マイケルアレフのことばの認識は世界を変える
シリーズ34 考えることから見えてきたあるがままという真実について
真実、それは人間の世界の価値観で考えることではない。
大自然、無限の宇宙というあるがままの現実から考えることである。
子供は偏った情報から価値観を植え付けられ、育てられ、自分の考えが当たり前だと思うようになる。偏見であるが、偏見であることに気付かない。価値観を持つように育てられ大人になるため、大人はその偏見の塊である。誰でもその偏見という色眼鏡で物事を見るようになってしまう。
自分の国、国民を守るためなら、他国を侵略し、戦争もすることも病む負えない。
そう考える指導者がいる。
それは人間の世界の価値観で考えるからである。
国、国民、領土、民族が存在することは事実である。それが問題なのではない。、
問題なのは、そう信じることが優越感にもなり、自分の国、民族が優れていると思い込んでしまうことにある。優れていると思うことは、他の人、民族、国を見下す理由になる。
自分の物、自分の土地、国の土地など本来ないのに、あると思い込んでしまう。
法律があるではないか。国際法があるではないか。法が個人の権利を守ってくれる。
確かに、そうである。
世界が人間の作った世界であるからだ。それは人間の世界では通用する。人間には人権があると人間の世界では考える。
人間は好きなように考えてきた。今でも地球は人類の所有物のように考えている人は多い。
しかし、それでは真実は見えない。見えてこない。
球体である地球を見ることができるようになってから未だ100年も経っていない。
今でも地球を直接見た人は数えるほどだ。地球は大きく、肉眼で見るにはあまりにも大きすぎるからだ。写真やテレビで映像を見ることはできるので、地球という考えが当たり前になっている。
それほど大きな地球、地球が属する太陽系も、銀河系でさえ、宇宙の中では存在していない程小さい。
人間の世界の価値観に修正が必要になっている理由である。
人間の作った世界であるから、人はその基準である価値観を当然のように受け入れてしまう。人間である以上そう思うのは人類の歴史の初めから同じであるのかもしれない。 世界は人間の世界であり、人間の考えで作られている。人間にとっては当たり前である。人間が作り、誰もがそう思い込んでいる。
しかし、その世界を全てのように考えていても、真実の世界は人間の世界ではない。 人間の世界は宇宙の中、大自然の中では、無いに等しい小さな世界である。
人間の世界が全てだと思い込んでいることに重大な間違いがある。
以下は、以前書いた内容から
「人間の赤ちゃんは全く無防備であり、危険を知らず、対応することはできない。両親を中心に人間社会からの支援がなければ人間として生きていくことができない。
これは、「すべての人間は協力して人間社会を支える責任がある」と考える理由である。
過去において狼に育てられた少年のように、実際にあった例として、動物に育てられたケースはあった。その場合、人間にはなれなくなった。
人間は生まれた時、脳には情報がほとんど無いと考える。 産まれた時から大人になるまでの長い時間、幼稚園、小学校6年、中学校3年、高校3年等の時間をかけて教育を受け、情報が与えられる。 人間は単にプログラムにより生きているのではなく、情報の提供を必要としている。教育により学習を通して人間社会の一員としての認識が作られている。
小さい時、美しいという認識が無いのは、入力情報がないためである。 小さいときには恐怖もなく、怖いことを知らない。良い―悪いもない。 情報を教えられていないからである。 人間の脳は幼少の頃は未だ国家、民族、宗教、常識などの情報を知らない。
情報が与えられることにより、あると思うようになり、価値観が作られる。
これは人間全てに共通である。それ故、日本に生まれれば日本人になり、その考えや価値観が固定化される。米国に生まれればアメリカ人、ロシアに生まれればロシア人になる。 生まれてくる人間に選択する余地はなく、そう教育されるために、それが当たり前になってしまう。思い込みにより共通の認識となる。一般常識である。
人間は本来、価値観が作られる前に、人間であるための情報提供が必要であるが、それは未だ確立されていない。数千年も前の過去の人間の世界がそのまま子孫に受け継がれている。
これが国家、人種、民族、言語、宗教等が違うことを背景に価値観を持つようになり、それぞれが自国の領土があるなどと主張し、自分たち民族が優れているなどと考え、信じる故に争いが起きる要因になっている。
人間は、人間のあるべき姿が確立されておらず、教えられていない。 国土、人種、民族などの違いが問題になるのは、人間のあるべき姿が確立されていいないためである。
人間としてあるべき情報が先ず教えられることが必要であると考える。 人間の世界を今まで勝手に作ってきた価値観ではなく、あるがままの宇宙、大自然から学び、それと調和する人間の世界を再構築することにより、新たに作る世界のことであると考える。
地震、津波、台風などの現象の理由がわからず、それを恐れ、神からの罰だ等と考えた時代は終わっている。現在それらは人間にわからない対象ではない。
古くからある価値観を止め、新たに考えることにより、信頼を築く社会を作ることが必要と考える。」
価値観は思い込みと信じることから作られるが、そこに真実はないからだ。
価値と価値観について
この世は人間が作り人間の考えでできている。
価値は自然界にはないが、人間の世界にはある。 人間の世界にあると言っても、正確に表現すると、あるのは価値ではなく価値観である。
価値があると考え、価値があると思い込み、価値があると信じることから作られているもので、物としての存在、又実体はあっても、価値という実体はない。それは人間の考えであり、思い込みのことである。
視点の違いから見える命に対する認識の違い
命はかけがえのない大切なものと考えられてきた。理由は命がなければ何もできないからだ。
シリーズ8 「命についての考察」では、「命は可能性の源」と考えていた。
そうではあっても、人間の世界では殺人事件はなくならず、戦争が起き、たくさんの人が殺されている。裁判で死刑が確定され執行される。
人間は今までに数百億人が生まれては死んでいった。例外はない。今生きていいる人も死ぬ定めから逃れられない。
命は大切であるが、魚、鶏、動物等、数え切れないほどの命は人間によって殺され、食料になっている。人間が生きていくために必要な大切な命である。人間の命を生かすために、人間以外の多くの命は殺される。
命は大切でも、人間の命だけが大切ということか?
そうであれば、命が大切なのではなく、人間の命だけが大切だということになる。
では、人間とそれ以外の命のどこに違いがあるのか?
それは、人間の命だけが大切なのはなぜか? という問いである。
「大切という考え」は自然界にはない。人間が作った価値観である。
人間の世界では、人間の価値観により、大切なものがたくさんある。
価値観とは思い込みと信じることにより作られる。
大自然の前に命が大切という考えはない。
干ばつ、大地震、津波により数万、数十万の人間が死んでも、大自然が悲しむことはない。隕石の落下により恐竜が絶滅することは現実にあったとされる。現在、隕石の落下による人類絶滅はあり得ると考えられるようになり、対処の方法が考えられている。
命が大切なのは、人間が知的生命体であり、考えることができ、命が大切だという価値観を作ったからである。
人間は考えることができるために価値観が作られる。人間の素晴らしい特質ではある。
しかし、その価値観は同時に人間に考えることを忘れさせている。
思い込みと信じることは人間の考えるという機能を奪ってしまう。
信じるとは考えなくなることである。
価値観を持つことは、考えないことである。
信じる内容、思い込んでいる内容、その点に関して考えなくなるのである。
なぜなら、信じるとは100%間違いの無いことであり、絶対正しいことであるゆえに、その点に関して考える必要はなくなるからである。疑う必要もなくなる。
価値観を持てば、信じれば、考えずにそう判断することができるようになる。
信じることが、悩み、苦しみ、悲しみ等からの解放を意味するのは、考えなくするからだ。
信じることは人間に安心感をもたらすが、考えることがなく、考えていないことになる。騙されることと同じである。
「人類は6000年もの間、答があると信じてきた。間違いを信じてきたとも言える。 わからなければいい。わからなければ、信じていても気づかない。 騙されていても、それに気付かない限り、わかりようがない。それが理由である。
「信じなさい。そうすれば、救われるのです。」
イエスの弟子、使徒パウロとシラスの語ったことばである。
昔はそれでよかった。わからなかったのであるから、気付きようがなかった。」
古代から信じられてきた多くの神々はすでに神ではない。多くの考えも修正されている。
このことは100%間違いがないと信じていても、間違いはたくさんあったことを示している。
信じたら、考えなくなってしまう。考えないことは、人間が知的生命体ではなくなることを意味する。
人間には、間違いがあるという前提がなければならない。
進歩があるのは間違いに気づくからだ。信じたら、間違いは無いことになり、進歩はなくなる。
「今人類が直面し、乗り越えなければならない課題は、真実が見えるようになったことにあるように思える。現実が何かを理解するようになったことである。
それは今までに人類が築き上げた価値観をどうしたら修正できるかという問題をつきつけているように思える。」
真実、それは人間の世界の価値観で考えることではない。
人間の世界の価値観で見るから色眼鏡で見ることになり、在るがままの真実が見えなくなる。
現在の人類が今までの間違えに気付くために、在るがままの大自然、宇宙からの視点で考えることが必要である。
視点の違いから見える命に対する認識の違い
1. 自分とは何か
2. 自分の人生をどう生きるか
3. どう終わらせるか
1.自分とは何かについて
人間はことばを覚え、話すようになり、自分を主張し始める2才頃からか、自分という意識が芽生え始める。その作られる自分の意識が、それまでの脳の働きに代わって、自分を教育し始める。自分で判断し、学習する。自分の才能や機能を伸ばし始める。が、未だ自分に気付いていない。
それまでの脳の働きと違うのは、それまでは自分という存在を知らず、気付かず、わからずにいた。自分の意志というものはなかったことである。
遺伝子と脳と新たに生まれた漠然とした自分の意識が時間をかけ、社会環境、義務教育等による情報を取り入れ、自分という存在を作っていく。このような過程を経て、自分という意識が成長し、意志を持つようになる。それが自分である。
その自分という存在をどう表現すると分かりやすいだろうか?
* 産まれる前、自分はいなかった。自分の存在はどこにもなかった。
* 遺伝子の中にもなかった。遺伝子には個人という特定の存在はない。個人を作るプログラムの元があるだけである。
* 現在、脳死は死であると理解されている。
これらの事実は人間が個人として産まれてから、自分とは脳が作った存在であることを裏付けていると考える。
自分の意志があると理解することができるようになるにつれ、自分の存在が明確になって行く。
これまでとは違い、自分の意志が脳に指示を与え、自分という存在が脳を支配するかのように、自分の考えを広げ、行動するようになる。
それは誰もが「あると思っている存在」の自分であり、それは脳にある。自分という意識は脳の働きである。
美しさは誰もがあると思ってはいても、美しさがあるのではないと説明してきた。脳の働きがなければ、美しさは存在しない。この意味は重要である。
なぜなら、人間を理解するためには、「実体がないのに、あると思い込んでいる」という事象、思い込みにより価値観が作られることを理解する必要があるからだ。
価値観が自然界になく、人間の世界にだけあるのはなぜか?
それは人間が知的生命体であり、ことばと考える能力があり、思い込みにより、「無くても、あると」信じるようになる脳の働きがあるからである。
その思い込みの影響力は計り知れない程大きく、人類の歴史を作ってきた背景である。
争い、戦争が起きてきた原因である。
価値観は人類の未来の在り方を変えるもの、意義あるものになり得る。
しかし、人類の存続を考えるなら、今に至るまで人類が作り上げた価値観には修正が必要であることに気付かねばならない。
人間には人間という実体はあっても、人間が何かという定義はない。全ての価値観が思い込みによって存在するようになるのと同じように、頭脳にある人間の存在も、思い込みによって作られているという意味である。
思い込みにより、信じているので、自分がいる。そのことを誰も疑わない。
自分が作られる元である遺伝子(設計図)は自分が作ったものではない。脳も自分が作ったものではない。にもかかわらず、脳が作り出す自分の意識は、思い込みにより、自分の体を含む全ては自分のものだという意識を持ち、当たり前だと思っている。
自分とは「遺伝子と脳と新たに生まれた漠然とした自分の意識が時間をかけ、社会環境、義務教育等による情報を取り入れ、自分という存在を作っていく。このような過程を経て、自分という意識が成長し、意志を持つようになる。それが自分である。」と書いたように、自分という意思は思い込みにより作られる。自分は、自分のものという考えに根拠はない。
人間は、幼い時期に入力された情報により国家、民族、宗教、慣習、教育された内容により価値観を持ってしまう。自分の国、宗教、民族が優れているなどと熱狂的支持者になることもある。
人間の世界に産まれてくる子は自分の国も社会も選ぶことはできない。たまたまそこで産まれただけで、その国の人間になる。国が違うだけで、まるで違う人間になる。
つまり、人間は重要な部分において、人間社会の情報により作られているという意味である。今に至るまで、その事実に気付かないために規制は無かったように思う。
人間をどういう大人に育てあげるかは、幼少の時期に何を情報として入力するかという人類の方針次第であるということになるように思える。
現在ある世界は、人類が自分達の考えで作ってきた。まさに現状はその結果である。人類の持つ基本的な価値観でさえ統一されておらず、それが理由に争いは絶えない。
人類世界は、初めから統一された価値観を持っていいるわけではない。地域、民族、国でそれぞれ作ってきた。人類は人間としてあるべき、自然界の中での在るがままの姿に気付き、修正する必要がある。それが可能なら、人間の世界を新しい世界に作り変えることができるという意味でもある。
2. 人生をどう生きるか
お金を持つことが人生の目的だという人達にも、全てが無くなるという現実である死が待っている。心豊かな人にも同じである。
初めから、無くなる物に必要以上の気を使いこだわることは、人間として賢いように見えるだろうか。大金を持って死んで行くことはできない。全てを残して死ぬのである。
生きている間、お金のために生きているのは、思い込みによりお金に価値があると思っているからである。
知的生命体である人間にとって大切なのは、生きていることの意味であり、人生を楽しむことにあると考える。
過去のそれぞれの時代には、その時代の生き方があった。
その時代の社会環境があり、そこから抜け出すことはできなかった。
日本の太平洋戦争の時代、戦争に巻き込まれた人生があり、230万の日本軍人と80万の民間人が死に、多くの人が想像できないような苦労を強いられた。
それより昔の江戸時代には、飢饉により百万人以上が餓死したこともあった。
江戸時代の前は、日本が統一されるまで戦国時代が長く続いた。
文明が発達していない時代には、自由も人間性という考えもなかったように思える。人種や性別により差別はあって当たり前だった。人を人と思わない時代が続いた。人はどんな状況下にあっても、その時代と共に生きるしかなかった。
現在、多くの国で、人権が認められるようになり、人間としてどう生きるかを考えられる時代になった。その意味では、今ほど恵まれている時代はないように思える。
長い時代を通しての経験と反省から戦争することは愚かであることに気づくようになった。人間の存在の意味がわかるようになってきた。人類の今までの歴史は、人間が知的生命体であることに気付くためにあったように思える。
人間にことばと考える力があることは、文明を進歩させてきただけでなく、人間の存在の意味を明らかにしてきた。人間が特別な存在であるのは、意味を持たせることができることにある。 人間が優越感を求め、利益を追求し、好戦的であることを止め、新しい人間の世界に作り変えることができる。
人間の持つ面白い、楽しい、美しい等の感情は人間の脳と五感があることによる。五感からの刺激が脳に伝わることにより、人間は興味を持ったり感動したりすることができる。
楽しい、面白いと感じるのは人間の脳の働きである。大衆は勘違いしてきたように思う。対象となる物そのものに楽しい、面白いがあるのではない。人間にそう反応する機能があるからだ。人間は生きている間、生きている喜びを学び、命を大切にすることができる。素晴らしいと感動を味わうことにより、生きていることを楽しむことができる。
命があるので、自分の持つ可能性を伸ばすことができる。
トーマス・ジェファーソンは次のことばを残している。
「あなたは自分が誰か知りたいですか。では質問をせずに、行動しなさい。行動があなたを描き、定義するのです。」
これは個人に対することばであっても、今までの人類の歩みを示しているように思える。
命があるから、自分の限界にチャレンジすることができる。
人間社会に信頼を築き、社会のために自分の命を最大限に活用することができる。
それは、素晴らしいと思える人生を生きることができるという意味であり、人間という生命体の素晴らしさを知ることである。、
人類社会のために生きる。
人生を楽しむことができれば、生きていることに大きな意味を感じる。
ただし、人間には今も優越感があり、比較することで自分の方が優れていると思いたい傾向がある。戦争を始め、敵だ、味方だ等と考えること自体が愚かであるのに、指導者により兵隊は正義のため、自由のため、自国のため等の価値観を持たされ、人間であることを忘れさせられる。
利己的であることは、好戦的になり、知る喜び、理解する喜び、信頼する喜び、愛する喜びを忘れさせ、悲惨な結果を生み続ける。
人間でなければ知ることも、理解することも、経験することもできない素晴らしさはたくさんある。
「感動するのは、それは人間としての励ましとなる資質、人の謙虚さ、人のやさしさ、誠実さ、助け合い、愛情など、みな人の心が関係している。
人が心を動かされるのは、人が持つ認識が心と深い関係があるからのように思える。」
最近トルコとシリアで起きた地震で5万人以上が犠牲になった。
人間社会だけが、災害が起きた時に助けを差し伸べることができる。
救援、支援をすることに人間は喜んで働く。ここに人間の意味がある。
互いを信頼する社会を築き、人間の世界を信頼に基づく社会に作り直す必要を感じる。
この世は人間が作り、人間の考えでできている。その考えは諸刃の剣のように破壊と救援を可能にする。人間の世界であり、価値観によって違う見方をするからだ。
人間の世界を大自然に調和した新しい世界に作り直すために、人類社会を守るために、個人が持つ自由の意味と人類社会に対する責任を明確にすることが必要であると考える。
3.人生をどう終わらせるか
死を待つことに意味はあるのか?
あると思えばあるし、ないと思えばないことにできる。
人間は知的生命体であり、考える能力があり、理由はどのようにでも作り出すことができる。
ただし、それでは、今までの人類の在り方と同じである。
大自然、無限の宇宙という現実から考えることで、元々あるあるがままの姿に修正することはできないか?
人間だけが生きることの意味を知り、理解することができる。人間に考える能力があり、理由を作ることができる。それは人間が死を選び、人生を終わらせることができることを示している。
死に関する考えについて (雑感)
* 死が痛いとか、苦しいということはない。
生きているから苦しみを感じる。恐怖も心配も生きているから感じるものである。死は苦悩からの解放を意味する。
* 存在があるのは脳の働きがあるからで、脳死は存在がなくなることを意味する。生きていると実感できるのは脳が働いているからである。
* 人間は何年生きれば幸せか?
単純に長さではない。生きる質の問題に思える。
日本人の寿命は江戸時代の寿命のおよそ2倍になった。寿命は伸びても、心の平安、喜び、幸せは半減したかもしれない。
* 単純に「長生きすることは良いことだ」のような考え方は止めるべきではないか?
年をとれば健康を維持するのは大変である。介護などたくさんの支援が必要になる。若い人の負担が大きくなる。
地球は有限であり、すでに人口は十分に多い。
* 生命や死に対する見方が変われば、法律も変わっていく。
* 苦しみを伴わずに死ぬことは、現代の科学をもってすれば十分に可能である。
ただし、安らか、楽しい、苦しいも、生きている脳の反応である。
生きていること、生きている内に、幸せを実感することに意味がある。
* 死がないとは永遠に生きることである、永遠の命と考えていた。しかし、見える世界に永遠のものはない。恒星の寿命は100億年、太陽でさえ残りの寿命は約50億年。人間には、永遠の命の意味はわからない。信じる人だけが、考えずに、わかった気でいることができる。
* 人はなぜ生きなければならないのか?
生きなければならないという理由はない。人は皆、気付いた時には生まれていた。
生まれる前、自分の存在はなかった。生まれてから、自分という存在が作られた。それは脳の働きによる。脳の死は自分の存在がなくなることである。生まれる前に自分の存在は無かったことと同じである。
* なぜ安楽死は許されないのか?
許されないのではない。人類が決める段階に未だきていないだけである。
安楽死はただ楽に死ぬことであるが、自殺のように思われやすい。
人が簡単に死なれては困ると思う人がいる。
人が自殺するのは許されないと考える人がいる。
自殺は間違いで、生きることを考えるべきだと思う人はいる。
* 安楽死は多くの人の助けになる。多くの人の救いとなる。
人間に元々権利はないが、自由はある。
死ぬのは自由であるが、死後迷惑はかけたくない。ポックリ逝きたい。
死ぬ前に、自分の持ち物等を整理して安楽死に望みたい。
* 生きたいと願っていても、死を望む以外に救いのない人はいる。
生きたくないなら、無理して生きる意味はあるか?
* 生きたくないという理由に問題がある。
生きたくない理由には、病気や事故などによる耐えがたい苦痛がある時、個人の失敗による責任が追及される時、経済的にやっていけない時、うつ病などの精神病の悩みがある時、その他が考えられる。
* 死は苦しみからの解放である。これは現実である。
安楽死は死に至るまでの短い間を安らかにする、楽にするという意味である。
それを選択したら、後戻りは永久にできない。
ただし、知っておくべきことがある。遅かれ速かれ皆必ず死ぬ定めにあることだ。
必ず死ぬのであるから、自分にとって最善の時を選びたい。
自分の意志がはっきりしていることが条件になる。
家族、友人、地位、名声、財産など、多くを持つことは、失うものが多いということだ。
どこかの時点で死は必ずやって来る。その覚悟をしておくことは大切だと考える。
* 安楽死は年老いた人間として自分の最後を決める際に、尊厳死として非常に有効であると考える。死を苦しみからの解放の意味だけでなく、幸せに人生を終える手段になり得ると考える。
* 年老いて、人が生きてきてよかったと思う理由を考えてみると、
年老いても家族、友人など人からの支えを感じ、感謝の気持ちを持っている時、
自分の人生を振り返り、人のために自分を十分役立てたと思える時、
人間としての誇りを感じ、人間の素晴らしさを実感できる時などがあると思える。
自分がわからないなら、自分が生きていることさえわからない。
安楽死は、当人の意識がはっきりしていることが必要条件になると考える。
個人的結論?
生命体は生きることを望んで、願って生きているのだろうか?
生命体と言っても、高度な知能をもっている人間は例外で、生きることを願い、生きたいと思うことができる。人間以外は人間のようなことばを持たず、考えることさえできない。
遺伝子により、プログラムにより、危険回避はするし、生きようとしているように見えるが、思考による考えではない。動物は生きたいという考えは持っていないと思われる。
人間だけが、自分が食べられたら嫌だから、動物もそうだろうと思うこともある。しかし、それは勝手な考えに過ぎないだろう。動物には高度な考えるという能力はないからだ。人間以外の動物には生きたいという考えはない、と思う理由である。
それ故、人類が食料にする目的で動物を大量に殺しても、それは良い悪いの問題ではない。生命体が生きるためには、食べるために殺す以外に方法は無いように思えるからだ。これは現実である。
殺すとは、生命体の持っている未だ生きていられる時間、可能性を奪うことと書いた。人間が殺人を犯すことは、他人の生きる権利と可能性を奪うことであると考える。
人間社会にはルールがあり、殺人はルール違反であり、違反者はルールによって裁かれる。
人間は長い間、自殺を自分を殺すことと考えてきた。
しかし、自殺は自分の生きる権利と可能性を奪うことなのか?
そう思えるかもしれないが、実はここに考える余地があると思われる。
元々自分のものであれば、奪うという表現は適切ではない。権利が自分にあれば、奪うとは言わない。自分の命であるのであるから、奪うではなく、終わらせる、可能性を終わらせるが適切な表現に思える。
人間は生きたいと願うことも、死にたいと願うこともある。その願いは人間に高度な思考力があるから可能なのであり、人間以外に考えて自分から死ぬことを選べる生命体は地球上にはいない。考えることができる人間であるから選択肢がある。死を選べるのは高度な知能を持つ人間の特別な能力であると考える。
安楽死は自分を終わらせることであり、自殺ではない。安楽死は自分の命を奪うのではなく、自分を殺すのではなく、終わらせることである。
ここに、人間としての尊厳死、人間として自分の一生を終わらせることのできる意義があると考える。安楽死は自分で自分の運命を決めることであり、他界する際にこれ以上にふさわしい方法は無いように思える。
生きたいと願っていても、死を選ぶしかないような場合、また後期高齢者の意志が明確な内に選択肢として安楽死を選びたい場合など、その選択を尊重することは人類としての責任であるように思える。
長い間、人間はどのように死んでいくのが最善なのかわからないので、自然に死ぬのに任せるしかないと思ってきた。人を生かすことだけが医師の務めのように考えてきた。それが今までの医学の目的だったかもしれない。
人間の世界は人間が作り上げた世界で、人類の進歩と共に変わていく。
尊厳死として、人が楽に死ぬように助けることも医者の務めになる時が来るように思える。
マイケル アレフ 2023年4月
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