、わからなくても、何でも「はい。わかりました。」で答える。相手は怖い存在だ。 こうしてできあがった認識を壊すことは難しい。 これが単なる情報、当たり前のことであっても、有難い、特別なもの、感謝して受け取るものと思ってしまう理由に思える。互いの感情が影響している。 教えることが単に情報を提供することである、と理解するためにはかなりの時間がかかりそうだ。この意味を理解できる人がいることを願う。 怒るという感情は無いことを前提に、叱る、叱責するを考える。 間違いを正すことは、情報の提供と同じことで、教えることである。 間違っているという点、その内容は情報である。その情報を伝えることは、教えることである。 では、人は教えたら間違いを認めるか? 教えたらわかるか、間違いに気付くか? ケース バイ ケースである。なぜそうなるのか? 人は間違いを簡単には認めない。なぜ間違っているかを知り、気づき、理解する必要がある。それを理解することは、当人の学習能力にかかっている。 教えることは諭す、気付かせる、学ばせる、反省させる、教訓を得させることではない。ただ情報を提供するだけである。 それは気付かせる、学ぶ等のきっかけ、助けになる可能性は大きい。ただしそれは、当人の学習能力に働きかけるからであり、教えるとは別の「教育」の意味である。 教えるとは、情報の伝達の意味に限定して使うべきである。 * 個人の愚かさは人間としての愚かさとは言えない 8月8日(土) 20歳半ば頃まで自分のことを、引っ込み思案で、自信の持てない、出来の悪い人間で、頭は悪いと思っていた。 「1+1=2」 のような基本的で簡単に思えることでも、実際には知らないことに気づいていなかった。 今振り返るとその頃、個人としての自分と、人間としての自分がいることに気付いたように思える。 人間としての自分とは遺伝子ヒトゲノムが作りあげた主に自分の体と受け継いでいる能力のことで、その実態はほとんど何も知らないのが実情である。 個人としての自分とは、受け継いだ脳の働きにより自然、社会環境などにより作られた自分という意識、考えることのできる自分のことで、体と能力を活かすことができる。 そして気付いたのは、人間としては出来の悪い自分と考えることは間違いであることである。以来、頭の悪い人間、出来の悪い人間は基本的にいないと思っている。 但し、自分のできない理由を頭の悪いせいにして言い訳にする人、責任を転化しようとする人は山ほどいるし、頭が良いとか成績が優秀であるとか某大学出であるとか、人間として恵まれた人であっても、愚かな人はたくさんいる。 これは個人としての自分に問題があることを示しているように思える。 人間の持つ能力も可能性も過小評価してはいけない。 個人の愚かさは人間としての愚かさとは言えないからだ。 *「人類の敵は人間の愚かさにある」 7月 人類が作り出した武器は、敵として人類に対して使われてきた。 同じ人間を敵としてきた。敵であるべきではない同じ人間を敵にする。 思い込みが敵を作り、正義を作り、戦争を正当化する。 人間が持つ優越感に問題の原因がある。 人間は生き残るために力を持つことが重要と考えてきた。 ここで言う力とは他の人よりも優れている、秀でていることである。 知識、情報を多く持っていること、学力、成績が大切にされるのは、将来より優位な立場に立つためであると考えられている。より大きな影響力を持つためには学力、富、権力が必要である。 人類はより強力で致命的な武器を持つことが優位に立つことだと考えてきた。世界大戦を二度経験したことから、戦争はすべきでないと学んでも、核兵器は人類を抹殺する以上に保有され、新たに保有しようとする国も後を絶たない。戦争ができないなら、経済力で優位に立とうとする。あらゆる方法、手段を使って優位に立とうとする。 第二次世界大戦後、国際連合ができたが、戦勝国が優位に留まるために五つの常任理事国も作られた。その結果、国連は十分機能しなくなった。 どこの国も優位に立つことしか考えていないのだろうか? 何のための優位性なのか? 反省することを知らない指導者が優越感を優先し求めたら世界はどうなるのだろうか。 人類は自分たちの在り方を考え、反省し、変える必要がある。笑いと優越感ではなく、信頼と協力を構築することを考えるべきである。人間としてあるべき教育を根本から見直す必要がある。幼いことから優れた人間になるよう教育され、優れていることが重要視されてきたが、これは重大な間違いである。 「自分に才能はあるか?」と真剣に考え、悩んだ時期もあった。当時は気付かなかったが、今それは優越感を求めていることと同じように思える。 才能とは優れた能力のことである。なぜ優れた能力を求めるのか? 大衆に認められ、受け入れられ、高く評価され、富や名声を得るため、社会で成功者となるためである。 優越感は人間の本質に思えるが、人の競争心をあおり、人を利己的にし、争いを起こす原因である。 自分に優れた、秀でた能力を求めても、それは人間として与えられたヒトゲノムとしての能力のことであり、自分で作った訳ではない。 その与えられた能力をどのように役立てるかは、個人に委ねられていても、自分が作ったと考えることは誤りである。 その才能を磨いたことは個人の努力として認められても、自分が作った能力ではない。 才能を育てた環境にも初めから大きな違いがある。 人間には人類の一員として何を、どこまでできるかを示すことには大きな意味がある。人類、人間が存在していることの意味を示すことである。持っている才能により人々に楽しみや喜び、新鮮さや驚きを与えることができる。これは個人のものとしての才能ではなく、与えられている人間としての能力を示すことである。 人類は個人の才能や能力を過剰に高く評価すべきではない。なぜなら持っている能力は個人が作った能力ではなく、人間として初めから持つ能力であるからで、個人ではなく、人間の素晴らしさに注意は向けることが大切に思える。 個人は他の人より優れている必要はなく、優れていても個人の功績ではないことを自覚すべきで、恵まれているなら、その才能は人類にとって恵みとなる。 個人が認識できなくても、人は誰でも十分な能力を持っている。置かれた自然や社会環境、時代、個人の願いや夢も、それに気づくこと、磨くことも関係するが、人間の能力も才能も人類社会のために役立てることをその目的とすることが重要であると考える。 優越感を無くすことにより、人間自らが敵を作らず、敵になることもなくなれば、人類の平和と安定をより長く維持できるのではないだろうか。 マイケル アレフ 2020年 |