脳と遺伝子と私

基本的に自分を意識するのは脳の働きである。
その脳がなくなれば自分もなくなると考えるのが自然だろう。

今からおよそ400年前(中世)に近代哲学の父と言われるデカルトは認識することの課題に挑戦し、自分の存在に目を向け「我思うゆえに我あり」と結論を出した。
この言葉は確かに正しかった。今風に言えば、「脳がある故、自分の存在がある」と。

生命体は遺伝子によって支配されている。遺伝子のプログラムにより製造された個体はそのまま遺伝子の指示により生きることになる。そこに自分の意思はない。

人間の場合、脳が重要な意味を持つ。脳は自分という「私」を作り出し、完全な自分が存在しているかのように思い込ませる。私とは脳によって生み出された、作られた自分であり、幻想である。

脳が存在する間だけ、自分が存在しているように錯覚させられている。本当の(完全な・絶対の)自分(永遠の自分)など存在しない。しかし、(生きている間だけ)そう思い込んでいる自分がいる。

自分とは
一生かかっても自分の存在に気付かず、ただ存在しているだけの人もいる。
自分がやりたいことをやるという意味で欲望のまま一生を終えていく人もいる。
「自分とはいったい何なのか」などと考えない人も多い。

人工知能の研究はだいぶ進んでいると思うが、プログラムを通して「私」が存在するようになるかどうかという課題は興味深いが、次元の違う大きな問題が関係しているように思う。個人的には脳の中に「私」を生み出す力が存在すると考える。
「自分とは何か」という課題は長い間の研究を経て、わかってくることのように思える。

初めて自分の存在に気付いたのは幼少の頃だと思う。漠然とだが、「自分は何?」という疑問が生まれた。自我の目覚めの時とも表現できるかもしれない。

生まれた環境が自分の存在を教え続ける。
個人の名前が与えられ、使うことで、一人の個人であることを教え続けられる。
好きなもの、楽しいこと、嫌いなもの、など教育される。
周りの人の考え、感情が刷り込まれる。
そうした中で自分の存在をよりはっきりと認識するようになっていく。

こうして形成された自分はもちろん未熟であり、ある意味成熟に向かって成長を続ける。

自分が生まれ育った環境の大半は自分自身によって選択したものとは到底言えない。
さらに重要な点として、生まれた時にはすべてが受け継いだものであった。遺伝はそれ以前の両親を含め先祖からのものである。それまでの先祖の中に自分は全くいなかった。ただ未来の自分の存在を決める遺伝子は存在した。遺伝子を受け継いで生まれた自分はすでに過去からのすべてを受け継いでいる。そこに自分の選択肢はない。過去のすべての人にも選択肢はなかった。

こうして生まれた個人である自分は一部とはいえ過去の先祖のすべてからものを受け継いだ人間である。その意味ではすべての人が同等の立場にある。

確かに、自分が形成されるまでに大部分が決まっていたのは事実であっても、自分の存在に気づいても気づかなくても、自分の意思次第で自分の世界を変えることは可能である。
生まれた環境がどうであれ、個人の成長と意思次第で未来の個人としての結果はそれぞれ違ってくる。

成長することとは
1.自分の存在に気づく前に、自分が形成されること(遺伝子、家族、環境、教育、等)
2.自分の存在に気付くこと
3.自分の意思と成長
4.自分の終焉

この事実を知っている「私」は相続した自分を超えるものを模索している。今の自分ではどれほど努力しても制限された人間の領域を超えることなどできない。しかし、人類に時間が無限に許されるなら、その枠を超えることも可能になるかもしれない。

繰り返しになるが、私とは脳によって生み出された、作られた自分である。
脳が存在する間だけ、自分が存在しているように錯覚させられている。
本当の(完全な・絶対の)自分(永遠の自分)など存在しない。
しかし、(生きている間だけ)そう思い込んでいる自分がいる。

「我思う故に我あり」は以上の意味であると考える。

今後、人は「私」という考えを変えることになるだろう。
基本的に自分を意識するのは脳の働きであり、その脳がなくなれば自分もなくなると考えるのが自然だ。
そう考えれば、永遠の命、天国、地獄、神、精霊、天使などに惑わされることなく、真実の自分の姿を見つめることができる。作られた「私」であるが故に、「私」を変えることも可能である。

人類はヒトゲノム遺伝子を受け継いでいるという意味で、皆兄弟であり、皆一人一人遺伝子に対して同じように責任を負っている。人間本来の姿は自由である。大切に「私」を守り、育て、人類の家族のために生きることが一人ひとりの責任であると考える。 

マイケル アレフ