| マイケルアレフのことばの不思議な世界 だれでもわかったつもりでいる "1+1=2" これほど簡単で当たり前だと思っていても、説明できる人はまずいない。 それどころか1とは何かを説明できる人さえいない? 辞典には、「1 とは1、2、3と数える数字、自然数の最小単位のこと」と説明がある。それはわかる。 しかし、1 とは何かという質問に答えていない。 なぜ答えることができないのか? 1 とは考えであり、決まった形はない。 世界に存在する様々な形を統一して 1 という形にした。 1 とは何かという答えに、人間の五感で認識する実体はないからではないか。 数字だけでなく、全ての考えで作られている言葉(単語)には実体がないのではないか、という質問が提起される。 しかし、考えに実体が無いとしても、人は皆あると思っているし、わかっていると思っている。気にもしていないのが実情だろう。 物の名前は人間が五感(知覚神経)により見て、聞いて、味わって、触って、臭いを嗅いだりして作った言葉で単語、名詞などがある。 リンゴであれば見て、赤い、青い、形は丸く、大きい、小さいと比較でき、甘くて、美味しい、表面はツルツルしていて、良い臭いがするなど、実際に存在がある実体として認識することができる。 物だけでなく、動きを表す動詞も五感により認識される。 人の歩く、走る、泳ぐ、投げるなどの様子は見る、聞くにより認識できる。 ところが、脳の働きを示す言葉、人の考えなどは五感により実体として認識されない。人間の意識では実体があるかのように受け止められているだけである。 自分の手足を動かす、指を動かすなど、脳の指示を表す部分は、実際に動かしているのは、自分であり、自分の意思で動かしているにもかかわらず、脳の働いている様子を認識することは通常できない。 意思、意識は脳の働きであるが、五感(知覚神経)では認識できない。脳の直接の働きであるからではないかと考える。 考えるとは文章を作ること、と書いた。 二人で会話をしていると、頭で文章を作り、声により情報を伝える。すると、相手から同じようにして、返事が返ってくる。会話の内容は人の持つ考えであり、考えは文章である。 文章は言葉でできている。書かれた文章も考えを表している。 人は言葉を使っていつも考えている。それは日常の当たり前に思えることである。 考えると言っても、疑問を持って物事を深く、なぜかと考えることもある。人の置かれた状況下で、問題を解決するために考える必要が生じることもある。 様々な状況があり、様々な考えが生まれるが、全てに共通していることがある。それは言葉を使って考えていることである。言葉を使わずに考えることはできない。 物の名前などの言葉は、人間により作られてきたが、人間の五感により認識できる実体がある。物の名前と実体が対応している。 ところが、人の考えは人間の言葉により作られるが実体は無い。 考えに実体は本当に無いのだろうか? 考えにはそれを表す単語があり、希望、理想、計画、目標、ビジョン、夢、記憶、文章、アイデアなどがあり、その内容を文章により表現することができる。 考えは、文章をただ見るだけではだめで、読まないと伝わらない。読まないと内容がわからない。脳による働きが必要である。つまり、視覚により文章を読み、その内容を知るという工程を経て、考えを知ることができる。 人の話をただ聞くだけでは、考えは伝わらない。意思、学習能力、脳による働きにより、聞いている文章の内容を知り、理解するという工程が必要である。 文章で作られる考えに実体が無いのはなぜか? なぜなら、それは情報であるからであると考える。 物を五感で認識するような工程を飛び越しているかのように、考えは直接情報を伝えている。 すると、全ての考えで作られている言葉(単語)には実体がないのではないか、という質問が提起される。 その通りであると考える。 愛、正義、法律など全ては人間が作った考えによる言葉(単語)であり、情報である。 美しい、醜い、良い、悪いなども人間が作った表現である。 考えは言葉で作られている。 では、どうやってその考えを認識しているのか。 人の話を聞いて、映像やニュースを見て聴いて、本を読むこと等がある。そこに情報があり、情報から考えることができる。 また自分で新しく思いつくこともある。新しい考えが浮かび、今までにないアイデアや映像が浮かぶ。 考えとは文章のことである。その文章により人はそれを自分の脳によりその考えを知る。考えは情報を伝えている。 それをまず知り、理解できれば、自分の考えとして取り入れることができる。 その文章による考えを知ることができるが、全く同じという意味ではない。ほぼ同じであり、理解できないこともある。文章を構成する単語にたいする認識が人によって違うためである。 本を読んでも、映画を見ても、見る人により印象が違うのと同じである。 ここにモナリザの絵がある。その顔は嫌いだと思う人がいる。 人がそう表現し口に出せば、聞いた人に考えが伝わる。 人の考えは知ることができるが、自分の考えと同じとは言えない。 その絵が好きだと思う人もいる。 子供がアイスクリーム食べたいと言った。それは考えであり意思を表すものである。 聞いた人はその文章から考えを知ることができる。 それが刺激になり、自分も食べたいと思うかもしれない。 考えは自分の頭で作った文章であり、それを声に出したり、文章に書いたりすることにより伝わる。 考えは物ではない。実体ではない。情報である。 それは受け止める人によって、受け止める側の認識、持っている価値観によって変わるものである。 花それ自体は実体であり、情報である。見る人にその視覚情報が伝わる。その人の持っている価値観、認識により美しいと判断する。 花という実体はあるが、その情報は実体ではない。その視覚情報に美しいという情報はない。 見る人の反応は、その人の持つ脳にある、それまでに作られた価値観、認識のことである。 花ではなく蛇であれば、その人の価値観により、醜いと映る場合がある。蛇は実体の情報であり、見る人にその情報が伝わる。 嫌いという意識があれば、怖いとか醜いと反応する。知らなければ反応できない場合もある。 物、実体そのものに醜い、怖いという情報があるのではなく、その反応を作り出すその人の過去に作られた認識にある。 実体はあっても、美しいも、醜いも実際には無い。 それが理由で、蛇を美しいと思う人もいるし、花を美しいと思わない人もいる。 情報は脳によって認識される。実体から情報を得るが、情報に価値があるのではない。受ける側の認識によって決まる。人の持つ価値観によって、意味があったり、なかったりする。 宝石、絵画に価値があると知っているから、そう認識しているから、大人には高価なものにもなるが、その認識がなければ価値はない。 価値は対象にあるのではなく、人の持つ考えにある。 平和、平等、人間性、愛、正義、法律など全ては人間が作った考えによる言葉(単語)であり、情報である。 美しい、醜い、良い、悪いなども人間が作った表現であり、実体はない。 それを思い込みにより、実際にあると思い、正しいと信じていても、文明の進歩により、時代が変われば、情報に変化が生じ、人の持つ考え、価値観、認識も変わっていく。 人間の世界は、人間が作り上げた 'なるほど' と感心できる世界であっても、そこにある人間の真実の姿、あるがままの姿を知ることが、現実を理解する第一歩であると考える。 マイケル アレフ 2023年9月記 詳しく知りたい方は以下を参考に。 難しい? 1+1=2 の説明 わかっているつもりでもわかっていない簡単と思うこと |