2022年9月 シリーズ15 の 見直し結果を後半に載せた


2018年9月

恐怖は「物」ではないため、「これが恐怖です」と示すことは難しい。
その意味では、シリーズ6で取り上げた「美しい」ということばに似ている。
恐怖は「考え」でもない。感覚、感情に近いもののように思える。
その恐怖感覚はあっても、明確な対象物はない。明確な対象と思えるものでも人によるし、その人の成長過程や経験の度合いでも違っている。

  前置き: 友人の死に関連して思うこと / 死は恐怖か

シリーズ 15 恐怖について 考える
  内容:
  1.恐怖とは何か
    動物等の命の危険回避行動は恐怖によるのか。
    恐怖にはどのようなものがあるか。  見えるもの、 見えないもの等

  2.恐怖はどのように作られてきたか。
     子供の時に植え付けられた恐怖
     「なまはげ」の恐怖経験、教えられたことから作られた認識
     経験:痛い、苦い、つらい、悲しいなど
     想像物
     ホラー映画
     未来に何が起きるかわからない
     何でも恐怖になり得る
     疑心暗鬼
     昔から怖いものとは
    ・怖いもの見たさ、
      怖いなら見たくないはずなのに、なぜ見たいのか
    ・見えないから怖い? 見えるから怖い?
     子供に危険について教える

  3.脅迫、恐怖、防衛
   恐怖は人を操(あやつ)り、奴隷として使う力にもなる
    もし恐怖がなかったなら、赤軍派によるリンチ殺人事件、オウム真理教による殺人事件は起きなかったのではないか 

  4.恐怖の原因:「わからない、理解できない」のはなぜか
    恐怖に対処するためにできること
   現実は恐怖ではないが、対応することは大変な労力を必要とする場合もある。


前置き: 友人の死に関連して
死は恐怖か: 死は恐怖ではないが、死を恐怖と思い込む人には恐怖となる。

およそ3年という短い間ではあったが、通勤のバスの中で会い、会話を通しお互いを信頼し、理解し、週末一緒に散歩して時間を過ごすことのできる友人(外国人)がいた。とても奇遇な出会いであり、彼の人生もまた稀なものであった。
彼は一年ほど前、医者に余命3か月と宣告された。身近に迫った死に苦悩する中で死を現実として受け入れようとしていた。信仰を持っていたという意味では救いもあったはずであるが、他の人と比べ、なぜ自分がという疑問も感じていた。謙虚で誠実な人だった。
食事療法等の努力のかいがあって3か月たった頃、以前よりも元気になっていた。そのまま元気でいられるかもしれないという期待もあった。しかし、およそ1年後、帰らぬ人となった。

自分が余命3か月と宣告されたらどう感じるだろうか。
ショックであるに違いない。目先真っ暗、「神も仏もない」と感じる人もいるかもしれない。
受け止め方は人によりそれぞれ違うように思うが、現実として受け止める以外に道はない。
しかし、宣告されても未だ死んだわけではない。余命の長さも正確にはわからない。

死は、死について考えてきた人、死に対する考えがある人、ない人では大きく違うように思う。
死に直面し、慌てて考えたところで、何か見えてくるとは思えない。
未だ人生の多くを経験していない若者と、人生の大半をすでに終えている人でも、受け止め方は違うだろう。
年老いた人であれば、ついに自分の番がやってきたかと受け止めることもできるかもしれない。
若い人であれば、未来と希望を失うという現実の残酷さ、悲惨さに苦悩することになるだろう。

余命がどれほど残されていても、人は必ず死ぬ定めにあることに間違いはない。
数か月、1年、数年という余命を長いと感じるか、短いと感じるかは人によるだろう。
自殺者がいることを考えれば、死は苦悩からの解放の意味もある。

生命体にとって死は当たり前のことであり、人類の歴史の中で死ななかった人はいない。
その数:数百臆人。
死は当然のこと、当たり前のことと受け止めるべきであるが、多くの人にとって未だ恐怖である。
対応としては「受け入れる」または「あきらめる」しかないように思える。

死は恐怖にもなるが、冷静に受け止めることのできる人もいる。必ずしも恐怖とは言えない。
自分の死より、愛する人を失うことの方がもっと恐ろしいと感じる人は多くいるだろう。
恐怖そのものは、人の持つ考え、認識、生き方で変わるように思える。

死は恐怖ではないが、死を恐怖と思い込む人には恐怖となる。
死が恐怖なのではない。死を恐怖と思うことから恐怖が作られる。

愛する人の死ほど悲しいことはない。しかし、嘆き悲しむことができるのは一時的である。
愛する人が死んでも、残っている人には生活を続けなければならないという現実があるからである。
愛する人の思い出はその人の死と共に終わる。自分の思い出として残ってはいても、自分の死と共にその思い出もなくなる。写真や映像であれば記録として残すことは可能であるが、関係者でないなら、見ても大きな意味を持つことはないだろう。

すべての人に関わることであるから、命とは何かを考え、死とは何かを考えることが必要であると思う。教育課程の中で、また親が子供に対して命と死の意味について教えることが必要であると考える。

恐怖にはそれに至る過程があり、不安や恐れなども恐怖の一面に思える。

辞典には「恐怖(きょうふ)、または恐れ(おそれ)とは、動物や人間のもつ感情の一つで、こわいと思うことやその気持ち」とある。


1.恐怖とは何か

虫、鳥、動物に見られる命の危険回避行動は恐怖によるのか。
虫や鳥や動物は命が危険に遭うと、危険を回避する行動が見られる。生命体として自分を守るための行動に思えるが、その危険回避行動は初めから、生まれた時からすでにあるように思える。教えられることがなくてもその機能があるからである。人間のように脳による学習によって作られるとは考えにくい。
それは恐怖に対する反射行動のように見えるが、恐怖という表現は適切ではないかもしれない。プログラムとして組み込まれているだけのように思える。

人間も同じように生まれた時から同じ機能を持っているのだろうか。
人間の赤ちゃんは全く無防備に見える。生れた頃の赤ちゃんは恐怖を知らないように見える。命の危険があっても、回避する行動は取らないし、取れない。
人間の赤ちゃんはすべてをその両親を含めた社会からの保護を必要としている。
時代も環境も個人の能力などにもよるが、一人前になるまでにおよそ18年もかかる。その間に、人間の場合は教育により、危険なものがあることを学習する。その中で恐れや恐怖の感情を身に着けるように思える。

恐怖は人間に初めからあるものではない。
人間の危険回避という行動は教育により作られたもの、学習により身に着けたものであると考えられる。

恐怖が作られるものであることから、死の恐怖も改善することができると考えられる。

侍(さむらい)の時代の武士道の精神について、江戸時代中期に書かれた葉隠れの中に「武士道とは死ぬことと見つけたり」ということばがある。
侍とは主君のために忠節に責務を果たすために死ぬことを恐れず、死を持って戦うことが使命であった。忠節こそが大切であり、死を恐れることなどあってはならなかった。そのため日ごろから鍛錬を怠ることはなかった。死に対する考え、認識が違っていたと考えられる。

太平洋戦争で戦った日本人軍人にもこの侍の精神は生きていたように思える。国を守るために命を犠牲に捧げた。置かれた状況にもよると考えられるが、死ぬことを恐れない人がたくさんいた。

日本人に限らず自由のため、自国のために喜んで死ぬ覚悟のできている人たちはたくさんいる。死を過剰に恐れず、死を生活の中に受け入れている。

大切な価値観を持てばそのために命を失うことは受け入れられることを示している。

恐怖に実体はない。思い込みが感情として恐怖を作り出す。恐怖という感情はあっても、それが何かというと、辞典にあるように「こわいと思うことやその気持ち」としか表現できない。
脳が作り出した怖いという意識であるからで、美しさがないのと同じように思える。美しさが思い込みとしてあるため、思い込みとして存在することになるが、実際にはない。
怖さも思い込みとして作られるもので、ある人には存在しても、恐怖のない人もいる。恐怖を楽しむ人もいる。

恐怖にはどのようなものがあるか:
認識は人によって違うので、恐怖に対する意識、考えも違う。恐怖には見えるから恐怖になる場合と、見えないから恐怖になる場合もあるように思える。人の持つ経験も関係している。

見える恐怖について
今までの生活の中で親や兄弟、友達が持っていた認識を同じように自分で思い込みを作り、醜い、汚いと嫌うようになり、怖い、恐ろしいという認識を作ってきたことが考えられる。
実際に存在し見える恐怖:ゴキブリ、クモ、芋虫、蛾、ネズミ、なめくじ、蛇、カエル、他。
「感情的に単に嫌いだと言うことで汚い、醜いになるのであれば、その背景には知識と理解の不足、認識不足が理由としてあると考えられる。そうした思い込みは人間の自分勝手によるのだろう。」

恐怖の実体が見えた時、初めは恐ろしく見えても、慣れると恐怖ではなくなってしまう。
実体を良く知れば、学習を通して恐ろしいものでもないことを理解し、恐怖と感じないようにすることもできる。
バンジージャンプや絶叫マシンと言われるジェットコースターも失神してしまいそうなほど怖くても楽しくて病みつきになる場合もある。

見えないから怖い?
生まれつき目の不自由な人は「見えないから怖い」と感じているだろうか。見えることの意味を知らない人には、見えないから怖いという感覚はないように思える。見るという五感の一つが使えないとしても、作られた認識には見える人よりも、ある面でよりバランス感覚があるかもしれない。

見えるから怖い?
一般の人は普通に見えるから、見えないことを怖いと感じるのではないか?
見えることが当たり前だと、見えることの意義も、恵まれているという感謝の気持ちもなくなる。
それは認識不足であることを示している。人に能力や力量がないと、人間が創ってきた迷信や想像物により影響を受けることになる。暗がりを恐れることも普段から見えることが当然のことと受け止めているからではないか。


2.恐怖はどのように作られてきたのか

子供の時に植え付けられた恐怖:
幼少の頃はまだ見たことのない恐ろしいものがいると教えられるとそれを怖がった。「お化けが出るぞー」と脅かされた。恐怖は見たことはないが、恐ろしいものであると教えられた。
小さい時から怖いもの、恐ろしいものという認識が作られてきたように思える。

子供を脅かすことを楽しんでいる大人がいる。それを経験した子供は他の子供や幼い子に同じように脅して見せる。お化けがでた・・・。お化けが出るぞう・・・。火の玉が出るぞー。

実際にはお化けが出るぞーと言って脅しても、お化けを見せることはできない。見せたら、一時的に騙せても、怖くなくなってしまう。無いものだから、あったら怖い。見たらもっと怖いと思わせることに意味があった。恐怖は脅かされる中で作られたように思える。

想像し作ったものだから本当はないのだが、あったら怖いという認識が植え付けられる。幼少のころから、様々な伝統、慣習に従い、また昔話、親や親族から聞いた物語などを通して教えられてきたことの中に恐怖がある。恐怖という認識を作り出す考えがある。
本やテレビを通して鬼、山姥、怪談、お化け屋敷、呪われたミイラ、透明人間など怖いものを見たり、聞いたりした。

「食べてすぐ寝ると牛になる。」等、真実ではないことを教えられ、子どもはそれが本当に起きるかもしれないと心配した。学校の友達が隣の教室に幽霊が出るなどという噂を広めていた。

「なまはげ」等の恐怖
言うことを聞かない子供達を少し怖がらせるために怖い経験をさせようとする人もいる。
見たことのないものを見ることによる経験である。
子供は敏感に反応し、未だ見たことがない、経験もないものに対して怖いという感情が作られる。
初めて見るものを怖がる傾向がある。クリスマスのサンタクロースでさえ、初めて見る子は怖がって泣くこともある。

経験: 痛い、苦い、つらい等の経験を通して怖いという認識が作られてきた。
動物等:小さい時、犬に吠えられ、噛まれた。犬が怖くなった。
食べ物:食中毒など食べ物で痛い経験をすると、その食べ物が怖くなる。
川、海で溺れた:水で遊ぶことが怖くなる。
火の扱いを間違え火傷を負う:火が怖くなる。
ハサミ、ナイフで物を切る時、けがをした。
椅子から落ちた、高いところから落ちた等の経験により高いところが怖くなる。

人の存在が怖い:ニュース等の報道から人間には犯罪者がいる。
人は物を盗み、危害を与え、殺人さえ犯す、恐ろしいと感じるようになる。
うそをつく。約束を守らない。自分の言った言葉に責任を持たない。
表向きは人に親切を装いながら、陰ではうそをつき、悪口を言い、悪意を持って行動する人がいる。人は恐ろしい存在となり、恐怖にもなり、人間が嫌になる。
人さらいもいる、オレオレ詐欺も頻繁に起きている。
良い人と思っていた人、信頼していた人が犯罪に手を染めて警察に捕まった。
人の心変わりが信じられなく、恐ろしい。人を見たら泥棒と思え。誰も信頼できない。
仲の良い友達でも、夫婦でも、親族でも些細なことから喧嘩して憎しみ合うことがある。

自分が失敗することにより非難を受けることが怖い。仕事を失うことになるかもしれない。
他人の眼が気になる。人前に出るのが苦手だ。人前で話をすることに恐怖を感じる。

自分に才能はあるのだろうかと悩み、ないかもしれないと不安になることもある。
人の評価が気になる。たくさんの人が評価するから才能があることになる。
人気がなくなれば一瞬にして価値も無くなる。人気があっても、人気を失うことが恐怖にもなる。
人の評価が怖い。気にしたら持っている才能さえないことになる。


想像物(状況により見える・見えないがある):
お化け、幽霊、悪魔、天使、神様、ドラキュラ、バンパイア(吸血鬼)、狼男、エイリアン、異星人、など。
人間の想像力により様々なものが作られてきた。それを映像などで表現すると、想像物が命を得て、本当に存在するように思うようになる。もしかしたら現実に出てきたらと考え、恐怖に感じる。
精神的障害がある人には見えないものが見えたり、聞こえたりする場合がある。

ホラー映画:
恐怖ホラー映画はヒットしたものも多い。人は好んで見たがる。名作ホラーと呼ばれるものもある。なぜ名作なのか。恐怖の作り方がうまいから。大衆を怖がらせるようにうまく作られているからである。  

ホラー映画は映画ジャンルの一つ。観る人が恐怖感を味わって楽しむことを想定して制作されているものを広く指す。また、ゾンビ、殺人鬼など、観客に恐怖感を与えるためにホラー映画で用いられる。恐怖感を味わって楽しむことを目的としている。恐怖は楽しむものでもある。
ホラー映画のヒット作には、
エクソシスト;幽霊、お化け、超常現象が出てくる。
ジョーズ; 巨大な人食いサメに襲われる恐怖を描いている。
その他にフランケンシュタイン、吸血鬼ドラキュラ、ミイラ、狼男、透明人間等がある。
日本では東海道四谷怪談、鬼婆などがある。

人間が考え出した恐怖は人間の思考の枠の範囲から抜け出せない。人にもよるが、見た瞬間は怖いと思っても、見慣れると怖いものではなくなってしまう。怖いものを考え出すことに限界があるためか、新しく怖いものを作り出す努力がなされる。

恐怖は現実を見せることで無くすことができる。
マイケルジャクソンのスリラーはゾンビ、死者に対する恐怖を無くすきっかけになった。
怖い、恐ろしいと思っていたことを楽しめる作品として提供してくれたからだ。
人間は想像で何でも作れることを具体的に示してくれた。

怖いと思うのは思い込みである。勝手に想像物を作り上げてきた。それに恐怖を抱いてきた。
現実を知り、理解すれば、恐怖はなくなるものと考える。


怖いもの見たさ:
人は本当に怖いものであっても、なぜか見たがる。恐怖映画は楽しむために作られる。
本当に怖いものなど無いことを知っているからではないか。
人間には何でも知りたいという欲求があることも理由になるだろう。
恐怖という感覚は歓喜という感覚に似ている点があるのかもしれない。


昔から怖いとされるもの:地震、雷、火事、親父(台風の意味もある)
自然の脅威;地震、津波、雷、台風、大雨、竜巻、巨大隕石、など
「怖い」とは「危ない」ではない。危ないことをすることの経験等を通して怖いという意識が作られることがあると思われる。受け止め方次第で些細なことでも恐怖になり得る。
認識のギャップと言えるかもしれない。認識にはバランス感覚が必要である。それを失ったり、勝手に想像したりすると恐怖が作られるのではないか。

未来に何が起きるかわからないからという理由から:
想像することから心配、不安、恐れが作られる。
害を受けることへの恐れ、病気、若い時の美しさが失われていく。死ぬことへの不安。
自分や家族が犯罪に巻き込まれる可能性がある。
通り魔事件がよく起きる。巻き込まれたらどうしよう。
子供が通学途中にさらわれる、交通事故にあう可能性もある。
飛行機が落ちるかもしれない。飛行機が怖い。高いところが怖い。
重い病気にかかるかもしれない。
隣国からミサイルが降って来るかもしれない。

生活が苦しい、お金が足りない。
高校受験、大学受験、就職試験、その結果を知ることが怖い。
失敗したらどうしよう … 仕事で失敗して叱られた。首になったらどうしよう。
利益を失うことへの恐れ、株の大暴落、会社の倒産の危機等。

何でも恐怖になり得る:
針、ナイフ、包丁、ハサミ、など ・・・ 使い方を誤れば、凶器に変身する。
科学により便利なものが作られてきたが、殺人に使われてきた。
車も殺人兵器になる、事故に遭うかもしれない。
高い、低い、広い、狭い、音に対しても、色に対しても、異性、人間、あらゆるものが恐怖の対象になり得る。

考え始めたら、何でも有り得ることがわかり、不安に感じ、生きていることが恐ろしくなる。確かにこうしたことは起きる可能性がある。それだけを考えれば不安、恐怖に感じる。どんな物でも、それをどう見るかで、どう考えるかで、恐ろしいものにも見えてくる。

人が死ぬ確立は100%である。日本人の平均寿命が80歳を超えているという事実は、若い人が突然死ぬようなことは稀にしか起きないという意味にもとれる。
もちろん現実に自分にも身近にも病気、事故が起きる可能性はある。
しかし、稀にしか起きない可能性にはそれに見合った「心配する」時間を当てることがふさわしいのではないか。不安や恐怖を引きずって大切な人生を不完全燃焼にするのではなく、現実に生きている人生に集中し、社会のため人のために何かを成し遂げることの方に意味がある。

心配することは、事態を改善させないどころか、無駄に時間と労力を使い、周りの人に心配や迷惑をかけることにもなる。
恐怖は思い込みである。それが何かを良く知り、理解することにより、改善は可能である。

冒険には危険が伴う。危険を恐れるだけの人には冒険ができない。失敗という危険、命の危険などを受け入れることができないからだと考えられる。未来へのチャレンジは安定を求めていてはできない。

ヘレンケラーは次の言葉を残している。
「悲観論者は未だかつて星の神秘を発見したことはなく、見知らぬ土地に出かけたこともなく、人類の精神のために新たな道を切り開いたこともない。」


疑心暗鬼を生ずとは、三省堂大辞林によると
「疑う心があると、何でもないことにまで恐ろしく感じられたり、疑いの気持ちを抱いたりするものである。出典、南宋代に成立した「列子」の注釈書「列子杲斎口義-説符篇」における以下の逸話の注釈より
「ある男が斧(おの)をなくして、隣の家の息子をあやしいと思った。隣の家の息子のやることなすことが、全部あやしいように見えた。ところがある日、谷底からなくした斧が出てきた。それからは、隣の家の息子が何をやっても、あやしいようには見えなかった」

疑う心とは、疑いの感情に基づき想像することで、怪しいという感情は人の頭脳を支配し、その感情を証明するために考えさせる。人の信頼を失わせ、全てを怪しく感じさせ、それを証明したいとさえ思うようになる。恐怖にさえなる。人が得体のしれない怪物にも見えてくる。

脳が感情を制御する必要がある。そうでないと感情が脳を支配することになる。
人に対する疑う心が生じ、疑い出せば、感情は脳に疑いを正当化させるために様々なことを考えさせる。

2000年以上前にパブリリウス・シラスは次のことばを残している。
「賢い人は自分の心の支配者であり、愚かな人はその奴隷である。」


危険についての教育
子供に危険なものがあることを教えることは重要である。子どもが自分で危ないということを学習しなければならない。
子供が「危ないと親が教えること」を無視することが、どういう結果になりうるかを学ぶ大切な機会でもある。
危ないことが恐怖なのではない。恐怖心を植え付けることがないよう注意する必要がある。
身近にあり重要なものは多い。火、水、食べ物、ガス、電気、ハサミ、包丁、自転車など。
すべて扱い方を間違えれば命を失うことにつながりかねない。
日常生活の中にある危険、昔であれば「マッチ一本火事の元」等と教えられた。
子供は家事の手伝いをする中で、こうした危険について学び、さらに映像を見せることや実際に体験することなどを通して学習する必要がある。
教育として、たくさんのことを考え、学習する機会を設ける必要がある。

子供は何でも勝手にやろうとする。だからやらせてみる。
大切なものをどう扱うかを正しく学ぶことが必要である。
子供にどのようにして危ないことを教えるか。
痛い思いをすることで子供は危ないことの意味を学ぶ。
危ないことには親を初め大人が十分な注意を払う必要がある。
子供は学習することで、自分の教訓にすることができる。
わかれば注意して扱うようになる。


3.脅迫、恐怖、防衛
恐怖は人を操(あやつ)り奴隷として使う力にもなる。

脅迫、脅しは日常的に恐怖を利用していたと考えられる。
幼少のころから教えられてきた恐怖:作られた恐怖
言うことを聞かないと「お化けが出ますよ」と脅された。
言うことを聞かないと「おまわりさんをよびますよ」と脅された。
昔は躾の意味からか言うことを聞かせるために恐ろしい存在を作ってきた。
「恐怖を利用することで人に言うことを聞かせる、従わせる」ようにしつけた。

神様からの罰を恐れる:
人間は神様を作り、善悪を作り、神様により悪は罰せられると教えることにより抑止力とした。地獄を作り恐怖心を作ることで悪を制御しようとした。数千年にわたり、神様を信じている間は、効果もあった。しかし、昔からの認識では世の中の変化に太刀打ちできない状態になりつつある。

今は法律により人を制御している。法律は社会のルールであるから、ルールを守らない者は処罰されることになる。殺人などを犯すと、死刑により罰せられるという考えは恐怖にもなる。しかし、うまくごまかし、逃れる手立てを考える者がいるから、罰せられないという状況もあり、法律による不公平感を感じる人もいる。進んで守ろうとする人は少ないのではないか。見つからなければ平気で法を破る人もいる。いつまでたっても悪ははびこることになる。

想像からの恐怖:
人間の「わからない、理解できない」は人間の死後、悪いことをした人は地獄に落ちて、永遠にわたって苦しみを受けるなどと想像し、その世界を作ってきた。どの民族も宗教も同じ様な地獄を作り出してきたように思える。
神様からの罰、呪い、死後の世界である地獄などから人は様々なことを想像し、それにより大きく膨らむ恐怖を作り出してきた。
お化けも怪物も人間の想像によりたくさん作られてきた。

「わからない、理解できない」は恐怖を作り出す。恐怖は想像で大きく膨らむ。どんどん大きくなると恐怖は他人を殺すことを平気で行うことさえできるようになる。悪人に仕立て上げる。このことは大昔の話ではなく最近でも起きているし、現在も、今後も起きる可能性がある。

1972年連合赤軍は12人の同士をリンチ殺害した。特殊な思想における仲間割れを恐れるゆえに、恐怖が仲間を殺すに至る例であるように思える。イデオロギー等を絶対的な価値と信ずると、殺人行為さえ正当化されてしまう。
オウム真理教によるサリン事件なども信じるという絶対なものを作ることによる結果であるように思える。自分たちの間では何でも正当化することができるようになる。同時に、指導者に反する行為、教えに反する行為は恐怖となり、仲間割れを恐れる。

「将来、未知なる存在に対して「わからない、理解できない」という反応は自然なことであるように思える。未来に見たことも、聞いたこともない、学習したことのないものに遭遇する可能性はある。地球外生命体、高次元の存在とそこに存在するかも知れない未知なる生命体等が考えられる。人間に認識できない生命体さえあると考えられる。そう考えるだけでも恐怖になる人もいるだろう。

恐怖は人間の理性を失わせ、妄想を作り、勝手な思い込みや、正当と思われる理由を創り出す。
「ことばの定義 信じる」に以下のように書いた。
宗教には恐怖がある。否定する者に罰、呪い、神の怒りが与えられるという恐怖である。
恐怖がある宗教は利益を求める。
信じていることに間違いを認めない。
それは間違いを認めたくないという心が関係している。
信じることには、心の問題がある。恐怖がある。
人間の思考能力の停止、低下が関係している。
マインドコントロールでもある。」

脅迫、恐怖、防衛
脅威とは、おびやかすこと。また、おびやかされ、おどされることで感じる恐れのことである。
恐れや恐怖は防衛反応を刺激し、その原因の根絶のために行動する動機となる。
人殺しや戦争なども、人や他国に対する恐れ、恐怖が関係する場合が多いのではないか。

「指導者が感情的になり、脅しに乗って、自分からも脅し、相手を滅ぼしてやるなどと言う世界を見て、人はどこに模範を探せばよいのだろうか。」
脅しに対して、なぜ滅ぼしてやるという反応を示すのか。
それは裏を返せば、相手に対する理解の欠如、認識が足りないこと、自分が高慢であること、力があると思い込んでいることによるように思える。それは不安と恐怖の表れではないか。どんなに権力を持っても、今度はそれを失うことが恐ろしくなる。だからそれを隠すためにさらに高飛車に振る舞う。

同じ人間でありながら、嫌な人間、許せないと思える人間、いなければよいのにと思える人間はいる場合がある。様々な理由によると考えられるが、恐れや恐怖が関係するように思える。
敵は本来いない。しかし、人間の心に懐疑心、恐怖があると、思考は敵を作り出し、敵を滅ぼそうと行動を促してきた。

この種の恐怖は心を守ることで避けることができる。敵など作り出してはならない。
ことばによる思考力がその助けになる。誠実に生きれば恐怖はない。
ここで言う恐怖は、自分を偽ることによる不安、自分の良心に反して行動することによる恐怖のことでもある。


変わるべき認識、変われない認識、
時代が変わり、情報が溢れ、理解が増し、認識に変化があっておかしくない時代に生きているにもかかわらず、多くの面で人の認識は変わらない。
最近スポーツ界でのパワハラがニュースに取り上げられ、次から次へと問題が明るみになって、非難される人が続出している。
「皆がやってきたことなのに、なぜ今になって自分だけが責められるのか」と嘆く人はいるかもしれない。
古い価値観、認識が変わりつつあることを示している。
しかし、ニュースメディアが取り上げなかったなら、昔のままの認識で済ますつもりでいる人が大半ではないだろうか。
皆がやってきたことでも、一人ひとりがもっと早く気付き、反省し、改善すべきではないか。

なぜ人々の認識は自分からすすんで変わらないのだろうか。
それは「わからない、考えてもわからない。自分一人の力では何もできない。」と初めからあきらめに近い思い、言い訳があるからではないか。
自分の関心事以外、考えようともしない人も沢山いるからか。

皆がやっているからそれでいいと思っていることこそ恐ろしいことで、恐怖であるのではないか。


4.恐怖の原因:「わからない、理解できない」のはなぜか

「わからない、理解できない」理由について、認識の多面性に次のように書いた。

認識を初めに形成するのは基本的に人間の持つ五感でありそしてそれを司る脳である。
三省堂 大辞林によると、「五感とは目・耳・舌・鼻・皮膚を通して生じる五つの感覚。視覚・聴覚・味覚・嗅覚(きゆうかく)・触覚。また,人間の感覚の総称としても使われる」とある。

五感から入った情報は脳に伝えられ、認識を形成する。
「わからない、理解できない」と思うのは、五感によって認識することができない存在であることに理由があると考えられる。どんなものがあるのか。

認識の多面性の中で、人間としての五感と脳の機能では認識できないものはたくさんあることにふれた。五感を補強することでたくさんの物を認識するようになったことを書いた。
大きすぎで、遠すぎて、見えない宇宙、小さすぎて見えない原子など素粒子の世界があることに触れた。認識できるかどうかは、科学の発展に依存している部分が沢山あると考えられる。

脳の働きには正常でない時に起きるものとして幻覚、幻聴もある。病気が原因の場合がある。
見えない物、無いものが、見えてしまうことがある。聞こえない声、音、無い音が聞こえることがある。

現在無いものが将来あるようになるかどうかはわからない。無いのではなく、認識できないことに理由がある。人間の能力の限界はあまりにも多いことから、認識できないものはたくさんある。無限にある。それと比べれば、わかっていることはわずかしかないという意味でもある。

昔、現代の知識がなく理解力もない時、その時代にはその時代の人びとの認識があった。その認識は人々の習慣に表れた。

自然現象は基本的なことさえなぜ起きるかかわからなかった。
日照りが続き、雨が降らなければ、神様に雨ごいをした。
空に浮かぶ雲が何かも知らなかった。雨がどうやってできるかもわからなかった。
空気の存在も知らず、空気が何でできているかなど考えることもできなかった。
風とは何かも知らなかった。台風ができる理由も、いつ来るか予測することはできなかった。
当時は経験と勘が頼りだった。
海が荒れるのがなぜかわからない。地震がなぜ起きるかわからなかった。津波がなぜ来るのかわからなかった。
安全と豊漁を海の神様にお願いした。山の神様にもお願いした。

鎌倉時代、元寇(げんこう)の要求を北条時宗が拒絶したところ、1274年(文永10年)と1281年(弘安4年)の二度にわたり元寇は武力併合を行なうべく、大船団で日本本土に攻め寄せた。この戦いは結果的に日本の勝利となったが、神風という台風が日本を救ったという話は有名である。
台風は神が吹き起こすという風となった。都合よく台風が来たおかげで、神様のおかげで元寇から日本は守られた。その当時の人びとだけでなく、それ以来そう信じてきた日本人はたくさんいたと思われる。日本は神風の国、神の国であり、神様に守られている、決して他国などには負けないと。

何でもわからないから、未来がわからないから神様に安全祈願をした。恵みも神様に感謝した。

昔は人が死ぬとどうなるかがわからなかった。今でも死んだらどうなるかわからないと多くの人は考えている。霊、魂は死んでも残る。先祖は未だ生きていて、お盆に帰ってくる。お墓を守り、先祖を大切にすることは大切である。

同じわからないから人は敵を作り、たくさんの戦争を起こした。役病神を作った。

人間は分かっているつもりででも、本当はわかっていないことはたくさんある。
しかし、わかるようになった情報と理解に基づき認識を変えていくことは人間としてのあるべき姿であると考える。

今でも雨が降らないと神様に雨ごいをする地方はあるかもしれない。お化けが出る、幽霊がいると子供を嚇し、恐怖を植え付ける人はいるだろう。台風は神風だと言う人もいるかもしれない。

数千年にもわたって人類は空の上に、雲の上に神様が身近にいると信じてきた。それはその時代の物事の理解に基づく認識であった。しかし、今も同じ認識ではおかしいのではないか。

国連宇宙部によると、これまでに世界各国で打ち上げられた人工衛星(ISS輸送機などの宇宙機を含む)は2017年2月時点で7,600機を超えており、地上に回収されたものや、高度が下がって落下したものを除いても、軌道上の衛星は約4,400機以上あるとされる。
人工衛星は400~1500km程度の低い上空を飛んでいる。

人間のことばによる考える力がこの認識の限界に挑戦できる唯一の力であるように思える。
昔のままの認識では、人間に進歩がないことを意味している。
知識、情報、理解などの変化と共に、人間の持つ認識も変わらなければならない。

「科学が発展していく中で、新たな発見と共に、また人間の持つ思考力の拡大と共に、人の考えと認識は変わらざるを得ない。それ故、人間の認識も価値観も変わっていくものであると理解する必要がある。人類は変わり続ける定めにあるということだ。
人間の持つ「ことばと知力」は、今後の認識、未来の認識を変えていく。人間の考える力が新しい認識を創り出していく。その力を人類の未来のために役立てることが人間の使命であると考える。」 ・・・認識の多面性より

恐怖に対処するためにできること
不安が募れば恐れにも、恐怖にもなる。人がどのようにとらえるかでその度合いは変わってくる。人によっては小さな不安でも、人によっては恐怖である場合もある。
不安の原因が何かということと、どういう姿勢で生きているかも関係しているように思える。
人によっては数百種類以上あるという恐怖症という病気の場合もある。
人によっては何でもないと思われる楽しいことでも、人によっては恐怖にもなる。

わからない未来は恐怖としても捉える人はいるが、これからやってくる現実である。
現実になると恐怖はなくなる。恐怖を無くすには現実を認識し立ち向かうことが必要である。

現実を正しく知り、理解し、受け入れ、誤った認識を変えていくことは必要である。
現実は恐怖ではないが、対応することは大変な労力を必要とする場合もある。
現実は人間の考えによるのではなく、あるがままの姿である。

何事にも悩むことなく、人生を楽観的に、誠実に、人のため、社会のために何かを成し遂げる気持ちで、生きることができればそれで十分ではないだろうか。

マイケル アレフ 2018年9月




2022年9月 シリーズ15 見直し結果

人間の危険に対する退避行動は何を意味するのか?

虫、魚、鳥、動物などの生き物は危険に対して退避行動を取る。
命の危険を察知するからである。虫でさえその機能がある。
人間も同じように退避行動を取るので、生き物は皆同じだと思ってきた。
しかし、人類はここに大きな間違いがあることに気付かなかったのではないか?

人間と他の生き物では何が違うのか?

人間以外の多くは生まれたときから、危険に対して退避行動を取るようにプログラムされている。それは遺伝子に組み込まれている。

しかし、人間は違う。人間の赤ちゃんにはこの機能がない。全く無防備であり、危険を知らず、対応することはできない。両親を中心に人間社会からの支援がなければ人間として生きていくことができない。
これは、すべての人間が協力して人間社会を支える責任があると考える理由である。

過去において実際にあった例として、狼に育てられた少年のように、動物に育てられたケースはあった。その場合、人間にはなれなくなった。

なぜだろうか?

人間は生まれた時、脳には情報がほとんど無いと考える。産まれた時から大人になるまでの長い時間、幼稚園、小学校6年、中学校3年、高校3年等の時間をかけて教育を受け、情報が与えられる。人間は単にプログラムにより生きているのではなく、情報の提供を必要としている。教育により学習を通して人間社会の一員としての認識が作られる。

小さいときに美しいという認識が無いのは、入力情報がないためである。小さいときには恐怖もなく、怖いことを知らない。良い―悪いもない。情報を教えられていないからである。

同様に国家、民族、宗教、常識などの価値観が教えられる前であれば、脳はそのことを知らない。情報が与えられることにより、あると思うようになり、価値観が作られる。

これは人間全てに共通である。それ故、日本に生まれれば日本人になり、その考えや価値観が固定化される。米国に生まれればアメリカ人、ロシアに生まれればロシア人になる。
生まれてくる人間に選択する余地はなく、そう教育されるために、それが当たり前になってしまう。思い込みにより共通の認識となる。一般常識である。

人間は本来、価値観が作られる前に、人間であるための情報提供が必要であるが、それは未だ確立されていない。数千年も前の過去の人間の世界がそのまま子孫に受け継がれている。

これが国家、人種、民族、言語、宗教等が違うことを背景に争いが起きる要因であると考える。人間は、人間のあるべき姿が確立されておらず、教えられていない。
その国、地方、民族などの価値観ではなく、人間としてあるべき情報が先ず教えられることが必要であると考えるが、そのためには多くの人の知力が必要に思える。



マイケル アレフ 



「多くの人が抱える問題(トラブル)は、知力を持って考えるというより、
自分の希望、恐れ、願い(感情)を一緒にして考えるからである。」
・・・ Will Durant