12月
人の持つ価値観は偏見である!?
幼い子供には勉強、仕事、遊びの区別はない。美しい、醜い、良い、悪いもない。
自分の周りの全てが興味の対象であり、純粋に学習している。
親を初め学校の先生などから教えられることにより、その情報提供から、子供は教えられたように受け入れ、そうだと思うようになる。
仕事は楽しい、面白い、やりがいもあるし、学べることもたくさんあると、親が模範を示すなら、子供は仕事はそういうものだと思うようになる。
新しいことを学ぶことは楽しい。自然界は何であっても興味深く、奥深く、追求しても終わることはない。人間も、人生そのものも、学習の対象である。人間は何と素晴らしい存在なのかと親が思っているなら、子供は喜んで学ぶようになる。
しかし、身近な大人の多くの模範は反対である。
仕事は辛い、面白くなく、苦労だと親が模範を示すなら、子供はそういうものだと思うようになる。
勉めて強いることが勉強で、教え込むことが大切だと考え、子供に躾(しつけ)を強要してきた。 「教えることが、わからせることになる」と考えてきたことに、重大な誤りがある。
教えることは、わからせることではない。教えることは、わからせることにはならない。わからせることはできない。
にもかかわらず、大衆は 「教えることが、わからせることになる」と思い込んでいる。
思い込みとは、そう信じることであり、価値観であり、偏見である。
人間の子供を教えれば、わかるようになるのは、教えるからではなく、人間の子供に学習能力があるからである。
犬や猫を教えても、わかるようにはならない。人間以外の動物を教えても、学習能力が無いから学ぶことはできない。
人間の持つ学習能力に対する認識の欠如が、躾ければわかる等の間違いを生みだしてきた。それが虐待にも発展する。
人間は初めから他の動物とは違うことを理解しなければならない。
大衆が持っている価値観を見直し、反省し、修正し、認識を変えなければならない。
これが偏見をなくし、あるがままの真実を知ることである。
優越感を得るための勉強、一番になることを目指すだけでは、やがて人間に問題が生じるように思える。人間は知的生命体であり、好奇心がある。学習は本来、楽しいものである、と考える。
子供は偏った情報から価値観を植え付けられる。子供はそうやって育てられ、自分の考えが当たり前だと思うようになる。偏見であるが、偏見であることに気付かない。
価値観を持つように育てられ、大人になるため、大人はその偏見の塊である。誰でもその偏見という色眼鏡で物事を見るようになってしまう。
仕事自体が性格的に、能力的に、体力的に人に向いている場合も、不向きな場合もある。
様々な仕事はあるが、全ては基本的に人間社会に必要なもので、皆で協力してやっていくことを理解しなければならない。仕事に良い悪いはないが、人の持つ価値観で違って見える。
同じ仕事をしていても、楽しい人もいれば、そうでない人もいる。
人間社会を支えるために必要な仕事である。皆のために役に立っている。仕事には意味がある。給料をもらうためだけに働いているのではない。
しかし、大衆は情報により、間違った考えを植え付けられる。
楽な方がいい。給料が多ければいい。忙しくない方がいい。汚れずに何もしないでいて給料がもらえる方がいい。
人は皆同じような傾向を持っているように思える。
「楽して儲けたい。一生懸命に働かずに、お金の心配をせずに、楽しいこと、やりたいことをやっていたい。自由でありたい。一画千金、思いがけない幸運にめぐり会いたい。苦労せずに一挙に巨額の
利益を得たい。宝くじ、競馬、競輪などで簡単に大金を手に入れたい。
これらは人生の目的ではないにしろ、大衆の心をとらえ、夢と思わせてきた。 日本には昔からの格言にこうした人の傾向を表す表現がある。
棚から牡丹餅(ぼたもち)、甘い汁を吸う, 海老で鯛を釣る、濡れ手で粟(あわ)、麦飯で鯉(こい)を釣るなど。
なぜ人はこう考えるようになるのだろうか。重大な間違いがあるのではないか。 認識の中に、「楽で贅沢ができることが、努力して苦労するよりも良い」という考えが一般的にあるからではないか。大衆がそう考えている。
なぜそう考えているのだろうか。お金持ちが最高の生き方であると誰もが思っているからか。
では、お金持ちは幸せかと問えば、そうとも言えない。
どれだけ持っていれば金持ちなのか。
人によるが、金持ちはもっと金持ちになりたいと思っている。 金持ちだからとという理由だけで人は満足することはない。
宝くじで当たり大金を手にした人はみな幸せになったのだろうか。 確かに、当たった時はこんなに幸せなことはないと思ったかもしれない。 その後は幸せであり続けたのか。決してそうはならない。
なぜなら、大金があればだれでも幸せになれるものではないからだ。
つかの間の幸せに過ぎない。」 (シリーズ10より)
メディアが流す情報により、利益追求の結果、人間は自分勝手、無気力、無関心な人を作ってきた。
社会には汚い、きつい仕事があるかのように情報が流される。それを聞いた人は、すでに持っている偏見により、そうだとますます偏見を強くする。
人の持つ生きる姿勢、考え方、価値観で見方は異なっているのに、対象がそうだと思い込んでしまう。しかし、対象そのものが汚い仕事であることはない。
見るからに気持ち悪くなるような、外科医が人間の体の一部を切開し、血を見ながら、内臓等の手術をすることなど、見たことのない人には信じられない程、恐ろしく、汚い仕事に見えるかもしれない。では、医者や救命士や看護師、介護士の仕事は汚いのか?
見た目に汚いと思うのは、真実を知らないことにある。きつい仕事だと思うのは、その意義を自覚出来ないことにある。
汚いとは人の持つ偏見のことであり、思い込みによる価値観のことである。
その意味を考えることができれば、美しいも、可愛いも無い。そう思い込んでいるだけであると気付くことはできる。
人が持つ全ての価値観が偏見であると考えることができれば、人類の抱える問題の原因がどこにあるかわかるようになり、人間のあるべき出発点に立つことができる。そこが人間のあるべき姿を考えるスタートになる。
人間の世界から考えるのではなく、大自然と調和するように考えることで、人間のあるべき姿が見えてくる。
人間は、自分のために働くだけでは大きな喜び、満足を得ることはできない。
人のために働くことは喜びである。
人のためになること、人の喜びを支えることが、人が幸せになるための必要条件である。
人間は一人では生きて行くことはできない。人間社会を支援することは人間としての責任である。
美しいものがあると思い込むことにより美しいものが存在するようになる価値観は、同時に、反対の醜いものがあるという価値観を作り出す。
美しいと感じるのは認識であるが、それは対象ではなく人の心、人の思考と感情の働きのことである。
美しいものがあると考えることは、醜いものもあることになる。
対象物に美しさも醜さも現実には無いが、作られた認識が対象にそれがあると反応する。
それは対象にあるのではなく、自分の認識にあり、外側にあるのではなく自分の内側に、自分の心に、自分の認識の中にある。
昔の人は「美しいは心にある」と考えたが、今では「美しいは対象物にある」に変わってしまった。「美しい」という意味が、いつの間にか心ではなく対象物にあるに変わってしまったのはなぜだろうか。
シリーズ6の4.に、日本の美しいということばの語源について調べたことを書いた。
平安時代には、美しいとは、そう感じている状態、心を表していた。
「美しいということばにはどのような起源があるのかを調べてみた。
語源由来辞典によると「美しい」の語源・由来について、「万葉集」に 「・ ・ ・ 上代では妻子など自分より弱いものに対して抱く慈しみの感情を表した。平安初期以降、小さいものや幼いものに対する「かわいい」「いとしい」といった感情を表すようになり、平安末期頃から「美しい」は「きれいだ」を意味するようになった。
平安時代には「美しい」とは感情そのものを表した、表すようになったとある。
そうであれば、今でもその言葉の意味は生きている。 「美しい」とは「美しい」と感じる感情、感動そのもののことであると表現できる。
もし「美しい」と言うことばを知らなかったなら、人は何と表現するのだろうか。 「素晴らしい。最高だ。」など感情そのものを表す表現になるのではないか。
美しいを「素晴らしいなどの」感動している状態の表現であると考えれば、「美しい」ということばの意味を理解することができる。つまり、「美しい」は、見る対象のことを言っているのではない。感動していることを言うのである。」
このサイトでは、美しいとは、対象にあるのではなく、作られた認識、思い込みによる価値観であると説明してきた。
この違いは、現代人が人間の美しさに対するあるがままの真実を失ったことを示している。美しさに関しては、対象物にあるという現代の考えが間違っている。
なぜそうなったのか?
なぜ美しいは対象物を表すようになったのかという疑問が生じる。
この変化が生じたのは、推測になるが、それほど昔のことではなく、戦後に生じたのかもしれない。
太平洋戦争中、日本人はアメリカ人、イギリス人を鬼のような存在、鬼畜米英と信じていた。意図的に敵に関する悪意ある情報が流され、誰でもそう思い込まされたことによる。
美しさに対する変化は情報が関係しているという点で似ている。
戦後、テレビの普及により、優越感が強調され、大衆は正義という力、強いこと、裕福になることに憧れた。
社会は戦後の復興時期でもあり、利益を追求することに夢中になった。
テレビのコマーシャルは人が欲しがるものを宣伝した。大衆が欲しがるように情報を作り流した。その宣伝は効果的だった。
電化製品などが次々と作られ、売られた時代である。テレビ、洗濯機、掃除機、冷蔵庫、エアコン、電話機、自動車、マイホームなど誰もが欲しがり手に入れられる時代になった。
こうした中で、大衆に美しいものがあるとの情報が与えられ、美しい物を欲しがるように思い込みが広められた。表面に表れる美しさが強調され、美しいに基準があり、誰でも美しい人、美しい物があると思い込まされた。高価なものほど美しいなどという認識が作られた。
思い込みによる価値観が作られてきたことを示している。
宣伝により、知識を与え、大衆に欲しがるように、そう思い込ませることができる。
メディアによる情報操作が今でも可能であることを示している。
利益追求の人間の世界では、やむを得ないことなのかもしれない。
しかし、間違いを修正することは必要である。
美しいと感じることが間違いなのではない。そう感じることがあるのは真実である。
しかし、美しいものがあるから、美しい対象があるからと考えることに間違いがある。
美しいと感じるのは、そのように情報が与えられたから、教えられたからであり、人が持つ認識による反応であるからだ。
こうなった背景には、利益追求が関係している。人間の心に美しさがあっても利益は出ない、金儲けにはならないからだ。
美しいという対象物があれば、物であるなら、大衆が欲しがるように情報を流せる。
美しい物があると思い込んだ大衆は喜んで買うことができる。そこに利益が生まれる。
有名人が描いた絵が数十億円もする。その有名人という情報がないなら、大衆が見るだけでは、高価な絵は存在しない。値段は美しいとは関係がない。絵は投資の対象であり、利益を求めて欲しい人が群がる。情報操作で高価なものだと思い込ませれば、高くなる。
人間の世界では、大衆は優越感と楽しみを追い求める。利益追求の社会では大衆が求めるものを与えることが欠かせない。大衆は在るがままの真実を求めてはいない。これが人間が作ってきた世界である。
美しいことの問題を取り上げることは意味がないように思えるかも知れないが、この問題は人間の本質にかかわる、全ての価値観の間違いに気付くための具体的な一例である。
大衆が当たり前に思っていても、間違いであることに気付くために、一番わかりやすいと思うからである。
人間の持つ価値観全てが、思い込みにより作られていることを理解できれば、人類から争い、戦争を無くすことも、犯罪を無くすこともできると考えるからである。
反対に、この意味、人類が愚かである理由がわからない限り、人類は戦争も犯罪も無くすことはできない。このままでは人類の存続さえ危なくなる。
世界には人権さえ認められていない国々もある。先ずは人類の現状を認識し、価値観の問題、正義、自由、権利、大人などのことばの意味と定義を明確にし、全世界で人間であることの共通の意味を幼少の頃より教え(情報提供し)、教育することが人類の歩みを修正する第一歩であると考える。
そのためには地球上の世界を統一し、一つの地球政府の下に、人類としての共通の価値観を作る必要があると考える。
11月
11月16日(水)
「一を聞いて十を知る」ということばから、 教えること、学習すること、教訓を得ることについて考えてみた。 日本語の教えるということばに問題を感じていた点を明らかにすることで、新たな認識を持つためである。
教えるということばには、受ける側の、学習能力に左右されない、という条件がある。 言い換えると、教えるとは「情報を提供する」という意味であり、情報が、教える側から教えられる側に、一方向に流れることで、知識を与えることである。
情報の一方向への流れであることから、動物を教えることはできる。しかし、地球上で人間以外の生命体は、人間のようにことばと高度な知能を持っていないから基本的に学習することはできない。
動物を躾(しつけ)ることができるのは、多少の知能があるからである。人間と同じように動物を教えても、その多くは無駄に終わる。情報を受ける側に人間のような学習する能力が無いためである。
人間は教えられると、教えられたから、できるようになった、また助かったと思い、教えてくれた人に感謝する。 わからない場所を教えてもらったり、学校で先生に教えてもらったりする様々な機会がある。情報の提供はありがたい。
こうして長い間、教えられることの意味ばかりが強調され、自分の持つ人間としての能力が軽視されてきたように思う。その能力に気付かない人は多い。
人間は知的生命体であるのに、学ぶ、学習するという自分の能力、自分の学習能力に気づいていないことは驚きである。
成績が悪いと、自分は頭が悪いから勉強ができないんだと思い、そう言い訳をする。どうせ頭が悪いんだと思い、能力がないと思ってしまう。親、家族を中心とする社会がそう思い込み、それを容認している。 子供の成績が悪いのは親に似たからだくらいにしか思わない。人間の能力に対する認識の欠如である。
そして、できる人だけが、能力がある、優れている、偉いなどと勝手に思い込んでしまう。自分達とは違うと特別視する。
人間の持つ学習能力にもっと気付く必要がある。
「一を聞いて十を知る」ということばは、辞典によると「物事の一端を聞いただけで全体を理解できる、非常に賢くて理解が早い」という意味である。ここで使われる一(いち)はある一定量の情報と考える。
「一を聞いて一を知る」のは、知識の移行のように、それは情報を受け取り、知識を得ることと同じであるように思える。
昔、教科書を暗記できれば、テストで良い成績を得ることができた。暗記は正に「一を聞いて一を知る」という意味で、情報を知識として蓄えるようなことである。 暗記が中心の授業では、知識の活用は少なく、覚えることが中心であり、一を教えられ、一を知って、一を覚えることが重要と考えられてきた。
教えるとは情報の伝達の意味であり、知識の移行のことであるが、きちんと情報が伝わらなかったり、覚えられない場合など、一を聞いても一以下になる場合もある。
先生が学校で教えていることの意味が、生徒への知識の移行であるだけであれば、書籍、ラジオ、テレビ、インターネットで学ぶことと変わらない。教え手が人間である必要はないだろう。情報を提供されたことに対してラジオ、テレビ、インターネットそのものに感謝することはない。
ラジオ、テレビなどからの情報もそのシステムも人間によって作られてきた。感謝する対象は人間である。(未来においては人間の手を離れることも考えられる。)
なぜ先生に教えられることに意味があるのか?
先生という人間を介して教えることが重要なのは、知識の移行だけではないからである。 つまり教えられることではなく、生徒の学習能力が関係する。先生から学ぶのである。情報の伝達を通して先生の人間として見習いたい資質や人間性について、他の生徒と共に学ぶのである。それは単に情報の提供ではなく、人間としての信頼関係の構築である。
話を聞くことができ、話を理解できることが重要である。情報から新たな考え、認識が生まれるからだ。それは暗記ではなく、学ぶこと、学習することである。
模範を示すことは教えるに含まれると考えるが、同時に学習する対象でもある。良い悪いを含めた全ての模範から、人は学んでいる。
情報がどのような意味を持つかを皆で考えれば、一の情報は一で終わらない。 一の情報は、考える、共有すること等により価値をニ倍にも三倍にも増やせる可能性がある。それが学ぶことの意味、学習することの意味と考える。
ニュースは情報提供である。情報を教えている。教えられる。 ただし、人はそこから見て、聞いて、新しいことを知っても、何も学ばないなら、知識として出来事として記憶に残したり、忘れるだけである。 いつも同じような殺人、暴行、偽善のニュースを見ているなら、何も感じなくなっていく。日常茶飯事の出来事のようにまた起きたくらいにしか感じなくなる。考えなくなっていく。感情が麻痺してしまう。
情報には人間の介在はあっても、教えることに意義がない場合も、状況を悪くする場合も考えられる。国家により国民が騙されることもあった。情報によるコントロールは今もあり得る。
学ぶ、学習するとは単に情報の暗記ではなく、情報の意味を知り、理解し、活用できるように準備すること、間違いを見つけることも関係する。そこから新たな価値を見い出すことは、教訓を得るという意味にもつながるように思える。
知識を得ることと教訓を得るとの意味の違いはどこにあるのか?
知識を得るとは、情報を得た後、それを記憶や記録に残すこと、蓄えることである。 教訓は得る情報から、情報の意味を学び、学習することにより理解し、ヒントを得、新たな認識を作ること、進展を意味する。学習する、学ぶということばにその進展の意味がある。
教えるということばに間違いがある。
人間は単に教えられるから、わかるようになるのではない。動物を教えても学習できないことから、それは明らかである 勉めて強いること、勉強が、なぜ今まで良いことと考えられてきたのか? 強制的に教えられること、詰め込むことが人間にとって大切と考えられた理由はどこにあるのか?
それは「教えることが、わからせることになる」と考えられてきたことにある。そこに、教えるということばに、重大な誤りがある。
動物を教えることからわかるのは、教えても何も学ばないことである。考えるためのことばがない。どれ程強制しても、学習することはできない。考えてわからせることなどできない。
人間は自分から学ぶので、わかるようになる。学習能力があるからである。この点に関して、人間は動物とは全く違う。ことばにより考えることができる。
人間は情報から、知識として記憶するだけでなく、情報がもたらす可能性を含め、認識することができる。今まで、教えることと学習することが一緒になり、その違いがわからなかった。
教えるとは、情報の一方向への流れである。教えるという情報の提供には大切な意味はある。しかし、人間が知的生命体であるのは、知能とことばにより考えることができ、与えられる情報から、その意味を知り、理解し、活用するという学習能力があるからである。
それは与えられる「一という情報をそのまま一という知識にする」のではなく、十にも相当するものに変えることができることにある。
人類はその考えること、学習することを忘れようとしている。 それを忘れるなら、目先の欲望を追いかけるようになり、自分達の存在さえ気付かず、わからなくなり、自己破壊へと進む。人間は知的生命体ではなくなりつつあるのだろうか。
教えるということばに問題があることに気付き、反省し、修正して、人間が持っている能力にふさわしい認識を持つことが、人類の愚かさを改善する助けになる。
まず考えること、気付くことから始めよう。
11月16日(水)
価値観を修正することはできるか
米国では民主主義の危機が叫ばれている。
人民の、人民による、人民のための民主政府という考えは、それまでにない素晴らしい考えであっても、人間が中心の人間の世界のことである。それだけでは、「地球は人類のもの」という考えと同じように読めるし「地球は宇宙の中心である」という考えと同じようにも聞こえる。
米国のニュースを見ていると、デモクラシー(民主主義)は、それが間違いないと思う人にとって守らなければならない価値観であり、力を持ってしてでも守ろうとするものに見える。正義を盾に戦争をする発想と同じように思える。
ここに人類の持つ価値観の問題がある。
人間の世界に完全なものはないのに、思い込みで、守らなければならないもの、間違いのない完全なものが作られてきた。人間は正義、自由、平和、人類愛のために命をかけて戦争をしてきた。
人類の争い、戦争の原因は価値観にあると書いた。
そうであっても、解決することは簡単なことではない。そのためには価値観を修正することが必要である。どういうことか?
人間が間違いがないと大切に思っていることを、考え直すことである。
価値観とは正義、平和、自由、人権、愛、幸せ等のことである。こうした考えは人間が作ったもので、なくてはならない人間の価値のように捉えられているが、ことば自体に問題を起こす原因がある。
人間が知的生命体であるのは、ことばと知能を持っているからである。人間がことばで考えることを忘れるなら、動物と同じである。生きている意味さえわからなくなる。
人間のことばは人間が作り、ことばで考え、全てを作ってきた。人間には素晴らしい知能がある。
しかし、人間のことばで作った世界は、自然界のことではない。人間独自の世界のことである。人間のことばは人間の世界だけに通用するが、それ以外の世界には通用しない。
人間の世界では、人間の作ったことばが完璧で正しいように思える。正義、自由、愛、平和、人権など人間が作った理想のことばに思える。それは人類にとって間違いのないもののように受け止められていて、そう思い込むことにより、価値観となっている。それは人間の世界であるからだ。
ここに、「人類は知的生命体なのか?」という、 考えることの意味が問われている。
人間の世界で正しくても、自然界に正義、自由、愛、平和、人権、民主主義はない。これらはみな人間のことばで作られた考えであり、人間の世界でしか通用しない。人類は人間の世界が全てであるように考えているが、そこに大きな間違いがある。
人間のことばは、人間が作った故に、ことば自体に矛盾が含まれている。人間のことばを絶対視すれば、問題が生じるのは当然である。
「地球上の全ての生命が絶滅するほどの核兵器を持ちながら、なお強い国を目指すことの意味はどこにあるのか? 強いことは優越感を持つことに過ぎず、優越感は破滅に至る自己満足に過ぎない。
人間は、高度な知能を持つ知的生命体であり、奇跡を越えた素晴らしい存在である。
その存在を惨めなものにしているのは、自分たち人類の愚かさにある。」
愚かさは人間の優越感にある。
人間としての自分の在り方を見直すことが求められている。
人類は自分達が愚かな存在であることに気づかなければならない。
気づかなければ反省ができず、修正ができない。社会には問題が溢れている。
力という欲望に負けずに考えればわかることである。むずかしいことではない。しかし、人類は考えることを忘れかけている。
まず、考えること、気付くことから始めよう。
10月
「人間の死に関する考え」がもたらしている重大な変化について
時代と共に物事の理解は変わる。人類という社会は、情報が増え、間違いが修正され、進歩してきた。進歩は留まることを知らない。
脳死について以下に次の様に書いた。
「人は生まれる前、その存在は無かった。産まれてから脳が自分という存在を作ってきた。学習機能があり、経験を通して様々なことを学んだ。記憶に残され、一生を振り返ることができる。その存在の意味は脳にある。
脳が死ねば、その個体の存在は無くなる。生れる前に戻ることと同じである。それは脳死が死である意味である。」
死後の世界は、誰も行ったことがないのに、無いとどうしてわかるのか?
死後の世界が在ると考えるのは、そう考える人が生きているからである。生きているから、死後の世界が在ることを含めどのようにも想像することができる。
死んだら、考えを司る脳は死ぬ。脳が死ねば考えることはできない。脳死は人間の死を意味するのだから、考えることはない。
つまり、生きている人間が考えることができるので、わからない死後の世界を想像して作った。想像の世界であるから、様々な考えが作られてきた。想像の世界は実際にあることにはならない。
しかし、人間の世界では、無くても信じれば在ることになる。そう信じている人はたくさんいる。信じることに理由はいらない。騙されることと同じであるからだ。間違いなら、信じるべきでない。騙されるべきではない。
間違いでないなら、信じる必要はなく、受け入れるだけである。在るがままの真実は、科学が明らかにしていく。わからないことは信じるのではなく、今後の課題として残すべきである。
人間にとって過去の歴史は大切か? 過去は人類の戦争の歴史で溢れている。
「人は歴史の教訓から多くを学ばないということが、歴史の教訓すべての中で最も重要である。」とイギリスの著作家オルダス・ハクスリーは書いた。
人類の歴史は、「人間とは何かを知るための歴史」であるのではないか。失敗と戦争の歴史であるのは、それを通して人間のあるべき姿を模索し、見出すためでもあったと考えてきた。しかし、「人は歴史の教訓から多くを学ばない」は今も真実を告げている。世界は覇権争いの中にあり、戦争を止められない。
過去の記録から学ぶことが、人間にとって大切だと考えてきたが、何が間違っているのか?
人類の歴史は過去の人々の記録である。その歴史は教訓を与えているのではない。事実を残しているだけである。
そこから学べるかどうかは人間の学習能力にかかっている。教訓を学んでいないのは、事実から教訓を学ぶことのできる人が少数であることを示している。
時代が変わり、科学の進歩により便利な時代になっても、人間の本質は大昔と変わっていないことを示している。
今に至っても、先祖を大切にするという考えがある。
死んだ人を大切にすることなどできない。死んだら、その存在は無くなる。この事実を受け入れられない人々がいる。間違いが生じるのは、生きている人が、根拠のない死の世界を信じているからである。
大切にすべきなのは、お世話になった人が生きている間に感謝の気持ちを表すことである。死んでからでは何もしてあげることはできない。死んだ人は何もわからない。
死んだ人が生きている人に手を差し伸べることはできない。死んだ人が天国から見守っていることはない。死は存在が無くなることであるからだ。
存在の無い先祖を大切にする方法は無い。方法は有り得ない。無い存在を在ると信じる人は、先祖を大切にしていると思っても、それは大昔からの考え、思い込みであり、自己満足に過ぎない。それは考えることを忘れ、学習することができないことを示している。
わからないからと想像して作った多くのものが間違いであることがわかってきている。わかっていないことを想像して信じる時代は終わりつつある。今はわかっていることを根拠に考えるべき時代である。
8月
山本五十六氏の次の文章には、教えることの間違いが含まれていないように思える。
教えるとは何かを知っていたのだろうか。
「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、誉めてやらねば、人は動かじ」
やってみせるとは、手本を見せることである。先ず、手本を見せることが、教えることの本来の意味である。
言って聞かせるとは、情報を与えることである。言う側に強制的に学ばせるという意味があってはならない。ただし、聴く側の態度、学ぼうとする、学習するという気持を持っていることが重要である。それは教える内容のことでない。聴く側の姿勢である。
させてみてとは、教えられたことを学んだか、学習したかを確認することである。
それに人が生きて行くために、誰でも自分を理解し励ましてくれることが必要である。
人間は強要されて、勉強させられるから、学ぶのではない。
人間は生まれた時から、脳が五感を通し、個人に情報を与え続け、自分から学び続けている。入力される情報から学習し続けている。問題はそれに気付かずにいることである。
人間を学ばせることはできない。自分から、自分の意志で、学び、学習する。
教えられても、学ぶ気が無ければ、何も学ぶことはできない。
教訓を得るのは、自分で気付くからである。
教えると学ぶは、全く次元の異なる表現である。教えるから学ぶのではない。
学校で同じ先生に教えられても、生徒の成績は違ってくる。なぜ違ってくるのか。
「教えたでしょう」は間違い。生徒は教えられるから、学ぶのではない。
生徒は自分で学んでいる。
それはパワハラ、いじめの原因と同じような考え方に思える。
教えるということばに、間違いがあることに長い間、気付かなかった。
教えたこと以上に、教えられた人が、学んだか、学習したか、がより重要である。
教えるとは、強要して学ばせる、教訓を得させるという意味はない。
教えることには大きな間違いがある。
教えるとは何か?
シリーズ11に 教えるとは、手本を示し、情報を与えることと書いた
シリーズ11 「教える、教育する、学習する」の意味について
動物を教えることから見えてくる教えることの意味、気付かなかった間違い?
シリーズ14 学習することの意味について
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