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 マイケルアレフのことばの認識は世界を変える

  ことばの認識は世界を変える シリーズ 10
  利己的な生き方を修正する

   マイケルアレフの提案

ウェブリオ三省堂大辞林によると
 ○ 利己的とは「自分の利益だけを追求しようとするさま」とある。
フリー百科事典ウィキペディアによると
 ○ 利己主義は「自己の利益を重視し、他者の利益を軽視、無視する考え方」とある。

人間は様々な面を持っている。人間は利己的であるとよく言われる。自己の利益を重視し他者の利益を考えない人が多いからと思われる。しかし、多くの人は利己的ではなく、時々利己的な面を表す人である。利己的とは、総合的に考えて、人間のことばによる思考、知力が欠けている状態を意味しているようにも思える。利己的な生き方はなぜ避けなければならないのだろうか。

内容
1. 自分を中心に考えることは利己的なのか。
2. 自制することを教えることで、利己的になることを避けなければならない理由
3. 人間が利己的になるようしむけてきたものは何か。
   ・ 競争の原理、弱肉強食の考え方
   ・ 進歩するとはどういうことか
4. 大衆の姿、人類を導くリーダーの必要性、大衆の質の向上
     人類の歴史は戦争の歴史でもある。なぜ戦争の歴史なのか。
5. 利己的であることを止め、生き方を修正するための第一歩 
     マイケルアレフの提案 身近にある慣習を見直す


1. 自分を中心に考えることは利己的なことなのか。

人間が利己的であるという意味は、自分を中心に考えるという意味であるのか。この二つことばには大きな違いがある。利己的とは自分だけの利益を追求することであるから、その目的は自分に対する利益である。それに対し、自分を中心に考えるとは、生まれた時からの自然な傾向であるが、その目的は決まっていない。ここに大きな違いがある。

ずっと昔、若いころ、「自分を中心に考えているのではないか」と以下の文を書いた。

「小学生の頃(1950年代後半)、テレビ(白黒テレビ)が普及し始めた。テレビに映るアメリカ人の顔がみんな同じように見えた。黒人の場合は更に区別がつかなかったという覚えがある。今でも牛、羊、犬など動物の顔は同じに見える。でもその動物を飼っている人、世話している人はそれぞれの違いを知っていて区別することができる。この認識の違いは人、動物、物などに関する持っている情報量とそれに伴う理解力ではないかと思う。
アフリカの干ばつ、戦争などで数万〜数百万人という単位で人が死んでも、日本に住んでいる我々にとっては大きな意味を持たないのが普通だ。その中に日本人がいるとか、親族がいる、友人がいるかで大きく意味が異なってくる。また自分が事故にでも遭い、足の骨でも折った方がはるかに重要な意味を持つ。人間それぞれは基本的に自分を中心に考えるようプログラムされていることは間違いないようだ。」

自分を中心に考えるようプログラムされていることについては、今でも確かにその通りだと思う。しかし、それは利己的であるという意味とは違うように思える。

人間の成長する過程で、ことばが教育され、ことばによる認識が作られ、ことばにより考えるようになる段階では、自分を中心に考えるようにはなるが、自分の利益だけを追求しようなどとは考えていない。未だことばの発達が十分でなく、利益などとは程遠い考えしかできない。しかし、2歳になる頃には、自分勝手、自分の思い通りにしようとする傾向は表れ始める。自分のものと他人の物の区別がまだわからないので、なんでも自分のもののように行動する。拒否されると、大声で泣き叫ぶこともある。

2.自制することを教えることで、利己的になることを避けなければならない理由。

なんでも自分のもののように行動するのは、未だ自制することを教えられていないためであると考えられる。この時期に教育されないと、自制することを知らずに、なんでも自分のわがままを通せると思い込んでしまう可能性がある。自分を中心に考え続ける環境が、自分に対する利益を追求することに結びついてしまうかもしれない。
教育によって自分中心の考えが利己的にもなれば、利他的にもなり得ると考えられる。ここに自制することを教えることに重要な意味があるように思える。
親が子供に自制することを教えないことが、利己的になる理由の一つである可能性がある。

人間は成長と共に、個人の世界は広がり、世界の中に自分がいることを学んでいく。親のしつけや教育により自分勝手にしてはならないことを教えられる。世界は自分が中心に動いてはいないことに気づくようになる。利己的ではなく利他的、他の人の利益になることが重要であることを学んでいく。

こう考えてみると、人間は初めから利己的であるのではない。ただ自制することの意味を教えられていない、教育されていないことに大きな理由があり、自分勝手になる場合があると考えられる。
親にとって子供はかわいい盛りである。子供にいつも喜んでもらいたい。これは十分に理解できることであるが、子どものためにならない。親が自制することをもっと学ばなければならない。
子供の将来が大切であることがわかる親であれば、子どものわがままは本人のためにならないことを教える必要があることがわかる。きびしくすることを言っているのではない。自制するとの意味を何度でも繰り返し、繰り返し、ことばで説明することであると考える。

自制するとは何か。三省堂大辞林によると「自分で自分の感情・欲望などを抑えること」とある。

大人が自制しないとどうなるかを具体的な例で教えていくことが必要に思える。
自制できないと大人でも争い、けんかをする。周りの人にも危害が及ぶこともある。盗みや暴力などの犯罪、殺人なども起きることにつながる可能性が大きい。。
自制するとは、約束を守ることでもある。決められたルールに従うことでもある。
約束を守らないとどうなるかを何度も例を示して説明することが大切なのだと思う。

確かに感情や欲望を抑えることが関係しているが、大切なのは自制する目的は何かということにある。それは人間の社会を守るためである。多くの人が共同で生活している。約束を守り、ルールを守り、法律を守ることで社会が安定する。互いに協力し合い、助け合うことが素直にできる社会になる。

時代と共に人の考えも認識も変わらざるを得ないが、自制することは人間社会を維持していくためには欠かせない基本的な資質、社会の基盤、土台であると考えられる。
人が利己的でないように心がけること、言い換えると、自制心を持つことは人間として協力して生きて行くために欠かせないと言える。


3. 人間が利己的なるようしむけてきたものは何か。

様々な理由が考えられる。認識が作られる過程、作られた感情、受けた教育も関係するように思える。
現代社会が利益追求の社会であること、その背景に生存競争や弱肉強食の考え方がそのまま教え込まれてきたことも関係があるように思える。個人のレベルだけでなく、社会全体が利己的になっていることも理由に考えられる。

社会が生存競争をあおり、人々が資本主義の競争の原理を教えられる中、必然的に利己的になるよう教育されてきたのではないか。利益を追求することが企業の存在目的であると教えられてきた。企業が利己的でなければならないと考えるなら、個人もその影響を受けざるをえない。

社会が利己的であるが故に、親は子供の将来を考え、利益を得られるようにと考え、子供に高等教育を受けさせ、有名大学を卒業し、社会的地位や名誉や財産を得られるようにと願うようになる。
子供の持つ純粋さ、好奇心、興味を失わせているのは親や社会全体ではないのだろうか。
ここに人間の存在目的、生きている意味である「他人のために自分を役立てる」ことを教えられてこなかったことが、大きな影響を与えてきたように思える。親自身がそれを認識していないことが問題の根底にあるのではないか。

利己的な学歴社会であってよいのだろうか。教育も仕事も社会もすべてが利益追求につながっていることに問題はないのだろうか。このままでよいとは思えない。
育てる親はどのような考えをもって子供を育てているのか。


 ・ 利己的であるから、競争があり、人が競い合うから進歩があるのか
   競争の原理、弱肉強食の考え方

利己的であるから、競争があり、人が競い合うから進歩があるのではないかと考えられてきた。競争の原理は資本主義の根幹をなす考え方でもある。しかし、人類が進歩してきたのは利己的であったからなのか。

利己的とは自分の利益のみを考えることである。人間の世界が弱肉強食の社会であると教えられてきた。動物の世界では弱いものが強いものに食べられるから、人間も強いものにならなければならないと教えられた。

振り返って考えてみると、子どもの頃、確かにそのように考えられていた。皆がそう思っていたように思う。今でも人間の社会が弱肉強食の社会であるとの認識のままの人がいるかもしれない。新たな教育がなされていないなら、昔の認識のままの人もいるだろう。

弱肉強食とは動物一般の世界の描写のように考えられてきた。百獣の王ライオンということばがあった。テレビでそう取り上げている番組があった。今でもそうなのだろうか。

強い動物だから弱い動物を食べているのだろうか。肉食という定めがあるからではないか。どの動物も自分から希望してそうなったわけではない。プログラムされたとおりに生きている。強いか、弱いかは簡単には表現できないのではないか。単に力の関係であれば、人間は力では強いライオンにはかなわない。しかし、強いはずのライオンは力では強くても、今では絶滅危惧種に近い存在ではないか。ライオンと比べ力では弱い存在であるにも関わらず、地球上のすべての生き物の頂点にあるのは人間である。考えることは知力である。知力は動物の持つ強さに勝るということの証明でもある。

生存競争があると教えられた。生きるための競争がある。人間の弱者は生きる価値がないような価値観を教えられた。だから強くなければならない。弱者に注意が向けられなかった。これが50年ほど前の現実の世界であったように思う。
こうした考えに基づいて社会が形成されていた。自由競争は基本的考えである。企業はそれ故に利益を追求した。利益追求の社会はこうして利己的な社会になり、長く続いてきた。

しかし、利益だけを追求していたのでは、問題が生じること、社会が混乱することを知るようになった。利益追求だけでは社会が良くならない。経営者も企業もそれに気付くようになって、社会自体の体質が改善されるようになった。インターネットなどの通信技術が大きく発展してきたことも大きな影響をもたらした。利益だけのためでなく、社会のため、人のための製品の開発が行われるようになった。安全性、利便性、経済性等が考慮されるようになった。社会に貢献することが経営者の重要な使命になった。消費者が安全性に問題を感じるようでは製品が売れない時代になった。このような理由からか、昔の弱肉強食、生存競争などということばは聞かれなくなった。考えに変化が起きたともいえる。

弱肉強食という考えには大きな間違いが含まれている。人間が動物並みの存在であることが前提になっているからである。人間と動物は似ている部分はあっても大きな違いがある。人間には高度に進んだことばがあり、それを活用することにより考える力、知力がある。その知力があるゆえに人類は地球上で繁栄してきた。地球上で人間が現在最強なのは考える力がある結果である。知力故に社会が改善されてきている。その知力をもって地球全体のバランスも考慮するようになってきている。
ことばによる考える力である知力こそ人間の特徴であり、注意深く活用すべき重要な資質である。知力こそあらゆることに活用されるべきものである。にもかかわらず、人間の中には全く考えようともしない人がいることは、人類の進歩に逆らうことと同じように思える。
 
考えに変化が起きたことにより変化が生じたことを考えると、正しい考えを教えられず、かつ誤ったことを教えられて人間が利己的になったのであれば、正しい考えを教育により教えられれば利他的になることも可能であることがわかる。ここに教育の重要性がある。
人間の考える力、知力は歴史を変え、未来を創り出す力である。人間はことばによる考える力に目覚めることが必要であると考える。


 ・ 進歩するとはどういうことか。

進歩という表現はあるが、本当は何が進歩なのかはわかっていない。ある一定の枠の中を考え、特定の目標を設定すると方向が見えてくる。目標に近づけば、よくなっているように見える。一般的にはそれを進歩だと考えている。

現代の科学は人類を滅亡させるだけの力を持っている。その力を利用すれば人類は滅亡する。その結果から考えると、人類は進歩してきたのか、科学は進歩してきたことになるのかという疑問が生じる。

人間は利己的でもあるために、また間違いを犯す存在であるために、結果を考えれば、進歩してきたかどうかはわからなくなるとも言える。ある枠を決めれば答えることはできる。今までという時間的な範囲に限れば、人類は進歩してきたと言うことはできる。

人類が進歩してきた理由は様々あると考えられる。人類の歴史は失敗と戦争の歴史である。その歴史を通して人類は人間のあるべき姿を模索し、考え続けてきた。

利己的であるから人間は失敗することは多い。しかし、その後で反省し、改善し、そこから進歩してきた、と表現することもできる。反省することは利己的ではない。改善しようと努力するのも利己的であるのではない。その努力をしてきた人達の多くは、人のため、人類の進歩に役立てたいという思いから努力した。決して個人の利益だけのためではない。人類全体としては利己的な動機の人もいたが、失敗し、反省もし、その経験を通して改善し、進歩してきたというのが人類の歴史であると考えられる。

言うまでもなく数学者、物理学者、化学者、医者など多くの人たちは自分の利益だけを考えている人たちではない。科学の進歩してきた背景には、人類の役に立ちたい、役に立つものを作りたいという人々の願いと動機があった。これが大半の人たちの思いである。人類に大きな影響を及ぼした人たちの伝記を読み感動したことを覚えている。人間としてのすばらしさに感動したのである。人々の人類の役に立ちたいという謙虚な姿勢、ひたむきな態度、勤勉さ、努力、不屈の精神、人類の進歩を願ってのことである。


4.大衆の姿、人類を導くリーダーの必要性
  人類の歴史は戦争の歴史でもある。なぜ戦争の歴史なのか。

こうした誠実な人々に対し、いつの時代にも指導者の思惑で動き、自分たちの利益のために行動してきたように思える人々がいる。人類が繁栄してきたのも、戦争になったのもこうした人々の働きも大いに関係してきたように思える。一般大衆のことである。時の権力者、政治家、宗教家、企業家等の指導が良いものであれば、平和と安定の時代が続き、指導が悪いとその指導に乗せられ大衆は戦争にも向かったようにも思える。それぞれの時代に、それぞれの指導者がいて、大衆もいた。それぞれの時代で、どうしてそういう方向になるのかはよくわからないが、考えてみる必要があると思われる。

人類を導くリーダーの必要性

大衆はいつの時代も間違って行動してきた部分があるように思える。それは指導者の言うことに間違いがあることに気付かないからかもしれない。自分たちの利己的であることが関係しているかもしれない。指導者といっても間違いを犯す人間であることに変わりはない。
国の主権が国民にあっても、大衆が間違って行動するという意味では、その考えも時代遅れなのかもしれない。

人類をより正しく導く指導者、リーダーが必要であると考えられる。今読み返しているローマ人の歴史(塩野七生著)には、かつてのイタリアのローマが帝国になっていく過程と西ローマ帝国の終末までの1000年にわたる歴史が書かれている。この本を読むまでは米国が人類の未来を示す実験場のように思っていた。「地球上のあらゆる場所から、国籍、人種、言語、宗教、文化が集まり、混在し、米国は一つの国として存在している。様々な問題を抱えているが、解決を見出そうと一緒に行動している。一つの世界になれるかという地球規模での考えがある。その意味で米国は全世界の縮図であり、試金石である」と。
しかし、ローマ人の歴史を読んで、一つの世界になれるかという試みはすでに行われたことを知った。
強く感じたことの中には、初期ローマ人の考え方がある。敵でさえ許し「他民族も同化していく」という考え方、指導者の素晴らしいスピーチに見られる人間性、ローマ帝国のビジョンを描き、その基礎を創ったユリウス・カエサルのような指導者の存在がある。

社会は絶えず変わり続ける。その時代と共にその世代も代わる。歴史は変り続ける。素晴らしい指導者であっても死ぬときは来る。新しい指導者に変わらざるを得ない。それでもなお人類はよい指導者を必要としていると思う。
大衆の意識の向上と指導者の質の向上が共に必要と考えられる。

良きリーダーを生み出していくことに人類の将来がかかっているとも言える。そうしたリーダーはどうやって育てることができるのか。我々人類の子孫の中から生まれ出てくる者たちであることは間違いないだろう。将来のリーダーを生み出すために、まずは自分から、自分の周りから見直す必要があるのではないか。今を生きている人たちに反省がないなら、将来の人類を導くリーダーが生まれることは困難なようにも思える。


  利己的な傾向を避けるにはどうすればよいか。

基本的な問題が関係しているように思う。人には死に対する恐怖がある。それ故、生きることに対する不安がある。誰でも衣食住という基本的な生活の安定を望む。平和も必要である。これらは生きるために必要なものである。しかし、人間はそれを得れば、もっと豊かな生活を求めるようになる。

基本的なものは必要であるが、何が基本的なのか、どこまでが必要なのかよくわからない。心の問題でもある。考えのバランスが必要である。

人は皆同じような傾向を持っているように思える。
楽して儲けたい。一生懸命に働かずに、お金の心配をせずに、楽しいこと、やりたいことをやっていたい。自由でありたい。宝くじで大儲けをしたい。一画千金、思いがけない幸運にめぐり会いたい。苦労せずに一挙に巨額の 利益を得たい。宝くじ、競馬、競輪などで簡単に大金を手に入れたい。
これらは人生の目的ではないにしろ、大衆の心をとらえ、夢と思わせてきた。
日本には昔からの格言にこうした人の傾向を表す表現がある。
棚から牡丹餅(ぼたもち)、甘い汁を吸う, 海老で鯛を釣る、濡れ手で粟(あわ)、麦飯で鯉(こい)を釣るなど。

なぜ人はこう考えるようになるのだろうか。重大な間違いがあるのではないか。
認識の中に、「楽で贅沢ができることが、努力して苦労するよりも良い」という考えが一般的にあるからではないか。大衆がそう考えている。
なぜそう考えているのだろうか。お金持ちが最高の生き方であると誰もが思っているからか。

では、お金持ちは幸せかと問えば、そうとも言えない。
金持ちでない人は、それは分からないから、そう思わない。
人によるが、金持ちはもっと金持ちになりたいと思っている。
金持ちだからとという理由だけで人は満足することはない。

宝くじで当たり大金を手にした人はみな幸せになったのだろうか。
確かに、当たった時はこんなに幸せなことはないと思ったかもしれない。
その後は幸せであり続けたのか。決してそうはならない。
なぜなら、大金があればだれでも幸せになれるものではないからだ。
つかの間の幸せに過ぎない。

この考えをしっかりと持っていなければ幸せにはなれない。

以下は知力の源:知恵のことば集からの引用である。
人生が提供する他の何よりもすばらしい褒美とは、価値あることに一生懸命働くという機会のことである。・・・ セオドア ルーズベルト

こうした時代を経て、私は未だに自分を発見する過程に関わっている。人生を切り開き、失敗する方が安全にうまく生きるよりもっとよい。失敗はその人の一生涯にたいして支払うべき料金の一部のようなものだ。・・・ ソフィアローレン


5.利己的であることを止め、自分中心の考え方、生き方を修正するための第一歩
  マイケルアレフの提案 身近にある慣習を見直す
 
皆がやっている、昔からの伝統だ、楽しい慣習だ、金儲けにもなる等というだけで、考えることなく繰り返すことに大きな意義はあるのだろうか。未来につなげるべき理由、なぜやるべきかを考えることが必要ではないか。

たくさんある慣習でも、昔のある特定の時代にできたもので、その時にはその時代の人には大きな意味があったと思われる。しかし、時間を経た今の時代に本来の意味がなくなっているもの、間違っているものと思えるものなど様々であると思われる。そのままに続けることに問題がある場合もあると考えられる。

今でも一般に行われている慣習が、利己的になるよう仕向けていると考えられる代表的なものを取り上げ、どう考えるべきかを問うてみたい。

賛否両論はあると思われるが、単に賛成、反対ではなく、人間が利己的にならないための努力として、人類の未来への貢献として、個人としてできることがあるのではないかと考えて欲しい。もしそう思えるなら、進路変更することにも意味があると考えられる。
自分の思考力で、どうあるべきかを問い直して欲しいと願う。

今までの慣習に対して、昔からの慣習だから、だから続けるということでよいと考えることは、人類が進歩してきた理由に反する。100年後にその慣習は意味を持っているのか。それとも歴史にとどめるために昔からの物は博物館に保存し、他は映像などの記録として保存すれば十分なものもあるのではないか。
昔に作られたものであれば、それを今もただ続けることにはどんな意義があるのか。よりふさわしいものを創ることこそ時代が求めていることではないか。

よく考えてみる必要があるように思える。現在の利益追求を目的にした流行が人々の注目を集めているからといって、必ずしも人間にふさわしいものとは限らない。


利己的あることを避ける

人間には生きる権利がある。自分の権利だけが主張されるようになってしまった。本来はすべての人の権利のことである。自分の権利だけを考える場合がある。自分は働かなくても生活保護を受ける権利がある。もちろんそういう場合はある。しかし、他の人の権利などは全く考えずに、人間が作った法律を巧みに利用する場合もあるだろう。

自分は何か働いたわけでもないのに、何かをもらえる、それを当然受けられる権利のように思い込むことはどのようにして始まったのか。

これは全世界の人々の間にも見られる傾向かもしれない。しかし、その傾向には厳しい姿勢でいる場合もある。特殊な経験かもしれないが、米軍施設で働いていた時、特に将校階級の軍人は、何かをもらうことに関しては非常に注意を払うことに気づいた。法律に触れる場合もあるからである。多少の高価と思われるプレゼントを受け取ることにも神経質になる。そんな場合には法務部に相談し受け取っていいものか判断する。何か食事を提供される場合でも、フェアーでありたいという気質が見られる。自分が負担すべき費用は当然払うべきだとの意識が強い。

日本では、思い返してみると、何かをもらえることが当然の権利のように思うようになった背景には、一般に行われている慣習も関係しているように思える。


   身近にある慣習を見直す
 ・ 正月のお年玉 の慣習を見直す (お年玉の起源については諸説ある。)

一般的には誰でも何かをもらえることは喜びである。日本では何かをもらうことは喜びと感じる傾向が強い。子供は何かをもらえることには敏感である。

正月のお年玉は期待の一つである。毎年行われるこの慣習は、子供に何かをもらえることを期待させる。そう思わせるようになる。何もしてないのに、その時にはお金が手に入る。
慣習にはそれなりの意味があったと思われるが、今でもただ慣習に従う。誰でもしているからという理由で、考えもなく、子供にお年玉としてお金をあげる。親は子供が喜ぶ様子を見て、自らもうれしく思う。親戚なども関係する。

子供は喜ぶ。しかし、年齢を重ねるに従い、お金をもらえることを当たり前のように思うようになる。たくさんもらえればもっと嬉しいと思う。そしてもっともらえることを期待する。もらえる金額が少ないと、反対にうれしいとは思わなくなる。もらっているのに不平不満さえ出てくる。
お年玉は子供にとって大金が手に入る機会である。何もしていないのにもらえる。
最悪に思えるのは、子どもがいくらもらったかを自慢しているケースである。子供が100万円になったなどと自慢する様子が報道されたと聞いたことがある。本当かどうかはわからないが、親は子供の将来を何も考えていないのではないかと思わせる。金額が多くもらう子供もいるかもしれないが、それを当たり前と思うようになる子は、将来どういう大人になっていくのだろうか。親はどのように責任を取るのか。

大人になっても、何もしなくても大金が手に入れば、こんなにいいことはないと思う。
これは実は小さいころからの、このような慣習からきているのではないか。
そういう考えが間違っていると認識できれば、大金を手にしたいなどと思わなくなる。
この慣習が子供に利己的になることを教えていることにならないか。
みんながやっているから。子供がよろこぶから。昔からそうだったからでよいのだろうか。

子供が利己的にならないようにするにはどうしたらよいかを考え、親がなぜ自分が大金を欲しがるのかを考えてみる必要があるのではないか。

考えないことは「疑問に思うこともない」ことを意味する。「わからい。理解できない。」という言い訳の始まりでもある。普段から「考えない」ことが習慣となり、何に対しても疑問を感じることなく、当たり前になる。皆と同じことをしていれば安心していられると思っている。
人間としてなんと愚かなことをしているのかと気付かないのだろうか。何も感じなくなる。何も思わなくなる。思考の停止となる。

お年玉を通して楽して儲けることがよい考えなどと教えることは間違いである。
お金を与えることで、何もせずに利益を得ようと期待させることは止めるべきである。子供はお年玉を期待している。そう期待させたのは誰か。親や社会の慣習ではないか。
初めからそうすべきではなかっただけである。正常に戻すことが必要である。
人間の利己的な傾向に歯止めをかける必要がある。その第一歩だと考える。
人生は楽なものではない。絶えず問題が起き、対処することが求められる。
子供がそういう意識を持つことが将来に対する備えではないか。

利己的にならないために教えることのできる一つは、お年玉の慣習を止めることではないか。次の2019年の正月からお年玉の慣習を止めると宣言することもできるかもしれない。親として間違っていたことを伝え、その理由を自分の言葉で説明してみてはどうか。他の親族なども関係する。一年という時間、よく考えてみたらどうだろうか。

皆がこの慣習を止めるから自分も止めるでは、考えが足りない。自分の責任を自覚していない。自分でそう思えるかが重要であり、決めたことは個人の決断であり、責任なのである。ここに考えることの意義がある。


さて、自分に注意を向け利己的にする機会は身近に他にもあるだろうか。
注意を外に向ける、自分から自分にではなく、他の人に目を向けることが利己的な考え方を止め、世界に目を向けることにつながるではないか。

どこかで、誰かが始めなければ、修正は起こらない。人類のために皆が、利己的であることを止めることの始まりにする必要があると考える。


 ・ 誕生日という慣習を見直す。

歳をとり老人になると、歳をとることを喜んではいられなくなる。歳をとるだけ人生が短くなるという意味であることがわかるようになる。
敬老の日、100歳の人に向かって、「これからも元気でいてください」という人はいる。中には「200歳までも長生きしてくださいね」などと本気で声をかける人もいる。
老人の中には、生きていることが苦痛の人もいる。早く死にたいと思っているお年寄りは多いのではないか。そんなお年寄りに「誕生日おめでとうございます」などと言い、お祝いすることは残酷ではないか。
そう言われた人は、人生がまた短くなったと思うかもしれない。何も考えられない人もいる。
それはおめでたいことなのか。人生が短くなることはお目出たいことなのか。これはブラックジョークなのだろうか。
もちろんそういわれて喜んでいる人もいる。そう言ってくれる人に感謝の気持ちを持っている人もいる。人生について考えることなどできなくなってただ生きている人もいる。

誕生日は自分に注意を向ける日である。ただ習慣に従っているだけ、何も考えていない人が多い。何のための誕生祝いだろうか。誕生日を祝う意義はあるのだろうか。

誕生日は本来、生まれた日のことである。それは一生に一度しかない。毎年誕生日を祝ってはいても、それは記念日のような意味に過ぎない。生れた日のことは、両親や祖父母は覚えていて教えてくれるかもしれないが、当人には覚えのない日である。


赤ちゃんが生れた時のことを考えてみよう。
生れた時は生まれたことを皆で喜び、その子の一生が幸せであることを願う。
生まれたことを皆で祝い、子供が他人のために役立つ立派な大人に成長することを願う。両親を初め、沢山の人の願いと希望と祝福を受けて、子どもは大人へと成長を始める。
生まれた時には、生まれたことを皆で祝ったのである。
人類にとって貴重な新たな命である。将来、その子の幸せはもちろんのこと、人々のために、人類の役に立つ人になることを願い、人々の夢と希望が託される。

親の教育と手本により、子供は賢くなることも、人の気持ちがわかる心を持つことも、試練にたいして強く生きていくための勇気を持つこともできる。
しかし、親が自ら学ばず教育を怠れば、命を役立てる人間に育つことは難しくなることも考えられる。

親はその第一責任者であり、子どもが考える能力のある大人になるよう教育する責任がある。それは学校での成績を上げることではない。塾まかせにすることではない。
親が子どもと共に、自分も成長すること、そのための努力をすることを意味する。
「子供は勉強しなければならない。でも大人は勉強しなくてもいい。学校を卒業したら勉強はしないものだ。」等と勝手にやらない言い訳をする。親が楽と思う生き方を示すことは、子どものためになるのだろうか。
人生では一生学習し続けることが必要である。学習に終わりはない。
親の成長がないなら、子どもの成長に負担が生じることになる。親の手本がないからだ。
子供は利己的になり、自分のためにだけ勝手な行動をするようになるかもしれない。

ただ衣食住を与えれば十分なのではない。親がまず模範を示し、謙虚さを示し、自ら学習する姿勢を示し、間違いを謙虚に認め、努力する姿勢を示すことが必要である。子供の模範となり、子供を励ます立場にある。


誕生日を毎年迎え、祝う内に、それが習慣となり、自分に注意が向くことが当たり前になっていく。当たり前とは、自分は何もしていないのに、当然受けられる権利のように思い込むことである。
子供に利己的になることを教えてはいけない。他人を思いやることを学ばさなければならない。
誕生日は親が子供を利己的に考えるよう教えることになる。教えなければならないのは利他的になることである。

子供が喜ぶではないか。喜びを取り上げることはよいことなのか。
大人は楽しいから何でもしてよいことにはならない。自由があっても自分に害があることも、家族を破壊することも、社会に危害を及ぼすこともある。
単に喜びだということで、なんでも許してしまう考えこそ改めるべきことである。

今までの良いと思ってきた慣習が実はその子のためにならない、と理解することができるだろうか。よく考え、何が子供のため、社会のため、未来に役立つかを考えるなことが必要である。これは人類の歩みに対する進路変更の提案である。

親の責任は重大である。しかし、子どもの将来がかかっている。社会の将来がかかっている。人類の未来がかかっている。

自分を思ってくれる人がいることは大切だ。
親が子供に「愛情をもっている」人であることを示したいことは自然である。
しかし、それは親の側の気持ちであって、子供のためにならないこともある。
親がこの点を理解できるかどうかに、子どもの将来も人類としての未来が大きく影響される。
本当に思ってくれるとは、子どもをただ喜ばせ、楽しませることではない。
人間として自立できるよう、間違いを正し、成長を助けることである。
そうできない人は、真剣にそう思ってくれているわけではない。
自分の感情が大切だと思っているだけではiないか。

まずは気づいた人から、世界を変える努力をする第一歩を踏み出すことだ。
これは他人が言ったからではない。自分で考え、自分で決めることである。

その日は皆で自分が生きていることの意味を感じるために、ボランティアに家族で参加してみてはどうだろうか。
自分に注意を向けるのではなく、地域の困っている人を助ける日にすれば、生きている意味を実感することができる。人を助けることができる。人のために生きている。これなら、生まれたことに意義がある。

近くの公園、近くの駅の回りなどの清掃に参加するのも一つの方法かもしれない。
地域にある公園の清掃、近所の道路の清掃、ごみ拾いでもできる。
町内会、地域の役所に何かお手伝いできることはないかと聞いてみる。
誕生日を祝う習慣を止め、その日は他人のためにボランティアとして働き、命の意味を考える日とする。
少しの時間でも、とりあえず始めてみることが大切だと思う。
自分から、計画を立て、ボランティア先を見つけ、人のために、無償で働こう。

生れたことに感謝していない人もいる。生れたことに喜びを感じていない人もいる。
生きていることの意味、命の意味は、自分を他人のために役立てることにある。
他人のために自分を役立てることこそ、生まれたことの喜びを感じる機会である。



ここまでに書いた内容は、個人的な思いであるが、その通りであると思う。しかし、このままでは一般大衆には受け入れられない。一般大衆が求めているものは基本的に、楽しいこと、新しいこと、利益になること等である。
新しい点では、今までと違うので当てはまるかもしれないが、楽しいことではないように思える。楽しいことに変える必要がある。
目標は、気付かない内に皆が利他的になっていくことである。
「皆でチャレンジしよう!! ・ ・ ・ 誕生日 イベント大会」のような、発想が必要に思う。
この様子をマスコミがニュースで取り上げれば、大衆にも浸透することができるかもしれない。

結び:
皆がやっているから、昔からの伝統だというだけで、考えることなく繰り返すことは止めた方がよいと考える。続けるなら未来につなげるべき理由、なぜやるべきかをよく考える必要がある。なぜなら、よりふさわしいものを創ることこそ、それぞれの時代が求めているものであるからである。

マイケルアレフ 2017年12月