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マイケルアレフのことばの認識は世界を変える キリスト教が日本に伝えた愛は、それまでに日本で使われていた「愛」ということばの意味とは大きく違っていたように思える。イエスが教え説いた愛は、彼が生まれたユダヤにおいてもそれまでのものとも大きく違っていた。新たな愛、衝撃的な愛だった。イエスの示した愛はなぜ、どのように違っていたのか。しかし、イエスにより示された愛でも、その追随者の大半の間ではすでに失われてしまっている。むしろ人間として目覚めた人達の中にその愛は今も生きているのではないか。 ことばの認識は世界を変える シリーズ12 「愛」について考える (2018年4月) Part I 「 愛」ということばについて 内容: 1.旧約聖書の中に書かれている愛ということばの歴史 ・ 人類史上初めて使われた「愛」ということばはどのような意味であったか。 ・ アダムの記録から2000年にわたる創世記の歴史の中で「愛」はどのように使われているか ・ 創世記以降の出エジプト記、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記、などの書に見られる愛の表現 2.新約聖書の中に書かれている愛について ・ ユダヤ人として生まれたイエスの背景について ・ 「愛」の教えはどのようにそれ以前のものと違っていたのか。 ・ キリスト以降、使徒ヨハネ、パウロは愛についてどう表現しているか。 ・ イエスが生まれたユダヤの背景について 3.イエスはなぜ「神を愛しなさい」と、人間にはできないことを教えたのか。 なぜ、信じる人には永遠の命があると約束したのか。 (聖書からの引用は主にBible Gatewayを、ローマとユダヤの歴史に関しては塩野七生氏のローマ人の歴史を参考にさせていただいている。) ことばの認識は世界を変える シリーズ12 「愛」について考える Part I 「 愛」ということばについて 1. 聖書の中に書かれている愛ということばの歴史 ・ 紀元前4000年頃に書かれたとされる創世記の初めの部分は、アダムに関する記録として書かれている。恐らく人類史上に残る「愛」ということばの初めて使われた例である。 愛ということばは創世記4章1節にこう書かれている。 「アダムは妻イブを愛した。彼女は妊娠し、カインを生んだ。」 初めに出てくる愛は、愛を交わすという表現で性行為を行い妊娠し、子どもができたという意味で使われている。 他にも、カインは妻を愛し、彼女は妊娠し、エノクを生んだ。 アダムは再び妻を愛し、彼女は息子を生み、セツと名付けた。(創4:17、4:25) このように初めに出てきた愛ということばは性行為を含む愛という意味で幾度となく使われている。 人類が存続してきたのはこの愛による。愛がなければ人類は存続できなかった。人類が存在しないなら、全てはないのと同じである。確かに愛こそすべてである。少なくとも現在に至るまで愛こそすべてであった。 しかし、現代の人類にわかってきていることは、この意味の愛はすでにすべてではなくなっていることである。すでにクローン技術があり、人の細胞からでさえ人間の複製が可能であることがわかってきている。人類の未来では、愛こそすべてとは言えなくなるかもしれない。 ・ アダムの記録から2000年にわたる創世記の歴史の中で「愛」はどのように使われているか 「神はアブラハムに対してあなたの息子、唯一の息子、あなたが愛するイサクをモリアの地に連れていき、私が示す山で燔祭(はんさい、焼いたいけにえ)として捧げなさい」と命じている。(創22:2) 父親が息子を愛する、親子としての愛が書かれている。 (注記1:当時のこの神からの命令はアダムの時と同じように人間の忠誠心を試すものであるが、決して許せるものではない。このことは神の側に問題があったことを、アブラハムの子イサクを犠牲として捧げなさいという命令について、の中に説明を試みた。) ヤコブはラケルを愛した(恋をした)。(創世記29:18-20) 「私(ヤコブ)は、あなた(ラバン)の娘ラケルのために7年間あなたに仕えます。そこでヤコブはラケルを得るために7年間仕えた。しかし、それは彼女に対する愛ゆえにほんの数日のように思えた。」 異性に対する思いとしての愛として表現されている。 しかし、父親ラバンはラケルをヤコブに与えず、その姉レアを与えた。ヤコブはさらに7年間愛するラケルのためにラバンに仕えることになった。 イスラエル(ヤコブに与えられた別名)は他の息子たち以上にヨセフを愛した。自分が愛したラケルの子であり、年老いてからの子であったからである。 父親が年老いてから生まれた子を特別に愛したことが書かれている。(創17:3) ヤコブには12人の息子がおりイスラエル12部族の基となった。 愛ということばは、旧約聖書の中で425回、新約聖書の中で261回使われている。 十戒に関する二度目の記録がある。神がモーセに対し二つの石板を用意するようにと指示した。翌朝早くモーセはシナイ山に登った。すると神は雲の中に下りてこられ、このように宣言された。 「怒るのに遅く、愛にあふれ、忠節な神」 と表現されている。(出エ34:6) ・ 創世記以降の出エジプト記、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記、などに見られる愛の表現には、同じ「愛」という表現でも、時代が変わると共に、広い意味で使われるようになった。 モーセの後継者のヨシュアは約束の地を攻略したが、ルーベン族、ガデ族、マナセ族に対し、神を愛し、忠誠に生き、命令を守り、心を持って仕えるように訓示した。 「神を愛する」という表現が出ている。(ヨシュア記22:4) 約束の地が一部が平定された後、士師の時代が続くが、サムソンとデリラの記録がある。 (士師記16章‐) サムソンはペリシテ人の地でデリラに恋をした。敵のペリシテ人はデリラに話を持ち掛けサムソンの力の秘密を教えてくれたら宝石を与えると約束する。デリラはサムソンに力の秘密を教えてくれるように誘惑する。 サムソンは簡単にはその秘密を教えず、違う理由を伝える。ペリシテ人はその情報をもとにサムソンを襲う。 こうしたやり取りの後、デリラはサムソンが力の秘密を明かしてくれないことに対し、どうしてあなたの「愛している」と言うことばに確信が持てるのかと迫るのであった。男女の愛の難しさが描かれている。 イスラエルの初代王となったサウルの息子であるヨナタンはダビデを「自分自身のように愛した」と書かれている。(サムエル記上 18:1) ペリシテ人との闘いの中で若いダビデが巨人ゴリアテを倒し、殺し、その力をますます強くする中で、サウル王の息子は同じ男であるダビデに対して愛するという表現を使っている。 ダビデはヨナタンを失った後、「私の兄弟であるヨナタン、あなたの私に対する愛は女性たちのものよりすばらしいものであった」と表現している。(サムエル記下1:26) ダビデ王が自分の子アブサロムを失った悲しみに暮れている時、ヨアブはダビデ王に対し「あなたはあなたの家臣をさげすみ、あなたを憎むものを愛し、あなたを愛するものを憎む」と告げた。(サムエル記下19:6) 人の状況によっては間違った愛もあることを諭している。 ダビデの息子であるソロモン王が書いたとされる言葉には愛について次のような表現がある。 あざける人をとがめてはならない。彼らはあなたを憎むであろう。賢い人をとがめなさい。彼らはあなたを愛するであろう。(箴言9:8) (懲らしめの)杖を惜しむ人は自分の子供を憎むことである。子供を愛する人は子供を鍛えることに注意を払う。(箴言13:24) お金を愛する者は決して満足することはない、富を愛する者は自分の収入に満足することはない。(伝道の書 5:10) 以上のように、イスラエルの歴史(旧約聖書)の中には、愛という表現が多く使われている。その意味は時代と共に変わってきていることがわかる。 古代ギリシャでは愛という表現を、愛する対象によって四つに分けて考えたとされる。 アガペー (真 の愛)、ストルゲー (家族愛)、エロース (性愛)、 フィリア (隣人愛) である。 古代イスラエルの歴史の中にこれらの愛すべてが含まれているように思える。 2.新約聖書の中に書かれている愛について ・ ユダヤ人として生まれたイエスの背景について イエスはユダヤ人として生まれ、数千年も続いてきた先祖代々の宗教ユダヤ教の下で、天地の創造者であるアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神を信じ、旧約聖書のことばを信じ、モーセの律法の教えに従い、伝統を重んじ、30歳になるまでは父ヨセフの下で大工として働いていた。 ユダヤ人とはイスラエルという名を与えられたヤコブの12人の子の一人ユダの子孫である。かつては12人の息子から12部族となり、イスラエル国家を作り、ダビデ王、栄華をきわめたとされるソロモン王がいた時代もあった。イエスはその血を引く家系に生まれている。 イエスのことばは当時のユダヤ人には衝撃であった。同じ神を信じていながらイエスが違う生き方を説き始めたからである。それ故反対者も多かった。 イエスはモーセの律法下に生まれた。イエスは知っていた。そして信じていた。 かつて神はアダムに善悪の木の実を食べてならないと命令を与えたが、アダムはそれに背いたため、エデンの園を追われた。 神がノアの時代に巨大な箱舟を建造するように指示し、それによりノアの家族と動物等を除き人類が大洪水により滅ぼされたこと。そしてノアの子セム、ハム、ヤペテを通して新たな人類が造られたこと。 アブラハムには自分の子イサクを犠牲にするよう要求した。 神の義に沿わないソドムとゴモラに住む人たちは火と硫黄で焼き尽くされた。 イスラエルと名前を変えるよう指示されたアブラハムの孫にあたるヤコブは飢饉があった時にその家族およそ70人と共にエジプトに下った。アブラハム、イサク、ヤコブの神は約200年後、エジプトで苦役にあえいでいた200万人に膨れ上がっていたイスラエル人をモーセにより救出した。その際の十の災いの最後の過ぎ越しの祭りは、神がイスラエル人をエジプトでの苦役から解放したことを決して忘れてはならないと毎年祝うように指示したものである。 それは入り口に子羊の血を塗ること、それを信じ行動することで長子が殺されない、過ぎこされることを意味した。信じないエジプトの長子は大人から子どもまで、ファラオの長男も死んだ。 エジプトのファラオの軍隊はイスラエル人を追って紅海の藻屑と消えた。 モーセを通し十戒を初めとする多くの律法が与えられ、イスラエル人はその契約の下におかれた。 シナイ山でモーセは40日40夜飲み食いせずに神と共にあった。神は石の板に契約のことばを書いた。十戒である。その初めの十戒の石の板はシナイ山を下りてきた時にモーセの怒りにより砕かれてしまった。イスラエル人が金の子牛の像を造り、エジプトから救出した神だとお祭り騒ぎをしていたからであった。 天地の創造者である神は、偶像崇拝を明確に禁じた。神はその愚かなイスラエル人を40年にわたり荒野で生活させ、約束の地に入ることを許さなかった。モーセも約束の地を踏むことはなかった。 この一連の流れは神が族長アブラハムにカナンの地を見せ、その土地を子孫に与えるという約束に基づいていた。 モーセの後継者となったヨシュアは神の指示により、このカナンの地にいる神に敵対する多くの民族を滅ぼし自分たちの土地にしていった。 カナンの地に入ってからサムソン等の士師の時代、ダビデ、ソロモンの王の時代、ソロモンの子レハベアム王の時に国は2つに分かれ、サマリアを中心とする10部族で構成される北のイスラエル王国、2部族で構成されるエルサレムを中心とするユダ王国に分かれた。その後イスラエル王国はアッシリアにより滅ぼされ、ユダ王国もバビロニアによって滅亡、その民はバビロニアへ流刑にされた。 神は厳格で正義の神であり、敵を滅ぼすことなど問題としない力ある存在であった。人類の歴史の初めから忠実でない者には恐ろしい神であった。人間に絶えず忠実さを求めた。 モーセの十戒の初めにこう書かれている。 私はあなた方をエジプトの奴隷の地から導きだした神である。私以外に神はいない。 主の憎まれるものが六つある、否、その心に、忌みきらわれるものが七つある。すなわち、高ぶる目、偽りを言う舌、罪なき人の血を流す手、悪しき計りごとをめぐらす心、すみやかに悪に走る足、偽りをのべる証人、また兄弟のうちに争いをおこす人がこれである。(箴言6:16―19) 聖書の神は実は固有の名前を持ち、創世記2:4に初めて出てくるが、その名前は数千回も書かれている。それはヘブライ語で יהוה と書かれる4つの子音文字で構成され、神聖四文字、英語表記ならYHWH 、テトラグラマトンと呼ばれる。神の名前である。正確な読み方は分からないとされ、主、神などに置き換えられてきた。しかし、書かれている名前を隠すのではなく、正しく使うべきと「ヤハウェ、ヤーウェ、エホバ」など、今でもその表現を使う人々はいる。 (注記2: 神の真実の姿の中で説明を試みたが、個人的には創世記の記録の内容から、天地の創造者は高度な科学技術を持つ知的生命体のことではないかと書いた。テトラグラマトンはその知的生命体が崇拝していた神の名前をそのまま人類に提示したものではないかと考える。 人類の初期の人間から見ると天地の創造者は絶大な力を持つ神に思えるが、現代科学が明らかにしている事実からすると、あまりにも小さな存在になってしまっている。明らかに全知・全能、無限、絶対という表現には全く程遠い存在である。) ・ イエスが語った「愛」はどのようにそれ以前のものと違っていたのか。 イエスもイスラエル人も見えない神ヤハウェを全能の神と信じていた。上記の例に示されているように、忠実なものには恵み深くても、不忠実な者には恐ろしい存在であった。ところが、イエスはそれまでの神のイメージとは全く違うことを説明し始めた。イエスの教えは、正義、忠節を求めてきた神への理解を一変するものであった。 「あなた方は、隣人を愛し、敵を憎みなさいと聞いている。しかし、わたしはあなた方に告げる。 あなたの敵を愛しなさい。あなたを迫害する人のために祈りなさい。(マタイ5:43,44) なぜなら天の父は邪悪な者の上にも善良な人の上にも太陽を昇らせ、義なる者にも不義なる者にも雨をふらせてくださるからである。あなたを愛する人を愛したとしても、何の報酬を得るのか。取税人でさえそうしているではないか。」 (注記3: 敵とは何か。ユダヤ人にとって敵とは自分たちの宗教に理解を示さない者たちであった。それは自分たちが信じる神の敵のことである。神の正義による敵である。ノアの時代の大洪水で滅ぼされた人類。イスラエルを苛酷に扱ったエジプト人。約束の地に住んでいたカナン人。たくさんの敵がいたが、当時はローマ帝国と考えていた人は多かったと思われる。 本来、敵とは「昨日の敵は今日の友」ということばがあるように、敵は人間であり、人間は変わる存在である。良い人にもなれば、悪い人にもなる。今日の友でさえ、明日は敵になることも考えられる。 神により善悪が決められた。しかし、悪人と決めつけ、敵にしてよいものか。その人の考え、価値観、状況で敵が作られる。敵は本来いない。敵は自分の中にある。それは人間の心にある。人間の想像力が勝手に理由を見つけ敵を作り出す。 敵はいない。一時的な意味で使われるとしても、敵がいるという考え自体は間違いである。 イエスの時代は地球という考えを知らなかった。地球が宇宙の中心であると考えていた。地球が自転していることも、太陽の周りを回っていることも知らない。善人も悪人の上に太陽を昇らせ、雨も降らせると言えば、人々は神の愛を理解するのを助けた。しかし、時代と共に考えは変わっていることに気付かなければならない。自然により起きる大災害は神の意思など関係なく起きるからである。人は不幸に直面すると「神も仏もない」などと嘆く。人の勝手な思い込みで「神も仏も作ってきた」からである。) 「イエスは沢山ある律法の中から中枢となる教え二つを説いた。 一つは神を愛しなさい。 二つ目は隣人を愛しなさい、である(マタイ22:37‐29)。 新しい命令を与える。互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、愛し合いなさい。(ヨハネ13:34) 天の父が私を愛したように、私はあなた方を愛した。さあ、私の愛の内にとどまりなさい。(ヨハネ15:9) イエスはこれまでの「正義、忠誠、献身」を要求してきた神から、「愛」の神に変わったことを説明し始めたのである。イエスは確かに自分を犠牲にすることで愛を示した。 (注記4: 本来、神は間違えることはなく、変わることも、その必要もないはずである。ユダヤの神は全能の神である。なぜ変わるのか。変わる必要が生じていたからだと考えられるが、それでは、今までの神が間違っているからということになる。言い換えるなら、神に矛盾が生じている。神が何かがわかっていないからこういうことになるのではいか。 神は愛である。神はユダヤ教、キリスト教、イスラムの一神教、多神教などさまざまである。偶像崇拝も神の崇拝の一つの形である。 神ということばも、愛ということばの意味も定義もはっきりしていないように思える。 神は信じている人にとっては神であっても、信じていない人にとっては神ではない。 神の定義をはっきりさせない限り、愛の対象とすることはできないのではいか。 ユダヤの神は愛であると信じていても、同じ神は過去において敵を殺すことを奨励した。これは自己矛盾である。 イエスの新たな考えは、それ以前の神の責任を全く無視したものである。神が昔行った人類の大量殺戮は許さるのか。過去の清算はなされないでよいのか。 人によっては、神は全能で何をやっても許されると思う人もいるかもしれないが、それは許されるのではなく、人の勝手な思いこみである。矛盾が生じるのは、その神が全能ではないからであることに気付かなければならない。 なぜ矛盾がおきるのか。それは人間が考え出したものであるからである。 ことばの定義「信じる」の中に以下のことを書いた。 「人間は間違える存在である故、完全ではなく、絶対もない。 しかし、人間は完全ではないからこそ、そこに進歩できる理由がある。 間違いを反省し、改善し、進歩することができる。 100%間違いないことは、進歩を否定することと同じなのだ。 完全とは人間の進歩することを否定することであり、人間の持つ自由を否定することでもある。」 人間の考えで神を勝手に想像するから矛盾が生じる。人間が作り出した神様はその時には問題はなくても、全ての時代に対応することはできない。) ・ キリスト以降、使徒ヨハネ、パウロは愛についてどう表現しているか その意味を考える。 イエスの弟子ヨハネはその第一の手紙の中でこう記している。 「わたしは神を愛する」と言いながら人を憎んでいるなら,その人は偽善者だ。すでに見ている人を愛さない者は見たことのない神を愛することはできない。」 (ヨハネ第一4:20) (注記5: その通りであると思える。人間は見ている人を愛していると言えるのだろうか。人を憎まなくても、人を裁き、自分より劣る人間とみなしてはいないだろうか。争いが絶えないのはなぜか。自分の利益をまず考え、自分の生活、自分の命こそが重要だと誰でも思っているからではないか。それで人を愛していることになるのか。 世界大戦を戦ったのはキリスト教の国の人々が中心であった。自分たちが戦争に勝つことを神に願い、祈った。それ以前も、キリスト教を信じている国が人々が戦争をしている。そして想像を絶する数の人間が殺されてきた。戦争が終わらないのは人を愛していないからではないか。であれば、神を愛することなどできるはずはない。) ・ 使徒パウロはコリント人へ宛てた第一の手紙13章の中で愛について書いている。 パウロは愛の定義については書いていない。愛があれば、こういう結果が表れると表現しているだけである。 愛とは何かを明らかにしていない。愛とは何かがよくわからない。自分の思いを書いただけに思える。当時としてはこの内容でよかったのかもしれないが、今ではかなりの矛盾を含んだ内容であり、愛の意味がわからないから一方的に自分の考えを書いているように思える。 「愛がなければ、自分の全財産を人に施しても、自分を犠牲にしても、いっさいは無益である。(1コリント13:) (注記6: しかし、愛があるかどうかに関係なく、仮に愛がなくても、全財産を社会のために寄付し、ボランティアとして働くことは決して無益ではない。) 「愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」 (注記7: 愛ということばの意味が書かれていない。愛の定義が書かれていない。愛が何かがわからない。ただ、愛があればこうした資質が表れるはずだと書いている。不義とは何か。真理とは何か。すべてとは何かがわからない。当時人々は定義も説明も必要としていなかったと思われる。理解する必要もなかったのだろう。ただ信じればよかったのではないか。) 「愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。 愛があれば寛容で、情け深く、ねたまず、高ぶらず、誇らず、不作法をしない。また自分の利益を求めず、全てを望み、全てを絶える。 (注記8: 不義ということばは当時の信じる人々の価値観であり、今の時代に通用するものではない。真理の理解も当時のものである。すべてを忍び、信じ、望み、耐えることはあり得ない。 すべての定義があいまいである。愛は絶えないとあるが、愛は絶えることもある。いつまでも存続するものに信仰をあげているが、信仰はいつまでも存続するものでもない。今までの信じることには間違いがあるからだ。 自分たちの信じていることだけに基づいて考えているが、それは「井の中の蛙大海を知らず」と同じ意味である。 希望も信じていることに基づく希望であり、信仰に問題があるなら、その希望は存続できない。愛とはキリストの愛、神の愛などと説明されてきているが、その信仰に間違えがあれば、その愛も間違いであることになる。 神に関する考えはすでに古代と現代では大きく違っている。2000年前の考えをそのまま、何の疑いも抱かずに、受け入れてよいはずはない。 当時は、地はすべての中心で、どこまでも平らであり、地球という概念もなかった。 音とは何か、なぜ聞こえるのか、光とは何か、物質と何か、物はなぜ落ちるのか、空気の存在など、今では基本的なことで、誰でも知っていることが未だ全くわからない時代であった。人が飛行機を作り、空を飛び、宇宙に行くことなど思いつくことさえできない時代であったことを思い起さなければならない。 地球の周りだけ、空や雲の上にいる神様を知っていると信じていても、今や太陽系に属する地球であり、太陽は銀河系の中の2000~4000臆ある恒星の一つに過ぎない。神様をどの程度の存在と考えているのだろうか。NASAによれば宇宙には銀河が2兆ある。神様はそのすべてを創ったと考えるなら、地球上の神様はあまりに小さい存在でしかない。それでも人間は、地震、雷、台風、など自然を前にすれば、大自然に恐れおののく。ことばとしては地球の大自然でも、宇宙の大自然に比べれば、無いに等しいものである。人間にはそれがどれほど小さくても、大きく大自然に見えるだけである。) イエスが生まれたユダヤのその後について イエスの時代、ユダヤ教の神はエルサレムの神殿を中心に、神に選ばれた民であるユダヤ人によって信じられていたが、イエスは、神はユダヤ人だけの神でなく、どの人々で受け入れてくださると説き始めた。神殿など関係なく、どこにいても崇拝することができるようになると教えた。エルサレムが滅びることについても語っている。それまでにない新しい考えであった。イエスは自分を神だと言ったことは全くなく、神の子と表現していた。 時代はユダヤが長くは存続しないことを示していた。自分たちだけの宗教を持ち、自分たちは神に選ばれた選民であり、神によって守られると固く信じていた。自分たちだけの強い精神を表し、宗教では決して妥協することはなかった。 この時すでにローマ帝国の支配下に置かれていたが、ユダヤ人は過去の神の偉大さを過大評価する故に、ローマ帝国さえユダヤの神の前には勝つことなどできないと信じていた。 少し考えてみれば以前の北のイスラエル王国もアッシリア帝国によって、南のユダ王国もバビロニア帝国によって滅ぼされた過去があった。ユダヤ人は流刑の経験をしていた。そういう事実は時が経つと忘れてしまうのだろうか。 当時広いローマ帝国内ではギリシャ人やユダヤ人は自分たちのコロニーを作っていた。ローマはローマに反抗しない限り、問題を起こさない限りは、宗教も伝統も許し、自治権を認めることさえしていた。全てのユダヤ人が問題になることはなかった。ユダヤ人でもキリスト教を信じるようになった人、改宗した人はかなりいたと思われる。 しかし、エルサレムを中心にユダヤ教を信じる過激な人々、それを支援する人々が、ローマに反旗を振りかざし抵抗することを始めた。エルサレムを中心としたユダヤ教が問題の根底にあった。先祖代々の教え、しきたりを守ることだけしか考えていなかった。西暦66年頃のことである。第一次ユダヤ戦役がローマ帝国との間に始まった。時の皇帝ネロはこの戦役を鎮圧するよう将軍フラビウス・ヴェスパシアヌスを任命した。 ローマ皇帝ネロは反抗的なユダヤに対し、自分の等身大の像を造りエルサレムの神殿に置くよう部下に命令していた。部下はユダヤ人に知られることを恐れ、実行をためらっている内にネロは自殺し、実現することはなかった。しかし、戦争は始まった。皇帝が死んだため、第一次ユダヤ戦役が中断した。エルサレムを囲んでいたローマ軍はその囲みを一時解いた。およそ1年半にわたって中断することになった。 ユダヤ人はこの機会を利用しエルサレムをより強固な砦にした。キリスト教に改宗していたユダヤ人はこの機会にエルサレムを後にした。ローマ軍は再びやってきた。そして西暦70年エルサレムは陥落した。この時、先の将軍ヴェスパシアヌスは第9代皇帝となるべくローマへ、その長男ティトスがエルサレムを攻略する責任を任されていた。 西暦70年のローマとの戦争でエルサレムが陥落した後も、ユダヤ人もユダヤの土地もエルサレムもまだ残されていた。ユダヤ人のエルサレムからの完全な離散(ディアスポラ)は西暦134年皇帝ハドリアヌスの時に実行された。 西暦132年エルサレムでユダヤ教徒が再び反乱を起こし戦争となった。西暦134年エルサレムは陥落し、50万人ものユダヤ人が殺されたとされる。この時からローマ帝国のこの地区の属州名はユダヤからパレスチナに変更された。 こうして神がアブラハムに約束したカナンの地、ペリシテ人の土地と呼ばれたパレスチナからユダヤ人はいなくなった。 それから1700年近くが過ぎ去った西暦1800年代になってシオニズムと呼ばれるユダヤ国家建設の動きが出てきた。 第二次世界大戦中ドイツではヒットラーによるユダヤ人粛清でユダヤ人が強制収容所などに送られ、組織的にガス室などで殺害された。その数1000万人ともいわれる。こうした背景もあってか、ユダヤ人は1948年5月14日に自分たちの国を再建した。今のイスラエルである。 3.イエスはなぜ「神を愛しなさい」と、人間にはできないことを教えたのか。 なぜ、信じる人には永遠の命があると約束したのか。 人間は人生においてたくさんの問題を抱える。確かなものがない。全ては消え去るものである。人間の間に確かな信頼もないように見える。ことばに信頼がない。自分という存在も一時的なものである。人生はあっという間に過ぎてゆく。すべての人が死んでいく。 確実に信頼するものがない。永続するものが無いように見える。 だから人間は不安であり、孤独であり、人生は悩みに満ちている。人は確かなものを求めている。 それ故、人はないものを求め、想像し、作りだしてきた。そしてそれを信じるようになった。 人は信じるものを必要としてきた。神様、仏さま、愛、正義、イデオロギー、人によってなんでもよかった。 イエスは「神を愛しなさい」と教えた。それまでのユダヤ教からの解放が必要であったからである。(注記4) イエスは永遠の命を約束した。永遠の命は存在しないが、そう信じれば存在するようになる。 これが、イエスが伝えようとしていた本質ではないか。 人間は苦難からの救いと未来への希望を求めている。確かなものが必要である。現実には確かなものは存在しない。絶対確かなものはないが、それは信じることによって生まれる。永遠の命とは、人が救いを得るために、また希望を持つために語ったイエスの約束である。イエスは信じることにより、約束が真実になることを知っていた。この場合の真実は架空のもの、想像物である。 信じることで救われるのは、確かなものがこの世にないからである。 永遠の存在である神も永遠の命も人間には理解不能なものである。だから信じる対象としては問題が起きないと考えられる。当時はそう考えられた。イエス自らもそう信じていたのではいか。 2000年後の現在、人類は人間の命が遺伝子により造られることを知り、理解するようになり、新たな命さえ創ることが可能になっている。宇宙は無限の広がりを見せている。 時代が変わり、知識と理解が進歩し、新たな技術が開発され、火星に人類が行こうとする時代である。 しかし、人類の大多数は今も昔のままの神を信じ、奇跡を信じている。 確かに信じることは救いにつながる。しかし、間違いをそのまま信じることは愚かである。 歴史はその間違い故にたくさんの人が殺されたことを記録している。 確かなものが無いという現実を直視すること、その現実を受け入れることこそ、人類のあるべき姿ではないか。 その確かなものが無いという現実の中に、永遠に広がりを見せる宇宙、極微の素粒子の世界が存在している。人類には全く理解できない無限の世界の存在があることを示している。それは現実である。 イエスは永遠の命を約束したが、永遠の神が約束していないことを信じさせることは間違いである。想像上のもの、架空のものを信じることは現実にそぐわない。 間違いではなく、真実を信じること、現実を受け入れることこそ人類が必要としていることではないか。 無限の宇宙という世界が存在する以上、その現実を認識できる以上、絶対者の存在を認め、信じることに意味があると思われる。 昔は信じる対象はなんでもよかった。今はそうはいかない。間違いはすぐに間違いであることがわかる。これが絶対者の存在を信じることの意義につながる。 無限を、無限の世界を人間は理解することは不可能である。その一部を想像するしかできない。あまりにも大きすぎる、小さすぎる、無限の存在を人間が理解することなど到底できることではない。 しかし、現実の宇宙を見ることができ、極微の世界を知ることができるなら、無限にあるその存在を現実として認識できる。そのすべての創造者として絶対者の存在を認めることは理にかなっているように思える。 「神をほめたたえよ」などと様々な宗教が教えてきたが、絶対者は、ほめたたえられることなど全く望まない。絶対者にとって全く無意味なことである。神をほめたたえることは人間並み、実に次元の低い人間レベルの話である。もしほめたたえられることを願う神であれば、それは明らかに人間並みの存在であり、無限の神、絶対者などではない。 絶対者(神)は、人が何か悪いことをすると罰するという次元の低い存在ではない。絶対者の前では、すべては明らかなのであるから、隠すことにも意味がない。誠実に生きれば恐怖はない。人間として謙虚に、安心して生きていくことができる。悩む必要もない。死を恐れる必要もない。すべてを感謝することができる。最善を尽くして自分の命を全うするだけで十分である。」 少し考えてみれば、人類か過去において創り出した様々な神、神々、偶像はすべて人間による想像物であり、それ故間違いがある。 すべてのエネルギーの源、全ての生命体の源、あらゆる次元の源、永遠の存在、今まで全知全能の神、無限の神と表現されてきた存在、絶対者を受け入れることは道理にかなっているのではないか。 絶対者の存在に対する認識は、人間が謙虚になることを教える。それは人類の存在に意味をもたらし、人類の永遠の救いと希望につながると考えられる。 Part II につづく マイケル アレフ 2018年4月 上記の絶対者という表現の修正について: シリーズ19 人類に求められている「真実の神」への理解と認識 の終わりに、 絶対者という表現を削除した。(2021年1月) 全知全能の神という表現は人類が意味も解らずに作ったという意味で、わからない神であったが、人類に間違った理解と印象を与えてきた。全能者、絶対者ということばも同様であるように思える。者という漢字表記が使われているため、人間のように人格があることを連想させる。 それでは、人間の世界の考えである。人間の思考を超越した、全くわからない存在であるためには、ーー者は使えない。 宇宙が存在するようになる前、全くわかり得ない存在があったとすることはできないか?全くわかり得ないなら、存在が在ったとするこもできないように思える。 それは、人類の無知の象徴ではなく、愚かさの象徴でもない、人類の知力の象徴となり得る存在かもしれないが、わかりようはない。 故に、人類はいつまでも無知なる存在であり、それ故、神ということばで補うしかないのかもしれない。 マイケルアレフ 2022年7月 |