マイケルアレフのことばの認識は世界を変える シリーズ 2 認識について 認識とは何か、どのように作られるか (シリーズ2は以前、認識の多面性として書いたものを新たなものとして修正したものである) シリーズ1で、「ことば」の定義を試み、何が「ことば」を構成するかを書いた。今回、情報がことばに置き換えられる過程について、その後、ことばによる思考と感情から作られる認識について説明を試みる。 内 容 1. 人はどのようにして認識しているのか a. 五感と脳の働き b. 生まれた時からの環境などの影響 c. すでに生来の能力の限界を超えている認識 2.認識は脳の思考と感情の働きによって作られる 3. 正しい認識を持つことはできるか 4.人間の認識、人類の認識に変化が求められている背景 1. 人はどうやって認識しているのか a. 五感と脳の働き 認識を初めに形成するのは基本的に人間の持つ五感でありそしてそれを司る脳である。 三省堂 大辞林によると、「五感とは目・耳・舌・鼻・皮膚を通して生じる五つの感覚。視覚・聴覚・味覚・嗅覚(きゆうかく)・触覚。また,人間の感覚の総称としても使われる」とある。 五感から入った刺激は情報として脳に伝えられ、認識を形成する。 脳は見ることと触ることにより色、形、大きさ等を知り、臭覚でにおいを、味覚で味を、音でも対象となる物の一部を知る。物の全体像に対する認識はこのように作られる。 入力された情報がことば(主に単語)とイメージに置き換えられ、ことばによる思考に代わる。 思考の背景: 1948年ベル研究所によってトランジスターの発明の発表がなされ、ラジオなどに使われるようになった。トランジスターが増幅作用だけでなく、ON-OFFスイッチとして利用できることがわかった時から、数学の2進法の0と1として利用され、コンピューター技術に応用され、文字や映像を表現できるようになった。数字と文字の対応をプログラムしておくと、キーボードなどからの入力はモニターに文字に変換して表示できる。ことばの原理はこれに似ているように思える。 ことばの世界は、物に名前があるということから始まるように思える。 ヘレン・ケラーは、物に名前があることを教えられた(情報提供された)。 サリバン先生が人形をヘレンに持たせ、人形という単語を指文字でヘレンの手で書いてもヘレンには何のことかサッパリわからなかった。それを何度も繰り返しているうちに、ヘレンは、それが、その物が、人形という物の名前(単語)であることに気付いた。それはことばの世界への入り口だった。 ヘレンはそれ以降すぐにたくさんの物の名前を覚えた。 物に名前があることがわかれば、情報が簡単に伝わる。歩く等の動きを表す動詞、大きい小さい等の形容詞も理解できるようになる。すると、文章を作ることができる。 文章を作れることは、考えることができるという意味である。 あらゆることを、ことばで考えることができるようになる。 それは人間に高度な知能があるという意味である。ことばの世界を知ることで、様々なことを可能にする道を開くことができる。 考えることができれば意志の疎通ができるようになる。 現実をより良く把握し、間違いに気付き、反省し、進歩することができるようになる。それは人間としての自覚、人格の形成に大きな役割を果たす。 シリーズ1の中に、ことばは情報を得る、学習する、考える、意志の疎通をする、創作する、信頼する等のツール(道具)でもあると書いた。 ことばは生まれてから親により教えられ、子供は知らないうちにことばを話すようになる。自然なことのように思われているが、それがことばの重要性に十分に気付かない理由なのかもしれない。ことばがあることを、あって当たり前と思っている。人間の認識を改善するヒントがここにあるかもしれない。 全てに名前がある。名前をつけている。名前が無くても無い物として表現することもできる。多数でも、無限でも、一つと同じように扱うことができる。 卵が1個ある、10個、100個あると言えば、一瞬で想像することができる。正確に数えるのではなく、全ては一瞬でそのように想定できる。 実体ではないから可能で、脳がことばのシステムにより情報を運用する働きである。 基本的な認識が創られる誕生から幼少の時期に、五感(入力装置そのもの)が重要な役割を果たしている。しかし、その五感には人それぞれ違いがあり、限界もある。 一般的には視力一つをとってみても近視、遠視、乱視、老眼等の人がいて、見え方はそれぞれ違う。近視の人でも仮性近視の人から眼鏡やコンタクトを必要とする人まで様々だ。補強することで同じ視力を得ようとしている。目の不自由な人もいる。人によって色の見え方も違う。全く見えない人もいる。 同じものを見ていても、正確には同じに見えていない。正確には「大きさも同じではない、形も輪郭も同じではない、色も同じではない」ものを見ていることになる。脳に残っているイメージも様々だと思われる。ただ、日常生活で大きな問題が生じないことから、人は同じものを見ていると思っていて、そこに疑問を持つ人は少ない。 同様に聴覚・嗅覚・味覚・触覚についても人それぞれ違いがある。 五感による認識の形成には受け継いだ遺伝とその後の病気や事故も関係しているように思う。 これらに加え、入力されたものを認識に変える脳にも個体差があると考えられる。 b. 生まれた時からの環境 生まれた時の環境も認識に大きな違いを生じさせる。男又は女に生まれたか、時代背景、親の持つ教育、考え方、好み、兄弟姉妹がいるか、祖父母がいるか、親戚が多いか、都会か農村か、海・山・川が近くにあるか、裕福か貧しいか、動物を飼っているか等、認識に違いを生じさせる要素はたくさんある。 幼少期以降、友人、先生、教育内容、様々な出会い、感動したこと、人の感情などすべてが五感を通して入力され、イメージを含むことばとして脳に蓄積され、様々な認識が作られる。 これらの事実を考えると、それぞれが持つ五感から作られる人の認識は、当然違っていると理解できる。 しかし、五感だけが重要なのではない。五感の一部分がなくても、ことばで考えることができれば、広い認識を持つことは可能である。 見えず、聞こえず、話すことができなかったヘレンケラーはこの点で人間としてのすばらしい模範を残している。 c. 限界を超えて 人間の持つ五感はそのままでは限界がある。視覚を取り上げてみると、かつて宇宙は小さかった。肉眼で見える範囲が宇宙のすべてだったが、望遠鏡ができることで、遠くの星が見えるようになった。 望遠鏡による天体観測は、地球が太陽を中心に回る惑星の一つであることを発見し、太陽系も銀河系の中の一部に過ぎないことがわかるようになった。現代ではさらに遠くまでそして広がり続ける宇宙の果てまで見えるようになった。2兆の銀河の存在、爆発する超新星が観測され、ブラックホール、暗黒エネルギーなどの存在もわかるようになった。我々の見ている空間は3次元で構成されているが、今では多次元の世界の一部かもしれないという研究もある。 昔、小さいものは見える範囲のものだけだった。顕微鏡がつくられ、肉眼では見えない細菌のバクテリア、さらに小さいウィルスなどたくさん見えないものが存在することがわかるようになった。 科学の進歩で物質も様々な元素からなり、それぞれの原子はさらに細かく分かれて、原子核と電子、原子核は陽子と中性子から成り、最近の研究ではそれはさらにクォークという素粒子等から成り立っているという。 何もないと考えられていた空間が実は素粒子を発生させる源であるという研究も進んでいる。 現在は素粒子の世界と宇宙を統一した理論が必要とされている時代になっている。 知り得ないものはたくさん存在する。五感そのものに限界があるからだ。しかし五感を補強することにより、人類はより多くのものを知るようになった。そして新たに知ることは今までの考えに変化をもたらし、認識を変えてきた。自然に対して、人間に対して、動物に対して、昔と今では認識は大きく違っている。 将来新しい存在をどれほどたくさん知るようになるかは、今後の科学それぞれの分野での発展に依存していると言える。そして新しい発見は人々の考えを変え、ことばにも影響を与え、認識に様々な変化をもたらすことは間違いない。 今後重要になっていくと思われるのは、現在の認識そのものから新たに作り出される認識のことである。それは五感を通して外部から入ってくるものによる新しい認識もそうだが、脳そのものに今までに蓄積された情報から作り出される新しい認識のことである。考える力により、探求心により創り出されるものである。すでに物理学では歪んだ空間の存在、重力や速度によって時間が変わることを明らかにしている。高次元の世界等も考えられている。人工知能も発展している。人間の考える力が新しい認識を創り出す。 とは言っても、人間には限界があることも認識することが大切と考える。 何人知人がいるか、友人はいるか、と考えればわかりやすい。1000人の知人がいたとしても、日本の人口は一億人以上、世界では80億人。知っているのは身近にいる一部、少数の人だけである。 ことばの媒体である単語をいくつ知っているか? 英語の場合、存在している単語の数は約100万語と言われるが、実際に大人で使われている数は2万〜3万語とされる。 人間の単語等を覚える限界は、その程度であるが、コンピューターを使い情報を蓄積し、利用すれば、その限界を簡単に越えられる。人工知能は人間の持つ能力を簡単に超える。 新しい技術は重要な影響を人類に与えることになる。 元々持っている人間の能力は人工知能と比べると、ますます衰えて見えるようになる。 思考や行動なども人間同様であるものアンドロイドやヒューマノイドの登場も考えられる。 人間には間違え、誤解、理解できないこと、わからないこともある。ことばで伝えることには限界がある。伝えようとする意志、理解しようという意志がなければ、情報は伝わらない。伝わらなくすることも可能である。悪意さえ存在する。 人間はこのままでいいのだろうかという疑問が生じる。 人間にはまだまだ進歩する余地があると考えるが、優越感と楽しみを追い続けることで人類はこの危機を乗り越えることができるのだろうか。 2.認識は脳の思考と感情の働きによって作られる 「人間は生まれた時に感情はあったのか? 赤ちゃんが泣くのは意思表示であるが、まだ個体が存在していることも、その意識もないのに脳は働き、育てている。 人間が赤ちゃんとして生まれてから食べたい、眠い、オムツを変えてとオギャアと泣いて訴えているのは脳の働きと理解できる。 反応には、痛い等の不快なもの、快いものに対するものがあると考えられる。様々なそうした反応の記憶は脳に感情として認識させるのではないか。 個体の脳が、赤ちゃんの時から人間として思考と感情を持つよう育てているのではないかと考えられる。 シリーズ6 「美しさのついての考察」の中に、「美しさはないが、美しいと感じることは現実にある。美しいと感じるのは、個人の認識がそう反応するよう作られているからだ」と書いた。ここに感情を持つ理由が書かれている。 これが正しい理解であれば、この理解を発展させ、次のように表現することができる。 様々な感情は人間が成長していく過程で認識として作られる。「感情は脳がそう反応するよう作り上げた認識」である。言い換えるなら、感情は脳の働きの一部として機能している。 脳(の一部)は思考と感情の両方の働きをしていて、感情と思考の源であると表現できる。このことから、「人の心とは、人の持つ思考と感情によって構成された認識のことである」と表せる。 心臓等の臓器に心があると考えた時代もあったが、脳が体全体を運用管理していることが明らかになっている現在、仮に臓器の働きと関係しているとしても、その元は脳にあると考える方が適切に思える。」 (シリーズ26より) このように、昔それが何かわからなかった頃、心と呼ばれていたものは、思考と感情から作られる認識と考える。 親からことば(単語など)を学習する中で、好き嫌い等の感情も知らないうちに受け継いでいると考えられる。修正されるのは、その間違いに気付いてからと思われる。 3. 正しい認識を持つことはできるか 認識は脳の思考と感情から作られると書いた。そうであるなら、正しい認識とは正しい思考と正しい感情であることになる。 正しいとは、どういう意味か? 正しい思考、正しい感情はあるのだろうか? ことば(単語)、正しいという単語も、歴史の中で作られたものであると考えるが、基本的には正誤問題の正しい答のような判断することのように思える。幼い時から正しい、間違いという判断をすることを教えられてきた。 簡単に答を出す方法で、わかりやすい。その習慣に染まってしまっている。しかし、それは昔からの考え方で、古い価値観に属するものかも知れない。問題に対する答は、考える視点、立場、条件等で変わるからである。 問題を個人、人類、宇宙のそれぞれの視点から考えるなら、同じ答にはならない。時間も関係するように思える。 質問によっては、違う見方をする必要もあると思うが、人類の存続の危機がある現時点では、正しい思考、考えとは、個人ではなく人類にとってという視点で考えることが望ましいように思える。 つまり、現在の正しい認識とは、人類として考えることではないか。 感情も思考も個人によって違う。しかし、感情は思考によって制御される必要がある。 思考には全体を考え、客観的、理性的な見方をする働きがある。 思考が感情に影響されてからでは、適切な判断は下せないことが多い。 適切な考えを先に作り、感情がそれに制御されるようすれば、正しい認識に近づけるかもしれない。 すべての生命体は、それぞれの生命体としての制限はあるが、自由である。ただし、知能が発展していないと、考えることはできない。自由が何かを知ることはできない。地球上では人間だけが、高度な知能とことばを持ち、自由とは何かを考えることができる。 人間は自由である。しかし、生命体として生きていくための制限と社会的協同体の一員としての制限がある。人間が自由であるためには、その制限の理解が不可欠で、それなしに人間として正しい認識を持つことはできない。 人の認識は変化する。入力される情報によって影響を受けるが、学習能力があれば、たとえ間違っていても、自ら考え、現実を把握、修正し、改善することは可能である。ただし、できない場合も、また多くの時間、努力を必要とする場合も考えられる。 人類に進歩しようとする意志、その姿勢さえあれば、ふさわしい認識を持つことは可能に思える。普遍的な正しい認識は存在しなくても、それに近づくよう働き続けることが大切であると考える。 4.人間の認識、人類の認識に変化が求められている背景 命とは食べ物のことで、生命体を動かすエネルギーであると書いた。 個人的にそう思うのであるが、そのエネルギーが何だかは今でもわかっていない。 高度な知能を持つ生命体である人間にはことばがあり、考えることができる。知能があるのは頭脳を持っているからである。五感という入力装置を通して情報が入ってくる。それを処理してことばで考えている。生きていて、脳が正常に働いているからだ。 情報が少ない時代には、望遠鏡も顕微鏡もなく、肉眼で見える世界以外のことを知らなかった。見えない、分からない、不思議な現象はたくさんあった。わからない不安や恐れは神様を作ることで納得していた。こうして、人間の考える力、想像力は、天国、地獄、神々、天使、悪魔等を作り出した。 人は生きているから考えることができる。生きているから神様を、天国を信じることができる。 しかし、ここに重大な質問が提起される。 人間が死んだら、神様、天国、地獄等はどうなるのか? 生きているから信じているが、人は本当に死んだら天国に行っているのだろうか? 神様と会えるのだろうか? 死んだ人々に会えるのだろうか? 生きている間、そう信じていることに問題はないのだろうか? 人間には脳があるので考えることができる。 脳に障害があれば、自分の存在さえわからなくなることもある。 脳の働きが無いなら、情報が入力されてもわかりようがない。 考えることはできない。何も無いのと同じである。 脳死は人間の死である。死後、脳の存在はなくなる。 それでも脳が生きていた時の天国、地獄はあると言えるだろうか? 昔の人と同じように、死後のことは分からないを理由に、信じることは適切なことなのだろうか? 情報があっても、認められないのは、認めたくないからで、認識できないのではないか? 考えることができないからではないか? あると言えるのは、そう信じる人が今も生きていて、脳が生きていて、考えることができるからである。脳がない状態で、どうやって考えることができるのか? たとえ、幽霊の存在を信じていても、それはその人が生きていて、脳があるからではないか? 認識を変えることを受け入れることは難しいと思われる。 人類が生まれて以来、6000年以上にわたり信じられてきた内容に修正が必要と思われる時期に来ている。科学の進歩により人類にとって初めて経験する人間そのもの、その認識に変化が求められている時期にあると思われる。 マイケル アレフ 2021年5月 |