マイケルアレフのことばの認識は世界を変える

シリーズ18  不思議とは何か   (最近の思い付きからシリーズに変更)

・手品の種明かしからわかること
小学生の頃手品で手からトランプが消えたり、手の中から鳩が出てきたりするのを見て、とても不思議に思ったことを覚えている。今でも多くの人は手品を見て楽しみ、驚き、不思議に思う。

手品の種(トリック)を知ってしまうと、手品は不思議に見えなくなってしまう。不思議に見える理由がわかってしまうからだ。昔、種明かしをすることは稀にしかなかった。そのトリックは、長い時間をかけ、よく考えて作り出された作品だ。最近では100円ショップでも小学生でもできるように簡単な手品が売られている。

手品を見て不思議に思うのは、見る人が知識や理解が無いのを前提に、その盲点をうまく利用することにある。しかし、どんなに不思議に思っても、そのトリックの知識や理解が得られれば、不思議に思うことはなくなっていく。

不思議と思うかどうかは、その人の持っている知識によっても、人の成長の過程でも、学習する能力によっても違っている。

辞書によると不思議とは「思いはかることのできないこと。どう考えても原因や理由などがわからないこと。また、そのさま。」とある。

基本的にわからないから不思議に思えるのであって、わかってしまったら不思議ではなくなってしまう。ただし、わからなくても不思議に思わない人もいる。関心のない人、興味のない人、知りたいと思わない人にとっては、わからないことなどどうでもよいのだろう。

わかってしまう。見慣れてしまう。使い慣れてしまう。こうした過程を経ると、不思議には思わなくなる。マジシャンの技術はすばらしくても、手品を行うマジシャン自身は不思議とは思っていないだろう。

子供には不思議なことがたくさんある。わからないこと、知らないことがたくさんあるからでもある。対象が同じ場合でも、その子の持つ学習能力によっても違って見える。子供が不思議と思うことの中には、大人が気付いていない重要な問いやヒントが隠されている可能性もある。

大人になり知識が増えると、純粋な問い、疑問さえわかなくなってしまう。知っていることが不思議に思う気持ちを無くし、逆に知っていることが人を高慢にするとも考えられる。

・視覚について
人は写真、映像、手品、マジックなどで簡単に騙される。人の持つ視覚は大きな働きと影響力を持っているが、限界があり、「大きい、小さい、早い、遅い」等に簡単に騙されてしまう。

「地球を見たことがありますか」と質問すれば、誰でも「見たことがある」と答えるだろう。本、テレビなどを通し写真、映像を見ているからだ。しかし、実際の地球を眼で見た人は宇宙飛行士くらいしかいない。
毎日の生活でいつも見ている道路や街並み、山や川など、全ては地球のわずかな一部を見ているだけである。地球は大きすぎて、地上にいては誰も見ることができない。

今からおよそ60年前当時、地球儀はあっても、地球を見たことのある人はいなかった。
1961年4月 12日ソ連の宇宙飛行士ウラジーミル・ガガーリンはボストーク1号で史上初めて宇宙飛行に成功。1時間 48分で地球を1周し,「地球は青かった」と宇宙から見た地球の感想を述べた。

人類の歴史上、数千年もの間、地はどこまでも平らだと考えられてきた。天文学者等の働きで地は球体と考えるようになり、太陽を周っていることまでわかるようになった。そしてついに目でその姿を捉え、映像で見えるようになった。初めて美しい、不思議な球体の地球を見たのはわずか60年前のことである。その驚きと感動は想像もできないほどであったことだろう。しかし、今では不思議に思う人もいなくなり、地球は当たり前の存在になってしまった。


不思議とは新しいもの、知らないもの、わからないものに対する人の反応であるように思える。心の繊細さから生まれるもので、自然で自発的な反応と呼べるかもしれない。外からの圧力で作られるものではない。

物事に対する人の反応は様々である。不思議とは思わない人は多い。不思議に思っても、すぐに忘れてしまう人もいる。少数でも不思議に思って調べ、研究するようになる人もいる。何を不思議に思うかも人によって違う。

「今では不思議に思う人もいなくなり、地球は当たり前の存在になってしまった。」と書いた。
三省堂大辞林によると、当たり前とは当然の当て字「当前」を訓読みした語で、①誰が考えてもそうであるべきだと思うこと、②普通、世間なみ、とある。

つまり、「地球ということばを知っているということ」は、それだけ科学が進歩し、それに伴う知識と理解が人々の間に進んでいることを意味している。知識と理解が増したことにより、昔のわからないこと、不思議なことも、そしてそれに伴う恐怖なども少なくなっている。新しい技術により新しい物が作られ、医学が進歩し平均寿命が延び、社会全体が過去と比べかさ上げされていることを意味しているということになる。

「地球ということばを知らない時代」は、それだけ文明が進歩していない状態にあり、それだけわからないことがあり、不思議に思うことも、恐怖に思うことも沢山あったことを意味する。

人類がどれほど進歩しても無限との差は無限大であることから考えれば、わかないこと不思議なことは限りなくあるはずである。ただより進歩している社会では、不思議に思っていた理由がわかるようになるため、不思議に思うことは少なくなるように思える。

昔は、農作物や豊漁の恵みに対しては、その理由がわからないので神に感謝し、災害などの怖いものに対してもなぜだかわからないので安全を神に願ってきた。大自然に対する驚異は神の存在を作り出してきた。

しかし現在、災害が神の意思によるとは誰も考えないようになってきている。農作物の恵みも神の意思とは思わなくなりつつある。それは自然界の働きを知ることにより認識に変化が起きているからである。人類はその自然をよりよく理解するようになり、自然を神とは考えなくなり、逆に自然に対して大きな影響力を持つようにさえなってきている。

昔、太陽の恵みにより農作物の収穫があるので、太陽に、太陽の神に感謝すればよいと考えた。太陽により、雨が降らず干ばつで収穫がなくなり、飢饉が生じた時、太陽をあるいは太陽の神の怒りをなだめるように祈願したりお供え物をしたり、雨ごいをしてきた。これらの現象は、今では自然活動として捉えるようになっている。
台風による災害でたくさんの人が亡くなることもあるが、それは自然の働きだと理解するようになっている。
地震による津波で多くの人が死んでも、今では地震を非難する人はいない。地震は自然界の働きであると理解するようになっている。「神も仏もない」という人は今でもいるが、神が地震を起こして、多くの人々の命を奪っているとは思わなくなった。

日本の台風を例に取ると、昔は台風が何かを知らなかった。いつ来るかもわからなかった。不思議な、わからないものだった。
神風とも呼ばれたように、神様や神様による風だと思った。このため、毎年神仏を楽しませ、鎮めるために、奉納し、安全を願い、豊穣を願い、祭りを行ってきた。
50年以上昔であれば、これらがなぜ起きるのかわからず、不思議なこと、恵みも災厄もみな神によるとしたとしても、それがその時代の認識であった。

今は台風のできる理由、なぜ、どこで発生し、どれくらいの規模で、どちらの方角に向かい、いつ頃日本のどの地域に到達するかまで分かるようになっている。被害の大きさも予想できる。科学の進歩は人間に予想する能力さえ与えている。人間に予知能力がないとしても、人類は知識と理解とその根拠に基づく正確な予想する力を身に着けている。こうした進歩が「地球の存在を当たり前とする認識」の背景にあるように思える。
それでも、それは認識の一面にすぎない。

不思議に思うこと、思えることは大切であるが、不思議の背後に理由があると考えることは必要でも、わからない存在を作り上げることはない。わかないなら、わかないと認め、研究対象にしていくこと、現実を直視することが人類の進歩として必要かつ重要であると考える。

不思議を求める人はたくさんいる。時代の進歩と共に、不思議なものが少なくなっていくせいでもあるのだろう。パワースポットなどもそんな一つに思える。それが本来は昔からある信仰の山であったり、自然崇拝が行われていた場所であったりする。科学が明らかにしてきた事実に反していても、気に留めない人はたくさんいる。科学が発達し、わからないことが明らかになっても、多くの人は不思議にあこがれ昔の不思議に戻ろうとする。しかし、伝統的に霊場とか聖地などと呼ばれていた場所は楽しむための場所なのだろうか。知らないこと、わからないことにあこがれることは、不思議に思うことではないように思える。

不思議なことは遠くに出かけなくても、すぐそばにある。生きもの、人間を含む生命体がそうである。もちろんそう思わない人もいる。・・・ その3に続く


ゆっくりと移り変わる時代は過ぎつつあるのだろうか。今はスマホを使いこなす時代だ。誰もが便利なスマホを使っている。突然使えなくなると、パニックになったりするが、スマホがどのようにして動いているかなど誰も気にしていない。現代はあらゆる分野でその専門家に任せる時代になっているようだ。
大衆は多くを気にしていない。なぜ動くのかなど考えてもいない。考えてもわからない。わかるためには大変な努力が求められる。専門家に任せるしかない。
こうしている内に、大衆は自分で考えることをあきらめ、忘れ、ただ便利なものに従うようになっていく。
人間であることの一番大切と思われる思考力が失われていく。


その3
生命がどれほど不思議かは長い間、気付かなかった。なぜ気付かなかったのか。それは人間の思考では考えられないほど不思議過ぎるからである。昔であれば、「神様が造った」という表現は正に適切であった。それ以上深く考えても、答えはないほど不思議であるからである。
言い換えるなら生命とは「奇跡」に相当するほどの存在であるのに、その存在している背後にある理由がわからない、存在している目的もわからない。不思議過ぎる理由である。生きものがどこにでもたくさんいるから、当たり前だと思ってきた。

つまり不思議であることを解説しないと、わからない。解説してもわからないから不思議なのである。例えば、「朝、起きてご飯を食べる。歩いて学校にいく。学校で学ぶ。」これが不思議だと言ったら、「お前は馬鹿か」と言われそうだ。人間として当たり前のことであるからだ。
これを最先端の技術である人工知能やロボットを作ってやろうとしたら、簡単にできるだろうか。

シリーズ7の5に 現代人が認識すべき現実にある奇跡 として次のように書いた。

「生命体は自然に存在しているように見えるが、プログラムで作られ、動いている。人類はそのほんの一部を、その遺伝子を操作することができるようになった。ドリーは1996年、ほ乳類では初めてクローンにより生まれた羊で約6年生きた。以来、他のクローンがたくさん誕生している。遺伝子操作により光る花や魚も作られている。
 
人類は存在している生命体から多くを学び技術に生かしてきた。身の周りの見慣れた生命体の存在の方が、人類が作ったものよりも、はるかに進んだ技術で作られているということである。

生命体の存在は奇跡である。人間の存在はその中でも最大の奇跡と呼べるかもしれない。人は子供が生れてくることを自然で、当たり前だと思っている。そのプログラムが人類の科学を超えていることを認識することができないからである。

人間の場合、わずか針先くらいの受精卵は母親の胎内で分裂を繰り返し、およそ10か月で赤子を出産する。一つ一つの細胞に人間となる設計図がプログラムとして書き込まれている。

受精卵はいろいろなものになる万能細胞である。分裂を繰り返す。しばらくは対称分裂を繰り返す。同じ細胞が作られる。将来どの細胞が何になるかは決まっていない。
およそ1週間以内で対称分裂は終わり、非対称分裂が始まる。その後はすべてプログラムの目的に従って創られていく。目的以外のものにはならないように制御されている。
分化によってその目的に従って、目、鼻、口、耳、手、足、指、頭、心臓、胃、肝臓、すい臓、膀胱、血管、神経、骨、髪の毛、爪、皮膚等、それぞれの細胞が創られていく。後戻りすることはない。このように、初めの受精卵から人間として必要なすべてが創られる。」

針先ほどの細胞から一人の人間が造られ生まれる。人間として必要な情報すべてがその細胞の中にある。 

「ひとりの人間として誕生してからも、脳はその体をコントロールし、成長を含む様々なホルモンの分泌、呼吸・体温・血圧・食欲・性欲・消化機能の維持・管理、心臓の制御、体内時計等、想像を超える働きをし続ける。

人間の細胞一つ一つに遺伝子が組み込まれている。遺伝子は分子言語でできている。プログラムである。遺伝子操作はすでに人類が行い、活用している技術である。その技術を使い、新たな生命を創ることはすでに始まっているかもしれない。

人間が遺伝子を操作するように、高度な知能を持った他の生命体がすでにある素材を利用して現在の地球上の生命体を作ったとしてもおかしくはない。

倫理面を別にすれば、人類も新たな生命体を創り出すことは難しいことではない。ただし、新たな生命体を創ったとしても、その遺伝子を創ったわけではない。利用することができたという意味である。」

人類は科学の進歩により、遺伝子の研究を通して、すでに動物でクローンの複製を作った。
人類はかつて天地の創造者なる神がアダムを創造したと信じてきたが、現人類は新たにアダムに相当する人間を創ることができる。言い換えるなら、人類はアダムの創造者と同じ立場にあり、昔の表現を使うなら天地の創造者なる神になっていると表現できる。
しかし、クローン人間さえ創れる高度な技術を持っていても、その生命体の一つの細胞を造ることが全くできない。これは不思議なことになるのだろうか。


その4
生命の存在は不思議である。知的生命体の存在は大変不思議である。現時点では宇宙の中での人間の存在ほど不思議なものはないだろう。もちろんそう思うかどうかは人による。

思い付き☆4に、素朴な質問 「物って何だろう、命とは何だろう、宇宙って何だろう」を書いた。

「昔、人は自然にこうした疑問を持った。今でも子供たちは、いろいろなことに興味を持つ。「これ何かな」と不思議に思う。
人類はこの「何だろう」という質問に答えるために、数千年という時間を費やしてきた。

物質とは何かを研究してきた。物質はすべて元素で創られている。すべて物質は原子でできていて、原子は原子核と中性子と電子、それぞれはクォークという粗粒子からできている。物質はすべてエネルギーである。

生命とは何かを研究してきた。生命はそれぞれの遺伝子(分子言語でできたプログラム)からできていて、ゲノムという。人間の場合はヒトゲノム。

宇宙と何かを研究してきた。宇宙には2兆もの銀河があり、人類が所属する銀河系には2000~4000億個の恒星があり、その一つの太陽系に地球が所属している。

これらの答えは初めの素朴な質問にうまく答えているように見えるが、実はそうではない。「何だろう」という質問は、構成要素のことだけ、広さのことを指しているのではない。
「どうしてここにあるのか」という問いでもある。なぜあるのかという問いである。存在理由である。

数千年の歴史をかけても人類はこの基本的な質問に対する答えを未だ得ていない。
答えは永遠にわからないのかもしれない。」 存在理由がわからないことこそ、一番不思議なことなのかもしれない。

存在理由がわからないことは答が無いという場合と、他に理由がある場合があるのかもしれない。存在理由とは製作者がいるかという問いでもあるが、人間の思考を超えた存在であればわからない場合もあるのではないか。

物質と宇宙と生命に製作者はいるかという問いに答えは無いと思ってきたが、生命については部分的ではあるが、制作者がいることが明らかになってきているように思える。制作者は考えてもわからないから神様にしてきたというような存在ではない。人類が新たな生命体を造れることがその理由である。人類に新たな生命が作れるなら、人類だけでなく高度な技術を持つ知的生命体であれば生命体を造れることを意味する。

創世記の記録から読み解く「聖書の神の真実の姿」のなかで、アダムを創造したのは存在がわからない神ではなく、高度な技術力を持つ知的生命体であることを書いた。創世記には、初めの人間がその生命体と同じかたちに造られたと書かれている。

数千年にわたり人類は間違った解釈を行ってきたのではないか。創造者を全能の神などと全く間違った考えを作り出し、持ち続けてきた。創世記には天地の創造者なる神が同じかたちになるよう人間を造ったことが書かれている。つまりここでいう創造者は同じかたちの生命体である人間のことである。この考えが正しければ、部分的ではあっても、真実は人類の歴史の初めから告げられていたことになる。

現人類が新たな生命体を造れるという事実は、過去において高度な技術を持つ知的生命体であれば同じように生命体を創れることを意味する。
宇宙の中ではおよそ1万年経つごとに、知的生命体の文明は高度に発展し、そして滅びることを繰り返してきたとも考えられる。人類の歴史ははるか昔からあるのかもしれない。


その5
自然界には秩序があるように思える。人間であるゆえにそう思えるのだろう。

実際に自然界を研究することにより人類が作りあげた物理学、数学を応用することによりロケットを作り、地球以外の月や火星にまで行く時代がやってきている。医学の進歩により人の寿命は延び、遺伝子操作の技術により新たな生命の誕生も間近に見られるかもしれない。

自然ということばは地球上のものが中心だったが、これからはさらに広い空間も指すようになるのだろう。太陽系、銀河系、そして2兆もの銀河を含む無限の広がりを見せる全宇宙を意味するようになるように思える。

昔は自然と自然の中にあるものを神と考える時代が長く続いた。今はそう考えなくなってきている。自然現象の背後にある様々な理由がわかるようになったからだ。人類は自然を理解するようになり、わからないという理由で恐れを抱くことも、神様を作ることもなくなってきている。

途方もない考えではあるが、大自然の全宇宙もやがて人類により自然現象の背後にある様々な理由を見つけ出し、わからないことは永久にあるはずであるが、無限に広がる宇宙には自然を神とするわからない存在はないことがわかるようになるのかもしれない。

全宇宙の創造者としての神は宇宙の中に存在していると考えられてきたが、全宇宙の創造の始まりの時点で別に存在していたと考えることができるように思える。宇宙ができる前、全ての物質も素粒子の世界もあらゆる生命体のできる前の話である。
その時点で宇宙を創ろうとする意思はあったのか。生命を創ろうとする意志はあったのか。意思を持つ存在はあったのか。全宇宙のエネルギーの源には意思はあったのだろうか。

人間にはわかりようのないことであるが、それでもそうした存在はあったのではないかと考えることはできる。

宇宙ができる前に何が存在していたのか。その存在に人格があるかという質問は無意味であるように思える。人間を超越した存在であり、地球も人類も未だ存在しない想像の世界での話である。わからない存在を人間のように考えることは間違いだろう。その存在を人間並みに人格があるかという質問は馬鹿げているように思える。あえて表現するなら人格ではなく、神格はあったのかになるだろう。しかし、人類には想像もできない存在のことである。

神を一人などと考えることさえ意味はないように思える。一人とか複数かと考えるのは人間に人間という思考の枠があるからだ。

今一度、神ということばの意味を考え直す必要があるのではないか。
神は全知、全能であると考えるようになったが、人類は全知、全能ということばの意味も解らずに使ってきた。そこで、人類に求められている「真実の神への理解と認識」をテーマとして考え、紹介してみたい。

マイケル アレフ 2019年2月