ことばの認識は世界を変える シリーズ16 
   真理、真実、現実、そして信じることについて

前置き:

人間の世界に疑問を抱き、生きて行くことに希望を持てず、生きている真実の意味を知りたいと願う若い人達は多い。その多くは、誠実で、真面目な人達である。  ・ ・ ・ ことばの定義より

高校生の頃、「真理はあるのか」と真剣に悩んだ時期があった。
ここで言う真理とは「生きていることの真実の意味」であり、間違えの無い、普遍的なものという意味である。

当時1960年代はベトナム戦争があり、大学紛争があり、機動隊と学生が衝突を繰り返していた。入学式に学生運動家が講堂を占拠する事件も起きた。連合赤軍の活動がエスカレートし、日本赤軍が生れていく時代だった。テレビでは栗塚旭の「俺は用心棒」がテレビで放映されていた。虚無感にあふれた虚しさの漂う時代であった。そんな高校生の頃、次の命題を考えた。

「人間に真理を断定することはできない。」 ・ ・ ・ まもなく問題に気づいた。
この命題を語っているのは自分、人間であるから、命題自体を否定することになる。
すると真理を断定することはできるという意味にもなる。
これはことばの矛盾であり、ことばそのものに限界があるからだと考えるようになった。

小学校の国語の時間だろうか「ないものはない」というお店のことを学んだ。「ないものはない」のは当たり前である。同時に「ないものはない」なら、なんでもあることにもなる。
ことばの限界ではないかと考えられる。

クレタ人が「クレタ人はみな嘘つきだ」と言ったという有名な話に似ている。
クレタ人がすべてのクレタ人であると考えると矛盾が生じる。しかし、すべてのクレタ人が嘘つきであることは考えられない。誠実な人もいるだろう。嘘つきということばが「話すことが全てうそ」ということも考えられない。嘘が全部であることは考えられない。ことばの使い方による矛盾に思える。

真理はある。真理はない。どちらが本当か? どちらでもない可能性もある。
真理ということばの正確な意味を知らないからではないかとも考えられる。

シリーズ16 真理、真実、現実、そして信じることについて
内 容 
1. 真理ということばの定義について
2. 絶対正しいという意味の真理はあるか
3. 真理はある。真理はない。どちらが本当か? 
     ・ この問いに対する答え
4. 真理を断定することができる場合がある。
     ・ 絶対間違いないという対象をつくることの問題点
5. 現実とは何か
6. 結 論


1. 真理ということばの定義について

三省堂大辞林によると「真理」ということばの意味は:
正しい道理。だれも否定することのできない、普遍的で妥当性のある法則や事実。 「不変の真理」 「真理の探究」とある。

この定義に従えば、普遍的で妥当性のある法則や事実であれば、真理は複数ある可能性がある。
例えば数学の公理はどうか。物理学の法則はどうか。これらはみな真理であると言えるかもしれない。

ここで言う真理には絶対正しいのような意味はない。


2.では絶対正しいという意味の真理はあるのだろうか。

真理とは絶対正しいことである。100%正しいことである。
このような普遍的な誤りの無い完璧な真理はあるのだろうか。

これには次の様な問題も関係している。
誰が、どのようにして、判断し、結論を出すのか。

実はこれが究極の質問であるように思える。
つまり答を出せる人はいるのか。 ・ ・ ・ いないのではないか。

「無限、永遠」は人間にはそのすべてを理解することはできなくても現実に存在する世界である。
有限と比較すると、限りなく知らないことと同じになるが、人間はその存在を認識することができる。数学でも自然界でも無限は現実にある。

無限の世界を認識できるのに、人間には正しい結論は出せないのだろうか。

ガートルード・スタインのことばがある。
「答えは無い。将来も答えは無い。今までも答えは無かった。それが答えだ。」

つまり答えが無いという答えがある。
しかし、答えが無いのは答えがあることなのだろうか。
意味が違うかもしれないが、数学でも答えがない(解なし)という答えがある。

ガートルードの表現の「ない」を「ある」に置き換えると、
「答えはある。将来も答えはある。今までも答えはあった。しかし、それは答えではない。」という表現になるだろうか。同じ意味なのだろうか。

「答が無いのが答え」という表現と、「答えはあっても答えではない」という表現である。何がちがうのだろうか。

答を真理ということばに置き換えると、
「真理はない。将来も真理はない。今までも真理はなかった。これが真理だ。」
になる。
真理は無いという真理があることになる。これはことばの限界ではないか。
言葉ではこのように表現できても、それは何を意味しているのだろうか。
部分否定と全面否定の違いによることばの遊びなのだろうか。


3.絶対間違いのない真理はある、真理はない。どちらが本当か? 

それを決めるためには、すでに述べた基本的な質問に対する答えが必要と考える。
それは「人間に絶対正しい答えをだせるか、絶対に間違いのない公理を作れるか」という質問に対する答えである。

絶対とは、永遠にわたって、無限という条件で、普遍を含む、人間の考えを超越したものである。  

人間には間違いがあるので進歩する余地がある。
進歩するのは、完全ではないからである。完璧なものには自由がない。進歩がない。
自由があるのは完璧ではないからである。

人間に間違いの余地が全くない状況を作れるか。もし作れたら、自由も進歩もなくなることを意味するように思える。それは今の人間としての限界を超えることであり、望ましいものかどうかわからない。

この問いに対する結論:

人間には人間という枠、制限がある。人間という枠を超えて考えることはできない。
脳が認識するのは五感を通してである。その五感には限界がある。五感そのままでは宇宙の広さも、極微な世界も知ることはできない。人類は望遠鏡や顕微鏡の助けを得てより大きな世界を、小さな世界を発見してきた。

限界があると言うことは、永遠、無限という世界全てに当てはまる普遍的なものを見つけることはできないという意味にとれる。すべてを知ることはできないからである。
すると人間には普遍的な、絶対を意味する真理はあり得ないことになる。

無限という視点から考えれば、人類は限りなく無に等しい存在である。限りなく何も知らないに等しい存在である。人類の能力の限界を考えれば、無限という時間を超え、空間を超え、次元さえ超える世界の中に、普遍の真理と断定するだけの能力はない。これが現実であると考えられる。

人間には人間という枠、制限がある。人間の寿命には限界がある。時間も空間も次元もその一部しか知れないという意味であり、人間には絶対ということばの意味を理解することはできないという意味になる。

つまり真理は結果ではなく、真理を追求する過程に意味があると考えることであると結論づけることができるように思える。


4.絶対間違いのない真理を断定することができる場合がある。

これは決して不変的な意味ではないが、現実に起きていることである。それは、信じるという行為の中にある。内容が何であっても、信じる人には真理となり得ることである。信じることの重大な問題はここにある。

完璧で間違いがない時、それは変わる必要はない。反省する余地はない。それが理由で進歩することがなくなる。

間違えのない真理を信じていれば、その信じている内容に関しては外からの声に聞く耳を持たない。反省することができない。改善の余地はない。進歩できないという意味である。

宗教は昔から同じ傾向を持っている。誤りのない真理であるから、そこに改善も進歩する余地もないという意味である。
その宗教に新しい理解、新しい解釈が行われると、それが進歩と受け止められる場合はあっても、実は進歩ではなく分裂、分派の危機である。
なぜ分裂、分派が起きるのか。
なぜなら宗教自体が完璧も絶対もなく、間違いのない真理を持っていないことになるからである。
反省があり、改善があり、進歩があるのは不完全であることになる。
宗教の中での解釈に進歩はあり得ず、分裂、分派となる。

特定の思想、観念、信条、イデオロギー等もこれと同じように思える。
完璧であると信じることは、進歩を否定し、自由を否定することと同じ意味である。
日本赤軍、オウム真理教、イスラム過激派などの行動はみな同じ信じることが関係しているように思える。

真理と信じていても、その内容は、同じ宗教の中にあっても違う。それが原因で宗派に分かれる。宗教が違えば真理は違う。これでは、普遍的真理には程遠い。


・ 絶対間違いないという対象をつくることの問題点

脳が信じるという機能をなぜ持っているのかはわからないが、人間の持つ認識は頭脳と五感により作られる。その五感には限界があり、トリックやマジック、マインドコントロール、催眠術などにより簡単に騙される。人間という枠があり、その人間の枠で考えることしかできない限り、その枠を超えて、それ以外を考えることはできないように思える。

矛盾ということばがある。人間が矛盾と思うのは、人間に枠があり、それを超えて考えることに限界があることを示している。ことばに矛盾がある。その人間という枠の中では、人間には矛盾に思えるからである。矛盾があるから、矛盾と思うのではない。人間の思考に限界があるからである。

限界があることは人間の絶対性を否定することになる。人間すべてが死ぬ存在であることも、これを裏付けているように思える。

絶対0K(ケルビン)度、摂氏温度の零下273.15℃、ということばがある。考えられる最低の温度で理論上、絶対温度と表現される。これは、人間がそのように定義しているという意味であり、絶対があるという意味とは違う。見える自然界では最低温度に限界があるという意味である。しかし、世界が違えばそうでない可能性はあり得ると考えられる。

「すべては現実であり、現実こそすべてである」という意味において、人間には現実が真実そのものである。人間にとって、人類にとって、「認識できるあるがままの現実こそが真理である」とも言えるかもしれない。


5.現実について
三省堂大辞林によると現実とは「今、現に事実として存在している事柄・状態。」である。

「すべては現実であり、現実こそすべてである」と書いた。
現実とは脳が認識することのできるすべてである。あるがままのことである。

では、脳が認識しない、していないものは現実ではないのか。

それぞれの時代の中で、その時点で認識できないものはたくさんある。それをその時点での現実に含むことはできない。知識、情報がなく、知らないならわかりようもない。
時代と共にわかるようになってきたことはたくさんある。ただ、昔のその時点では存在さえなかった。現実とはその時点での認識のことで、未来は含まれない。

未来から見ると現実には間違いがあることになる。間違いという表現は適切ではないかもしれないが、わからないことがたくさんあるという意味である。昔はわからないものがたくさんあった。


それが想像であっても、うそ、偽りであっても、間違いであっても、夢であっても、それはあるがままという意味において、また実際に人間が想像しているという意味において、現実の一部である。現実の中にすべてがあるように思える。

人の想像による結果は現実に存在するという意味ではない。想像物が存在しなくても、人がそれを想像し、作り出したという意味では現実であるという意味である。

人類は実在しないものをたくさん作り出し、わからないものに存在を与えてきた。
人間の能力に限界があるから、答えがわからないから、騙されることも多い、
答がわからないものを、答えとして受け入れることは誤りであるかもしれないが、わからなければ他に方法もなかったからと考えることもできる。昔は原因、理由、背景がわからないので、それがそのままその時代における認識であった。

しかし、間違いが現実の中にあるなら、排除すべきもの、改善すべき点として、修正していくことは必要かつ重要である。それが人類の進歩の意味と考える。そのままでよい訳ではない。

ほとんどすべてのものはことばでできている。頭脳による働きの結果である。認識が作られる。
人によって認識が違うので、正確に表現すれば、現実は人によって違うことになる。それぞれの人がそれぞれの世界、独自の世界を持っていることになる。違いは気づかなくても全く同じ世界ではない。

現実は正しいという意味はない。真実は正しいという意味ではない。あるがままのことである。
現実は真実である。真実とは現実のことである。

信じるという人類の間違いは人類の歴史の中にあまりにもたくさんの争い、戦争や虐殺をもたらしてきた。現実の中に存在してきた。しかし、それをそのままにしておいてよいという意味ではない。
間違っているなら改善し、進歩することが人類の進むべき道であると考える。
認識は変わらなければならない。
信じることの間違いに気づき、間違いは排除していく必要があると考える。


6.結論

信じることで救われるのは、確かなものがこの世にないからである。
しかし、信じること自体には重大な問題がある。
信じる内容に「間違いがないものはない」からだ。

信じる対象は、間違いがなく、完璧で、永遠にわたって正しいもの
でなければならない。
そうでないと信じること自体から矛盾が生じ、問題や混乱や争いや分裂、
失望を招くことになる。
しかし、現実の中にそのような完璧なものはないように思える。

確かなものが無いという現実を直視すること、その現実を受け入れることは、人類のあるべき姿ではないか。それは人類が間違いを認め、改善し、進歩することを意味する。

現実は矛盾を含む世界である。人間のうそも偽りも悪意も存在する。
確かなものはない不安定な世界である。

それ故に人間社会の基盤を確立するために、愛と信頼を築きあげることが必要と考える。
愛と信頼を現実に存在するものとして、大切に育てていくことが大切である。
「愛するとは他人(ひと)の幸せを願うこと、そのために自分を活用することである」と書いた。
人の幸せとは自分の存在に対する理解を持つことである。

現実を受け入れることは、人によっては厳しいことかもしれない。
しかし、現実を知り、理解し、受け入れることは、人間の責任である。
現実を受け入れることは、何もしないでよいという意味ではない。
現実を反省し、改善し、進歩し続けることが、永遠にわたる人間のあるべき姿であると考える。


マイケルアレフ 2018年10月