思い付き ☆15
「自分を愛する、あなたを愛する」と表現する時の自分、あなたとは何かについて
最近書いた「自分とは何か」の中に、
「他人が私を愛すると表現する時、私である自分とは何を指しているのか。あなたを愛すると表現する時、あなたの何が、どの部分があなたなのか。
それぞれの自分のことであるとはわかっても、ここで言う自分とは、漠然とした曖昧な存在の自分のことであるように思える。自分が何かと問うても、大部分はわからないし、わかっていない。」と書いた。
全体としての自分、全体としてのあなたであることはその通りと思う。
「自分とは何か」の初めの部分で、
自分とは遺伝子が作りあげた頭脳と体そのものを指しているが、それ以外に脳が作りあげた「自分という存在、自分という意識」があることを書いた。
少し分けて考えてたらどうかと気付いた。
愛する対象としては個人差は大きいと思われるが、(望ましいと思われる部分のことだけであるが)
・その人の性格、やさしさ、頭の良さ、気立ての良さ、思いやり、親切、誠実な人、などという部分は自分という意識、あなたの持つ認識、そこから出てくる人間性、内面のことであると考えられる。
・また若い時には特にそう思えるが、異性の体、スタイルなど一部として目や顔の美しさ、髪や笑顔、胸、足などを挙げる人はいるだろう。
この部分は遺伝子で造られた体のことである。
この二つの点には違いがある。人を愛する時にはこの両方を意味するが、その重みは人によって違う。つまり外見か内面かというように表現できるように思える。
「人を引き付ける部分は体の見える部分や声などが主であるように思える。人間として認識できるのはこうした部分だろう。」と書いたが、見えない部分である心や内面、人間性と表現できる部分も人によってはより重要な意味を持つように思える。
「自分とは脳とその管理下にある体すべてを指していると思われるが、わかっているのは自分という脳の働きによる一部分だけである。つまり、自分の体のことはほとんど何も知らない、外見しか見えない。内部は見えない、相手のこともほとんど何も知らない。表面的なことだけである。それだけであなたのすべてが好きだなどとも表現する。
大抵は外見に現れる一部分で、その人すべてを見ているつもりになるのだろう。
自分の何が自分なのかは実にあいまいである。自分のことも、相手のことも、誰のことでもほんの少ししかわかっていない。」と書いたが、修正が必要に思える。
外見と内面、実はここに、大きな違いがある。確かに自分の体のことはほとんど何も知らない。しかし、脳が創り上げていく自分という意識と認識、これは内面のことであるが、心や人間性が関係している。より重要な意味を持っているように思える。
マイケル アレフ 2019年8月
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