マイケルアレフのことばの認識は世界を変える

ことばの認識は世界を変える シリーズ20

2025年1月 デカルトの考えの背景の修正

2019年6月 自分とは何かについて

2025年1月

デカルトの「我思う故に我あり」という表現の背景に修正が必要な理由

およそ400年前、現代の情報量と比べ情報量の非常に少ない時代に、現代哲学の基礎を築いたデカルトは人間の持つ知力の素晴らしさを示す業績を残した。
「我思う故に我あり」という言葉は、考え尽くした結果として知られている。

しかし、どんなに素晴らしい考えであっても、時代と共に変わる定めにある。
科学の進歩により、新たな発見に伴い、それまでの考えが修正されるからである。

「我思う故に我あり」という言葉の背景に問題があることは、長い間気付かなかった。その問題とは、以下の二点を知らなかったことにあると考える。

1. 人が産まれる前にも、産まれた後にも、我という私/自分という存在がないこと。
2. 産まれた後に脳が自分という存在を作っていること。

デカルトの時代には二つの情報がなかった。
1. 人間の体の全てが、針先ほどの受精卵の遺伝子により作られること
2. 脳の存在とその働きについての基本的な知識がなかったこと
である。

産まれたばかりの新生児の脳は未だ白紙に近く、自分という存在も、自分という意識も無い。
新生児の五感は未だ十分に機能しておらず、入力される外部からの情報は無いに等しいからである。

新生児は言葉を教えられ、言葉を学び、覚え、真似し、話すようになるまで、自分という意識は無い。

話すことにより、食べたいなどの意思表示をするようになることが、自分で考えるようになった証である。考えることができるようになることが、自分という存在が作られ始めたことを意味する。

我思うという段階で、考えている自分がいることは、今も変わらない。
しかし、我思うという時点で、脳はすでに、私という自分の存在を作っている。
デカルトの考えには、自分が作られるという人間の成長過程が抜けている

私という存在があるのは、産まれた時からではない。
産まれた時から自分がいるのではない。
悩によって作られる過程を経て、自分がいるようになるのである。

およそ400年前の当時において、誰もその事実に気付くことはできなかった。
医学を含む科学の進歩が未だ情報を提供していなかった。
今のような情報のある時代に生きていたのではない。それ故に、彼の業績は、人間の知力の素晴らしさを示すものとなった。


ここで、「人間に存在はあるか?」という質問を考えてみる。

勿論、人間に存在はある。実体という存在がある。
ただし、それは自分の体のことだと思っていても、体は自分で作ってはいない。
人間の脳を含む体の全ては、遺伝子によって作られたものである。

自分の体は、自分が動かしている手足のように思えるが、体の大部分は、自分の意志で動かしてはいない。脳が動かしている。

神経、血液の流れも、心臓も、肺も、肝臓や腎臓も自分の意識とは関係なく運用、管理されている。
にもかかわらず、人間は、脳を含め体の全部を自分だと思っている。

それに加え、人間は、自分という存在、私がいると思っているが、その私である自分の存在が何かも分かっているとは思えない。

これは、分かっていないのに、思い込みにより信じることで、無いかもしれない存在が在ると信じていることと同じように思える。

太古の昔から、神様のいる天国があり、悪いことをすると地獄に落ちるなど、今も人類の大半がそう信じている。

人間は長い間、無いものを在ると信じてきた。それはわからなかったことが背景にある。わからなければ、鳥や動物、人が作った偶像でも神様になる。何であっても、それが地球外生命体であっても神様になったと考えられる。
神という言葉は、人類の無知の象徴である、と書いた理由である。

以上のことからわかってくるのは、人間という言葉に明確な定義は無く、確かなものはないと思えることだ。
ただし、それが事実だからこそ、人間には自由を楽しみ、人類が進歩してきた理由があるとも思える。人間がどのような存在にもなりえるように思えることは、知的生命体の素晴らしさを示すとも考えられる。

これが人間であることの意味であるのではないか?

それは、今までの人間の世界は人間の作った世界であり、事実に基づいている世界とは言えない。人間にとって都合の良い世界を作ってきたからと思える。
事実とは、良いことでも、悪いことでもなく、在るがままの大自然に見られる。

この事実の上に人間の、人類の新たな理想の姿を考え、その土台に人類の世界を築くことが必要に思える。

宇宙に存在する全ての知的生命体は、その成長段階において、人間と同じような定めにあり、わからないことを背景に、自らの存在と世界を築いているように思える。
在るがままの事実に気付き、自分達の世界を修正し、大自然に調和した生き方をするなら、優越感が支配する世界は無くなるように思える。それが知的生命体の目指す調和の世界ではないのだろうか


2019年6月 自分とは何かについて

ことばの認識は世界を変える シリーズ20
「自分とは何か」について 

今からおよそ400年前(中世)に近代哲学の父と言われるデカルトは認識することの課題に挑戦し、自分の存在に目を向け「我思うゆえに我あり」と結論を出した。「私は考えている、だから私は存在している]と。

当時、遺伝子の存在は全く知らない時代である。脳についての知識もなく、脳の働きを十分に知ることはまだできなかった。そのため、ここで言う「考えている私」と「存在している私」の違いはわかりようがなかった。

確かに考える故に「私」があるということは正しいように思えるが、それだけでは全体を表していない。ここに出てきている「私」の意味がはっきりとしていない。

まず、遺伝子が脳を含む人間の体全体を作っているという理解が不足している。そして人間として生まれた時から人間の脳が学習を通して「私」つまり自分という認識を作り続けていることを知らなかった。

「私は考えている」と言う時点で、「私」はすでに存在していることに注意が必要である。
ここでいう初めの「私は考えている」の「私」とは遺伝子によって造られた人間の体全体、特に頭脳を指している。
その後の考えている故に存在している「私」とは頭脳によって造られた「自分という意識」のことである。

同じ私という言葉が使われているが、その「私」が当時はわかりようのないものだった。遺伝子と脳に関する知識がまだなかったからだ。しかし現在、考える故の「私」とは何かを知ることができる。

考える故の「私」とは、脳によって作られた自分のこと、自分という存在、自分という意識のことである。脳そのものが自分という意識を作り出している。

何かを考える自分がいるが、考える故の自分は、脳によって作られた存在である「私」であり、自分という意識のことである。


生命体は遺伝子によって支配されている。遺伝子のプログラムにより製造された人間はそのまま遺伝子の指示により生きることになる。生れた時、自分の意思はまだない。
人間の場合、脳が重要な意味を持つ。脳は自分という「私」を作り出し、完全な自分が存在しているかのように思い込ませてきた。

思う故の「私」つまり「自分」とは脳によって生み出された、作られた自分という意識であり、実際には「永遠の自分」は無いのに、生きている間だけ、脳が働いている間だけ、あると思っている。自分とは実際には死と共になくなる存在で、
生きている間だけ存在している実体である。

しかし、自分という意識が脳によって造られることはわかっても、脳のどこにそれを造る場所があるかはわかっていない。今後の課題になると思われる。
可能性であるが、自分の意識とは脳によって造られる自分の幻影のようなもので、脳細胞の中には無いことも考えられる。

これが自分の本当の姿であるのかもしれない。

人間は生まれる前、その存在は無かった。産まれてから脳が自分という存在を作ってきた。人間の脳には学習機能があり、経験を通して様々なことを学んだ。記憶に残され、一生を振り返ることができる。その存在の意味は脳にある。脳が死ねば、その個体の存在は無くなる。生れる前に戻ることと同じである。それは脳死が死である理由である。

マイケル アレフ  2019年6月