マイケルアレフのことばの不思議な世界

* 言葉の新たな認識へ

人類が生きて行くために作り出した制限
 責任、約束という言葉について その1

人間に言葉と考える力があることにより約束が作られ、約束を守るという責任が生まれた。約束がなければ責任はない。責任があるのは約束を作ったからである。

責任は人間の社会を維持するために、人間の間で守るべき考えとして作られた。
人間一人では生きて行くことはできないからであり、
人間社会を支えるため、人間が互いを信頼し、協力し、助け合うためである。

約束を作り、守ることは、自分勝手な自由を制限することにある。
人間の社会を、人類を、存続させるための制限である。

ただし、約束、責任という言葉は人間が作った単語であり、知的生命体である人間の考えである。人間の世界にあっても自然界にはない。


約束には個人的なものから公のものまでたくさんある。
ルール、規則、法律は基本的に社会を守るための約束として作られてきた。

個人的な約束、親子の間の約束、結婚の約束、仕事における契約でも、社会全般においても、守るべきものとしてある。
約束は、約束を守るという責任が課せられることを意味する。
約束を破れば、築き上げた信頼を失うこと、損失が生じること、争いに発展することにもなる。

約束は必要なものか? 
約束と言っても、時代、状況、その時の必要性などによって異なる。
約束そのものに間違いがある場合もある。
制限が課せられる約束は無い方が望ましい。

人間は進んで物事に取り組むことができるし、喜んでするなら責任を感じることはなくなる。責任を感じる必要もない。

幼い頃から自分から進んで行う習慣を身に付けることが望ましい。
しかし、子供には模範が無いと、自分から進んで行うことは難しい。
模範が無いと、自分から学習することができないからだ。
人間の世界で、大人が人間であることに、人間社会の一員であることに、喜びを感じていることを態度で示せるなら、また笑顔と誠実な態度を示せるなら、子供はそれを自然に模範と思い、当たり前のように見習うようになる。


知力の源: 知恵の言葉に次の表現がある。
約束とは人間独特の未来の順番を決める方法であり、それが人間にとって可能であるという枠において、未来の予見と信頼を可能にする」 ・・・ ハンナ アレント

約束には、ルール、規則、法律など決めごとがたくさんあるが、それは責任を生じさせるだけではなく、未来を作っている、決めているという意味でもある。

責任の目的は人間社会を支えるために約束を守り、信頼を築くことにある。
約束を守り信頼を築くことは、未来の人間社会を支えることであり、未来を確かなものにする。


責任は必要なのか?
責任は、個人、社会、人類の存続のためにある。
約束を守るという責任である。

では、なぜ人間社会を支えることが楽しくないのか?
なぜ社会の約束である法律を破り、犯罪に走る人が多いのか?


人類全体に間違った価値観があり、利己的であるためと考える。

人間の多くは富、名誉、財産などを求めるが、満足することを知らない。
メディアはそれが望ましいかのように宣伝する。
人間には怠惰で、自分勝手で、自分が楽しければいい等、利己的である面もある。短い人生の間、死ぬまでそれを追い求め、得ても失う定めにあることをわきまえない人がほとんどである。

その間違った価値観、利己心を抑制するためにルール、規則、法律が作られてきた。本来約束は自発的に守るものと考えるが、多くの規定は自発的に喜んで行うものではない。強制的に罰則を掲げて、守らせるためにある。
人間が元々利己的で悪人であるかのような考えがそこにある。

法律は国家が国民に守らせるために罰則を設けて強制するものに思える。
皆が納得して自発的に喜んで守ろうとするものではない。
(法律は国民の代表が作ってきたが、その代表を選んできた責任は国民にある。)

生活に困れば法を犯す人が出てくる。困っている事情が関係する。利己的でない場合でも、社会や状況がそうさせる場合もあるだろう。

何が問題なのか?

原因は幼少の頃からの社会環境、教育にある。
親、地域社会に人間としての模範がなく、利己的で、自制心がない様子を子供が学ぶからである。
人間としての大人の模範がない。大切な人間のあり方が教えられていない。ニュースは社会の現状を取り上げているが、人としてあるべき姿の情報を基本的に流していない。報道機関も利益追求の企業であり、利益をあげるために大衆の好みに迎合する。

人間の世界は今も利益中心、弱肉強食の考え、優越感を求める世界である。

人間は正義が大好きで、力にあこがれ、強いことを求め、争うゲーム、戦争映画、が大好き、好戦的である。
何でも優秀であり、一番、一流であることを目指す。
優越感を満足させるため、偉くなり、裕福になり、自慢し、他人を見下す。
人間の世界は優越感によりそうなるように仕向けられている。
これでは互いに信頼し、助け合い、平和で安定した世界を作ることはできない。

勉強という言葉
勉強は勉めて強いるという考えに根ざしている。
人間には生まれながらに想像を越える学習能力があり、自分から進んで學ぼうとする。それを強制することで、本来持つ能力をダメにしてきたように思える。

それと同じように、法律で規制し、守らせようとすることも、本来の人間のあり方に反しているように思える。
事前にルール、規則があり、約束ごとに罰則があれば、それに縛られ、気楽さ、自由が制限される。束縛を感じ、自主的になれなくなる。

約束とは人間が生きていくための基本的な必要条件として作ったことば(単語)である。時代と共に、約束に基づくルールは個人、家庭、学校、社会、国家、世界でも作られてきた。詳細な罰則もそれぞれの立場、考えで決められてきた。

数えきれない程の約束に基づくルール、規則、法律がある。覚えきれない程の法律がある。強制されるから、罰則を逃れるために、法の抜け道を探す。
自分から進んで守ろうとする意識がない。そこに、その考え方に問題が生じる理由がある。

問題の原因を追求せずに、ただそれを法律により抑制しようとしても、その時は改善されても、本質的に人間を改善することは難しい。
これが約束を守れない、責任を果たせない社会、矛盾に満ちた、修正を必要とする人間の世界を作ってきた主な理由ではないか。
強調すべきは、人間としてあるべき生き方であり、罰則規定ではない。

大人であることの意味が間違っていることもその背景にある。責任を認識しない人をただ二十歳に達したという理由だけで大人扱いしてきた。
法律違反の犯罪者の大半は大人である。
人間であること、大人の意味を認識し、自主的に大人になる道を備える必要がある。

どこかで、誰かが、悪循環を断ち切り、修正すること始めなければ、良い循環は始まらない。方法は無いのだろうか? 全ては個々の人間の、人類の認識にかかっているのだろうか? 大衆を導く人類のリーダーが必要なのか?

いずれにしても、大人個人の意識改革から始めることが必要に思える。
人間が信頼し、協力し、生きていくために、まず約束と責任の意味を認識する。
大自然の中の無人島に置かれた少人数の人間のように、人間の世界の中であっても、大自然というあるがままの中で自分の存在に気づき、考え、信頼を築き、協力して未来に生きて行くためである。




その2

責任を取るとはどういう意味か?

辞典によると、責任とは行為そのものや行為の結果に対して、対処する任務や義務とある。責任を取るとは不祥事が起こったとき、その責めを受けるという意味で使われる。

調べたところ、責任を取るの文例が載っていた。以下はその一部。

・ だれがその 損害 の責任を取るかを 明確にする 必要が あります 。
・ 進んで 責任を取る ということは 成熟 の印である。
・ ーー氏 は「社会的 , 政治的 , 道義的責任 を取るために」 衆議院 から 辞任する ことを 決意した 。

この例に示された責任の意味は、元々ある約束を守る、果たすという意味とは違う。
時代の変化の中で、言葉の意味が変化してきたと思われる。
以下の背景が関係しているかもしれない。

皆が守るべき約束に基づくルール、規則、法律は、人の持つ間違った価値観、利己心を抑制するために作られてきた。責任は自発的に約束を守るものと考えるが、多くの規定は自発的に喜んで行うものではない。罰則を掲げて、強制的に守らせるためにある。
人間が元々利己的で悪人であるかのような考えがそこにある。

法律が罰則を掲げて守ることを強制するようになったことから、責任を罰則のように考えるようになったのではないか。


責任は基本的に 約束することから生じるものである。
任務や義務が生じる前に、また契約や果たすべき仕事やその立場に就く前に、基本的に約束がある。(ただし、約束した覚えがない場合も、認識していない場合もある)

責任は約束したことを守る、約束に基づく責任を果たす、全うする、完全にやりきることである。それゆえ、責任を簡単に放棄することは人間として間違いであり、許されない行為である。責任は人間の社会を維持するためにあるからだ。

それなのに、責任を取るとは結果に対する攻めを受ける、責任を負うという意味で使われる。責任は果たすものなのに、果たせなかった結果に対する攻めを受けるという意味である。

「社会的 , 政治的 , 道義的責任 を取るために」 衆議院 から 辞任するという例の場合、自分から自主的に辞めるような意味に受け取れる。それは褒められるべきことで、進んで 責任を取る ということは 成熟 の印と考えられている。

責任の意味が変わってしまっている。驚きの変化である。

責任は取るものではない。責任を負うという表現の場合は、約束を守れなかった結果の責めを負うという意味ではあり得るように思える。
責任は約束を守ることであり、果たすべきことであり、責任は果たせないなら、取り上げられるべきものである。

責任を取らされるという表現もあるが、この場合の責任とは結果の攻めを負う、責任を果たさない人が罰せられるという意味である。
責任は自発的にする約束から生じるものであることを基本に考えると、約束を守れなかった結果の責めを負うことはあっても、責任は取らされるものではない

今まで多くの人が責任を取らされてきたが、本来責任は果たすべき約束から生じるもので、罰、罰則ではない。

約束したことを守る責任は当然であり、責任を果たすことが求められる。
約束を守らないことは許されない。初めから約束すべきでない。
それだけ約束に基づく責任には重要な意味がある。

責任を果たせない、約束を守れないことは、信用を失うことである。
未来の人間の世界が不安定になる要因である。
罰を与えることで許されるものではない。

責任は約束することから生じる。約束したら責任は消えるものではない。

責任を取るとは、元々は、果たすべき約束である責任を、その人から取り上げるという意味であったと考える。
約束した人が約束を果たせず、信頼に値しないという意味で、その人から責任を取り上げて辞任させる、解雇するというようになったのではないか。

約束を守るという責任を果たせないと、責任を取り上げられることになる。
そうなる前に、自分から約束を果たせないことを認め、約束を守るという責任を取り除く工夫を考えたのかもしれない。辞任することが必要になるから、責任ということばの意味を変えたことも考えられる。

約束を勝手に破棄することは基本的に許されない。
社会的 , 政治的 , 道義的責任 を 取る ということを成熟 の印と考えることは誤りであり、その考えに修正が必要であることを示している。

それは自分が信用できない人間であることを認めることであり、人間として許されない、あってはならない行為である。
公にできないことを約束するのは許されない。公約しながらそれを守らないことは、明らかに偽善であり、人々をだますことである。

そのような人に大切な責任を任せることはできない。それ故、その人から責任を取り上げる必要が生じる。
政治家に公に約束して選挙で選ばれても、その約束を果たさない人はいる。法律違反をして辞任に追い込まれる人もいる。

こうした人は責任を取ったのではない。責任を果たせない人として、責任を取り上げられたのであり、信用できない人というレッテルが貼られたのである。
それを成熟の印と意味を変えていることは、明らかに間違いを示すものと考える。



言葉は時代の変化と共に変わってきている。しかし、言葉の意味を変え、あいまいにし、わからなくすることは、人間の世界を不安定にすることであり、修正が必要である。

言葉の変化は、意思の疎通をする上で、より明確に、わかりやすくしていかなければならない。人間の社会において、考える上で、意思の疎通をする上で、間違いを避け、より正確な情報の伝達を可能にするためである。




その3

好きで生まれたわけではないのに、なぜ人間には責任があるのか? 

好きで生まれたわけではないのは、すべての人に言える。
そう言いたい人に限ったことではない。その意味では皆同じである。

人間に産まれたくなかったと思っても、そう考えているのは言葉による考える力があるからで、人間の制約からは抜け出すことはできない。

この世は、人間の世界である。自然界とは違い、すべては人間が作った世界である。人間の言葉と考える力により作られている。

その世界の中にいる限り、気付くかどうかに関係なく、人間という制限があり、その制約を受けている。それは人間により人間のため、人類の存続のために作られてきた考え、人間として守らなければならない考え、責任である。
約束があることにより、人間には約束を守るという責任がある。

約束した覚えはないのに、何を約束したのか?

ヒトゲノムにより人間の子として産まれても、人間に育てられ、人間の言葉と人間としての教育を受けなければ人間にならないし、なれない。

ヒトゲノムは人間であることを意味しない。
それは高度な知能を持つ生命体に成長する可能性を持っている遺伝子である。
人間はその遺伝子により人間になり、人類として存在している。
なぜその遺伝子を受け継いだのかはわからない。
ヒトゲノムがその初めに何であったのかは今後明らかになっていくと考える。

人は皆自分の命だと思っているが、命は自分の命ではない。
命は自分が作ったものでも、育てたものでもない。
自分の持っている基本的な能力も才能も自分のものではない。
自分という存在に気づいた時には人間としての機能はすでにできあがっていた。

自分とは遺伝子と脳により作られた存在である。
自分の存在に気づいてからは、脳は自分を中心に考えるようになり、自分の命だと思うようになる。
自分で自分を学習させ成長させる。客観的に物事を見、視点を変えて考えるようにもなる。間違っていることに気づき、正しいことを見出すことができるようにもなる。

人は皆、遺伝子と脳により作られ、親を初め人間社会からの助けにより育てられた。
人間として考えることができるのは、育てられる間に、親の手本を見て言葉を学習し、言葉を使えるようになったからである。

人間は一人で生きていくことはできないのは、人の命が自分個人のものではないという意味である。自分個人のものではないなら、何のためにあるのか?

それは、人間社会を支えるため、人間が互いを信頼し、協力し、助け合うためである。人の命の目的は、人間の社会を守るためにある。それが人間の約束と責任であると考える。

人の命は、人類として共有しているもので、人類に生きる喜びを提供し、生きる意義を与え、共に協力して生きていくためである。

人が与えられた命を自分のものと考える限り、自分勝手な自由が作られ、社会のルール、規律、法律が軽視され、不安定な世界になる。与えられた命を人間社会の一員であると理解できるなら、そこに人間として生きる約束と責任があることを認識することができ、協力して生きていくための土台が形成される。



責任について  その3 後半 

そうではあっても、誰もそうは思っていない。皆自分の命だと思っている。
人類としての個人の命を理解することは困難なのだろうか?

人には言葉と考えるという能力を受け継いでいることが、全ての人が人間社会に対して協力する責任があることを意味している。

理解を難しくしているのは、人間の社会が修正が必要な間違った考えに満ちているからで、優越感を追い求めるよう弱肉強食などの間違いが教えられ、強くなること、正義を求めることが優先されている。人間の手本は見当たらない。人間として、人類としての責任があることさえ気づかない。

人間は人間の社会なしに人は存在しないし、存在できない。
社会とは一つの家族から始まり、地域社会、国家まで様々ある。人類は様々な社会から成り立っている一つの社会である。

教えられたという意識がなくても、人種、国家、宗教、慣習、善悪などの価値観が作られている。美しい、可愛い、醜い、好き嫌いも作られている。自分という意識ができる頃には、基本的な価値観は思い込みにより出来上がっている。

人間は人間となるよう教えられていても、幼少の時期に何の情報を入力され育ったかによって、人の価値観の多くが決まってしまう。
後は、その人の持つ学習能力により、人間の世界の現実に気付くかどうかにかかっている。


教えられる必要はあるが、人間としての統一された価値観があるわけではなく、国、民族、地域等で教えられる内容が違う。

国際交流を通して学べることには、人間の多様性と類似性がある。同じ人間でも違う面はたくさんある。興味深い点ではあるが、その違いを優越感という価値観にして争う理由にすることも多い。

人間の国、民族、地域等で教えられる内容の前に、人間について教えられていないことが争いが起きる原因であると考える。

今まで人間の定義はなく、人間のイメージは好きなように作られてきた。
人間に完璧な定義はあり得ないが、人間としての基本的な在り方を、また人類の理想を考えることはできる。それに沿った教育を人間の世界で行うことが、人類の未来を築くことになると考える。