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  マイケルアレフのことばの認識は世界を変える

  ことばの認識は世界を変える シリーズ 9
  人の「わからない、理解できない」がもたらした重大な結果と改善案

  内容
・ 背景について
・ 「わからない、理解できない」がもたらしてきた主に7つの結果について
・ どうしたらこの傾向を修正することができるか 改善案
・ 結び 大人の教育と学習について


・ 背景について
「人は歴史の教訓から多くを学ばないということが、歴史の教訓すべての中で最も重要である。」 ・・・ Aldous Huxley
ずっとその通りだと思ってきた。その「教訓から多くを学ばない」という事実は、人間の真の姿を示していると思える。それゆえに一部であっても気づく人、理解できる人が進歩するために、この事実を活用することにより人類に貢献することができるとも言えるのではないか。

人類の歴史は、「人間とは何かを知るための歴史」であるのではないか。失敗と戦争の歴史であるのは、それを通して人間のあるべき姿を模索し、見出すためでもあったとも考えられる。
有史以来の苦難の歴史を通して、人間のあるべき姿がわかりかけてきている時代に生きているのかもしれない。

人間は無限と比べれば限りなく無に等しい存在であることからすれば、「わからない、理解できない」ことは、限りなく存在する。しかし、「わからない、理解できない」を理由に、人類は重大な間違った歩みをしてきたように思える。それをそのままにしておいてよいとは思えない。

ことばの認識は世界を変えるIV「人間の持つ権利」 に関連して「動物に生きる権利はあるか」と質問を書いた。
この中で「人間にわからない、理解できない」ことが人間以外の動物の生きる権利を否定する理由にしてきたことを示した。それが正しいかどうかは、正しいという枠をどの範囲にするかで決まることも示した。(枠を決められない場合、枠の無い場合も考えられる)
人類は未来に遭遇する可能性のある未知なる知的生命体の生きる権利を認めることができるのだろうかと質問を提起した。

ことばの認識は世界を変えるVII「奇跡と認識と未来」の中で、奇跡が起きた理由が「わからない、理解できない」ことを理由に、神様を信じる理由にしてきた歴史があることを示した。思い込みにより神様を信じることが、魔女狩り、宗教裁判、宗教戦争が起きる原因となり、多くの人が殺された歴史であることにも触れた。

人間の持つ認識は、五感を通して脳により作られてきたものであるが、受け継いだ遺伝、環境などにより人それぞれ違っている。それに加えて、「わからない、理解できない」という人間の認識は沢山の想像物を作ってきた理由でもあるように思える。

今回は、「人間のわからない、理解できない」ということが、どういう結果をもたらしたかについて、わかる範囲で以下のように書いてみた。もちろん他にも様々な考えはあると思っている。


・ 「わからない、理解できない」がもたらしてきた主に7つの結果について

1.「わからない、理解できない」は、人間の大自然に対する畏敬の念、大自然がもたらす恵みに感謝する気持ちを、神と神々に向けてきた。何か良いことがあると、感謝したい気持ちが起きる。理由がわからないから神と神々に感謝してきたのではないか。

 昔は命の存在の意味を考えても詳細を知ることはできなかった。誰も知らない、わからないことなので、神様が創ったということで皆納得した。大自然を神様に置き換え、感謝を表してきた。しかし、神様そのものの存在がわかっているわけではなく、わからない存在であるから、神様にしてきたとも言える。そう信じることで、納得してきたのではないか。

 多くの人は神様が永遠の命を与える、天国に導くなど、そのことばの意味さえわからないにもかかわらず、疑問を抱かずにただ信じてきた。

 奇跡が起きれば、神様のおかげだと思い、神様を賛美した。「奇跡と認識と未来」の中に例としてあげたように、「わからない、理解できない」は、神さまを理由にし、勝手にそう信じ込むことに発展する。さらに、奇跡を起こした人を信じ、人間を祈りの対象とし、たくさんの人を神様にしてきた。
 奇跡を起こすとされる祈りの対象もたくさんあることに触れた。キリストさま、マリア様、12使徒、パウロを含む数千に及ぶ聖人、ユダヤ教の神様、ヒンズー教の神様、イスラム教の神様、仏教の仏さま、ローマ帝国には30万の神様がおり、日本の神道の神様に至っては「八百万の神」(やおよろずのかみ)の神様がいる。

2.何か悪いことが起きると、その理由として恐怖の原因と対象を想像し、悪魔や怪物を作り出した。疫病がはやった時代には、死への恐怖、未知への不安、原因がわからない理由を悪魔のせいにしてきた。「人間のわからない、理解できない」は、怪物を創り、悪魔の使いとして魔女を作り、魔女狩りを行い、多くの人を殺してきた。火あぶりの刑に処せられた人は何人いたのだろうか。
 人間の「わからない、理解できない」は人間の死後、悪いことをした人は地獄に落ちて、永遠にわたって苦しみを受けるなどと想像し、その世界を作ってきた。どの民族も宗教も同じ様な地獄を作り出してきたように思える。
 「わからない、理解できない」は恐怖を作り出す。恐怖は想像で大きく膨らむ。どんどん大きくなると恐怖は他人を殺すことを平気で行うことさえできるようになる。悪人に仕立て上げる。このことは大昔の話ではなく最近でも起きているし、現在も、今後も起きる可能性がある。

3. 進歩させない理由として
 いつの時代も人間の持つ認識は同じ傾向を示しているように思える。人々は新しい考えに対して「わからない、理解できない」と無視するだけでなく、拒否反応を示し、反対し、作者を抹殺しようとしてきた。
 コペルニクスは「宇宙の中心は太陽であり、地球は他の惑星と共に太陽の周りを自転しながら公転している」という地動説を唱えた。それ以前、「宇宙の中心は地球である」という天動説が信じられていた。
 地動説は当時の教会にとっても大衆にとっても「わからない、理解できない」ことであり受け入れることはできなかった。大衆を導く立場にあった教会、宗教指導者は特にそうであったと考えられる。地動説では、今まで自分たちが、「地球は神様が創り、宇宙の中心である」と教えてきたことが間違っていたことになる。そんな考えは受け入れられない。その感情はますます否定する思いを強くし、真実を拒否する理由にしたと考えられる。地動説という考えが受け入れられるまでに100年以上の時間を必要とした。
 世界史の窓によると、
 「コペルニクスは聖職者でありながら天体観測を続け、1543年に「天体の運行について」という主著を刊行した。その年病死したが、この書は天文学者に大きな影響を与え、ジョルダーノ・ブルーノは地動説を発展させて、太陽でさえ不動のものでなく動いているという宇宙観に到達した。危険思想として1600年教会の手によって異端の烙印を押され、処刑された。
 ガリレオ・ガリレイは初めて本格的な望遠鏡を作成して天体観測を続け、コペルニクスの説をデータの上で証明した。しかし、教会によって裁判にかけられ、1616年にその著作と共に、コペルニクスの書も教会の禁書目録に入れられてしまった。
 しかしガリレイは、聖書に書いてあることは古代のヘブライ人の見解にすぎず、キリスト教の教えそのものではないと割り切り、自己の研究を続け、1632年には『天文対話』を発表した。その書は天動説と地動説に立つ二人の学者の対話を通じて、天動説を批判し、地動説の正しさをわかりやすく論証したものであった。彼はこの書を、学者だけでなくあらゆる人たちが読めるようにイタリア語で出版した。
 それに対してイエズス会の宣教師たちはガリレイが1616年の裁判の決定を守っていないとして、強硬に非難した。そのため翌年、ローマで宗教裁判にかけられることとなり、すでに70歳になっていたガリレオはローマに連れて行かれ、監禁状態で裁判が進められた。本人欠席のまま審理が進められ、ほとんど弁解の機会は与えられず、1633年6月22日の判決はガリレイの説を異端説であると断定し、『天文対話』も禁書目録に入れられ出版が禁止された。ガリレイは終身禁固とされたが、翌年には減刑されてフィレンツェ郊外での自宅謹慎となった。その謹慎中も研究は続けられたようで、この間、1638年には『新科学対話』を著し、物体の落下運動についての研究を発表した。1642年1月、フィレンツェの自宅で、謹慎のまま許されることなく死去した。
 ニュートンはイギリス経験哲学の流れをくみ、実験と微積分法による軌道計算など数学的理論化をすすめ、1687年にその学説を公表した。このニュートン力学は「万有引力の法則」として知られ、惑星運動も太陽の引力によるものとして説明され、これが最終的に地動説は疑いのない真理とされるに至った。」

 アインシュタインの特殊相対性理論が発表された当時、それを理解できた人は数えるほどしかいなかったという。理解できなかった人達はその理論に猛反発した。反対集会が開かれ、間違っている主張が展開された。そんな大集会に出席した人々の中にアインシュタイン本人も出席し、耳を傾け、その主張の説明を聞いて拍手していたという。

 現在、ニュートンの力学は高校の物理の授業などで教えられていると思うが、数式を使っての授業での説明を聞いても難しいのではないか。学んでも「わからない、理解できない」と思うかもしれない。
 偉大な業績を残した人たちの研究内容を読んでも「わからない、理解できない」と反応するように思う。
 個人の持つ時間も関係する、能力も関係する、意思も気力も関係する。しかし、人間はどれほど学んでも、理解できることは、ほんの一部だということだろう。人間には能力に限界がある。脳細胞は有限である。全てをわかろうとすること自体に無理がある。大切なのは詳細を理解できないからといって、即それが間違っていることにはならない、反対する理由にはならないことである。作者の考え、思い、その意義を知るだけでも十分なのかもしれない。

4.わからない理由をうまく作り出してきた
 「人間のわからない、理解できない」は、できないことの言い訳として正当化するための理由を探し、適当な理由を作りだしてきた。
 俺は頭が悪いから、「わからない、理解できない」と理由にしてきた。
できない理由は基本的に「わかろうとしない、理解しようとしない」姿勢にあるのに、できない理由を探し出し、うまく説明する根拠としてきた。
 自分の子から「俺は頭が悪いから、勉強できないんだ」と言われると、それじゃしょうがない「やはり親の子だ」などと納得してしまう。子供は賢い。いろいろ考えて親を納得させてしまう。しかし、そんな根拠はない。

5. 無視する、否定する根拠に利用した
 一般的に、人々が「わからない、理解できない」ことは、関心を持たない、考えないという傾向をもたらしているように思える。
 正義とは何か、人間に人権はあるのか、美しさは何故ないのか、命とは何か、殺すことは悪いことか、など基本的なことであるにもかかわらず、考えている人は少数のように思える。多くの人は初めから考えようとしない。「わからない、理解できない」は無関心、考えないという傾向をもたらしているのではないか。
 人間のことばによる思考、考えることは、人間であることの特徴である。にもかかわらず、初めから、考えようともしない。考える前の段階で終わらせてしまう。

6. 人が人を「わからない、理解できない」を逆手に取る場合もある
 言い訳として、好きではない理由にする場合もある。心配だという意味の場合もある。人を非難する理由にも使われる。様々な言い訳としても使われている。
  
 人は自分のことを十分わかっているわけではない。他人を完全に理解することなど不可能である。作られた認識が違うのだから、初めから100%理解し合えることはあり得ない。
 しかし、人間は間違いを犯す存在であっても、互いに信頼を築くことはできる。互いに約束を守り信頼を築けば、間違いはある存在でも、互いに100%近くまで信頼することさえ可能になるように思える。
 他人を「わからない、理解できない」という部分があることは、自然なことであると言える。
ところが、それを逆手にとって、「男は子供を産めないから、女の出産のことを理解できない。男は女の気持ちはわからない。」などと簡単に言う人がいる。さらに、同じ女の人に向かって「子供を産んだことがないのに、子供のことがわかるのか」などと言う。言われた方はことばが出ない。言う人は優越感に浸れるかもしれないが、何と愚かなことなのだろう。わからないのは自然なことであることがわかっていない。女の人の間だけでなく、あらゆる人の間で互いに理解できず、喧嘩が絶えないのも事実である。大切なのはわからないから否定するのではなく、理解しようとする姿勢である。謙虚さが求められている。その姿勢さえあれば、経験できないことでさえ、理解することができる。眼が見えなくても、耳が聞こえなくても、口がきけなくても、理解できる人はいる。

7. 進歩する理由
「わからない、理解できない」から、研究し、答えを見つける努力をする理由になる。
「わからない、理解できない」ことが限りなくあることは自然である。謙虚にそれを認めることは大切である。そして、それ故に、わかろうとし、理解しようとすれば、その人にとって大きな進歩の理由になる。人類が進歩してきたのは、人類の中に「知らない、わからない」ことを謙虚に認め、わかろうと挑戦してきた人たちがいたおかげである。


 このように考えてみると「わからない、理解できない」は一般的にみられる人間としての傾向で、その結果として、思い込みによる想像物である神と神々、悪魔、悪魔の使い、怪物などが作られてきた。同じ「わからない、理解できないは」新しい考えを否定し、未知なるものを否定し、人類の進歩を阻んできた。できない言い訳を作り、否定する理由を作り出してきた。こうした傾向は広くみられるように思える。これが人類の歴史が示す人間の傾向であり、その結果として悲惨な歴史が繰り返されてきたように思える。この傾向をそのままにしておいてもよいとは思えない。

 「わからない、理解できない」を肯定的に受け止めることができる。「わからない、理解できない」という事実を謙虚に認めることができるなら、進歩する理由につなげることもできると考えられる。
 言い換えるなら「わからない、理解ができない」こと自体が問題なのではなく、それを謙虚になって、その事実を認識することができないことに問題があるからではないか。
 「わからない、理解できない」と気付くことは大切なことだ。そこに進歩するための理由がある。

将来、未知なる存在に対して「わからない、理解できない」という反応は自然なことであるように思える。未来に見たことも、聞いたこともない、学習したことのないものに遭遇する可能性はある。地球外生命体、高次元の存在とそこに存在するかも知れない未知なる生命体等が考えられる。人間に認識できない生命体さえあると考えられる。
恐怖は人間の理性を失わせ、妄想を作り、勝手な思い込みや、理由を創り出す。注意深く、対応することが望まれる。


「わからない、理解できない」という時に、以下の改善案を参考にできるかもしれない

1.簡単にあきらめずに、理由を考えてみることが必要ではないか。
人類が進歩してきたのは、簡単にあきらめない人々がいたおかげである。個人でも同様に簡単にあきらめず、わからない理由を考え、追求する姿勢が求められる。

2.勝手に想像して、簡単に結論を出さないことが必要ではないか。
「わからない」を簡単に肯定する理由に、否定する理由にしてはならない。
「わからない」からとすぐに相手が間違っていることにしてはならない。
想像力も想像することも大切であるが、創られた想像物を信じる対象にしてはならない。

3.自分の頭が悪いせいにしない。
素直に、「わからない、理解できない」ことを認め、言い訳をつくらない。
質問を作り、皆で考えてみる。

4.わからないことは疑問として、問題提起として残しておく。
将来わかるようになるかもしれない。
自分が進歩する理由になる大切な機会であるかもしれない。

アインシュタインを偉大にしたのには3つの理由があると学んだことがある。
1.なぜだろうと疑問に思った。
2.その「わからない、理解できない」という疑問をずっと持ち続けた。
3.その疑問を解決する能力を持っていた。持つに至った。

誰にでも「わからない、理解できない」と思ことはある。疑問に思うことがある。
しかし、大抵の人は時の経過と共にその疑問を忘れてしまう。持ち続けることはない。
考える人は疑問に思ったことを解決することができるかも知れない。
そのためにも、自分の能力を学習や思考を通して拡大していくことは大切である。
学習は一生続けることが必要である。
「人生とは自分の可能性を追求するための一生である」という姿勢が望ましいのではないか。


結び
 基本的に(自分を含め)大人は子供と比べ、能力に欠けるだけでなく、純粋さに欠け、好奇心に欠け、謙虚さに欠け、自尊心が強く、高慢で知ったかぶりになる傾向が強い。
子供に比べ、大人の教育は大変である。作られた認識を変えることには大変なエネルギーを必要とする。
 本来は大人が子供達の手本となるべきであるが、現実には手本とは程遠い存在になっている。しかし、大人が手本を示さずに、ただ存在しているだけ、また手本にならない状態は改善されるべきである。人の命は他人のためにある。その意味を大人が示さずに、手本になることはできないだろう。現状は、認識を新たにすることが必要なことを示している。
 「わかない、理解できない」は自然なことである。それを人間が進歩するための理由にすることが大切である。肯定的に考える必要がある。
 わかるように興味を持とう。理解できるよう考えてみよう。子供達のお手本になれるよう謙虚になろう。それが人類の歴史から学ぶべき人間のあるべき姿と言えるかもしれない。

マイケルアレフ 2017年12月