マイケルアレフのことばの不思議な世界

シリーズ42 矛盾について
矛盾(むじゅん)について

ウィキペディアによると、矛盾は中国の古典から作られた言葉である。

「どんな盾も突き通す矛」と「どんな矛も防ぐ盾」を売っていた男が、客から「その矛でその盾を突いたらどうなるのか」と問われ、返答できなかったという話から、「二つの物事が食い違っていて、辻褄が合わないこと」を意味する日本語である。

矛盾が生じるのはなぜか?

言葉(単語や文章)から作られる考えに間違いが含まれているからであると考える。

この例にある、何でも切れる刀は存在しない。何でも切れない盾も存在しない。何でも切れる、切れないという表現は人間の理解を越えた考えである。それをあると思い込む。

なぜあると思えるのか? 人間が有限であることをわきまえていないためである。人は考えでや想像で作られるものを、何でもあると思い込む傾向がある。

人はわからない、又理解できないことを、わかっているかのように思い込み、信じてしまい、無いものを有ることにさえしてきた。そこに矛盾が生じるが、気付かないことが多いのではないか。


* 人間の考え

言葉は人間の世界のものであり、人間の間だけで理解されているが、地球以外の宇宙で通用するものとは思えない。無限に広がる宇宙という視点から見れば、人類の言葉で作られた考えは無いに等しいのかもしれない。
人間の世界では、人間の考えが全てであり、矛盾は無いと思い込んでいる。


* 全知全能という言葉

全てを知っている、できないことは無い、という全知全能という考えがある。
人間は有限であるから、全てを知っているという意味はわからないし、できないことはないという意味も本当はわからない。
わからないが、それを神様に当てはめた。神様は全知全能だと教えた。わからないから反論しようがなかった。

人間は矛盾した考えを信じることができる。信じるとは騙されることである。

全てを知っているなら、全ては決まっていることになる。未来は決まっていて変更できないし、修正できない。全てに運命があることになる。
しかし、それを修正できないなら、全能ではない。未来を変えられないなら全能ではない。
神は全知全能だと教えられたが、矛盾が生じている。この矛盾はなぜ起きるのか。

人間が有限であることをわきまえていないためである。考えや想像で、何でも作ることができる。無い物でも有ると思い込むことができる。わからないから、矛盾という考えがわからないまま利用されてきた。

人類の大半は今も偶像を作り神として崇め、わからない神を全知全能の神と讃えている。宗教が違えば神も違うし、教えも違う。が、その矛盾に気付かないし、気にもしていない。それでも人は自分は賢いと思っている。

人類は間違いを含む多くの考えを、正しいと思い込み、気付かない。間違いを気にせず、信じている。


* 無限の力、スーパーヒーロー

現在の高齢者が子供の頃、60年以上前、白黒テレビの時代が始まった。テレビに出てくる月光仮面、エイトマンなどの正義のスーパーヒーローに憧れた。

悪者が出てきて、弱者を傷つけ、不正を行い、害を与えるが、ヒーローは弱い人を助け、悪を倒す。そして正義が勝つ。夢中になって正義のヒーローに憧れた。

悪者を倒すと、新たな敵が現れた。悪は正義の敵である。今までより強い敵だ。それでもヒーローは危機を乗り越え、また悪をやっつけた。
ところが、強い敵は次から次へと現れる。たくさんの敵を倒しても、更に強い敵が現れる。

質問が生じる。スーパーマンのような力に限界はあるのだろうか。敵はいなくならないのか。

真実をごまかすことは難しい。新しいネタがなくなり、スーパーヒーローの活躍のマンネリ化で番組の人気が落ち、そのうち番組が終わることになる。
そしてしばらくすると、新たなヒーローの出番がやってくる。

スーパーヒーローの映画は主人公を力を持つ人として描く。しかし、無限の力を持つ、永遠の存在はない。

人類は力に憧れ、力を追い求め、たくさんの武器を開発してきた。核兵器、細菌兵器まで作っているが、永遠に強い武器など存在しない。それは無いのに、それがあるかのように兵器の開発競争が続いている。より強い武器を持てば、より強くなれる。強ければ、防衛力があれば、安心できると思っている。

しかし、敵などいない。敵は、自分たちの価値観が作り出していることに気付いていない。敵は人間のことであり、正義という価値観が作りあげた幻である。
人間はこの矛盾に気付かないのだろうか?

多くの人が力に憧れ、強くなりたいと思い込ませてきた考え、力を意味する正義は人々を戦争に駆り立てる理由である。正義の背後に人間の利益追求社会がある。
人間の社会の利益追求が人々が欲しがる物を欲しがるように作ってきた。
人間の考えがその影響を受けている。
多くの人はその矛盾に気付かない。矛盾に気付かないから、間違いは無いことになる。一時的に戦争が終っても、敵は現れる。敵は自分達の価値観が作っているからだ。

正義は力を意味するが、力は幻想である。それを正義と考えることに間違いがある。
力を持ちたい、強くなりたいという考えに間違いがある。いじめるという行為には力を持っていることが関係する。

矛盾に気付かず、間違いを犯し続けている。
それでも人間は、人類は、自分たちは賢いと思っている。

矛盾を感じるなら、その考えに間違いが存在するかもしれないと、気付くことができる。修正する機会になるかもしれない。

矛盾がある場合、その考えには間違いが存在する。
これは人間が知的生命体であっても有限であることをわきまえていないために起きる。

矛盾した考えをなぜ信じているのか?
幼少の時から、そう教えられたからである。基本的な違いはそれだけである。
生まれた時からの社会環境のことである。周りの人々が同じ考えだと、疑問を持つことなく、その違いに気付かない。


人間としての理想
人間は、人類は、人間としての理想がわからず、基本的な手本もない。
国、民族、宗教、政治などの考え、主義主張ではなく、人間の世界と人類の在り方を基本から見直し、人間の見習うべき理想の教育を始める必要がある。
理想は完璧の意味ではなく、間違いを含み修正も必要になるが、目標にすることはできる。

昔は、情報の少ない、人間という考えさえ無い時代があった。
わからないから、間違っていても信じるしかなかった。それは避けられなかった。
問題なのは、その間違った考えを今も受け継いでいることである。

なぜこの矛盾は起きるのか?
人間が有限であることをわきまえていないためである。
人類の大半は、先祖代々の人の教えに間違いが無いと今でも信じ、騙されている。
考えでは、想像では、何でもあるし、何でもできると思い込むことができる。
それが利用されてきた。

有限であることをわきまえれば、矛盾に気づき、修正する助けになるのではないか。

人間には限界がある。間違いの無い価値観を作ることはできない。
正しいと判断できると思うのは、人間という枠、人間の世界という範囲、その時間枠の中に限定される。宇宙では通用しない。

矛盾は人間が作る考えである。考えに実体は元々ない。初めからない。
考えは言葉で作られるが、実体はない。



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矛盾について
1.矛盾が作られる背景
2.言葉の矛盾の例
3.「答えは無い。将来も答えは無い。今までも答えは無かった。それが答えだ。」について


1.矛盾が作られる背景

人間は有限であるのに、無限を考えることができる。
永遠、絶対、完全、完璧、全知全能などの表現を理解できないのに、こうした表現を作れるのはなぜか?

その一部を知ることができ、そこからその意味を考えようとするからではないか?

無限と有限の違いを考えれば、一部を知ることであっても、それは知らないことに限りなく近い。
しかし、有限の枠の中では、また人間という世界の中では、その一部が全てにさえ思え、それを間違いのない正しいものと思い込む。
言葉では全てを表現することはできない。そこに矛盾が生じる理由があると考える。


言葉は考えを作り、情報を伝える手段である。が、考えを作る言葉の元になる物の名前である名詞は、物と名前を一対一に対応させて作っている。
その物の名前は実物の代わりであり、実際の存在ではない。
それは存在があるのではなく、存在があると想像すること、イメージで考えることである。
つまり、言葉で作られる考えは、初めから、完璧なものはない。ただし、完璧だと思い込むことはできる。

考えは、現実に存在する実体のように五感で認識できるものではないが、実体として表現することはできるように思える。実体として表現した時、それは考えではなくなる。

考えは脳が言葉により情報を直接的に認識することであり、有限である人間という枠の中で、考えを言葉により、理解していると考える。


物に名前を付けることにより、一対一に対応させて理解している。
単語を同じもののように考えていて、その表面的な意味だけで意思の疎通をすることができる。
しかし、単語には膨大な情報が詰まっているので、単語の作りに注意が必要である。

シリーズ1で本を例に以下のように書いた。(引用文)

母親が子供たちに本を読んでいる。物語だ。とても楽しい内容だ。
子供たちはその話を聞いているうちに寝込んでしまった。

ここでいう「本」とはこのすべてのイメージを含む情報のことである。
子供が持っている五感を通して入力されるすべてのことである。記録され思い出にもなる。

子供は成長するにつれ、本にもいろいろな本があることを知る。絵が描かれているもの、ひらがなで書かれたものから、漢字を含むものまでいろいろある。面白い本、面白くない本もあり、好きな本もでき、友達のように大切にする。人生に大きな影響を与える本に出合うこともある。
読んだことのある本の数は、時と共に大きくなっていく。
本に関する認識とイメージを含む情報はこのように変化していく。
この膨大な情報量が一つの単語である本に対する認識である。
これが本という「ことば」の意味だが、地上にある数えることさえできないほど存在する無数の本を、単に本として表現することができる。「ことば」の持つ意味は深淵である。

本と同様にそれぞれの「単語」に対して膨大な情報が蓄積されていく。それをあたかも一つの単語のように扱うことができる。これが「ことば」である。脳の中に蓄積される。日常生活など人との対話で深い情報は必要としない場合、表面的な表現で十分に意思の疎通ができる。必要に応じて蓄積された情報は引き出すことができる。


単語にはたくさんの情報が関係しているが、そのことに気付くことは稀なことかもしれない。
矛盾に気付くことも少ないのかもしれない。


2.言葉の矛盾の例

高校生の頃、「人間は真理を断定することはできない。」と思い付いた。
しばらくすると、この命題には矛盾があることに気が付いた。
この命題を考えたのは自分であり、人間である。
人間が真理を断定できないと言っている。すると、言っているのが自分であるから、人間は断定できることになってしまう。
これは矛盾である。この命題は言葉による矛盾であると考えるようになった。

人間という言葉に「全ての人間」という枠を設けていることに、矛盾が起きる原因があるように思える。真理という表現もその意味も曖昧である。


後に、次のような命題について学んだが、同じ問題が関係するように思った。
クレタ人が言った「クレタ人は皆嘘つきである」と。
この例も、クレタ人が嘘つきだと言っても、言っている本人がクレタ人である。言っている本人がクレタ人であるから、嘘つきになる。
嘘と言っても、嘘とはどこまでが嘘なのか? 言葉全てを嘘にはできない。

この例も全てのクレタ人、全て嘘という枠を設けていることに矛盾が生じる理由があるのではないか。


35年も前になるが、府中競馬場で整理員のバイトをしていた時に、同じ班員に機転が利き、ジョークのうまい人がいた。帰り際、彼は 「俺には悩みが無いのが、悩みなんだ」と言った。

さて、悩みがないことは、悩みになるのか?
悩みを全ての悩みのように考えることはできても、悩みという言葉が全ての悩みを表すことはできない。悩みが無いことが悩みである、と言葉では言えても、悩みが無いことは悩みには入らない。

言葉が不完全であることが笑いを誘い、ジョークとして、人を楽しく、豊かにしている。矛盾した表現は楽しめる。


振り返って見れば、小学生の頃に、「ないものはない」という店について学んだ。
無い物はないのだから、何でもあるという意味になる。
しかし、無いものは無いのだから無いのは当たり前だという意味にも取れる。

「ない」という言葉には、存在がある、存在がない、という意味がある。それに文章を否定する場合にも使われる。
「ないもの」とは何を意味しているのか? 存在がない物である。
この存在が無い物という表現自体に問題がある。存在の無い物があるのだろうかという質問が生じる。物に存在が無いことは、初めから考えられない。
このことから、存在が無い物は存在しないという意味になる。無い物が無いのは当たり前だということになる。
この文章を否定すると、存在が無い物を否定することから、あることになる。何でも有るという意味に受け止められる。


上記の例のように、命題を作り、その命題の中に命題を否定する単語が含まれていると、命題そのものが否定され、矛盾が生じるように感じる。言葉には表現する限界があると考えられる。



矛盾が生じるのは、人間が言葉で考えることによる。言葉に限界があり、間違いが含まれる。当然 言葉で作られる考えにも間違いがあることになる。

人間は、わからないことを、わかっているつもりになることができる。
何でも切れる矛があると考え、何でも切れない盾があると考えることができる。
言葉ではどのようにも考えることができる。それでいて、言葉で表現することには限界がある。

正しい、正義、権利、人格、平等、平和などの考えは言葉によって作られている。
考えの元に間違いがあっても、それに気付く人も、疑問を持つ人もいないように思える。

これが正義を盾に戦争を正当化するなどの矛盾を生じさせている理由に思える。



3. 「答えは無い。将来も答えは無い。今までも答えは無かった。それが答えだ。」 について

答という言葉に矛盾ができる理由がある。
答という表現にはたくさんの意味がある。
質問の数だけ、答がある。答が無いという答もある。
ここでいう、答はないとは、全ての質問に対する普遍的な答はない無いという意味に思える。

答えとは何か? 様々な質問があり、それぞれに答えがある。答えは無数に存在する質問に対する答である。

ここでの答という言葉は無限に存在する質問を一つの枠に納めて、一つの答のように思わせている。
人間は有限であり、分からないことは無限にあることを思い起こせば、一つの枠に閉じ込めようとすることに矛盾が生じる理由があるように思える。

答は質問に対して、ある場合、ない場合、わからない場合など様々である。



個人のことであるが、若い頃、普遍的真理があると考えていた。それを長い間追及してきた。その結果、普遍的真理に答えはないと考えるようになった。その理由を以下に書いた。

真理があるとは、そう思い込み、そう信じるからである。
しかし、信じることは騙されることと同じであることに気付くようになった。
信じることの前提に、完璧、完全、絶対に間違いがないという考えが存在している。
わかっていないのにわかっているつもりになれることである。
人間は、無いものでも在ると思いこむこと、そう信じることができる。

人間には考える前提に間違いがあり得ることを理解する必要がある。

信じるという表現は、曖昧でわからないこと、わからない場合に使う言葉であり、わからないことを正しいと受け入れることである、と考えるようになった。


普遍的真理や絶対正しい等の考えは、人間の世界にはない。
人間はその考えを作ることはできない。

実体に基づく科学の世界は、在るがままの自然界の実体から学び、実体の裏付けに基づき、理論を作っていている。それは信頼でき、人間の世界という枠の中では普遍的にさえ思える。
しかし、そこに進歩があることは、人間の理論に完璧なものはないことを示している。



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「答えは無い。将来も答えは無い。今までも答えは無かった。それが答えだ。」
Gertrude Stein

そういう見方はあるが、これまで人類は自分達の力で考え、探求し、答を出してきた。
「答はある。将来も答えは有る。今までも答はあった。それが答えだ。」
ということも可能だろう。

真実を求めること、現実という情報を持つことの意味は何か? 
答を得ることは難しいのかもしれない。
知的生命体であれば共通の、永遠の、究極の問いであるように思える、と書いた。

以前は矛盾のように思えたのだが、問題点が明らかになってきたように思える。
どこに問題点があるのだろうか?


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4.矛盾が起きる理由

5.半世紀前、多くの若者たちが矛盾に気付かず、宗教やイデオロギーを信じた。信じた結果、悲惨な結果を示す例がある。誰にでもあり得ることである。