マイケルアレフのことばの認識は世界を変える シリーズ27 死についての考察 自然界に死はない理由 人間の赤ちゃんは全く無防備に見える。生れた頃の赤ちゃんは恐怖を知らない。命の危険があっても、回避する行動は取らないし、取れない。人間の赤ちゃんはすべてをその両親を含めた社会からの保護を必要としている。 時代も環境も個人の能力などにもよるが、一人前になるまでにおよそ18年もかかる。その間に、人間の場合は教育により、危険なものがあることを学習する。その中で恐れや恐怖の感情を身に着ける。 恐怖は人間に初めからあるものではない。人間の危険回避という行動は他の生命体と違い、教育により作られたもの、学習により身に着けたものである。 人間の世界から見ると、自然界に死があるように思える。 生命体が時を経て活動を停止し、朽ち果て、存在が無くなっていくのを見て、人類はそれを死と表現した。それは自然の中にある。ただそれだけである。 死という単語は人間が作ったことばであり、考えを伝えるものである。 人間は死を恐れる。しかし、人間以外に死を恐れている生命体はない。 なぜなら、人間以外は、死があることさえ認識していない。 高度な知能を持たない生命体は死ということばを知らない。 死とは、人間が作ったことば(単語)である。 自然の中に死は無い。人間の世界だけにある。 死は人間の考えにより作られたことば(単語)であるからだ。 人間以外の多くの生命体が危険回避行動を取るのは、死があることを知っているからではなく、遺伝子の中にプログラムされているからである。 自然界には星でさえ、新たに生まれるものもあり、消えていくものもある。 活動を停止し、朽ち果てていくように見えるので、人間の考えで言えば死である。 しかし、それは単純に終わりではないだろう。リサイクルと考えることが必要なのかもしれない。 人類は死が何かをわかろうとし、想像による世界を作りあげてきた。 人間は死を恐れる理由を作って納得してきた。しかし、人間がわかろうとしても答えはない。 わからないから人類は死後の世界を作り、天国、地獄を作り、神、神々、悪魔、幽霊、なども作ってきた。結果として、人類は現実に無いものをたくさん作り出してきた。 高度な知能を持つ生命体でありながら、人間は虫、魚、動物と同じように死んでいく。 地球上で最強になるだけの知力があるのに、今も知能の無い生命体と同じように死を迎える。 現在わかっている人間にとっての死とは、脳死が死である。 人間の死は脳死と共に自分という個人の持つ記憶、存在を含め全てが失われることである。 個人としての知的生命体の終わりを意味する。 過去に数百億という人が生まれては死んで行った。今その数百億の個人の存在は無い。 今までにその数百億の人類は何をし、何を残してきたのだろうか? 個人の存在は残らないが、人類の記録と今ある世界が残されている。 人類は子孫を残してきたが、それは遺伝子の働きが大きいと考える。 これから先、人類は何を残していくのだろうか? それには人類が未来に存在するという条件が必要である。 もし人類が絶滅種になるなら、その存在した記録の大半が失われてしまう。 知的生命体である人間の持つ素晴らしさが失われる。 個人の働きや功績も含め、人類の進歩を示すものすべてが失われる。 たくさんの生き物が食料として殺されている状況下で、人間の命だけが大切なのはなぜか? 「大切、重要という考え」は自然界にはない。人間が作った価値観を示すことば(単語)である。人間の世界では、人間の価値観により、大切、重要なものがたくさん作られてきた。 価値観とは思い込みと信じることにより作られる。 人間には命は大切である。しかし、大自然の前に命が大切という考えはない。 干ばつ、大地震、津波により数万、数十万の人間が死んでも、大自然が悲しむことはない。隕石の落下により恐竜が絶滅することは現実にあったとされる。現在、隕石の落下による人類絶滅はあり得ると考えられるようになり、対処の方法が考えられている。大自然は人類の絶滅など気にしていない。 命が大切なのは、人間が知的生命体であり、考えることができ、命が大切だという価値観を作ったからである。 真実、それは人間の世界の価値観で考えることではない。 人間の世界の価値観で見るから色眼鏡で見ることになり、あるがままの真実が見えなくなる。 人類はやっと気付き始めたのではないか? 人間は高度な知能を持ってはいても、人間は特別な存在ではない。特別な存在だと思いたいだけである。 今までに数百億という人間は死んだ。神様が人間を特別に守ってくれるということはない。 人類は絶滅種になり得ることを知るに至った。人類は価値観を見直し、信頼を築き、協力して人類の諸問題に対処しなければならないことを。 2.脳死ということばの意味は、今までに築き上げた人類の考えを根本的に変えしまう。 50年ほど前であれば、見るものを認識しているのは脳であるということは一般的でなかったため、目が見て、物を認識していると考えていた。りんご、みかんがあれば、目が食べ物と判断していた。五感が脳の働きであることを知らなかった。 「わかる」とは脳の働きである。「わからない」も脳の働きである。 「死んだことがないのにどうしてわかるのか?」に対する答えがここにある。 「死んだことがないのにどうしてわかるのか?」 この質問自体に人間にとっての限界を超えた考え、矛盾が含まれている。 人間は死ぬという経験をすることはできないからである。死は経験できることではない。 経験するためには生きているという条件が必要である。 脳死の状態は、死を経験することが不可能であることを示している。 示された事実は、人間に死後はないこと、死後の世界は存在しないこと、すべての生命体も同様に死後はないことを伝えている。 答がわかるようになってきている現在、それを受け入れられるかが人類にとって大きな試練であり、歴史的大転換期であると考える。 人間の中には、理由はどうであれ、死んでも生きていたいと願う人はいる。 皮肉なことに、それは人が生きているからであり、生きている間ば脳の働きにより、どのようにでも考えることはできるからである。 数千年間そう願ってきても、真実は現実であり、それを受け入れて先に進むことが人間として、人類としての定めのように思う。 ことばはその時代の情報によって影響を受ける。 未来において脳の働きが十分に認識されるようになれば、人間の持つことばは、今とは大きく違う世界を作り出す可能性はある。 脳の働きがあるから、五感に意味がある。生きているという実感を持てる。人間という存在が素晴らしいと考える理由である。 自分という意識は、生まれてから脳が造り上げた思考と感情による自分という存在のことであり、死と共に無くなるものである。それは生まれる前に自分は存在していなかったことと同じである。 宇宙の中の星でさえ、新たに生まれ、死んでいくという星の一生があることがわかるようになっている。 単なる思い付きだが、宇宙にある生命体を含むすべての存在は、物質としてのリサイクルというシステムの中にあるかのかもしれない。 自分の人生、死んでからでは何もできない。 自分の人生と向き合うことができるのは生きている今である。 今までに死んでいった人の数は数百億人、その多くは記憶に残っていない人びとである。それは人間にとって大切な先祖の意味であると考えられてきた。 ・それほどの数の人をどうやって敬い、大切にできるのか、という質問が生じる。 ・何をすることが敬い、大切にすることなのか? 脳死は死後の世界を否定する 脳死は死んだ人に意識はないことを明らかにしている。 死んだ人に何かをしてあげることはできない。喜んでもらうことはできない。 死者に何をしても意味はない。生きている人にしか意味はない。 昔からの教えであっても、昔はわからないという事情があった。 天国、地獄があり、死んでも魂は生き残る等という考えを信じていた。 わからないから、何でも想像で、あることにしてきた。 皆と同じであれば安心できた。そうでなければ異端者扱いされた。 真実はわからなかった。 人類の歴史が始まって以来数千年にわたり信じられてきた考えを簡単に変えることはできないと思う。新たな考えを人類すべてに受け入れられるには相当の時間を要するだろう。 しかし、在るがままの現実は、人が認める・認めないに関わらず、真実である。 脳死は存在が無くなることを明らかにしている。 死んだ人が何かをして欲しい、ありがたいと思うことはない。 何かをしてあげても、死んだ人には意味がない。 死んでからではなく、生きている内に、脳が働いている間に、できることをしてあげることに意味がある。ありがたいと思える内に、できることはしてあげることだ。 死んでからでは、全てに意味がなくなる。 何かをするのは、死んだ人ではなく、生きている人、残っている人間のためにある。 葬儀は死んだ人には意味は無い。生きている人に意味があるだけである。死んだ人のためにやっているのではない。この事実を受け止める必要がある。 脳死の意味を理解できれば、昔からの考え方を修正することができる。 追記: 人類は今までに何を残してきたのだろうか 前回以下のように書いた。 過去に数百億という人が生まれては死んで行った。今その数百億の個人の存在は無い。 今までにその数百億の人類は何をし、何を残してきたのだろうか? 個人の存在は残らないが、人類の記録と今ある世界が残されている。 それは何を意味しているのだろうか。 人は生きている間、人間社会に協力して、人類にとって大切なものを生み出し、人類に変化をもたらしてきた。個人の人類への貢献のことである。 どんな立場、どんな仕事であっても、人それぞれが協力して人間社会を作っている。 個人としては全体が見えないから、個人の人生が何を成し遂げているかははっきりとは見えない。 しかし例えば、科学の進歩は人類が残してきた具体的に見える働きの中の一つであるように思える。人類は今までに、在るがままの現実を追求し、その意味を知り、理解し、新しいものを作り続け、人類の存続を可能にしてきた。 個人は死と共に無くなっても、人類にとって貴重な知識、経験、芸術、研究成果などを残してきた。それは個人が人類という存在を作っているように考えることができる。 個人としては大きな意味に見えなくても、人類として文明を作り上げ、地球上でその存在の意義を示している。 人類を一人の地球人、人間の集合体から作られた地球上に存在する一人の巨人のように想像し、例えとして考えてみる。 すると、人間を個人と見ていたのとは違うものが見えてくる。 視点を個人から人類全体を一つの地球人としてみるとどう違って見えてくるのか? 地球人としての一人の巨人は人間の集合体である人類により成り立っていて、その細胞に相当する個人は新陳代謝により入れ替わり続けている。 個人の集合体は様々な組織を形成し、国家、国連などがある。人体で例えれば心臓、肝臓などの臓器として、目や鼻や口のような働きをする組織として、血管や神経のような組織として働いている。 全てが同じ人間という細胞から作られていても、様々な働きをして、巨人である人類を支えている。 体の中で全ては重要であり、それぞれが働く目的を持ち、情報交換をして、協力して体を支えている。どれ一つでも傷つけば、体全体が痛みを感じる。 脳は人類として考える役割を果たすべき国連のような組織と考えることができる。 時に戦争のようなガン細胞などができ、巨人である人類に脅威を与えることもある。 その巨人は地球に生まれ、成長し、子供から大人へと変化ししていく。 やがて地球から宇宙に向けて旅立つ時が来るのかもしれない。 これが人類の姿のように思える。 細胞である一人一人が人類を支えている。 こう考えれば、人類を支えることが、人間個人の生きている目的として理解することができる。個人は皆死ぬ定めにあり、新陳代謝により新しい細胞と入れ替わっていくが、全体としては人類として生き続けていることになる。 個人は人類を支えることにあるという目的を持つことができるのではないか? 人類が地球上で争っていてはその存在さえ失われる可能性がある。 人間を構成する一つ一つの細胞がその体を支え、維持、管理、運用しているように、 人間一人一人も地球人である人類を一つの体のように、個人の目的が人類を支えることにあると考えることができるように思える。 こう考えれば、個人の命は人類として続いていることになる。 マイケル アレフ 2023年4月 |